中越地震からの共有知①

震災の経験を聞く―05│研究者│澤田雅浩・宮本匠

井本佐保里
建築討論
Mar 22, 2024

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能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。

第5回目は研究者の澤田雅浩さん、宮本匠さんへのインタビュー「中越地震からの共有知①」記事です。なお、本インタビューは、2020/2021年度日本建築学会 災害からの住まいの復興に関する共有知構築(第二次)[若手奨励]特別研究委員会 の活動の一環として実施されました。

話し手:澤田雅浩(当時:兵庫県立大学准教授)・宮本匠(当時:兵庫県立大学准教授)
聞き手:日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会(主査:佃悠、幹事:前田昌弘、委員:大津山堅介、坪内健、萩原拓也、益子智之)

佃:東日本大震災や阪神・淡路大震災は被害も広域に渡っていて、国や県の大きい方針に基づく大きな流れの中で各基礎自治体が復興に取り組んでいるように思います。一方、中越は地域ごとの個別性が強く、各自治体も地域の特性に合わせて事業を実施した印象をもっています。こうした地域性に基づく復興のあり方についてお話を聞かせてください。

被害状況

澤田:まず被害状況ですが、建物の被害が一番大きかったのが震度7を観測した川口町で、まちなかも農村部でも、そして新耐震の建物も結構被害を受けるというような状態でした。
小千谷市では旧耐震の住宅はかなり壊れましたが、新耐震とみられる住宅はそれなりに残っていました。熊本地震でもよく言われていたような自宅前避難などが多く見られました。余震が強く、また頻発していた、そして自宅は倒壊していない、自家用車を数台持っているようなことが背景にあったと思います。
復興事業として防災集団移転事業や小規模住宅地区改良事業をやったりしたエリアは、地震による被害も甚大でしたが、その一因として震災の3日前ぐらいまで雨が降っていて地盤が緩くなっていたこともあります。建物の構造が破壊されたこともさることながら、地滑りで道路が寸断されたり、それによって河道閉塞が起きることで孤立が発生しています。
山古志は、孤立したのでヘリコプターで全村避難しているんですけど、集落によってはほとんど被害がないケースも多くて、村で2番目に大きな集落である虫亀もあまり住宅被害はありませんでした。

災害復興の初動の混乱

澤田:災害復興の様々な事業メニューや復興計画の策定において、県がそれなりに決定権を持つのですが、中越地震が発災した2004年10月23日は土曜日で、明けた月曜日の25日が新しい泉田裕彦知事(当時42歳)に変わるタイミングでした。
県の災害対策本部は、当初は対応が後手に回っていて、そこに「人と防災未来センター」などが関わり、県は後追いでいろんな支援策を作る構造になっていました。また罹災証明が住宅再建や生活再建のパスポートになることもあまり理解されておらず、そのあたりも手探りで行われました。
県として住宅再建に向けたフローは整理していたのですが、余震が続いて避難指示が解除されないエリアもたくさんあった中で、応急危険度判定と罹災証明のギャップに被災者が混乱していて、本当は1ヶ月で終わらなければならない応急修理制度の工事完了がどんどんずれ込んでいきました。当たり前の話ですが、余震がある中で足場を組んで工事することなどできない状態で、期間を延長していった結果、年度内まで申請期間が延びました。こうした見通しが立たない状況に被災者からの不満も多くあがっていました。

佃:フローを作ったものの、応急危険度判定が終わっていないから先に進めないということだったのでしょうか。

澤田:被害認定調査は基本的には不動産としての住宅の資産価値の減少を調査し、罹災証明に反映させることだと言われてます。当時、自治体ごとに調査の方法に差がありました。内閣府が示した被害認定調査のマニュアルに沿って正確にやった自治体もあれば、住民と話をしながら判断していたところもありました。こうした認定基準の差が住民からの不公平感につながりました。そのため、再審査が多く発生し、より被害を大きく認定して欲しいという機運が生まれました。全壊認定をもらえば義援金も多く、応急修理制度も場合によっては使えるし、被災者生活支援生再建制度では基礎給付金と追加の給付金も給付されます。そうであれば全壊と認定して欲しいということだと思います。

仮設住宅の計画

澤田:県が計画する仮設住宅については、阪神・淡路大震災を経験した方々にヒアリングをしたり、建築士会とネットワークを構築しながら丁寧に作りましょうとなりました。また新潟県の不動産業界と連携して借り上げ仮設住宅の準備も進められました。ただ、賃貸住宅の需要が少ない地域なのと、年度の後半でもあり、空いてる住宅の質はあまり高くありません。見学に行ってみたものの、これだったら建設仮設の方が良いと思った人が結構いらっしゃると聞きました。
中越地震では基本希望全世帯に提供するものとして計画を立てました。最終的に建設型仮設住宅は3460戸しか作っていないのでひと月以内には被災者へ提供できたはずですが、入居開始は2ヶ月後の年末です。なぜかと言うと、建設型仮設住宅は特に山古志村や小千谷市などの中山間地域の人たちへの供与という目的が強かったのですが、仮設住宅は集落外に整備する必要があり、地域を離れる期間が長期化することが想定されていました。そのため、特に知り合い同士で近くに住む、あるいは集落ごとに住むための入居計画をかなり丁寧に進めたためです。

宮本:山古志村や小千谷市は外に集落単位で出て仮設住宅をつくりましたが、川口町はできるだけ元いた地域に近いところに仮設を作ることにこだわっていました。私が通っていた木沢地区は集落内のお寺の境内などに仮設住宅を建てていました。田麦山地区も集落内に土地を見つけて建てていました。

澤田:建設型の仮設住宅には一般基準と、特別基準がありますが、中越地震では寒冷地で豪雪地域だったということもあって、躯体の構造強化をしたり、除雪車が入れるように仮設住宅の周りをアスファルトで舗装するようなことがされました。加えて、県としては生活再建の一歩になるようなプロセスの中に仮設を位置づける目的で、仮設住宅団地内で元々の集落部での生業の仮営業にも目をつぶっていました。山古志村で床屋をやっていた方が自分の仮設住宅で床屋をやっていたりしています。阪神・淡路大震災の際には、たこ焼き屋さんが仮設住宅で営業を始めたところ、翌日県の人が来て「やめてください」と言われたという話が引き継がれていますが、中越地震ではそうではないということです。その他、住民自身による風除室や増築についても大目に見ていました。
特に、この後出てくる「山古志集落再生計画」を策定した6集落は帰還までに時間がかかるだろうということで、仮設住宅の周辺環境を整えるということを意識してやっています。診療所、社会福祉協議会、支所などを仮設住宅の近傍に整備し、仮設団地に隣接する空き地についても、畑のために自分たちで開墾するなら利用しても良い、というような対応が図られています。住まいを再建したら復興、ということではなく、戻った後の地域コミュニティをきちんと支援しないと、相互扶助が前提に成り立っている山の暮らしは成立しないという思いがあったんだと思います。
集落の相互扶助があるからこそ、そこに戻りたい、集落を再生したいという思いにつながるのだと思います。そうした話し合いが日常的にできるような環境、平時の付き合いのまま、顔を合わせて話ができることは大切だと思いました。なので、借り上げ仮設住宅の入居者に連絡しようと思っても、行政からは教えてもらえず結局連絡がとれない話を東日本大震災で聞いたりすると、良いこともあるけど悪いこともあるなと思ったりします。
たしかに建設仮設は部屋が狭いという問題はあります。また壁1枚隔てて隣に違う家族が住んでる状況は耐えられないかもしれないと思いましたが、集落単位で、隣り合わせにする人まで決めたので、そこまで大きな問題にならなかったのかなと思います。ある一人暮らしのお年寄りの女性は、隣から元気な子供の声なども聞こえたことで賑やかで嬉しかったと述懐されています。

佃:東日本大震災後の岩沼地区も同様に集落でまとまって仮設に入居していましたが、結果的に復興がとても早く進んだようです。仮設住宅をどのように計画するかは復興の成否を分けるポイントだろうと思います。

宮本:それはその手前の避難所でも同じです。山古志村では避難所間で地域ごとにまとまれるように途中で引っ越ししています。とにかく「集落再生なんだ」というこだわりは通底していました。

澤田:住まいの再建を後押しすることは、間接的にであれ行政ができる被災者個々への支援として一番影響は大きいと思います。ただ、それだけでは十分ではなくて、過疎が進んでいる中山間地域では社会課題を復興のプロセスで解決していくような姿を見せていかないと廃村に繋がってしまうという危機感もあったと思います。そのため、住まいを上手に再建していくための手続きと、集落をターゲットとした各種施策が両輪で進められました。

佃:行政の役割を見てみると、仮設住宅は県が中心で、その後の復興支援は各自治体が主体となっていたということですか。

澤田:そうですね。防災集団移転事業や小規模住宅地区改良事業の事業主体は市町村なので、仮設住宅の入居以後の住宅再建のバトンは市町村に渡ります。県は公共施設、例えば管理河川や道路の復旧に取り組んでいたと思います。ただし、企画課、政策課、農業振興課などの過疎対策をやっているチームで仮設住宅を回って御用聞きをしていました。そこに僕らも入って集落としての要望や今後の計画を聞いていました。仮設住宅の整備までは県がイニシアチブを持たなければなりませんが、県の復興計画の大きな柱のひとつに「地域復興」があり、それを実現するための取り組みは継続していました。さらに、それを加速するための仕組みとして復興基金が使われていました。

佃:復興基金は阪神・淡路大震災でも重要でしたね。

澤田:復興基金があると役に立つということは阪神・淡路大震災に学んでいます。しかしその運用については台湾の集集地震(1999年)の復興での使われ方も大きく参考にされています。台湾では義援金に加えて政府の予算で基金を作り、社区総体営造というコミュニティの包括的な支援、原住民集落をはじめとする中山間地に立地する集落のエンパワメントを復興の文脈で進めることをやっていました。私も2000年頃から台湾に年2回程通っていたので、そうした実態も知っていました。
復興基金の利点は、議会を通さなくてよかったり年度を超えて使えるため、地域の再生のタイミングに合わせて使用できる点だと思います。月1回の理事会で集落再生支援チームが聞き取ってきたことや、市町村から上がってきた要望をメニュー化していきました。例えば神社の修復は、神社をコミュニティ施設と判断することで実現したのですが、一般的には行政の判断ではできないと思います。復興基金、つまり自分たちの問題意識、復興の進捗に応じた支援の即時性が重要であるという認識に基づいて、フリーハンドで判断できる場所を確保できたことはとても大きいと思います。一方、東日本大震災後の復興基金は各省庁に紐づいていたので縦割りになってしまっていたようにも思います。

集落再生計画と小規模住宅地区改良事業

澤田:山古志村の中の14集落のうち、従前の土地での住宅再建が難しそうな6つの集落で「集落再生計画」を作ることにしました。発災から約1年後に本格的な議論と計画作成が始まりました。平成16年17年は「平成の大合併」の端境期で、発災時には合併協議を終わっていって、山古志村は長岡市と合併することが決まっていました。そのため、都市計画部局を持っているような長岡市の力を借りつつ、支所をつくって山古志村職員として集落再生の議論に向き合っていました。
山古志村の「集落再生計画」を担当したのは東京の都市計画・まちづくりコンサルタント会社です。都市計画家協会経由でオファーをしたのだと思いますが、地域計画連合、都市環境研究所などが集落に一つずつ張り付いてやるというような感じでやりました。
例えば河道閉塞の影響で水没してしまった集落でも、住民は水没した場所のすぐそばで再建したいという意向を示していました。僕もここの議論には加わっていたのですが、最初はちょっと無理じゃないかと思いました。ただ、やはり地域の人の意向はすごく強かったしそれが反映されたことは良かったのだと思います。議論の過程で、自分の家が水没しているのを見るのは抵抗があるのではないかという話も出ましたが、それでもここで生まれ育ち、ここで暮らしてきたからここが良いということでした。事業予算については、市としての負担も必要となることから、あまり予算が大きくならないように、という話をしていた時に、小規模住宅地区改良事業をここに適用できるのではないかという知恵を国の方や専門家の方が持ってきてくれました。小規模住宅地改良事業と防災集団移転事業は補助率が大きく違うのですが、工事費の概算を出してみると、補助率が小さくても結局負担する予算そのものは多くないことがわかり、それでやってみましょうということになりました。また、防災集団移転は戸あたり100坪という上限があったのですが、小規模住宅地区改良ではそうした縛りがないことも、雪置き場や畑が必要な環境では重要でした。

佃:その問題は東日本大震災でもあります。やはり漁業集落の人たちは漁具を家に置かなければいけないので、漁業集落防災機能強化事業を使って150坪程度の土地に移転した事例はありました。産業とリンクさせながら事業を見極められたかどうかは重要な観点だと思います。

澤田:漁業集落防災機能強化事業を使えば漁業背後地にも手を入れられので、東日本大震災ではそちらの方が良かったのではないかと思います。でも当時は高台に行きたいという気持ちが強かったのでしょうね。

佃:そうですね。やはり事業の選択までの時間が短かったことも要因としてあると思います。

坪内:防災集団移転事業を選択した地域でも工夫などはあったのでしょうか。

澤田:防災集団移転事業を1番やったのは小千谷市です。小千谷市の十二平という集落は全戸が移転をしています。集落のリーダーが仮設住宅にいる間に、みんなで一緒に少し利便性の良いところに移転し、通いながらでも農業を続けよう、というようなことを説明して住民と方針を決めていました。
小千谷市の他の移転事業対象となった地域に関しては、個別の住宅再建の最適化っていうのを図る一つの手続きとして集団移転を使っているという理解で概ねあっていると思います。そのため、災害危険区域、移転促進区域の線を無理やり引いているところもあります。結果、残された人は、その虫食いになった集落の中で、若干不便な思いしながら、頑張らざるを得ないっていう状態になっているし、世帯数が半減していたりします。

市町村・地域住民のイニシアチブ

澤田:小規模住宅地区改良事業は、本来、木密や戦後の混乱で基盤整備が不十分な高密度市街地で使う事業なので、対象区域内の住宅は不良住宅とみなし、それらをすべて除去したうえで基盤整備を行い、そこに住宅等を再建する、というプロセスを取ります。ただ、事業範囲は公有地となり、そこを賃借することになります。土地を自ら所有しそこに住まいを構える、というのが当たり前ではありますが、今回は、事業区域内に自力再建ができないような人たちのための改良住宅を公営住宅としてはめ込むことができるのも良いだろうということになりました。こうした丁寧な住民との対話や合意形成ができたのは、建設型仮設住宅が計画的に作られていたからだと思っています。
当初、中山間地域でご高齢の2人暮らしとか1人暮らしの世帯は再建資金がほとんどなく、戻りたくても住宅を再建できないのではないかと思っていました。そこで、県産材などを使いながら、また復興基金で補助しながら、安く住宅を建てられるような方法がないかということで、JIAとして三井所清氏(アルセッド)などに関わってもらって中山間モデル住宅を開発しました。基礎を入れて、さらには基金からの補助などを受けることで個別の負担は1200万円程度だったと思います。一般の住宅ではそこまで採用されませんでしたが、山古志村では公営住宅に採用しています。もちろん「山古志モデル」だからということですが、木造とすることで減価償却の時間を早め、早く払い下げができるようにすることがひとつの理由です。
一方で、入居者は大体ご高齢で、仮に亡くなった後に入る入居者はほとんど見込めないということは最初からわかっていました。そのため、とにかく公営住宅を少なくし、自力再建を推進しようという方針でした。実は、住宅再建とかで役割を果たしたのは、義援金だけでなく農協の建設共済保険です。多くの方がそこに加入しており、保険金を受け取ることができていたこともあり、再建資金に困っている世帯はそこまで多くありませんでした。それで公営住宅の整備を抑えることができました。また、災害公営住宅から一般公営住宅に用途転換することを考えて計画していました。

持続可能な再生に向けて

澤田:新潟の中山間地域は恵まれています。雪は降るけど、新幹線の駅まで1時間かからないですからね。僕が山古志の復興推進室長に最初の頃に言われたのは、産業誘致、産業開発とか、若い人の定住促進などによる人口確保を進めることは望ましいけれど、仮にそれがなくても、自給自足と年金がちょっとあれば暮らしていけるだけの基盤を持っているということでした。そこを尊重した上で本当に事業が必要かどうかを議論すれば良くて、多くの投資をしなくても大丈夫というように考えるようになりました。

前田:元々の自律分散的な生活構造によって集落が成り立っていて、それにちょっと手を入れて再生したということですね。

澤田:山古志の人たちからは、自分たちが過疎対策を何年やってきてると思っているんだと言われました。都市部の人間が経済発展や人口増加している間にもずっと人口が減っていたのだと。身の丈がわかってるというか、背伸びしないで、そこそこでいい。そうした暮らしのありようを見せる気概は、住民にも役場の人にもあったような気がします。

宮本:中越地震後の生活再建のフローにおいて重要な点として合併前で、それなりに市町村の職員がいたことがあると思います。仮に10年後、2014年に発災していたらこんなに復興できていないように思います。

佃:合併前だから、旧山古志村の人はその地域内での公営住宅入居ができていたわけですよね。一方で、例えば東日本大震災の石巻市だと合併後の市全体で移動することになるので旧町から中心部に集まってしまうといったような事が起こっています。難しい問題です。

前田:合併から時間が経って弊害などは出てきているのでしょうか。

澤田:もうそろそろ出る時期だと思います。中越地震があったので、しばらくは支所の独立性や権限があったように思います。ただ、長岡市で出身地域性を反映しない採用が続いていけば、各地区のことを知らない人が増えるわけです。これまでのように行政と住民という立場は違っていても小学校の同級生といった繋がりで同じようなことを考えられる、という雰囲気は徐々に失われてくるだろうと思います。

前田:集落をずっと残していくだけでなく、いつかたたむような意識は皆さんお持ちなんでしょうか。

澤田:少なくとも、当初10年はそうした話は聞かなかったですね。むしろ、もう1回頑張れる方法があるのではないかと気づいた可能性があります。
雪国での暮らしを支える様々な技術は発展してきて、道路も改善されると意外と何とかなるようになってきたという事だと思います。中越地震の後に例えば山古志に行く道路も国直轄のものも含めて整備されて、時間距離が短くなりました。そうなってくるとこれはこれで、暮らしの一つの形態としてあり得るのではないかと考える人が50代ぐらいの人にいる感じがありました。ただ、防災集団移転事業を行った十二平地区や小高地区など、立地的に厳しいと言われているところは、便利なところでもう1回家を再建したいと思う人がいたと思います。

前田:雪の存在は大きいのですね。

澤田:はい。家周辺の除排雪が重労働です。何か運命共同体にならざるを得ないというか。一方で、冬の間は何もしなくていいっていう免罪符になっているというところもあると思います。

宮本:地震が10月で、雪が降る前にということで仮設住宅の整備は急いだと思いますが、降ってしまえばやれることないので、皆で話し合う時間が行政も住民もともにとれたのは大きかったと思います。集団で移転を行った小高とか十二平は、やはりリーダーの人が中心となって避難所のときから話し合ったと言っていました。一方で、そうした話し合いができずにバラバラになってしまった地区もあります。僕ら外から関わってた人間ももうちょっとやりようがあったのかなと反省するところもあります。

萩原:基盤整備以外のところでは、どのようなことが事業化されていったのでしょうか。

澤田:コンサルタントは、集落内の古民家を活用してミュージアムにしましょう、というような絵を書くわけです。しかし地域と行政は絶対面倒みきれないからやめてくれと言っていました。とにかく家と畑と田んぼと鯉の池があれば暮らせるので、上手に帰らせて欲しいということで集落再生計画をやったと思います。他にも、家がぽつぽつと斜面に点在するような図面や模型をコンサルタントが持ってきた際にも、外の人間のノスタルジーのためにこんな苦しい思いをしなきゃいけないのか、と作り直しが指示されました。こういう施設があれば活性化するとか交流ができるみたいなことは、それまでさんざんやってうまくいかなかったことを地域の人たちはよくわかっていました。もっとやらなければならないことに注力をして、本当に自分たちだけでも暮らしていける住まい住環境と地域環境を手に入れるための手続きとして、集落再生計画の策定プロセスを使っていったのではないかというのが、僕の感想です。

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井本佐保里
建築討論

1983年生まれ。日本女子大学家政学部住居学科卒、同大学院修士課程修了。藤木隆男建築研究所を経て、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士後期課程入学。博士(工学)。東京大学復興デザイン研究体助教を経て、現在、日本大学理工学部建築学科准教授。