ブルネレスキ的建築家について

連載:ブルネレスキ的建築家教育を考える──ボローニャ大学での設計教育と職能形成(その1)

木村智
建築討論
29 min readFeb 27, 2023

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連載序論
毎年建築学科に入ってくる新入生の多くは建築家を目指しているが、設計演習の課題を1つずつ終えるにつれて、そうした学生は減っていく。大学の講義で勉強したり、設計事務所でインターンなどをしたりして、入学前に抱いていた華やかな建築家像と実際が異なり、それが数限られた人だけに許された特権であることが、だんだんわかってくる。この記事では、建築家のタイプに着目しながら、今後目指すべき建築家像としての一つの可能性を述べたい。デザイナーとしてではなく、大工のような泥臭い建築分野についても知る必要があるのだ。

ルネサンス期に誕生した建築家には大きく2つのタイプに分類できる。1つ目はL.B.アルベルティ(1407–1472)で、建物のファサードを主に設計して、構造や施工よりも幾何学的な図形として、建築を捉えていた。一方、F.ブルネレスキ(1377–1446)は意匠設計だけを行う単なる建築家ではなく、施工者として位置付けられる。中世の建築家は、意匠だけではなく構造や施工技術についても実践的経験値があり、職能として確立はしていないまでもブルネレスキ的建築家が、潜在的に存在しているといえる。しかし、20世紀初頭を機に分業化が進み、意匠設計と構造設計、さらに施工のそれぞれの関係性が希薄になっている。

現在ではデザインビルドという請負制度によって、組織で建築を全一的に捉える方法があるが、 イタリアを代表するエンジニア・アーキテクトのP.L.ネルヴィ(1891–1979)はそれを限りなく1人で行っていた点において、特別な人物であったと言えよう。本記事では、施工側から意匠設計までを全一的に捉えていたネルヴィをブルネレスキ的建築家と位置付ける。その職能を生み出した経緯を、このエンジニアが受けた現ボローニャ大学での建築教育、職能形成期における建築の実践、そして、ネルヴィが行った授業を参照し、今後の大学教育における建築家教育について考察を行いたい。

そのため、全部で3回あるこの連載では、20世紀のイタリアでネルヴィが誕生した過程を考察するために3つの話題を用意している。まず第1章では、ネルヴィに理論の限界を考えるきっかけを与えたボローニャ大学でのS.カネヴァッジ(1852–1918)のリソルジメント橋についての授業を示す。第2章では、ネルヴィが大学を卒業した後に実務経験を得ることになるA.ムッジャ(1861–1936)の建設会社の実践と、ムッジャの授業内容について捉える。そして、第3章では、ネルヴィがローマ大学で教鞭を取っていた頃の授業内容に着目する。最後に結章ではイタリアの教育内容がネルヴィのエンジニア・アーキテクトという職能形成にどのように関連しているのか、また、そうした職能の意義について考察を行う。

第1章_ローマのリソルジメント橋における理論の限界

ボローニャ大学でネルヴィが受けた建築教育は、カネヴァッジとムッジャの授業内容に集約される。今回はカネヴァッジの授業で取り扱われたローマのリソルジメント橋の話を紹介するが、その前にボローニャを含めたイタリアでの建築教育の起源について概観する。

最古の総合大学とされるボローニャ大学は1088年に創設されたが、建築教育に関する改革が本格的に始まったのは1859年のカサーティ法(Leggi Casati)の成立からである ※ 1 。その法律はイタリアの各県庁所在地に王立の応用学校の設置を定めるものであった。1861年にイタリア統一が実現した後でカサーティ法が施行され、建築教育の改革がドイツ、スイス、フランスに倣ってイタリアでも行われた ※ 2 。その影響が最初期に現れたのはミラノとトリノで、専門的な教育を行う学校の設立などの取り組みが、他の都市より先行して実施された。

まず、ミラノでは高等技術学校(Istituto tecnico)が設立された。これはドイツの工科大学(ポリテクニコ)に該当し、土木技師や建築技師の養成に必要となる多様な技術教育を備えることを目指している学校であった。一方のトリノ技師養成学校(Scuola di applicazione)は、橋と道路の国立学校(Ecole nationale des ponts et chaussées)に該当する。

1–1 ボローニャ技師養成学校の設立と特徴

ボローニャ大学の工学部に該当する王立ボローニャ技師養成学校(Regia Scuola di Applicazione perIngegneri e Architetti di Bologna)の成り立ちを確認する。1862年に技師養成学校の前身となる建築技師と建築家のための実践コース(Corso pratico per gli ingegneri edili e architetti)が設立される。1874年には土木技師と建築技師のための専門学校(Scuola di Applicazione per gli ingegneri e Architetti)として整備され、1876年には国が開校を認めたことを示す政令(decreto)が出された ※ 3 。開校と共にカリキュラムが見直され、ネルヴィが学んだボローニャ技師養成学校は、名称から判断すればトリノ技師養成学校に近い学校形式であると思われる ※ 4 。ネルヴィが入学した1908年当時の講義概要は1876年の概要を反映したもので、最初の2年間で物理、数学、自然科学等の基礎を学び、後半の3年間で専門的な内容を学ぶコースであった ※ 5 。

後半の専門コースの担当かつネルヴィのその後のキャリアに大きく影響を与えるのは、主以下の2人である(図1)。橋梁と上下水道の建設について教えていたカネヴァッジと、建築の建設技術を教える ムッジャである。同学校は実験所が充実しており、座学での理論の講義とともに、建設用の材料試験や模型製作などの実践的で応用的な教育が行われていた ※ 6 。

図1:ネルヴィに影響を与えた技師養成学校の教授陣

1909年頃のこの学校内に、「完成された作品または構造物の一部分の一連の模型」があり ※ 7、「主に素材の耐久性およびそれが耐えうる変形についての実証および実験を行うために欠かせない機械や器具」が保管される部屋があるとの記述があった ※ 8 。そうした描写から、ボローニャ技師養成学校というイタリア最初期の技術教育現場において、理論と実践を結びつけるための実験や模型という道具が、導入されていたことがわかる。

後半の専門コースは土木と建築の2つの分野が開講されていた。ネルヴィは土木コースを受講したが、その他に美術アカデミー(Accademia di Belle Arti)にも個人的な関係を持っていた。そこでエンジニア・アーキテクト(Ingegnere — architetto)になる芸術的な素養をその時期に習得したのだ
ろう ※ 9 。

ネルヴィはムッジャの指導下で卒業設計をまとめているが、内容を示す資料は保管されておらず、ネルヴィ本人の言及も少ないので詳細は不明である ※ 10 。しかし、息子のマリオ・ネルヴィが父の卒業設計について「内部を強烈に特徴付けているエレガントな螺旋階段をある銀行の設計図で見つけた」と述べている ※ 11 。その銀行案は当然実施されていないが、室内の螺旋階段は1930年にローマのテヴェレ川沿いの集合住宅(Palazzine del lungo-tevere di Roma)やフィレンツェのベルタスタジアムなどで建設されている ※ 12 。

ネルヴィはムッジャの経営する建設会社(SACC)を辞める時、建設業の許可を取得するために必要な署名をムッジャが拒否したことで、それ以来連絡を取ることはなかった。そのため、ネルヴィとムッジャの関係は良好でないことが伺える。その一方でネルヴィはカネヴァッジに関する話を回想することが多かった。ネルヴィとそれぞれの教員との関係性は対照的であったのだろう。

1–2 カネヴァッジによる建設科学や模型実験に関する教育方針

ボローニャ技師養成学校では、当初建築構造や建設の教育を「建設応用力学」(Meccanica applicate alle costruzioni)という科目名で行われていた。それから「建設科学」(Scienza delle costruzioni)という名前に変わり、最終的には「建設科学」と「建設技術学」(Tecnica delle costruzioni)に分けられている。2つの科目のうち建設科学を担当したのはカネヴァッジであった。その講義ノートが残されており、その冒頭には、カネヴァッジが考える授業の目的が示されている ※ 13 。

第一の研究の正確性を狙いとする方法は「弾性の数学的理論」(Teoria matematica della elasticità)の名で知られ、数学者や物理学者が特別な関心を寄せた数理物理学の一分野をなすもの。第二の研究方法は結果の簡潔さを追求して、絶対的な正確性を目的とせず、相対的な近似値を求めるものであり、実践的な結果に影響するエラーを導くことがないものはすべて正しい値とみなされる。この講義の目的は、工学を学ぶ学生諸君に建設の合理的学習の手ほどきをすることであるから、第二の研究方法に拠らなくてはならない ※ 14 。

カネヴァッジには理論に絶対的な正確性を求めすぎると実際の建設に応用不可能だが、理論を絶対視せず、むしろ理論と実践を結びつけようとする意思があった ※ 15 。

こうした教育方針がボローニャ技師養成学校に定着する前に、1918年にカネヴァッジの突然の死が訪れた。その直後はカネヴァッジの教え子らが、同講義を担当しているが、1930年から「建設科学」という講義に変更されている。その内容はカネヴァッジの目指していた応用的な側面よりも、科学的で理論的な側面へと向けられている。

戦後には理論と実践を学ぶ講座が独立して開講され明快な分離を遂げている ※ 16 。しかし、ネルヴィが学んだ戦間期は、理論と実践の統合が目指されており、その考え方はネルヴィにも受け継がれている。

カネヴァッジは1888年からボローニャ技師養成学校の教員として、イタリアの建設科学の発展に貢献した人物として知られている。1910年からは同学校で校長を務め、構造教育の講座を創設した重要人物の一人であった。また、建築材料の強度を測定する実験室を管理しており、RCの研究だけに限らず、RCの使用と規制などの制度化に尽力した先駆的な人物でもあった。その経験はカネヴァッジの教育理念に反映されている。研究者のアントヌッチによれば、「理論的公式の応用により得られた結果を、実物の素材やモデルを使った実験、現実でのそれらの作用の観察、および静力学的作用の直感的理解と結びつけて補完しなければならない」という考え方をカネヴァッジは持っていたとしている ※ 17 。

教育に関する業績としては、1904年に『フェロ・セメント、鉄筋コンクリート、 鉄筋エナメル塗装コンクリート:弾性と耐久性の公式』を出版している。それは同校で教科書として長く使用されている。また、そのタイトルにあるフェロセメントはネルヴィが1943年に特許を申請したもので、彼の戦後の建設活動に中心的な役割を担う工法となった。このことはカネヴァッジからネルヴィへの影響の一つとして注目される 18 。

図2:ローマのリソルジメント橋(1911)

1–3 ローマのリソルジメント橋についての授業

カネヴァッジとネルヴィの関係は、1955年に出版されたネルヴィの著書『正しく建てること』(Costruire Correttamente)にも示されている ※ 19。ネルヴィはカネヴァッジを「ボローニャにある技師養成学校の建設科学の先生で、明確な知性を持つ人、そして自身の理論の深い意味と、自身の理論の限界を評価する能力をもった数少ない理論家の一人」と紹介している ※ 20 。また、受けた授業の内容について、ネルヴィは以下のようにまとめている。

1913年にカネヴァッジ教授がドイツの理論家と教授からの手紙について私たち学生に話したことを覚えている。彼らはとても動揺しており、既に建設され最大限に能力を発揮していたローマのリゾルジメント橋が崩れるに違いないか、直ちに崩れる危険性があると指摘していた ※ 21。

カネヴァッジは授業でもローマのリソルジメント橋の崩壊を巡る議論を取り上げていた。この橋はイタリア国家統一50周年を記念するために建設されたもので1911年4月に竣工した。橋長 100mに対してライズが10mであり、1スパンで架け渡されたRC造のアーチ橋である(図2〜6)。構造形式は充側アーチスラブ(箱桁アーチ)が採用されている。意匠・構造設計はフランスのエヌビック社が担当し、設計補助と工事監理は現地の代理店であるジョバンニ・アントニオ・ポルケッドゥ(Giovanni Antonio Porcheddu,1860–1937)の建設会社が行なった。ネルヴィはこの橋が問題視されていた理由をカネヴァッジから以下のように聞いたとしている。

弾性方程式(le formule della teoria elastica)によって計算された部材の単位応力が、安全の限界、またはある範囲では破壊の限界を超えていたから ※ 22

以上のようなドイツ人理論家からの批判があったが、実際には橋の崩壊は起こらなかった。このような設計施工を担当したエヌビック社(ポルケッドゥ社)とドイツの理論家との意見の相違は注目すべきてある。またネルヴィはこの橋の一件により、弾性方程式だけで構造物の崩壊を検討することに疑いを持つようになった。イオリはその後にネルヴィが構造解析に関する新しい研究を始めることになった、と指摘している ※ 23 。

図3:ローマのリソルジメント橋の平面図
図4:同橋の長辺断面図
図5:同橋の中央部断面図
図6:同橋の橋台との接合部断面図

1–4 ドイツ人理論家の批判に対する考察(許容応力と終局荷重の差異)

ドイツ人理論家の構造解析では橋が崩壊するという結果が出たが、リソルジメント橋はなぜ壊れなかったのだろうか ※ 24 。まず、国ごとの許容応力度の違いについて考えてみる。

1903年に設定されたスイスに遅れて、イタリアでは許容応力度を含むRCの設計基準が、1907年に整備された ※ 25 。その基準ではRC部材の許容応力度は弾性範囲内だけで設定されていたようで、塑性域を考慮した現行の規定と比べて許容値は低く設定されていた ※ 26 。

表1 各国のコンクリートの許容圧縮応力度の比較

また表1のように、ドイツのコンクリートの許容圧縮応力度は、フランスと比べて許容圧縮応力度が小さく設定されている ※ 27 。そのため、エヌビック社としては許容範囲内であるが、ドイツ人理論家にとっては許容値を超える橋の箇所があり、リソルジメント橋が崩壊するという結論に至ったのではないか ※ 28 。

次に終局荷重の設定についてであるが、許容応力度と同様に、終局荷重の値に関してもドイツとフランスで違いがあったと思われる ※ 29 。そのため、ドイツ人理論家が弾性限度の値を超える箇所があったと批判した可能性が考えられる。

さらに、ドイツ人理論家がこの橋の各部位に生じる応力の大きさについて検討を行う際の前提条件として、橋の床版と橋台の接合形式に着目する必要がある。2つの部材の接合部にはヒンジを用いるピン接合がある。しかし、エヌビックは橋梁にヒンジを用いることに批判的であり ※ 30 、リソルジメント橋の中央部と、基礎とアーチ形床版の接合部に剛接合を採用していた。橋の両端部がピン接合であれば、橋の中央部の曲げモーメントは大きくなる。一方で両端部が固定端であれば、端部に曲げモーメントが発生し、橋の中央のそれは比較的小さくなる。そのように両接合部の種類によって、橋の中央部や橋台との接合部に発生する応力の大きさに違いが生じるため、構造解析の結果に違いが生じた ※ 31 。

1–5 塑性域に関する研究

イオリによると、リソルジメント橋の安全性を巡る議論が弾性方程式の絶対的な正しさに疑いを生じさせたという ※ 32 。その疑いがネルヴィおよびイタリアの研究者を「新しい研究」に向かわせ、構造解析学や材料学の分野に影響を与えたとされている。「新しい研究」とはコンクリートや鉄の部材が持つ塑性域についてであろう。ネルヴィは著書で弾性方程式を「釣り合いの限定的なシステム(un sistema-limite)」と述べており ※ 33 、弾性域を超えるコンクリートや鉄の塑性域の存在を示唆している。

これらの発言により、リソルジメント橋の崩壊を巡る論争をきっかけにRCの許容応力度の再設定を含めた弾性理論の見直しや、弾性域を超えた材料の強度について、つまり塑性域へと研究が進んでいく流れが確認された。しかし、ドイツ人理論家が主張する弾性理論の正しさが、イタリアの研究者によってなぜ疑われたのだろうか。

おそらく、ドイツ人理論家が弾性方程式を用いた解析によりリソルジメント橋の崩壊を指摘したが、実際には崩壊しなかったことがその理由として考えられる ※ 34 。数式による当時の構造解析では、この橋の安全性を正確に評価できなかったことが弾性方程式とは異なる解析方法の構築へとつながる契機となった ※ 35 。

まずイオリは「弾性方程式しか信じない当時の理論家たちは、リソルジメント橋が安定して現存している事実を目の当たりにすることにより、弾性域を超える範囲への研究を進めることになった」と述べている ※ 36 。イオリは更にリソルジメント橋と塑性域の研究の関係性を指摘した。

一方で技術史の研究者である藤本によると、鉄骨の梁や鋼材骨組の最終強度についての研究は1910年代に始まったとされている ※ 37 。まずハンガリーのG・カジンツィ(1889–1964)が1914年に塑性設計について言及している ※ 38 。それまでの許容応力度設計(Allowable Stress Design)に対して、新しい設計体系の確立に向かっての研究は、梁や骨組の最終強度を対象にした現在で言う塑性設計(Plastic Design)、または極限設計(Limit Design)などと呼ばれ、それらは1930年代から始まったとされている ※ 39 。

これらより1911年以降にコンクリートや鉄という材料自身の塑性変形能力を評価する動きが、イタリアだけではなくヨーロッパで起きていたと考えられる。つまり、エヌビックらが鉄筋コンクリートの塑性能力を体系的、また科学的に捉えていたかは不明であるが、鉄やコンクリートが持つ塑性能力を経験や直観から把握して構造設計に利用していた可能性を指摘することができる。リソルジメント橋の論争が一つの契機となって、弾性理論自体に疑いが生じ、その理論の限界が認識され、コンクリートや鉄の許容応力度と弾性限度の数値の再設定や塑性域への関心がイタリアで高まったのである。

1–6 イタリアのエンジニアリング教育の特徴とその展開

今回はネルヴィが学んだボローニャ技師養成学校の成立経緯や同校の特徴、設置科目とその教育内容の変遷について外観している。理論だけではなく材料実験や模型の製作なども含めた実践との統合を目指す教育方針が掲げられていた。その方針には、理論で解決不可能な問題を実践で補完するというカネヴァッジの考え方が反映されている。

ボローニャにおけるエンジニアリング教育の方針は、カネヴァッジの立場のように、数学者や物理学者が追求するような絶対的な解析の正確性を求めてはいなかった。建設の実践に応用可能な近似値としての価値を見出して、あくまでも理論と実践の統合を目指していた。それはカネヴァッジが、橋梁の理論や解析よりもエヌビックやムッジャらの設計施工の経験主義的な考え方を支持していたこととなる。

そのカネヴァッジは1911年に竣工したローマのリソルジメント橋を巡る議論を、1913年にボローニャ技師養成学校での授業で扱っている。その橋の意匠・構造設計はエヌビック社で、設計の補助と現地での施工監理はイタリアのポルゲットゥ社が担当している。このRCアーチ橋は基礎と橋脚を剛接合にし、中央部にヒンジを設けない不静定構造物であった。ドイツ人理論家たちは弾性方程式による構造解析を行い、この橋が崩壊するという批判をしている。(なお、この橋は2023年現在でも現存)当時の構造解析の理論では十分に橋の崩壊を評価できなかったが、エヌビックはこれまでの橋梁の建設経験により、この橋を「安全に」実現することができた。ネルヴィはカネヴァッジの講義を回想し、この橋の論争から理論と現実の不一致を学んだ。

しかし、ネルヴィは弾性方程式を含めた理論を完全に無視したわけではないが、当時絶対的に信頼されていた弾性理論を疑い、コンクリートや鉄が持つ塑性という性質についての探求を始めたのである。つまり、ネルヴィはカネヴァッジの授業からリソルジメント橋の議論を学び、ドイツ式の計算主義な設計方針とフランス・イタリア式の経験主義的な橋梁の構造解析方法の違いを理解し、その折衷的な構造解析の実証方法およびRC部材の塑性域の利用方法を探ることとなる。これらの経験はネルヴィが模型実験を意匠・構造設計に導入する契機となった。

最後に、そうしたネルヴィを含むイタリアを中心とした研究者や技術者などの相関図を示し、今回のまとめと次回の予告とする(図7)。

図7:研究者と技術者の相関図

第1章註 ※この話は著者の博士論文「ピエル・ルイジ・ネルヴィの構造計画とアルテの思想」の第2章を加筆修正したものである。
※1: Micaela Antonucci: La formazione di Pier Luigi Nervi a Bologna, tracultura politecnica e speri-mentazione costruttiva, In Giulio, Barazzetta(ed.): Pier Luigi Nervi Il modello come strumento di
progetto e costruzione, Quodlibet Studio, 2017, p.53.
※2: 横手義洋: イタリア建築の中世主義 -交錯する過去と未来-, 中央公論美術出版, 2009.
※3: ボローニャ技師養成学校の開校年は以下のサイトで1877年とされている(参照: https://www.bibliotecasalaborsa.it/cronologia/bologna/1877/la_scuola_di_applicazione_per_ingegneri)
※4: 横手義洋: イタリア建築の中世主義 -交錯する過去と未来-, 中央公論美術出版, 2009を参考に木村が本文の通りに推測した。
※5: M. Antonucci, op.cit., pp.53–58.
※6: Ibid. pp.53–58.
※7: 建築模型などを保管する場所、あるいは製図室のようなものと思われる。
※8: Ibid. pp.53–58.
※9: Alberto Sartoris, Pier Luigi Nervi: Architettura come sfida, Silvana, 2020.
※10: ネルヴィの言説内には卒業設計のことだけではなく、指導教官のムッジャについても著者が現在確認した範囲内では存在しない。
※11: Mario Nervi, Gabriele Milelli(ed.): Eredità di Pier Luigi Nervi, Istituto marchigiano Accademia di scienze-lettere ed arti, Facoltà di ingegneria, Università degli studi, 1983.
※12: Ibid. ローマのアルナルド・ダ・ブレーシャ(Arnaldo da Brescia)に建設されている。
※13: S.Canevazzi, Meccanica applicate alle costruzioni,1907–08(講義ノー ト).
※14: Ibid.
※15: M. Antonucci, op.cit., pp.60–61.
※16: ナポリ大学のエリオ・ジャングレコ教授の貢献も大きいとされている。
※17: P. L. Nervi: Costruire Corettamente, 1955.
※18: 拙稿:ピエール・ルイジ・ネルヴィのフェロセメント建築について, 日本建築学会近畿支部, 日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系 (53), 889–892, 2013.05
※19: Micaela Antonucci: Pier Luigi Nervi studente e docente: la formazione dell’ingegnere-architetto, in La lezione di Pier Luigi Nervi, 2010, pp.4–5.
※20: Ibid.
※21: Ibid.
※22: Ibid. 安全の原語はsicurezzaであり、破壊の原語はrotturaであった。RC部材の許容応力と限界耐力のことと思われる。
※23: T. Iori, Il cemento armato in Italia dalle origini alla seconda guerra mondiale, Edilstampa, Ro-ma,2001.
※24: P. L. Nervi, Mario Salvadori(eds.): Strucuture: A great engineer and builder explores the Chara-cteristic and potentialities of reinforced concrete, Dodge, F.W. Corporation, 1956, pp.14–16.)(原著: P.L.Nervi, Costruire Corettamente, 1955.) ネルヴィは『構造』の中でリソルジメント橋の安全の限界、破壊の限界について言及している。ここではネルヴィの著書『正しく建てること』(1955)と英訳版(1956)を参照して、安全の限界は許容応力(allowable stress)と訳し、破壊の限界は終局荷重(ultimate stress)とする。
※25: ハンス・シュトラウプ,藤本一郎(訳): 建設技術史 工学的建造技術への発達,鹿島出版社, 1976, p.254.(原著: Hans Straub: Die Geschichte der Bauingenieurkunst, Birkhäuser Verlag,1964, 1976, (2nd).)
※26: 武藤清: 鉄筋コンクリート構造物の塑性設計 -耐震設計シリーズ2-, 丸善株式会社, 1964, p.3。本文中には「日本や欧米諸国で塑性理論が本格的に導入され始めたのは、1940年頃である」という記載がある。また、導入前と比べて、導入後の方が許容応力度を大きく設定していたことが示されている。つまり、1910年頃の構造解析により導き出された耐力の大きさがより小さい結果となり、仮に構造計算によって、崩壊するという結果が出ても、実際には崩壊しないケースが存在することが推察される。
※27: 宮本武之輔: 混凝土及鐵筋混凝土 下巻, pp.75–81, 1928(参考 鈴木圭他:欧州における鉄筋コンクリート橋の歴史的変遷-欧州初の鉄筋コンクリート指針成立過程に関する考察-,土木史研究 講演集,Vol.23,2003, pp. 161–169.)
※28: Tullia Iori and Sergio Poretti: SIXXI 3 Storia Dell’ Ingegneria Strutturale in Italia, Gangemi Editore, 2015, pp.50–61.
※29: 本記事での終局荷重は弾性域と塑性域の境界にあたるRCの弾性限界とする。日本ではコンクリートの設計基準強度Fc(終局荷重)に対して、Fc/3が長期許容応力度で、2Fc/3が短期許容応力度となっている。つまり、各国の許容応力度の大小関係が、そのまま終局荷重の大小関係と一致すると考える。
※30: 以下の著書の中で、エヌビックがマイヤールのヒンジを用いたツオツ橋(Zuoz Bridge,1901)を批判している例が紹介されている。(D.P.ビリントン,伊藤學(監訳): 塔と橋 構造芸術の誕生, 鹿島出版会, 2001, pp.168–169,p.180) (原著David P.Billington: The Tower and the Bridge The New Art of Structural Engineering,Basic Books, 1983) また、マイヤールの橋の構造については、以下の著書を参照した。(小澤雄樹: 20世紀を築いた構造家たち, オーム社, 2014, pp.16–27)。
※31: 橋梁の各接合部を剛接合にするか、ピン接合にするかの選択の違いが発生した理由として、RCの起源と発展の違いが挙げられる。まず、1892年にエヌビク・システムと呼ばれる特許を取得した。一方、フランスの技師ジョセフ・モニエが取得したコンクリートの金網による補強の特許をドイツに伝え、その技術を発展させたのはG.A.ヴァイスである。ヴァイス社は1904年のイサル(Isar)川にかかる3ヒンジ・アーチの橋の建設を行ったが、そのヒンジを用いる建設方法はスイスのマイヤールなどに引き継がれた。(山本学治: 造形と構造と, 山本学治建築論集②, 鹿島出版会,2007, pp.126–143.)
※32: P. L. Nervi, Mario Salvadori(eds.): Strucuture: A great engineer and builder explores the Characteristic and potentialities of reinforced concrete, Dodge, F.W. Corporation, 1956, pp.14–16.) (原著: P.L. Nervi,Costruire Corettamente, 1955.) ネルヴィはその『構造』の中でリソルジメント橋の安全の限界、破壊の限界について言及している。ここではネルヴィの著書『正しく建てること』(1955)と英訳版(1956)を参照して、安全の限界は許容応力(allowable stress)と訳し、破壊の限界は終局荷重(ultimate stress)とする。また、ネルヴィが1955年に出した著書『正しく建てること』にも、カネヴァッジと友好関係があるドイツ人の理論家が、この橋のどの位置の破壊を指摘したかの記載はない。
※33: Ibid., p.8. (P. L. Nervi,1955)
※34: Ibid.,p.97. (T.Iori, 2001)イオリは参考文献でC.L.M.H.ナヴィエ(1785–1836)やR・フック(1635- 1703)の理論への疑いにまで言及している。
※35: Tulla Iori and Sergio Poretti SIXXI 3 Storia Dell’Ingegneria Strutturale in Italia, Gangemi Editore, p. 52,2014. ドイツのエンジニアが、リソルジメント橋の箱桁構造による応力の再配分の効果をどの程度構造解析に反映させていたかはわからない。しかし、上記の文献の中には、断面図と骨組み寸法については「テオドール・ジェステスキ(Theodor Gesteschi)が、雑誌“ Beton und Eisen ”で公表した」ものであり、検証方法については「恒常負荷、変動負荷および±10°Cの温度変化を想定して、H.F.B.M.ブレスラウ(Heinrich F. B. Miiller Breslau)の計算方法」を用いたと記されている。
※36: Ibid., p.97 (T.Iori, 2001).
※37: 藤本盛久(編): 構造物の技術史, 市ヶ谷出版社, 2001.10, pp.1227
※38: 前掲書, pp.1227–1228
※39: 前掲書, pp.1228

図・表註
図1:M. Antonucci: La formazione di Pier Luigi Nervi a Bologna, tra cultura politecnica e sperimentazione costruttiva, in Giulio Berazzetta(ed.): Pier Luigi Nervi Il modello come strumento di Progetto e costruzione, Quodlibet Studio, 2017, p.58(fig.24)を参考に著者作成。
図2:From Archivio Porcheddu. Riccardo Nelva: Organizzazione erealizzazioni in Sistema Hennebique nel primo Novecento quale contributo all’ evoluzione dell’ ingegneria in Italia, in G. Bianchino and D. Costi(ed.): Cantiere Nervi, Skira editoria, 2012, p.41を参考。
図3〜図6:L. Santarella and E. Miozzi, Ponti italiani in cemento armato, vol. Mono-grafie, Hoepli, Milano 1924, pp.351–378を参考に著者作成。
図7:筆者作成。
表1:筆者作成。

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木村智
建築討論

きむら・さとる/立命館大学講師/博士(工学)/1983年千葉県生まれ/ 2007年立命館大学卒業/2013年横浜国立大学大学院修了/2020年京都大学大学院修了 2021年日本文理大学准教授を経て、2022年より現職/ 専門:西洋近代建築史、建築論/業績:ピエル・ルイジ・ネルヴィの設計理念に関する研究ほか