エマヌエーレ・コッチャ著『植物の生の哲学──混合の形而上学』

「動くもの」と「動かないもの」の境界を超えて(評者:長谷川祐子)

長谷川祐子
建築討論
8 min readJul 1, 2020

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エマヌエーレ・コッチャ著『植物の生の哲学──混合の形而上学』

本書、『植物の生の哲学 — 混交の形而上学』の著者、エマヌエーレ・コッチャの経歴は一風かわっている。彼は14歳から17歳までイタリア中部の地方都市の農業学校に学び、植物に親しんだ。研究者としては、中世哲学研究からはじめ、イタリアの哲学者、ジョルジュ・アガンベンの下で学んだ。アガンベンは、美学から始めたが政治哲学に移行し、むき出しの生、生物的な生(ゾーエ)と社会的政治的生(ビオス)のふたつの生にかかわらせて、「言葉を話す動物」としての人間の生のありかたを探究した。

師のアガンベンも例外ではないが、今まで西洋哲学は自然について語るとき、動物中心であって、(人間との類似性、比較において)植物が中心となって語られることはほとんどなかった。

植物は動かない、ゆえにヒトとの類似点を見つけにくい。そして彼らの活動はあまりに大きなスケールの関係性、コスモロジーのもとに動いているために私たち人間には「知的」活動として見えにくい。しかし、新型コロナウイルスで、社会的生=ビオスを奪われてしまった私たちの状況、“stay home”はある意味で、植物の気持ちにもっとも近づく体験を得たのではないだろうか。これは、ライフスタイルや生きる哲学の見直しを余儀なくされるほどの異常な事態であり、逆に言えば、内省の時間のなかでオルタナティブの可能性や方法について考える貴重な機会とも言える。

植物は動かないことを選択した。そのかわりに、周囲の環境を全力で感じ取り、これに適合しようとする。気候や大気の成分のほか、周囲をとりかこむ諸条件の変化にあわせて変容したり、寄生したり、種に旅をさせて繁殖する。

コッチャはこのように語る。

大半の高等生物とは異なり、植物には、自分を取り巻く環境との関係を選択的に結ぶことができない。植物は周囲の世界に常に晒されていて、晒される以外にない。植物の生命とは、環境との絶対的な連続性のもとで、全体的な交感を通じて、自分をすっかりさらけだすしかない生命なのだ。可能な限り世界に密着するために、植物は体積よりも面積を優先するかたちで、身体を発達させている。(本書p.6)

コッチャの思考は独自の展開を遂げる。この状態、世界に在るということを「世界に浸る」としてとらえるのだ。あたかも魚が水の中で相互浸透の関係をもつように。浸っているあらゆる存在にとって運動と静止の対立はない。「対象」もなければあらゆるものが流動的であらゆるものが運動状態にあることになる。あらゆるものが世界に浸透しようとし、世界によって浸透されることを許す。

植物におけるかたちの生成は、ほかのどんな生物にも到達し得ない強さにまで達している。高等生物の場合、ひとたび性的な成熟段階に達すると、個体の発育は止まってしまうが、植物はそれとは異なり、発育と成長は止むことを知らない。とくに、失われたり処分してしまったりした自身の身体に、新たな器官、新たな部分をたえず増築していく(葉、花、幹の一部など)。植物の身体は形態を生成する工場なのであり、それには休業などない。(本書p.18)

そして植物的生命を、世界を変容させるためのコズミックな蒸留器と呼び、別の形をもつ個体をもとに自身を構成し、時間の経過に伴って自分の形態を変化させ、変化を前提としながら増殖する、やがて異なるものが同一のものにまさるようにする、そのような潜在力であると表現する。

本書は総論のコスモロジーに続き、植物を葉、根、花に分けて、それぞれの役割を論じている。

葉については、その中にある葉緑体によって、大多数の生物に大気という環境をおしつけてきた──つまり地上の大半の生命を維持する役割を担うものである。根については自身の状態や環境についての情報を獲得するシステム。そして花はアトラクタであり、多くの種々雑多なものを交流させ、混合する空間をつくっていると定義づける。この生の仕組みの知的な営みは、分析的な視点によるのでなく、その知に我々も浴し、包括的にこれを理解し、その中に一体となって自分を感じとるような交感によってはじめて理解することができる。

コッチャのこの考えは一見物事を単純化しすぎているようにも見える。植物の知的営みに触れ、これと同化したいという情熱が先走りしているかにも。が、本書を読んでいて気づくことは、これはひとつの新しいロジックの体系を理解するためのテキストではなく、「浸る」ための文体であることに気づく。コッチャはアンステイチュ・フランセのオンラインインタビュー「植物の生」(6月28日配信開始)において、哲学は体系があるものではなく、バラバラであり、その文体も様々であり、各々の哲学者は小説や詩、科学論文のように書くものだと語った。世界を知るため、さまざまな分野の知を渉猟することが必要であることを語りつつ、農業と植物を修めたこの哲学者は、森や野原や庭に「浸り」に出かける。

禅の瞑想は実験的観察であると、ある禅僧から聞いたことがある。自と他の、静と動の区別も消滅した、植物を通して知る「可能な限り世界に密着する」生のありようは、コロナ禍にある私たちに内省的でありながら、世界に密着し、世界とつながっているひとつの「状態、ありよう」を示唆してくれる。静と動を同じと考えることは、今まで静ととらえていたものに動をみることや、動の別の解釈を導き出してくれる。

2020年5月、横浜国立大学都市イノベーション研究院のオンライン授業にゲストで呼ばれ、「都市の中の動くものと動かないもの」というテーマで講義と妹島和世教授とセッションを行った。動くものであった我々人間が動かないことを求められたとき、動かないものである「植物」と「建築」に対する見方を変えることで、動かないということへの省察をすること。それは同時に動かないはずの「植物」と「建築」が動くことへの新たな考察と観察を意味していた。

町を移動するモバイル建築、テント、工事現場の仮設囲いや構造の中にモビリティを設置しているニューヨークのシェッド、アーキグラムのウォーキングシテイ、光や風の動きもそれらの要素として挙げられた。妹島教授とは金沢21世紀美術館が開館してから40余りのアートギャラリーが美術館周辺にオープンし、スピンアウトした種子のように21美の建物のプログラムや精神が市内に繁殖していった経過について話した。もともと内部で来館者が自由に歩き回れることをテーマとしていたこの館は、展示ギャラリーの二倍の広さの共有スペースがある。動かない建築の中での多様なモビリティと、コッチャのいう「花」の機能にも似ている混合の空間が、概念としてオーバーラップさせられた。共同のプロジェクトとして進めている犬島も環境に作用し、変容させるようなシステムを建物やプログラムを触媒としてつくりあげることを試みている。自分の周辺の環境、ミクロエンバイロンメントに浸ることで、理解しながら、同時にグローバルに生じている大きなエコロジーの変化(政治経済も含んだ)をマクロ的に把握する。グローバルに世界を覆う大気をメタファーとしつつ、これとつながる「葉」、そして周辺を知る「根」、多くのものを媒介させ混合させる日々の思考やアクションとしての「花」、物の見方をこのように変えることで、私たちは植物の知とともに一歩を踏み出せるのではないだろうか。

5月1日、最近の状況についてル・モンド紙のインタビュー答えたコッチャのコメントは、我々の生きる空間、ひいては建築を再考するにあたり、示唆に富んでいる。彼は、あらゆる生物が惑星的存在として漂流し続けており、つねに場所や身体が生命を変え続けている、として、エコロジー概念および、家にまつわる概念──家を自分の場所と考えることに疑問を呈している。エコロジーの語源はギリシア語のオイコス(家)からきており、その概念は空想的なだけでなく、きわめて家父長的な科学であり続けている。「私たち人間にとっても人間以外にとっても存在論的な意味での「家」などないのです。地球上には移民しかいません」。

コロナ感染は、あらゆる生物が他の生命に晒されているという事実の帰結である。漂流、変容、ひとつの生のあらわれ、自分の居場所を再考し、それを空間によって囲い込むという考えをオルタナティブな力学につなげること、今それが求められている。

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書誌
著者:エマヌエーレ・コッチャ
訳者:嶋崎正樹
解説:山内 志朗
書名:植物の生の哲学──混合の形而上学
出版社:勁草書房
出版年月:2019年8月

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長谷川祐子
建築討論

キュレーター/美術批評。金沢21世紀美術館を立ち上げ、現在、東京都現代美術館参事、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授、犬島「家プロジェクト」をディレクション。第12回ベニス建築ビエンナーレアーティスティック・アドバイザー、タイ、モスクワ等を含むビエンナーレや数々の国際展を企画