ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著『反逆の神話〔新版〕:「反体制」はカネになる』

ウソ社会の欺瞞を剥ぎ取り「真実」に目覚めよう!(評者:藤田直哉)

藤田直哉
建築討論
Published in
Dec 10, 2021

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2004年に原著が刊行され、大変な論争を読んだ一冊の新版が翻訳された。2019年のフランス語版に付された、刊行後の15年を総括する文章も新たに訳出されており、本書の主張や現状の政治的状況についての理解を深めてくれるだろう。

ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著『反逆の神話〔新版〕:「反体制」はカネになる』

『反逆の神話』は原著タイトルを「THE REBEL SELL」と言い、「反逆が売り物にされている」という意味である。一番目先の批判のメインターゲットは、アドバスターズ・メディア社や、ナイキ、ナオミ・クラインらの反グローバリズム運動などであるが、その背景にあるカウンターカルチャーやフランクフルト学派の思想を批判的に検討するという射程の一冊であり、そうであるがゆえに非常に論争的で扱いの危険な一冊である。

『アドバスターズ』はカナダの財団が発行している「広告破壊」の雑誌で、左派活動家向けの雑誌である。様々なユニークなキャンペーンや社会運動を行ってきたが、彼らの活動は「カルチャー・ジャミング」と呼ばれる。既存のメディアや資本主義をいわばハックし、その中に批評精神を注ぎ込もうという戦略である。原著のサブタイトル「Why the Culture can’t be jammed」を見れば、本書の批判の直接的なターゲットは「カルチャー・ジャミング」戦略の有効性である(日本語に馴染んだ表現で言えば「シラケつつノリ、ノリつつシラける」という戦略や、アヴァン・ポップの「添い寝しながら刺す」などに近いか)。

主張は明瞭で、「反逆」(のうちの一部)は今や商売になっており、「反逆者」という象徴的価値やブランド、アイデンティティを消費者に提供することで儲ける企業が出てきており、それらの商品を消費したり楽しんでいるだけでは「反逆」にならないということである。彼らは、そのような文化的なやり方ではなく、ちゃんと社会運動を組織し、体制を揺るがし、問題を具体的に改善していくことに取り組むべきだ、と提起する。一部の読者が誤解しているように「反逆」を全否定するものではなく、やるならちゃんとやれ、ということに近い。その証拠に、新版の序文で、ウォール街選挙運動の中で『アドバスターズ』のグループ企業が果たした役割を高評価している。彼らは「月並みな政治的活動と組織的方法」で「運動を通じて自分たちの要求を政治化に突きつけることができる限りにおいて(…)プラグマティック」(p21)であったことを評価しているのだ。

カルチャー・ジャミングは、周囲の世界が、実は「イデオロギー」によって作られた偽物の世界(スペクタクルの世界)であって、それへの違和感を人々に感じさせ「真実」に目覚めさせる戦略であると著者たちは考えている。そしてその考えは、60年代のカウンターカルチャーから来たのだと述べている。確かに、60年代の運動の中には、この「偽物」の現実を剥ぎ取って「真の現実」に接近しようとする衝動があった。そして「本書では、カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革しえなかったと主張する」(p49)「カウンターカルチャーの反逆は無益なだけではなく、確実に逆効果だ。人々の生活の具体的な改善につながる制作からエネルギーと努力を逸らせてしまうのみか、そのような漸進的変化を総じて軽んじる風潮を促す」(同)とまで言いのける。

個人的には、カウンターカルチャーへの評価は厳しすぎるだろうと思う。カウンターカルチャーの敵は、全体主義、抑圧、システムなどで、擁護していたのが、個人、性の自由、スピリチュアル、多様性などであったが、もしカウンターカルチャーの戦いがなければ、今私たちが当然のように享受している価値観や制度、ライフスタイルがこのようであったとはとても思えない。たとえば、60年代当時、フランスでは避妊や堕胎が非合法であり(信じられます?)、人工中絶が合法化されたのは1975年のことである。「性の解放」や「システムからの自由」などを求めた60年代のカウンターカルチャーやフランス現代思想、それからフェミニズムの戦いは、具体的なこのような背景を見なければ分からないだろうし、実際に文化闘争で価値観が変化したからこそ、法律・制度・常識が変化したのだ。このことへの評価があまりに軽すぎる、既に変化した価値観を自明に当たり前に思い、インフラへのただ乗りのようになっている点は少し気になる。

とは言うものの、筆者たちが2000年代以降に、商売と化し、惰性に落ちたカウンターカルチャーの問題性を指摘したくなる理由も分からなくはない。それについては、後に触れる2000年代という時代状況を抜きにして語るわけにはいかないだろう。インターネットの出現による、繰り返されたカウンターカルチャーの新しい波という状況の中でこそ、本書の主張と警告は理解されるべきだろう。

本書の面白いのは、「スペクタクル批判」を批判するアイロニカルな戦略である。大衆はメディアや広告の撒き散らすイメージやイデオロギーに「洗脳」されていて、現実や真実に目覚めないのだというのが、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』の考え方であり、カウンターカルチャーはこの考えの影響を大なり小なり受けて、この世界の「真実」に気付かせようとしてきたと彼らは考えている。

そして、本書は、批判の対象として映画を取り上げる。繰り返し槍玉に上がる『マトリックス』はじめ、『アメリカン・ビューティー』『イージー・ライダー』『カラー・オブ・ハート』『ザ・ビーチ』などが扱われる。それらの作品の中では、自由が希求され、全体主義的なシステムは嫌われる。

彼らがこの例から言おうとしているのは、こういうことだろう。これら大衆的なエンターテインメントの類型として「反逆」は商品となり、我々はその「スペクタクル」「イデオロギー」の洗脳によって虚偽の現実を現実と思いこまされているのではないか、と気付かせようとする点にある。

たとえば、『マトリックス』は、コンピュータ内のシミュレーションを「現実」と思いこまされていた人々が、リアルに目覚め、レジスタンスの闘争をする話であった。そして、本作や同じ監督の『V』はネットの人々に影響し、行動を形作った。しかし、「それは映画で思いこまされたことじゃないの」と本書は水をかけているに近い。「あんたがマトリックスの中にいるんだよ」と。オルタナ右翼やインセルたちの間でも『マトリックス』は非常に人気が高く、作中に出てくる、飲むと「現実」が見える「レッドピル」という言葉は、「リベラルなどが作り出している虚偽のイメージから逃れて、現実のリアルを見ている私たち」を示す符牒に使われていることを思い出していい。お互いが「お前の方が洗脳されている」と罵りあうのは、日本における左右のイデオロギー闘争でも良く見られるもので(ネトウヨは産経新聞や大阪のメディアに洗脳されているvs日教組・朝日新聞・アメリカに洗脳されている)互いが互いに相手がマトリックスの中にいて自分は目覚めていると思っているというのはよくありがちなことだが、本書もまたそのような構造を用いている点は実に興味深い。だから、本書は多くの人々を触発したのだろう。

閑話休題。カウンターカルチャーや『マトリックス』構造が批判されなければならないと著者たちが考えているのは、「システム全体を一挙に変革しなければならない」であるとか「画一性は全体主義に繋がる」であるとか「理性は絶滅収容所に繋がる」であるとか「科学は自然を破壊するものである」などの、カウンターカルチャーにありがちなドグマのようなものを植え付けてしまい、それが有害だからである。彼らはむしろ、国家や資本主義やシステムを全的にひっくりかえそうとするのではなく、部分を漸進主義的に改良していくべきであると考えている。つまらない地道な社会運動をするべきであり、科学や理性、秩序やルールを信用するべきであると考えているのだ。それは、国家や資本主義や家父長制を全的に一挙に革命するべきだと考える人々にとっては、現状容認的で保守的な立場と捉えられるかもしれない。

注意しなくてはいけないのは、ここで批判されているサブカルチャーやカウンターカルチャーの類型に、著者たち自身もどっぷり浸ってきたということである。解説で稲葉振一郎が「要するに本書の分析の全体は著者たちによる自己総括でもあるのだ。そしてそこには面白さと同時に危うさもある」(p566)と指摘しているが、自分たち自身がカウンターカルチャーの影響を強く受けていたのだ。ヒースはパンクに熱狂していた。ポターも「60年代の理想に強い影響を受けた家庭で育った子供」であり、二人とも『Xメン』を読んで育ったという。このコミックには「カウンターカルチャーの反逆者の空想」が具現化されている、すなわち、「規格外の才能を持つ不適格者たちの小集団が、主流社会から他人と違うからと迫害され、それでも一致団結して、人類をその最悪の性癖から救う」(p554)もので、これを「子供たちにとってのフランクフルト学派の前衛主義」(同)と呼んでいる。社会から疎外される、「普通」「学校」「システム」「画一化」に馴染めないものが、自分たちを「特別」だと思い、平凡で普通の人々にある深刻な問題を解決するのだ、という自己認識の「空想」のパターンが、政治理論、社会運動、そしてサブカルチャーに通底していると彼らは見ている(現代日本で似たものを挙げるとすると、異世界転生などの「追放モノ」だろうか)。

彼ら自身が、このような大衆文化を通じた世界の見方、アイデンティティのあり方を、ある程度は自然なものとして受け容れていたようなのだ。その「自己否定ゆえの苛烈さ」が本書にはある。

フランクフルト学派の名前を出したが、本書はカウンターカルチャー批判であると同時に、フランクフルト学派批判でもある。そしてこれも見逃してはいけないことなのだが、ヒース自身が、フランクフルト学派第四世代に相当する経歴を持っているのだ。

フランクフルト学派とは、非常に単純化して言うと、ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、フロム、マルクーゼなど、本書で槍玉に上がる人物たちのいたドイツのグループで、マルクス主義とフロイト、ルカーチ、グラムシなどの影響を受けており、ナチズム・ファシズム化していったドイツ社会を念頭においた研究・批評を数多く行っていた。理性、科学、啓蒙などに疑問を持ち、たとえばナチスドイツのユダヤ人虐殺を、官僚制や理性・科学の行き過ぎではないかと分析したことが有名である。大衆消費社会やメディア批判などでも知られている。カウンターカルチャーは、フランクフルト学派の思想的影響下にあると著者らは見做しており、「結論」の章は「ファシズムのトラウマ」と題する節から始まる。

フランクフルト学派第二世代にはハーバーマスがおり、ヒースはハーバーマスの元で学んだ。ハーバーマスはアドルノの助手をやっていたが、第一世代が理性に与えた低い評価を批判し、(コミュニケーションにおける)理性を擁護しようとした。それが理由ではないのだろうが、一時期は研究所を追い出されもしている。そのハーバーマスの元で学んだヒースにとって、本書はカウンターカルチャーや大衆文化などへと浸透していった(と彼らが見做す)フランクフルト学派の思想の一大点検のような作業であっただろう。ある意味で、親殺し(影響を受けた元の思想を点検し、否定することで自分自身の固有性を確立する)のような作業でもあるのだ。

このような(仮説的な)思想の展開史として本書を読むと、縦横無尽に70年以上も形を変えて、サブカルチャーなどを通じて影響し続けているフランクフルト学派の思想の影響力の凄さが、逆に感じられてしまうというアイロニーすらここにはある。非常に穿って考えると、ネガティヴな評価をしているように見せかけたフランクフルト学派の宣伝ではないか? とすら思えてくる。この思想史は魅力的だが、それこそ「エビデンス」が乏しいので、誇大広告ではないかと疑うことも可能なのだ。本当にフランクフルト学派の思想的影響なのだろうか? その点は、詳しい方々に検証してほしい。

さて、『マトリックス』が繰り返し槍玉に上がることからも窺い知れるように、この本はインターネット上におけるアナーキズムやリバタリアニズムの状況をも意識して書かれている。かつて「多くの人たちが純粋にアナーキーな社会秩序の夢を見つづけ、そこではあらゆる社会的関係が強制的ではなく、自発的で、あらゆる規則やヒエラルキーが控えられている、それがサイバースペースだ」(p488)という夢があった。

初期のネットで普及していた「ハッカー倫理」は、カウンターカルチャーの影響を受けていたと本書は語る。そして、アップル社も、『1984』を用いた広告展開から明らかなように、反体制的・反システム的で解放的な装いをしていた。スティーヴ・ジョブスは禅にハマっていたことからも明らかなように、カウンターカルチャーにどっぷり浸っていた人物である。そのアップル社のiPhoneやiTuneなどが、如何に私たちを縛り付け閉じ込め搾り取るシステムになっているのかは、言うまでもないだろう。

そして、本書は、ネットで具現化した「自由」「解放」の苦々しい帰結を踏まえている。「ほかの人に強制し、嫌がらせをし、沈黙を強いるためにこの表現の自由を利用する者がいるかもしれないとは、思いもしなかった」(p491)ことが、批判される。これは、我々が経験してきたインターネットそのものである。インターネットをユートピアにしてきた同じ性質を使って、「『現実世界』に存在するのと同種の不快な連中が、たとえば人種差別主義者や、頑迷な人間や、性差別主義者がはびこった」(p491)。だから、管理や、ルールは必要ではないかというのだ。その通りだろう。

ユートピアへの夢想、それを一挙に実現させようとする情熱。それがサイバースペースに集まり、人間そのものの現実によって腐敗し、瓦解していく。その残骸の中で、ルールや管理、システムの必要性や必然性を訴えかけようとする。本書の書かれた時代的状況を考えると、そのような同時代への介入の意図を読みとらざるを得ない。

2010年代のネットの状況は、90年代、2000年代のアナーキーさと比較して、倫理的で秩序的になったように思われる。その点への評価はどうだろうか。2019年に付された序文を参照する。

左派のカウンターカルチャーは、かつては逸脱や自由やアナーキーさを肯定していたにせよ、この10年で大きく様変わりした。「カウンターカルチャー的左派を特徴づけた反逆の消費主義、カウンターカルチャーの慣行、真正さを探究するポーズ」(p23)の「多くがもはや許されていない」「多くが文化の盗用として、あるいは単に人種差別的として非難されている」(p23–24)。

そして、「左派ファシズム」や「キャンセル・カルチャー」についてはこう述べる。「ソーシャルメディアが誘発するさまざまな精神病」(p28)に悩まされてはいるが、大いに心配するべきこととは思わない、と。キャンセルカルチャーについては批判的で「左派の独善ぶりや不寛容は近年ますます強まっている」(p30)とするが、結局「自己破壊」に向かい選挙で負ける結果になるのだから政権をとることはないし、ただちに圧政的になることはないだろうとしている。

一方、カウンターカルチャーの性質を引き継いだのが、オルタナ右翼である。カウンターカルチャーは左派のものであり、右翼のカウンターカルチャーは理論的には想定できたが、実際に生まれるとは思わなかったと彼らは認める。トランプの元主席戦略官であるスティーヴ・バノンは、いわゆる左派の文化的政治の戦略が優れていると認め、右派の「文化的政治」を行う必要があると認めたという。つまり、オルタナ右翼らは、カウンターカルチャーの戦略、文化左翼のやり口、アイデンティティ政治の方法論を用いて組織化・動員されている(日本のネット右翼もそうだろう。さらには、麻生内閣がオタクへのアイデンティティポリティクスを仕掛けたことも、彼自身の著書から明らかである)。

「ルールを破ると言う行為をそれ自体が解放につながるものとして賞賛する」「破られるルールは抑圧的なものであり、ルールを破るのは進歩的なことだ」(p25)という、カウンターカルチャーの基本的な考え方が、現在の右派や保守派を支持する人たちには認められる。日本の政治家でも、そのような振舞いをする者が少なくはないと思うが(維新する、既得権益を壊すなどとPRする)、それはそのような振る舞いを支持する人々を見越しての戦略的な振る舞いであり、トランプはまさにそうしていたと分析される。

そして、まさに批判の中心だった「反逆」をブランドとして売って稼ぐビジネスはどうなったか。それはSNSの台頭でほとんど通用しなくなった。かつて、あるブランドを身に着けるのは、人との違いを際立たせる「顕示的消費」のためだった。しかし、現在ではSNSがあるので、そこで自分自身をPRできるので、財を身に着けて自己を主張する必要性が減ったのだ。代わりに、「いいね!」や「RT」の数が機能するようになる。政治的正しさや倫理的感度、意識の高さを誇示する「美徳シグナリング」こそが、他者と自分を差異化し地位を巡る争いに使われるようになり、これが新しい「アイデンティティ政治」になっているという。

建築に関連することを言えば、反近代、反西洋、反システム、そして自治や解放、霊性などを求めるカウンターカルチャーの思想は、当時のアメリカやヨーロッパの文脈では後者と東洋が結びついて考えられていたために、日本においては、日本そのものと重ねて理解されることが多い。建築や、それに関連する地域づくりの言説においても、カウンターカルチャーの残響を聞き取ることは困難ではないはずだ(科学、自然、中央と地方、西洋と日本、みたいな議論の枠組みに滑り込みやすい)。そして自堕落な日本主義や民族ナルシズムに陥ることがある。本書を読むと、そのことへの批判的再検討が促されるだろうと思う。

本書の批判のある程度の部分に納得し、共感し、理解しつつも、個人的に、本書に反論したいのは、カウンターカルチャー的な衝動についてである。それは不合理で害のあるものなのかもしれない。しかし、それを矯めることは可能なのだろうか。本書は左派への批判として、左派は「人間本性」を過剰に構築的なものと見做し、無理に変えようとするところがあると言っているが、カウンターカルチャー的な衝動もまた「人間本性」に属するものだとしたら、どうなのだろうか。

リチャード・ホフスタッターは『アメリカの反知性主義』で、60年代のカウンターカルチャーの不合理性などを論じたが、一方でそのような宗教的とも言える情熱は民主主義と不可分ではないかとも言っている(そしてそれは陰謀論などとも深いつながりを持つとしている)。彼に拠ると、キリスト教福音派の影響がアメリカのカウンターカルチャーにはあると分析されるが、黒人奴隷に反対したのは福音派だったことに注意を促している。「合理性」だけでは、利益のある黒人奴隷制度を辞めさせられなかっただろう。

ネットの世論の狂気のような状態や、感情的で不合理で非理性的で事実に基づかない攻撃などの被害を受けているときには、ヒースが『啓蒙思想2.0』で言うような、理性の復権やシステムによる介入の必要性には賛同したくなってしまうが、様々などうしようもない出来事というコストを支払ったとしても、カウンターカルチャー的衝動にも可能性を開いておく必要があるのではないかとも思うのだ。ユダヤ教のパリサイ派に歯向かったキリストや、ソフィストたちに反抗したソクラテス、自由や平等や友愛を求めて起きたフランス革命の支持者たちも、既存の体制からは胡散臭く悪魔的で無秩序な連中だと思われてきたということは、やはり理解しておくべきである。著者らの主張は理解しつつも、人類の道徳的進歩の動的な性質を考えると、議論したり対立したり揉めたりしながら、民主主義的に揉んでいくような開かれた相補的な緊張関係を保ち続けるしかないのではないかなと、半ば投げやり、半ば民主主義という仕組みを信頼しながら、呟いてもみたくなるのである。

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書誌
著者:ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター
訳者:栗原百代
書名:反逆の神話〔新版〕:「反体制」はカネになる
出版社:早川書房
出版年月:2021年10月

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藤田直哉
建築討論

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。日本映画大学准教授。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震