今里隆[1928-] 吉田五十八に見る戦後の日本建築と今里隆の実践

話手:今里隆/聞手:砂川晴彦・種田元晴・佐藤美弥[連載:建築と戦後70年 ─ 05]

建築と戦後
建築討論
71 min readFeb 29, 2020

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日時:2019年8月24日(土)14:00–17:00
場所:杉山隆建築設計事務所(東京都千代田区)
聞手:砂川晴彦(Su)、種田元晴(T)、佐藤美弥(Sa)

今里隆氏

今里隆氏は吉田五十八[1894–1974]の弟子の一人で、終戦直後の1945年に東京美術学校に進学され、在学中に吉田研究室(事務所)に入り、戦後の吉田建築を20年余りに亘って支えた建築家である。その後1964年から独立された。今里氏は数寄屋風の住宅建築に加えて、大規模なものだと起(むく)り屋根の池上本門寺大客殿[1978]や隅取り方形屋根の国技館[1984]、醍醐寺伽藍の霊宝館平成館・伝法学院[2000]など品格のある日本調の建築を手掛けてきた。

インタビューはご高著『屋根の日本建築』(2014)をもとにして、大きく二部の構成で行った。第一部ではお生まれから吉田研究室(設計事務所)まで、第二部では独立以降の建築活動について時系列に伺った。

吉田五十八は日本建築の近代化を目指した建築家として知られ、吉田の建築は1930年代に住宅建築で新興数寄屋を確立し、戦後はさらに住宅を基本としながらコンクリート造を手掛け寺院建築に展開した。他方で戦後では吉田だけでなく弟子たちの活躍があった。吉田五十八からその弟子へ。その系譜のなかで戦後日本建築の流れを考える。こうした見方で今里隆氏に吉田研究室での担当建築のご経験(1946年から1964年まで)と独立以降(1964年から現在まで)の設計活動を伺った。

戦後直後15坪制限下での復興建築、日本人の住まい方の変化、施主や施工者、造園家と建築家(吉田五十八)との関係、吉田建築の設計プロセスなどいくつもの担当作品にまつわるエピソードは、戦後の吉田建築作品の背景を埋めるための史料になっていると思う。また戦中期の学徒動員・東京大空襲のご経験や東京芸術学校在学時(1945年から1949年まで)の教官など、戦争前後の貴重な証言を頂いた。独立以降では需要に応えながら伝統的意匠の日本建築をどのように実践されてきたのか今里氏設計の建築作品の生み出される経緯に迫った。(Su)

第一部 吉田五十八研究室時代

最近のお仕事から

Su:さっそくですが、生年月日を教えてください。

今里:昭和3年2月21日。91歳です。

Su:事務所はずっとこちらですか。

今里:三菱地所の山王グランドビルに約40年いましたが、80歳になった時に今のビルに移りました。現在は全体の監修の仕事をしています。今年はこのすぐ近くにある平河町のホテルの全体計画(ザ・キタノホテル東京[2019])の監修を終わり、その前に長野の戸隠神社の直ぐ横に美術館を(北野美術館戸隠館[2015])を完成しました。これは木造で六角形を二つ繋いだような形をしています(写真をもってきてくださる)。木造でなぜこんな形をやったかというと、僕は六角形で日本のお堂みたいにつくりたいと言ったのですが、環境省から切妻屋根にしないとだめと言われまして、六角形で切妻屋根を架けました。ここは有名な戸隠神社が隣接していまして、そこに五千坪くらいの丘があります。ここは景色の良い所です。長野市内に美術館(北野美術館)が現在あり、そこから出し入れしていますから収蔵庫がいらないから許可になったのですね。ちょっと面白いのは、これ(六角形プラン)にして見やすくしたところです。美術館は普通四角につくるでしょう。それでは角で人間がぶつかります。それが六角形だからすっーと流れる。それまでに八角形でつくったことがありますけどね。お茶席があります。立礼の席といいます。それからコーヒーショップからは戸隠山がすばらしい景色です。

お生まれと彫刻家の父

Su:お生まれはどちらでしょうか。

今里:東京の豊島区です。駒込の染井墓地の近くで生まれました。父親が静岡県沼津の出身で、沼津から東京へ出てきて仕事をしていました。そこで私が生まれました。母親も一緒で沼津です。

Su:お父さんのことについてもう少し教えてください。

今里:彫刻家です。彫刻家だけではなかなか食えないです。石膏や油土でつくるのは得意でしょう。建築家に頼まれて、建築模型をつくっていました。あの頃は石膏模型しかできなかった。模型と一緒に古い建築の天井飾りがあるでしょう。アカンサスみたいな。そういう彫刻も頼まれてやっていました。そのような関係でいろいろ見にくる方がいらっしゃる。その中に建築家で有名な人で、渡辺仁[1887–1973]さん、それから前田健二郎[1892–1975]さん。そういう偉い建築家が随分、見に来られていました。

僕は兄弟が五人で次男です。僕がそこのアトリエで子供の時に遊んでちらかしていたのですね。前田健二郎さんがそんな僕を時々見ていましてね。中学生だった時に、前田健二郎さんが自分の出た東京美術学校の建築科を受けろと言う。なんか見込みあったというか僕が青写真の中で遊んでいたのを見ていて、何かこれは美術学校に行ったらよさそうだと感じたのかもしれないです。幸い美術学校に昭和20年に受かりました。

20年の年というのは終戦までは、学徒動員で高射砲の弾丸の信管の仕事に携っていました。学校が始まるのは終戦後少し経ってですから、20年の暮れに主任教授の吉田五十八先生に自分の研究室に入れということで研究室に入りました。日本建築に一生をささげるようになった始めです。前田健二郎さんのおかげです。前田健二郎さんは吉田先生ととても仲良かったようです。

T:前田健二郎さんと吉田五十八さんは大学が同期ですか。

今里:大学は同期ですが、吉田先生は体が弱くて遅れて出ています。

T:だいぶ長く在学されていますよね。

今里:いろんな人と同期ですね。美術学校というのは非常に面白い学校で、絵描きさんも彫刻家もみんな交流があります。

T:横のつながりがあるのですね。

今里:それがとっても良いことですね。僕の同級生でも音楽学校に行って教室にあまりこなかった者もいます。我々の時はそんな自由な学校でした。

T:ご兄弟の五人の中では何番目ですか。

今里:次男です。本当は姉がいましたが、小さい時に亡くなっていますから男五人です。

Sa:今里先生はご自宅にお父さんのアトリエという環境があって、そういう意味では中学生の頃から、ある種建築とか美術とかの関心があったのですか。

今里:関心というかその頃は分からなかったですね。前田先生に受けてみろと言われるまで、美術学校に建築があるとは思わなかったですね。

Sa:戦争が長く続いていて同時代に生活していないと世相の分からないところがありますが、昭和20年という年に東京美術学校に入ろうと考えた時の心境はどのようなものでしょうか。どちらかというと前田健二郎さんからご紹介されたから入ってみようという感じでしょうか。

今里:建築というよりは青写真から立体的にだんだん模型になってつくっていく。そういうのをずっと見ていたでしょう。あとはアカンサスのようなものを両手で親父がつくっている。これが完全に左右対称にできあがる。我々だとそうはいかない。これが面白いなと思いました。図面からこういう建築ができるという。きっかけとしては青写真からそういうものができるのを見ていたことでしょう。

T:お父様のお名前はなんとおっしゃいますか。

今里:その頃、僕の姓は杉山で、杉山貞次郎と言います。佐藤八百[生没年不明]さんという彫刻家がいまして、その人の弟子入りをしていました。佐藤八百さんもやはり彫刻と一緒に建築の模型を頼まれて少しやっていたそうです。

T:お父様は美術学校のご出身ですか。

今里:いいえ。そこ(佐藤八百氏)に弟子入りして、修行した人です。

T:お父様はご出身も沼津ですか。

今里:沼津です。

T:代々沼津ですか。

今里:代々です。

Su:当時の駒込はどのような町でしたか。

今里:駒込というのはあの頃、山手線の中で一番発展しない所だったと思います。土地が安いからそこを買ったのでしょう。染井の墓地という大きな墓地があります。有名な人の墓所がたくさんあります。その少し手前のところです。幼稚園は大和郷幼稚園1)というところに入っていました。

Sa:大和郷はかなり早い時期の郊外住宅地ですよね。お家も大和郷で。

今里:違います。本当は大和郷の人の子供を入れるように幼稚園をつくった。それだけでは人数が少ないので近隣を少し入れ始めたのですね。昭和9年卒で5回生でした。そこでは東京大学の先生(鈴木成文[1927–2010])と同級生です。その奥様が小学館の社長だった相賀徹夫[1925–2008]さんの妹で、私の勤めていた吉田研究室内に『国際建築』の編集部が入っていました。そこに相賀さんのお嬢さんが学校を卒業して入ってきまして、しばらくしてから結婚されました。

終戦直後の吉田研究室の仕事:『吉田五十八作品集』(1949、国際建築編集部、目黒書店)について

今里:終戦直後に『国際建築』が(吉田研究室に)入ったというのは外国の本が多く来ていましたでしょう。それが見られるのが良かったですね。読売ホール(村野藤吾「読売会館」[1957])で、リチャード・ノイトラ[1892–1990]が講演会を開いた。その時、ノイトラは良いこと言っていました。日本建築を参考にしていますと、僕は大好きでいろいろ調べていますが、ノイトラの作品をずっとみていますと、のびのびとした平面図でしょう。それがちょっと日本建築みたいで、ここに畳入れて屋根かけたら日本建築になるじゃないかと思って、彼の作品をいろいろ見ていました。その頃、日比谷公園の中にあった日東紅茶2)をアメリカが接収して、海外から来たいろいろな資料を見せるようになっていた。誰でもただで見られる。まだ日本に入っていない“Architectural Forum”(編者注:アメリカの代表的な建築雑誌)とか。あの頃、建築の本がたくさんあって、もう暇があれば通っていました。その時にノイトラがこれはすごい建築家だなと思って見ていました。

Su:そうすると占領の時代にアメリカの文化が入ってくる。

今里:入ってきた。それから『国際建築』あたりでもノイトラの図面を掲載し始めていました。早い時期にそういう外国の本を見られたことはものすごく僕としては良かったと思います。外国の仕事も一緒に見ていないとバランスが悪くなりますからね。その頃、国際建築の中で編集をやるために東大の先生が多く来られていました。その時に浜口隆一[1916–1995]さんと仲良くなって、亡くなるまでお付き合いしていました。

吉田研究室に入りまして、まだ学生ですから、学校半分、研究室半分で行ったりきたりして、まず一番の仕事は戦争中に疎開した整理から始まりました。焼けてしまうと大変だから自分の建築の資料、写真、図面、本、ぜんぶを二宮町(神奈川県)の自宅(吉田五十八自邸[1944])へ疎開していました。疎開していたのがトラック一台分戻ってきて、図面はもうぐちゃぐちゃで出てきた。慌てて疎開したのでしょうね。その頃、僕一人です。その図面を広げて畳んで筒に入れたり整理している時に吉田先生が学校から帰ってくるとその図面を広げた所で説明してくれる。そのおかげで戦前の作品を一通り殆どみられたことは、私としてはとっても良かったですね。

その時に、作品集をつくろうということになりましてね。この作品集は三巻つくることになって、一巻で目黒書店が倒産してしまいました。だからこれは古本屋に出てないでしょうね(作品集を見せてくださる)。

Sa:『吉田五十八建築作品集』。

『吉田五十八建築作品集』 目黒書店[1949]

今里:あの頃はインキングしてトレースしないとできない。今みたいに何もない時代ですから。

Sa:図面の上に薄美濃あるいはトレーシングペーパーでしょうか。

今里:だいたい薄美濃です。インキングしてね。一、二、三出す予定でやりまして、第三巻でディテールを出そうとしていた。ディテールの原稿、原寸まで全部できていましたが、とうとうそれがでなかった。

T:この一巻をつくった後に目黒書店がなくなってしまう。

今里:そう。残念でした。ディテールは参考になる本として描きましたから。

Su:図面は今里先生が描かれていますか。

今里:昔描いたものを直しながら、図面は私が描き直しました。

Sa:1946年に吉田先生の研究室に入られて、これが1949年の出版ですから、だいたい3年ぐらいかけてこの本を出版されています。

今里:その頃、『国際建築』の編集長の小山正和[1892–1970]さんが編集の責任者です。

Sa:今里先生が東京美術学校に1945年に入られて、その次の年、1946年に研究室に入られるわけですが、同期が15人いるなかで、なぜ今里先生が吉田研究室に入ることになったのでしょうか。

今里:これがわかりません。先生からいきなり言われて、すぐに俺の所に来いと。丸の内3)の研究室へ来いって言うのですね。学校半分、研究室半分の生活が始まりました。

T:吉田先生とは大学行ってから初めて知り合っていますか。

今里:そうです。仲のよかった前田先生から声がかりがあったのかと思うし、その辺はよくわかりません。

T:お父様の杉山貞次郎さんと吉田先生も全然ご面識はないですね。

今里:ないです。

T:お仕事もご一緒されてないのですか。

今里:戦後は吉田先生の模型も随分つくりました。

T:お父様が。

今里:そう。あの頃は建築模型をやる人が殆どいなかったですから。

T:吉田先生の作品の建築模型をお父様がつくられるのは。

今里:僕が入ってからです。写真が悪いでしょう(作品集を開いて)。藁半紙みたいで。あの頃はこれしかできなかった。

T:それにしても紙面は綺麗です。

今里:この写真の乾板を疎開していたから残った。確か一人の写真家が撮っています。その人も駒込にいて、戦災で焼けたら大変ということで、先生の元に乾板を全部持ってこられた。

T:英断ですね。

今里:その乾版があったから戦後、吉田先生の作品集をつくった時に役に立ったのですね。

T:すごい装画が小林古径[1883–1957]。

Sa:題字は安田靫彦[1884–1978]、すごいですね。

T:写真は加藤武男[生没年不明]さんという人ですか。

今里:違います。ちょっと思い出せません。

Su:ポートレートは土門拳[1909–1990]ですか。

今里:土門拳です。昭和25年に歌舞伎座の復興をやりまして。写真をとる時に私も一緒にいきました。地下室に水がたまって鉄筋が折れ曲がったような廃墟のようでした。

Sa:この写真はその歌舞伎座の現場ですか。

今里:歌舞伎座の現場です。この時から歌舞伎座に私も少し関係しました。先生が亡くなった後、歌舞伎座はこの前、改修しましたがその、監修[2013]をさせて頂きました。そのおかげで京都の南座[1991]の設計もやらせていただきました。松竹の永山武臣[1925–2000]社長さんから指令され、大阪の松竹座[1997]もやっています。一生のうちに歌舞伎の劇場を四つ関係したことになります。

T:木村得三郎[1890–1958]さんの建物ですか。

今里:そう。映画館でした。

T:増築ですか。

今里:顔面だけ残して、後ろは壊しました。古いものを残せ、残せとなりますね。だから表だけを残して後ろは新築しました。それをやったおかげで、役所から余分に面積がもらえました。前面は倒れないように補強が大変でした。それに合わせて設計するのは難しかった。古いモノを残す仕事をやるというのはものすごく難しいですね。

芸大の教官

Su:少し戻りますが、芸術学校の教官は吉田先生と他にどういう方がいましたか。

今里:非常にユニークな先生、水谷武彦[1898–1969]さんという先生がおられました。この先生の講義(構成原理)がとても面白かったです。それから吉村順三[1908–1997]先生、岡田捷五郎さん[1894–1976]です。

T:水谷武彦さんはバウハウスの人ですか。

今里:そうです。バウハウスから帰ってきて直ぐに学校の先生になられました。構成原理です。

T:図案科ですか。

Sa:建築と別で図案科と昔はいっていたと思いますが。

今里:最初は図案科といっていましたが、一部と二部にわかれ、二部が建築科になりました。

T:デザインと建築が分かれた。

今里:そうです。私が入った時は学生15人でした。少ない時は5、6人ですから、先生の方がよっぽど多い。官立は贅沢な学校ですね。

Sa:そうするとかなり少人数で丁寧な教育をされていたのでしょうか。

今里:いや。先生は何も教えないです。自分でやる他しょうがない。だから先生に直に聞く以外に手がない。そうすると丁寧に教えてくれる。それ以外、教授は教えないです。

T:吉田先生は1941年からされているのですね。非常勤の先生は。

今里:非常勤で良い先生は随分おられましたね。

T:中村傳治[1880–1968]さんは。

今里:中村傳治さんは材料です。あとは金沢庸治[1900–1982]さんは芸大出た人です。水谷さんはユニークな人でした。

Sa:水谷武彦さんはバウハウスで学んだ教育方法を実践されたと聞いたのですが、そういうことでもなかったですか。

今里:あの方は途中で急におられなくなりました。また戦前はなかった都市計画の石川栄耀[1893–1955]さんです。この講義は傑作だった。半分漫談をやっているような。だからみんな頭に入る。本当に面白かったと言っては失礼ですが。

T:中村登一[1919–1969]さんという人は。

今里:登一さんは芸大を出た人です。左翼がかった方でした。

Sa:NAUの運動を積極的にやっていた方ですね。個人事務所をやられていた。

今里:最後は自殺してしまいました。

T:歴史の先生は関野克[1909–2001]さん。

今里:この先生は東洋建築史。有名な先生です。

T:その時は歴史の先生は関野さんおひとりですか。

今里:関野先生だけでした。

T:山本学治[1923–1977]さんはその後から。

今里:山本学治さんは随分後から。国際建築にたびたび来られていたのを吉田先生がお話しして入られたと思います。

T:大澤三之助[1867–1945]さんはいましたか。

今里:私が入った時はおられません。東大の先生です。この講義は良かったそうですよ。ちょうど私と入れ替わりです。

戦後の吉田研究室と担当作品

Su:今里先生は吉田研究室に入られて、復興建築をされていました。その頃、最初に担当した建物は何でしょうか。

今里:最初は終戦直後で仕事がありませんから作品集を手伝い、そのあと仕事が頼まれるようになりました。本当に良い仕事は、私が担当させてもらった麻布につくった田中邸[1947]です。終戦後は15坪しか許可にならなかった。田中邸は15坪を二つつくって後から真ん中に廊下をつくって繋げました。これは本格的な日本建築です。まだ誰もやらない時でした。大工がだんだん戦争から戻ってきて、その大工たちがいたからできた。材料は木場に行くとふんだんにありました。戦争中は疎開していた材が戻ってきました。だからすごく良い材料でできました。

Su:田中邸が1947年です。

今里:その次にやったのが吉屋信子[1896–1973]の家なのですね。吉屋信子の二度目の家(吉屋信子邸[1950])です。牛込矢来町の家が戦争で焼けて、その一度目の吉屋邸(吉屋信子邸[1936])が吉田先生の出世作です。それまで吉田先生は作品を発表していなかった。一遍にいくつかまとめて発表したのが出世作になった。

二度目は麹町二番町につくりました。それはまだ私が学生の頃に担当しました。平面図は先生がスケッチしたものをおこさないといけない。しかし何にも教えてくれない。その教えてくれないのが教え方なのですね。平面図を30枚ぐらい描いて、ああこれで良いだろうと、これからどんどん起こしていけと言われました。それから今度は時々、見てくれました。誰も教えてくれる人がいないですから、大工の棟梁を呼んで、一日カンヅメにしていろいろ聞いていました。先輩が戦後戻ってきたから、そういう人達にも教わっていました。

Sa:先輩が戻ってきたというのは、戦前に吉田研究室で働いていた人が、戦争にかり出され戦後に戻ってきたわけですか。

今里:そうです。戦争から戻りましたと挨拶に来ていました。それで私は先輩方とだいぶ仲良くなりましたね。

Sa:その頃の吉田研究室では何度も図面を描いて、そういう実務の中で建築の技術を身につけられた。研究室の中での仕事がかなり重要だったということですね。

今里:そうですね。その頃は、先生の得意な日本建築の専門の仕事はまだ数少ないですから、住宅や工場なんかを頼まれて設計していました。先生はスケッチぐらいして、そのような仕事が終戦後は結構ありました。本格的に始まったのは、田中邸と吉屋信子邸が最初でした。吉屋信子邸は(麹町)二番町の敷地がビルに変わってしまって、鎌倉にまたつくりました。これが三度目(吉屋信子邸[1962])の家。この三度目は鎌倉のある人の別荘で、敷地が600坪ぐらいで、その古い建物の改造です。改造の仕事は面白いものですね。その時初めて改造やりました。これは別荘だからあまり日本建築的なものはやっちゃいかんと言われて、民家的なものにしました。できてみると別荘地にあっているのですね。

Su:坂西志保邸[1960]も数少ない改造の作品でした。

今里:これは大磯のどなたか名のある方の別荘でした。

Su:江戸数寄屋大工、大金の建物だと紹介されていますね。

今里:そうです。これは茅葺きですごく良い建物です。お庭が梅林で。坂西志保[1896–1976]さんは外国に行っておられましたから、外国人がたくさんそこの家に押しかけてきて、その接待することもできる建物でした。その古い建物を例えば、押入れの襖を外して、中にバーをつくったりして、面白いことをやりました。

Su:吉田先生は改造の設計にはどのような興味を示していましたか。

今里:改造は、例えば徹底的に安いものは安物でやります。安物でやるというのは、一つ住宅としては長唄の(4代目)吉住小三郎[1876–1972]さんの家を麹町六番町に竣工しましたが、その前に小三郎さんの息子さんの家(吉住小太郎邸[1954])を横に先につくりました。これは子供の家だから徹底的に安くして、木材をオール、ラワンでステインを塗って。天井は板を使わないで、紙を簡単に貼ってそれでお終い。民家だから木の組み合わせでしょう。木の組み合わせでだいたい空間のディテールを上手につくっていて。これがうまかったですね。本当に安物で上(屋根)は鉄板です。鉄板だけどちょっと起りをとりました。安物だったらそのように徹底的に安物でつくる。そのやり方がまたとても上手。吉屋信子邸は今、鎌倉市のものになりましたから、今は見学できるようになっています。

Su:住宅のお話を伺ったのですが、戦後になりますと一般の人の住まい方は急速に変わりましたでしょうか。その中で日本建築をされた。

今里:住まい方というのは終戦後に急速に変わりました。ですから日本間というとのが一つぐらいしかなかった。後は全部、中は洋式の住まいになりましたね。吉田先生も畳の部屋というのは絶対に無くなると言われていました。そうなってみると最近座れなくなった。畳の部屋というのはなくなる。料理屋と旅館ぐらいで、後はなくなりますね。

Su:未来を予想されていたのですね。

今里:そう。絶対なくなると言っておられました。でも戦前に加藤邸[1940]という大きな家を設計していますが、そこは畳の部屋はほとんどなしで、日本調の洋風でした。

Su:今里先生が研究室でご経験を積まれて、お一人で建物を任せられようになった頃、どのような建物を担当していましたでしょうか。

今里:担当したのだと、岡田邸[1949]をやっています。これは田園調布で、熱海のメシヤ教(世界救世教)の教祖様の家です。

Su:岡田茂吉[1882–1955]さん。

今里:茂吉さん。それは古い家を買って中を改造しました。良い家でした。料亭大阪のつる屋[1953]、佐々木邸麹町[1960]、(昭和)26年ぐらいになると梅原龍三郎画室[1951]。画室が先で、画室が終わって少したってからご自宅(梅原龍三郎邸[1958])を設計しています。

Su: 画室が先でしたか。

今里:割合小さい画室ですが良い建物です。これは梅原さんが亡くなられてから、清原芸術村に移築するのを私が手伝いました。昭和27年に高須邸[1952]を目黒にやっています。これは戦前の大工が放漫経営で倒産してしまい困りぬいて、僕は水澤工務店が良いと思って水澤さんを呼んできました。途中からだけどやってくれないかって。もう水澤の社長さんが吉田先生の仕事がやりたくて、喜んで本当に良い仕事をしてくれました。これは建物として非常に良い建物です。庭は西川浩[1900–1951]さん。

Sa:それまでの戦前の大工というふうに表現されていましたが、それから水澤工務店に変わるというとやはり仕事のやり方も大きく変わるのでしょうか。

今里:そんなに変わらないです。大工の中身は一緒です。あっちを手伝ってあっちを手伝う。それが大工です。

T:水澤工務店はその時は、水澤文次郎[1890–1973]さんですか。

今里:文次郎さんはやっぱり偉かったです。文次郎さんは大工からたたき上げた方で、その時は大工を使う人でしょう。だからあれだけの良い仕事ができた。

Su:よく見受けられるもので阿部工務店さんというのは。

今里:阿部工務店というのは戦前の大工です。終戦後は簡単なものをやらせていました。本格的にものすごく良い仕事を始めたのは、昭和31年に竣工した山形邸[1956]です。130坪で木造平屋建て、麹町三番町、この頃としては大きな家で、日本の雑誌、外国の雑誌に多くでました。門まですばらしい家でした。

Su:これは今里先生が描かれたのでしょうか。

今里:これは私が全部描きました。この頃になるとどんどん描けるようになりました。

Su:吉田先生は最初にスケッチやパースを描かかれて、それを所員さんが図面をおこす。

今里:そうです。最初、先生が休みの時に自宅で必ず描いてきます。それは殴り描きのスケッチみたいのもあるし、まともに描いたのもあるし、いろいろあります。

Su:実際に柱寸は幾つで、天井高は何尺何寸でという、スケッチから図面にするという方法というのはありましたか。

今里:昔の大工というのはやり方がだいたい決まっています。柱はどのくらい、それの何分の1ではどうで、長押がいくらとか、天井高さとかみんな決まる。柱(の長さ)が丈三(13尺)くらいしかありませんから、それで決まってしまう。だけど吉田先生はそれをぶち壊した。ぶち壊してかかったから、大工に追われて、鑿を持って追っかけられたこともある。自分たちのルールが決まっているから変えられるとできない訳です。それをどんどんぶち壊した。それについてきた大工がだんだん慣れてきた。最初にぶち壊したときが一番大変だったと思います。もう大工と喧嘩ばかりしていたと言っていました。

これは長唄のお師匠様の先生、吉住小三郎邸[1939]です(図面をもってこられる)。昭和30年、麹町六番町、小さな家で32坪、ものすごく良い家です。私が担当した中で本当に好きな仕事です。

Su:吉住小三郎邸のどのあたりを気に入られていますか。

今里:この方ものすごく気に入って住んでいらっしゃった。やっぱりお客さんに気に入られた建物でないとやり甲斐がありません。

Su:吉田先生のディテールは、どのような点が新しかったのでしょうか。

吉住小三郎邸[1939]の図面を囲んで

今里:やることはきちんとやるのですけど、どうでもよい所はぼかす。線の余分なものをとるようなデザインをする。できあがってすっきり見えるわけです。

Su:大きい柱間では、薄い鴨居(厚み4分)をボルトで吊られていますね。

今里:これは竹の中にステンレス線を入れて、天井裏で調整する。なるべく線を無くそう無くそうという所から始まった。これが吉田先生の建築です。この後は欄間障子の組子合せの所にかくれたステンレス線を入れました。

Su:こうしたディテールを決めているのは今里先生ですか。

今里:これは先生と相談しながら、スケッチをやる時に殴り描きの時に相談して。

T:先に相談してから図面を描いている。

今里:いろいろなことがあります。だんだん慣れてくると、先生は今度こうするだろうと思って先にやる。

T:それで先生の思いに近づいていく。

今里:そうそう。しかしデザインについては絶対に誰も教えてくれません。感覚です。だから感覚の鈍い奴は建築家になるなとさかんに言われていました。

僕も一番先にびっくりしたのは法隆寺が火事で焼けましたが4)、あの年の直前に友達と見に行った時のことです。あの頃は夢殿の目の前に大黒屋という旅館がありまして、研究に行く人達が泊まる。有名な人ばかり泊まっている。そこで当時、法隆寺の解体修理をやっていた大先生(浅野清[1905–1991])が説明して下さいました。その先生が夜に自宅へ遊びに来いと。友達と行くと講義が始まった。法隆寺を解体してみていろいろしてびっくりしたことを教えて下さいました。まず同じ部材でも寸法がまちまちである。雲形やその他にたくさんある。ひどいものになると何センチも違っている。そういうのを組み合わせて遠くから見ると力強くみえる。綺麗につくり過ぎても力強さがなくなると言う。それから五重塔の解体の時だった。明治の大修理をやった時に隅木の中に鉄筋を通してあった。鉄筋で引っ張って補強していた。そういう修理した所をみると、鉄筋は全部腐っていた〔日本産業革命(明治後半)以前に製造された鉄材は特殊を除いて非常に弱かったと考えられる)。中は何にもなくて穴が空いている。そんな状態だから本当にびっくりしたと言っていました。全体を見るとバックにある山と塔と金堂を遠くから見て、全体を見た感じで設計をやっているだろうと。だからあれだけまとまりがあって力強く見えると。綺麗につくり過ぎると陳腐に見えると言っていました。僕は建築というのは綺麗にまとまってシンメトリーにやるのだとばかり思っていたからびっくりしました。これで感覚というのが鋭いということを初めて知った。この件は、私今までずっと頭にこびりついていますし、私のデザインの根本になっています。

Su:プロポーションのお話のところで、床の間では原寸模型をつくっていたとのことですが、全部の建物でつくっていたのでしょうか。

今里:殆ど全部つくっていました。大事な所は全部。だから図面には決まらない時は現場決定と書いて、何も描かない。展開図は枠だけ描いて。現場で寸法は先生の来る前に先に大工に模型をつくらせる。それであと五厘削れ五厘上げたり下げたりしろと言う。たった五厘なんてどうでも良いじゃないかとその頃は思っていましたが、竣工してみるとたったそれだけの違いが鋭く良く出来ている。だから感覚というのは恐ろしいものだってこともだんだん頭に入ってきた。そこまで感じる人は建築家でいないかもしれません。たった五厘のことなのですけどね。

それから西岡棟梁(西岡常一[1908–1995])。僕は薬師寺で十年くらい建築の委員をおおせつかっていました5)。平山郁夫[1930–2009]先生(今里氏は平山邸[1972]も手掛けている)が中に絵を描いています。その時、度々西岡棟梁にお会いしていて、棟梁の所に行っていろんな話を聞いた。その時も随分勉強になりました。さっきの建物の寸法がばらばらだという話です。それで全体的にものすごく力強く見えることが一つ。それからその頃、棟梁は西塔やっていて図面を見せてくれませんかと尋ねると、大学ノートひとつであとは何もない。大学ノートは大判のものでそれに細かく(用材の寸法が)全部書いてある。これだけでできています。(設計図のような)図面は何もない。それから例えば柱は全部、大工に一人一人に削らせる。昔はちょんなで削っていましたからバラバラですが、今は機械である程度まで削りその上を槍かんなで味を出す。それを一人一人全部違う大工にやらせた。その方が、見た目が力強くなる。綺麗にやり過ぎてもつまんない建物になりますよと。こういうことを言ってくれる人はいないです。

Sa:均質にやり過ぎても力強さがでないし、先ほどおっしゃったように床の間のディテールを考える時に、吉田先生が五厘でというのは説明が難しい世界だと思うのですが、整いすぎてもいけないし細かい所も大事という、この日本風の意匠のできあがり方というのは難しいところがありますね。

今里:吉田先生は余分な線をとってしまい残るのはプロポーションだけ。それだけ厳しいことを言っていた。現場へ行っても、なかなか決まらない(ことがあった)。うまくいかなくて何度も模型をつくる。とうとうお昼ごはん食べにいって、ゆっくりして戻ってきてからパッと決まったり。いろんな事がありました。

Su:鈴木邸[1957]という戦後初めてのコンクリート造を手掛けましたが、こちらも今里先生の担当でしょうか。

今里:はい。あれは三共製薬の社長(鈴木万平[1903–1975])です。

Su:コンクリート造というのはお施主さんから要望があったのでしょうか。

今里:そういうことは、なかったです。先生がコンクリートでやったらどうかということで。先生はあの頃はコンクリートでやりたいと言っていた時ですから。勧めてコンクリートにしました。それで平らな屋根にした。平らにした理由は、たとえば京都御所の紫宸殿を離れて見ると大きな屋根共に美しい形をしている。だんだん近づいて見ると軒から下のみしか見えない。屋根がなくとも立派なプロポーションになっているではないか。コンクリートだからできると。

Su:この建物はアルマイト製のすだれがあります。

今里:すだれ。それはここで初めて使った。

Su:一枚仕立ての建具ですとか、この建物では戦前の数寄屋とは違う新しい取り組みをされていると思っています。プランニングでは新しい試みはありましたか。

今里:真ん中に中庭がある。中庭に水を湧かせて、その水が外に曲水のごとく庭に流れ出ている。中庭を挟んで住まいとお客部分に分けた。真ん中は通路で通れるようにした。そういう新しいプランをやってみた。その時にまず、いろいろなものを取るということで鴨居までとった。これで非常に難しいのが天井までの高さですから障子が狂ってしまう。良い建具屋がいまして、やっと狂わないようにできた。天井も普通だったら鴨居の所に線がある。それをやめた。そのやめた所に、天井に金物を鴨居の代わりに仕込み平らにした。これが難しくてね。これを一番先にやったのが鈴木邸です。その後、京都の北村邸につながりました。

Su:北村邸[1963]ではどのように。

今里:京都の北村邸は、天井までの襖をつくった。大きな襖は狂いますから。これを狂わないようにいろいろ工夫しました。これは下地の木の組子(吉野杉の白太)の工夫と下見張りです。

Su:鈴木邸の建具は欄間障子というものですか。

今里:いや鈴木邸では欄間なし。なしですけど上だけは引き違いに動くようになっています。北村邸の時も随分新しいことをやりました。

Su:柱を回転させて襖をおさめるという。

今里:部屋の間仕切襖をつなげて化粧にする時、大きいので取り外すことは大変なので柱を工夫して壁の中におさめたいと。障子は天井までのもので、上はすかしでプラチナを貼った横線のデザインです。吉田先生が柱を軸にして動かす。動かしてパタンとしめる。そうすれば簡単にできますねという。これは考えてみれば簡単だけど実際にするのは大変でした。紙で模型をつくって。まず棟梁と相談して金物で補強しましょうと。いろいろ考えて、できるということになって先生の所に持っていった。OKが出ました。

Su:今里先生が模型をつくられたのでしょうか。

今里:ボール紙でつくりました。北村邸では本玄関のところは全部、栗の材料でやりました。栗は色を付けないと疎らになりますから、色を付けるのに何でやったら良いか。昔だったら汚すのにいろんな事をやっていました。僕もいろんなことを考えて。その頃現場のバケツの中にセメントを溶かしたのがあって、これを雑巾で塗ってみたら、一番良い色が出た。普通は(古色を)塗るのですよ。黒い粉やら何やら混ぜて。セメントの灰汁がいくかもしれないと思いついて。これが良い色がでました。先生もびっくりしていました。その度に何が良いか考えていました。

Su:吉田先生は数寄屋を手掛けたわけですが、一方で梅原龍三郎邸では民家風に特徴がありました。

今里:吉田先生は絵描きさんの性質をすごく研究しています。昔からお付き合いがありますから。あの人は京都の上のほうの方で、民家の多いところです。民家は(木が)黒くなっていますから、その黒い色をステインでだそうということでやりました。

Su:民家の力強い感じを出したのですね。

今里:そうです。最初はアトリエをつくった。これもステインで塗りです。梅原先生は赤が好きで北京の絵がありますが、その赤いのを壁で出した。ペンキを塗るのではなくて砂壁で。赤い砂がないか随分探して。ある人に赤い砂があると聞いて。ああこれだと思って。これを直ぐに取寄せて、左官屋さんにこしらえてもらったら良い壁が出来ました。住宅はコンクリートでゆるい勾配でやって少し起りをつけて。民芸風の力強いもので全体をまとめました。

Su:梅原さんは気に入られていましたか。

今里:気に入って下さいました。

Su:料亭建築をたくさん手がけられていますが、特に真行草によって諸室の性格分けするという取り組みはいつ頃からされていますか。

今里:それは吉田五十八研究室時代から、少し大きいものになると、大広間、中広間から小座敷までありますから、そういうやり方でやっています。私が一番大きいのは(独立してから)新橋の金田中[1978]でやっています。火事で焼けて、とにかく一年で直ぐやって下さいと。最初ビルにしたいと言っていて、ご主人はどうしても料理屋は、一軒建てにしないとだめだといって、コンクリート造でやりました。形としては三階建てですが、表から見ると二階建てにみせるように工夫をしました。10いくつ部屋がある大きな建物で、一年で全部やるのは材料が集まらないし、期間がなくて大変でした。とにかく施工会社を決めて下さいと、火事見舞いの第一号に駆けつけたのが、鹿島建設だったので鹿島でやると決めて。新宿の三井ビルを担当された優秀な所長を知っていたものですから、その所長を呼んだら来てくれた。この所長のおかげでまずは安心した。短期間であれだけの木造の日本建築を中にはめ込むには、1社ではとてもできない。三つくらいに内装をやるところを決めて僕が割り振った。大工も数が足りませんから。早急に原寸まで全部つくり決定しました。デザインは真行草と決めれば割合うまくいくなと思って、一番の大広間を真にして、真ん中くらいの中は行、お茶席みたいのは草として。まず材料をきめる。京都、奈良から所長と随分見に行きました。見に行って決めていった。日本の材料の丸太は、秋に切って、半年寝かさないと使えない。それを外すと材料はない。残っている材料では、本数も全然足らないけど、一遍に決めるより他なかった。こういう新しいやり方としてやってみたのですけど、これがうまくいきました。本当に一年でできた。地下室を掘り始めたら、銀座の真ん中で川の中州の跡で、砂利層が出てきた。川の出口の近い方だから砂利がたまっていて、幸い地盤がものすごく良い場所であったので早くできた。杭打っていたらとても間に合わなかった。日本建築というのはまず材料を探すのが大変。それから大工を予約しないといけない。左官も手の良い人を予約する。一年の間に全部やらないといけないから。そこまで私が手を出さないとあの仕事はできなかったと思います。

Su:吉田先生は、アルミパイプの下地窓というような新しい材料をつかっていました。そうした料亭建築での試みは、住宅建築とは違うのでしょうか。

今里:料亭というのは住宅らしくやってはいけない。それでは誰も来ません。昼間、蛍光灯の所から夜に行って、ぱっと人間が切り替わるようにしてあげないと人が来ません。ここが料理屋の設計の難しいところです。本当はアプローチを暗くしたいが、都心の金田中ではとてもできないので、入口の屋根を架けた所で、ドア開けて玄関入ったらパッと明るくした。それからお客さんはどういう部屋に通してもらうのか少しわくわくするように、廊下をデザインした。廊下の曲がる所には飾り物をやってつくる。大広間なら大広間で力強くつくる。その頃は、外国人が結構来られるので、変わった部屋を中広間でつくろうとか。私もそういう所は、どんどん材料を新しくしました。(茶室の)小間は全部竹で組んで。住宅とまったく違うデザインにしなければいけない。

Su:また日本間の設計において吉田先生は、関西間(京間)と江戸間という畳も大きさの使い分けをなさっていましたか。

今里:お施主さんによりました。

Su:今里先生は使い分けされますか。

今里:関西間を使うことが多いですね。面積だと江戸間よりも1割近く広いですから、天井もその分高くなります。関西間の方が落ち着きます。

Su:それから吉田五十八研究室にお勤めされていた時代のことで、造園と吉田先生はどういった関係だったでしょうか。

今里:造園というのは先生大好きでした。戦後、建築科に入りたいという学生がよく来ていまして、今から建築家になっても遅いから造園家になれって勧めたことがありました。それで本当になった人がいます。建築家はこれから仲間が増えるから、何か一つデザインを持ってなければ食えなくなるぞと。そのくらい造園を大事にしていました。先生は設計と一緒に造園まで描いて、建築は一つの建物をつくると、四方からと簡単な絵をかく。一番大事なところはこうだと。

T: 造園の授業は学校ではなかったですか。

今里:造園はないです。だから優秀な造園師を探して抱えて。だいたい戦前は飯田十基[1890–1977]さんという人がやっていました。この人は上手でした。普通の雑木林をつくらせてものすごくうまかった。

Su:吉田先生と一体になって造園家も活動していた。

今里:飯田さんと同じく西川浩さん、戦後は中嶋健[1914–2000]さんという人が随分やりました。この人はフランス語も英語もできる人で、農大(東京農業大学)を出で、外国の仕事も結構やっておられた。この人が新しいことを理解されて、上野の芸術院会館等は、今までにないような思いきった新しいデザインでした。その他は岩城造園です。

Su:岩城亘太郎[1898–1988]さんですか。

今里:亘太郎さんです。

Su:長らく吉田先生の設計に携わったなかで、戦前と戦後の違いを見出しておりませんか。プランニングが明確になったとか。お施主さんによるかと思いますが。

今里:それはこのお施主さんだったらこうしようと、最初に見抜くところです。日本間を多くやったら、今まで通りやれば良いし、このお客さんなら自分の考えた新しいことができると思ったら徹底的に新しいスケッチになります。

T:吉田五十八さんは、平面それとも立体をスケッチされますか。

今里:いろいろありますね。ここ(平面図)に立面図を描く。四面をかいて、そうでなければ透視図でかいて。いろいろありました。やりたいことだけは、丁寧に絵をかいて来られました。

T:絵というのは透視図的ですか。

今里:透視図です。それも色付きです。

T:吉田先生は透視図で建築を考えていることが多かったですか。

今里:透視図を描いたらあの先生はものすごく上手だった。終戦後、那須高原の山のホテル(石雲荘本館[1948]・新館[1952])を頼まれた時、山のホテルというのは近代的につくったら面白くないですから、それでちょっと山らしくつくった。事務所の連中がいくつか描いたら、何だこんなもんと言って、自分で描いてきたら、ものすごく上手い。今までのスケッチとは全然違う。変化をぱっと見抜いて。その見抜くのは見事でした。だから安物は徹底的に安くつくって、良い物は徹底的にやった。その見抜く力というのは我々にはとてもできない感じでした。

Su:吉田先生は戦前よりも、戦後の方が自由に設計できたのでしょうか。

今里:吉田先生は、戦前の内に日本建築の改革に成功しました。戦争が一つの区切りになって、戦後はさらに発展させたということです。

第二部 独立以後

独立の契機、処女作Mさんのすまい

Su:独立の前後時期で、いつぐらいから独立しようと考えていましたでしょうか。処女作であるMさんの住まい[1953頃]は研究室時代にお仕事をされています。

今里:Mさんの住まいというのは、水澤工務店の息子の家です。これは吉田先生に話ししてやらせてもらいました。これは日本建築でなかなか良い家ですよ。今はもうなくなりました。

T:これはどういうお繋がりで、そのお仕事をされることになるのですか。

今里:水澤さんが事務所によく来ていました時に息子の家を設計してほしいと、僕は個人的にはできませんと言って、吉田先生に頼む程のことではないから、先生に話しを付けてもらいやらせてもらいました。だが先生がやっぱり手を出された。このプランが良いからこれでやれってということで。

Su:22.5坪で椅子式の居間が真ん中にありまして、八畳と六畳の日本間とするプランです。このプランは直ぐに思いつかれましたか。

今里:そうですね。結婚したばかりの若者の家だから、こんなもので良いだろうということで。まだその時代だから寝る所だけは畳にして。あとは全部、洋室にして。ケンポナシというのを多く持っておられた。凄く良い材料でね。造作はほとんどケンポナシを使いました。桑に似ている材料です。現在はあまりないと思います。

Sa:桑というと。

今里:和家具の鏡台かなんかに使われる。その桑というのはなかなか採れないから、その代替品としてケンポナシというのを使っていたのですね。でも日本の材料もそういうものがどんどんなくなってきましたね。昔と違ってきました。今は無垢で使うことがなくなりましたからね。張り物で薄い物だったら30年で色が変わってしまいます。無垢じゃないと日本建築はだめだと思いますね。

Su:1950年代、若い夫婦のためのプランとして提案されたということですね。

今里:これは吉田先生が熱海に岩波邸(岩波別邸[1940])を設計しました。僕は先生の作品の中で一番良い住宅作品ではないかと思っていますが、小ぶりで美しくてね。どこの部屋からも全部海が見えるようにつくっている。こういう形になりますよね(雁行した形のこと)。こういう形の家というのは屋根がうまく架らない。それが上手にできていてね。それを岩波書店というのは書く人をカンヅメにして書かせるでしょう。だからそれの横の所の敷地に、カンヅメ用の家をつくって。これも先生が設計しました。これが小ぶりで、温泉が付いています。先生がこの家のプランがすごく良いから、これをちょっと大きくしてここに継ぎ足ししてつくれと言って。それを参考にしたのが水澤邸です。

Su:今里先生は、三回頼んで吉田先生から独立が許されたと。

今里:北村邸[1963]が終わった時ですね。独立したいと言ったら先生にだめだと。お正月には毎年二宮へご挨拶に伺っており、一回目はその時にもう少しやれ、二日目も同じ、三回目にはよしわかったと応援するからやれと。それで吉田先生が立派な文章を書いて下さいました。これがそうですよ(著書『屋根の日本建築』に掲載された吉田先生からの言葉をみせて頂く)。

Su:その場でさっと書かれたのですか。

今里:そうです。それからもお手伝いは随分していました。

Sa:今里先生としてはこの時期に独立したいというお考えは何かあったのですか。

今里:一生いても吉田先生は先に亡くなられます。それよりも元気なうちにやりたかった。本当に元気な内じゃないと夢中にできないと思い、丁度ころあいだなと思ってですね。20年過ぎてからですけど。独立して幸いずっと良いお客さんがついてくれたのが良かったと思いますね。

Su: 独立して最初はどのようなお仕事をされていましたか。

今里:昭和39年暮に独立して、赤坂見附の角に小さな事務所を開設して、最初のお客は門脇季光邸[1965]です。門脇季光[1897–1985]さんは、イタリア大使から日本に帰られニューオータニの社長になられた方です。敷地は私の幼稚園のすぐ近く、外国生活の長かった方ですから、あまり日本調ではなく洋式に近い家です。

今里:それから独立して間もない時、宮内庁造営部長(当時)の高尾亮一[1910–1985]さんが事務所に見え秩父宮邸[1972]の設計をお願いしたいと急に言われてびっくり、この仕事は吉田五十八先生が設計すべき仕事ですから、先生に頼んで下さいと断りました所、設計料があまりないので弟子に頼むことにしたと、それではと赤坂の敷地見学、御殿場のお住まいにと何度と打ち合せに伺いまして、基本設計をほぼ終わりました。それからが大変、先生に名誉な仕事ですから、設計費安くても引き受けて下さいとお願いに上がり、こころよく承諾、宮内庁と吉田事務所を何回と往復して先生に決定して頂きました。長年先生の元でお世話になったので少しでもお役にたてたかと心の中で思いました。

今里:大平正芳[1910–1980]さんの家(大平邸[1977])は、基礎も打ち始めた時、大平さんが朝にいきなり現場に来られ、こんな大きな家、何坪あるんだって言われて。いや正直に言って奥様と相談して、一年かけてやっとこれだけ出来たので基礎だけやり始めましたって。そんな大きな家はいらんともう怒られてね。いやこれは弱ったと思って。だけど首相になる前でしょう。大蔵大臣の時です。首相になるのは分かっていましたから。ここに応接間を二つ置いて、あと新聞記者の所というふうにつくって。それで大きくなった。奥様と相談して、88坪ということにしましょうと。縁起が良いですから。そこまで削りましょうと相談して。首相に決まったときに、応接間は簡単な建物にして詰めましょうと言って。中だけ綺麗にすれば良いですからね。表は植木で隠して、そういうお約束で納得していただきました。何回か打ち合せで行きましたが、お話していても気持ちの良い方で色々な事を教えて下さいました。

奥様との出会いと、義父今里廣記氏

Su:奥様との出会いについて教えて頂けないでしょうか。

今里:学校の先輩の岡百寿[1908–1989]さんが、吉田研究室内に匠美会という、学校の卒業生の会をすべてやっておられて、私も手伝っていましたが、その岡さんの紹介です。

T:建築家の人ですか。

今里:建築。僕の先輩です。

T:奥様は美術学校のご出身でしょうか。

今里:当時は武蔵野美術学校に入っていました(その前は長崎の活水女学院)。

T:建築ではなくて。

今里:建築ではなくてデザインの方です。

Su:義理のお父様にあたる今里廣記[1908–1985]さんはどのような方でしょうか。

今里:長崎の波佐見の醸造元の三男ですが、長男が跡継ぎにならなかったので、東京から戻って来て、醸造元の番頭になりました。しばらくたってから長男の子供の方に譲って。東京へ出てきていろんな事をやって成功しました。戦後に日本精工に入って、労働ストライキばかりでものすごい時だったんですよね。組合と話をして、とうとう押さえた。これで有名になった。ベアリングの会社です。それから社長、会長になりました。日本精工会長、経団連常任理事、経済同友会終身幹事、その他20余りの役職をかねていました。

Su:大変な方ですね。義理のお父様の建築は手がけていますか。

今里:東京の家を僕が建替えました(今里邸[1967])。敷地が広かったので、そこではお客さんを呼び、家の中や庭まで開放して接待などしていました。

T:今里廣記さんは奥様のお父様ですか。

今里:そうです。次女です。

T:長女がいらっしゃる。

今里:長女はお医者さんと結婚しました。本当はお医者さんの方が長女だから継がないといけませんが僕の方にまわってきまして、それで僕が杉山から今里に変えることになりました。

T:今里廣記さんのお家はどちらにあったのですか。

今里:戦前は今の国会図書館(東京都千代田区永田町)の一隅にあり、国会図書館をつくるので国に買い取られた。すぐ横にドイツ大使館がありました。

T:そんな巨大な家だったのですか。

今里:どなたかの家を買ってそこに住んでいました。家内は小さい時はそこに住んでいて、永田町小学校に通い、それから九州に疎開しました。

戦中期の体験―東京大空襲、学徒動員

T:今里先生は駒込でお生まれで。ずっとご実家にお住まいでしたか。

今里:そうです。

T:吉田先生の所にお勤めの時もご実家にいらしたのでしょうか。

今里:昭和20年3月に我が家は空襲の爆弾でやられました。夜は動員で工場に働き、朝に夜勤で帰ってきたら家がない。穴だけが空いている。その時、弟は防空壕で亡くなり、母は防空壕の木組の三角形の所に埋まり、兵隊が掘ってくれて助かった。親父は、防空頭巾をかぶって外にいて材木の中に埋まっていたのを助けられて。それからが大変でした。その頃、戦争が激しくなったから疎開しようということで。伊豆の大仁(現在・静岡県伊豆の国市)に温泉付きの敷地を買ってあったので、そこに小住宅をつくって住み始めました。東京の家が完全にやられましたから。勤めている時は、知り合いの所に下宿していました。終戦直後は苦労していましたよ。食べ物も着るものもないですから。

T:駒込のご自宅のあった所に再建はされていないのですか。

今里:そのすぐ近くに家作があったので、そこに一時は住んでいましたけど、今度はまた大空襲でやられました。焼夷弾って怖いですね。ひゅるひゅるどんっと。目の前で落っこちますから。本当に逃げ回った。爆弾が落こった時、僕は工場にいたから分からなかった。次に焼夷弾の時はひどかったですね。焼夷弾の直撃にやられた人を見ました。可哀想にね。もうその時は逃げ回ってとにかく広場に行こうと。僕は直ぐ近くの本郷中学校に通っていて。その中学校の隣の松平公の屋敷の中に逃げ込んだ。ちょうど小学校の同級生の友達が執事さんで家作があって。その家にとにかく逃げさせてもらって。その家は焼けませんでした。焼けない所もポツポツとあって。焼けた所はめちゃくちゃにやられましたね。すごい経験をしました。美術学校が受かって、学校がいつ始まりますかと聞きに学校へ行きました。そうしたら直ぐに動員されて、海軍電測学校という所が藤沢にあって、そこへ泊まり込みで、少年兵教育の漫画のようなスライドをつくっていました。

Sa:美術学校の学生だから、そういう絵を描く仕事で協力しなさいと。

今里:そうです。

T:でんそくはどういう字ですか。

今里:でんは電で、そくは測る。そこで少年兵の教育に電波とは何かと教えていたのですね。

Sa:つまりレーダーですね。

今里:そうレーダー。その頃、レーダーとは言わないですね。運動場が広い所がありましたけどね。表へ出ると機銃掃射でしょっちゅうやられました。ダ、ダ、ダって。あれは怖いですよ。逃げられません。きたらお終いです。そこで終戦を迎えました。

Sa:藤沢で終戦になっているわけですね。

T:そこは美術学校に入った人達がみんないるのですか。

今里:合わせて5、6名くらいでしたか。

T:同級生の方も。

今里:同級生は一人一緒でしたよ。

T:いろんな所に行かれていたのですね。

今里:そうですね。

T:入学した人として行っているのですよね。

今里:そうです。学校が始まるのはいつですかと学校へ行きました時、そこへ一緒に同級生が来ていて二人とも一緒に動員に出されて。食堂が二つありまして将校食堂と普通の食堂と。我々は絵を描いたりするから上の人に可愛がられて将校食堂に行っても良かったのですが、そこでは戦争末期で良いのかと思うぐらいの贅沢でしたね。

Su:7月、8月の頃でしょうか。

今里:暑い時でした。とにかく家が爆弾で直撃してやられたとか、すごい目にあっていますから、少々のことでは驚かないですよ。逃げ回るのですから。火事の時はどんどん燃えてゆく。煙の中を逃げ込む、逃げ込む。下町の人はもっとひどい経験したのでしょうけど。でも兵隊にとられる寸前でした。二年先だったらまだ船があったから、どこか連れていかれたでしょうね。

独立以後の建築活動

Su:独立直後に手がけられた日本美術院[1971]はどのようなきっかけで始めましたか。

今里:二度も設計させていただきました。きっかけは平山郁夫先生を通してだったと思います。

Su:どのような建物だったのでしょうか。

今里:最初の建築はどこにも出てないでしょう。(第一作品集を持ってきてくださって)最初の建物はこのような建物です。最初は大正建築の木造であって、岡倉天心も集まった寮があったようです。予算がなくてね。どうしようもないのでいろいろ考えて、かたちだけコンクリートでつくって。電車の屋根の材料にシートがあるでしょう。あれは何十年ってもつのですが、それを屋根に張りました。ごく簡単な建物として建てました。たしか当時の金額で坪9万円くらいでできた。ここは院展という所の本部です。展覧会に出す絵は大きいので、若い人はアトリエがないでしょう。そういう人達にも部屋を貸します。大きな所は審査する部屋で、お年寄りの90とか80とかの人が見えるので日本間をつくりました。お年寄りは日本間じゃないといけない時代ですから。

T:1971年の建替えですね。

今里:建替えた建物(日本美術院[2001])は、今度は新しいやり方で(作品集をみせてくださる)。それで作品集は二度目をつくっています。

Su:両方ともGAからの出版ですね。

T:二度目の作品集は増補版ということでしょうか。作品集の中は一度目と二度目は違いますか。

今里:重なっている作品もあります。片方は十年後だから新しい作品もいれました。この(第一作品集の)印刷は今できないそうです。

Sa:黒に特色があるのでしょうか。

今里:そうです。今はない特殊な印刷で。白黒としてはすごく良いですよ、味があって。この印刷でやってと言ったら、もうできませんと言われました。

Su:お寺(玉宗寺本堂[1967])の設計もされていますね。

今里:これはねコンクリートでお寺つくりました。値段が安いものでコンクリートそのままです。建具だけは木でつくりました。浅草の真ん中にあります。

Su:柱梁はプレキャストですか。

今里:これはプレキャストです。基礎以外、全部プレキャストで組みました。この頃はプレキャストでやる人は少なかったです。これは工場に行って検査がすごく大変でミリ単位です。でもプレキャストは色が黒くならないですね。

今里:こちらは僕がコンクリートでつくったビル第一号(東京田崎ビル[1974])です。田崎真珠という(赤坂の)溜池の所に現在もあります。正面は絵画の額縁をつくって、額縁の中はみんな障子式です。

Su:池坊専永[1933-]さんはビルの前にご自宅の設計をされていますね。

今里:これは池坊さんのご自宅です(池坊邸[1975])。そこではお母さんの家も設計しました。

池坊ビル・国技館

Su:独立直後は、木造の設計が多かったようですが、次第に大きな建物を手掛けていく頃のお話をお聞かせください。

今里:最初は木造が多かったですね。それからだんだん鉄筋鉄骨になりまして、大きなものは国技館[1984]です。後ろは(壁にはられた写真を指で指して)池坊本部ビル[1977]です。周りが京都の中心部で低い建物ばかりで31m以下の許可のところが、45mを許可に変りましたので前案をやめて屋上機械室を8m加えて53mです。京都のへそ石がある所で、ビルの後ろが六角堂です。池坊の本部をどのように表わすかと考えお花の立華のように思い切ってしゅっとした外観にしました。京都の西日はものすごくて、窓を開けたら暑くて居られませんから(西側は)塞ぎました。庭側に窓を開けた建物です。

大きなものだと国技館です。鹿島との共同設計でした。春日野清隆(第44代横綱・栃錦)[1925–1990]理事長が、デザインは日本建築の新しいのをと頼まれて。技術は鹿島建設がフォローすると最初に決めくれたものですごくやりやすかったですね。

T:分担がはっきりしていたのですね。

国技館[1984]の図面を示しながら

今里:最初はやはりデザインをやりたいものですから、鹿島昭一[1930-]さんまで出てこられまして、それでは別々に案を最初こしらえようとなって、向こうは丸いのをもってきました。僕としては土俵というのは四角だから建物も四角にして、角だけを面取りしたものをつくって、90mくらいですよね。しかし丸いのは鹿島としては合理的だと言う。春日野理事長さんにあれだけ屋根が大きい日本建築にすると巨大なものになってしまいますねと話しましたね。それで土俵を下げました。土俵のところは半分地下室になっている。一万二千人くらい入りますから、道路が一方だけなので避難がすごく難しい。本当なら三方に出られるようにすると良い。それができないので、いろいろ考えて、前の所に屋上と大階段をつくって、そこへ二階の人が全部避難できるようにしました。シミュレーションをやったら6分くらいで出られる。これでやっと役所から許可がとれました。それで両国という土地はいつも大雨の時に浸水するところで、機械室に水が入らないように全部囲って、機械室入るのに一旦上がってから下に降りるようにして。それから大屋根をつくったから雨水を溜めましょうと言って、それで地下に溜めるようにしました。

T:中水利用ですね。

今里:階段の下では非常時に乾パンを入れて、地下室に溜めた水をこせば使えるとか、表に撒く水とか、そういうように使えるように最初に提案しました。東京都に反対されましたけど頑張りました。建築家は頑張り通すことが必要です。怒られてもしょうがないから夢中でやりました。

池上本門寺大客殿・御廟所

Su:こちらは池上本門寺の大客殿[1978]ですね。

今里:これは池上本門寺です。これが八角堂(池上本門寺御霊所[1980])で、木造で大変な仕事でした。これは日蓮さんの御身骨を納める建築です。八角堂というのは真ん中に四本の柱を入れて梁を井桁に架ければ簡単ですが、これは真ん中に柱がありません。そうすると地震の時にねじれますから、屋根の構造を一生懸命考えました。だからいまだかつて(地震があっても)大丈夫ですね。

T:八角というのは何か決まっているのですか。例えば日蓮さんのお骨を入れるところは八角にしないといけないとか決まっているのですか。

今里:決まっていません。そのとき新しく考えました。御真骨を千年くらい後から掘り返しても大丈夫なようにして。あるお墓の発掘した記事が新聞に出ましてね。中に備長の炭でまわりを包んで。お骨の容器は全部銅板で金の板があって。それに名前が書いてあって。これだと思ってね。それと同じようにつくりました。

T:太安万侶(のお墓)ですよね。

今里:安万侶。これだと思ってね。御真骨は日蓮さんの終滅の地がそのお隣でそこに保存してありました。それを銅板の箱に密封して、銅板の表を漆で隠して、廻りに備長の炭を、箱をつくって、その上に石塔を乗せました。

Su:それでこの鞘堂を設計された。

今里:鞘堂になっています。こっちの方(御廟所の門[1979])も難しい。門というのは風で吹き飛ばされるでしょう。これを飛ばないようにするのがものすごく難しいですね。昔から門が随分残っていますけど、相当考えてやっていますね。これは垂木がありません。板庇というものです。国宝でも二件ぐらいしかありませんね。

Su:伽藍配置はどのような意図があったのでしょうか。大客殿と他の建物を繋ぐ廻廊も設計されています。

今里:本門寺は、大客殿の隣に本殿があり、いろいろ大事なものが先にできていた。その最後の時に大客殿をつくりましたが、周りの建物は方向がバラバラでしたので、全部、真北に揃えようと大客殿と接続する廻廊を設計しました。それから一番大切な本殿の方を引き立てないといけない。だから大客殿の方は、ぺしゃんこにしました。どうしても二階建てになるのですね。そこで一階と二階の屋根を一体にして、裏側は崖で五階建てになっています。学僧が大勢いますから、それらをはめ込みました。

Su:これは本門寺の戦災再建事業6)でした。

今里:戦争でほとんど焼けましたから。五重塔だけ残り江戸時代の今は重要文化財です。これ以外は殆ど焼けてしまいました。一つ一つ私がやる前につくっていて、一辺につくるお金がありませんから。大客殿が最後の建物でした。

Su:大客殿の隣にある再建本殿の設計者はどなたかご存知でしょうか。

今里:たしかなことはわかりません。これは建物が良いですよ。設計者は法隆寺にある建物の形をそのままとってきたそうです。これを引き立てないといけないから随分苦労しました。

T:屋根を反らせるとか起らせるとかというのは、なにか決め手があるのですか。

今里:決め手というのは、図面では決められません。ある程度まで図面で決めますが、そのあとに現場で模型をつくる。八角堂は、本物に近いものをつくりました。これは照りが難しい。図面上では出ません。実際には削られる模型にして。半分くらい削っても大丈夫なようにして。遠くから見て何回もみながら削らせて決めました。

T:大客殿は起り屋根ですね。

今里:そうです。起りの方が目立たないですからね。

Su:これまで住宅をつくってこられて、料亭は大きい建物でしたが、大客殿のような複合的でスケールの大きい建物を急に建てて欲しいと言われた時、戸惑いはありませんでしたか。

今里:いやこれはやり甲斐があるなと思いましたね。これは実は徹夜して基本設計をつくりました。柱が多いですから、ゴム消しでハンコをつくって。たんたんと。

一同:(笑)

今里:それでいこうと決めてね。最初のスケッチは夜中でしたよ。竣工後、村野先生まで見に来て下さいました。

T:確かに巨大な建物が寄り添って建っているのがよく分かります。

醍醐寺の霊宝館平成館と伝法学院

T:醍醐寺の霊宝館平成館[2000]のことをお伺いします。ここの霊宝館本館[1979]は大江宏[1913–1989]の設計ですね。

今里:そうです。大江さんの建物は改修しました。形はそのままにして。窓のサッシが鉄で錆びついていたので全部壁にして、そこに太閤さんの模様(五七の桐紋)を型押しして入れ、中は全部直しました。

T:醍醐寺宝物館宝庫の方は大江新太郎[1879–1935]ですよね。こちらも今里先生が改修されているのですか。

今里:そうです。大江宏さんの本館は中と屋根を直して。それに平成館[2000]を繋げた(編者注: もともとの霊宝館(1935年)は新太郎の設計で、1979年に大江宏が収蔵庫3棟を増築、その後、新太郎が設計した館の後側半分ほどを壊すかたちで平成館が増築された)。今も一年に三回か四回か開放して展覧会をやっています。竣工時はびっくりしたことがありました。フランスのカルティエ財団が来ましてね。ここで展覧会をやりたいって言う(2004年に開催)。僕は、展覧会をやるようにできていませんよって言いました。カルティエは、全世界で一つの国一カ所ずつだけ面白い建物を見つけて、それで展覧会をする。ここには仏像がありますからこれを閉めて、その中なら自由にして下さい、という約束で許可しました。あとここで音楽会もやっています。音響は何も考えてないのに中はオール木でやったおかげで音が良いのですね。

T:残響が良いのですね。

今里:その通りと思います。あとウツクシマツ(美松)というのが駐車場の隅に植わっていました。ウツクシマツは天然記念物7)ですから、なんでこんなものがあるのかって。びっくりして。何十年か前の寄附だそうです。植える所がないから駐車場に植えていましたが、これではもったないと言って。それで僕がここ(アプローチ)に移し替えました。それから大きなしだれ桜。これは200年以上たっています。ただ(間伐してなかったので)森林みたいに痛められちゃって。残すのを決めて後は切りました。そうしたらどんどん枝が伸びてきて。200年たっても枝が伸びるものですね。それであんまりこれが綺麗だから休憩所をつくって、ガラス張りにして見せるようにしました。この後側にお坊さんの学校をつくっています。

T:伝法学院[2000]ですね。

今里:古い建物が移築して、これを廻廊でつないで。お坊さんの学校にしました。周りは宿舎で講堂があり食事ができます。食事は薪でご飯を炊くようにできています。薪で焚く竈はどこを探してもなくて。やっとのことで見つけてきました。お坊さんが全国から来ます。若い連中というのは一人でここにいると寂しいでしょう。だから繋げる部屋もつくっておきました。ここが女子です。女子のお坊さんが今はいるのですね。いろんなことやらせてもらいましたね。なぜ学校をこんな形にしたかというと。ヨーロッパを結構旅行してきましたが、昔の教会や修道院を見ていると、中庭を綺麗につくっている建物が多いですよね。あの中庭を囲んだものをつくりませんかって私が相談したら、それに大賛成してくれてね。それを日本調でつくりました。

Sa:プランは修道院のような。

今里:そうです。修道院の雰囲気です。修道院というのはだいたい庭が綺麗ですね。この新しい庭は曼荼羅の世界の絵として、五つ池がありそこに蓮を植えました。

T:大江宏も修道院が好きで。角館伝承館[1978]では今里先生と同じように修道院の廻廊をモチーフにした中庭があります。大江に続いて手掛けられた醍醐寺でも同じように発想されていたことに、運命のようなものをみて驚きました。

今里:ヨーロッパに行くと何でもない所に行っても良いところがありますね。

T:伝統を意識した建築を手掛けられる方々には、目の付けどころにも通ずるものがあるのでしょうか。

今里:目の前のメキシコ大使館[1963]も大江さんですよね。

T:そうです。

今里:随分古いですよね。

T:もう50年以上前のものですね。醍醐寺は1979年なので、大江宏が比較的晩年に手掛けたものですね。

今里:醍醐寺は山の上と下にまたがっています。二百万坪くらいありますから。その上に国宝の建物(醍醐寺薬師堂[1121年再建])があって国宝のお薬師様が安置されています。焼けると大変です。お薬師様をおろしてきて、この建物へ安置するということから設計が始まりました。建物の中を区切って(お薬師様を)お祀りして。山の上でやっていた同じ行事ができるようにしました。だから国宝が一つ助かりました。その直後に落雷で上の建物一つ焼けてしまいましたね。山の上というのは消防がうまくいかないですから。これはおろしてきて本当に良かったです。ほっとしました。

Su:その平成館では内部に国宝の薬師堂を復原されています。

今里:上の建物とおなじ形をもってきました。国宝の薬師像に合いますように。

Sa:展示の建物と宗教施設とを融合させている訳ですね。

T:大江宏とのご面識はないのですか。

今里:ないです。大江さんは三溪園の美術館をやっていますね。

T:三溪記念館[1989]。

今里:あの改修も私がしています。

T:関わりがおありなのですね。

今里:これも大江さんだと思いましたね。面識ないから、伺ってやるというわけにはいきませんでした。大江宏さんの醍醐寺(霊宝館本館)は、中を現代風にして瓦屋根を変えましたが、附属建物で応接間がありまして、これは大江さんの立派な日本建築ですから、何にも手をつけませんでした。これは大事なものだと思いまして、綺麗にして直しておきました。陳列室のある本館の中はちょっと近代的に直しましたけど。

日本建築、屋根のモチーフ

T:改めて屋根の形について伺いたいのですが、国技館は真四角にはならなかったのでしょうか。

今里:これは敷地の角1カ所が欠けています。

T:敷地の形にあわせて決定したということですか。

今里:敷地が欠けているから、真四角にやったら屋根が出てしまいます。それで僕は面取りにしました。この面取りの形を活かして構造をうんと頑丈な梁にました。それでこの柱の無い屋根ができて。この屋根は非常に鉄骨が綺麗にできました。それで鉄傘下の相撲の話がありましたから、天井を張るのをやめました。天井は梁が頑丈に通っています。これはザルを伏せたような形で丈夫でしょう。それでいつも(屋根は)揺れています。揺れていますから、屋根だけは銅板を二重に葺いています。雨仕舞いをしっかりしています。それから中には、相撲教習場があり、地下室では広間があってお相撲さんの結婚式でも何でも使える部屋があり、ここは多目的に使えるようにしました。それから役員室、上役の部屋もあります。この辺り地下に国鉄が通っていて、川を渡るとき勢いで下がって上がりますから振動します。だから部屋を全部浮かしました。コンクリートでつくって中は木で浮かして振動が伝わらないようにしました。いろんな工夫をしていますよ。鹿島が技術的におさめてくれました。

Su:棟飾りの四角いデザインはどのように決まっていますか。

今里:棟飾りは九段の建物(武道館)と同じにしたらお寺ですよね。あれになってはいけないということから始まりました。これは壁がパタンと倒れます。排煙を兼ねて四角にデザインしました。

T:不等辺な八角形にされたのも、正八角形の武道館とは違うものにしようと思われてのことですか。

今里:正八角形までにすると斜めに見る客席ができることになります。1万何千人が入りません。それでいくと面取りがギリギリです。面取りしたから構造的にもうまくいきました。これ鹿島の構造の人といろんな打ち合せをしていたけど若い方で面白かったです。すごくユニークな人でしたよ。その人と話しをしていろいろこうしようと。楽しかったです。

T:この後、隣に巨大な江戸東京博物館[1992]ができますね。あっちの方が大きくて国技館が小さく見えます。

今里:国技館はぺしゃんこにしましたから。

T:菊竹清訓[1928–2011]さんはあれは海上都市なんだとおっしゃっていました。この辺りが全部沈んだらノアの箱舟になるという発想のようでした。

今里:菊竹さんは僕とおなじ年です。

T:伝統建築にこういう隅を落とした屋根は存在しますか。

今里:僕は思い出せません。

T:隅取り屋根は今里先生が敷地に合わせて独創されたものなのですね。

今里:そうです。敷地の角がなかったら四角になっていたかもしれないですが、四角だと外観が面白くないですね。面取りにしたから力強くなりましたね。ここ(隅部分の屋根面)をへこませて影をつくりました。影で力強くなるだろうと思ってね。

Su:唐破風を用いた、天井が印象的です。

今里:これはね。へたするとお寺になってしまいます。でもお寺にならないように、ちょっと日本調を入れた方が良いだろうと思ってつくりました。こういう(唐破風)形を中の玄関ホールの天井まで伸ばしたデザインにしています。

T:屋根の形は切妻の屋根を多く採用されているような気がしますが。

今里:いろんな形をやっていますよ。

Su:兜造りを採用した住宅があります。

今里:これ(松尾敏男邸[1985])は兜造りですよ。絵描きの家をつくるという注文で。

T:照り屋根よりも起り屋根の方がお好みということはありますか。

今里:おとなしいですね。えばるのはこう(照り)ですね。

T:今里先生の作品は起りが多いですか。

今里:起りは多いですね。

T:それは何か配慮されているのですか。

今里:直線でやったらつまらないのですから、ちょっと緩い起りをつくってやると柔らかく感じますね。

T:照りにしないのですか。

今里:照りをやったのは少ないですよ。

T:えばらないように起り屋根で、ということですか。そこへ行くと大江宏のものは照り屋根が多いですね。

今里:醍醐寺霊宝館(平成館)は照り屋根です。お寺ですから。中に軽飛行機が三台くらい入る大きさの建物です。この屋根をつくるのに図面を書いてみるとこれが一番大変でした。普通は模型を現場の事務所に板を貼ってやりますが、これはあんまり大きくてできないから、地面に模型をつくりました。僕を上に上げてくれてって、機械(高所作業車)を借りてきて上げたり下げたりを何回もしながら。格好を直して、直して。それでやっとこの屋根ができました。

Su:現寸の側面図を作られたのですね。

今里:そう。私は現寸までやりますから。

日本建築の可能性

Su:作品を振り返られてご自身ではどのように展開されていると分析されていますか。

今里:次はもっと良い物をつくろうという意欲でやっています。戦争中あれだけひどいことを味わいましたから。びくともしません。とにかく次やる時は、新しいものをつくろうと。今度は何か頼まれたらこういうことやってみたいと常に考えていますね。それから新しい材料をちょっと探しながら、展覧会をよく見に行きます。吉田先生も新しいこと考えて、よく展覧会で現物を見にいっていました。歌舞伎座は先生が壁に使ったのは安物のテックスです。型押しして壁にいれて。そういうことを平気でやっていました。

Su:吉田先生とご自身とを比較されて近代化の試みで違うところがあるとすると、どのような点があるでしょうか。

今里:時代が違いますからとなんとも言えませんね。吉田先生は長唄がすごく上手かったです。本職よりも上手いくらいでした。歌舞伎座を自分で設計して、舞台装置もデザインした大舞台で、長唄を歌ったことがあります。これは気持ちよかったでしょうね。その時代と僕の時代は全然違いますからから考えていません。次の時代はこうだということを考えながら、がむしゃらに進んでいくより手はないです。もう91歳になりましたから、これからどこまで出来るか。監修の仕事ぐらいだけは時々きていますから、そこに自分のものを入れていこうと思っています。

Su:今里先生の事務所で働いていたお弟子さんのご活躍について教えてください。

今里:独立して始めた人が多いです。一番長くいたのは最初から最後までいてくれた人がいます。今は独立してやっています。

T:なんという方ですか。

今里:君塚雅光と言います。

T:事務所には多い時は何人いらっしゃいましたか。

今里:僕は一番多くて5人までです。それ以上は入れないようにしていました。5人以上にしたら給料を払うためにつまらない仕事をやらないといけないですから。それは吉田先生も言っていましたね。5人以上にしてはいかんぞと。

Su:本日お伺いして今里先生の建築は技術や知識に裏打ちされた日本建築の探求なのだと思われました。最後になりましたが、今里先生が日本建築を実践されてこられて、そうした日本建築は今後どのように変わっていきますでしょうか。

今里:日本人の生活ががらりと変わりました。まず畳だとかはなくなるし。新しい材料を使わないと古い材料はだんだんなくなっていきます。技術者もいなくなる。その新しい材料で一番肝心なものはプロポーションです。プロポーションを大事に考えた建築になっていくと思いますね。洋風というと洋風になるかもしれないですが、そこにプロポーションをうまくやったらプロポーションだけで日本調ができていくのではないかと、そういう方向を目指していきたいと考えています。その新日本調というのができるかはまだまだ分かりません。死ぬまでにできるかどうかわかりません。

古い建物だと唐招提寺の金堂は柱間がバラバラですよね。真ん中だけ広くてだんだん狭くなって。それであれだけの綺麗な建物ができている。それはギリシャの神殿も同じです。一番隅の柱だけがちょっと太いですね。あれは向こうが抜けています。抜けていると細く見える。真ん中は抜けてないからちょっと細く見える。それから基壇がこうカーブしていますね。これらは唐招提寺と全部同じです。そういうものでうまく新しい材料でも感覚的に日本調になるのではないかと思います。日本調というのは本当の日本調になるのか東洋的になるのか、東洋全体を考えると東洋と西洋という対比の中で、東洋的になるのかもしれない。それはまだ僕にはわかりません。西洋の建築と東洋の建築とでは住み方もやり方もみんな違いますからね。

T:本日は長時間にわたって貴重なお話の数々をお聞かせくださり、どうもありがとうございました。

1)大和郷幼稚園:大正11年、社団法人大和郷会は、岩崎家から現在の六義園の北と西に広がる一帯の地域の分譲を受けて、当時各界人が設立した。大和郷幼稚園は、その事業の一環として昭和4年に開設された。(大和郷学園のホームページ参照)

2)戦前から「コーナースタンド」を設置、占領期に接収され、CIEライブラリーが置かれた。

3)当時、吉田研究室は丸の内12号館・6号館の2階にあった。同じ階に山下寿郎事務所もあった。

4)法隆寺金堂火災。1949年1月26日。この火災では国宝の金堂壁画が焼失し、翌年に文化財保護法制定される契機となった。

5)1981年より薬師寺の昭和・平成伽藍建築の建築委員を担当した。

6)池上本門寺では1960年に復興奉賛会が設立され戦災後伽藍が再建された。

7)ウツクシマツは滋賀県の美松山(びしょうさん)に自生する。

参考文献

・今里隆『屋根の日本建築』(2014年、NHK出版)
・栗田勇編集『現代日本建築家全集第三巻』(1974年、三一書房)
・杉山隆建築設計事務所『杉山隆建築作品集』(1982年)
・杉山隆建築設計事務所『杉山隆建築作品集』(1994年、ジーエーデザインセンター)
・和風建築社 企画・編集『吉田五十八とその流れ〈学芸和風建築叢書13〉』(1993、学芸出版社)

今里 隆 (いまざと たかし)
1928年東京に生まれる。1945年東京美術学校入学。1946年吉田五十八研究室に入室。1949年同校を卒業。1949~64年吉田五十八研究室勤務。1964年に独立、杉山隆建築設計事務所を開設。1970年今里廣記の養子となる。1988年~91年東京藝術大学客員教授。主な建築作品に、大平正芳邸(1977)、池坊頂法寺会館(1976)、池上本門寺・大客殿(1976)、池上本門寺・御廟所(1979)、料亭・金田中(1980)、国技館(1984)、京都南座改修(1991)、平山郁夫美術館(1997)、大阪・松竹座劇場(1997)、真言宗醍醐派総本山醍醐寺・霊宝館平成館および伝法学院(2000)、日本美術院(2001)、第五期歌舞伎座監修(2013)などがある。著書に『建築用木材の知識』鹿島出版会(1985)、『屋根の日本建築』NHK出版(2014)、『次世代に活きる日本建築』市ヶ谷出版(2015)などがある。

砂川晴彦
株式会社文化財工学研究所。近代東アジア都市史・日本建築史。1991年埼玉県生まれ。東京理科大学大学院博士課程修了。博士(工学)。

種田元晴
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科助教。法政大学国際文化学部兼任講師。近現代建築史、図学。1982年東京都生まれ。法政大学大学院博士課程修了後、東洋大学助手、種田建築研究所、法政大学・日本大学・桜美林大学等の非常勤講師を経て現職。博士(工学)、一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。2017年日本建築学会奨励賞受賞。

佐藤美弥
埼玉県立文書館学芸員。日本近現代史。1979年秋田県生まれ。一橋大学大学院修了。博士(社会学)。一橋大学特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員をへて現職。著作に『近代日本の政党と社会』、『戦争と民衆―戦争体験を問い直す』(いずれも共著)ほか、担当展覧会に埼玉県立歴史と民俗の博物館企画展「埼玉の自由民権」、埼玉県立文書館記念企画展「鉄道の埼玉 ―明治から現代へ―」ほか。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦