別種の見方で社会を明らかにする可能性(評者:藤田直哉)

藤田直哉
Aug 6 · 18 min read

アクターネットワーク理論(ANT)なるものが流行している。ANTは、ラトゥール、ミシェル・カロンらが展開した、社会学の方法論である。「つながり」を重視する理論なので、社会学のみならず、建築や地域づくり、美術など、広範な領域で参照されている。

ブリュノ・ラトゥール著『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』

本書『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』は、ラトゥール自身がアクターネットワーク理論について丁寧に説明した入門書である。評者を含め、ANTを漠然としか知らなかった読者にとっては、恰好の入門書になっている。

内容は二つの部に分かれている。第一部では、既存の社会学と、ANTを対比させながら、ANTの性質と意義を説明する。第二部は、具体的な「連関」の辿り方についてである。入門書としての本書の性格を尊重しながら、この書評では第一部に注目して紹介していく。なお、評者は社会学者ではないので、専門的な部分には踏み込めない。この書評も、誤解しているところが多々あると思う。あくまで、ANTという方法論が現在流行しているのは何故なのか、そのポテンシャルの核心部分はどこなのかを感じ取りたい一読者として、この評を書いている。

ANTの核心部分は、単なる社会学の方法論というよりは、世界認識の方法の刷新である。「連関の社会学」であるANTは、社会を理解する「インフラ言語」を自任しており、別種の世界の見方に誘う。一言で言えば、アクターが何かアクションを起こし、それが影響を及ぼし……という「連関」の動的なネットワークとして、社会を見る見方である。

この見方は、ラトゥールが「社会的なものの社会学」と呼ぶ、これまでの社会学の考え方とは大きく異なっている。「社会的なものの社会学」は、現象の背景に「社会的なもの」が存在すると考える。たとえば、ある振る舞いを行う人々を観た時に「中産階級」などの概念を説明に使うケースが相当する。しかしそれは、対象を研究して出てきたものではなく、既存のフレームを単に事象に当てはめる手抜きであり、実態は異なっているものだとラトゥールは考えているようだ。

「社会的なものの社会学」の立場を揶揄する際に頻繁に出てくる喩えは「エーテル」である。19世紀以前、宇宙はエーテルで満たされていると物理学者たちは考えていた。いま、エーテルが満たしていると考える物理学者はほとんどいない。同じように、人間が多様に行っている現象の「背景」に、「社会的なもの」を見出し、説明する社会学は時代遅れであると批判しているようである。ANTはむしろ相対性理論に近いと、ラトゥールは言う。

私見によると、「社会的なものの社会学」と「連関の社会学」の違いは主に三つ挙げられる。一つは、既存の「フレーム」を用いて人々や現象を理解するのではなく、具体的な現象それ自体を見つめようとする態度。二つ目は、批判するのではなく、それがどのように「組み合わ」されているのかを解き明かそうとする姿勢。三つめは、「モノ」の重要性を高く評価する思考。「社会的なものの社会学」と比較するならば、そのような違いがANTにはある。世界観が違う、とすら思える。


まずはフレームについて説明する。ラトゥールによると、「社会的なものの社会学」は、安易に「社会」「権力」「構造」「コンテクスト」「資本主義」「帝国」「規範」「個人主義」などの概念を使いすぎる傾向がある。これらの概念が手っ取り早い説明を与えてくれるから、社会学ではそれを多く使ってきた。しかし、それはあらかじめあるフレームに実態や現象を当てはめてしまうだけで、対象を真に明らかにしてこなかったのではないか、とラトゥールは考えている。そのような言葉でわかった気になれるほど社会は単純ではない。具体的には「組織研究、情報論、マーケティング、科学技術論、経営学」などの研究を実行しようとすると、それではうまくいかないことが多いらしいのだ。

既にある概念や答えに当てはめて事象を理解する代わりに、ANTは科学的で客観的であろうとする。そのために、「つながり」を丹念にたどるアプローチを彼らは採る。たとえば「社会的なものの社会学」では「資本主義」という言葉を使うが、この言葉を使うことで「資本主義」は漠然と抽象的に実在している、と人々は考えやすくなる。それに対し、ANTがやることは、ウォール街のトレーディングルームで実際に何が起きているのかの調査である。この小さなローカルで起こっていることが、コンピュータやその他さまざまな装置を通じて、他の国のショッピングモールや各家庭と繋がっている。実際にそれを明らかにするとなると途方もない調査のコストと計算資源が必要であり、眩暈がするが、原理的には不可能ではない。資本主義という抽象的なものとして捉えるのではなく、具体的・現実的に、資本主義はどのようにして動いてるのかを「つながり」をたどることで記述しようとする。全体像の「絵」ではなく、このようなミクロな記述を積み重ねて進むことがANTの特徴である。

「ネットワーク」とは、電線やケーブルや水道管のことではない。アクションを行い、それが影響を与えていく一連のつながりのことである。静的であるよりは動的であり、行動がどのようにつながっているのかをたどることこそが、ANTの行おうとしようとしていることである。

この作業を論じる際、ラトゥールは、アリと海岸線のメタファーを用いる。「社会的なものの社会学」は、パノラマを提供してくれた。しかし、ANTはアリのように、土の中に細い道を作っていくだけである。だが、ゆっくりと歩くことで、海岸線の細かい地形を記述していくように、より解像度の高い現象の理解が得られる。ANTとは、より高解像度かつ正確に「社会」を記述する試みだと言っても良いだろう。

これはラトゥール自身が言う通り、「つながり」を追跡する手法が増えたことに触発された社会学である。


次に「批判」についてであるが、「批判社会学」、特にブルデューをANTは仮想敵にしている。その理由は、フレームを用いることで現象の理解の解像度が落ちることが、その一つの理由ではある。

もう一つの理由は、「隠れた社会的動因」を勝手に見つけて研究対象に押し付けることだ。ラトゥールが「社会的なものの社会学」のより極端なケースである批判社会学を論難する際に頻繁に出てくるのは、論述している対象者たちが「意識していない」真の背景を社会学者が記述し、対象者たちが怒りの声を上げるとそれこそ対象者たちが真の原因を分かっていない証拠だと見做す、という態度への疑念である。

初期の社会学の発展に寄与したデュルケムの『自殺論』などを読むと、実にエレガントである。カトリックの国とプロテスタントの国とで、自殺率が違う、というのを統計をもとに明らかにし、宗教の性質の違いが自殺という個人の内面的と思われる出来事に影響していることを論じたこの本は、確かに個人の認識の背景にある自覚せざる「社会的なもの」を描き出していた。

このような「隠れた社会的動因」を見つけて、押し付ける態度をやめる、ということが、ANTの特徴だ。そうしなければいけない理由のひとつは、社会学者よりも、調査対象者の方がより知識があり、より理解が高度な事象が非常に多くなったことにあると考えられる。たとえばIBMを研究する、CEOを研究する、という場合。社会学者が知りうることはとても少ないのではないか。そして、実際に行われていることの把握も困難である。だから、「隠れた社会的動因」を、既存のパッケージから選んで当てはめるような社会学者の営みは慎み、「アクター」(対象者)自身の語りを尊重する必要が出てくるのだ。

「社会的なものの社会学」、特に批判社会学がこのような態度を採ってしまう理由の一端を、ラトゥールは一九世紀中葉に社会学者が「社会工学」に組したからだったと考えている。社会学者は多く「解放のプログラム」の使命を担い、啓蒙の役割を担ってきた。だから、「概念」を作り出し、それによってグループや世界認識を作り出す仕事をも行ってきた。人々に自覚していない「真の原因」に気づかせ、世の中を変えていく役割を担っていたのだ。その役割それ自体をラトゥールは批判しておらず、それを安易に援用する「即席社会学」よりも、自分たちのような科学的・客観的なアプローチの方がその使命をより全うできると主張している。

ANTは、「批判」ではなく、「組み合わせ」ることを重視する。批判社会学の人たちが言うほど、その対象は確固として存在しているわけではないと考える。階層なり民族なり国民なりの「グループ」は、自明のものとして堅固に存在しているのではなく、「今、祭りを開かなかったり、今日、新聞を印刷しなかったりすれば、グループの形成を維持することはまったくできない」(p73)ものであり、常に「結び付け」を遂行することでのみ継続される。これは、日常における我々の経験に合うように感じられる。たとえばプロジェクトを実行するときに、チームの「結束感」「一体化」を作るためにどのような仕組みや雰囲気作りが必要かを考えてみればよい(人々がバラバラにならないためには、給料を支払う仕組み、オフィス、机、法律など、様々なものが必要だ)。何かが「社会的に構築」されているのだとすると、具体的に何がどのように結び付け組み立てられているのかを見ようとするのが、ANTである。

たとえば「日本人」という概念がそうだ。私たちはそれを日常的に使う。しかし、これは誰かがいつか作り出した概念である。「日本人」とは何かということは、具体的な国籍に関する法律で明確に定義されており、入管管理局などで厳密に運用されている。法律は作った人がいて、運用する人がいる。役所などで膨大な書類が作られ、パスポートの申請その他で手続きがなされる。国民意識を作り出すための祭典や儀式が行われる。「日本人は~」という語りそのものが、私たちが「日本人」であるという意識を作り出す。新聞が国民意識を醸成し、宗教的な儀式が情緒的な一体感を生み出していく。

「日本人」もしくは「ナショナリズム」は、構築されたフィクションである、と言うのは容易い。それは「社会構築主義」の立場である。ANTの場合であれば、それを認めた上で、具体的にどのようにして構築され、どのような仕組みで維持されているのかを細かく辿り、記述していこうとする。フィクションであると暴露し、「真実」に目覚めさせるという態度をANTは採らず、対象自身の語りを尊重しようとする。


ラトゥールたちがANTの考え方にたどり着いたのは、科学社会学の仕事を通してである。そこで「科学的事実」もまた社会的に構築されていると主張する社会構築主義の立場と袂を分かつことになった。ちょっとややこしいのだけれど「モノ」の考え方の意義を考えるためには、この「社会構築主義」との対決が重要だと思われるので、少し説明する。

この場合の「構築construction」とは「作り上げられた偽物」「それは真実ではない」を意味する用語である(「建築」と同じ意味なので、慣れていない方はぎょっとすると思う)。これは、文化や宗教の場合はある程度妥当しているように見えた。あなたの信じているそれは虚偽意識ですよ、美や文化は利害関係を誤魔化すまやかしですよ、「日本は神の国」だなどというのは詩で酔わせて国民を戦場に行かせるための方便ですよ……という類の論法を想定すればよい。しかし、科学の場合はその「社会構築主義」の立場は、難破した。社会学者よりもより高度で複雑なものを扱っているので、「無知な大衆は騙されているので目覚めさせてやろう」的なアプローチが奏功しなかったのだ。これがANTの誕生のきっかけである。

「科学」に対して「社会構築主義」という「社会的なものの社会学」的手法が通用しないのであれば、宗教その他にも、通用していなかったのではないか? そのような反省がラトゥールにある。

そして、科学的事実を生み出す実験室を研究することで、「生成」「組み上げ」「つながり」を重視する新しい社会学の考え方に至る。科学的事実は、社会構築主義の極端な主張が言うように「でっちあげ」ではなく、様々なものを組み合わせ、研究対象の物質性の抵抗にも遭い、試行錯誤の中で「組み上げ」られていくものであった。

論文になり、うまくいけば評価されダメなら失敗し、そして世の中に広がり、ある論文は大きな影響力を持ち、商品や社会制度に導入され、世の中の景色を大きく変えていく。小さなローカルの研究室が、そのような「つながり」を持っていくことになる。ラトゥールが長年勤めていたのはパリ国立高等鉱業学校であり、同僚たちの影響も大きかったとラトゥールは述べている。

その後、有名な「モノ」の概念に至る。これも実験室での経験から来ている部分が大であろう。社会を組み立てる「つながり」のアクターには、「モノ」も入るというのがANTのユニークなところである。社会学はなぜ「モノ」を取り込んでこなかったのかとラトゥールは驚いている。社会構築主義では説明しきれない「実在」に向き合い、しかも、その「実在」が「単なるモノ一般」というよりは、複雑で繊細な表情をしていることにラトゥールは気が付いた。様々な用途のために作られた「モノ」たちが、無数の役割を果たしていることにラトゥールは気が付いた。

言われてみれば当たり前の話だが、「社会的なつながり」はかなり「モノ」に中継されれいる。コンピューターや電話だけではないし、SNSのことだけでもない。書類、記録、建物、道路などなど、様々な「モノ」が媒介することで、社会は成り立っている。会社の建物や設備がなくて、ある会社という社会的単位は成立するだろうか。そこで役割を担って分業し働き、上下関係や命令系統があり、賃金が発生しという状態を保っているのは、建物や、書類やコンピュータや、事務職の人々の日々の努力である。

「構築」の語を、「社会構築主義」における「それは真実ではない」「実在ではない」の意味から取り返し、物質性のあるものを作り上げていく、という意味に変える作業を行う際、ラトゥールは建築の現場に言及する。「構築の現場を訪れることの大きな利点は、その現場が、人間と非人間の結びつきを直接目にするうえで理想的な地点であることにある」(p166)と、「科学的事実」が組み立てられていく実験室を念頭に置きながら、ラトゥールは建設のメタファーを用いる。自分の理論がよく分かるのは「構築のメタファーの出所である建設現場であり、つまりは建築家やコンクリート業者、都市計画担当者、不動産仲介人、施主によって作られる建物である」(p166)。このことで言いたいのは、建物という「モノ」それ自体が「アクター」として社会的なアクションの連鎖の中にある(建築家が設計図を書く、大工さんがレンガを積む、誰かが何十年後かに建物を使う)ことと、それが実に複雑な「社会的な連関」の結節点であるということだ(アクターとは、アクションのネットワークの結節点、ノードのことであるとラトゥールは述べている)。

「構築」されたものは、「でっちあげ」でも「フィクション」でもなく、物質性を有していて、人々に影響を与え、そしてメンテナンスや運営に労力がかかるのだと、ラトゥールは示唆している。

このような「モノ」それ自体もアクターになるネットワーク──アクションが次々と伝わっていく複雑な網の目──として、この社会を捉えようとするのが、ANTの世界観であり、方法論である。フレームを使った説明を禁欲し、実証的にたどれるものだけをたどっていき、記述し、このあまりにも複雑な現代社会に迫ろうとする、それがANTである。


さて、以上、『社会的なものを組み直す』でANTがどのようなものとして描かれているのかを、多少言葉を噛み砕いたりしながら紹介してきた。評者の理解が及んでいない部分が多々あるので、不正確であったり、事例が不適切である場合もあると思う。その点はお詫びする。

最後に、ANTの世界像に魅了されつつ、疑問も感じざるを得ない一評論家として、ANTへの評価を考えてみたい。

これを読んで、「科学的」で「客観的」でよりミクロで精密な社会科学が生まれるかもしれない、という期待は確かに高まる。社会や世の中を理解し、何かを行うために用いるための地図としては、批判社会学の言う「帝国主義」「文化」などの大きな概念よりも有用だろう。実際に人々が行っている営みに近いのはこちらではないか、という感覚も覚える。その点では、ラトゥールに説得される部分もある。

一方で、ANTは新自由主義的だ、という批判にも妥当なものを感じる。「科学的」「客観的」な態度で、何かを生成するために試行錯誤し、何かを組み合わせていくというのは、新自由主義において推奨されている振る舞いに見える。批判社会学や従来の社会学への評価も厳しすぎるのではないか、という意見もあるだろうと思う。

しかし、ぼくにはこの方法論が腑に落ちる部分が確かにある。「地域アート」や地方芸術祭で起こっていることが何なのかを記述し批評する方法論を探し求めていたぼくにとって、この方法論は実に魅力的である。そこで起こる複雑なコミュニケーションや変容を理解するためには、全参加者の脳内をスキャンしリアルタイムで記録し、起こっているコミュニケーションや変化を全て記録すれば良いのではと発言したこともある。現実的にそれは無理なのだが、ANTはそれを可能な手段で実行しようとしているように思える。

「つながり」が可視化され、連関を追跡するための痕跡も現在では増えてきた。数多くの証言と痕跡と、それを追跡する研究者が増えることで、そこで起こっている複雑な事柄をより精緻に記述し利用可能なものにしたいという夢には、同意する部分がある。この「インフラ言語」の立場から社会や世界を見ると、より多くのことが明晰に理解しやすいことも確かだ。この世界観こそが、アクターネットワーク理論の最大の魅力だと感じる。

ひょっとすると、そこにこそ罠があるのかもしれない。科学的でニュートラルで、メタ的な言語で人間の社会を理解してしまえるという態度自体が、新自由主義とコンピュータの時代の産物かもしれない、とも思う。しかし、新自由主義だから駄目だ、というありがちな反応も、有効なのかどうか疑問ではある。ラトゥールが頻繁に引用するボルタンスキーとシアロペの『資本主義の新しい精神』で述べられている通り、新自由主義の時代には「批判」は力を失ってしまう。であれば、その現状を認識し、まずは、実際に社会はどう動いているのかから調べ直そうとするのは、戦略として理に適っているのかもしれない。「批判」の力を取り戻せるかどうかは、その後の話なのだろう。

文学や映画、美術などを研究・評論する者として、ANTに期待したい部分もある。ANTは確かに新自由主義の精神を追認し、その態度から生まれたように見える。しかし、個々のアクターそれ自身を最大限に尊重し、微分積分的に事象に迫るアプローチは個々人にとってより細かくニーズに合い尊厳を尊重した社会、政策などにいずれたどり着くかもしれないという夢を見させてくれる。それは個々の作家の内的な思想と情念の複雑さをそのままトレースしようとする文学研究の態度や、ありのままの人間の複雑さを尊重しようとするドキュメンタリー映画などの営みと、共通の部分を持っている。ANTはそれらが単に個々の断片的な事例に留まらず、ネットワークとして繋がりあい、全体像に近い何かを描けるようになる未来を夢見させてくれる。人類がそちらの方向、より細かく丁寧に個々を扱うアプローチへ進む可能性の兆候としてであれば、新自由主義的であることの危険は承知の上で、ANTに期待を賭けてみてもいいのかもしれない。社会政策や人間理解の方法がより繊細かつ正確になれば、生きている個々の人間の多様性や複雑さも、丁寧に扱われるだろうから。その方向に社会を進めていく可能性の部分は明らかにANTにある。アクター自身の語りを尊重しようとし、その複雑さ、矛盾、その場しのぎなどを肯定し、存在論に迫ろうとする箇所が、そうである。このような態度それ自体が、人々にとって当たり前になり、社会政策などにも援用されていくようになった、より繊細で丁寧な未来をぼくは想像する。そっちの道に進むことは、悪いことではない。

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書誌
著者:ブリュノ・ラトゥール
訳者:伊藤嘉高
書名:社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門
出版社:法政大学出版局
出版年月:2019年1月

建築討論

建築をめぐる幅広い批評的議論のプラットフォームを提供する日本建築学会のウェブマガジンです。

藤田直哉

Written by

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など

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