シュテファン・リーケルス著『アニメ建築:傑作背景美術の制作プロセス

建築とフィクションが、文明を駆動する弁証法を描いていた時期(評者:藤田直哉)

藤田直哉
建築討論
Oct 4, 2021

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シュテファン・リーケルス著『アニメ建築:傑作背景美術の制作プロセス』

日本のマンガやアニメの中で、建築の占める比重は少なくない。特に、世界的に大きな評価と影響力を持った『AKIRA』(1988)や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)などの作品では、都市や建築こそが主役とすら言える側面もある。

本書は、『AKIRA』『攻殻機動隊』はじめ、『機動警察パトレイバー劇場版』(1989)、『機動警察パトレイバー2the Movie』(1993)、『メトロポリス』(2001)、『イノセンス』(2004)、『鉄コン筋クリート』(2006)、『ヱヴァンゲリオン新劇場版:序』(2007)、『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』(2009)という、都市や建築が印象的なアニメーション映画の背景画を、草森秀一や水谷利春、小倉宏昌、渡部隆、庵野秀明ら才能のある作家たちの協力を得て丹念に集めて収集した一冊である。

最近まで、アニメーション制作の過程で描かれた絵などの収集・保存にはあまり大きな関心が払われておらず、美術的価値があると見做されてもおかしくないような作品が数多く失われ、文化的な損失になっていた。様々な背景画の美的価値を提示してくれる本書は、アニメーション制作過程において描かれた様々な作品の、アーカイブ化と展示の重要性を理解させてくれる一冊ではないだろうか。実際に著者のシュテファン・リーケルスは、デジタル文化を得意としたキュレーターでもある。この本をベースに、展覧会が国内外で開催され多くの人がそれに触れる未来は十分にありそうで、非常に重要な一歩となる労作であることは間違いがない。

建築とアニメーションには深い関係があり、『AKIRA』の場合だと、「東京湾埋め立て地にネオ東京を配置するというアイデア」は、丹下健三の「東京計画1960:その構造改革の提案」(1961)から「直接引き出されたもの」だと言う(p20)。

アニメーションにおける建築は、物理的な条件に拘束されないという点において、現実の物質的・社会的・法的・商業的条件の中で実現される建築とは、異なっている。とはいえ、たとえば1970年の大阪万博で丹下健三が手掛けたお祭り広場の大屋根などもそうだが、未来についてのイメージを惹起するためにこれまでにない造形を見せるという点では、近い側面もあるだろう。大阪万博にはSF作家の小松左京がプロデューサーとして関わっていたように、フィクションと建築は、ある社会において人々の集団的な欲望や期待を生み出しある方向に向けていく際には重なり合う機能を果たしてきた。

とはいえ、ここで扱われている作品群は、そう単純に未来の希望や理想を描いているわけではない。文中で「ディストピア」という言葉が使われている通り、未来と言えば清潔でツルっとした像ばかりの時代に、アジア的で猥雑で剥き出しの機械で汚れている都市像を描いた『ブレードランナー』に影響を受けた作品群でもある(ただ、一応言うならば、これらをディストピアと単純に呼ぶことには賛成できない。『ブレードランナー』的な未来像は、清潔でツルっとした未来に向かうという単線的な文明観や、西洋中心主義への批判でもあり、アジア的で猥雑な生命力のある都市をこそ肯定する部分もあるからだ)。

『AKIRA』は最終的にネオ東京を爆発させて吹っ飛ばすが、「東京計画1960」的な、建築家や大資本、国家らがプロジェクトとして進めた戦後日本の改造に対し、批判を突きつける意図もあっただろう。「バビロンプロジェクト」で生まれ変わる東京を舞台にしつつ、滅びかけている昔ながらの建物や暮らしを丹念なロケハンの元に図像化していった『機動警察パトレイバー』の都市像には、明瞭な思想と文明批評が、開発に対する批判的な視座が存在している(監督の押井守の、登場人物のドラマやセル画の後ろにある背景こそが、「監督のコア・ビジョンを伝えるべき場所」という発言が「はじめに」で引かれている)。

つまり、アニメーションの背景に描かれた都市や建築は、戦後日本における、未来像に関わる夢と希望、その現実への失望や、鋭い批判などの思想的葛藤の現場なのである。ひいては、それは、戦後の日本の科学技術立国化や高度成長への疑問、古いモノを捨て去って未来にばかり進もうとする態度への違和感へと繋がっていき、日本論や文明論にもなっていく。

最近の日本のアニメにおいて、このような文明論を感じる機会は少なくなってきた。都市や機械のヴィジョンそれ自体で何かの思想を語ろうとしているように感じる作品も少ない。それはアニメだけではなく、現実の建築からも、鮮烈な未来のビジョンを受けることが少なくなった。現代のスター建築家と言えば、(新)国立競技場を手掛けた隈研吾がその一人に挙げられると思うが、彼の作った地方における小規模な建築には魅力を感じるし、著作などで提示される様々な思想には頷くところも多いのだが、彼の建築からこのような鮮烈な印象を受けることは少ない。もちろん、つながりを重視し、日本的な意匠を用いた建築の持つ感覚的な魅力は十分に理解するし、その建築自体が思想的な闘争であるという側面も十分に理解した上で、「東京計画1960」的な強烈に集団を吸引する未来の誘惑力があるのかというと、そうではないだろう。それは、隈に原因があるわけではなく、戦後日本のような、次々と進歩を目指し未来に誘因されていくモードの時代が終わったということなのかもしれないが。

このような、フィクションと建築の弁証法、思想的な対決と葛藤の場としての都市像、建築イメージの展開が最近は目立たなくなってきたのは、多くの人々が未来や、都市のような公共的なものへの関心を失ってきているからなのかもしれない。最近の建築が印象的なアニメ作品の例だと、細田守監督の『未来のミライ』が、主要人物の一人を建築家にしていて、実際の建築家である谷尻誠の設計した住宅を作品の主要な舞台にしていた。しかしこれは個人住宅であり、作品の焦点はひとつの家族、そこに生きている男の子の内面にこそあった。集団的な未来に対する関心から、家族や心などの内向きな方向に関心が代わり、高層ビルなどの外装よりも自分自身の感覚的な心地よさを与えてくれるような住宅の内装の方にこそ重要な関心が移っていることを反映しているのかもしれない(「未来」を使ったタイトルからして、細田守はこのことをおそらくは意識して介入しようとしているのではないかと想像させられる)。

最近はSDGsや環境危機などの議論において、未来を意識させられることが増えてきた。自民党の総裁選の候補者に小学一年生が、環境のために「昆虫を食べる未来が来るのか」と質問していたが(『ブレードランナー2049』の冒頭でまさにそれが描かれていた)、どちらかと言えばネガティヴな意味において未来が意識される機会が増えた。ネガティヴで暗い未来であれば、人は直視したがらないだろう。だとすると、それでもなお魅力的な未来像をパワフルに提示し、魅力で牽引していく機能が、建築やフィクションにも求められてもおかしくはないはずなのだ。

にもかかわらず、地域の再開発などのイメージ図もそうだが、人とのつながりや、緑の多い暮らしなどの、千篇一律に同じようなヴィジョンばかり出てくるのは、想像力の貧困であり多様性の喪失ではないかと思われる。もちろん、これらがダメだと言うことではなく(生活者としてなら筆者もそのような生活を求める)、それらに対して異論や批判を含む様々なアイデアが提示され、争い合うダイナミズムの中での発展が起きることが重要なのではないかと思うのだが。

評者は建築の素人であるが、現代の建築家は、そのような大きなスケールの仕事がしにくい構造的な状況にあるという話も耳にする。だが、やはり、バックミンスター・フラー的なスケールの仕事もまた行われるべきだと思うのだ。アニメなどのフィクションと手を組めば、スペキュラティヴな建築や都市計画も多くの人に訴求力を持ちやすくなるはずではないだろうか。フィクションの側もそれに呼応したり、批判したりと、未来像に対する創造的な弁証法のダイナミズムが発揮されていくと、未来はもっと面白くなるのではないか。ただひたすら衰退して地球環境の危機に対応しなければいけないという直面すると鬱や無気力を誘うような未来像に立ち向かい、積極的に未来を志向させるように人を変えるような、ヴィジョンの力こそが、今求められているのではないか。

日本のアニメーション文化が世界に知られ、もっとも影響力を持ち、クールジャパンの展開に大きな力を与えた1980~90年代の作品群にあった、「未来」「文明」を巡る強烈な弁証法的な力の魅力を本書で十分に堪能できた。本書を通じて、そのような力が現代に蘇っていくことを期待したい。

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書誌
著者:シュテファン・リーケルス
訳者:和田侑子
書名:アニメ建築:傑作背景美術の制作プロセス
出版社:グラフィック社
出版年月:2021年4月

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藤田直哉
建築討論

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。日本映画大学准教授。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震