伊藤亜紗著『手の倫理』

ふれないことで「ふれる」コミュニケーションの可能性(評者:木内俊克)

木内 俊克
建築討論
Feb 6, 2021

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伊藤亜紗著『手の倫理』

「物理的ー生成的なコミュニケーション」の例として、視覚障害者の伴走をとりあげたい…重要なのは「ロープ」の存在です。目の見えないランナーと目の見える伴走者は、直接体をふれ合っているわけではありません…二人がロープを介してつながった状態で、長い時間、同じ動作を共有する…「行為」ではない「動作」を共有するのです。(p150-p152)

美学・現代アートの分野を核に、介助・教育・スポーツなどの現場における実践までも射程に入れた身体論を展開する伊藤亜紗は、本著において、「ふれる」と「さわる」という一見同じに思える二つの動詞のあいだにある違いを掘り下げ、対比的に考察することで、コミュニケーションとは何であるか、そのメディアとしての身体にはどのような可能性とリスクが内在しているのかを論じている。

伊藤はこれまで、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、『どもる体』、『記憶する体』といった一連の著作において、さまざまな障害を伴った身体を考察してきた。目が見えないというひとつの障害の中でも、当事者それぞれの障害への向き合い方は千差万別であることを、徹底して当事者からの具体的な体験のヒアリングを起点にすることで明らかにしている。個々の身体の固有性に徹底して向き合っていく伊藤のアプローチは、いわゆる障害の有無に関わらず(あるいはあらゆる人は多かれ少なかれ何がしかの障害や欠損を抱えているという意味で)、私たち人間の身体はそもそも圧倒的に個別であることを浮かび上がらせる。「見えない」とはどういうことか、「見える」とはどういうことか、単純な0か1かに思われていた世界にいかに多様なひだが折りたたまれているのか。たとえば『記憶する体』に登場する全盲の女性は、高校1年の夏休みに視力を失った中途失明者であるにも関わらず、手元の紙にメモを取りながら会話をするというケースが紹介され、女性が取っているメモに的確にアンダーラインを引いたり、地図や絵をやすやすとメモにまじえ、内容によっては斜体など雰囲気をともなった文字の書き方さえしているという事実を指摘し、女性がいかにメモを取るという外部的な装置により、会話の内容をイメージとして脳内にフィードバックしているかが分析されている。個々の身体が抱える一様ではない障害は、いかにそれぞれの仕方で乗り越えられ、むしろ世界を肯定的に捉えるきっかけにさえなりえるのかに伊藤は光を当ててきたとも言えるだろうか。

さらにもう少しだけ、伊藤の議論のコンテクストを拡張してみる。個別な身体が、異なる他者との関わりにおいて、外的な装置とのネットワークの中で拡張された身体として働くというリアリティーには、かつてダナ・ハラウェイが打ち出した「サイボーグ宣言」(ダナ・ハラウェイ著、高橋さきの訳 『猿と女とサイボーグ―自然の再発明』2000年、青土社)を思い起こさせられる。伊藤の論考からは、ハラウェイのポリティカルな宣言としてのサイボーグ性を読み取ることはできないかもしれない。しかしながら、ハラウェイが「機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である…我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである」と述べる際に垣間見える、日常の実践の中で自他の境界にコミットするサイボーグのイメージには、伊藤の描き出す身体のイメージと重なる部分を見て取れないか。日常の中で、生存といったシリアスな問題から、アイデンティティーや文化に関わる問題まで、自らと外部の境界の中でせめぎ合うことに真摯に取り組んでは、個としての自律性に閉じこもるのでも、他者への依存にのみ従うのでもなく、他者との流動的で生成的な関係をあくまで実践的に生き抜いていくハラウェイのサイボーグのイメージは、伊藤が論じる等身大で固有のあり方を模索し、それも自らの欠損に自覚的で、積極的に他者との境界の融解に活路を見出す身体のあり方と重なって見えてきはしまいか。

ここで『手の倫理』に戻ろう。

本書の白眉は、ここまで論じてきた意味において、身体が外部とのネットワークの中で働くあり方を模索しつづけていく契機がどこにあるのかを、コミュニケーションの問題として捉え直している点にあると考える。身体が拡張する瞬間に実際何が起こっているのか。コミュニケーションという軸線をとおし、これまでの伊藤の著書とはまた別の角度でその問いへのアプローチが提示される。

冒頭でも指摘したとおり、伊藤によれば、身体の接触には「さわる」と「ふれる」の二つのモードがあるという。「さわる」はいわば伝達モードであり、主体と客体を明示的に切り分け、情報は一方向的に主体から客体に投げかけられる。むろんそこには、情報を受け取る側が、一方向的に抑圧されたような感覚を覚えるリスクがある。一方、「ふれる」は生成モードであり、行われる情報の授受において、どちらが伝える側でどちらが伝えられる側かは順次入れ替わっていき、相互に相手の状態を読み取りながら、状況に即してかわされるコミュニケーションに向かうものであると整理される。従って、たとえば医療の現場における触診など、むしろ感情のやり取りを遮断した「さわる」アプローチが要求される場面がある点には留意すべきとしつつも、こと身体を介したコミュニケーションの場―たとえば福祉の現場における介助や支援―においては、「さわる」モードを避け、「ふれる」モードを駆使したコミュニケーションを基本とすることの重要性を指摘して論が展開されていく。そして「ふれる」モードの理想的なコミュニケーションとして、伝えるのではなく自ずと「伝わっていく」状態が提示され、それが達成されたコミュニケーションにおいては、情報のやり取りはきわめて生成的で、共鳴と呼べるような応答が可能になるという指摘に至る。

ここで興味深いのは、そのような「ふれる」コミュニケーションを媒介する為には、時にコミュニケーションの対象である他者と一定の距離を保つことが重要になることがある、という指摘だろう。つまり「ふれる」ためには、あえてダイレクトな接触を回避し、ふれないことを選ぶ必要があると言い換えてもよいだろうか。非接触であること、外的な装置をとおしたネットワークの中でコミュニケーションを行うことで、むしろ「内にはいりこむ」(p.82)ような知覚が可能になった例として、伊藤は振付家・ダンサーの砂連尾理と小児科医で脳性まひの当事者でもある熊谷晋一郎が2016年1月に京都造形美術大学(当時)で行った、デモンストレーションの例を紹介している。伊藤のテキストを引用しよう。

二人はさまざまな仕方でお互いの動きや身体の違いを確認し、そのつど気づいたことを言葉にしていきます。「距離があるほど入っていける」が起こったのは、後半、二メートルほどの棒が、二人の間に持ち込まれたときでした…熊谷は言います。「このやりとりは、砂連尾さんの材質のようなものが伝わってくる」。一方の砂連尾は…「…熊谷さんから、こんなに微妙な振動が来るとは思っていなかった…」…「手の表面の奥側にあるものが、もっと露わになった」

BONUS第3回超連結クリエイション Part 1 砂連尾理のアイディアをめぐって「随意と不随意の境界線を眩く」 2016年1月24日 ゲスト: 熊谷晋一郎(小児科医・当事者研究)

このケースでは、棒というきわめてシンプルな装置がコミュニケーションの媒介となることで、それまでは隠れて見えなかった互いの息使いのような情報がある種の緊張をもって共有されるようになったという例が紹介されている。同様に、冒頭で引用した視覚障害者の伴走のケースでも、逐一言葉や物理的な手引きを伴うような「行為」ではなく、ロープにより即物的な情報に還元された「動作」だけが伝わってくることで、むしろ相手の疲れ/快調さ、しんどそう/楽しそう、緊張している/リラックスしているといった言語化しづらい機微を互いに読み取ることができ、ダイレクトに互いの内発的な思いに「ふれる」コミュニケーションが可能になったことが指摘される。「ふれる」コミュニケーションへの要請が、逆にふれないことを必要とし、そこに外的な装置の媒介が戦略的に見出されていると言えるのではないか。

2021年1月末現在、コロナ禍への対処としての緊急事態宣言がふたたび政府により打ち出されている。この一年、COVID19の感染拡大は、あらゆる産業や教育の現場、生活におけるコミュニケーションの在り方を確実に変化させた。オンラインとオフラインを区別せず、むしろ物理/情報環境がハイブリッドに絡み合うコミュニケーションのあり方を、どのような観点から捉え、価値につなげていけるかが、現代社会における喫緊の課題であることは論を俟たないだろう。そしてその意味で、物理/情報環境に関わらず定義しうる、伊藤が提示する「ふれる」/「さわる」という二つの異なるコミュニケーションのアプローチと、「ふれる」上ではむしろ物理的に非接触であることでコミュニケーションが深まるケースが存在する、という知見は、きわめて重要な視点を投げかけている。

なお最後に、本書のタイトルであり、「ふれる」「さわる」を論じる上で欠かすことのできない「倫理」の議論に、6章構成のうち第1章と第6章が割り当てられ、重要なポイントが置かれていることに言及しておきたい。伊藤によれば、「倫理」とは静的な規範を敷く「道徳」とは対比的に、個別の状況の中で「すべきだけどできない」現場においていかにふるまうかを問い続ける迷いと選択の問題であるという。そのとき鍵を握るのは、とりもなおさずあるコミュニケーションが生成する現場の内側にとどまり、あくまでその現場において「ふれる」試みを維持し続けようとする態度なのであろう。『手の倫理』は、その意味であくまで実践のためのガイドラインなのだ。

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書誌
著者:伊藤亜紗
書名:手の倫理
出版社:講談社
出版年月:2020年10月

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木内 俊克
建築討論

きうちとしかつ/1978年生まれ。東京大学建築学専攻修了後、Diller Scofidio+Renfro(2005–2007, New York)、R&Sie(n)(2007–2011, Paris)勤務。2012年木内俊克建築計画事務所設立。代表作に都市の残余空間をパブリックスペース化した『オブジェクトディスコ』。