経験と構成

連載:会場を構成する──経験的思考のプラクティス(その1)

桂川大+山川陸
建築討論

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本連載は桂川大と山川陸の共同執筆です。執筆期間中の対話を元に、リサーチと並行してリライトを繰り返しています。二種類の書体は桂川・山川の執筆部分に厳密に対応しているわけではありませんが、対話によって書き上げられた形跡を異なる書体の掛け合いとして残すことで、議論の切れ目や変化を伝える狙いがあります。一連の文章の背景にある議論や検討を伝える一助になれば幸いです。(桂川大+山川陸)

展覧会を観にいく。たとえば駅を出て、街を歩き、美術館の入口で検温と消毒をし、予約していたチケットを提示し、入場する。入口の壁に書かれたあいさつ文を読み、そのまま数歩足を運ぶと作品が並んでいる。キャプションを読みながら先日読んだ本のことを思い出したり、同じ作家の作品を前に目にしたときのことを考える。あるらしき順路に沿って歩き、ほかの人を追い抜いたり、時に立ち止まったりしながら進む。最後の部屋を抜けると、最初に入った入口のすぐ隣に出てくる。先ほどの自分のように展示室に吸い込まれていく人を横目に、ミュージアムショップを覗く。図録の予約をして、美術館を後にする。おやつ、あるいは食事のことを考えている。帰りにスーパーで買うものも頭をよぎる。

どれだけ移動が少なかったとしても、私たちの生活には、空間の移動とそれに伴う時間の経過がある。分かちがたい時空間の中に経験はあるが、それは当たり前のことだ。

空間の大きさや距離を経験するには身体が(事物を)感じる時間の前後や衝撃と切っても切れない関係にある。では、設計をする私たちは、まだない、来るべき経験をどう考えているのか。

建築物を目的にするならば、それが存続するであろう長い時間を考えることは必要不可欠だ。しかし建築物の耐用年数と同じだけ、設計に時間をかけることはできない。建築設計における構成=compositionは、住人や利用者のような具体的な経験主体を立てずに、経験とは異なる観点―たとえば図面上で明らかになる幾何学や図学―から空間について検討する方法だ。これは時間と空間を切り離して設計する方法といえる。経験主体が検討の外に置かれるがゆえに、その空間はタイムレスな強度を獲得する、と考えられる。生活が変わろうと、調度品が増えようとも、揺るがない強度。
ないことと、無限にあることは限りなく等しい。時間を考慮の外におくcompositionは、現実の時間をはるかに超えた、建築物の存続すら超えるような長い時間に応えることを可能にする。ゆえに、建築の設計の思考として重要なものだ。

一方、近年広がりを見せるパラメトリックデザインは、複雑な要素からなる建築物をパラメーターの集合に置き換え、人力では到達しえない量の検討をデータの中で可能にする。無数の検討を経て最適解を得る方法は、本来圧縮できない時間なるものを、異なる量(ここでは同時に検討される無数の案と変数)の問題に変換しているとも言える。
compositionとは異なる方法論だが、時間の問題として考えると、これもまた現実に流れる時間そのものを扱えないことへの回答と言える。

例えば、 C・アレグサンダーによる『パタン・ランゲージ』(1977)はこの二者間をつなぐ重要な実践だろう。本書の中で、アレグサンダーは街やコミュニティを一度に建設することはできないことを前提にしている。一つ一つの行為や事物の積み重ねが、漸進的な成長により何年もかかって生まれてくる。その補助線として無数のパターンの前後関係がネットワーク化され、時間(もしくはシークエンス)に応えようと試みている。

しかし、これも建築の経験―設計者以外の人にとっては、建築物の経験によって得られることが大半だ―を思考するには不足だと感じられる。時間を伴わない経験はありえないからだ。
とはいえ経験を「実際の」時間と空間だけに帰属させてしまうと、compositionやパラメトリックデザインの生まれる前提にある、時間・空間をそのものとして経験できないというジレンマは解決できない。
冒頭にあげたように、経験は時間と空間を伴うものであり、それには今・ここではないものも含まれる。ここで個人と外部―環境、他者、社会を二項対立に置くことなく、二者の応答的な関係が互いに互いを作っていくことを「経験」として思考してきたジョン・デューイ晩年の著作『経験としての芸術』(ジョン・デューイ, 栗田修(翻訳) :経験としての芸術 (1934) , 晃洋書房 , 2010)を見てみよう。

「経験は有機体と環境との相互作用の結果であり、証拠であり、報酬」(Ibid. p.24.l.6)であり、環境を感覚することを通じて、空間は「人間のいろいろ多くの行為とその結果が、つまり経験が、秩序よく生起する囲われた[=空所でない]広い舞台」(Ibid. p.25. l.9)となり、時間は「実現が期待される衝動の盛と衰・前進と後退・抵抗と休止のリズミカルな変化がおこり、やがて完結する媒体」(Ibid. p.25. l.13)となる。
この「空間と時間によって組織されたもの」(Ibid. p.26. l.3)すなわち経験によって、人間が見ること・知覚することは、出会う事物に対して「現在の内容を拡大深化するために、過去が現在のなかにもちこまれる」(Ibid. p.26. l.19)。思い出して通り過ぎてしまったり、過去から切断して感じるにすぎない「たんなる再認」(Ibid. p.26. l.20)ではなく「個々人の個別のかたちで実現された連続性こそは、意識的経験の本質なのだ」(Ibid. p.26. l.20-21)。

デューイは数々の著作を通じて、自然・芸術・建築・教育に渡るまで、様々な対象を用いて経験について思考しているが、本著作では表現事物としての芸術作品についても述べられている。

「表現(expression)という語は、構成(construction)という語と同じように、活動とその結果としての作品[=絵画・建物]との両方を意味する」(Ibid. p.95. l.1)

「古来哲学者たちが夢中になってきた個別と普遍・主観と客観・自由と秩序といった対立は、芸術には存在しない。芸術においては、個人的活動としての表現と、客観的結果(内容)としての表現とは、相互に有機的に結びついている」(Ibid. p.96. l.6)

作品を結果として存在する事物の問題に留めず、その制作過程や作者までも含めた複合的な存在として語るこの章の始まりは、そのまま建築設計に議論を置き換えることも可能だろう。表現事物としての作品は、主体に関わらず経験によってつながれていく。これは異なる主体や時代、物事が連続的に思考されることについての議論である。

設計における試行錯誤は、その現れの一つである建築物の物質的な強固さ、付随する存続年数の長さ―ときにそれは一世代を超えた長さで存続する―も相まって、時間を時間そのものとして経験できないことと折り合いをつける方法の探求でもあった。空間という広がり、時間という長さとどう向き合うかは、設計者以外の人にとっても同様に問題であったろう。経験における時間を捨象した構成=compositionではなく、デューイの言う構成=constructionとして考えてみると、経験の包含された設計と、さまざまな主体にまたがる時間・空間を通じた建築の現在形を捉えることができそうだ。
その題材となりうる、compositionではなくconstructionとして思考されてきた領域が設計の中にある。その仮設性や限定的な設計範囲から、建築設計における中心的な議論の対象とはなってこなかった「会場構成」だ。

「会場構成」は主に展覧会の空間や什器の設計を担い、作品の配置関係や鑑賞のシークエンスのような、展覧会をつくる一つの役割の一つとされている。しかし、他にも会場設計、空間計画、空間デザイン、展示構成など、記名にも幅があり捉えることが難しい。人だけでなく展示物も含めた多くの主体との交わりによってスタンスが流動的になり、設計における主体の在処や過程も含めた経験的な思考を探る題材にふさわしい。

Armory Show NYC, Interior, 1913 (Public Domain)
Source: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Armory_Show_3.jpg (left)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Armory_Show_2.jpg (right)

当時の展覧会のあり方は、「国際芸術美術展(通称:Armory show)」(1913)とMoMAで開催された最初の展覧会「Cezanne, Gauguin,Seurat, van Gogh」展(1929)に対比的に見られる。「Armory show」では、兵器倉庫だったスペースを会場として利用した。倉庫の状態を生かし、特徴的な造形をもった間仕切りで空間が区切られ、作品のサイズや絵画の額同士の関係性を元に展示が構成された。当時compositionは作品を所蔵するオーナーのきわめて私的な感覚によりつくられるものだと見なされていた。一方、「Cezanne, Gauguin,Seurat, van Gogh」展では、当時の館長であるアルフレッド・バーによって年代やコンテクストに沿って作品を配列し、プレーンな壁面にセクションやキャプションが配置され、カタログが出版された。

「Cezanne, Gauguin,Seurat, van Gogh」展に見られる「私的ではない」展示規範が普及する中で、デューイがセレクターとして関わった展覧会がある。MoMAで開催された「Machine Art」(1934)である。本展は建築家のフィリップ・ジョンソンが展示の監修と会場構成を担い、工業製品など日常で手に触れて扱うアノニマスデザインをいち早く展覧会の中で取り上げている。
デューイは展覧会のカタログに「a person’s experience of things is shaped by the context in which they are viewed(人の事物の経験は、それら事物を見る中で、文脈により形作られる。訳:筆者)」と言葉を寄せている。セレクションに関わったこととこの言葉は、芸術哲学について執筆しようとする者がまず取り組むべき課題として「洗練され強められたかたちの経験である芸術作品と、経験を構成するとふつう一般に認められている日常的な出来事・行為・苦しみとのあいだに連続性を回復すること」(p1 25行目)を挙げたことに無関係ではないだろう。

“experience of things”を建築物を通じて考えてみると、どれだけ要素を明快にしたとしても、設計者と住人や利用者との間でその場に存在する物質への理解の差が存在する。たとえば木造の柱梁の寸法検討による構造的な緊張関係や構法的な規範からの逸脱は、利用者に「木の空間」以上の印象を与えないことがある(言外になにかの質を認識しているであろうことは信じているが、それ以上の飛躍した思考に至れるかを設計者が考えることは難しくなっていく)。
いっぽう、制作者が明らかで、込められた意図が明確な事物を扱う会場構成においては、このような齟齬は少ないといえる。展覧会における表現事物との出会いと検討は、きたるべき鑑賞者のする行為に限りなく近しく、表現事物の前では、鑑賞者も設計者も、また多くの関係者もそう違わない存在だからだ。設計者は鑑賞者が経験するよりも前にさまざまな空間のバリエーションを検討するが、その経験では、都度展示される事物に出会い直し続けていることになる。経験の回数が、鑑賞者よりも少々多いだけだ、といってもよい。したがって、目にし、耳にし、間を歩むことになるであろう時間と空間の、その経験的な検討はconstructionの重要なポイントである。

会場では、人と物、人と人、物と物、様々な事物が同時的に、また時間差を伴って、あるいは記憶を介して出会う。構成は絶対的な何かではない。constructionを方法としてのみ取り出すのは困難で、それを要請する会場とは何かもまた思考の対象となる。会場と構成は目的と手法ではなく、入れ替わりながら相互に作用しあう。
こうした相互的な関係は概念に留まらず、実際の運動体として現れることもある。歴史をみれば、「Cobra」に所属していたアルド・ヴァン・アイク、「De Stijl」に所属していたフレデリック・キースラーのように、運動体そのものの表れの一部として、会場が連関した状態が構築されている例も少なくない。これはデューイの言う表現事物そのものであり、constructionという考え方には、関わる主体や運動体のあり方も関わってくるのは言うまでもないだろう。

本連載では、経験──そこには飛躍も含まれる──を中心とした会場と構成を巡る取り組みを、経験的思考のプラクティスと位置付けて、会場・構成それぞれをケースごとに定義しながら検証していく。建築家による会場構成にかぎらず、“construction”の感覚でもって展示空間にアプローチするキュレーターやアーティストのケースも取り上げながら、来る経験を思考する技を明らかにしていきたい。

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桂川大+山川陸
建築討論

かつらがわ・だい(左)/STUDIO大主宰。1990年生まれ。2016年 名古屋工業大学大学院博士前期課程修了。2019年- 同大学院博士後期課程在籍。| やまかわ・りく(右)/一級建築士事務所山川陸設計代表。1990年生まれ。2013年 東京藝術大学美術学部建築科卒業。