リー・マッキンタイア著『ポストトゥルース』

ポストトゥルース建築はありえるのか?(評者:藤田直哉)

藤田直哉
建築討論
9 min readDec 1, 2020

--

アメリカ大統領選後も、選挙結果を認めない陰謀論が、アメリカ・日本ともに非常に多く叫ばれている。これは今に始まったことではなく、2016年の大統領選の直後から、トランプ大統領とその支持者たちは、不正選挙という陰謀論を示唆したり支持したりしてきた。

リー・マッキンタイア著『ポストトゥルース』

現実や事実ではなく、感情や情動によって物事を判断する人が増え、デマやフェイクニュースが世論形成に影響を与える事態は、「ポストトゥルース」と呼ばれ、警戒されてきた。リー・マッキンタイアの本書は、ポストトゥルース現象を理解するために必要な知識を分かりやすく伝授する、コンパクトな啓蒙書である。

たとえば、ポストトゥルースの特徴に、科学の否定がある。気候変動を否定したり、ワクチンの有効性を否定するものだ。その起源のひとつに、1950年代のタバコ会社のロビーイングがあるとマッキンタイアは言う。喫煙が肺癌を巻き起こすという見解が経済的に不都合なので、タバコ会社は「科学と戦う」キャンペーンを行った。彼らは「研究」のスポンサーになり、疑いを「作り出す」ことで、喫煙が癌の原因になることは「証明できない」、疑わしい見解なのだと大衆に思わることに成功し、それが1998年まで続いた(後に、タバコ会社には、詐欺により組織的犯罪取締法で有罪判決が下る)。

このような「広告」の手法は、現在にまで様々に応用され続けているとマッキンタイアは考える。手法そのものは、同業者が参照可能であり、モデルとして利用可能なものだからだ。たとえば、気候変動を否定する議論を石油会社が引き起こす際にも使われたと彼は考えている。そして、この手法は、当然、選挙キャンペーンにも応用される。

もう一つの大きな原因として挙げられているのは、私たちの脳にある「認知バイアス」である。脳は様々な先天的なバイアスに囚われており、世界や事実をありのままに認識するのはとても難しいことが、行動経済学の研究の進展で明らかになっている。行動経済学の知見は消費者や統治者をコントロールするために様々な場所で応用されており、意図的に認知バイアスを利用する手法が既に一般化しているのではないかと疑われるのだが(一番分かりやすいのは、インターネットのショッピングや、アクセス数稼ぎなどであろう)、それは措こう。

具体的な認知バイアスはどんなものか。たとえば「認知的不協和」(信念に反する事実や証拠を否認してしまうこと)。あるいは「社会的適応」(周りの人に同調してしまうこと)、「確証バイアス」(仮説や信念に合致する情報ばかり集めてしまうこと)、「反復効果」(何回も同じ話を聞けば信じてしまうこと)、「バックファイアー効果」(正しいことを伝えることが、誤った信念により意固地にさせること)、「ダニング=クルーガー効果」(自分自身を過大評価すること。自分の愚かさを理解する知性もない状態)というものが、信じたいものだけを信じてしまう現代の混乱の原因だと言う。

これら、人間の脳のバイアスが、インターネットやSNSと組み合わさり、増幅しているとマッキンタイアは考える。ネットやSNSは「好きなものだけを選んで見る」「政治思想や趣味が近い人間ばかりをフォローできる」という「フィルターバブル」効果が伝統的なメディアと比べて起こりやすい設計になっている。だから、自然かつ不可避な脳のバイアスから生じた小さな歪みが、集団で過激化し非現実的な思い込みになっていき、訂正が効きにくい状態を生み出していく(ただし、このバイアスの影響には強弱があるという。信念に反する情報を見たときに、誤った思い込みをより過激化させる「バックファイアー効果」は、リベラル派の場合は生じないという実験結果があったとマッキンタイアは言う)。

さて、本書の白眉は、ポストモダニズムとポストトゥルースの繋がりを批判的に検証したパートである。ポストモダニズムとは、1960年ごろから発展した一連の様式や思想のことで、建築の場合にもポストモダン建築というものが流行した。

ポストモダンの命題を、マッキンタイアは「客観的真理といったものは存在しない」「どんな真理の宣言もそれをおこなう人物の政治的イデオロギーの反映に過ぎない」と要約する。ポストモダニストの「真理」と「客観性」への攻撃は、文学テキストや文化習慣のみならず、自然科学の領域にまで及んだ。極端な論者は、科学も、科学的知見も「社会的構築」物であると言った(これらの対立は「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれている)。

ポストトゥルースは、この思想の子孫であると、マッキンタイアは考える。その通りだろう。ただし、それが右派に簒奪され、単純化されたものとして利用されているのだとも彼は考えている。

ポストモダニズムの思想は、どちらかと言えばリベラルや左派のものとして始まり、「真理」「客観性」の名の元に行われる抑圧などから人々を解放するためのものだったとマッキンタイアは擁護する。「この思想は貧しく弱い人々を権力者による搾取から守ろうとしていたのに」、その武器を、気候変動否定論者や、インテリジェント・デザイン説(進化論の否定論)の支持者が用いるようになった。その証拠として、インテリジェント・デザインの論者がポストモダン思想の影響を語っている内容が引用されている。

マッキンタイアは、警告する。「学術界のなかで真実を攻撃することは楽しい遊びだが、その戦術が科学否定論者や陰謀論者、あるいは自身の直感はどんなエビデンスよりも優れていると主張する感受性豊かな政治家の手へと流出したとき、なにが起こるのか?」「今日気候変動によってもっとも苦しむのは、貧しく弱い人々である」。

正直なところ、これは他人事ではない問いだ。評者である私自身も、大学に入学し、ポストモダン思想や、それの影響を受けた人文学的な考えを多く学び、考え方の根底に批評に影響を受けてきた。私は、卒論も博論も、「科学」を批判するポストモダン文学者を扱った(カート・ヴォネガットと筒井康隆)。父が、日本を代表する原子力メーカーで電力の仕事をしており、国家プロジェクト的な規模の科学や技術に接する機会が多かったので、「科学」的な「真理」のようなものの専横的で独断的な性質を批判したかったのだ。それは評者自身の、東日本大震災後の、福島第一原発や原子力政策への批判へと続いていく。

だから、私は、「科学」を否定し、科学の地位を落とす作業に従事してきたし、「現実」は社会的構築物であると言ったり、フィクションのキャラクターと現実の人間が等価になる感性が増加している、などと嘯いてきた。「ポストトゥルースはいけない」「トランプ支持者はデマを信じてバカだ」となどと最近はリベラル優等生ぶっているが、本質的には彼らと自分は同じであり、自分の言動がポストトゥルースを助長する内容であったことは、自覚せざるを得ないのだ(『サイエンス・ウォーズ』を著した故・金森修氏が、私の博論をベースにした『虚構内存在』を、その年の収穫に挙げてくださり、実際に書籍にたくさん線を引いたり書き込みをしていただいていたが、文学研究・SF評論の陰に隠れて行っていた「科学」「真理」とポストモダン的な思想の葛藤の側面を見抜かれていたのだろう、と今は思う)。

だがそれでも、やはり、ポストトゥルースを担っている「ポストモダン右派」とは、自分は異なっているのではないかとも思う。ポストモダン思想は、マッキンタイアの言う通り、植民地主義や西洋中心主義、男性中心主義などとの闘いという側面があった。それは人々を解放するための思想だった。真理や科学の専制──それは、科学的社会主義を主張していたソビエトを意識したものでもあった──との緊張関係の中で、人間を自由に解放し、弱い立場の者を救うためのものだった。「ポストモダン右派」は、たとえば差別を正当化したり、気候変動を放置したりと、ベクトルが根本的に異なっている。

ポストモダン思想は「自分の心が正しいと思うから正しい」的なロマン主義的で自閉的で尊大な妄想に転げ落ちるリスクは常に内在している(1980年代、1990年代の時点で既に、それは「日本浪漫派」的な妄想に近づくのだと日本の批評家は批判している)。そして、私の少ない読書経験の中でも、そのことはポストモダンの思想家や作家も気づいてきて、乗り越えるべく格闘してきたり、時には落とし穴に落ちたりもしてきているということは言える。ポストトゥルースに影響を与えた責任は自覚し、反省しつつ、ポストモダン思想を救うためには、この辺りの議論を掘り返すといいのではないかと思う(まともに読んでもいないので専門家には批判されるかもしれないが、直観としては、思弁的実在論や新実存主義も、ポストモダン思想的な、あらゆるものが社会的に構築されたもので、現実は存在せず解釈である、という世界観を超えようとする試みだろう)。

私自身の理解としては、この自閉的で、あらゆるものが虚構や情報だと感じやすい感性の広まりを克服する道の一つが、実際に他者と接したり、社会や世界、自然などと触れるような営みである。論理や言語的な理解ではなく、身体的かつ感性的に、他者や世界、外部や現実の存在を実感させることもまた、ポストトゥルースへの解決の道の一つである(2010年代に、日本で地域アートが流行してきたのも、都市の中で人と人が交わるようなイベントが多く希求されてきたのも、ポストモダン的感性やポストトゥルース的認識への対抗の必然性を無意識かつ潜在的に多くの人が感じていたからではないか)。

ポストモダン建築があるのだから、ポストトゥルース建築がありうるのか、ということをもし考えるならば、その辺が鍵になってくるのかもしれない。物理法則や科学法則を無視しした、反エリート主義的なポピュリズムの要求に建築家が抗しきれなくなり、まともに建たなかったり崩れたりする建築物ばかりになるという滑稽な「ポストトゥルース建築」も思考実験としてはありえない話ではないが、むしろポストトゥルース時代に鋭敏かつ批判的に応答したものとして、様々な「建てない建築」や、都市や地域と関わる営みを位置づける方が意味があるのかもしれない。

_
書誌
著者:リー・マッキンタイア
監訳者:大橋完太郎
訳者:居村匠、大﨑智史、西橋卓也
書名:ポストトゥルース
出版社:人文書院
出版年月:2020年9月

--

--

藤田直哉
建築討論

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。日本映画大学准教授。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震