ニッポン、ブルータリズムぎらいのブルータリズム建築大国──『ニュー・ブルータリズム』翻訳出版に向けた覚え書き

068|202304|グローバル・アーキテクチュアとしての日本現代建築──いくつかの切断面

江本弘
建築討論
Apr 27, 2023

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「ブルータリズム建築」の世界史と日本

昨今、第二次世界大戦後の現代建築が非常な勢いで調査され、アーカイビングされている。この世界規模の動向のなかで、「ブルータリズム」のラベルがにわかに大きなプレゼンスを持ちはじめた。この言葉からはおそらく、1950年代から70年代までの打ち放しコンクリート建築が思い浮かべられるだろう。そうしておそらく、立地は不問。この一時代の世界建築史を協働作業でとりまとめるためには、これにまさる合言葉はないと思わせる。『SOSブルータリズム』(2018)や『ブルータリズム建築アトラス』(2020)などの洋書の大著を筆頭に、この10年あまりのあいだで、その名を冠した論集や作品集は激増した。

このブルータリズム建築再評価のなかでの、日本の戦後現代建築の立場は興味深い。戦後日本はいま明らかに、「ブルータリズム建築大国」と認識されている。「国立代々木競技場」(丹下健三1964)などは、日本のブルータリズム建築の世界的代表例として、写真集の表紙を飾るまでである[Fig. 1]。こうした流れを受けてか、近年では日本語でも、国内戦後建築を「ブルータリズム」として紹介する書籍や記事があらわれはじめた★1。

Fig.1 ダレン・ブラッドリー『ブルータリズム』(2014) 表紙

レイナー・バナム(バンハム)の主著のひとつ『ニュー・ブルータリズム』(1966)[Fig.2]は、近年盛り上がりをみせる「ブルータリズム建築」研究の、必須文献のひとつである。それは、1950年代のブルータリズム論争の当事者が記した同時代史であり、最古のブルータリズム史書としても、当時の論壇を知る史料としても見過ごせない。しかし、おそらくは300点超をかぞえる図版の版権の問題がひとつのネックとなり、出版後これまで一度も再版されず、稀覯書と化したまま今日に至る。現在私は、その邦訳出版に向けた最終調整を行っている。

Fig.2 レイナー・バナム『ニュー・ブルータリズム』(1966) 表紙

本書『ニュー・ブルータリズム』には、いくつか不思議な点がある。まず挙げられるのは、処女作『第一機械時代の理論とデザイン』(原書1960、邦訳1976)をはじめとして、本邦でも特に翻訳書の多い建築史家・建築批評家バナムの、邦訳ラインナップの奇妙な隙間を形成していることである。なぜかいままで、翻訳本がでていない。

しかしそれよりも重要なのは、本書になぜか、日本建築への参照が多岐にわたることである。前川國男の「晴海高層アパート」(竣工1958、以下「晴海」)をはじめとする、現代建築だけではない。本書でバナムが「ニュー・ブルータリズム」のルーツとみなしたものは、ル・コルビュジエによる「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」(1952、以下「ユニテ」)であり、ミース・ファン・デル・ローエによる「イリノイ工科大学キャンパス」(アラムナイ・ホール、1946)だったが、その傍らで、日本の木造建築、とくに桂離宮の書院群(17世紀)からの影響を、あえて否定する不自然な一節を設けている[fig.3]。

Fig.3 『ニュー・ブルータリズム』(1966)p.45より、桂離宮と日本家屋平面

このバナムの言及は、どう理解すればよいのだろう。そうしてなぜ、よりによって日本建築を取り上げたこの書物が、これまで当の日本で等閑視され続けてきたのだろう。

本稿では、「ニュー・ブルータリズム」と「ブルータリズム」というふたつのことばをめぐる歴史を解きほぐしながら、これらの謎を考える上での手がかりを得たいと思う。

ニュー・ブルータリズム:戦後ジャポニスムの一断面

「ニュー(新しい)」と名乗る「ニュー・ブルータリズム」はじつは、造語の経緯からすれば「ブルータリズム」よりも古い。そしてイギリス中心的である。「ブルータリズム」はそのなかから、打ち放しコンクリートの現代建築を指す、いわばコスモポリタンな語として派生した。その経緯の分水嶺となったのは1963年。バナムが『ニュー・ブルータリズム』を上梓する3年前のことである。

遡れば、「ニュー・ブルータリズム」の最初のマニフェストは、イギリスの建築雑誌『アーキテクチュラル・デザイン』1955年1月号に掲載された、ピーター・スミッソンとアリソン・スミッソン(スミッソン夫妻、以下「スミッソン」)による「ニュー・ブルータリズム」である★2。

しかしこの記事が、「基準としての日本建築」を重視したマニフェストであったことは見落とされがちである。スミッソンの初期代表作、「ハンスタントンの中等学校」は前年の1954年に竣工。鉄骨と煉瓦で即物的に構成されたこの建物について、スミッソンは「ミースと同等に日本建築の存在にも多くを負っている」ことを、このマニフェストのなかで明言した。なおスミッソンは、ここですでに、打ち放しコンクリートのマルセイユのユニテもまた、「ニュー・ブルータリズム」にカテゴライズしている。

このマニフェストでスミッソン曰く、「素材に対する畏怖、建造物と人間のあいだに成立しうる一体感の成就こそが、いわゆるニュー・ブルータリズムの根源」なのであり、「ニュー・ブルータリズム」のもっとも広い定義として押さえておきたい点である。最近の「ブルータリズム建築」作品集にも打ち放しコンクリート以外の建物が時おり顔をのぞかせているのも、この初期の定義の名残りかもしれない。

これは一面において、戦後の英語圏における日本建築ブームの反映であった。1955年にスミッソンが「ニュー・ブルータリズム」のマニフェストを発表した直後には、アーサー・ドレクスラーの『日本の建築』(1955)や吉田鉄郎の『日本の住宅と庭園』(1955;1935年に出版されたドイツ語版『日本の住宅』の初英訳)などの出版物を通じて、日本の伝統建築に関する知識が爆発的に増加。このうち吉田の『日本の住宅と庭園』は、バナムの『ニュー・ブルータリズム』の参考文献のひとつとなった[Fig.4]。

Fig.4 吉田鉄郎『日本の住宅と庭園』(1955) 表紙

イギリスの建築雑誌と日本の現代建築

日本の現代建築と「(ニュー・)ブルータリズム」との連想の基礎を築いたのは、イギリスの『アーキテクチュラル・デザイン』誌だった。同誌の1958年4月号は日本の古建築と現代建築を特集。表紙デザインには日本語があしらわれたが、これは日本におけるル・コルビュジエの影響を語った、「ヴィラ・クゥクゥ」(吉阪隆正1957)の批評記事の一部である。本文では打ち放しコンクリートの作品を中心として、とくに「晴海」が大々的に取り上げられた[Figs.5, 6]。その3年後、同じ『アーキテクチュラル・デザイン』誌の1961 年 2月号で「日本建築の再生」特集を担当したのは、誰あろうスミッソンである。この特集では、日本特集の冒頭まる6頁をかけ、ル・コルビュジエのチャンディーガルの作品群が紹介されている。それらと日本の打ち放しコンクリートの類似性を強調する意図だろう。ただしスミッソンは、いずれの作品のことも「(ニュー・)ブルータリズム」だとは明言していない。

Fig.5(左)『アーキテクチュラル・デザイン』 1958年4月号 表紙/Fig.6(右)同、本文p.139. 晴海高層アパートメント(前川國男1958)

この1960年ごろがおおよそ、イギリスの国内動向として鉄骨・煉瓦建築からはじまり、主にイギリスの動向を指す「ニュー・ブルータリズム」と、国にかかわらず「荒々しい打ち放しコンクリート」を意味する「ブルータリズム」の、ことばの使いわけの分岐点だとみなせそうである。

なお、スミッソンが実際に日本を訪れたのは、『アーキテクチュラル・デザイン』誌の日本特集の直前、東京で世界デザイン会議が開催された1960年のことである。この初来日に合わせて、『国際建築』(1960年7月号)誌上では「ニュー・ブルータリズム」の詳細な紹介がなされることとなった。しかし、その記事のなかで世界デザイン会議のスミッソン講演を評した記者は、その用語の発明が、ル・コルビュジエのユニテ竣工から遅れすぎていると論難した。つまりこの記者は、「ニュー・ブルータリズム」を基本的に、打ち放しコンクリート建築のことだとみなしている。そこには日本の戦後建築も想定されていただろう。

またこの記事は、戦後日本の「ブルータリズムぎらい」の反映でもある。これ以前もこれ以降も、日本では、自国の現代建築の実践がこの名で呼ばれることは、ほとんどなかった。安藤忠雄がほぼ唯一の例外★3なのは、彼がそのころ国外の雑誌を買い漁り、それらが「ブルータリズム建築」に列する現場に立ち会っていたためだろうか。

バナムの日本ぎらい?

スミッソンは「ニュー・ブルータリズム」に明らかに日本の古建築の影響を認めた。日本の現代建築に対しても、それが一般に「ブルータリズム」とみなされる布石を打っていた。

一方、イギリスで『アーキテクチュラル・デザイン』誌と双璧をなした『アーキテクチュラル・レビュー』誌は、「ニュー・ブルータリズム」の典拠としての日本建築の意義には無関心だった。同誌の寄稿陣のひとりであったバナムは、この点を強いて等閑視した人物である。スミッソン夫妻の1954年のマニフェストとはうってかわって、バナムが翌年の『アーキテクチュラル・レビュー』(1955年12月号)誌に寄稿した「ニュー・ブルータリズム」のなかには、長大な記事にもかかわらず日本が全く登場しない。バナムにとって、「ニュー・ブルータリズム」は「イギリス初のネイティブな芸術運動」なのだった。

バナムは「(ニュー・)ブルータリズム」の論争に参画した先鋒だったが、この独自の現状認識は受け入れられず、のちまで尾を引き不興を買う原因となる。1966年『ニュー・ブルータリズム』の出版は、周囲とは相容れないバナムの「(ニュー・)ブルータリズム」観が露呈した瞬間であった。

そこに至るまでのバナムの経歴で目を引くのは、1963年にドイツ語で出版された『クナウアー近代建築事典』への寄稿である。バナムはここで、「ブルータリズム(Brutalismus)」の執筆を担当した[Figs.7,8]。これは共同執筆者となったシュトゥットガルトの建築家ユルゲン・イェディケの働きかけによるものだった。バナムはイェディケの進言に応じ、イギリスやアメリカだけでなく、イタリアやメキシコの作例を(しぶしぶ)紹介した。ちなみにこの記事にもまだ日本の作例は登場しないが、ブルータリズムのイメージの源泉として「アメ車と伊勢神宮」が掲げられているのは興味深い。

Fig.7(左)『クナウアー近代建築事典』(1963) 表紙/Fig.8(右)同p.56、バナム執筆の「ブルータリズム(Brutalismus)」。図版は上から「ハンスタントンの中等学校」(アリソン+ピーター・スミッソン1954)、「エコノミスト・ビルディング」(同1959–64)、「イスティテュート・マルキオンディ」(ヴィットリアーノ・ヴィガーノ1957)

1963年。これが「(ニュー・)ブルータリズム」の歴史化の転換点であり、同時に「ニュー・ブルータリズム」から「ニュー」がとれた決定的瞬間だった。この事典以前にも「新」のつかない「ブルータリズム」が用いられることは(ドイツ語圏に限らず)あったが、とくにドイツ語ではこれ以降、イギリス史中心的な「ニュー・ブルータリズム」に対し、世界史的現象としての「ブルータリズム」という使い分けが意識されるようになる。

ちなみに、同じ『クナウアー近代建築事典』に、日本人執筆者として参加したのは工業デザイン理論家・史家の小池新二である。小池は「日本(Japan)」の執筆担当だった。ここで小池が選択した写真図版には、バナムがのちに『ニュー・ブルータリズム』のなかで、「ブルータリズムの後史に大きな意味をもつ前川・丹下派」と呼ぶこととなる作品が含まれている[Fig.9]。

Fig.9 『クナウアー近代建築事典』(1963)p.141より、小池執筆の「日本(Japan)」。図版は上から「晴海高層アパート」(前川國男1958)、「草月会館」(丹下健三1958)

世界的ブルータリスト、丹下健三

バナムの『クナウアー近代建築事典』への寄稿や『ニュー・ブルータリズム』出版に先だち、日本の現代建築を「ブルータリズム」とカテゴライズする動きはすでにあった。しかしその動向は、バナムの「(ニュー・)ブルータリズム」観と矛盾し、かつバナムを孤立させるだけの大きなちからに後押しされていた。とくに、丹下健三の打ち放しコンクリート建築を「真正のブルータリズム」とみなすか否かについて、この勢力はバナムと決定的に対立した。

オーストラリアの建築家ロビン・ボイドは、1962年に出版した丹下健三初の英語モノグラフのなかで、ル・コルビュジエの打ち放しコンクリート表現にならった日本の現代建築は、「ブルータリズム建築と呼べるし、そう呼ばれてきた」と書いている。しかし、日本の現代建築を形容するためには、「ブルータリズム」という言葉は「実際には適切ではない」のだという。この言及は、バナムの「(ニュー・)ブルータリズム」観に対する疑念をその根にもっている。それが後年はっきり分かるのは、ボイドが『アーキテクチュラル・レビュー』誌1967年7月号に寄稿した、「ニュー・ブルータリズムの悲しき終焉」と題する『ニュー・ブルータリズム』の書評である。ここでボイドは、バナムが前川の「晴海」を取り上げつつ、書内で丹下への言及を隅に追いやったことに異義を唱え、かつ、バナムのイギリス中心史観を論難した。

コートールド研究所★4ではバナムのメンターでもあったニコラウス・ペヴスナーもまた、『ニュー・ブルータリズム』の出版に最も早く応答したひとりである。しかしこの師は、門弟バナムのブルータリズム史観を一笑に付した(『ガーディアン』紙、1966年12月6日付)。ペヴスナーによれば、「ブルータリズム建築とはベトン・ブリュット建築のこと」にほかならず、バナムの『ニュー・ブルータリズム』に掲げられた建物は「その多くが外すべきものだった」。ミースの「イリノイ工科大学」をブルータリズム史に含めることは言語道断であり、そこからの影響をみせる「ハンスタントンの中等学校」もまた、ブルータリズム建築とはみなすべきではない。それらを扱っておいて、丹下を扱っていないのは一体どういうことだ。

そう。バナムはその書物のなかで、「前川・丹下派」を名指しながらも、後者の作品を意図的に排除したのである。前川を取り上げたことすら、「ブルータリズムの後史」としてイギリス国外の現代建築を取り上げざるをえなくなった、次善策だったといえる。

しかしこのバナムの横暴は、1960年代の世界的常識からいってありえないことだった。その他の大方の人間は当時、丹下こそ「ブルータリズム」の代表的建築家だと見なしていたのである。1964年の東京オリンピックの年、スイスの『バウエン+ヴォーネン』誌の11月号がイェディケの編集で「建築のブルータリズム(Brutalismus in der Architektur)」を特集したが、その表紙となったのは丹下の「日南文化センター」(1962)である[Fig.10]。記事のなかでは、イェディケは「国立代々木競技場」(1964)をブルータリズムの最新例とした。

バナムの『ニュー・ブルータリズム』出版と同年には、イギリスの『ペンギン建築事典』のなかに「ブルータリズム」の項が立てられている。ここでの定義によれば、「ブルータリズムはほぼ常にコンクリートを荒々しく露出させて使用(べトン・ブリュット)し、それらの扱いにおいては大きな塊の部材を過剰に強調、それらが情け容赦なく衝突しあう」ものだと説明されている。「ブルータリズム建築大国・日本」の地位はすでに揺らがぬものとなっていたのである。この事典の編集者のひとりこそ、『ニュー・ブルータリズム』に辛辣な評を寄せたバナムの師、ペヴスナーだった。

バナムの『ニュー・ブルータリズム』に重版がなく、近年のブルータリズム建築再考の機運のなかでようやく顧みられるようになったこと。その理由の一端は、出版当初の時点でバナムの歴史観を信じる者がいなかったこと、むしろ誤った歴史観を喧伝する「悪書」とみなされたこと、に帰せるかもしれない。そこには日本のプレゼンスが深くかかわっている。

Fig.10 『バウエン+ヴォーネン』 1964年11月号、表紙。日南文化センター(丹下健三1962)

エピローグ

ちなみにバナムの『ニュー・ブルータリズム』は、もともとイェディケの叢書シリーズの一冊として企画されたものだった。英独両版ともに1966年に出版され、ドイツ語のタイトルは『建築のブルータリズム(Brutalismus in der Architektur)』[fig.11]。実はこれは、先述『バウエン+ヴォーネン』のイェディケの記事題を踏襲したものである。ここには、イェディケの明確な意志によって意図的に「ニュー」がない。その記事のなかでとくに断られているように、「ブルータリズム」とは、イギリスに閉ざされた「ニュー・ブルータリズム」とは異なる、「国際的」な呼称である。

『ニュー・ブルータリズム/建築のブルータリズム』という英独ふたつのタイトルには、表向きの共謀関係の裏に隠された、なおイギリス中心史観に固執するバナムと、「ブルータリズム」の歴史を世界史に開こうとする、イェディケとの葛藤があらわれている。著者バナム本人はその葛藤を引き受け、この二重人格的な書物のなかで、愛国心と国際主義に引き裂かれ、もがき苦しんでいる。

Fig.11 レイナー・バナム『建築のブルータリズム』(1966)表紙。ハーレン・ジードルンク(アトリエ5 1961)

戦後日本の打ち放しコンクリート建築は、同時代的な世界史編纂のなか、日本人主体の不在のなかで、抗えないちからによってブルータリズムの世界史に組み込まれることとなった。一方、その「国際的」なブルータリズム史への日本の組み入れに対して、日本人は感知しなかったか、消極的だったか、あるいは強いて拒否してきたきらいさえある。

ブルータリズムぎらいのブルータリズム建築大国、ニッポン。

国内戦後建築の取り壊しが相次いで決定され、実行に移されている昨今、いずれにせよ現代のわれわれには、見て見ぬふりはできない。菊竹清訓の「都城市民会館」(1966)、黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」(1972)の解体は記憶に新しい。前川國男の「東京海上ビル」(1974)の解体も、去年末にすでに着手された。

戦後建築の歴史学的評価方法の進展と、時代の証言者である当の建築たちが次々と姿を消していく速度との、露骨なアンバランス。ようやく戦後建築が研究対象としての関心を確立させ、鑑賞の対象としても再考されてきた現在であればこそ、その斬首の光景は痛ましい。丹下健三の「旧香川県立体育館」(1964)も、坂倉準三の「羽島市庁舎」(1959)も「小田急百貨店」(1967)も口ごもりながら、なにか最期に、重要なことを言い残しているのではないか。「ブルータリズム建築」のより深い世界史が、緊急に求められている気がしてならない。■

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★1:磯達雄『建築趣味 EXTRA2 BRUTAL JAPAN』(2017)、阿部真・村上香織『日本のブルータリズム建築』(Uhm! Zines 2022)、中島祐介「世界と日本のブルータリズム建築、成り立ちとゆくえ」(the fashion post 2022、https://fashionpost.jp/journal/think-about/202099)など。最近著に磯達雄『日本のブルータリズム建築』(トゥーヴァージンズ2023)がある。
★2:『オクトーバー』136号(2011春号)のブルータリズム特集には、スミッソンの「ニュー・ブルータリズム」や後述するバナムの「ニュー・ブルータリズム」のほか、当時のイギリスの議論がまとめて再掲されている。以下、邦訳は筆者による。
★3: 安藤忠雄『連戦連敗』(東京大学出版会2001)p.11 など。
★4:1932年設立、ロンドン大学を構成する世界屈指の美術史研究機関のひとつ。

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江本弘
建築討論

えもと・ひろし/1984年東京都生まれ。東京大学工学部卒業。同大学院工学系研究科修了。博士(工学)。一級建築士。京都美術工芸大学講師。近代建築史。著書に『歴史の建設──アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』。受賞に第8回東京大学南原繁記念出版賞ほか