阿部公彦著『事務に踊る人々』

地味で冴えない存在の奇妙な磁場(評者:大村紋子)

大村紋子
建築討論
Oct 20, 2023

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設計事務所を営む友人が「私は事務処理能力が低くて・・」と言うとき、そこには”非クリエイティブ”な事務への嫌悪感がうっすらと漂う。そうはいっても設計「事務」所なのだし、切り盛りするには事務処理能力は必須なはずだけど、そのイヤさ加減はよくわかる。

存在理由を誰にも説明できないくらい完璧に無意味なある種の仕事(多くは事務とその周辺の職務)を論じたデヴィッド・グレーバーの著書 『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』は数年前に話題になった。世の中にはなくても困らない仕事があふれかえっている。そのとおり。けれども、『事務に踊る人々』の著者は、グレーバーのあまりにすっきりした切り分けにちょっぴり疑問を呈する。事務がブルシットなのは、なくなっても良いというよりも、事務がまとう奇妙な性質のせいではないか?

事務がときに「ブルシット」=「クソどうでもいい」に堕するのはたしかだ。しかし、なかなか厄介なことに、事務がほんとうに必要とされる場面や領域もあるのである。そこがまさに不満の原因となるのだ。(・・・)そして事態をさらにややこしくするのは、「クソどうでもいい」ように見えるにもかかわらず必要でもある事務仕事を、その必要性以上に必要そうに見せてしまうような、奇妙な事務愛のようなものがあることだ。(p.17)

著者は英文学研究者であり、大学教員だ。事務を愛してやまないわけではもちろん、ない。予算年度や学生の入試、単位の管理などルーティンの繰り返しとなる事務作業に長年従事している。また、語学の習得やそのための制度が事務作業に似通っていることを実感している。学生や教員の本務ではない、という建前があるためか事務はときに雑務と呼ばれて軽視され、うっとうしがられ、研究対象にはならない。そんな「面倒くさく、複雑で、抑圧的」(p.2)な事務に、文学という一見かけ離れた存在から切り結んだ画期的な書である。建築どまんなかを論じる本ではないが、私たちが何気なく使っている言葉の底意地を垣間見ることができる。 読了後、事務に対する心持ちはネガティブ一辺倒から多少なりとも変化するだろう。

帯には“エッセイ”と銘打たれ、やわらかな論の運びだが、本書は緻密に構成されているので、ランダムな拾い読みではなくぜひ章立てに沿って読み進めてほしい。まず、夏目漱石を案内人に事務的思考のありようをひもとく。漱石は文豪である前に、明治のエリートとして学校制度の充実を考え、「英文学を科学の一分野であるかのような観念の枠組みとともに研究しようとした」(p.65)人物だった。そのなかで、著者は事務文化のあらわれを「形式」「注意」「時間」「情報共有」「もの」「権力」「負の要素」という7つの顔でスケッチしたうえで、古今東西の文学を取り上げていく。事務の黎明期、ものの見方の変化の端緒を『ガリヴァー旅行記』(1726年、ジョナサン・スウィフト)に求め、事務の概念が文学に組み込まれていった歴史的経緯をたどり、事務“帝国”が完成したのちの逸脱や漏れを文学表現に見出し、分析する。

事務処理能力が権力と結びついていく1840年代、その枠組みにおさまらないエネルギーを備えつつも敗れていく主人公を描いたトマス・ハーディ、事務のグリッド世界が完成されたルーティンの中で省略や逸脱を行う西村賢太、事務言葉と現実世界の落差を巧みに用いた辻原登。事務的で無駄のない言葉づかいや手続きへのこだわりを物語の土台とする小川洋子。三島由紀夫や川端康成も登場する。簡潔なストーリーが付されているので、小説を読んだことがなくても大丈夫。さまざまな文学作品が「事務」というレンズを通すことで異なる顔を見せる。建築体験においても、空間のシークエンスを感じる、作り手の立場で見る、ディテールや素材を注視する、時代の気分を読み取る、などのいくつもの方法があるのと似て、小説の読み方の技法を知る機会にもなる。

最終章では文学作品に加えて新聞記事やほんものの事務文書、さらに「サボテンの育て方」までもが重要な例として登場し、読者は事務がひそやかに日常に散りばめられているさまを目の当たりにする。事務的思考は全体を統一する原理や思想が見えないまま、世界を静かに下支えしているのだ。おそるべし、事務。

そもそも、事務は合理的で違反やミスを許さない人間味のない世界のはずである。2023年10月現在、『生きのびるための事務』( 漫画:道草晴子 原作:坂口恭平)がweb連載中だが、主人公の対話相手ジムくんもロボットのような顔つきで描かれ、感情の起伏が乏しい★1。それなのに、本稿の冒頭に見るように、私たちは事務に対してやや過敏に苦手意識を持ったり蔑んだり。なぜ無味乾燥な存在に私たちの感情はこんなにも波立つのだろう? 本書の後半で著者は、事務の持つ「嫌な冷たさ」に着目し、最終章に至って鮮やかな結論を示す。感情が波立つ理由-心地の悪さ-がわかると、事務に対する愛憎の距離感がガラリと変わって、まったくクソどうでもよくない「世界の神経構造」(p.387)が立ち現れてくる。

となると、建築もまた事務の世界から切り離すことはできない、と私は思う。私たちがしばしば直面するのは「形の呪縛から解放され、内容を生きたい」(p.186)と抗いながらも「波乱を嫌い、ルーティンを愛する人間の習性」(p.193)に居心地を求める相矛盾した事務的スタンスである。

いやいや建築は実空間であって、言葉を扱う文学とは違うから、という指摘もあるかもしれない。けれども、設計プロポーザル方式とは募集要項書という名の事務文書が(逸脱への期待も込めて)応答を呼びかけるものだし、建物は建設コストや床面積あたりの賃料、CO2排出量などのシンボル(数字)に置き換えられることも多い。 図面(ドローイング)はどうだろうか。

形式を意識しながらの文書作成には“生成する”“動く”という性質と、“止める”“定着させる”という性質がともに備わっている。(p.47)

という文章は、文書を図面(ドローイング)に読み替えても成立する。「施主は建築家に何が欲しいかを語るし、建築家は建物を描くだけではなく、それをさまざまな形で記述する。」と、エイドリアン・フォーティーは『言葉と建築』で述べたが★2、いまや「何が欲しいか」を、テキストの集積によって生成されたAIイメージで示す施主もいるに違いない。描くと書く、イメージと言葉、その境界はあいまいになり始めている。

本書によって文学は社会の投影であること、そして、建築をめぐる私たちの思考も数多くの書物との回路を有していることに気づかされる。例えば私たちは古い建物について、壊すか残すかの二択を語る。しかし当の建物としっかり向き合い、注意を払って読み取りを尽くしているだろうか。小川洋子の小説に関する以下の批評のように深く、慎重に?

答えが出せそうなのに出さない、その寸止めのような宙吊りのような状態を保つことに、小川作品を読むということの意味はあるのではないか。(・・)読むという行為は植物的なやわらかさの実践なのだ。建造物や抽象的なイデアや人生など、あらゆるものが植物の茎や枝のようなやわらかい連続感で構成されうることを私たちは想起する。(pp.171–172)

思い浮かぶのは建築評論よりもむしろ、「清掃(メンテナンス)」の実践である。二択の答えを急ぐ姿勢からいったん離れ、清掃や片付けを行って建物と社会との接点を少しずらす★3。身体を動かす作業を通してさまざまな人が時間をかけて建物とその周辺を慎重に読み取っていく。そこには答えを出せそうで出さない、「やわらかい連続感」で描かれうる、「違う未来」が見えてくる。

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★1 『生きのびるための事務』 漫画:道草晴子 原作:坂口恭平 ポパイウェブ 第1講で、ジムくんはフアンとかキョウフという言葉がわからない人として描かれる。

★2 p.44『言葉と建築 語彙体系としてのモダニズム』 エイドリアン・フォーティー 坂牛卓+邉見浩久監訳 鹿島出版会

★3 『清掃のハードコア』建築討論2022年7月特集 『共同討議:プロジェクトとしての清掃は可能か?』 における山本周氏の発言より。 「石黒ビルの場合は(・・)、掃除をしてオープンビルをしたら建物の所有が個人から市民へと少しずれて、違う未来へと変わりはじめているような感覚があります。」

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書誌
著者:阿部公彦
書名:事務に踊る人々
出版社:講談社
出版年月:2023年9月

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大村紋子
建築討論

プロジェクトマネージャー。主なプロジェクト「葉山加地邸継承支援」、「銘建工業本社事務所」、「サテライト古座」。株式会社納屋代表取締役。