中島直人インタビュー「 20世紀前半の都市論―1910年代の断面図 (3/3):日本の都市計画創成期、アメリカのアーバニズム論」

連載【都市論の潮流はどこへ 第3回】/中島直人/聞き手:松田達/Series : Where the urban theory goes? 03 / Naoto Nakajima Interview “Urban theory in the first half of the 20th century — The cross section of the 1910’s (3/3) : The early period of Japanese city planning history / Urbanism theory in America” / Speaker : Naoto Nakajima / Interviewer : Tatsu Matsuda

松田達
松田達
Apr 30 · 36 min read

日本における欧米都市計画の受容/学者市長・関一

松田:あとやはり、最後に日本のお話を聞かせて頂けるとありがたいです。

中島:日本ですよね。これがまた難しいんですよね。1910年代に欧米でこういう動きがあったわけですが、 日本の都市計画は、制度面で言えばやはりイギリスとドイツとアメリカからですよね。フランスからはなくて・・・

松田:市区改正の頃、つまり1880年代前後くらいは、オースマンのパリ改造への注目など、一部の人はフランスに強い意識があったと思うのですが★1、その後はほとんどなくなりますね。

中島: そうですよね。1885年の東京市区改正審査会の初回で内務省書記官の山崎直胤がパリを引き合いに出して、東京でも洋風美観の一勝区を創出すべしと演説したことは良く知られていますね。また、1897年の大阪の市域拡張に合わせて立案された「大阪市新設市街設計」の設計者の山口半六は、パリのエコール・セントラルで教育を受けています。ただし、これらはあくまで市区改正の設計であって、近代都市計画、つまり法制度ということではないですよね。

松田:日本の都市計画前史として、市区改正に加え、大阪の山口半六の存在は重要ですね。後に土木界の権威となる古市公威らと同時期に留学していて、エコール・サントラルという、スペシャリストではなく、幅広い知識を身に付けたジェネラリストの養成学校を出たというところも、後の活動に影響しているような気がします。ただ、この時期のフランスへの意識は、なるほど、都市計画そのものへの意識ではないということですかね。

中島:でも、大事な源流であって、決して都市計画ではないというわけではないのです。日本の都市計画における発展のなかでは、まずドイツですよね。井上馨がドイツからベックマンやホープレヒトを呼んでいますね。彼らは別に都市拡張を行ったわけではなくて、日比谷の官庁集中計画を立案するわけですよね。そういう意味では、都市改造はやっている。

松田:当時、外務省対内務省という対立構図があって、井上馨が中心となった外務省側では、都市中心部のわりと局所的な都市改造を行おうとしている一方、山県有朋や東京府知事の内務省側では、都市拡張も視野に入れた市区改正を行おうとしていたということもありますね★2。

図1:御厨貴『明治国家をつくる―地方経営と首都計画』藤原書店, 2007

中島:藤森照信さんの『明治の首都計画』で詳しく書かれている話ですよね。

松田:そうですね。藤森さんと、あと御厨貴さんの『明治国家をつくる―地方経営と首都計画』(図1)に、このあたりは詳しいですね。井上馨は見栄えが大事という外務省的な視点から、どちらかというと建築的に壮麗なものをつくるというところに力点をおいていて、だからドイツから建築家を呼んできたりしましたが、都市計画のその後の流れをつくるのは、むしろ東京の全域を考えていこうとした内務省の側ですね。

図2:後藤新平(出典:日本語版Wikipedia「後藤新平」より

中島:そうですね。内務省の方では、後藤新平(図2)が 内務大臣の時に都市計画に予算をつけて、1918年に都市計画調査会をつくるんですけど、後藤新平がなぜそれをつくったかというと、後藤自身の発想ということではなくて、大阪の片岡安とか、何人かの先行的な運動があるんですよね。片岡安と、建築条例制定を目指していた佐野利器とか内田祥三とか建築学会系の人と。で、池田宏が内務省の担当にいたんですね。池田は1913年から1年間欧米視察に行った際に、都市計画にも関心を持ち、知識を手に入れていたんですよね。特にドイツに影響されるわけですね。ドイツの自治体経営としての都市計画みたいなことがあって、そこに後藤新平からの指示があったので、都市計画法制定に向けて一気に動き出すということなんですね。

図3:関一(出典:日本語版Wikipedia「關一」より

松田:あと、当時もう東京から大阪に移っていた、関一(図3)ですね。

中島: 関一は大変重要な人物です。関一は大阪市長として名を残しますが、もともとは学者ですね。彼は何といっても、「都市計画」という言葉を最初に使った人なんです。

松田:関一は、学者から政治家に転身して、「大阪の父」とも「東の後藤新平、西の関一」と呼ぶ人もいるくらい、日本の都市計画史において重要な位置づけとなる人ですね。にもかかわらず、まだ十分に研究がなされていない人かもしれません。

中島: いや、評伝は芝村篤樹『関一 -都市思想のパイオニア』を皮切りに何冊か出ていますね。関はもともと高等商業学校(現一橋大学★3) を出て、そこで教授となり、ベルギーに留学して経済政策、社会政策を学ぶんです。その後、請われて大阪市役所にまず助役として入って、しばらくして市長になるんですが、まさに大阪が都市計画を開始しようとした、そして内務省では都市計画法制定に向かっていく時期だったのです。関一は、日本の都市計画草創期の重要人物の中でも、内務省や建築学会を中心とした法制度中心の都市計画じゃなくて、もっと広い視野で都市計画を見ていた人で、しかも実践家でもあったわけですね。

松田:まさにそうですね。関については、遺稿集が『都市政策の理論と実際』として出版されていたり、膨大な日記が『関一日記』として出版されていたりするわけですが、関の関心は経済をはじめ、いわゆる都市計画の枠をかなり超えており、大阪に行く以前の留学時や、関の学者としての側面について、さらに明らかにされるべき側面があるのではと思っています。関が大阪に助役として行くときには、学内や卒業生、また文科省からも、ものすごい慰留運動があったようで★4、東京高等商業学校の大学昇格問題で学内がもめていたというタイミングもあったと思うのですが、なんというか学者としての優秀さに加えて、きっと人格者でもあったのでしょうね。ところで、関が助役になるのは1914年ですが、渡辺俊一先生によれば、その前年の1913年に関が書いた「花園計画ト都市計画」が、日本語における「都市計画」という言葉の初出だということですね。それまでは様々な言葉が出ていましたが、結局関の訳語で定着していきますね。

中島:まあ、最初の言葉はそうだって言われていますね。関一の論文を読むと、都市計画のそもそもの目的とは何か、「住みよい都市」とは何かというような原論から議論を起こす感じが読み取れます。彼の都市計画の発想はどこにあるのか、私はしっかり調べたことはないのですが、関一は、ゲデスも関係しているかもしれませんね。市政学の先生ですからね。はじめての市立大学である大阪商科大学(現大阪市立大学)をつくるというのも面白いですよね。まさにそこに「市政科」をつくって、都市についての学問をやるわけですから。建築や土木ではない、別のかたちの都市計画をやろうとしたわけですね。そのあたりがなんとなくゲデスとのつながりがあるのかもしれない。

松田:実はゲデスについては、関は確実に知っていたようですね。大阪市立大学の関文庫に、ゲデスの『進化する都市』の原著が所蔵されているそうなので★5、どれだけ影響されていたかは分かりませんが、関の視野にゲデスは入っていたようですね。関のつくった「市政科」には、都市政策的な実践という意味も含まれていたのではないかと思います。学者から市長になった人ですし、前任にあたる池上四郎市長から助役になることを求められた時、当時助役は教授職より格下と見られていたのにそれに応じたのは、研究したことを市政として実現する可能性に掛けたからではないかと思います。大学をつくり、またそこに日本で唯一の「市政科」を置いたというのも、その延長上にあったのではないかと思います。

官僚・池田宏と建築家・片岡安

図4:池田宏(出典:日本語版Wikipedia「池田宏 (内務官僚)」より

中島:そういう感じがしますね。で、そういう人たちのなかで、内務省では後藤新平のもとで、池田宏(図4)がすごい使命感を持って、日本の都市計画なるものを生み出していくとうのが都市計画の誕生物語ですよね。

松田:池田宏の役割もまた重要ですよね。都市計画調査会が出来た1918年5月の直前に、後藤新平が内務大臣から外務大臣になったので、池田が幹事を務めるわけですよね。池田と関だとヨーロッパに行った時期が微妙に違うんですよね。関が留学をしたのは1898年から1901年で、まずベルギーのアントワープ、次にドイツのベルリンで学んでいて、途中で1900年のパリ万博にも訪れたりもしているわけですね。最後にアメリカでニューヨーク、シカゴ、シアトルに寄って帰ってくるので、結構幅広く、それに3年3ヶ月とかなり長く欧米世界を見てきています。秋本先生によれば、関はバウマイスター、ヨーゼフ・クラッセン、ステューベンの共著★6も参考にしていたようですね。

一方、池田が欧米視察に行ったのが1913年からですから、そう考えると二人は10数年違う時期のヨーロッパを見てきているわけですね。関がヨーロッパに行った時期だと、法制度的にも技術的にもドイツが進んでいたのかもしれませんが、池田が欧米に行った頃だと、イギリスを始め、欧米全域で都市計画という概念が、技術や法制度とともに確立し始めてくる時期だったといえるかもしれません。でもそのなかで、やはりドイツの都市計画に興味を持ったわけですね。

図5:片岡安(出典:日本語版Wikipedia「片岡安」より

片岡安(図5)は建築家としてスタートするので、都市計画に興味を持った時期が決して早くはなくて、特に影響されたのが、アメリカのネルソン・ルイスの1915年の講演「シティ・プランニング」だったわけですよね。ただ、結果的にもっとも早く都市計画で博士論文を書くことになりますね。そういうわけで、それぞれ影響を受けている時期と国が異なっているわけですね。

中島: ネルソン・ルイスは土木エンジニア出身ですね。片岡はそのルイスの講演だけでなくて、様々な外国文献をソースにして、『現代都市之研究』を1916年に、そして1920年には日本で初めて都市計画を主題とした論文『都市計画の科学的考察』で博士号を取得するんです。ただ片岡は、ドイツ的な都市を土地利用も含めて全体的にコントロールするような当時の近代都市計画ではなくて、もっと建築だったり都市施設だったり、市区改正からの連続で都市を考えていたと言われていますね。もともと大阪で市区改正をやりたいというのが出発点でもあったので。それに対して池田が、もう少しドイツ的なものを入れようとしていったというのが渡辺俊一先生の著書などで描かれる大きなストーリーで、それを再検証しようとしているのが秋本先生ですね。何れにせよ、池田らドイツ派が勝って、都市計画の仕組みができあがっていく。区画整理も入っていったりとかしながら、都市計画法制度がつくられていくということですね。

松田:片岡はやはり建築的な視点からスタートしていて、それに対して都市全体を総体として扱おうとする池田とは理論的に対立して、都市計画調査会のなかで、いわゆる池田・片岡論争も起こったわけですね。

中島:そうですね、都市経営的に見ようとするのが池田の考え方で、それで池田は都市計画法を考えていこうとする。池田は土地利用計画を中心に、片岡は街路も含む施設計画を中心に考えた。しかし、関一のポジションというのは、そのどちらでもないような感じもするんですね。

松田:ちなみに後藤新平らを中心に1917年にできた都市研究会が、1918年の都市計画調査会を経て、1919年の旧都市計画法の制定につながっていきますが、都市研究会についてはあまり設立の経緯がはっきりしていないような気がしますが、いかがでしょうか?

中島: 都市研究会は片岡や池田、東京市議の藤原俊雄、ジャーナリストの阿南常一ら、諸外国の事情に精通していて、都市計画に関心を持った人々の交流、宣伝組織として、設立したものですね。後藤新平が会長につきます。都市研究会が1917年に創刊した『都市公論』は、日本で最初の都市計画関係の雑誌で、のちに内務省都市計画課、戦後は建設省都市局の外郭組織としての都市計画協会が『新都市』とタイトルを変えて発行し続けています。実に100年以上続いている、驚くべきメディアなんです。しかし、都市研究会の設立以前から、建築学会の建築条例制定運動があったということも大事な事実です。市区改正の時から、いわゆる建築条例を制定したいということがあって、それが源流としてずっと続いていって、市街地建築物法につながっていくんですよね。とりわけ、岡田信一郎が熱心で、彼が1915年に提出した意見書が発端となって、建築学会での建築条例制定のための組織的な活動が始まっていたんです。

松田:市区改正も、もちろん東京全般を扱おうとしていたわけですよね。

中島: 市区改正はあくまでインフラ整備だったので、一般家屋についてちゃんとやらないといけないという意識があり、佐野利器や内田祥三とかは熱心に取り組むんです。東京を拠点とする建築学会に対して、関西では片岡が1917年に関西建築協会を設立して、都市計画に関する啓蒙運動を始めていきます。そして片岡のよびかけで、都市研究会、建築学会、関西建築協会のそれぞれの動きが合流して、都市計画法制定運動が一気に盛り上がり、1919年の旧都市計画法と市街地建築物法の制定にたどり着くんです★7。

松田: 片岡が全体をまとめるキーパーソンになったわけですね。その後、都市計画調査会のなかでは、旧都市計画法と市街地建築物法の両方が同時に議論されていったということですね。ただ、これらは法律としては二つ別々のものになりますね。

中島: 別々ですね。なぜ分かれたかという理由については、確かいろんな説があったと思いますが、どうやらどちらかでも成立させたいという意図があったようです。大蔵省的には市街地建築物法の意義は分かるけど、都市計画法の意義というのはなかなか納得しづらく、場合によっては廃案になってしまう可能性があったので、あえて分けたということですね。二つの法律が一緒に死んでしまうようなことは避けたいと。それで、結果として二つの法律として生まれるんですよね。関係としては、集団規定と呼ばれる、用途地域などの地域地区制については、都市計画法では具体的な中身は規定されておらず、市街地建築物法の方で、単体規制と合わせて規定する、という構造になりました。今の都市計画法と建築基準法の関係と基本的には一緒です。

松田:なるほど、二つの法律として成立させたことには、ひとつも成立しないというリスクを分散させるという意味があったわけですね。

欧米文献の邦訳からの都市計画理解の限界

松田:日本の都市計画と建築は、この1919年の二つの法律の成立が重要な出発点になったと思いますが、都市計画に関する法律がこの時期に定まるということは、これは欧米と比べても決して遅くないわけですよね。イギリスが1909年で、フランスが1919年ですから。日本はこの頃、欧米の都市論を同時代的に相当理解していたと言えるのでしょうか?

中島: そうですね、日本の都市計画もこの時点では、世界の最先端からそんなに遅れていなかったと言えるかも知れません。特に都市計画法の制定を受けて、内務省に採用された都市計画技師たちは、まだ始まりの頃はそんなに都市計画の仕事はなかったので、ひたすら欧米の文献を翻訳して、知識を蓄えていた、いわば大学の研究室の役割も担っていたと聞いています。そうした状況の中で、かなり雑多に、一国に限らず、正直いろんなものを読み、吸収したということが言えますよね。

図6:内務省地方局有志編纂『田園都市』博文館, 1907(図版は1980年の復刻版、内務省地方局有志『田園都市と日本人』講談社, 1980)

松田:少し前だと、片岡と同郷金沢の先輩で内務省に入っていた井上友一らが、アルフレッド・リチャード・セネットの『田園都市の理論と実践★8』(1905)を抄訳しながらまとめた『田園都市★9』(図6)もあるわけですね。

中島: 内務省でも農村改良などに取り組む地方局の方で田園都市論が最初に受容されたんです。ところで欧米文献の読解ということだと、当時はまさに大学の先生のメインの仕事がそれなわけですが、都市計画法制定後で最初に都市計画の先生になったのは、武居高四郎ですね。内務省に都市計画技師として採用された人ですが、1926年に京都帝国大学に着任し、土木で都市計画の講座を開設します。東大では内田祥三がいて、教え子の高山英華を大学に残して、都市計画の先生に仕立てあげていくのですが、その最初の仕事は諸外国の建築雑誌から住宅地計画の図面を全てコピーして、それらを分類して並べた『外国に於ける敷地割類例集』の編集でした。1936年刊行なのでだいぶ後の話ですが、戦前期の都市計画の学び方としては、典型的な態度なんじゃないでしょうか。

松田:ということは、当時は結構、欧米文献の翻訳から情報を得ることも出来たわけですかね。

中島:そうですね。いくつか教科書的な本が翻訳されたりしています。ただ、多くは都市計画法制度の解説だとか、その法律を訳したものだったりで、都市計画論というレベルでは、あまりなかったかも知れません。日本では都市計画の実務的なところへの関心が非常に強いんですよね。都市計画とは何かとか、都市計画を成立させている社会的、文化的な背景とかよりも、ほとんどが具体的な制度を日本語に翻訳して、それを日本に取り込んでみようみたいなことですよね。だから、当時の重要な人物であるジッテとかゲデスなどの本は、同時代的にはまったく翻訳されていないんです。まぁ、内務省の都市計画事務官とか技師とかはエリートで、彼らだけが理解すればいいのだったら、直接、原書を読んだりしていればいいということなのかも知れませんが。

松田:現地に長くいた人がいないんですよね。

中島:都市計画では海外の大学で学んできたという人は戦前にはほぼいないですね。日本では大正期には高等教育が確立していたじゃないですか。みんな帝大に行って教育を受けますよね。だからアメリカの大学とかで留学をして学ぶという人が、非常に少なかったと思うんです。この前たまたま中国の南京に行った時に、中国の近代建築家がどのようにして生まれたのかというテーマの展覧会をやっていたんですが、ペンシルバニア大学がすごく大きな役割を果たしていたんですね。中国だとこの時代、多くの学生がペン大に留学しているんですよ。そしてそこで学んだものを中国に持ち帰って、近代建築を根付かせていくというね。ただ、実は当時のペン大は全然モダニズム的じゃなくて、逆に非常に古典的な教育だったから、中国はモダニズム受容は遅れたということ。中国の学生は当時の日本にも留学していますが、主に東京工業大学ですね。何れにせよ、アメリカに留学した学生は欧米の建築学を直接勉強して帰ってくるわけですが、日本人は1920年代から1930年代になると、もうほとんど海外の大学に留学するということはないので、この違いってすごく大きいんじゃないかと思いますね。ただし、内務省の官僚は必ず一年間欧米に出張していますね。一箇所に長くいるわけではなくて、いろいろなところを歩きまわって、国際会議にも幾つか出て、とにかくたくさんの外国の書籍を買って帰ってくるみたいな。

松田:日本は翻訳を通して海外のことを勉強した・・・

中島:それぐらいですね。要するに欧米の教育の現場とか、欧米の人が具体的に何を読んで、何を大事にしているのかみたいなことが、あまり分からなくて。あくまで欧米の雑誌とかを見て(理解しようとした)だけだと思いますけどね。欧米の都市計画を現地でちゃんと学んだ人っていうのは、戦前はいないんじゃないですかね。決してネガティブな話というわけではないのですが。

松田:おそらくいないような気がします。まあその中でも、1917年の都市研究会は、東西のもっとも優秀で、最新の情報を持った人たちが集まっていたんですよね。

中島: 翻訳という意味では欧米の都市計画は身近にあったわけです。だからやはり「日本の」都市論、あるいは都市計画論というのは、あまり意識されていなかったと思いますね。こういう議論をすると、どうしても、海外の都市計画論に匹敵する日本の都市論というものを見たくなるんですけど、そう呼べるものがほとんど・・・

松田:ないということですね。

中島:ないと思いますね。

松田:市区改正のころは、1880年代という欧米に比べてもかなり早い時期に、東京全体をどうすべきかみたいな議論が、日本では特に東京府知事などによりあったわけですが・・・

中島:もちろん都市の将来像に関する議論は常にあったと思います。

松田:やっぱり層がそんなに厚くなかった・・・

中島:その時の都市論って、ショエの言葉を借りれば、まさに都市整序化の段階であって、都市の秩序がどうあるべきかといった議論は非常に少なくて、眼の前にある道路を広げるとか公園をつくるとかの話の先に、都市像として何が必要とされているのかといった議論が少なかった。

「都市計画」「アーバンデザイン」「アーバニズム」

松田:このあたりで少し全体の総括に入っていければと思います。主に1910年代についてお話をさせて頂いてきたわけですが、このころは世界中で「都市計画」という概念が用語としても定着していく時期でした。これまで出ていない言葉ですが、中島さんは最近「アーバニズム」という言葉にも注目されていたかと思います。こちらは1910年代の言葉というわけではないですが、広く都市論といった時に、むしろアーバニズムという言葉を想起する人も多いと思います。

中島:そうですね。まあこの時代は「都市論」が「都市計画」だった時代であって、その後は都市計画が必ずしも都市論の中心ではない、と逆にこの時代からみると感じますね。「都市計画とは何か?」という議論をすることが、都市論の最先端だったのが、20世紀の前半だったといえるかもしれません。

松田:そうすると、その後は何が都市論の中心だといえるでしょうか?

中島:やはり一番面白いと思っているのは、1950年代にハーバード大学から出てきた「アーバンデザイン」です。基本的にはアーバンリニュアルとかの話のなかで、建築の単体を超えたデザインの必要性に迫られて始まります。このアーバンデザインが盛んになった時に、まさに次の「都市論」が出てくるわけですよね。ケビン・リンチもそうだし、クリストファー・アレグザンダーとか、ジェイン・ジェイコブズも含めて、アーバンデザインの概念が動いていくのはすごく面白いと思っていて、実務的な意味での都市設計とかアーバンデザインだっていう話が出てきた時に、一方で、都市をどう認識するかとか、都市の主体は誰かみたいな議論が同時にあったわけですね。それが1950年代から1960年代にかけてハーバードがやっていたアーバンデザイン会議に集まっているんです。

図7:ホセ・ルイ・セルト(出典:英語版Wikipedia「Josep Lluís Sert」より, Generalitat de Catalunya所蔵)

松田:ホセ・ルイ・セルト(図7)がハーバード大学GSD(Graduate School of Design)の学部長になるのが1953年で、1956年からアーバンデザイン会議が始まり、槇文彦さんもそこに参加したりしていたわけですね。日本では磯崎新さんが中心となって「都市デザイン」という言葉も広まっていきました。

中島:ええ。で、アーバンデザイン会議では、アーバンデザインの手法とか技法というよりは、やはり都市をどう認識するかという認識論が求められていて、都市計画に対してアーバンデザインが、ある種批判的に機能してくるわけで、そういう意味では都市論の最前線に出てくるわけですね。そして、その次の時代には、いろんな都市論が「アーバニズム」とか呼ばれたと思うんですね。

でもいまは全然違っていて、都市計画の人たちが全然都市論に出てこないし、アーバンデザインの延長のような都市の認識論も、表に現れてきていない。私の考えとしては、時代によって都市論の中心というものが変わってくるなかで、都市計画やアーバンデザインも、もう一度都市論にちゃんとタッチしないと、ある種の技術化したものだけが単に続いていくことになる。むしろ、その場の都市の現象に引きずられて、単に課題に答えたりする対処療法になってしまうので、もう一度、都市論をいうものをどうわれわれが持ち得るかということを、問題意識にしないといけないんですよね。

アメリカの「アーバニズム」というのは、その問題意識を持っていると思うんですね。アメリカはアーバンデザインとかアーバンプランニングという言葉よりも、アーバニズムという言葉を、この30年くらいずっと使っているわけですよね。ニューアーバニズムが一番典型ですけど。あの中に、やっぱり単なるプランニングや技術ではないものまで捉えようという、アーバニズムと呼ぶ何かがある、そういうことなのかなあ、というのはあります。だから、これは大きな話ですけど、その動きを見ながらいまの都市計画やアーバンデザインをもうちょっと変えていきたいということなんですね。実際、自分がそのままできているかどうかは別として。

松田:個人的に、非常によく理解できる話です。

ルイス・ワースのアーバニズム/ニューアーバニズム

松田:アメリカでは、アーバニズムという言葉は、シカゴ学派のルイス・ワースが使った言葉としても規定されていると思いますが★9、それはいま中島さんがおっしゃったアーバニズムという言葉の意味とは、ちょっと違う使い方をされていますよね。

中島:ええ、そうです。最近思っていることなんですけど、ルイス・ワースが使ったのは、あくまで事実概念なんですよね。実際、世界でも先端を行く、当時は珍しい都市化された場所での大きな問題意識は、おそらくコミュニティの解体で、そこでどのような都市的生活様式が生まれているのかという事実概念なわけですね。

図8:Vincent Joseph Scully, “American Architecture and Urbanism”, Henry Holt, 1969(邦訳:ヴィンセント・スカーリー『アメリカの建築とアーバニズム 上』『アメリカの建築とアーバニズム 下』鹿島出版会, 1973)

でも、アーバニズムには一方で規範概念もあります。ヴィンセント・スカーリーが1969年に『アメリカの建築とアーバニズム★10』(図8)という本を書いていますね。あれはモダニズム批判として書いているわけですけど、そこで言っているアーバニズムというのは、決して事実概念としてのアーバニズムだけではなくて、まあユルバニスムの影響を受けている気がしますが、規範的な概念もあって、アーバニズムという言葉の面白さはその両輪を持っているということなんですね。特にアメリカのアーバンデザインとか都市 計画の人たちが使うアーバニズムというのは両方入っていて、いま目の前に起きている都市の事実概念であると同時に規範概念なんですよね。こういう都市があるべきだというような。この二つがまさに一緒にあるということを上手く表せるのがあの言葉だし、言葉というよりも実践としても大事なんじゃないかと思っています。

そういう意味では社会学的なものと、もう少し規範的な都市計画というものが一緒にあるということで、もしかしたらさきほどのゲデスとかも、そこと繋がる可能性があると思います。分析をして終わりというシカゴ学派的な社会学ではなく、社会につなげる方向性を持っている社会学と似ていて、かつ、都市の実態だけでなく都市の理論を持つ都市計画というものとも似ている。だから、見取り図ということでいうと、実態と理論、観察と介入をつなげるのがアーバニズムということかなと思うんですよね。

松田:何年か前にも同じことをお聞きしたことがありますが、いまの中島さんのお話の延長上で、英語のアーバニズムと、フランス語のユルバニスムの違いというのは、何になるでしょうか?微妙なニュアンスの違いは、いまの中島さんのお話で分かった感じがして、アメリカのアーバニズムは、おそらくワース的な「都市的生活様式」という都市の実態を示す意味を含んだまま、もう少し都市の規範的もしくは理論的な部分を含んだ、一般的な意味でのアーバニズムという概念と結びついた複合的な概念としてあって、それに対してフランス語のユルバニスムは、ワース的な部分を除く後者の理論的な部分だけと、大部分が重なるということかなという気がしました。

中島:ええ。だからアメリカの建築家たちはその両方を知っているわけで、だから彼らが使うと面白いものになっているんじゃないかと思っています。

松田:英語というか米語におけるアーバニズムという言葉の、かなり核心的な部分が見えてきたと思います。あとは、イギリスやドイツの状況とも重ね合わせられたらよいのですが・・・

中島:ドイツは分からないですね・・・。イギリスでも最近アーバニズムという言葉や概念を使っているんですよね。イギリスの人たちだって、アメリカで教育を受けているわけですからね。リチャード・ロジャースとかノーマン・フォスターもアメリカの大学で学んでいますよね。

松田:二人ともイエール大学ですね。ちなみにアーバニズムを日本語に訳すと「都市学」なんですかね?

中島:都市学ですかね?でも「学」っていうのは・・・。いわゆる学術という意味だけではないので。

松田:違いますね。

中島:もっと探求と言うか・・・

松田:やはり「都市論」なのかもしれませんね。

図9:Emily Talen, “New Urbanism and American Planning: The Conflict of Cultures”, Routledge, 2005(エミリー・タレン『ニューアーバニズムとアメリカン・プランニング―文化の衝突』)

中島:その辺のアメリカの話なんですが、エミリー・タレンさんの『ニューアーバニズムとアメリカン・プランニング―文化の衝突★11』(図9)を読んだことありますか?

松田:あ、ないですね。

中島:エミリー・タレンさんは、ニューアーバニズムの女性の理論家で、いま現役で活躍している人です。

松田:これは是非読みます。

中島:彼女はモダニズムはアンチアーバニズムだと批判していますが、ではアメリカにおける規範概念としてのアーバニズムって何なんだというので、4つのモードを図式的に示しています。4つのモードというのは、インプリメンタリズムとアーバン・プレイス・メイキングとブランド・コミュニティとリージョナリズムで、それらが規範的概念としてアーバニズム、特にニューアーバニズムを構成しているということになるのです。アーバニズムの定義は「ある確立された原理に基づく、理想的な人間のセトルメント、居住地ですね、それを実現させるためのビジョンと探求」ということになります。

松田:セトルメントというと、ややアメリカ的なニュアンスもありますよね。

中島: まあそうですね。植民都市的な感じかもしれないです。でもこの本はすごくよい本で、この前アメリカ都市・地域計画史学会に行った時に彼女とはじめてお会いしたんですが、彼女は今度は「ネイバーフッド」という概念を歴史的に解体しようとしていて、その発表が面白かったんです。

松田:実に興味深いです。

都市論ネクサス

松田:さてこれで、今日は20世紀前半の都市論という、大変な広範な領域に渡って、高い密度で一気にお話をして頂きました。お忙しい中、本当にありがとうございました。

中島:いえいえ、全然。でも難しいですよね。

松田:本当にそうですね。あらためて、実に様々なことがこの頃複雑に絡み合いながら、動いてきたのだなと感じました。最後に、何か言い残したことなどありますでしょうか?

中島:今日の企画書を見ると、大体もう・・・

松田:かなり話尽くした感じがありますかね?

中島:まあ、後はヘーゲマンの再評価というのは、いまのプレイス・メイキングの話とかにつながっていくところがあると思うんですね。シビックアートとか、そういうものの大事さですね。場づくりですよね。都市計画が抽象化したり、システム化していくのに対して、シビックアートはやはり具体的な場づくりの理論であって技法なので。そこもわれわれ的には大事ですよね。

松田:ヘーゲマンはいまこそ再評価されるべきですね。この人は批評家、編集者としても面白いですが、建築的な教育を一切受けていないにもかかわらず、一時期は都市計画事務所をやりだして実践にも関わるなど、あまりに広範な活動を行っていました。

図10:チャールズ・ビアード(出典:英語版Wikipedia「Charles A. Beard」より

中島: そうそう今になって思いだしたのですが、ヘーゲマンは、後藤新平が招聘して日本に来た歴史学者・政治学者のチャールズ・ビアード(図10)とも関係がありますね。ビアードはコロンビア大学の教授を辞職した後、ニューヨークの市政調査会の理事になっていましたが、後藤が1920年に東京市長になったときに、東京市政調査会をつくろうとして、何かのきっかけで、ビアードを招聘するんですね。

松田:当時、ニューヨークに後藤の娘婿の鶴見祐輔がいて、アメリカの腐敗した市政を立ち直らせたのが、ニューヨーク市政調査会の科学的調査だったということを、後藤が鶴見に調べさせて知って、それでビアードに行き着くわけですよね★12。

中島:後藤新平は、よく言われていますが調査が大好きで、台湾の時から調査をしまくっていて、だからビアードとつながった。都市計画というものがどういうことがやらないといけないのかということを、ビアードがある種示したんですよね。ビアードは都市計画の人ではないんだけど、交通機関をつくるべきだとか、いろいろ言うわけですよね。

松田:へーゲマンと関係あるんですか?

中島:ヘーゲマンは最後にニューヨークのニュースクールに行きますよね。このニュースクールってまさにビアードのつくったところなんですね。いまでもありますけど。最後に、彼らがつながっていて面白いなと。

松田:それは面白いですね。知らなかったです。

中島:そういう意味で、調査っていうと、ヘーゲマンもいろんなものを調べる人だから。

松田:確かに。ヘーゲマンはナチスから逃れてニューヨークに来た時、まずここに職を得るわけですよね。実にいろんな接点がありますね。ヘーゲマンもそうですし、社会調査の先駆者フレデリック・ル・プレイから影響を受けたゲデスとも共鳴しますね。

中島:あと、フランソワーズ・ショエも重要ですね。

図11:”Revue Urbanisme”, n°282, mai-Juin 1995

松田:そうですね。フランスだとショエはもう超大御所ですが、次の世代の重要な人でティエリー・パコという人がいます。僕もフランスで教えてもらっていました。パコは、ショエとか、ショエと同じ世代のマルセル・ロンカイヨロとか、少し上の世代の人たちがやっていたことも含めて、フランスのユルバニスムの全体をいろいろまとめている人ですね。『ユルバニスム』誌(図11)の編者もやっていました★13。

中島:ああ、そういう人なんですか。

松田:ものすごい勢いで本を出しているんですよ・・・

中島:そういう意味では、ショエも、もう乗り越えられているという感じですか?

松田:そうですね。パコはショエをものすごくリスペクトはしていますけれども、パコは二回りほど下の世代ですし、哲学者であって、都市はもちろん、映画の本も出していたり、建築から歴史から何から、ものすごくおさえている範囲が広い人ですね。フランスのいまのユルバニスムを知るなら、やはり重要だし、多分一番面白い人だと思います。

中島:そうですか。日本だと、まだショエのことですら、ほとんど理解されていないわけですよね。そういえば、この『近代都市―19世紀のプランニング』はジョージ・R・コリンズさんが監修しているんですよね。知っていましたか?

松田:ああ、それは気づかなかったです。確かに、まえがきを書いていますね。

中島:このシリーズは何冊かが日本語になっていますけど、このシリーズをつくったのが夫の方のコリンズさんです。やはりコリンズ夫妻の仕事は大事ですよね。

松田:大事ですね。ソリア・イ・マータの本もスペイン語なんですが、こちらもジョージ・コリンズさんが監修していて驚きました。

中島:コリンズさんが出したショエの本は、英語版ですよね。

松田:ショエの元のテキストも英語版だったようですね。

中島:そういう意味ではコリンズさんは、この辺の人たちを、英語で紹介したんですね。

松田:フランス語と英語も距離があるので、やはり重要な仕事をしていますね。

中島:本当にそうですね。

松田:・・・ええと、丁度2時間ですね。・・・お忙しいところ、今日は本当にありがとうございました。これでインタビューの方を終了させていただきたいと思います。

中島:いえいえ、こちらこそ。本当に久々に、こういう話ができて楽しかったです。

松田:実に楽しかったです。

(中島直人インタビュー「 20世紀前半の都市論―1910年代の断面図(3/3)」: 日本の都市計画創成期、アメリカのアーバニズム論」了)

[2018年1月12日、東京大学都市工学科中島直人研究室にて]

中島直人(なかじま・なおと)
1976年東京都生まれ。東京大学工学部都市工学科准教授。主な著作に 『都市美運動―シヴィックアートの都市計画史』(東京大学出版会)、『都市計画家石川栄耀―都市探求の軌跡』(共著、鹿島出版会)など。


★1 秋本福雄は、これまで東京市区改正に関わった人がパリ改造をモデルとしてその手法を取り入れていたとしていたという石田頼房・鈴木栄基らの広く流布した説に対して再検証を行い、必ずしも市区改正自体がパリ改造を全面的に参考にしていたわけではないことを明らかにしている。秋本福雄「「超過収用」再考:東京市区改正はパリ改造を手本としたか?」『都市計画論文集』, Vol.49, №3, 公益社団法人 日本都市計画学会, 2014, pp.1071–1076

★2 松田達(文)+寺田晶子(イラスト)「市区改正」(建築思想図鑑 第13回), 建築討論, 14号, 2017, https://medium.com/kenchikutouron/%E5%B8%82%E5%8C%BA%E6%94%B9%E6%AD%A3-b5f563e805b0

★3 関が卒業した1893年は高等商業学校。1902年に東京高等商業学校と改称、1920年に東京商科大学へと昇格、1949年に一橋大学設立。

★4 大山勝男『「大大阪」時代を築いた男 評伝・関一』公人の友社, 2016, pp.132–135

★5 ジェフリー・E・ヘインズ著, 宮本憲一訳『主体としての都市―関一と近代大阪の再構築』勁草書房, 2007, p.275, 390

★6 Reinhard Baumeister,‎ Josef Classen,‎ Josef, Stübben, Die Umlegung Stadtischer Grundstucke Und Die Zonenenteignung, Berlin, 1897

★7 越澤明『後藤新平』ちくま新書、p.171

★8 Alfred Richard Sennett, Garden cities in theory and practice : being an amplification of a paper on the potentialities of applied science in a garden city, London, Bemrose, 1905

★9 内務省地方局有志編纂『田園都市』(博文館, 1908)。後に内務省地方局有志『田園都市と日本人』(講談社, 1980)として復刻版が出版。

★10 Louis Wirth, “Urbanism As A Way of Life”, in The American Journal of Sociology, Vol. 44, №1, The University of Chicago Press, 1938, pp. 1–24

★11 Vincent Joseph Scully, American Architecture and Urbanism, New York, Praeger, 1969

★12 Emily Talen, New Urbanism and American Planning: The Conflict of Cultures, Routledge, 2005

★13 平田幸子「C・A・ビーアド(一八七四―一九四八)―東京市政の助言者」, 御厨貴編『時代の先覚者・後藤新平1857‐1929』藤原書店, 2004, pp.264–265

★14 La revue Urbanismeは、1932年から続くフランスの都市計画雑誌。ティエリー・パコは1994年から2012年まで編者を務めた。


建築討論

建築をめぐる幅広い批評的議論のプラットフォームを提供する日本建築学会のウェブマガジンです。

松田達

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松田達

まつだ・たつ/1975年石川県生まれ。建築家。建築計画・都市計画史。武蔵野大学工学部建築デザイン学科専任講師/1999年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。隈研吾建築都市設計事務所を経て、パリ第12大学パリ都市計画研究所にてDEA課程修了。東京大学先端科学技術研究センター助教を経て現職。

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