中田捷夫[1940-]“よろず屋”的構造家としての視点と直感

話手:中田捷夫/聞手:種田元晴・山田憲明・浜田英明・青井哲人・橋本純・砂川晴彦[連載:建築と戦後─12]

建築と戦後
建築討論
72 min readNov 1, 2022

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日時:2021年12月3日(金)17:00–19:30
場所:中田捷夫研究室(東京都豊島区)
同席:山田憲明(山田憲明構造設計事務所)
聞手:種田元晴(T)、浜田英明(Hm)、青井哲人(A)、橋本純(Hs)、砂川晴彦(S)

中田捷夫氏(撮影:砂川)

地震大国・日本の近現代建築、とりわけ大空間は、建築家と構造家によるコラボレーションによって、世界的に高い評価を受けるに至った。

その代表格となるのは、「国立代々木競技場」(1964年)や「大阪万博お祭り広場」(1970年)など多くの大空間建築で、意匠設計の丹下健三[1913–2005]と協働した構造家・坪井善勝[1907–1990]である。

坪井は後進の育成にも尽力し、その門下には、青木繁[1927-]、川口衞[1932–2019]、齋藤公男[1938-]などの大空間を得意とする構造家がいる。

中田捷夫氏もまた、坪井門下のお一人であった。中田氏は、坪井の仕事を長きにわたって間近で支え続け、そして、その事務所を引き継いだ。坪井の仕事を継承するとともに、木造の新たな可能性を追求するなど独自の展開をも進める、現代の建築界を代表する構造家のひとりとして知られている。

本インタビューは、日本建築学会 建築討論委員会 戦後建築史小委員会による2021年のインタビューの記録である。

中田氏に関しては、すでにいくつかの聞き取りがなされており、ウェブ上でも閲覧可能なものがある。本インタビューは、これらの既往の成果に敬意を表しつつ、とくに戦後史を知るうえで一人の構造家の活動に着目するという視点に独自性をもたせつつ、文字数制限のない媒体による記録性の高さを生かして、詳細にその人物像と時代背景を聞き取ることを旨としている。

なお、インタビューには、小委員会委員有志のほか、中田氏との間を取り持ってくださった構造家の山田憲明氏(前建築討論委員会委員)にも同席いただいた。(T)

1. 生い立ち

T: 先生の事務所のホームページで公開されている「アトリエ系構造設計事務所の「はじまり」」(https://www.nakatalab.com/blank-1)で門脇耕三先生と権藤智之先生がすでに聞き取りをされています。これ以上何をお聞きしたらいいのかというぐらい、大変よくまとまっていました。門脇先生のTwitterによりますと、公開されたのは今から約4年前、2017年の5月頃のようです。「最近の仕事」として岡本太郎の壁画「明日の神話」の渋谷駅移設について語られていましたので、インタビューを受けられたのは、ホームページでの公開よりさらに10年近く前の2008年末~2009年頃でしょうか。

中田捷夫(以下、中田): 門脇さんは明治大学の方ですよね。彼は一度、私の話を聞きに来られました。2時間ぐらい丁寧に聞き取ってくださいましたが、発表は正式にはされていないようですので、ホームページに載せています。理科大出身の吉田友紀子さんがまとめてくれました。あそこに個人的な話は全て載っています。

T: あちらをベースとして、今日は、その後のお仕事さらに色々な方との人間関係や時代背景などに踏み込んで、ひろく戦後日本の建築を取り巻く状況について伺いたいと思います。恩師であられる坪井(善勝)[1907–1990]先生についてもお聞かせいただきたいですが、なるべく中田先生ご自身のことをじっくりお伺いしたいと思います。まず生い立ちからお聞かせください。

中田: 生まれは大阪の堺市です。刃物が有名で昔の自由都市で、商売人が多かった所です。私の父は建築屋、祖父は洋服の仕立て屋でした。祖父は飲み助で、生活は苦しかったようです。当時、尋常小学校を出て、今の東工大の前身である蔵前(東京職工学校、東京市浅草区蔵前に所在)の試験には受かっていたようですが、親が、そんな所には行かせられないといって、中卒で設計事務所に奉公に出ました。19歳のときに、その事務所のおやじが亡くなってしまい、仕方なく父は見よう見まねで事務所を引き継ぎました。私の父が亡くなったときに事務所から持ってきた手描きの図面があります(インタビュー後半に当図面を拝見する)。図面はT定規と三角定規を使って描き、計算は計算尺とそろばんを使います。

私は戦争前の昭和15(1940)年生まれです。そのころには既に坪井先生などを中心にして、学会のRC基準がまとめられています。坪井先生が書いたRCの本があるというのですが、坪井図書の中にその本は見たことがありません。学会の基準だと思いますが、それを独学で一生懸命やってもグラフを見てこれは何なのか、なぜこうなっているのかがどうしても分からないと言っていました。要するに(父は)数式が持っている理屈を知らないので分からなかったわけですが、それでも見よう見まねで表の引き方などを学びました。(父が設計した)RC造といっても、もちろん小さな2~3階のものですが、自分で設計をして戦前に建てました。戦前というと私はまだ5歳ぐらいですから何も分からないし、小さな二軒長屋の表側が仕事場だったのですが、そこに机を2つ置いてT定規で父が図面を描いていました。子どもの頃、そこはオフリミットで立ち入りまかりならんということで入れてもらえませんでした。しかしT定規を使ったりして図面を描いている雰囲気だけは、私は知らないうちに身に付けていたのだと思います。

そのうち戦争が激しくなり、堺では刃物を作っていた関係で、鉄砲の弾を作っていました。アメリカ軍が空母で和歌山沖に入ってきて、大阪市内より先に堺は爆撃を受けました。父は私と姉と母に、危ないからといって、兵庫県の福知山よりさらに奥の山の中で家を借りて疎開させました。

(昭和)20(1945)年には大阪空襲を受けたわけですが、母が私たちを山の上に連れていって、家が燃えているから見ときやと言いながら、向こうの空が真っ赤になっているのを見ていたというのが何となく記憶に残っています。私が5歳のときです。田舎にいたころは、パンツ一丁でわらぞうりを履いて田舎を駆けずり回っていたので、建築との関わり合いは何もありませんでした。

5年間、疎開先にいて、(昭和)25(1950)年に、町も落ち着いてきたからといって、小学3年生のときに堺に戻ってきました。そのころは堺も焼け野原で、建築物はあまり建っておらず、うちから堺の海までは3キロぐらい離れていますが、高い所に上がると海が見えるぐらいの焼け野原でした。父は、そこに家を建てないといけないということで、木造中心の安い建築ですが、仕事は潤沢にあったらしいです。

夜、仕事場で描いているときに入室を許されて、父が図面を描いている横に行くと、「おまえ、少し手伝え」と言われ、鉛筆の先をトレペでとがらせるようなことをやりながら、父の後ろで図面が出来上がるのをずっと見ていました。

T: お父さまは、戦争中は堺にいてお仕事をされていたのですか。

中田: そうです。空襲のときは自転車に乗って堺の町を逃げ回り、防空壕に飛び込んで、しばらくして見たら自転車のタイヤが燃えかすのようになっていたそうです。焼夷弾の間を逃げ歩いたのです。堺の中心なのですが、不思議なことにうちがあった一画だけ焼け残りました。住んでいた長屋は明治の半ばか初期に建ったもので、100年近くたっていました。

そんなことをやっていたので設計になじんではいましたが、片や自分(父)はそういう(高等)教育を受けておらず、手に入れた本の表の引き方だけを覚えながら設計していました。設計の世界の全くこちらのサイドにいるとしたら、坪井先生はそれを全部まとめてコンクリートの基準をつくっていたわけですから、いわゆるあちらの先端にいた人です。

私が中学生の頃は、父が描いた図面を青写真屋に自転車で持っていく程度で建築のことはあまり何もしていませんでした。私は野球をやっていまして私とバッテリーを組んでいた人が、昭和38(1963)年、法政大学の完全優勝のときに活躍しました(後述)。高木喬[1940–2012]というのですが近鉄に入ってその後西鉄に行って、芽が出ず辞めてしまいました。高校は進学校で中学校はそこそこの成績が学年で1桁ぐらいの順位でした。

T: 何という中学校ですか。

中田: 堺市立殿馬場中学校です。町の真ん中にありました。高校は大阪府立三国丘高校で、殿馬場中学校から30~40人ぐらい同じ高校に行きました。そこは旧制堺中という学校だったので、大阪府の中では進学校でした。先輩は日建(設計)に行った矢野克己[1928-]さん、後輩は(滋賀)県立大にいる陶器浩一[1962-]さん。若い人では平田晃久[1971-]さん。男200人、女200人で400人の学校ですが、男200人の半分以上は京大、阪大、大阪市大、府立大、神戸大に入ります。

ところが、私は、高校に行ってから勉強に興味を失って、クラブ活動をやり始めました。野球部にはいたのですが、時々、『三丘評論』という雑誌を作っていました。当時はガリ版といって、やすりの上で油紙に書いて、それを刷って文字を書いていたのですが、『三丘評論』という、いわゆる感想文とか随筆とかそういうのを書いたり、演劇部で『夕鶴』の演出をやったり、音楽鑑賞部といって教室の一角を借りて大きなスピーカーでレコード再生してみんなで聞くクラブをやったり、自治会でいろいろ学生活動をやったりしていたものですから成績が急降下しました。

授業どころかそちらの方が忙しくて、先生には全部やめろと脅かされましたが、結局やめずに卒業はしましたが父が建築をしていましたから自然に建築学科に行くことになりました。うちから近いのが大阪市立大学で、自転車で大和川という川を渡ればあるので、大阪市立大学を受けました。二期校は名古屋工大があるというので受けたわけですが、周りの人がみんな受かるので落ちるなんて全く思っていませんでした。結果は全滅です。当時は大阪市大を受けてから二期校を受けられたのですが、そのころは名古屋には全く行く気がなくて、1泊2日の泊まりがけで行くのですが、パチンコをしていました。

仕方がないのでその後、大阪の土佐堀という、中之島の少し西の辺りにあるYMCA(現・大阪YMCA)に行くことになりました。大学に落ちてから予備校に来る人は試験があったので、試験を受けて行ったのですが、勉強する気があまりありません。堺から難波に出て中之島に行くのですが、当時は南海ホークスが難波にあったのです。休みの日の夜にナイターの明かりがついて、わーっという声が聞こえると黙って素通りができなくて日曜ごとに南海ホークスの試合を見ていました。私も野球をやっていて野球が好きで南海野球教室のような所にも行っていました。

予備校ではそこそこ成績が良くて教えにきていた阪大の先生が「うちの大学に来ないか」と声を掛けてきたぐらい予備校の中では上の方の成績で貼り出されていたのですが、阪大は構築(編注:土木と建築の両分野を有する構築工学科)しかなくて建築ができなそうだということで、少し遠いですが神戸大を受けることにしました。二期は名古屋工大を申し込みました。

ところが、父があるとき、東京に日本大学というのがあって、そこで坪井先生が兼任教授として教えている。あそこを一度受けてみたらどうかと言い出したのです。日大というのはそのころ全然知りませんし、東京に行くといったら、大阪から特急でも8時間半かかるぐらい大仕事でしたから、東京に出るということは全く考えていなかったのですが、仕方がないので、そこを申し込みました。

予備校が東京YMCAの泊まれる所を紹介してくれるので、小川町のそこに泊まって日大の試験を受けたところ、行く気はなかったのですが、受かったのです。結局、神戸大は落ち、名古屋工大は例によって、名古屋でパチンコをして、やる気もないので、受かるはずがありません。

A:一応、試験は受けたのですか。受けて、合間にパチンコをしていたということですか。

中田: そうです。試験はすぐ終わるので、夕方からパチンコ屋へ行きました。急に東京に出ることになって、母が泣く泣く布団袋を買ってきて、布団を詰めて、柳行李に洋服などを詰めて、トランジスタラジオを持って東京に出てきました。

中田捷夫研究室(中田先生の主宰する事務所)にて(撮影:砂川)

2. 日大に入学

中田: たまたま母の弟が横浜の金沢文庫に住んでいたものですから、そこに身を寄せましたのですが、金沢文庫から世田谷の文理学部まで行くのに、特急で品川に出て、山手線で新宿に出て行くと、大体2時間はかかります。

一般教養というのは面白くないではないですか。おまけに、あちこち落ちて東京に来てしまったというのが恥ずかしくて、高校には言えないような状況でした。当時は三国丘の卒業生としては恥ずかしくてなかなか言えませんでした。

それで毎日授業を受けるのが嫌で新宿駅の西口で降りては3本立ての映画を見ていました。普通の家には扇風機しかありませんが、映画館は冷房が入っているので涼しくて、朝から映画を3本見て、授業を受けたような顔をして横浜に帰っていました。1年の前期の試験を受けたら物理も化学も何も受かりませんでした。本も見たことがなければ何もやっていないわけで、高校の延長ぐらいのことしか知らないわけですからひどいことになりました。

成績を学校が親に連絡するのですよね。とんでもないひどい学校だと(当時の)私は思いましたけれども、母にばれてしまいあんたは意気地なしだ。東京に行ったからといって、そんなことしかできないならもう帰っておいで。仕送りはしないからと脅されて、泡を食って、後期は少し学校に通いました。

後期になるとお茶の水駅の前を降りて外に出たら、同じ学年の仲間が5~6人たむろしていて、中田が来たといって、一緒に学校の前を通り越して、古本屋街にすずらん通りというのがあるのですが、そこの1階がパチンコ屋で、2階がマージャン屋。そこに連れていかれて、順番が来るまでパチンコをやって、マージャンが終わって帰ってくるともう星が出ているという生活でした。

これは名誉のために、言っていいのかどうか分かりませんが、日大というのは(当時は)、田舎の工務店の息子みたいな人が、要するに大学出のレッテルを貼ってもらいたいがために来る人がたくさんいたのです。ですから、もともと勉強する気はありません。卒業させるための試験なので、非常に易しくて、前の日にマージャンをやっていても、夜に少しノートを見るだけで点が取れるのですね。それで、かろうじて2年生に上がれました。2年生に上がったら応用力学や構造力学などが始まって、2年が鉄筋コンクリート、3年が鋼構造。4年になったら、坪井先生の木構造というのがありました。木構造設計的な話でした。坪井先生は兼任で来ておられて、RC造もS造も木造もみんな坪井先生が学会の基準を説明していました。応用力学や構造力学は日大の先生がいましたが、ほとんど坪井先生の授業でした。でも前5列か10列ぐらいしか人はいないのですが、試験になったら教室にあふれんばかり人が来ていました。試験は非常に易しくてたいがい少しやると満点取れるものでした。4年になったら、どういうわけか学年で3番目の成績になったのですが、2番目の人が短期から編入してきた人で、優以上でないと認めにならないということで、1番と3番の2人が特待生になり、4年で授業料免除になりました。5月か6月ぐらいに前期の授業料、5万近くが返ってきました。下宿代が1畳6000円の時代で、1万8000円で生活していた時代です。成績が発表されたら中田が特待生になったということで、悪い連中がいっぱい寄ってきて、腕を持って、神田の飲み屋に行って、みんなでお祝いだといってお酒を注文し、二晩でなくなってしまいました。そういう大学ですので成績は取りやすく、4年生になったときに坪井研究室から、以下の人は来室を歓迎しますという、学生のお誘いのようなものがあって、それで坪井研に行くことになったというのが、少し長くなりましたが、てんまつです。

T: 坪井研に希望を出していて、その上で歓迎されるということですか。

中田: 行きたい人は名前を書きます。坪井先生がどういう方かはよく分かりませんでしたが、父もそういう仕事でしたから認識はありました。成績が悪ければ落とされます。

T: 坪井研を希望する人は多かったのですか。

中田: よく覚えていませんが、坪井研で卒論を取ったのは、理論や研究の部門と実験をやっていた先生がおられて、どちらも5人ぐらいで、全部で10人ぐらいだったと思います。

T: 計画系と構造系と環境系と分かれてから希望するのですか。

中田: 何もありません。坪井研はこういうテーマでやると分かっていたので、計画系の人が来ることはありません。

T: どういう先生がいらっしゃいましたか。

中田: 坪井先生と同年代では斎藤謙次[1921–1970]先生。理工学部長をして。そのすぐ下の加藤渉[1915–1997]先生は円筒シェルをやっていました。材料は東大の岸谷孝一[1926–1996]先生が教えに来ていました。中性化の岸谷式というのがあります。友澤史紀[1940–2019]さんの先生です。計画系はあまり覚えていませんが、市川清志[1917–1986]先生、歴史の小林文次[1918–1983]先生。3人の先生の授業は受けていました。近江榮[1925–2005]先生もいました。構造では斎藤謙次先生、加藤渉先生のほかは、西村敏雄[1931–2015]先生、榎並昭[1927–2009]先生がいらっしゃいました。計画系は、例えば評論は近江栄先生で、建築系の教授は小林文次先生などです。

T: 宮川英二[1915–1989]先生はいましたか。

中田: 顔は覚えています。そういう先生方がおられて、みんなばらばらに研究室に入りました。私は4年のときにはほとんど単位を取っていましたから、4年生の科目は2科目ぐらいありましたが、週に1~2回、それも半日お茶の水に行けばよくて、あとはずっと六本木の東大生研にいました。

そのころ、日大の2年先輩で、坪井研で修士をやっていたのが斎藤公男[1938-]先生です。彼は理屈っぽいことはあまりやっていなくて、建築評論に近いというか、構造デザイン論のようなことをやっていました。坪井先生が指導した感じはなく、御自分でやっていました。そのころ私たちは卒論で行っていたので、斎藤さんの雑用を手伝ったりしていました。東大の坪井研は、本郷から1人、東大以外から1人、日大から1人ということで、修士は1学年に3人いました。

T: 日大からの人の所属は日大のままですか。

中田: そうです。坪井研究室は日大の田治見宏先生[1924–2011]の田治見研扱いでした。ですから、田治見研究室所属で坪井研配属、私の日大での先生は田治見先生ということになります。田治見先生は航空学科から来られ大学院は坪井研ですが、振動と地盤とのインタラクションなどをやっておられた日本のある意味のパイオニアです。田治見先生は私の先生です。

3. 大学院と万博

中田: 2年終わって斎藤さんが出た後、日大から1人、大学院に入れるというので斎藤さんの後に日大所属で大学院に入りました。この話はしていいかどうか分かりませんが、日大に行くな、東大に来いと坪井先生は言っていたので東大に願書を出していました。ところが、1週間ぐらい前になって、君は日大に行けと言われ、授業料を払わないといけないと思っていたところ、授業料は俺が出すからと。半年ぐらい前に学内の選抜は受けていたので大学院に進めることにはなっていましたが、日大の大学院に入りました。実際、授業にはほとんど行かず、みんなのレポートに名前を書いてもらって、修士の単位を取りました。

東大生産技術研究所の中には建設工学研究会という文部省の学術振興財団があります。これは外部からの委託研究を受けて契約したり、事務的な、例えば人に払うお金や材料を買うお金を扱っているような、いわゆる東大の公費とは別に財団で研究を受けて、そこで研究をサポートしたりするところで、一部だけ東京大学に納めれば、あとは財団で自由に使えたそうです。そのころは坪井先生や池辺陽[1920–1979]先生、身近なところでは村上雅也[1938-]先生、音響の石井聖光[1924-]先生などが理事長になって、それぞれの研究室で口座を持って、そこで委託研究を受けていました。私はそこから給料というかたちで、恐らく月に4~5万もらっていたので、今でいうと15万ぐらいの感じでしょうか。その代わり、坪井先生の論文の整理や、先生が作った式の計算例の作成などをお手伝いし、研究助手的な仕事を2年ぐらいやりました。

インタビュー風景(撮影:砂川)

中田: 昭和41(1966)年に修士課程が終わったのですが、そのころちょうど大阪万博の仕事を丹下研と一緒にやっていて、大阪で万博をやるから君も手伝うようにと言われました。一番頭にいたのが川口(衞)[1932–2019]さんで、川口チームには法政大の阿部優[1941–2020]さんと、陳祐成さんという方が一緒でした。この方は亡くなりましたが、阿部さんの2年ぐらい下です。川口研の実験助手をやっていたと思います。坪井研は坪井先生の下に名須川良平さんという足工大の先生をされていた方がいて私はその下に付いていました。川口先生は宇野、柳沢、藤井という3人のスタッフを抱えて、生研から歩いてすぐの乃木坂に事務所を持っていました。そこでお祭り広場(1970年)の躯体の設計を決めました。片や阿部優さんが法政大の学内でいろいろ対応するということで、屋根のトラス構造は大体が川口先生を中心に、阿部優さんと一緒にやりました。六本柱の巨大なキャストのスチールの、上がったり下がったりするような柱まわりの設計は名須川さんを中心に、住金とか新日鉄とが協力してやっていました。

私は川口先生に少し馬鹿に(?)されて、中田君は何も知らないから、上の空気膜をやれと。これは誰もやったことがないから、誰がやっても同じだから君がやれと。川口先生はそういう言い方をするのです。そのころから川口先生には頭が上がりません。それをやっているときに私は大学院に入ったばかりでしたが、現場に連れていかれて梁の上を歩いて、「渡りなよ」なんて言われました。怖くてドキドキしました。川口先生とはその後もずっと一緒にいろいろさせていただきましたが、川口先生にボウリングとゴルフを教えたのは私です。川口先生は下手でしたから、そこは私の方が優位ですが、あとはもういいように子分扱いされていました。屋根の空気膜は、その当時誰もやったことがありませんでしたが、大阪万博は膜構造の博覧会といわれたぐらい、一膜式のアメリカ館(1970年)だとか、エアチューブを使った富士グループパビリオン(1970年)だとか、いわゆる空気膜構造のオンパレードだったのです。いろんなものが全部できたのが大阪万博です。

ただ、お祭り広場の屋根の空気膜は少し違っていました。大部分は中をインフレートして膨らませるような空気膜が多く、エアチューブも中に空気を入れるのですが、いわゆる二膜式で上も下も膜というのはあまりありませんでした。川口先生から、「私が考えるから君がやれ」と言われて、川口先生の下に付いてやりました。 丹下先生の注文がありまして、1番目は下から見上げたときに空の雲が動いているのが見えること。2番目は下にいると木陰にいるように涼しいこと。3番目が構造で、軽いこと。というのはスパンが108mあって、空気膜が292枚あるのですが、あの高さに1トンのものをぶら下げると、躯体の重量が1トン増えるのです。1対1ぐらいの関係です。光が通らないといけませんから、ガラスやFRPなどいろいろ検討したのですが、みんな重くてどうしようもありませんでした。そこで川口先生が見つけてきたのが、飽和ポリエステルフィルムというものです。不飽和ポリエステルと何が違うかというと、COOHの腕にカーボンが融合し、それに水素が結合しているのですが、この炭素に2重結合がないのが、安定しているフィルムです。飽和ポリエステルは強度がある代わりに扱いが非常に面倒で、完結してしまっているので、何もくっつきません。フィルムの接着には溶着などが一般的ですが、これも効果がなく感圧性のセロテープみたいなねばねばしたもので接着する以外にありません。当時は、写真のフィルムのベースやテープレコーダーのテープのベースといったような、非常に堅くて伸びないもので力と変形に直線性がある材料は飽和フィルムしかありませんでした。当時はこのフィルムはバンドのドラムに使ったり、安いものでは写真を巻き取るフィルムなど、そういう生活用品に使っていたのですが、非常に性能がよくて直線性もいいので、これを何とか使えないかということで、川口先生が東レと話をしました。二軸延伸フィルムといいまして、フィルムを引っ張り出すときに、こっちに引っ張ると同時にこっちにも引っ張るので、繊維があちこちランダムに向いていくわけです。一方向のものは片方に延伸するだけですから、両方に引っ張るとすぐ裂ける。二軸延伸フィルムというのがそれで、それを使って空気膜をつくりなさいと言われたのです。しかしフィルムはロールでつくるので、1m20cmぐらいの幅のものしかできません。

そこで東レのフィルム研究所でいろいろやって、二方向に重ねて、座布団状にして、中に空気を入れることになりました。ただ、貼っていないので、膜だけだと漏れてしまいますから、もっと薄いフィルムをセロテープの様な感圧性のテープで貼って、自動車のタイヤとチューブの関係の様に、空気用の薄い袋をつくって中に突っ込む。そして、そこに空気を吹き込む。でも、上のフィルムは並べてあるだけでくっついていません。中のチューブだけ、空気が漏れないようにセロテープで貼ってあって、中に空気をインフレートするとぱんぱんになって、常時で水頭で50mmで、平米50キロぐらいにしました。台風のときには更に加圧して倍にする計画でやりましたが、フィルムが壊れないかとか、どのぐらいの力が出るのか分かりませんでした。

ところがこういう膜を解こうと思っても、当時はコンピュータが今ほどないわけで、メインのお祭り広場の屋根さえ、初期はねじり剛性がない格子梁に置き換えて、差分法というので解き、それを戻して上下弦材の応力に換算して部材を決めていたのです。ところが、最後にやっとIBMのコンピュータで使えるNASTRANのソフト(編注:マトリクス法による構造解析プログラム)が出てきて、三菱原子力で扱える。節点が1320ぐらいありますが、対称性を入れて減らして、いわゆる立体トラス、マトリクス変位法で解けるというので、阿部さんと2人でデータをつくって、三菱原子力に持っていって、キーパンチャーにデータをつくってもらって、最後だけ三菱原子力のコンピュータで解いたような時代です。ですからこの様なものを解こうと思っても、うまく解けないわけです。柔らかいから、内圧をかけるとだんだん膨らんできて元の形が変わってくる。中の圧力を倍にしたら変形も倍になるわけではなく、非線形問題で、こちらとこちら(斜め方向)に面の剛性がなく、単純な釣り合いが2方向にあるだけで、つり屋根の式と同じです。

4. 坪井先生の美学

中田: 当時、私と同学年で東大から千葉大に行かれた大山宏[1940-]という先生がおられて、彼が坪井研にいたときにつり屋根のいわゆる非線形問題を扱っていました。坪井研は主に力が倍になったら変形も倍になるという線形問題を扱っていたのですが、唯一扱っていなかったのが、つり屋根などのいわゆる非線形問題です。大変形問題ともいって、荷重がかかって曲面の形が変わるとつり合い状態が変わるという曲面の基本式を作っていたのが大山先生という方で、私と同期で、今でも友達で親しくしていますが、この問題が彼の修論だったのです。川口先生は、代々木では30分の1程の模型を作って、荷重をかけて測定し設計の確認をされました。

そのころ、坪井先生のテーマは線形問題だけでした。というのは非線形に持っていくときちんとした答えが出ないのできれいに解けないから、俺は嫌だと。式だけはきれいな形で出るので、大山先生にやってもらって、自分はここで終わりだといって、そこから先は扱っていません。最終講義でもその話は全然出てきませんでした。ところが、膜構造をやろうと思ったら大変形をやらないと答えが出ないものですから、仕方がないので大山先生の式を無理やり使って、粗い2方向膜の式にそれを入れて、それで計算してみました。合っているか、合っていないかは全然分かりませんが、何となくそれらしい答えが出て、あとは実験をやればいいということにしました。東レの工場で10m角の枠にフィルムを張って、設計と同じものをつくって、加圧し、セメント袋や砂袋を乗せて計測してみたら、当たらずしも遠からず、オーダーぐらいは何となく合っているというぐらいの値でした。そのようにして空気膜構造をつくって、トラスの上に置きました。

坪井先生は、ものづくりとして、そこまではつくりましたが、大変形の理論解はなく、いわゆる弾性論しかありません。そしてご自分の美学というものがあって、「式は美しく表示できないと駄目、計算は手計算で解けないと駄目」と常に言っておられて、弾性論までしかやりませんでした。一番初めが板の問題で、平面応力、壁の問題をやられて、それから曲面がありますが、一番分かりやすい球形をやって、それから1方向のシリンダーシェル。川口先生がやられた「戸塚カントリークラブ」(逆シリンダーシェル)の1方向曲率が解きやすい。球殻では曲率半径は1つしかありませんから、式は球座標になるのですが、解が得られる。晴海の球形シェル(「国際貿易センター」、1959年)もやって、HPシェルの捩じった曲面は静岡の「駿府会館」(1957年)を青木(繁)先生がやられました。最後に答えがなかったのがHPシェルです。それをおまえがやれと言われて、私がそのテーマをもらって挑戦し、その計算例が坪井先生の退官記念論文集の最後に載っています。

中田捷夫氏(撮影:砂川)

中田: そこから先は、「やり方は分かっているが、俺はやらない」と。なぜかというと「考え方がエレガントではない」と。そういう美学にこだわられていました。坪井先生は設計家だといわれますが、そうではなく、自分の研究の成果の応用問題としてものをつくっていたということなのです。この結果を使えばこのような建物ができる、実際につくってみようよと、そういうのが坪井先生の中にありました。坪井先生は昭和42(1967)年に退官されたのですが、そのころにはもう大型のコンピュータが出てきて、複雑な骨組みもマトリクス変位法を使えば解けるし、有限要素法を使えば連続体も解ける。だんだん計算機の容量が大きくなれば、変形後の曲面を用いて、ステップ・バイ・ステップでやれば非線形の問題も解けるということで、計算できることは分かっていたのですが、坪井先生はここから先はやるな。ここから先をやるとエレガントさがなくなるからやめろと。坪井先生はそういう美学にこだわられたのです。

ちょうどそのころ有限要素法が出てきました。ハワイ大学に寺崎恒正さんという、坪井先生のお弟子さんがおられたのですが、寺崎さんに呼ばれてハワイ大学で1週間ぐらい講義をして、持って帰ってきたのがマトリクス変位法の論文で、いわゆる航空機のフレームを解析する理論でした。いわゆる立体フレームの節点があって、それらが線材で結ばれているストラクチャーをマトリクス変位法で表示されたわけですが、それを使ってお祭り広場のトラスも解きました。その後、連続体も細切れにして、節点と節点を立体的につなげてゆくというのが有限要素法で、それが出てくるようになってから、数値的に繰り返してゆけば、変形した後、また仕切り直して、そういう初期曲面だとして、また荷重をかける。その発想がずっと来て、今、形態創生の問題につながっているのですね。ですから、風にしろ、熱にしろ、みんなステップ・バイ・ステップで数値計算します。そこには特別の大変形理論はありません。

アカデミズムというのはセオリティカルですが、今の研究はニューメリカルで、数値が中心になります。その境目におられたのが坪井先生だと私は思っています。そこで切り替わった。いってみれば私もその中に巻き込まれて、私は理屈っぽい微分方程式を計算して、数表を引いてやっていましたが、僕の一年後輩の半谷裕彦(1942–1998)先生は、有限要素法とか、マトリクス変位法を日本に持ち込んだ、建築における先駆者です。そこで時代が変わって、できることが大きく変わりました。

Hm: 坪井先生よりも中田さんの方がど真ん中というか、その境目にいらっしゃったと思います。そういうときに、坪井先生は数式の美学とか、定性的な関係といったところに興味があったと思うのですが、中田さんは、先ほど非線形にどんどん入っていったとおっしゃっていたように、そのへんの美学がどんどん崩れていきますよね。

中田: 私は、非線形には入りませんでした。ですから、私はマトリクス変位法を知りません。ぶつ切りして節点で、剛性マトリクスがどうなるという理屈は知っていますが、自分で計算したことがありません。あるいは嫌いです。答えは出ますが、理屈がない。

Hm: 粒々の点で出てきて、関係が全く見えませんから。

中田: 難波和彦[1947-]さんは、連続体も細かく見ていったら全部不連続だということを言う。

Hm: シンポジウムのとき、激論を交わされていましたね。覚えています。印象的なシーンです。

中田: 佐々木(睦朗)[1946-]さんのときはそういう時代になっています。今は形態創生になっていますが、形態創生も光や音や熱なども数値化して、いわゆるコントロールして、形をつくっていこうという動きなので、それはそれでいいのですが、あまりきちんとした理屈がなくて、アメリカから入ってきたソフトでできる範囲内でしか物事がつくれない。学会の形態創生のコンテストをやりましたが。

Hm: 審査委員長を長くやっていただいて。

中田: 結果は面白いかもしれませんが、あまり理屈がなくて、プロセスは非常に退屈です。物理的には分かるのですが。あれをやるとくたびれます。

Hm: 考察もできませんから。なぜこれが出てきたかと、戻れませんので理論式とは全く違います。

中田: ただマトリクスが並んでいるだけです。あれはベクトルやテンソルの表現に近いので、テンソルの使い手は非常に自然に入ってきます。テンソルというのは記号が並んでいるだけでよく分からないので、私は嫌いです。でも、私の恩師である角野晃二先生という方は、応用数学のテンソルの使い手で、三井和男さんの先生です。それから登坂宣好[1942-]さん。彼は私と同じ学年です。そういう、いわゆる数学的なテンソルの使い手は、式の演算を機械的にやっていくだけで、現象を把握していません。ですから、あれでシェルが解けるかというと、シェルの式はできますが、数値に戻そうといったら、途端にできなくなります。あれは表現だけです。しかし、ああいう世界もある意味で必要だとは思います。

ただテンソルというのは数式の羅列ではありますが、私たちは物理現象を扱おうとするではないですか。ですから、物理の実際の力学の現象とどうつながっているかというのをもう少しクリアにしないと、この間が離れていて、こっちはこっちで面白がってやっている、あっちもやっているけれどもここで頭打ちになっている。こっちの人から見たら、そんなのテンソルで表現するのはすぐできるという話があっても、これは実際にどうなのかといったら、答えが出ないという。そのような世界ですから、これから皆さん、それをどう解き明かすのか考えていかないといけないと思います。それが坪井時代です。

5. 坪井先生の付き人になる

T: 中田先生が博士論文を書かれたのは、今のお話の延長ですか。

中田: 坪井先生のHPシェル理論の数値解析をやってみせたといいますか、微分方程式の特異点問題というもので、自分でもよく分からないのです。坪井先生がそう言ったからそうしただけであって、いわゆる数学的な問題なのですが、それでHPシェルのコーナーを4点で支持した場合にどうなるかという解析の結果などを付けました。それは坪井先生の締めのテーマでした。坪井先生はいつでも東大で論文を出せば学位を出すからと言っておられましたが、実際は雑務ばかりでした。

先ほどの話に戻りますと、Expo’70か終わって1年目か2年目のころに、田治見先生から君はいつ戻るのか。教室に戻ってくる了解は取れていると言われました。後で分かったことですが、実は、坪井先生と斎藤謙次先生との間で話ができていて、斎藤先生が、あいつは俺のところで引き取る。坪井さんのところで少し鍛えてくれということで、坪井先生のところに預けられていたようなのです。

大学が落ち着くまでは生研で坪井先生のそばで勉強しろということで、しばらくして、田治見先生が、論文の主査は今年1年で終わりだ。君も論文を出したらということで、慌ててまとめて黄表紙に載せました。論文の内容自体は坪井先生が自信を持って、東大でも日大でもすぐ出せると言ってくれていて、坪井先生と加藤渉先生と西村先生の3人に審査をしていただき、日大から学位をもらいました。

ところが、日大に戻ってこいといった斎藤謙次先生が当時、学部長をされていたのですが、いわゆる学生運動の2回目の嵐があって、心労で、斎藤先生が亡くなってしまいました。それで、どうするかという話になったとき、私は壁式を坪井研でやっていて、富井(政英)[1926–2008]先生も壁式構造をやっておられたので、九大へ来いと以前から言ってくださっていました。建研の第3研究部長から明治大学へ行かれた平石久廣さんが、大学院の頃、富井研で、私と同じようなフーリエで2次元問題を解析しておられて、電話で話すことがありました。卒業してからはゴルフしか一緒にしませんが、昔からお付き合いがあります。ただ坪井先生は九大に行かせたくなかったらしくここまできたのだから俺のところにいろということで、坪井先生が亡くなるまで身のまわりの雑用から設計のお金を預かったり、スケジュールを管理したり、施主との交渉をする仕事をずっとやっていました。万博が終わってからは仕事があまりなくて、清水建設からもらった原子力関係の研究とURからもらった壁式構造の研究で生きながらえていました。5人ぐらいのチームでした。

T: 日大の修士は昭和41(1966)年に終わって、その後、坪井研に残って建設工学研究会の一員として仕事をされていたと。万博が終わったのは1971年頃に日大に戻る話があったということですね。博士論文を書かれたのはだいぶ後ですよね。

中田: 47歳のときです。

T: 万博が終わった後の仕事というのは。

中田: 万博が終わったのは(昭和)31(1956)歳か(昭和)32(1957)歳で、そこから10年ぐらいは学位はありません。40(歳)すぎてからです。出してからは半年ぐらいで頂きました。ですから、そのころは学位がなかったかもしれません。

T: その間、坪井先生のところでずっとお仕事をされていたということですか。

中田: そうです。付け人です。

T: 建設工学研究会の所属だったのですか。

中田: そうです。技術職員です。

T: 十何年その研究会におられたのですね。

中田: 10年ほどです。その間に沖縄の海洋博があって、丹下さんのすぐ下にいた神谷宏治[1928–2014]先生と川口先生がやっておられた科学技術クラスターの設計をやったりしていました。

6. ミノル・ヤマサキとの仕事

中田: それで10年ぐらいたった昭和52(1977)年頃に突然、大林組の秘書室から電話があって、京都に来てもらえないかという話があって、何かと思ったら、ミノル・ヤマサキ[1912–1986]さんが京都に来ていて坪井先生に会いたがっているということで、当時、私たちは原宿にいたのですが、坪井先生が行きました。写真を2枚持って戻ってきて、これをやるかと言いました。それがミノル・ヤマサキさんの『A Life in Architecture』(Weatherhill、1979年)という本に載っています。初っぱなにミノル・ヤマサキさんのサインが入っていて、「Dear.中田さん」と書いています。

これはヤマさんの家です。このソファに座ってヤマサキさんがお酒をつくってくれました。これはヤマサキさんの事務所です。これはヤマさんの最後の作品で、信楽(滋賀県)の神慈秀明会の真ん中のホール(神殿・教祖殿、1983年)です。これをアメリカで設計していました。

ミノル・ヤマサキから贈られたサイン入りの図書(撮影:砂川)

中田: ヤマサキさんは構造家を2人使っていて、アメリカ国内のプロジェクトはレスリー・ロバートソン[Leslie Earl Robertson、1928–2021]さんという、先日亡くなりましたが、その構造家がメインで設計し、ハワイにいたアルフレッド・イー[Alfred Alphonse Yee、1925–2017]さんという、プレストレスト・コンクリートの専門家がチェッキングエンジニアとして付いていました。中近東やアラブの建物はアル(アルフレッド)・イーさんがプレキャストで設計をして、レスリー・ロバートソンさんがチェッカーで付いていました。

この建物はアル・イーさんが設計して、レスリーさんがチェッカーをやっていました。ところが、こういう設計になってきたときに、アル・イーさんは自分が橋梁などの世界的な権威だったのでこれをプレストレスト・コンクリートで設計し始めたのです。このような梁にプレストレストに入れようと思うと部分的にはこのようにして引っ張っていかないといけませんが、一本でいけるようなものではないので、ぐちゃぐちゃになって、この梁1本で500トンぐらいの目方になってしまったそうです。さすがにヤマさんもおかしいと思い始め、レスさんと相談して日本だから坪井さんに相談しようということになったようです。

坪井先生とヤマサキさんは昔から面識がありました。戦前、神戸にアメリカの領事館ができたとき、ヤマサキさんと坪井先生で領事館の設計をして学会賞をもらっています。坪井先生も時々、アメリカに行ったときはヤマさんと会っていたようです。それでヤマサキさんと京都で会ったら、実はこういうことで、一緒にやってくれないかと言われたそうです。

戻ってきて、この写真とこの写真を私に見せてくれて、「おまえ、これをやるか。論文のテーマはもう決まっているからサポート役に回れ」と言われました。名須川良平さんはまだ学位を取っていなかったので、「名須川にこれで学位を取らせるからおまえはサポート役に回れ」と言われて、分かりましたと言ったら、来週デトロイトに行くぞという話になりました。

お盆のときですからアメリカに行っても宿が取れるかも分かりませんが、予定だけが決まってしまって、坪井先生とニューヨークに1泊して、お盆の間は当時、北野建設が持っていたキタノホテルに無理やり2部屋取ってもらって、ヤマさんのところに行きました。

アルフレッド・イー氏は、今まで自分がやったものをプレゼンテーションしないとお金をもらえないので、所員を2人連れてきていましたが、ヤマさんも坪井先生も、昔のボツになった案などには全く興味がありませんので、おまえがアル・イーさんの相手をしろと言われて、私は分からないのにアルフレッド・イーさんの設計の内容を丸2日間聞いて、あれはとても参考になったという報告をヤマサキさんにしました。ですから、アル・イーさんはそこまでのフィーをきちんともらえたので、非常に喜ばれました。

彼はハワイに住んでいましたが、私はとても親しくなって、アメリカの帰りにハワイに寄ると、迎えに来てくれて、今日は娘の運動会だけれども一緒に行くかと言われて、一緒に娘の運動会に行ったり、夜、ご飯を食べにいったり、ゴルフに行ったりしました。

アル・イーさんは中国人がアメリカに行く際の保証人になっていて、何十人も中国からアメリカに送っていたので、中国のどこかの市の名誉市民になられました。まだ元気かどうか分かりませんが、当時50代ぐらいで、子どもが9人ぐらいました。

日本のスプライススリーブジョイントといって、プレストレスト・コンクリートに使う鉄筋を紡錘形のスリーブに突っ込む接合具の発明者です。ですから、日本に来ると日本のゼネコンは何とか会いたいというような状態でした。プレキャストのコンクリートでは、あれがないと今はできません。中田と会うといったら、なぜ中田さんがアル・イーさんと会うのか不思議がられましたが、会うと家族のような関係でした。それがアル・イーさんです。彼はいい人で、大物です。

坪井先生は自分に頼まれた以上はまだ自分のアイデアをこの設計の中に組み込めると思っていました。坪井先生は既に出来上がったデザインの構造計算だけやるのはプライドが許さないという気持ちだったようで、例えば中にアーチを入れてみようとか、いろいろなことを私には言っていたのですが、構造的には合理性が全くありません。でも坪井先生としては、何かやりたかったのでしょうね。

ところがヤマサキさんはこれを日本に持ってきて施主にプレゼンテーションを既にしているわけです。このクライアントは坪井先生より3歳下、明治43(1910)年生まれの女性で小山美秀子[1910–2003]さんといって、これを見て非常に喜んでヤマさん、ありがとうありがとうといってヤマさんの手を握ったそうです。そこまでいわれているのにこれを造らないというのはないだろうといって坪井先生を逆にヤマさんが口説いている。坪井先生は非常に不機嫌でした。最後の土曜日に坪井先生とヤマさんが、ヤマさんのゴルフコースを2人で回るということで私たち若い人はバニーガールがいるゴルフ場に行けと言われて、分かれて行きました。帰ってきて坪井先生がホテルで私と2人になったときに、「あれをやることにした。ヤマサキさんがあれほど喜んでくれる施主はいない。あれを造らないというのは建築家としてはあり得ない。何とかこの案でやってくれと涙を浮かべて俺に言った。これを断れるか」と坪井先生は言っていました。それで受け入れることになりました。

この中にカテナリー曲線のトラス梁が平面トラスのフレームになっていますが、それを見ると、ダイナミックで非常にきれいで、坪井先生は「一皮むいても本物」と。そう言わないと自分を納得させられなかったのでしょうね。渋々受けましたが、帰りにハワイに寄ったときも機嫌が悪くてブツブツ言っていました。でも、やることになって、日本に持って帰ってきて、1カ月ぐらいたってから、私と名須川先生と2人来いと言われて、最終のプレゼンテーションを施主にするので、図面を描いてくれと。ここを切った断面の構造はどうなっているかというのを計算もしていていないのに、構造を入れないと絵にならないわけですよね。私は2週間近くヤマサキさんの事務所にいました。来る日も来る日もデザイナーが持ってきて、ここのストラクチャーの絵を描けと言われて、非常に長い製図板で平行定規にしがみついて絵を描いていました。

ミノル・ヤマサキと設計した神慈秀明会神殿・教祖殿(1983年)(撮影:砂川)

中田: 最後、それを私が抱えてデトロイトからロサンゼルスで1回乗り換えて日本に持って帰ってきたのですが、サンフランシスコから成田に着くまでずっと寝ていて、成田に着いて起こされたぐらいくたくたでした。ヤマサキさんが設計した都ホテル(東京、1979年)に施主と坪井先生とヤマサキさん、照明をやっていた石井幹子[1938-]さんが集まっているところに図面を抱えて持っていったというのがいきさつです。

その小山美秀子さんは私とうまく間が合う方でした。息子の小山荘吉さんは私より4つ上で、非常にやり手の方で、その方が仕切っておられましたが、五十半ばで亡くなり、その後、ヤマサキさんも追うようにして亡くなりました。

7. イオ・ミン・ペイとの仕事

中田: ヤマサキさんが生きていたころ、僕の後は、アジア系で、ペイ[1917–2019]さんが大好きだから、ペイさんならきちんとやってくれる。ペイさんに頼んでくれということで、最初にやったのがカリヨンの塔(1990年)です。高さ60mの塔ですが、あれをまずペイさんが設計しました。

会主の小山美秀子氏は、ペイさんにお願いするために、誰の紹介もなくニューヨークに行って、ペイ事務所を訪ねたそうですが、日本からよく分からない人が来て設計をやってくれと言っているけれども、そのようなものは受けられないといって断られたところ、小山さんは、とても残念だと言って、そこから空港に行って日本に帰られた。それをペイさんが後で聞いて、何という人だと。自分のところに来るのに、名声を頼りにニューヨークに来たから寄ってみたというなら分かるけれども、自分を目的にしてわざわざ十何時間かけて来て、断られたといってすぐ帰ってしまうような人はどのような人なのかということになって、ペイさんが、私が受けましょうという話をされたらしいです。

お正月か何かに私が事務所にいたら、小山美秀子さんから電話がかかってきて、「ペイさんがやってくれるって。あなたがやりなさい。勉強になるわよ」と言われたのですが、先ず坪井先生に話をしてくださいと言って、それでやり始めたところ、坪井先生が前立腺がんを患っていて、打ち合わせにもなかなか出ることができなかったので、おまえがやれという感じで。ほとんど口出しもしなかったですね。

カリヨンの塔が竣工したのが12月25日でした。会の盟主である岡田茂吉[1882–1955]の誕生日で、そこにカリヨンの塔をつくってお祝いをする事になっていたのですが、坪井先生がその前の12月6日に亡くなりました。ですから、坪井先生はこの竣工は見ていません。カラムに、カリヨンの塔の設計ということで詳しく書いています。

それでペイさんが参画されて、MIHO美術館(1997年)を設計することを会から依頼をされました。

ペイ事務所もそのころ仕事が少なかったらしく、建物はどんどん大きくなり、西洋館と日本館と両方造ることになったために、工事費は大幅に膨らんでしまいました。西洋館に展示するものが少ないので、秀明会で大幅に買い足されました。いまや日本ではかなり有数のコレクターになって、ニューヨークの美術館などとも連携してやっていたりして、いいものが沢山あります。

建築については、初めは、会主が「中田さんがやりなさい」と言っていたのですが、相手が偉過ぎて私では釣り合いが取れないということで、坪井先生の一番弟子である青木(繁)[1927-]先生を小山美秀子さんに紹介して、青木先生を頭に立てて、青木研がMIHO美術館の設計をしました。出来上がったとき、会主はまだ生きておられましたが、それから1年ぐらいして亡くなり、会主を追悼して建てたのがMIHO美学院(2012年)という学校です。教祖殿とMIHO美術館とちょうど三角上に、6キロずつ離れて建っています。

ペイさんも結構高齢で、竣工のときは車椅子でないと動けませんでした。建物の一番中心には教会チャペル(2012年)を造られました。日本のチームが参画する前に直接ペイさんに基本設計を依頼しているので、アメリカでレスリー・ロバートソンさんがその設計をある程度もう手掛けていたのです。チャペルについてもレスリーさんが、初めの段階で自分の案を進めていました。

形をご存じかどうか分かりませんが、ワイシャツの襟のような形の教会です。鉄板の一枚板でやりたいという話があってやり始めたそうですが、音が悪くてとても使い物にならなくて、その次に出てきたのがシングルレイヤー(単層)のトラスフレームです。レスリー・ロバートソン氏は風の専門家だから、空間構造のことをあまり理解されていないのではないかと私は思っていて、風の振動の問題についてはとても詳しいですが、例えば香港の銀行(中国銀行、1989年)の斜めになっている部材は、接合部をどうやっていいか分からず、コンクリートでがちがちに固めているのです。坪井先生があれを見てこい、彼は知らないぞと。確かに私が見てもそう思いました。

MIHO美術館のときに、一部トラスの屋根を架けるのですが、球ジョイントの2枚の板に1枚板を挟み込んで、とても小さい部材なのに、そにボルトを6本打って、モーメントジョイントをつくろうとしていました。部材が立体的に入ってくるので、角度調整が非常に難しく、住金がひーひー言っていましたが、それを力体(工房)の岡部喜裕氏がやって、何とか造りました。レスリーさんはそれでできると思った様ですが、立体トラスの接点で曲げを取るというのはもともとやるべきことではなくて、何のためにトラスにしているのかという話です。ですから、私は少しまずいのではないかと思いました。おまけにワイシャツのカラーのような曲面となると、ジョイントの角度が全部違うわけです。

設計者が施主と会ったときに小山さん(小山弘子[1940–2022])、私と同じ年齢の方で今の会長ですけれども、美学院の実施設計は中田さんにやってもらってくれという話になりました。日本で打ち合わせをやったときにレスリーさんがトラスのモデルを持ってきました。もしかしたら岡部さんが少し手伝われたのかもしれません。シングルレイヤーで設計すべきことではないのではないかとレスリーさんに言ったら、しばらく考えて「そうだね」ということになりました。私はコンクリートシェルで造りたいと言ったら、日本のことも地盤のこともよく分からないからおまえがやれということになって、レスリーさんが納得してくれて、私と、私の事務所にいた高見沢孝志君と一緒に設計をやりました。

8. よろず屋としての設計者

中田: 学校は広いものですから、青木研OBの山辺豊彦氏(山辺豊彦構造設計事務所)や力体(工房)の岡部喜裕君、中島幹雄君たちも加わってチームをつくってやりました。それがやっと竣工して、その後は秀明会とは新しいプロジェクトはありません。そのようなことを坪井先生が亡くなった後も続けていたというのが私の人生です。

もうそろそろ年なものです。事務所には理科大の私の研究室にいた連中が何人か居座っていましたが、それぞれ40歳を過ぎたころから独立して、自分の道を歩んでもらっています。今いるのは京都(大学卒)の東海大の諸岡(繁洋)先生。諸岡さんの研究室を出た女性とあとは私の息子です。病院建築をやっていた千葉大の中山茂樹先生の大学院を出ていたのがどういうわけか構造をやっています。今、3人ぐらいなので万歳しそうになったら中島君とか岡部君とか山辺さんなどが助けてくれます。私はもう少しするといなくなるので息子のような若い人たちが気の合った人たちで集まらないと駄目だと思っていてあまり口を出さないようにしています。長々と話しましたが。

T: 肝心の木造のことを全然聞いていません。どうしましょうか。

中田: 私はまともな設計屋ではありませんが、例えば播繁[1938–2017]さんとか、渡辺邦夫[1939–2021]さんとかは構造設計というジャンルで卒業してからずっとものづくりをやっているではないですか。私は半分ぐれているから、坪井先生の変に理屈っぽい世界をかじってみたり、結構浮気しているのです。ですからこれというものがあまりない。

この間、高知の女性が1人、稲山(正弘)研で修士課程をおさめた黒井博美さんが来られました。何をやっているかというと、足摺岬に海中展望塔があって、来年50周年になります。それは川崎重工の設計ということになっていますが、実態はどうだったのかということで、「あれ僕もやっていましたよ」「ええ?」という話で、当時の設計陣が何をやっていたのか、というのを調べるためにわざわざ高知から来られました。

神慈秀明会のカリヨンの塔も高さが60mの単なる塔ではなく、表面には石が貼られています。石は後ろの躯体に引っ掛けているので躯体から浮いてしまい、後ろに水が入って錆びてしまいます。そこで私が検討したのは、ステンレスクラッド鋼です。いわゆる鉄板ですが表面の2、3mmはステンレス鋼です。布を着せることをクラッディングといいます。

もともとはケミカルタンカーから出てきたものだそうで、船に積む液体はステンレスでないと腐触してしまうということで考案されていたものだそうです。船の中に船体とは別にタンクを入れていたら、一方からは水圧がかかり、もう一方からは内圧がかかるため、両方ともがごつくなってしまう。もしこれを一緒にして合わせた板を使えば、中の液体と海水との圧力がキャンセルして、あまり大きなストレスにならないのではないかということです。ステンレスと鉄とを貼り合わせたものが船の世界にはあったのです。最近はあまり聞かなくなりました。特殊な製法で、鉄とステンレスを貼り合わせて、中を真空にして、炉に入れて加熱し合わせて圧着していきますが、そういう材料をどうやって使うかということがテーマになっています。

それから一般に杭は軟弱地盤に打つものだと考えていると思いますが、この地域の建物はほとんどが関西の真砂土という岩の上にあります。先ほどの教祖殿の場合は傾斜地にあって、床面積の3分の1ぐらいが傾斜地にかかっています。それをどうやって支持するかというと、岩に打ち込む強烈な杭を設計しないといけません。直径8mの突出杭です。このためにはトンネルを掘る構法で穴を縦に掘っていって、デゴイチ(D51)といわれる50mmの鉄筋を並べてコンクリート流し込みます。ミキサー車を10台入れて、やっと1mできるというような…。それは、普段は土木の人がやる作業です。岩の特性を調べるためにユンボの下に潜り込んで、ジャッキで荷重をかけて変位を測るといったことをずっとやっていました。多分、設計をする人は、そういうことは今はあまりやらないのではないでしょうか。木造といいますが、私の選択肢の中では木造は一つの選択肢であって。木造屋だといわれると、間違ってはいないとは思いますが、それが全てではありません。理科大に呼ばれていったとき、小嶋一浩[1958–2016]さんは設計者として呼ばれたのでしょうが、周りの先生はみんな材木の専門家だと思っていたというのです。

材木は正直に言いますと日本のJIS材を見て、ヒノキとスギぐらいは分かりますがそれ以上のことは分かりません。ですから木造といっても私は材料の一つとしか思っておらずそれ以上の興味はあまりありません。木造の中田さんと言われればありがたいですが、そのイメージだけで見られたくはありません。よろず屋と言われるほうが個人的にはうれしいです。

A: よろず屋の自己認識はいつぐらいからですか。

中田: 設計をやっているといろいろな話が起こりますから、それに対応しているうちにそうなりました。一般の人は、自分の専門でないところはそれは私の専門ではないですと言われる様です。

今、私が悩んでいるのは、横浜のあるお寺にいわゆる仏舎利塔があって、地震の影響でそれが大丈夫か聞かれているのですが、昭和35(1960)年ぐらいに建ったもので、材料の調査をしてみると中性化が進んでいますし、鉄筋は少ししか入っていません。コンクリートの強度は150kgf/㎠しかないとのことです。外観は二重の塔のようになっていて、中には位牌が並んでいて、非常に立派なものです。

ただ、それの耐震診断をして評価するという考え方がよく分かりません。外観からこれはどのような壊れ方をしそうかという直感が大事なのであって、鉄筋が入っていても、入っていなくても、それほど変わらないでしょうし、無筋でもいけるのではないかとも思っています。土の上に乗っていて、強度は低そうですが、コンクリートの丸柱が3mピッチぐらいで建っているような塔が、ひどく変形する訳がありません。ロッキングが起こると木屋根がずるずると落ちるかも知れませんし、九輪は木の心棒があってコンクリートに付いているだけですから、ぼきっと折れるかもしれませんが、無筋でも壊れないのではないかと私は思っています。ロッキングで力が全部逃げてしまいます。

耐震診断とは一体何なのだろうと思っているのです。構造屋というのは、こういうことをやるから構造屋なのではなくて、世の中で起きることや人が欲しがっていることに対して、いわゆる構造という切り口で、何をサプライできるかという発想で仕事をしたいと思うのですね。材木屋だといわれてもいいですし、壁式ばかりやっているので、あいつは壁式コンクリート屋だといわれてもいいですが、どれもこれもそれなりにわれわれが、構造という視点でアタックする課題に取り組んでいるという、ただそれだけの話です。構造家と決め付けられるのは困りますし、構造のことはそれほど詳しくもありませんし、デザイナーといわれても、デザインのこともよく分かりませんし。

隈(研吾)[1954-]さんとやった初期の頃は石屋さんと出会ったら石をどうやってつくろうかとやっているうちに蔵が崩れてしまいました。では隈さんなりの石像を造っては?と言ったら、ああいうものがたまたまできました。メディアに受けるかどうかというのは時代の問題やいわゆるはやりもありますし、見る人や写真家の腕にもよりますから絶対的な価値ではないですよね。

何でも屋のほうが私には合っているといいますか構造的な視点で何にでも食い付くという姿勢です。木造の専門家とかシェルの専門家とかそれぞれを詳しく突き詰めたわけではありませんから、そういうのは私には重たいです。在来木造専門の先生にあなたがやっているのは木造ではないと、とても怒られました。でも自分のやり方でやったら、滋賀県の県立図書館の梁が撓んでしまった。ですからそれは何か違うだろうと。

私は内田(祥哉)[1925–2021]先生のグループからおまえは構造屋ではないと後ろ指をさされています。腰原(幹雄)[1968-]先生は仲間意識が少しはあるかも知ませんが、稲山(正弘)[1958-]先生は顔を合わせるとすぐにいなくなってしまいます。そういう人間のどこに興味を持っていただいているのか分かりませんが、今日で分かったと思います。暇ですし時間はいくらでもありますから何回でもお相手いたします。

9. 設計者の父のこと

A: 話を戻しますが、お父さまはどうやって建築を勉強されたのですか。

中田: 分かりません。丁稚で行って見よう見まねで勉強したのではないでしょうか。

T: 中卒で入ってですか。

中田: マージャンをしていた方の紹介だと言っていました。

A: マージャンとパチンコがよく出てきますね。

中田: 母を紹介したのもマージャン屋のおやじだそうですから。

T: マージャン屋はおじいさまのつながりですか。

中田: 父の仲間です。母は西久保明船町という、現在の虎ノ門で生まれました。関東大震災のときに芝浦から軍艦に乗って大阪へ逃げたそうです。

A: お父さまのお生まれは何年ですか。

中田: 明治43(1910)年です。坪井先生が(明治)40年です。

A: お父さまは設計をやっていたのですね。

中田: そうです。図面を見ると分かります。

T: お名前は何とおっしゃるのですか。

中田: 中田楠次郎です。

A: どのような建物の仕事が多かったのでしょうか。

中田: 住宅や工場などです。図面に何々邸と書いたものがあります。見せましょうか。

A: 是非お願いします。大卒が市井の建物を設計するのは高度成長期の教育の大衆化以降です。ですからかつて市井の建築がどうやって設計されていたかという観点でいうと非常に面白いです。そういうところにも中田さんの根がありそうな気がします。

Hs: 一般的に住宅に設計者は入っていないと思います。棟梁がやっていましたから。

A: そうです。でも、コンクリートだとできないからやったのでしょう。

Hs: コンクリートで住宅を発注するということは当時では稀なことですよね。

A: それがごく一部であったのでしょう。町場から出ていって、市井の仕事の中の先端的なところに入ってくるようなニッチをやっていたのではないですか。市井の技術屋の先端的な部分というか、少し分からないところです。

中田: こういうものがあります。昭和15(1940)年から昭和20(1945)年、終戦直後ぐらいのものです。

A: 戦争を挟む前後ぐらいということですね。これは昭和26(1951)年ですね。

中田: 私が鉛筆をといでやっていて、この線はその成果です。これができる人は今はいないでしょう。

T: お父さまはおいくつまで仕事をされていたのですか。

中田: 83ぐらいまでです。

T: 83歳まで仕事をされていたのですか。

中田: ぼちぼちやっていました。母はホームに入ったので、75歳頃から1人暮らしでした。

T: 設計図書を拝見すると、90年代まで仕事をされていますね。

中田: 1万499号です。1級建築士。制度ができて2年目です。私の父は学歴がなくて資格に該当しないので、1年目に試験を受けて、受験資格を取って、2年目に受けて取りました。こういうことをやったという記録は、巷で何が起きていたかということですよね。今のCADは線が限られていますけれども、このときは3種類ぐらいの鉛筆を使い分けながら描いていましたから、今の図面よりも分かりやすいです。坪研は図面がありません。川口健一(東大教授)さんが持っているかどうかですが、ないはずです。片や巷ではこういうことをやっていたという一つの記録としては面白いですね。

父の遺品である設計図書を囲んで(撮影:砂川)

T: 構造設計もやられていたのですね。

中田: もちろんです。これに構造設計が必要だったかどうかは知りませんが。鉄骨も鉄筋コンクリートもやっていました。

Hm: 計算書も作っていたのですね。

中田: 作っていました。ただ、計算書は残っていません。父が亡くなったときに全て処分しました。

T: 意匠と構造と両方やるのですね。

中田: めぼしいものだけ幾つか送ってきたのがこれです。トレペです。青写真でやっていますので。

Hs: (このトレペは)少し新しい感じがしますね。

中田: 時間がたって色が変わっているのではないでしょうか。意外と、このころに設計事務所をやっていた人はあまりいませんよね。大工は図面を描きませんから。

A: 仕事の範囲は堺周辺ですか。

中田: そうですね。大阪府ではあまりに多くて困ったときに、民間の建築主事制度をいっときつくっていたようですね。そのとき、本をたくさん積み上げて読んで、民間建築主事に受かりました。つまり、自分で確認申請を下ろせるということですよね。しかし、それはおかしいと思っていたところ、大阪のその制度は2年ぐらいでなくなりましたね。

10. 大学の戦後

A: 先ほど、日大には日本全国の工務店の跡取り息子が集まっていたというお話をされていましたが、学生の数は1学年何人でしたか。

中田: 試験を受けて合格者として名前が掲示された人は80人でしたが、補欠を採っていたので、教室に集まってみると倍の人数がいました。3年になると2年制の短期から50人ぐらい編入してきて、4年になると留年する人が50人ぐらいいましたので、400人近くなっていたのではないでしょうか。

A: まさに高度成長期ですから、募集定員も増えますが、それ以上に入学生の数が増えていく時期だと思います。

中田: 1学年で20~30人がスーパーゼネコン5社に入っていました。それだけで百数十人はスーパーゼネコンに行ったことになりますが、そうではないゼネコンにもみんなちらばって入り、自分の家に帰る人が1~2割いました。今でも私が親しくしている人は群馬県の太田市で建設会社をやっています。そういう人が多く、設計事務所をやっている人はあまり多くありません。日大のような体質で設計事務所をできるような、人の世話をできる人は少ないですから。

吉島忠男さんという人がいます。飛騨高山の吉島邸の息子です。昔、高山にいたときに、評論家の伊藤鄭爾[1922–2010]さんが吉島邸に滞在して調査されたときに感化され来ないかと言われて高山から東京に出てきたそうです。私が学生の頃、伊藤鄭爾さんは喫茶店でわいわいやっていました。ベレー帽をかぶっていて格好いい方でした。日下部邸と吉島邸の2つが高山の民家の文化財になっています。彼は丹下研に行きました。空間を構成するようなデザインがうまかったです。彼はもっといい建築家になれるでしょう。日大卒でメディアに受けるようなタイプの人は今でもあまりいません。

A: スターアーキテクトを輩出する大学は一握りで、私が勤めている明治大学もかつては中堅技術者を育てる学校でした。高度成長期に大きくなっていく大学はみんな大体がそうだったと思います。

中田: 日大は私たちの学年では木下茂徳[1924–1999]先生が理工学部長から本部役員になられ、1年上の都市計画をやっていた小嶋勝衛[1940-]先生は理工学部長から総長までいったのではないでしょうか。

T: 木下先生も小嶋先生も卒業生ですか。

中田: そうです。斎藤公男先生は小嶋先生と同じ学年だと思います。岡田章さん[1954-]が先日まで理工学部長に就いていましたよね。岡田さんの学位論文は、理科大にいたときに学外の人を1人ということで私が副査になった関係で岡田さんのことはよく知っています。

T: 経営工学科は後に生産工学部になりましたが、先生が在学されていたころは生産工学部ではなく経営工学科から建築学科に編入してきたということですか。

中田: 理工学部に編入できました。

T: 経営工学科の建築専攻があったのですよね。

中田: そうです。ただ、3年生になるとあまり専門はやりません。生産工学部になったのは何年頃でしょうか。私は非常勤でずっと手伝いに行っていました。

T: 若木滋先生[1932-]もいらっしゃいましたか。

中田: 若木先生は私のとき理工にいました。いい人で優しい人です。神谷宏治先生の下にいました。

T: 小野薫先生についてはいかがですか。

中田: 小野薫先生は坪井先生よりかなり上です。

T: 坪井先生が小野先生の代わりに来ていたと聞きました。

中田: そうです。

A: 昭和43(1968)年から昭和44(1969)年の学園紛争の頃、あの状態をどう見ていましたか。

中田: 私はノンポリで政治に全く興味がありませんでした。生研にいましたし、大学紛争には近寄りませんでした。入った年に65年安保でしたが、そのころは法学部などの人たちはデモに行っていましたが、私は田舎から出てきたばかりで東京が怖かったので、そういうところには出ていきませんでした。全くのノンポリで高校の同級生に毎日新聞の論説委員をしている人がいるのですが、おまえはそういうことは全然駄目だなと言われます。そういうことには詳しくありませんし、あまりチャンスがなかったからかもしれません。日大も今はノンポリではないのでしょうか。昔、法学部などの学生は政治に非常に興味があって、熱心な人が多くいました。

A: 学部卒業の年が東京オリンピックですよね。

中田: そうです。

A: 東京が変わっていく様子や、オリンピックを、中田さんはどのようにご覧になっていましたか。

中田: オリンピックの年に新幹線ができたのですよね。大阪から東京に来るのに、それまでは「つばめ」や「はと」で8時間半かかっていたのが4時間半になりました。でも、危ないからやめておこうと思って、しばらく乗りませんでした。何か、怖かったのです。しばらくたつとそれが3時間半になって、今は2時間半ですよね。私の頃は東京に出てくるのに、大阪の港町から関西本線に乗って、奈良を通って名古屋に抜けて名古屋で東海道線に乗り換えていました。関西本線はトンネルを入ると煙が入ってきて急いで窓を閉めないといけないような状態でした。

Hs: まだ蒸気機関車だったのですか。

中田: 「つばめ」や「はと」は電化されていましたが、蒸気機関車だと8時間半かかりました。学校に入ったころは東京になじめず、帰りたくて5月の連休は、特急に乗るお金もありませんから、急行で帰るのですが、連結器のところに座ったまま11時間です。それでも家に帰りたかったのです。

A: 東京になじめない感じというのは。

中田: 言葉が恥ずかしかったのですよね。言葉が通じませんでしたし、入りたてのころは友達がそれほどいませんでした。しばらくすると下宿屋の仲間ができて、マージャンやパチンコの友達ができましたが。そのチームのうち1人は下宿屋でしたが、もう一人は西高から入ってきた人で、土木で、唯一私学で国鉄に入りました。国鉄に入るというのは大変なことで、私学はほとんど入れませんでした。日大の土木はそういうつながりがそこそこありました。もう一人は建築で、病気がちな人で、大分の梅林建設の御曹司(現社長)の梅林秀伍さん。それと下宿屋の八木栄太郎さんの4人組でした。

T: 土木の人とはどうやって仲よくなったのですか。

中田: 実験です。一般教養のときに、土木と建築で2人ずつが一つのチームになってやるのです。ですから土木の友達は多いです。(当時の)土木の人はよくいえば豪快ですがめちゃくちゃな人が多いです。建築は少し気取ったところがありますが、土木はバンカラで学園祭などでは酒を飲んで暴れるわ、製図室に一升瓶が並んでいて布団があって酔っぱらったら担いできて置いていくわといった感じです。大学の特色もあったかもしれませんが、そういう時代だったということかもしれません。

11. 坪井善勝と野球

中田: 坪井先生と親しかったのは梅村(魁)[1918–1995]先生ですが、梅村先生も野球が好きで、坪研と梅研と丹下研と本郷の農学部のグラウンドを借りて野球の試合をよくやっていました。梅村先生は靴だけ運動靴に履き替えてくるのですが、ネクタイだけ外して、ぱーんと打つと、さーっと走ってセカンドに行くとスライディングするのです。坪井先生は打つのは好きですが走る気はないので「おまえはここで待っていろ」と言って、前の席に研究室の若い人を1人置いて、どんと打つだけ打ったら「おい走れ」と言って別の人が走っていました。ホームからの代走です。試合が終わって梅研の地下で闇鍋をやったりしていました。今は建築センターにいる菅野忠さんとか都立大に行った西川孝夫先生とか亡くなりましたが都立大に行った遠藤利根穂先生とか、梅研の大学院の1年下には建研に行った中田愼介さんが横浜国大から梅研に来ていて野球の試合をよくやりました。あと武藤研(武藤清[1903–1989])の安達守弘さんだとか長田正至さんという横浜国大に行った人とかみんな私と同じ年代の人です。明治大学の洪忠熹先生も梅研です。私は洪さんとは気が合って一緒にゴルフをやりました。坪研に在外研究に来ていたのは松井源吾先生と、明治の狩野芳一先生。私は松井先生を尊敬していました。そのころはいろいろな人が来ていましたが、今はそういう交流がありません。

Hs: ちなみに丹下研の野球チームはどのような人がいたのですか。

中田: 丹下[1913–2005]先生はあまり来ませんでした。ちょうどそのころ東京カテドラル(1964年)をやっていましたので、丹下研と大成と坪井研からメンバーが出て九段にある暁星高校のグラウンドで野球の試合をしてホームランを打つと大成からご褒美のお菓子が出ていました。あそこはグラウンドが狭いので、すぐホームランになります。

Hs: 先ほど中学時代にバッテリーを組んでいたという話がありましたが、改めて中田さんのポジションをお教え下さい。

中田: 私はキャッチャーです。ピッチャーは高木喬さんといって、法政大が(昭和)38年に完全優勝したときのピッチャーです。地元は鶴岡一人と一緒でしたので南海ホークスに行きたかったようですが、取ってもらえず結局、近鉄に行きました。1年目にリーディングヒッターにはなれませんでしたが、3割打って2番になりましたが、翌年に西鉄に行きました。そこでも、あまり芽が出ずに辞めました。結局は病気で亡くなりました。中学校から一緒で高校でもバッテリーを組んでいました。三国丘高校は進学校でしたので部員がいなくて、軟式野球部と硬式野球部を合わせてやっと1チームできるぐらいでしたが甲子園に昭和9(1934)年に1回出て50年後の(昭和)59(1984)年に出ました。

その頃坪井先生と同じ部屋で、小さいテレビを前に並んでテレビを見ていました。おまえの学校だろう。見よ、見ようと言って坪井先生と見ていました。ピッチャーのワンマンで何とか上がってきたチームで、3回ぐらいにデッドボールを受けて投げられなくなりました。坪井先生は「相手のピッチャーに当てるとはひきょうだ」と言っていました。

坪井先生はジャイアンツファンで、10対0だろうが負けていても最後まで見ていたそうです。私は大阪ですから南海と阪神ファンでした。生研にいたころ坪井先生はジャイアンツが負けたときは機嫌が悪いというのでみんな近寄らないのですよね。でも私はそれほど怖くありませんでしたから、阪神が勝った日はわざと「阪神勝つ」と書いている新聞を2部ぐらい買って坪井先生が来る前に机に並べて置いたりしました。「これを持ってきたのはおまえだろう」「ジャイアンツを応援するのは野球の素人ですよ」という会話をしていました。

坪井先生のことはみんな怖がっていました。なぜかというと、研究のことで、自分はできないと思われてはいけないからというので、みんないいところばかり見せて、いい生徒になろうとするのですね。

先生の長男(坪井善昭)が私の1つ上で、次男(坪井善道)が1つ下で、三男(坪井善隆)が3つ下ですから、私はちょうどその間です。奧さんより中田さんのほうが一緒にいる時間が長いのではないかと言われるぐらい、坪井先生と一緒にいました。私は自分ができないことは、「これはできません」とか、「分かりません」と言うものですから、「何だ、これが分からないのか」と坪井先生にははじめは言われましたが、次からは、「これは、おまえは分からないのだったな」とスルーされていました。でも、他の人は分からないとは言えずに、分かったような顔をして必死になって、本を買って一生懸命勉強するのですよね。

私は、能力はこの程度ですというのをさらけ出していたので、別に怖くも何ともありませんでした。懐に入ったという感じです。付け人のようなものをやっていると、酔っぱらったときにはホテルで寝間着を着せて寝かせたりしないといけないわけですから、向こうも怒っても仕方ないという感じもあるのではないでしょうか。ですから東京に出てきてからは自分の父親よりも坪井先生のほうが一緒にいた時間は長いです。旅行も行きましたし出張もそうですし。

T: そろそろいいお時間になってしまいました。まだまだお聞きしたいことが多々あります。またの機会に是非ともお願いします。今日はたくさんのお話をほんとうにありがとうございました。

中田捷夫(なかた・かつお)
1940年大阪府堺市生まれ。1959年大阪府立三国丘高等学校卒業。1964年日本大学理工学部建築学科卒業。1966年同大学院理工学研究科修士課程修了。同年財団法人建築工学研究会技術職員。1978年株式会社坪井善勝研究室取締役。1983年「平板および扁平殻の弾性挙動に関する研究」で日本大学より工学博士の学位授与。1985年有限会社TAN設計室設立。1991年株式会社中田捷夫研究室代表取締役(坪井善勝研究室から社名変更)。1997年 千葉大学、日本大学、東京電機大学大学院非常勤講師。1998年-2001年東京理科大学理工学部建築学科教授。1995年「檮原町地域交流施設」で第5回松井源吾賞受賞。同年「コーベコニシ本社・流通センター」でJSCA賞受賞。2000年「氷見ふれあいスポーツセンター」、「吉備高原小学校」、「奥津温泉花美人の里」でAmerican Wood Design Awards受賞。2004年「新しい木質構造に関する一連の開発と普及」によりJSCA第15回業績賞受賞。
主な構造設計作品に、「四天王寺学園第2期 体育館・教室棟」(1986)、「レストラン パスティーナ」(1989)、「FIK南青山ビル」(1989)、「東京遊牧少女の包-2」(1991)、「小国町立西里小学校」(1991)、「風の卵(大川端リバーシティ21タウンゲートB)」(1991)、「ホテル・ポリーニャ」(1992)、「保内町庁舎」(1992)、「北九州市立国際村交流センター」(1993)、「小国中学校屋内運動場(小国町西里中学校体育館)」(1994)、「東大阪吉田団地(メープルコート)」(1994)、「梼原地域交流施設(雲の上のホテル・レストラン)」(1994)、「ゆりかご幼稚園」(1994)、「水/ガラス」(1995)、「埼玉県営長瀞小坂団地」(1995)、「警視庁小松川警察署篠崎駅前交番」(1995)、「船橋日大前駅東口駅舎」(1996)、「MIHO MUSEUM」(1996)、「マーベルスター伊王野ゴルフ倶楽部クラブハウス」(1996)、「コーベコニシ本社・流通センター」(1996)、「石の美術館」(1997)、「菜の花台公衆便所・展望塔・ヤビツ峠公衆便所」(1997)、「吉田町元気村クラブハウス」(1998)、「わかば第三幼稚園」(1998)、「鈴木木材工業本社」(1998)、「スペースブロック上新庄」(1998)、「吉備高原小学校」(1998)、「森/スラット」(1999)、「稲城市立若葉台小学校」(1999)、「奥津温泉花美人の里」(1999)、「氷見市ふれあいスポーツセンター」(1999)、「大分農業文化公園中心施設」(2000)、「スーパーハウスデモンストレーションプロジェクト」(2000)、「KKベストセラーズ本社ビル」(2000)、「那須歴史探訪館」(2000)、「三刀屋町文化体育館「アスパル」」(2000)、「宮城県立ガンセンター緩和ケア病棟」(2002)、「黒/白の住宅-ヒムロハウス」(2002)、「村井正誠記念美術館」(2004)、「船橋のミニ戸建て開発/C,D棟」(2004)、「戸田市芦原小学校」(2005)、「ぐんま国際アカデミー」(2005)、「軽井沢クリークガーデン」(2006)、「塩原温泉「湯っ歩の里」」(2006)、「檮原町総合庁舎」(2007)、「まちの駅「ゆすはら」」(2010)、「梼原・木橋ミュージアム」(2010)、「平城遷都1300年祭 まほろばステージ」(2010)、他多数。

山田憲明(やまだ・のりあき)
山田憲明構造設計事務所代表取締役。早稲田大学、日本女子大学非常勤講師。1973年東京都生まれ。京都大学卒業後、増田建築構造事務所を経て現職。著書に『ヤマダの木構造』『構造ディテール図集』『多様化する構造デザイン』『構造設計を仕事にする』『ひとりで学べる中層木造建築(ラーメン構造等)の構造設計演習帳』ほか。

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。近現代日本建築史、図学。1982年東京都生まれ。2012年法政大学大学院博士課程修了。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。博士(工学)。一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。

浜田英明(はまだ・ひであき)
法政大学教授、浜田英明建築構造設計主宰。2006年名古屋大学大学院博士課程(前期課程)修了、佐々木睦朗構造計画研究所。2011年名古屋大学大学院博士課程(後期課程)修了、博士(工学)。法政大学専任講師、浜田英明建築構造設計設立、2017年同准教授,2021年同教授。著書に「コンクリートシェル構造設計ガイドブック」(共著)他。

青井哲人(あおい・あきひと)
明治大学理工学部教授。建築史・建築論。1970年愛知県生まれ。京都大学博士課程中退後、神戸芸術工科大学、人間環境大学を経て現職。博士(工学)。主著(共著含む)に『植民地神社と帝国日本』『彰化一九〇六年』『日本建築学会120年略史』『日本都市史・建築史事典』ほか。

橋本純(はしもと・じゅん)
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了、新建築社入社。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年同社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。

砂川晴彦(すながわ・はるひこ)
京都美術工芸大学助教。近代東アジア都市史・日本建築史。1991年埼玉県生まれ。東京理科大学大学院博士課程修了の後、文化財工学研究所、東京理科大学補手を経て現職。博士(工学)。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦