フィリップ・デスコラ著『自然と文化を越えて』

西洋文化の彼岸的思索者──人類学の超大陸へ(評者:楊光耀)

楊光耀
建築討論
11 min readJul 31, 2020

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イメージ画像(仏語原著”Par-dela nature at culture”表紙を元に評者作成)

それぞれの世界、それぞれの自然

2020年8月1日、半世紀ぶりの国家の祭典もいよいよ佳境を迎え、各国の選手がそれぞれ輝かしい栄冠を手にしていた。

世界があったはずだが、現在この世界は別の世界であった。この世界では、今まさに猛威を振う《自然》が世界中を席巻している。そして同時に、この世界は現在、《人新世》と呼ばれる、人類のあらゆる活動が地球規模に拡大したことで、かえって人類が地球の地質・生態系《自然》に影響を及ぼす時代に差し掛かっていると言われている。

一方で、《自然》が世界中を席巻し、もう一方で人類が《自然》に影響を及ぼす、という《自然》。その唯一絶対的な《自然》は、長らく西洋社会において人類の《文化》に対置され、《自然》と《文化》と二分されてきた。その二分は、《文化》が《自然》を侵略しようとすると、今度は《自然》が《文化》を飲み込もうとする、現在のこの世界の状況下においても、永劫的に続いているように思われる。

本書の著者である人類学者フィリップ・デスコラ★1は、そのような不変的枠組みに対して、西洋社会の根本的な構造から問い直すことによって、本書の題名の通り《自然》と《文化》の伝統的な二分を乗り越えていくことを企図している。そればかりでなく、デスコラは豊富な文献や現地調査を元に、新たな人類学の地平を切り開こうとしている。その際、人間のみならず、動植物やあらゆる非人間の対象や事物の活動や存在を対象とし、人間が非人間との関係において、遍在する《四つの存在論》──《アニミズム》、《トーテミズム》、《アナロジズム》、《ナチュラリズム》──の視点から、それぞれの存在論的世界の中で、それぞれの自然のあり方を提示することで、乗り越えようとしする。それはさらに、人間がどのように世界を捉えて、どのように存在や対象を図式化していくか、 文化と自然を区別することなく、世界について思考することはできるのだろうか、といった人類学のより大きな命題へと統合されていく。

存在の図式化の諸相

それでは具体的に《四つの存在論》について見ていきたい。まず、本書では《四つの存在論》を提示する際に、人間と非人間が、内面性において、肉体性において、それぞれ類似しているか(+)、差異が見られるか(-)を分類の基準としている★2。すると、《アニミズム》は内面性(+)・肉体性(-)、《トーテミズム》は内面性(+)・肉体性(+)、《ナチュラリズム》は内面性(-)肉体性(+)、《アナロジズム》は内面性(-)・肉体性(-)となる。

《アニミズム》的存在論とは、人間が非人間にも人間的に類似する内面性を付与する一方で、身体的な区別(肉体性の差異)が両者の間に存在する場合である。例えば、別々の肉体性を持つにも関わらず、動物などの非人間が人間の内面性を帯びることや、逆に人間がそれらの内面性へ憑依する「シャーマン」などが当てはまる。この時、人間が単に動物の内面性の模倣するのではなく、存在者自身の内面性さえもが対象に応じて形態変化(メタモルフォーゼ)していくことに意味がある★3。

《トーテミズム》的存在論とは、人間と非人間の間の肉体性と内面性の連続(類似)を強調する場合である。例えば、ある部族がある動植物との関係を持ち、その部族の祖先の神話的起源を説明したり(東洋の「家紋」も当てはまるだろう)、部族にとって様々な利害関係をもたらしたり、動植物の分類的関係が、そのまま部族内での関係と繋がるものであったりする場合である。この時。師のレヴィ=ストロースとデスコラのトーテミズムに対する捉え方が異なる。レヴィ=ストロースはトーテミズムを、部族が自らの社会的な差異(異なる婚姻関係など)を表象するために、自然的な差異(動植物の対立関係など)を利用する分類学的装置として捉えたが、デスコラは、トーテミズムとはむしろ、部族や祖先と動植物の間の共通(類似)の内面性・肉体性を有するとして連続的に捉えた★4。

《ナチュラリズム》的存在論とは、人間と非人間を区別(差異化)するものが、反省的意識や主体性、語る能力、シンボルを扱う能力といった、人間の言語活動=ロゴス(内面性)による場合である。そして、冒頭で述べた《自然》と《文化》の二分に基づく西洋近代の《自然》概念である★5。そこから、西洋近代の自然科学(化学や物理学など)、哲学(認識論など)が派出していった。デスコラは、この《ナチュラリズム》を西洋社会の根本的な構造として捉え、今までの「文化」人類学があまりにも《ナチュラリズム》的に寄り過ぎたと批判する。そこから本書では、その他の三つの存在論の世界に焦点を当てている。

《アナロジズム》的存在論とは、人間と非人間の間で内面性も肉体性も類似性が見いだせない時に、その中で人間が類推関係によって構造化された非人間との非連続的(差異的)な関係性を想定する場合である。類推は外部から与えられたものであり、思考による操作を通じてもともと分散していたものを結び合わせること、差異を宙吊りにすることで対象同士の関係において新たな差異を作り出すことを行う効果があると捉えられている★6。 その際に、類推は秩序の見いだせない世界の中から階層構造を作り出し、あらゆる関係性の希薄な事象同士を結び付けることが可能だと捉えられている。かつて、ルネサンスの時に最も幅を利かせていた存在論であるとされ、錬金術や占星術といった場面に顕れていたが、現在ではほとんど息を潜めている存在論である。しかし、評者が考えるには、アナロジズムが最も本書の中では個人的に魅力的に感じたのと、実は《四つの存在論》の中では、最も建築的思考に近いのではないか。

アナロジズムの逸楽

さて、本書の豊富な内容は尽きないが、中でも特に建築的に興味深い箇所について二点紹介したい。

まず、第二章「野生と家庭」では、《自然》/《文化》の二分法が、「野生」と「家庭(飼いならされたもの)」の二分法として捉えられ、狩猟と牧畜や農耕との対比の中で批判されていく。その際に、自然の風景の崇高さの起源についても書かれており、ローマ的風景(狩猟的)→ヘルシニアの森(逃避的)→ロマン主義の自然(野生が家庭化される)、へと自然が飼いならされるにつれて野生の崇高さも発明されてくる。そこにランドスケープの起源や計画されたものの美を見出すことができるだろう。

そして、本書では存在論や事例の説明に、デスコラが好んで家や建築の喩えをアナロジズム的に持ち出してきている★7。中には面白い喩えもあるため、ぜひ本書を手に取って見ていただきたい。

デスコラはナチュラリズムを批判しつつも、自身が本書の中では、様々な文体や表現によって豊富な調査事例や文献を書き連ねている。中でも、アナロジズム的に書いている部分は、そのつなぎ合わせをかなり楽しんでいるような文体に思われる。そもそも、アニミズムやトーテミズムは先験的な性質を持つために、それをそのまま説明する場合には、ナチュラリズムの言葉で書かざる得ないが、もし、アナロジズム的な飛躍が許されるのであれば、より現地の生々しい経験を反映させることができるからだろう。

建築の自然、自然の建築

そして最後に、評者が先ほど本書の中でも《アナロジズム》が、特に建築的思考が非常に近いと考えた理由と、本書の建築的な読解の一つの方向性を記す。

まず、理由としては、建築の形態や空間は、本来は言語と切り離された存在であるが、設計する際に、形態や空間の考え方を他人と共有するためには、何かしらの言語に置き換える必要がある。特に建築のイメージについては、多面的であるが故に、言語化しても多義的になり得るため、共有のしやすさのためには、かなり良く一般的に用いられている言語に置き換える必要がある。一方で、建築を言語に喩えて思考・説明することや、建築設計のプロセスを何かに置き換えることは、非常に複雑な建築を体系的に言語化していくことでもある。その際に、言語体系が別に作られる訳であるが、その言語体系と元の建築の形態や空間の構造が、非連続的に連続していくために、先述した《アナロジズム》的な関係性のネットワークに近づくからである。それが、言語の構築が、アナロジカルに、建築の構築に近づいていく理由であると考える。

ではその際に、一部の建築界隈で見られる、断片的な概念や知識の単なる言説ゲームや一方的な我田引水は、参照元を消費して矮小化している点で批判されるだけでなく、それに伴って《アナロジズム》的に構築された建築の形態や空間の方も、消費的で矮小化された浅薄なものになってしまう点で批判されるだろう。デスコラは《アナロジズム》には階層構造が見られると書いていたが、安易な《アナロジズム》的な建築は階層構造が弱く、建築の持つ豊穣さを失いかねない。極端に思想や概念が先行し過ぎた建築や、極度に「~らしい」建築も同様の陥穽に陥ることになるだろう。

本書は、多くの文献や事例調査が、それぞれの思考の形式や対象の多様さをもって、《四つの存在論》の提示する射程の深遠さを如実に示している。また同時に、本書の提示する分類の明晰さは、本書を読む私たち各々の存在の多様さをも捉えている。本書へ私たちがどのように事物の思考を投影し、本書から私たちの存在にどのような変容がもたらされるのか。

長らく、建築と思想は相互参照を行ってきた。そして、それぞれの領域で複雑で肥沃な領土を作り出してきた。だが今日では、日常的に切り取られ、継ぎ接ぎされ、各地に散逸してしまった。そして本書は、現状大変困難なこの世界で、それらの断片をかき集めて再び一つの人類学の超大陸へと統合していく、大聖堂を建設するような偉業であると感じるのである。

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★1:フィリップ・デスコラ(Philippe Descola、1949年−)はフランスの人類学者。人類学の泰斗、レヴィ=ストロースに師事し、1970年以降南米エクアドルの先住民アチュア―ル族の元でフィールドワークを行う。2000 年からコレージュ・ド・フランスにおける「自然の人類学」講座の教授に就任し、ブリュノ・ラトゥール、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ、マリリン・ストラザーンらと共に、人類学における「存在論的転回」の一翼を担う。
★2:第5章 自己との関係/他者との関係
★3:第6章 アニミズム再考, P.197~
★4:第7章 存在論としてのトーテミズム, P.229~
★5:第8章 ナチュラリズムにとって確かなこと, P.243~
★6:第9章 アナロジズムの眩暈, P.281~
★7:第4章 実践の図式(P.147)など。ここでは分類的概念の「原型」を説明するのに、「家族駅類似性」を用いて、以下のように、家屋の概念の喩えを持ち出している。「(…)例えば、家屋の概念は、種差的特性(屋根、壁、扉、窓など)のリストを起点にして作りあげられるものではない。もしそうであるなら、私たちが関わっている対象がまさに家屋であることを確認するためには、これらの種差的特性が現に存在することを実証しなければならないだろう。そうすると、壁のない建築物や、屋根が崩壊してしまった廃墟を、家屋として同定することはほとんどできないということになるだろう。もし私たちが、雪でできたイグルーや、洞穴式住居や、ユルトなどを、家屋と形容することに躊躇しないとすれば、それはつまり、私たちが、ぼんやりとした言葉にならない諸属性の総体との合致という光に照らして、それらのものを判断しているということなのである(…)」。
また同時に、建築の部位も動物の名前で呼ばれることが多い。蟇股、木鼻、海老虹梁、犬走り、キャットウォークなど。

謝辞:最後に本書は評者の企画する建築と人文の合同読書会で取り上げており、共同主催の方、参加者の方々には普段から貴重な指摘や議論をいただき、感謝の意を表する。

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書誌
著者:フィリップ・デスコラ
訳者:小林徹
書名:自然と文化を越えて
出版社:水声社
出版年月:2020年1月

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楊光耀
建築討論

やん・こうよう/1993年中国西安出身、1995年より東京在住。2018年東京大学工学部建築学科卒業、2020年東京大学工学系研究科建築学専攻修士課程修了。専門は、建築理論、都市計画。現在、建築設計事務所勤務。2018年-2020年多摩市ニュータウン再生推進会議市民委員、2020年-多摩市都市計画審議会市民委員。