三木順子監修・編・三木学共編『キュラトリアル・ターン:アーティストの変貌、創ることの変容』

ソリッドからリキッド、そしてその先へ(評者:藤田直哉)

藤田直哉
建築討論
8 min readJul 31, 2020

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本書は、京都工芸繊維大学で開催された国際ラウンドテーブル「批判力のあるキュレーション──アーティストによるその実践」(2017年)の議論を中心に編まれた書籍である。このラウンドテーブルには、地域と深くかかわりながら活動をしてきた先駆的なアーティストである、椿昇、藤浩志、日比野克彦、川俣正らが参加しており、彼らの率直な意見を真正面から知ることができる。

三木順子監修・編・三木学共編『キュラトリアル・ターン:アーティストの変貌、創ることの変容』

監修者であり編者である三木順子は、京都工芸繊維大学デザイン・建築学系の准教授で、専門は美学芸術学である。この書籍はKYOTO Design Lab libraryの一冊で、そのシリーズは建築と美的なものの関係を探ろうとしたものである。本書は、建築と(評者の用語でいうところの)「地域アート」の関係を探ろうとするものである。

建築とアート、その両方を繋ぐ蝶番になる概念が「キュレーション」である。「キュレーション」とは、「作品を選び、集め、互いに関連付けて配置しながら鑑賞のための文脈を空間的に構成」し、「作品の新たな見方」や「新たな価値」(pi)を創造する行為だ。全体の文脈を見渡し、何かと何かを繋いで、文脈や価値や物語を生じさせることそのものは、都市計画やマーケティングなどでも行われていることだろうし、人文学や批評などの活動もそれに近い。2011年には佐々木俊尚が、インターネット・SNSを意識しながら『キュレーションの時代』(筑摩書房)という書籍を刊行しているように、「キュレーション」という概念そのものはもはや特に目新しいものでもないだろう。

キュレーションされる側であった作品を作る側が、キュレーションをする側になっていく動きが最初に登場したのは、建築やデザインの分野だったと三木は言う。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長が、建築家のフィリップ・ジョンソンをキュレーターに任命した。それは、ホワイトキューブの中の空間を有効に使う能力もまた、キュレーションに求められていたからだ。

そして、本書で様々なアーティストを招いて探ろうとしているのは、アーティストたちがホワイトキューブ(建築)から出て街や地域で様々な実践する現代において、キュレーションの内実がどう変化したのかについてだ。現在では、「人や場所を巻き込みながら、非物質的でテンポラルな出来事を仕掛け立ち上げていく」「人と人とのコミュニケーションや、人々と場所との関係性や、場所や地域の社会的機能など」(piii)をキュレーションしていくことが起こっている。

本書の問題関心を言ってしまえば、物質ではなく非物質的なものに関心の中心が移っていく段階において、ホワイトキューブという建築の中で建築家がキュレーターとして果たしていた役割は、いまどのようにアーティストたちによって別の形で行われているのか、美術館という建築物の役割はどう変わるのか、ということになるのだろうと思う(このような新しいパラダイムに建築として応答しているのが、第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館の展示「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」で扱われた作家や、「建てない建築」と呼ばれる人々だと思うが、今はその話は措く)。

本書がその問い、問題意識に対して、鮮やかな理論的な答えを出し得ているのかと言えば、そうではないのが面白いところで、三木からの問いかけにアーティストたちは真摯に応えているが、それぞれがそれぞれに答えていくので、話題は様々に拡散していく。その野坊主な感じが良い。いくつか、印象的なところを引用しよう。

藤浩志は「計画を作らないようにものごとを進めていくことに対して、すごく憧れを持っています」「いろんなことがそこで許されている現場をどうやって作ればいいのか」(p11) を考えてきたと言う。藤はかつて土地の再開発や都市計画を行う仕事をしていたことがある。その経歴を踏まえてこの発言を見れば、彼の実践がある種の建築への批評であり、場合によっては拡張された建築かもしれないとも思えてくる。

川俣正は、「国際展や芸術祭っていいながら、夏休みの子どもに向けたようになってしまっている」(p56)ことを批判する。椿はそうなってしまうのが「日本の風土病」だと指摘し、日本の「デモクラシー」の問題を語る。日本は政策でパブリックスペースを潰してきたが、ヨーロッパでは広場を維持してきた。民主主義の精神を養う「広場」をそもそもなくすと言う都市計画の哲学があるということだ。これへの川俣の回答は、彼らのやらんとしていることを鋭く示唆する。「逆に言えば、いま、芸術祭という広場を作っているような感じなんじゃないですか」(p57)。

椿昇は、「『毛沢東語録』を握りしめ、近衛兵になろうと思っていた」「世の中に逆らうためのツールとしてアートを選んだだけで、とにかく、何かアヴァンギャルドな活動をしたかった」(p48)と自身を語る。彼は瀬戸内などの地域の実践で、何をしようとしているのか。スイスのヴァルスにあるピーター・ズントーが設計した温泉施設を例に出す。これは地元の森林組合の人々が自分たちで建築家を調べて依頼したと言う。このように、日本にも住民自治ができるように、レベルを上げていく、そのような民主主義の底上げを、彼は行おうとしているのだ。

後半では、もはや本書のタイトルの「キュレーション」とはあまり関係なくなってくるが、「建築」や「美術館」のようなソリッド(固形)ものを中心としてきたパラダイムから、コミュニケーションや「目的・計画を持たない作り方」などのリキッド(液体)なものを中心とするパラダイムに変化し、実践を行う必然性と正当性について考えが開陳されていた。それは、コロナウイルスのパンデミック下における現在に読むと、味わいが深い。

小林康夫は、今は「カオスがますます進行する」時代で「既成の価値観がまったく役に立たなくなる」(p84–85)状況であり、だから、計画や目的なく、自由に作っていく立場が重要なのだと述べる。

藤浩志は「精神的な豊かさを求める時代はもう終わっている」「どう生きのびていくのかが問題の、サバイバルの時代」で「食物も水もなくなったときにどう生き延びていくのかを考えなくてはならない」(p108–109)と語り、自分が現場で行う活動はそれと似ていると言う。

椿も「そもそも、固定的で確実なものがあるなんていうのは、みんなが抱いている幻想にすぎないのです」「必要なのは、依って頼る者が何もなく、常に生成・消滅をくり返す場を渡り歩く、一種のノマドロジー」(p119)なのだと、禅を参照しながら言う。

ウイルスのパンデミック、東日本大震災のような巨大な災害など、予想もつかないことが起こり、新しいテクノロジー開発や普及、政治状況の変化などでも価値観や生活や制度などが変わり続けていく。そのような、流動的な世界の中で、永続的で堅固なものはない、そのようなものに頼れない、という考えは広まっていくだろう。だから、適応し続けるために必要な生き方の態度も別のものにならざるを得ないだろう(イノベーションを重視するビジネスの世界で「アート思考」が流行るのも、多分そのせいだろう)。小林、藤、椿は、アートを通じてそれを教育していくことが、生き延びるために必要なものを提供することだと考えている(少なくとも、自分が実践し続けることで、それが必要になった場合に備えようとしている)ようである。

20世紀の建築は、永続性、力強さ、崇高さなどを体現し、そのことで信頼性を高める機能を担っただろう。国家的な建物や、役所などを考えればよく分かる。しかし、21世紀はどうやら、そのようなパラダイムではなく、流動的で、一時的で、儚く、次々と変わりながら適応しなければ生き残れないという世界観の方が支配的になりつつあるように思われる。例えばレジリエント建築は、こちらの世界観だろう。

流動的な状況に適応して生きる必要はある。だが、人は一方で、流動性に疲れ果て、永続的なもの、変わらないものが存在するという幻想をも必要としてしまう。実際には永遠に存在するものではなく、流動するにしてもそれなりの長い時間がかかる(あるいは地球環境が大規模に異変を起こし続けるのならば、もっと短いタイムスパンになるかもしれない)建築は、この状況をどう引き受け、どのような役割を果たしていくべきなのだろうか。

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書誌
監修者・編者:三木順子
共編者:三木学
書名:キュラトリアル・ターン──アーティストの変貌、創ることの変容
出版社:昭和堂
出版年月:2020年4月

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藤田直哉
建築討論

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。日本映画大学准教授。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震