バーナバス・カルダー著『建築とエネルギーの人類史』

エネルギーが社会を規定し、建築がそれを体現する(評者:浜田英明)

浜田英明
建築討論
Dec 28, 2023

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本書は、バーナバス・カルダー(Barnabas Calder)の著書ARCHITECTURE : From Prehistory to Climate Emergencyを全訳したものである。著者は、エネルギーと文化の関係に焦点をあてながら建築史を通観することに力点を置くイギリスの建築史家である。原書は2021年6月に刊行されるやいなや世界的に注目され、すでにイタリア語版と日本語版が刊行され、中国語版とトルコ語版も刊行準備中とのことである。

原題が示すように、著者は現代の建築を取り巻く状況に対して気候変動の観点から強烈な危機感を抱いており、その状況をつくり出したモダニズムの巨匠たちを痛烈に批判している。随所に具体的な数値を示しながら理詰めで徹底的に批評していくため、ある種の小気味良さを感じる。気候危機(climate emergency)に対する著者の感度は相当なもので、この本の中では多くの都市や建築物が登場するが、著者はその調査において、化石燃料の使用を抑え持続可能な社会を実現するために飛行機を利用して直接現地に訪れることはせず、出版物や図面、写真等の資料をもとに執筆作業を進めたと述べている(p.14)ほどで、その徹底ぶりに半ば唖然とさせられる。

前半の第1部では、農耕★1が主体的なエネルギー源であった、先史時代からおよそ400年前までの1万2000年間ほどにおよぶ時代が扱われている。視点として面白いのは、西アフリカ・マリのドゴン族の村★2の建築も、アステカやムガール帝国、ローマ帝国の建築も、その外観や形式に捉われて区別するのではなく、どれも農耕社会であるという点で同一視し、それぞれの社会が農作業から解放された非農耕民(すなわち余剰エネルギー)を用いてどのような建造物を造り出したのかに焦点をあて丹念に観察している点である。さまざまな農耕社会とそれらのエネルギー容量に見合ったかたちで生み出されてきた数々の都市や建築、それらがテンポ良く紹介されるため、あらゆる国の建築史がきれいに統合されていく感覚が得られる。

また著者は、それらの観察を通して、肥沃な古代社会が行なってきた数々の壮大で巨大な建造物の創造行為は、過剰なエネルギーを吐き出す安全弁の役割を果たしていた(p.65)のではないかと推察している。すなわち、建築とは平和的な社会余剰エネルギーの放出であって、統治者や権力者にとっては社会統制的な側面もあったのでははないかという仮説である。この視点に立つと、コルビュジエの『建築をめざして』の最後の難解な一文、「建築か、革命か、革命は避けられる。」もまた違った捉え方ができ、妙に腑に落ちる感覚も覚える。

いずれにせよ、この第1部では、気候変動や感染病の蔓延による余剰エネルギーの減少が、社会の衰退や建築様式の変化を促すことが随所に触れられており、エネルギーシステムが社会的、文化的、知的規範を規定し、それらを体現、表現する媒体として建築が位置づけられると、著者は結論づけている。

後半第2部では、産業革命以降、現代から遡って400年ほどの、化石燃料をエネルギー源とした時代が取り上げられている。産業革命以後の建築の変化度合いの大きさが身体的に感じ取りやすいように、随所に工夫が施された内容となっている。

例えば、本書で掲載されている主要な建造物の立面図は同じ縮尺で描かれているが、19世紀まで世界最大スパンの建築であった古代ローマのパンテオンがp.116の上半分ほどで示されるのに対して、トリノのリンゴット工場と成都のニュー・センチュリー・グローバル・センターが、それぞれpp.340–344、pp.432–436の5ページにもまたがって表現されている。また、近年の中国の驚異的な建築ブームの実態についても、「世界最大の経済大国であるアメリカが20世紀の間に消費した44億トンのセメントをはるかに超える64億トンのセメントを、中国は2011年から2013年のわずか3年で消費している。」(p.430)などといった具合に、具体的な統計データや図版を駆使ししながら、より強烈に訴えかけてくれる。一見、記述ミスではないかと疑ってしまうほどである。Weber-Fechnerの法則★3が示すように、我々は指数関数的な増加についてはかなり鈍感で、どうしても比例的な増加として認識してしまう部分が多分にあると思うが、その誤った認識をうまく是正してくれる。

そして同時に、歴史的にみて、現代の人類によるエネルギー使用量がいかに常軌を逸しているのか、気づかせてくれるわけでもある。この点を強く啓蒙し、“人類存亡の危機”を引き起こした元凶は建築にあって、また同時にそれを解決する役割も建築は担えると主張することが、本書の主題であろう。

さて、本書において、一際異彩を放ってみえるのは、伊勢神宮の内宮正殿である。どことなしか、著者もその位置付けに苦慮しているように感じた。伊勢神宮は、式年遷宮により常に新しいが限りなく古く、建設に要するエネルギーもピラミッドはおろかストーンヘンジと比べてもはるかに小さい、稀な建築物である。著者の信条である持続可能な社会とその建築の可能性を論じるには、格好の題材のはずだが、掘り下げがほとんどなく若干拍子抜けの感がある。

伊勢神宮がこのような形式となった背景には、やはり我が国の自然災害の多さが関係していると思われる★4。内宮正殿のひっそりと森の中にたたずむ質素な立ち姿は、自然災害によって余剰エネルギーを定期的に失ってきた経験が体現され、自然を畏怖し真摯に持続可能性に取り組んだ結果として映る。継続してあり続けること自体を目的した建築物は各地に存在すると思うが、変化の激しい外的要因に寄り添いながら、あり方自体は変えずに絶えず変化しつづける建築物はやはり特筆すべきであろう。

リスクを的確に判断し、無常を認めた上で、再生させることで、持続させる。このときの「再生」は、もちろん単純なスクラップ&ビルドを意味するものではなく、森を育てることから木材の再利用に至るマテリアルフローとしての循環を意味し、人の知恵と技術、もっというと文化の継承をも意味するものである。この無常と常若(とこわか)の概念が、そして最近よく聞く“リジェネラティブ(regenerative)”という視点が、本書では抜け落ちているのではないだろうか。

持続的であるためにあえて変えていく、伊勢神宮には、持続性に関する取り組みとして、そのような“動的”な印象が強く感じられるが、本書で登場する他の建築には、“静的”というか刹那的な印象がつきまとうように感じられ、この点で異彩を放ってみえたのだと改めて思う。

産業革命以降の「成長」や「発展」といった目標から、「変化を伴う継続」に目標を大きく変換しようとしている時代の建築がどうあるべきかを議論すべきだと感じる。

最後に、本書を通して、これまでを歴史的に鑑みると、エネルギー環境の変化が、建築の技術的、芸術的革新を促してきたことは注目に値するように感じる。現代の“カーボンニュートラル”や“ネットゼロカーボン”も新たな(もしくは、もしかすると復古的かもしれない)建築をつくりだすチャンスと前向きに捉えるべきなのだろう。安直に「規制」と捉えてしまうと、どうしても、創造性を蝕む方向に行き、付け焼き刃的な対応に終始するようになってしまうと思われる。本質的に持続可能性と向き合い、刹那的で欺瞞的な“グリーンウォッシュ”建築に陥らないためには、歴史を信じて、今一度、保守的にならず固定概念を見直しながら歩む、つまり絶えず変化しながら継続することが必要であろう。

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★1 農耕は太陽エネルギーを食物エネルギー(food energy)に変換するシステムである。

★2 現代世界で最も近代化されていない農村の一つと言われる。

★3 人間の感覚の大きさは刺激強度の対数に比例するという法則。

★4 天武地震(日本最古の確かな地震津波記録が残る地震)が684年に起こっているが、その翌年に天武天皇は式年遷宮の制度を創定している。

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書誌
著者:バーナバス・カルダー
訳者:岩崎晋也
書名:建築とエネルギーの人類史
出版社:東京堂出版
出版年月:2023年6月

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浜田英明
建築討論
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はまだ・ひであき/法政大学教授,浜田英明建築構造設計代表/博士(工学)/1981年石川県生まれ/2006年名古屋大学大学院修了/佐々木睦朗構造計画研究所を経て,2013年より法政大学専任講師,2017年同准教授/専門:構造設計,シェル空間構造/構造設計:豊島美術館,すみだ北斎美術館,目黒八雲の長屋ほか