ゼロ年代の“森のようなもの”──都市に対する感性から考える

068|202304|グローバル・アーキテクチュアとしての日本現代建築──いくつかの切断面

鮫島卓臣/ Takuomi Samejima
建築討論
22 min readApr 27, 2023

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日本の星座、“森のようなもの”

2016年にニューヨーク近代美術館で開催されたA Japanese Constellation: Toyo Ito, SANAA and Beyond展は、伊東豊雄、妹島和世、SANAA、西沢立衛、藤本壮介、平田晃久、そして石上純也ら計6名1ユニットの日本人建築家の活動に焦点を当てた展覧会である。Japanese Constellation、すなわち“日本の星座”という表現は、各建築家の世界的な高い評価を輝く星になぞらえると同時に、それぞれの活動をある特殊性を持ったひとまとまりの系譜として見るものだった。

Fig.1.『 A Japanese Constellation: Toyo Ito, SANAA and Beyond』展(2016)の展覧会カタログ表紙

本展のキュレーターであるPedro Gadahnoは、彼らが共有するこの特殊性の根底に伊東豊雄の影響を見る★1。1989年のエッセイ『消費の海に浸らずして新しい建築はない』に象徴されるように、90年代の伊東はいわゆる”建築のための建築”がポストモダンやデコンとして次々と消費されていく現実に限界を感じ、むしろ建築家は大量消費や情報革命といった新たな都市生活のリアリティと積極的に関わることを通してのみ、社会にふさわしい新しい建築を考えることができると予感した★2。その言葉通り、2000年代には、伊東のせんだいメディアテーク(2001)やSANAAの金沢21世紀美術館(2004)など、既成のビルディングタイポロジーやプログラムの構成に揺さぶりをかけ、新しい社会を反映するような画期的な建築が生まれた。1970年代生まれの藤本、平田、石上らもそれぞれ独自のアプローチを確立しながらこれに続き、ゼロ年代は日本の建築がグローバルに再評価される黄金時代であったとも言える。

Fig.2. 伊東豊雄によるせんだいメディアテーク(2001)の初期スケッチ

さて、彼らを世界の潮流の中で一つの星座たらしめた特殊性とは一体どのようなものだろうか? それを一つの言葉で強引に表現するとしたら、それは“森のようなもの”とも呼べる一連の興味だろう。 伊東は「私にとって、建築をつくることはしばしば森を表現することであった」 ★3と述べ、藤本は「森と同じ作られ方で建築を作ることはできないだろうか?」 ★4と問う。「建築を開く」「動詞的なもの」「不確定性を計画する」「からまりしろ」「環境としての建築」など、多様に語られてきた彼/彼女らのテーマには、どこか森のような状態を建築に求める共通点があるように思えるのだ。機能が一人歩きして空間を決定づけるような20世紀の建築の在り方に対して、人が発見的に居場所や活動の場を見出すことができる空間の仕組みや建築の在り方を模索するために持ち出されたアナロジーであるかもしれない。

本論考はこの“森のようなもの”をゼロ年代における日本の建築シーンを特徴づける一つの特殊性と捉え、それを同じく自然由来のテーマを持つ“バイオミミクリー ”や“生き物のような建築”といった同時代のグローバルな建築の潮流とパラレルに位置付ける試みである。そこで浮かび上がるのは、発展を続ける都市に対する同時代的な問題意識と、その都市に対する距離感という差異である。そしてその差異にこそ、ゼロ年代の日本建築がもつ“森のようなもの”としての特殊性が顕在化する。以下、その差異を都市に対する異なる3つの距離感としてまとめてみたい。

都市を問題として捉える:バイオミミクリー という解決

世界的に見たときに、2000年以降に台頭した建築の潮流としてバイオミミクリー が挙げられる。バイオミミクリー とは自然界の生物の構造や仕組みを模倣することで、より最適化された建築のデザインやシステムを目指す方法である。もちろん、生物学の知見を建築のインスピレーションに利用する流れは古くから存在する。アール・ヌーヴォーに見られる形態の模倣やフライ・オットーらによる構造の研究、あるいはメタボリズムに見られる有機的な成長モデルの参照などが挙げられる★5。しかし、ゼロ年代以降におけるバイオミミクリー への関心の高まりは、環境危機や持続可能性などの21世紀的な問題意識をその根底に持ち、インスピレーションの域を越えたより実体的な学問体系へと昇華している点に大きな特徴がある。MITのSelf Assembly Labやシュツットガルト大学のInstitute for Computational Design and Construction、AAスクールのEmergent Technologies and Designなどがその代表例だ。

2011年に出版されたBiomimicry in Architectureで、イギリスの建築家Michael Pawlynは、機能上の様々な課題を自発的に解決してきた生物の仕組みを利用するバイオミミクリー を、産業時代からエコロジカルな時代へと社会を転換する上で最も有効な知的資源のひとつであると位置づけている。そしてとくに重要な課題を3つ挙げている。「資源利用の最適化」、「化石燃料からクリーンエネルギーへの移行」、そして「資源を無駄遣いしない循環型社会の実現」である★6。すなわちここで浮かび上がってくるのは、産業革命以降の20世紀型の都市の仕組みや論理を、解決すべき種々の明確な問題を孕んだ対立軸として捉えるバイオミミクリー の視点であり、その知的資源をよりサステイナブルな建築や都市の在り方に活かそうという問題設定である。

Fig.3. Michael Pawlyn『Biomimicry in Architecture』(2011)表紙

こうしたバイオミミクリーの研究が特に盛んになったのが建築材料の領域だ。シュツットガルト大学のAchim MengesらによるHygroScope(2012)は、空気中の湿度変化に応答して、自動で表面が開閉する機構を持った建築モジュールの提案である。気候への応答の仕組みがマテリアルそのものに埋め込まれているという生物学上のルールを参照して考えられたもので、外部エネルギーに依存しないシステムとして示唆的である。

空気中の湿度変化に応答して自動で表面が開閉する建築モジュールHygroScope(2012)

The LivingによるMoMA PS1 Young Architects ProgramのパビリオンHy-Fi(2014)では、トウモロコシの収穫時に出る廃物をキノコの胞子と組み合わせて型に入れることで自生させ、生物分解性のあるレンガが考案された。このようにエネルギー効率や資源の循環可能性を、建築の物質的な側面と生物学を組み合わせてアプローチする研究プロジェクトは、現在も引き続き注目されている。

トウモロコシの廃物とキノコの胞子をによって自生するレンガを利用したパビリオンHy-Fi(2014)

材料のスケールにとどまらず、2000年以降は建設産業の環境への影響が盛んに議論されるようになった。欧米諸国ではLEEDなどの環境性能を評価する指標が重要性を増し、それへの応答としてバイオミミクリー 的アプローチによる事例も現れている。たとえばCloud 9によるバルセロナのMedia-TIC(2010)は、南面のファサードを伸縮可能なETFEパネルで構成し、気候に合わせてそれらを膨らませたり萎ませたりする事で太陽光による効率的な熱収支を実現したプロジェクトである。

Fig.4. Media-TICの伸縮可能なETFEパネルによるファサード(筆者撮影)

日本における同時代的な取り組みと言えるのは、日建設計によるバイオスキン(NBF大崎ビル、2011)だ。ファサードを覆う素焼きのパイプから貯蓄された雨水を蒸発させ、その気化熱を利用して建物内部の冷房負荷と周辺のヒートアイランド現象を同時に抑制する試みは、生物の発汗にも似た極めて合理的な仕組みである。

バイオミミクリー は建物単体を越えた環境のスケールでの合理性へと向かうゼロ年代の潮流を象徴するアプローチの一つと言えるだろう。建築のスケールに閉じた近代の機能主義的な合理性を批判するという点では、“森のようなもの”との同時代性も見ることができそうだ。しかしその一方で、環境危機や浮き彫りになった都市の欠陥を取り組むべき定量的な実体を持った問題として捉え、自然や生物を対置させるバイオミミクリーの視点は、“森のようなもの”とは明らかに異なるものとも言える。

都市の論理に活路を見出す:生き物のような建築

バイオミミクリーに並行するかたちで、ゼロ年代の世界建築では、複雑な流線形や滑らかな造形を目指す潮流が見られる。それを“生き物のような建築”と言ってみよう。バイオミミクリー が生物や自然の根本的な仕組みを建築に具体的に援用することを目指したのに対して、この“生き物のような建築”は、生物と建築の形態上のアナロジーに着眼する点に特徴がある。コロンビア大学のペーパーレススタジオに代表されるように、著しい発展を遂げるコンピュータ技術を駆使してより挑戦的な建築の造形を目指す流れは、1990年代から2000年代における同時代的な現象と言える。“魚の動き”にインスピレーションを受けたとされるフランク・ゲーリーによるグッゲンハイム・ビルバオ美術館(1997)の世界的な成功は、建築における新しい造形の可能性を証明し、これら一連の興味を加速させるきっかけとなった。

その一方で、このような特徴的な造形は特定の建築家──いわゆる「スターアーキテクト」とセットで語られ、プロモートされてきた側面があるのも事実だろう。その生き物のような造形は、伊東豊雄がポストモダンやデコンに対して指摘したように、次第に都市間競争における差異化の手法の一部となっていく。同じくゲーリーによるニューヨークの8 Spruce Street(2006–2011)がその良い例だ。

Fig.5. フランク・ゲーリーによる8 Spruce Street(筆者撮影)

イーストリバーに面して立つこの高層アパートでは、生き物が脈を打つような特徴的な造形が周囲の高層ビル群との差異化の手法として用いられている。「世界で最も称賛されている建築家による西半球で最も高い住宅建築」★7という売り文句からもわかるように、ここでは生き物のような奇抜なデザインと建築家の知名度が同義として語られ、この建物を都市の中で特別なものにする要素として扱われる。建築批評家のMark Lamsterが「ファサードで扮装をした巨大なデベロッパータワー」★8と表現したように、このプロジェクトの背後には、建築家による生き物のような造形と都市における競争と資本の論理との結託が垣間見えるのだ。

ザハ・ハディドも、 “生き物のような建築”と表現される作風の活路を都市に見出した同時代の建築家だろう。特にパートナーであるパトリック・シューマッハによるパラメトリシズム(2008)は、ゼロ年代において最も注目を集めた理論の一つと言える。

パラメトリシズムのラディカルさは、複雑なデザインやシミュレーションを可能にするコンピュテーションを軸としたパラメトリックな手法とアプローチを、「常に差異化の論理が働く複雑で多焦点な都市と建築のフィールド」★9を作り上げる今後の唯一の方法であると言い切った点にある。都市の複雑性とその要因である競争というひっきりなしの差異化のロジックが、生き物のようなデザインが持つ複雑性とそれを可能にするデジタルなアプローチと重ね合わされているのだ。Kartal Masterplan(2006)など、ゼロ年代以降のザハによる都市計画プロジェクトの多くが、地面から隆起するアメーバのような様相を呈しているのは決して偶然ではない。

Fig.6. ザハ・ハディドによるKartal Masterplan(2006)のスタディ案

このように“生き物のような建築”は、ゼロ年代にかけて台頭した複雑なデザインや造形の根拠を、都市における差異化や資本の論理、あるいは都市そのものの複雑性に見出す動きであったと言える。複雑性への興味という点では“森のようなもの”との同時代性も見ることができる。その一方で、両者の大きな違いは、前者が複雑性を表現として実現する論理を都市に求めたのに対し、後者は複雑性を都市と建築、そしてそれらを体験する人々の関係性の中にこそ見出し、その関係性の在り方を建築によって問い直すことを主題とした点にあるだろう。すなわち“森のようなもの”の場合、複雑な表現と複雑な関係性は必ずしも一対一の関係を結ばないのである。

これを象徴するプロジェクトがSANAAによるニュー・ミュージアム(2007)だ。8 Spruce Streetのように、ニューヨークの多くの建築がそれぞれの差異を奇抜なデザインで競い合う中、ニュー・ミュージアムはシンプルな箱がずれながら積層され、そのズレの空間に都市と地続きで多様な体験の可能性を探る。ここでも “森のようなもの”が都市に対して持つ特殊な距離感の一部が見えてくるのである。

Fig.7. 向かいのプリンス通りから見たニュー・ミュージアム(筆者撮影)
Fig.8–9. 都市と地続きで多様な体験をズレの空間に織り込むニュー・ミュージアム(筆者撮影)

都市に対するアンビバレンス:森のようなもの

バイオミミクリーと“生き物のような建築”というゼロ年代の世界建築の二つの潮流を、都市に対する両極ともいえる距離感から読み解いてきた。私はこの両極の中間、すなわち都市に対するアンビバレンスに、“森のようなもの”があるのではないかと考える。都市を解決するべき問題とし、それに自然を対置させるわけでも、都市の論理を表現の根拠として利用するわけでもない。都市とつかず離れずの両義的なスタンスの結果として“森のようなもの”が立ち上がるイメージだ。

そもそも“森のようなもの”が明確なテーマとして言語化されたのが、1995年の伊東豊雄によるエッセイ、「都市の透明な森」である。このエッセイの中で伊東は、人間の「二つの身体性」とその分裂という問題意識を提示する。一つは水や空気などの流動体としての自然を求めるプリミティブな身体性。もう一つは電子機器やメディアなどの目に見えない電子の流れに身を任せるヴァーチャルな身体性である。その上で伊東は、既存の都市や建築空間が自然と剥離し自立しすぎているがゆえに生じる、ヴァーチャリティのみが先行した二つの身体性の分裂を指摘する。そしてこの二つの身体性をいかに空間によって統合するかが、建築に問われている課題であるとした。興味深いのは、ヴァーチャルな身体性という都市における新たなリアリティを拒絶せずに受け入れながらも、同時に都市や建築空間の閉塞感を打開しようとする両義的な姿勢だ。ここに都市的なものに対するアンビバレンスが垣間見える。そして、このような問題に対して伊東がイメージするのが、二つの身体性を統合しうる“森のようなもの”としての新たな建築像であった。

私たちが建築空間に森あるいは林といったイメージを生み出そうと試みたのも[中略]林立する樹木のような空間によって空間の流動性を生み、建築の内と外を連続させることができれば[中略]フィジカルな建築空間とイメージによるヴァーチャルな空間との関係も統合に向かうと考えられるからである。★10

Fig.10. みんなの森ぎふメディアコスモス(2015)、筆者撮影

ここで伊東が示唆した都市に対するアンビバレンス、そして「林立する樹木のような空間の流動性」や「建築の内と外の連続」といった建築的なテーマは、ゼロ年代の日本建築に形を変えながら、広く継承されていく。

SANAA(妹島和世+西沢立衛)の「建築を開く」という主題は、周辺環境を敷地と地続きのコンテクストとして受け入れながら、建築をそのひとつながりの体験の一部として位置付け、再解釈するものだ。「敷地を行為が偶然通り過ぎる所と捉え、建築を様々な行為が通り過ぎる“場”と考えられないだろうか」★11という感覚は、建築と都市、及び様々な周辺の状態を一つの相対化された環境としてフラットに見ながら、建築の根拠を人間の身体に由来する行為に求める。ここでも都市を含めた様々なコンテクストのリアリティを受け入れながら、建築の内と外を連続させることで、行為という人間のプリミティブな身体性を空間と統合する意識が共有されている。

Fig.11. グレイスファームズ(2015)、筆者撮影

空間のデザインに着目すると、伊東の言う「林立する樹木」に代表されるような、不確定な状態をあえて計画するという矛盾した手法が、ゼロ年代の日本建築には広く共有されていただろう。妹島の鬼石多目的ホール(2005)における自由曲線による平面構成などが代表例だが、特にこのテーマに対して都市的な意識を持って取り組んだのは、藤本壮介と平田晃久ではないか。

Primitive Future(2008)★12で説明されるように、藤本の興味は一貫して人が住むための居場所や、人と人の新たな関係性が偶発的に生まれるきっかけを内包する、建築以前の空間的原理の探究にある。藤本にとって、森はそれとよく似た仕組みを持つ存在であった。彼のユニークな視点はそのような原理を同時に都市の乱雑さや不確定性にも見出している点にあるだろう。ゆえに伊達の援護寮(2004)や情緒障害児短期治療施設(2006)は、自然に似た曖昧な構成を持ちながらも、都市的な多様性と意外性に満ちた空間として語られる★13。

Fig.12. 情緒障害児短期治療施設生活棟(2006)平面図

平田晃久による“からまりしろ”も同様に都市的なものにある種の自然を見出す。平田は建築や都市を海藻が張り付く岩場や鳥が巣を作る木などと同等な生命の拠り所として捉え、そのような拠り所が持つ階層構造に着目することで、新しい建築の在り方を探究する★14。藤本と平田の両氏に共通するのは、人間の身体に由来する都市生活のリアリティを肯定する伊東の立場からさらに一歩進み、都市そのものの成り立ちや原理をひとつの自然な状態として受け入れることで、建築の在り方を問い直すきっかけを見出した、という点だ。

Fig.13. “からまりしろ”がもつ階層構造を表したダイアグラム

都市そのものを新しい自然として受け入れること。それは何が人工で、何が自然かという環境の定義そのものが変わることを意味する。このような主題を意識し、建築を「新しい環境」として再解釈するのが石上純也だ。「森を計画するように、自然環境のなかに見られるようなある種の曖昧さと計画性とを同時に実現する」★15ことをテーマとした神奈川工科大学KAIT工房(2008)は、森が持つランダムさがリテラルに再現された建築という意味で、バイオミミクリーに近い視点を持ったプロジェクトである。その一方で、森を機能的に模倣するのではなく、あくまで人間の身体に訴えかけるひとつの状態として参照している点に、石上的な「新しい環境」の真意が見える。それは都市-建築-自然をひとつの相対化された環境として中立的に考えた場合にのみ想像可能な、新しい建築のイメージを指すのである。

Fig.14. 並置されるKAIT工房平面図(左)とマダケの分散図(右)。人工と自然の境界を曖昧にする意図が読み取れる

都市、都市にまつわるリアリティ、あるいはそれらを含めたより大きな環境を21世紀的な“自然”として受け入れつつも、同時に閉塞した物質としての建築や都市の在り方を変えようとする、アンビバレントな態度。藤本、平田、石上にはそうした態度が共通するが、その背後には、高度経済成長とバブル崩壊によって都市の夢と残酷さの両方を目の当たりにしたという、彼らに共通する時代の経験があるのではないか。すなわち、伊東以後の三世代にわたる日本の建築家は、コントロール不能な“自然”としての都市を東京という具体的なイメージとして共有し、ゆえに都市的なものを受け入れながらも同時に問題意識とするスタンスを形成した。このようなアンビバレンスとその根拠としての都市・東京を内に抱えながら、そのエネルギーを新たなる建築の探究に向けた姿勢にこそ、彼/彼女らをゼロ年代の世界建築で輝く日本の星座たらしめた特殊性があるのではないか。■



★1:Gadahno, Pedro. “A Japanese Constellation: Toyo Ito, SANAA, and Beyond”, The Museum of Modern Art, New York, 2016. pp.11–16
★2:伊東豊雄『透層する建築』、青土社(2000)pp.46–54
★3:ibid., pp.339
★4:藤本壮介、「原初的な未来の建築 — Primitive Future」、INAX出版(2008)
★5: 印牧岳彦、「建築学×生物学の200年」、建築雑誌6月号“特集06 建築と生物学の接点-多目的最適化を目指して”,日本建築学会(2020), pp.4–5
★6:Pawlyn, Michael. (2019) 2019. Biomimicry in Architecture. 2nd ed. RIBA Publishing. (Pawlyn 2019, Introduction)
★7:Lamster, Mark. “Eight Spruce Street by Frank Gehry, New York, USA”, The Architectural Review, March 30th 2011, https://www.architectural-review.com/today/eight-spruce-street-by-frank-gehry-new-york-usa
★8: ibid.
★9:Schumacher, Patrik. “Parametricism as Style — Parametricist Manifesto”, 11th Architecture Biennale, Venice, 2008. https://www.patrikschumacher.com/Texts/Parametricism%20as%20Style.htm
★10: 伊東豊雄、「透層する建築」、青土社(2000)pp.342
★11:妹島和世、「建築の場所」『季刊都市I』、都市デザイン研究所(1989)
★12:藤本壮介、「原初的な未来の建築 — Primitive Future」、INAX出版(2008)
★13:藤本壮介、「Space of no Intention」、新建築2004年9月号, pp.103
★14: “東京のような都市を眺めると、それは自然や生命体のようなものとして見えはじめる”いうことばからも明らかなように、現象としての都市を人間の生命活動の自然な現れとして受け入れる姿勢が見える。平田晃久、「建築とは〈からまりしろ〉をつくることである-Tangling」、LIXIL出版(2011)pp.44
★15:石上純也、「建築のあたらしい大きさ」、LIXIL出版(2019)pp.50


図版出典
Fig.1. Gadahno, Pedro. “A Japanese Constellation: Toyo Ito, SANAA, and Beyond”, The Museum of Modern Art, New York, 2016.
Fig.2. ibid. pp.27
Fig.3. Pawlyn, Michael. (2011) 2011. Biomimicry in Architecture. 1st ed. RIBA Publishing.
Fig.4. 筆者撮影
Fig.5. 筆者撮影
Fig.6. Schumacher, Patrik. “Parametricism as Style — Parametricist Manifesto”, 11th Architecture Biennale, Venice, 2008.
https://www.patrikschumacher.com/Texts/Parametricism%20as%20Style.htm
Fig.7. 筆者撮影
Fig.8–9. 筆者撮影
Fig.10. 筆者撮影
Fig.11. 筆者撮影
Fig.12. 藤本壮介建築設計事務所、情緒障害児短期治療施設生活棟(2006)、新建築2006年9月号, pp.180
Fig.13. 平田晃久、「建築とは〈からまりしろ〉をつくることである-Tangling」、LIXIL出版(2011)pp.19
Fig.14. 石上純也、「建築のあたらしい大きさ」、LIXIL出版(2019)pp.56–57

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鮫島卓臣/ Takuomi Samejima
建築討論

イェール大学建築大学院修士3年生(Yale School of Architecture, M.Arch1,23')2019年度フルブライト奨学生(Fulbright Scholar 2019)