ジェームズ・ブライドル著『ニュー・ダーク・エイジ:テクノロジーと未来についての10の考察』(久保田晃弘訳)
辺獄の際(評者:砂山太一)
東京初台にあるNTTインターコミュニケーションセンターで、2018年6月2日からはじまった展覧会「オープン・スペース2018 イントランジション」には、とある奇妙な映像作品が展示されている。
キャップ、トレーナー、ズボンすべて黒で固めた男性が、停車している車から出てくる。遠くから撮影された少し早回しの映像の中で、その男は車の周りに、塩で線を引いていく。その後、映像はブラックアウトし、再び表示されたときには、先程停車していた車はなく、実線の外側にもう一周点線で描かれた二重の円だけが残る。ギリシャの広大な山並みのなかの一時停車場のような場所に、他に車はない。やがて、遠くのほうから先程の車が戻ってくる。その車は、少し弧を描きながら、またその塩の囲みに入り、微動しながら停車する。
「Autonomous Trap 001」と名付けられたこの映像作品は、美術家のジェームズ・ブライドルよって2017年に制作された。男が車で、自ら囲った円の中に、また再びインするだけのこの映像は一見意味なく滑稽だが、ネット上で公開されるとともに様々なサイトで取り上げられ耳目をあつめた。
ジェームズ・ブライドルがブログサイトnew-aesthetic.tumblr.comをはじめたのは2011年。英語のエステティックが美学や感性学を意味するとおり、ここには、デジタルデバイスや人工知能が引き起こした珍奇な事象が集められ、情報時代に巣食う新たな感性の表出を提示している。コンピュータ・サイエンスの学士号を持つ彼が、アートワークを展開するにあたって、今日における感性のフォームを分析するためのアートリサーチと位置づけられるだろう。先程の「Autonomous Trap 001」も、このような人工知能などの人間以外の知性ないしは感性が、すでに所与のものとなっている今日的環境で、エステティクスのフォームを検証するための試みとして見ることができる。人工知能を搭載した自動運転車は、点線から実線の境界は乗り越えることができるが、実線から点線の境界は乗り越えることができない。四方を実線から点線の境界で囲まれたそれは、多少痙攣しながら自らを停止する。
「ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察」は、ブライドル初の単著にして、new-aestheticから継続されているリサーチワークを理論的に総覧する内容になっている。「裂け目」「計算」「気候」「予測」「複雑さ」「認知」「共謀」「陰謀」「同時実行」「雲」の10個の章からなり、環境問題や社会問題、国際情勢などが、情報技術との結びつきの中で考察されていく。
そこでは、人工知能を搭載したグーグルの翻訳エンジンがW.ベンヤミンの「翻訳者の指名」を介して語られ、アルゴリズムによって生み出される子供向けYouTube動画と、さらにそのアルゴリズム的振る舞いを人間が真似た動画群が未分化の荒野を形成し、ジョン・ラスキンが展望した禍々しい災雲の啓示が、ティモシー・モートンを経由しハイパーオブジェクト化され、チェコ共和国のプルネーロヴに狼煙をあげる。ブライドルは、その叙事詩的な語り口によって、現代の神話を構築していく。
本書の冒頭でも述べられているとおり、その射程は、テクノロジーを純粋に正しく理解することにはない。現代のテクノロジーを「どう働いているのかを本当に理解することなく、ずっと経験してるもの」と認め、問題に対して技術や計算で解決できるとする立場(=「計算論的思考」)の限界を示し、「人々が、政治が、文化やテクノロジーが複雑に絡み合っている世界のリアリティ」を記述するためのメタファーの重要性を説く。
情報技術による新たな暗黒時代。テクノロジーは私達をワクワクさせるが、その事自体はどこか不気味な側面を持っている。それがいまよりさらに私達にとって不可解なものになる時、そこにたちあらわれる新たな他者を、私達はどう記述できるのだろうか。その他者を制御可能なものとして捉えるのか、それともブライドルのように、芸術の比喩的な働きによって概念と技術の間に写像関係を作り出すのか、判然としない辺獄の際で、あの自動運転車のように私達は痙攣している。
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書誌
著者:ジェームズ・ブライドル
訳者:久保田晃弘
書名:ニュー・ダーク・エイジ──テクノロジーと未来についての10の考察
出版社:エヌティティ出版
出版年月:2018年12月