話手:佐々木宏/聞手:種田元晴、市川紘司、青井哲人、橋本純、佐藤美弥、辻泰岳[連載:建築と戦後70年 ─ 03]

AT editorial board
Mar 24, 2018 · 84 min read

日時:2017年7月16日(日)
場所:明治大学生田校舎(神奈川県川崎市)
同席:小川格(編集者、O)
聞手:種田元晴(Ta)、市川紘司(Ic)、青井哲人(A)、橋本純(H)、佐藤美弥(S)、辻泰岳(Ts)

佐々木宏氏は、建築家と建築評論家というふたつの職能を跨ぎながら戦後日本の建築界で活躍した。新刊の洋書をいち早く手に入れ、欧州へ繰り返し出掛け、そして、設計実務の現場に常に身を置き、自ら図面を引きながら、真実を追い求めて旺盛な執筆活動を展開した。

とくに、1950年代後半から1970年代にかけて、建築ジャーナリズム上に近代建築を中心的テーマとする評論を数多く発表した。佐々木氏は、アカデミズムに属さない在野の研究者として、一貫して日本の建築界で主流をなす言説の偏りや誤りを注釈として指摘するような批評的な立場をとり続けた。

『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年)や『真相の近代建築』(鹿島出版会、2012年)に代表される佐々木氏自身の仕事については、非常勤講師を長らく勤めた法政大学の最終講義の記録である『どうやって近代建築を学んできたか』(私家版)に簡潔にまとめられている。これを踏まえて、本インタビューではとくに、北海道に生まれ、東京大学大学院進学のために東京に拠点を移した佐々木氏の半生と、氏の目が捉えた戦後の建築界をめぐる状況を中心に詳細な聞き取りをおこなっている。

インタビューでは、同時代を生きた建築家や建築史家、あるいは建築ジャーナリズムやアカデミズムに対する忌憚ない批判が含まれている。これもまた、我々の戦後日本建築に対する理解を深めるうえで貴重な意見となるはずである。(Ta+Ic)

出生から大学入学まで

Ta:はじめにに北海道での戦争及び終戦直後のご経験について聞かせてください。

佐々木:私は昭和6(1931)年12月7日生まれで、小学校に入ったのは昭和12(1937)年。日支事変が始まった年です。戦争が終わったのが昭和20(1945)年8月ですけど、戦争中に旧制中学に入ってます。小学校出てね。それも本当を言うと旧制中学に入る順番じゃなかったんだけど、私、7人兄弟の6番目なんです。男が四人のうちの3番目。だから親父は皆進学させるのが大変だった。
私の生まれ故郷は北海道の積丹半島で、ここは明治大正にかけては日本でも有数のニシン漁で大量に採れるところで、言ってみれば景気が良かった。なぜニシンがそんなに珍重されたかというと、食べるというよりも肥料。ことに本州のなかでも関西ではニシンの搾め滓を田んぼに入れたから美味しい米が取れた。それでかなり金持ちもたくさんいた。網元なんかは大金持ち。今も何軒か残っています。そういう町だった。私の家は古平という町のよろず屋だった。爺さんが、幸田露伴[1867-1947]が余市でニシン場の電報受付をやっていた頃に配達をしたとかという話が残っています。うちの爺さんは幸田露伴を偉い人だなんて思ってなかったみたいです。

Ta:ご出身はどちらですか?

佐々木:出身は佐渡なんです、私の一族は。佐渡は天領だったから、明治政府になって江戸、東京へ出てこれないんですよ。元天領の人間というのは。それで仕方なく江戸の北に向かったんです。それくらい居住の自由が明治初期にはなかった。薩摩だとか長州だとかの人は東京に来ることができたけど、他の昔の天領、徳川直轄地の人間なんていうのは身動きがとれなかった。そうすると蝦夷地開拓のほうに行った、まあ行かされたと言いますか。うちの爺さんの生まれは文久です、明治の前。

S:幕末ですね。

佐々木:うちに刀なんてあると思っていなかったんだけど、終戦後、旭川の中学から帰宅すると、親父が、進駐軍が来るから刀なんかみんな出せと言って、十何本、日本刀が床の間に並べられていた。親父いわく、お前らこれで薪割っていいよと。アメリカなんかに渡すのはもったいない、ちゃんばらで遊べと。

一同:

佐々木:だから名刀ではない。でも江戸時代の人間は、佐渡ヶ島から渡ってきた百姓の倅でも刀は持っていたわけです。

A:武士のご身分であったというわけではない?

佐々木:そうではなかった。佐々木という名字は明治になってからもらった名前ではなくてその前から名乗っていた。

A:北海道に移られたのは開拓なんですか?

佐々木:そうなんでしょうね。婆さんも佐渡の出。親父が結婚した相手は積丹半島の先の大きな網元の召使みたいな女で、やっぱり佐渡から出てきた人。そこで働いて20歳になる前に結婚したらしい。ありがたいことに大金持ちのところで召使をしていたから料理のレパートリーがすごく多い。高級な食事を何でもつくれる。それから魚を捌けた。古平は漁港だから生きた魚をもらうんだけど、流しの上でバシャバシャいっているのを平気で眠らせてさばいた。そのへんの寿司屋よりもうちのおふくろのほうがうまかったくらい。それからエイ、北海道だと「かすべ」と言うんだけど、あれなんかもよく調理してくれて、私らが子供のときよく食べました。

Ta:旭川中学に進まれるとのことですが、その経緯をお教えください。

佐々木:そういう家に生まれて、兄弟が大勢だったのに兄貴たちはみんな進学していた。一番上の兄貴が小樽の商業学校。私のすぐ上の兄貴は旭川の叔父叔母が将来はゆくゆく養子にするということで旭川の中学に行った。私は中学には行かせてもらえないから師範学校の二部を受けることになった。高等小学校が2年間あるわけですけど、尋常小学校が6年、高等小学校が2年。それを過ぎてから入れる師範学校の二部が官費なわけです。それを予定していたらしい。私はそんなこと頓着しなかったんだけど。その頃、またニシンがよく取れるようになって、ある網元の家が親父から借りていた金を返せるし、自分の家が小樽に別宅をもっていてそこから小樽中学だとか北大(北海道大学)に入った私を下宿させてもいいとなって、高等小学校1年生から急遽、小樽中学を受けることになって、入った。そうしたら戦争が終わった。一学期ですぐ、5月か6月に模擬試験があって、成績がいい者が呼ばれる。軍事教官が呼ぶわけです。親父も一緒。「君、来年、陸軍幼年学校を受けろ」と。陸軍幼年学校というのは東京と仙台と名古屋と広島にあったのかな。親父はこんなちびが何で軍人にならなければいけないと反論した。君は頭がいいし視力もいい、君に適当な場所があるよと、戦車のなかだと。そういう風に軍事教官が言うわけです。親父も帰りに首を傾げながらすごいなあと言う。こんなちびを軍人に取ろうっていうんだからと。 でもその年の8月に戦争が終わった。そうすると旭川中学の兄貴が家に帰ってきた。その兄貴は戦争終わったらアメリカ兵が来るからお前、1人で小樽にいたら危ないから一緒に来いと、勝手に旭川に連れてった。中学3年生のくせに、弟の転校手続きとか全部自分でやってくれた。校長のところにも連れてった。9月1日に転校した。そしたらびっくりした。学校中に文字のポスターが貼ってある、「軍神・加藤建夫」とかね。隼戦闘隊長でビルマ戦線で死んだ加藤建夫[1903-1942]の出身が旭川中学で、彼を顕彰するポスターが学校中に張ってある。第七師団があった町だから、旭川は。幼年学校から軍隊に入った人。その他に旭川で驚いたのは、高校野球が始まって、日本のプロ野球も旭川に来て。パシフィックというチームにいた背の高いスタルヒン[Victor Starffin, 1916-1957]がピッチャーで、それも旭川中学の出身。東京に出てきてから飲み屋で飲むと出身学校の話をするじゃない、そこで私は加藤建夫とスタルヒンの出た学校だと言うと、皆「へえ」って言う。

Ta:旭川中学ではどのように過ごされたのですか?

佐々木:昭和24(1949)年5月10日に、フェーン現象で北海道の西海岸の古平の町が大火で全部焼けになった。500何軒とかで、うちも全部焼けた。だから私が子供の頃のものは何も残っていない。小樽では親父の弟が紙加工の会社を起こして成功していたので、古家を買ってくれて、両親と弟と一緒に住まわせるようにしてくれたので、私も帰ってこいと。それで帰っていった。

Ta:帰られているんですね。

H:そのあとは北海道大学に進学されますね。

ジークフリード・ギーディオン著、太田実訳『新版 空間・時間・建築』丸善、2009年[復刻版]

佐々木:私はわりと数学の成績が良かったので、数学をやるつもりで北大に入った。なぜかというと吉田洋一[1898-1989]という有名な数学者がまだ北大にいたし。先生に相談したら北大も悪くないよと。でも北大では「君は数学家に向いていない」と言われた。それを言われちゃうと、いくら数学を好きでも行かないでしょ。先生が太鼓判を押すんだから。それでどこに行こうかと色々と考えた末に立原道造[1914-1939]という詩人を知ってて、その人が建築学科へ行ったというので、私も入った。そうしたらひどい学校で……。大野和男[1909-1983]という教授が、授業の最中に「おれのゼミに入ったら就職の面倒を見る」というんですよ、教室で。そうしたら一クラス30人のうち、13人行った。そういう学校だった。
私一人だけが太田実[1923-2004]のところに行った。太田実はその頃、ギーディオン[Sigfried Giedion, 1888-1968]の『空間・時間・建築』(丸善、原著(増補第3版)1954年、邦訳1955年)を訳しているということを、助手の髙橋中という男が教えてくれた。ざっとバラバラ読んでみたら私の英語の力でもだいたい読めた。これ全部読むかなと。洋書を扱っていた富貴堂という本屋が札幌にあって、そこへ頼んだ。2千円ちょっとしかしなかったかな。それを買って太田さんの訳が出る前に読んだ。近代建築というのはこんなもんかと。(ドイツ)表現主義も扱われていないし、非常に偏った本ですね。近代建築をやるつもりはなかったんだけど、それ以後やることになった。それは東京に出てきてからの話。
北海道時代についてはもうひとつ言っておかなくてはならない。私は数学をやるつもりでいたから、全然就職のこととか考えていなかった。どこの会社を受けるなんてことを知らなかった。ところがクラスの全員が公務員試験を受けるというんだ。いまの上級職、あの頃は六級職といった。全員受けると30人。お前も受けないかと高木という同級生が言うんだよね。受験料いるのかって聞いたらいらない。じゃあ私も受けると。

Ic:高木さんの下のお名前は?

佐々木:高木任之[1932-2012]。高木は三笠宮妃の遠い親戚。そしたら2人しか受からない。2人目は私。高木は全国で4位とか。私は11、12位とか。でも公務員になるつもりはなかった。ところが国家試験に通ったら先生が就職について全然声をかけてくれない。

S:もう決まっているから、ということですね。

佐々木:しょうがないから親父に大学院に行っていいか相談したらいいよと。それで東大の大学院に行った。北大の大学院にも願書を出していて、北大に行かなかったから太田実に恨まれてねえ。試験も受けていないんだよ。なぜかというと、東京に行ったついでに、国家公務員試験を受かると色んな役所から受けに来いと言われる。建設省、郵政省、労働省、海上保安庁、農林省…。まず海上保安庁は何かというと灯台があるんだ。それで建築家が必要なわけ。農林省は競馬場。労働省は労働安全管理といって、法規をつくる。足場や何かの研究。私のところに来なかったのは文部省だけ。結局受けに行ったのは郵政省と建設省。建設省の面接で「きみはどこでもいいか」と言うから「本庁じゃないといやです」と言った。地方は嫌だと。高木は最初に石川県。10年いた。東京では消防庁で偉くなかったかな。郵政を私は受けに行ったけど、落っこちた。帰りに先輩に捕まって「君どうして試験前に来なかったの。あの問題おれが作ったんだから教えてやったのに」と。聞いてみたら、2人入るなかで3番だった。

S:郵政省と建設省と選ばれたのは……。

佐々木:それは逓信建築を知っていたから。

S:やっぱり、それはそうだったんですね。

佐々木:ところが公務員試験を受かった学生に先生は電電公社も国鉄も受けさせない。

H:どうしてでしょうか?

佐々木:どうしてもなにも、教授陣が調整しているわけ。私は電電公社を受けたかったんだけど、受けさせてくれない。つまり推薦状みたいなものが必要なんだけど書いてくれない。それくらい北大の先生は就職の面倒見が良かった。ゼネコンなんて、大野教授が世話するというから、どんどん皆、送り込まれた。だけど大手のゼネコンは全部はねられた。
それで大学院に受かったから大学院に行ったんだけど、(北大で)おかしいのは就職の話はしないし、卒業の間際にクラスで「成績一番は誰?」って言い出す奴がいるんだけど(返事をする者が)いない。みんなは自分が何番かは知っていて、でも私だけが知らない。 主任教授に呼び出されていないから。それで最後に残ったのが私で、一番だったわけ。
(北大時代に)私が徹底的にやらなかった授業がひとつあった。設計製図。時間を食うじゃない? 烏口研いで、インキングして。私は心ならずも建築に行ったわけで、あんな辛気臭いこと何でやらなきゃいけないんだと。

H:もともと数学志望ですものね。

佐々木:そう。だから建築なんて向いていると思ってなかった。だけど授業は全部「良」より上の成績だった。全部、教養も合わせて五十何科目のうちで可はひとつだった。あとは良よりも上。一般構造だけが可。それはヤマかけたから。絶対、煉瓦造なんて問題に出ないと思っていたんだけど、出た。あとでも話すけど洪悦郎[1924-2009]が煉瓦積みの問題を出した。フランス積みとかの絵を描けと。全然できないから可。落第点ではなかったけどね。

北大のころ

Ta:ご準備いただいた、北大の他の先生方のお話をお願いします。

佐々木:一人ずつ詳しくはできないけど、まず落藤藤吉[1901-1959]。この人はボスでね、文部省の役人だった。北大の営繕部長もやっていて、道内の国立大学、全部の営繕をとりまとめていて、北大に建築学科をつくる運動をしたのがこのおじさん。講義は建築法規を喋っていたのを1回聞いただけ。忙しい人だから。
横山尊雄[1906-没年不詳]は、京大で藤井厚二[1888-1938]の助教授だった人。横浜の医者の息子で、弟は東大の造園学科の教授。北大に来たくなかったらしいけど、西山夘三[1911-1994]がすぐそばにいたから京都大学では芽が出なかったわけ。北海道の銀行の支店長の住宅をやったのがあるけど設計は本当に下手くそ。だけど物知りな人で(講義では)日本には畳が何種類あるかとか、日本で畳のモデュールが一番小さいのは秋田の本荘で五尺八寸しかないといったことを教えてくれた。
さっきも話した大野和男は、教わった先生のなかで一番の傑物だよ。東大を昭和7(1932)年卒で勲二等。大学院時代に水戸高校の図学の教授もしたというんだけど、中島飛行機に入って、桜花という日本ではじめてのジェット機の開発を糸川英夫[1912-1999]と一緒にやった業績で勲二等なんだよ。それで北大の教授をしながら設計の先生以上にたくさん設計した。函館の五稜郭を真上から見る高い塔があるでしょ。

S:五稜郭タワーですね。

佐々木:そう。あとは現在の北海道大学工学部の建物も(大野による設計)。それから戦後すぐに出た最初の建築設計資料(日本建築学会編『建築設計資料集成 3』丸善、1952年)に載っている、三日月型の円弧の平屋建てのレンガ造の学校(《江別第一中学校》1951年)も彼の設計。この人は武藤清[1903-1989]の一の弟子ですごい秀才。昭和7(1932)年の東大卒は秀才が多くて、坪井善勝[1907-1990]や建設省の営繕局長をやった桜井良雄も同じ代。埼玉でアドバンテスト(半導体試験装置メーカーの研究・開発施設)の仕事をしていたときに館林駅のプラットホームで大野和男と会って、私の方から挨拶したことがある。何も聞かないのに「君をいつまでも東京に置いてる」と言う。札幌に呼ばないのは「君をもっと泳がせておいて有名にしないと、北海道大学の建築科で有名な者は誰も出ないから」だと、そういう言い方をする人だった。
その頃の北大のホープと言われていたのは私の一年上の太田(利彦)君[1928-2008]で、父親が日銀の副総裁から日本開発銀行の総裁になった人。太田君は大学院は東大の吉武研(吉武泰水研究室)に進んで、そのあと清水建設の研究部になって最後は所長になったと思うんだけど、大学院の申請のときの成績も彼がトップだった。その次が私だけど、私のことは誰もトップだなんて思ったりしていない。まず設計製図で(成績優秀者として)はり出されたこともいっぺんもなかった。そういう意味で大野和男という人には、私には何か苦い思い出がある。
横田道夫[生年不詳-2010]は東京工大出身の先生で、ラーメン構造の解き方の撓角法を習った。判子をつくってそのなかに計算した数字を入れて解答に近い近似値が出すというのが横田道夫の考案した撓角法だった。電卓なんかない時代で手回しの計算器を使わなきゃないから、計算用紙1枚に計算して出せばアルバイトになるということで学生にお金をくれて、私もずいぶん稼いだ……。その記憶ぐらいしかない。
西忠雄[1912-1998]は建築材料の先生。東大では立原道造と同期だったというから、そのことを聞こうとしたことがあるけど、口をつまんで一言も答えてくれなかった。いいかげんな先生でね。困ったことに関西旅行のときの同行者だったんだよ。京都の大徳寺に行ったとき、同級生の高木(任之)が自分の知り合いがいるといって(同じく旅行に来ていた)早稲田の学生に声をかけたら、早稲田の先生たちが聞こえよがしに「どなたが引率されているんですか」と。恥ずかしくて言えなかったな。向こうは歴史の先生(田辺泰[1899-1982])がちゃんと説明しているのに、こっちは建築材料の先生だよ。北大では関西旅行の引率が毎年、交代で行くことになっていて、要するに先生たちの慰安旅行だったわけ。北大には建築史の先生がいなかったということだよ。

A:明治大学でも教えられた木村徳国先生[1926-1984]は、そのあとに北大に来たのですか。そのときは……、

佐々木:いたけど、あの人は建築史じゃないよ。だって丹下(健三)さん[1913-2005]のところで《広島計画》をやって名前が出た人でしょ。

A:そのあとに日本建築史にうつられるのですね。

佐々木:いや、任せられたからしょうがなく(建築史の授業をしたの)でしょう。太田実は仙台の公会堂コンペで浅田(孝)[1921-1990]、太田(実)、大谷(幸夫)[1924-2013]と三羽烏で2等になった実績で北大に呼ばれたのだろうけど★1、私が彼のところに入った頃にはじゃんじゃん仕事をしていたよ。あまり感心はしていなかったけどね。私は大学院を受験するための願書を北大にも出しておいていたんだけど、そのときのフランス語の問題の作成をこの人が任されたんだって。私らの頃は大学院(の外国語の試験)は2カ国(語)をとらないといけなくて、私はフランス語ができたからフランス語にしたの。東大も北大もそうしたけど、北大の院試でフランス語を他にとった工学部の人は誰もいなかった。あとで聞いた話だけど、そのとき太田さんはしょうがないからアテネ憲章の一部を日本語に訳せという問題をつくったらしいんだけど、私は北大の大学院試験を結局、受けなかった。それで太田さんからはあとに、ものすごい嫌味を言われた。
洪悦郎は材料の西(忠雄)さんの助教授。この先生はコンクリートばかり教えていたけど、北大に来る前に坂倉(準三)事務所にいたことを鼻にかけて「君らより設計上手いんだ」と面と向かって言うんだ。夏休みにゼネコンの現場に行くと施工演習の単位が貰えるということで、7月から8月の40日間、現場に行ったことがあって。その頃、千歳の北の島松にある野っぱらに警察予備隊の施設の被服廠をつくる突貫工事が始まって、ゼネコンが十何社も殺到していて、私は竹中(工務店)の現場に入った。目が良いもんだから測量のトランシットの扱い方の名手になった。それから大工と一緒に遣り方杭の太い丸太をうって、杭の頭を片方から斜めに切って反対方向から斜めに切って尖った形にしていったんだけど、これはイスカといって、杭の頭を尖らせることで杭に人が触って移動してしまうのを防いでいるわけ。そういうことを大学の3年のときに全部現場で習得して、現場のことに強くなった。建築をやろうとは思っていなかったから、見ることやること全部新鮮だった。あとはコンクリートのスランプ試験も業者の手伝いもやって、コンクリートのテストピースの強度チェックを役人が見届けて帰ったあと、それをバケツの中にひっくり返して、セメントを足してテストピースのつくりかえをやらされた。(業者まかせにしているから)酷いんだよ。しかもそれを大学に持っていって潰すのだけど、それがさっき言った洪悦郎先生のところ。大学の先生がやっているコンクリートの研究なんていうのがインチキだということを学生のときにまざまざと知らされた。いかに現場管理が大事かということで、私は仕事をするようになって、現場には本当に行くようになった。現場は人任せにしてはいけないよ。
さっきも話に出た木村徳国は、すごく設計の下手な先生で、北大の建築学科の四角い箱の建物はこの人の設計だけど、大野和男が「なんだこれは」と言っていた。この人のお父さんが有名な専修大学の人で、自分も有名になって評論を書きたかったらしい。ところがどこの雑誌からも依頼がない。それで桂離宮か何かについての詳しい論文を書いて『新建築』に売り込んでくれと早川正夫[1926-、数寄屋や茶室の設計で知られる]に頼んだ。だけど『新建築』の編集部はその論文を退けて不採用。それはあまりにも可哀想だと誰かが言って、その長い論文は小さな活字で投書欄に載った(木村徳国「現在における古典の意味」『新建築』1955年12月号)。そうしたら北大の大野和男が「こんなに長い論文を投書する馬鹿がいるか」と。大野和男は厳しい人なんだ。北大の先生になった山田昭夫がいじめられて住宅公団に戻ったなんてこともあって、それで木村徳国は北大にいられなくなった。そして父親のはたらきかけで明治大学に入った。
向ヶ丘遊園駅で急行を待っていた木村徳国に会ったことがあった。向こうから声をかけてきて「君、ひどいじゃないか。堀口先生の作品をあんなにぼろくそに書くなんて」と言ってきた。『近代建築』に堀口捨己[1895-1984]が設計した知多半島の常滑に焼き物の研究所(《常滑市立陶芸研究所》1961年)があって、玄関の庇にある波形のプラスチック板が上からみるとものすごく貧相だったから、そのことを書いた(中真己「明治大学のいくつかの建物:堀口捨己論覚書」『近代建築』1965年6月号)。木村徳国は自分を明治大学に入れてくれた恩人の堀口先生の作品にケチをつけたことが頭にきて、私のことをぼろくそに言うわけ。こいつは何もわかっていないなと思ったけど。
堀江悟郎[1917-1999]は京都大学を出た人で、有名な兄弟の一人。堀江史朗は有名な映画評論家で、お姉さんの堀江鈴子さんは岩波書店に行って池辺陽[1920-1979]に『すまい』(岩波書店、1954年)を書かせた人。この人は北大を辞めて京大の教授になってからレイナー・バンハム[Reyner Banham, 1922-1988]の本(『環境としての建築』堀江悟郎訳、鹿島出版会、邦訳1981年)を1冊翻訳しています。

Ta:北大時代、印象的だった建築の講演などはありましたか。

佐々木:大きく印象に残っているのは岸田日出刀[1899-1966]、吉田五十八[1894-1974]、谷重雄[1909-1998]の講演。
まず岸田日出刀の講演では、昭和28(1953)年の伊勢神宮の遷宮の前に、古い神宮を福山敏男[1905-1995]と岸田日出刀と早稲田の田辺泰の3人が見たときのことの一部始終を聞いた。このときの彼らの結論は、伊勢神宮はあまりにも金ぴかすぎると。だから金をうんと減らしたほうがよいということだった。真ん中に何のご神体があるのかということを岸田さんは言わなかった。推測で舟棺があると言ったのが堀口捨己。すごい特別講義を岸田日出刀はしたなと今でも覚えている。
吉田五十八は元芸者の美人の奥さんと2人できて、自分の設計のやり方の話。住宅の玄関でいちばん大事なのは客の足元が見える位置にガラスを埋め込むようにすべきだと言っていた。金を借りに来るのでも人が頼みに来るのでも履物がいちばん大事だと。あとは自分の作品のスライドを見せて、障子の組子(のスパン)を飛ばすための極意も(教えてくれた)。プラチナの合金の細いワイヤーを張って挟んで両側でとめているのよ。学生相手にそんな話をするなんて、吉田さんはさすがだなと思った。
谷重雄は昭和7(1932)年の東大卒。神社庁に行ったけど戦後に神社庁(内務省神社局)が廃止されたので建設省からまわされて北海道庁の建築部長になって、北海道をアイヌの地からなにから全て視察した人。講演でいちばん印象に残っているのは明治はじめの屯田兵の家をぜんぶ調べたら、階級によって板硝子の数が違うんだと語ったこと。二等兵の家は板硝子を玄関に1枚しか使っていない。そのころの板硝子はまだ国産ではなく、ぜんぶ輸入品で。屯田兵の住宅に関しては北大の歴史の先生もかなわなかった。

A:北大時代は建築の歴史の授業はありませんでしたか?

佐々木:木村徳国が真似事をやった。日本建築史をやりますといって、法隆寺だけをやれば江戸時代まで全部あるから、それだけ勉強して他はやらなくていいと言われた。ネタ本はあとで東京に行ってからわかったんだけど、太田博太郎が昭和19(1944)年に出した本(『法隆寺建築』彰国社、1943年)。木村徳国も日本建築は法隆寺しか知らなかったらしい。

A:そうですか。木村先生はそのあとで古代の専門家になりますけどね。

佐々木:木村徳国の話でいうと、さっき話した関西旅行のレポートを出したとき、私は法隆寺の中門の柱がなぜ門の真ん中にあるのかについて書いた。そしたら木村徳国からもの凄い良い点をもらった。あとで東大の出身で物書きになった人(武澤秀一、1947-)が、右と左とで出口が違うから中をまわって出るために法隆寺の中門が必要なんだと書いていたけど(『法隆寺の謎を解く』ちくま新書、2006年)、私はそんなこと知らずに門の真ん中に柱があったら邪魔じゃないかということで書いたわけ。それを受けとめた木村徳国もやっぱりさすがだよ。

A:近代建築史のこと(を先生から授業で教わったこと)は北大ではなかったと。

佐々木:太田さんが少し話したけれどギーディオンの範囲だけ。だけどギーディオンの本(『空間・時間・建築』)は近代建築史の本ではないから。ライト[Frank Lloyd Wright, 1867-1959]が19世紀になっていたり表現主義がなかったりする。だから3回か4回、太田さんはお茶を濁していた。

Ta:同級生も歴史の勉強には興味がありましたか。

佐々木:誰もやっていないんじゃないの? その頃は私だってまだそんなに興味持っていなかった。私は数学から建築に首をつっこんで、建築技術を覚えるのに懸命だった。授業のあるときも竹中の現場に行って、寒中施工でコークスを窯にいれる人夫を起こす役を友達とアルバイトでやっていた。家が火事で焼けちゃったから、私の家は貧乏だった。就職ができなくても竹中は札幌支社がとってくれると主任が約束してくれていた、学生にしては勤勉だから。夜は現場から帰ってきて鉄骨の図面の読み方を教わって勉強した。

Ta:書物から勉強されるということはあまりなかったですか。

佐々木:そんな時間はなかった。あとで話をするけど、学部生時代は図面はさぼっていたけれど、大学院時代はアルバイトで設計ができるようになった。池辺研(池辺陽研究室)に入ると上には東京美術学校を出た図面の名手の吉田桂二君[1930-2015]とか、名古屋の愛知県立文化会館のコンペで2等になった小宮山(雅夫)君がいた。私は何もやることないからまたアルバイト。進駐軍が使っていたビルを返すためにインテリアを改造しないかという話があって、募集を出していた鹿島(建設)の下請けの会社に入って夜の9時くらいまで20分の1の展開図を書いた。内装の材料の名前も、目地幅や下地といったディテールのこともそのときに覚えた。

Ic:北大の太田実さんのゼミではどういうことをされていたんですか?

佐々木:私はシェル(構造)のことを卒業論文で書いたから、提出先は太田さんだけれど、構造の横田(道夫)さんのところにも行った。だけど全般は文化人類学(的なテーマ)だよ。ストゥーパやドームをつくることについて(書いた)。つまり丹下さんの《愛媛県民館》のドームに憧れていてそれで書いたの(佐々木宏「シェル—その構造と空間」北海道大学卒業論文、1955年3月)。

Ic:学生や先生と読書会をやったりといった、ゼミとしての活動はどうでしたか。

佐々木:ぜんぜんない。自分で助手から教わってギーディオンの本を発注したけどね。それから北大の時代にも『ドムス』『ラルシテクチュール・ドージュルドゥイ』『(アーキテクチュラル・)レヴュー』などの外国の雑誌があって、とくに『レヴュー』は結局読み切れないから2年間、自分でとって、バンハムやペブスナー[Nikolaus Pevsner, 1902-1983]の論文も原文で読んでいた。東京に来てからは池辺研に東光堂が洋書をいっぱいもってくるので金があればそこで頼むし、金がなければ池辺さんか嶺岸泰夫(みねぎしやすお)君に頼んで買ってもらってた。
その頃の思い出をいうと、芸大(東京藝術大学)教授の山本学治[1923-1977]には参った。アリソン・アンド・ピーター・スミッソンを夫妻ではなくスミッソン兄弟と訳していて、アリソン[Alison Smithson, 1928-1993]のことを男だと思っている。あと図集(日本建築学会編『近代建築史図集 改訂新版』彰国社、1966年。本書の編集に佐々木と山本は関わっていた)にポール・ネルソン[Paul Nelson, 1895-1979]の《サン・ローの病院》(1954年)を出したいと思ったけれど、山本が「僕はそんなの知らん」と言って却下。フーゴー・ヘーリンク[Hugo Haring, 1882-1958]もシャロウン[Hans Scharoun, 1893-1972]の《ベルリン・フィルハーモニー》も載らない、山本学治が知らないから。ミース[Ludwig Mies van der Rohe, 1886-1969]一点張りの人なんだよ。

A:近代建築史やヨーロッパやアメリカの同時代的な状況といったことは、だいたい東大の大学院に移ってから勉強されはじめたという感じですか。

佐々木:いや、北大にいたとき外国の雑誌を片っ端から見ていたのは、私くらいじゃないかな。

A:北大のときにやはり雑誌で英語の論文を見ていらっしゃったということですね。

佐々木:うん。読めるのは。

Ts:図書館は利用されなかったんですか、購入されていたと。

佐々木:北大の建築学科は小さいけど建築専用の図書室がある。外国の雑誌が並んでいた。でもね、東大に行ってごらんよ。建築の図書室の立派なこと。東大は本当にうらやましいと思ったよ。

A:北大にもあったことはあったと。

佐々木:でも新設校だから雑誌のバックナンバーがなかった、北大は。

A:ギーディオンの本は太田さんの訳が出るまえに英語で読まれたと。

佐々木:私が買った本はまだミースが載っていなかった。ミースが入ったのはそのあと。そのことは学会の有名な座談会(高山正実、谷川正己、富永譲、佐々木宏「20世紀建築が獲得したもの」『建築雑誌』1992年5月号)で話しています。

A:その本も北大の4年生のときにはもう読んでおられて、雑誌なども読まれていたので、ギーディオンが偏っているということはそのときすでにわかっていたと。

佐々木:うん。アドルフ・プラッツ[Adolf Platz,1882-1947]の本を基にした川喜田煉七郎の記事を読んでいたから(川喜田煉七郎の編集による雑誌『建築工藝アイシーオール』に掲載)。

A:そういったことを議論する相手はだれもいなかったと。先生にもそういう雰囲気はないし、同級生にも先輩にもまったくない。だけど佐々木さんはわかっていたと。

佐々木:わかっていたというか、知識の断片としてね。東京に来てもそうで、近代建築の話し相手はあまりいなかった。

Ts:当時の東京で、先生と同じくらいの世代の方だと、英語圏やヨーロッパの雑誌は購入する機会も限られていたようで、GHQ/SCAPのいわゆるCIE図書館をよく利用されていたとおっしゃっています。

佐々木:そうよ。みんなそうなんじゃない?

Ts:北海道にはそういった施設はなかったと。

佐々木:なかったね★2。

池辺陽研究室とワックスマン・ゼミ

佐々木:東京にきていちばん良かったのはやっぱりワックスマン・ゼミ。ほかの学校の同じ建築を勉強する21人の1人に選ばれたこと。3ヶ月間も(いっしょにゼミに参加した)。コンラッド・ワックスマン[Konrad Wachsmann, 1901-1980]は大工さんあがりの建築家で、グロピウスと一緒にやったパネル構造の家で有名になって、亡命してシカゴの大学(イリノイ工科大学)の教授になるのかな。それでアメリカ時代に知り合いになった剣持勇さんが連れてきたんだよ。そして剣持さんが丹下さんに話をした。独特の教育カリキュラムをもっているらしいから東京でやってみたらどうかと。その話を丹下さんが中心になって「例の会」という建築家のグループにもちかけた。大学の先生方が1人10万円くらいを出さなきゃならないんだよ。私のところなんか貧乏な研究室で、池辺さんが出してくれるかどうか、わからなかった。池辺研には私しかいなかったわけじゃなくて、京都大学からきた尾崎昌凡がいた。彼はあとに溶接の仲(威雄)さん[1907-2008]の研究室へ移った。彼がいなくなってから私しか残らないから、私がワックスマン・ゼミに参加できたんだけれど、一番もめたのは浜口研(浜口隆一研究室)じゃない? 浜口研はやっぱりなんといっても本郷からきた坂根厳夫[1930-]。

Ts:私が坂根さんに聴き取りをしたとき、ご本人はちょっと記憶が曖昧だったのですが、卒業のときには太田博太郎先生[1912-2007]にご指導をうけたという話をされていました★3。いま先生がおっしゃっていたのは坂根先生が修士課程の頃のお話なのですが、先生のお話を整理すると坂根さんは浜口隆一[1916-1995]のもとに大学院はいたということですか。

佐々木:いや……どっちに籍をおいてたか私は知らないよ。ただその頃は浜口の後を継ぐのは坂根じゃないかとみんな言っていた。坂根厳夫はそもそも朝日新聞(への就職)だって岸田(日出刀)さんの温情よ。佐賀の支局にとばされて、佐賀で警察回り(取材)をやっていたでしょ★4。

Ts:(坂根は)世界デザイン会議のときに(東京に)戻られるんですよね。

佐々木:坂根は評論家になりたかったわけで、デザインに関する評論はすこしやって本は何冊か書いている。私なんてのはうさんくさくてしょうがないんだよ、だって坂根は東大系の建築評論や建築のことを書く本命でしょ。まわりもそう認めていたのに、私みたいなのが北大から来て設計もやりながら建築の雑文を書いているのは煩わしい(と思われたのではないか)。

Ts:ワックスマン・ゼミの参加者として公開されているリストのなかには、坂根厳夫さんの名前はないですよね。

佐々木:もちろん。だって坂根じゃないもん。浜口さんのところは。

Ts:鈴木一さんですよね。

佐々木:鈴木一というのは武蔵工大(武蔵工業大学)を出て、早くに設計事務所で市浦健[1904-1981]や森田茂介[1911-1989]のところにいた人間。一念発起で東大の大学院を受けようと思って市浦さんのところにいったら、ものすごい勉強をしなきゃならないよといわれて大変だったという話。その彼と受験のときに一緒だった。受験者が並んだときに、鈴木一が自分から名乗ってきてわりと親しくなった。名字が「さしすせそ」でつながっていて順になっていた。彼からはずいぶん東京のことを教わった。鯵の干物のくさやのことまで彼から教わった。

Ts:大学院に入学するため先生は上京されるわけですが、どういった経緯で池辺陽研究室を見つけたのですか。

佐々木:池辺研究室に入ったのは、池辺さんの『すまい』を読んだからだよ。私は11人家族で育っているから、住宅を学生のときに設計しろといわれてもできなかった。あとでおぼえた言葉だけれども、核家族という家族像があっという間に広まった。そういう家族像をグロピウス[Walter Gropius, 1883-1969]やコルビュジエ[Le Corbusier, 1887-1965]が支持して日本もそっちに傾いていった。池辺さんの『すまい』が啓蒙したのもやっぱりそういうところ。

Ic:池辺さんの本を読んだ経緯というのは先ほどの、堀江鈴子さんからの紹介があったということですか。それよりむしろご自身の関心からですか。

佐々木:いやいや『世界』(岩波書店)で予告されていたんじゃない?

Ta:それは図書館で読んだのですか。

佐々木:自分で買ったんだよ、安いから。東京に来てから勉強したのはやっぱり浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社、1947年)。誰かが持っていったのか北大の大学図書館には無かった。あれは大変な評判の本で、名著ではないけど日本ではやはり歴史的な本。

Ts:戦時下に、浜口隆一と浜口ミホ[1915-1988]が北海道に一時的に行きますよね。そのあとに東京に戻って機能主義に関する論争があるんですけれども、先生にとってそういうことは後で知ったお話ですか。

佐々木:建築に入ってから、知ったのは。図書室にある雑誌かなにかで。その頃に前川(国男)事務所が『PLAN』(雄鶏社、1948年)というシリーズを出して、それから新日本建築家集団(NAU)も『NAUM』(相模書房、1号および2号、1949年)という雑誌を出していて、それは池辺さんも編集していた。その頃から私は池辺さんが共産党員だったのは知っていた。(池辺研に行くことは)まわりの友達なんかにもずいぶん反対されたけどね。だって国立大学で正式な日本共産党員は2人しかいない(と思う)。池辺さんと北大の獣医学科の太田嘉四夫[1915-1994]という人。だから私が池辺研に来たときに、池辺さんがいきなり「君、オオタ君しっている?」と聞いていた。太田実のことだと思って「はい」と答えたら「今どうしているか」と。人違いかと思って頭の回転をよくしたら共産党の方のオオタさんだと(一人納得した)。

Ts:池辺さんとのはじめてのやりとりは試験の後のことですか。それとも研究室に入る前のご挨拶のときですか。

佐々木:(試験前の訪問には)いかないよ。それをやらないからいろいろ損をしている。(池辺さんとの初対面は)面接のときだよ。十何人も教授が並んでいるところに一人一人面接にいく。私たちが入る前は(池辺研という名称ではなく)抱き合わせの星野(昌一)・池辺研究室だったんだけど、そのときに渡辺要さん[1902-1971]が「きみは星野・池辺研志望のなんだろ」というから「そうです」といった。渡辺さんは生研(生産技術研究所)の原論(建築計画原論)の先生で北大にもときどき来ていたから顔は知っていて、渡辺さんが「きみ池辺さん知っているか」と言うから「存じ上げません」と言ったら「すぐそこにいるよ」と(池辺さんの方を)指さすから「お願いします」と言って、池辺さんに頭を下げた。

Ts:そのときがはじめての対面だったと。

佐々木:そう。事前の挨拶は苦手で。

A:戦後すぐの東京や大阪では、新日本建築家集団(NAU)などの熱心な民主化の言論の状況があったわけですが、札幌はどうでしたか。

佐々木:まったくない。誰かが持っていっちゃったかもしれないけれど、前川國男[1905-1986]の紀伊国屋の作品集(『前川國男建築事務所作品集 第1輯 商店建築』工学図書出版社、1947年)すら、北大にはなかった。

S:池辺さんはNAUで中心的に活動されていたわけですけれども……

佐々木:私が入った頃はもうやっていない。昭和30年頃は参議院議員の志賀義雄[1901-1989]がだめになってから、インテリの共産党員がぜんぶだめになった。ついでにいうと、私がなぜ池辺研を辞めたかというとやっぱり60年安保。いくら誘っても池辺さんは(デモに)いかなかった。ところが言って見ると学生の一番後ろに丹下さんが、背広が埃だらけになりながら歩いていた。

Ts:有名なお話ですね。

佐々木:それを見て愕然として、メニエル氏病を理由にしばらく休学しますと言って池辺研に行かなくなった。それで建築学科の事務室で店舗設計のアルバイトがあるというので行ってみると和菓子屋の設計の仕事で、話をつけて設計できた。現場も見て。竣工式のときにお祝いで人がきて「うちも頼みます」といって何件かやった(設計した)。そうして黙って飛び出したから私はもうドクター・コース(博士課程)の単位も貰えないのではないかと思っていたけど、あとになって学位論文を出したときに成績表を事務室に貰いにいったら、全部「優」だった。池辺さんがくれていた。ついでに言うと、ドクター・コースにいた頃、池辺さんから論文のテーマも貰っていたんだよ。許容差、アローワンス、つまり目地のことをやれというのだけど、私はすこしかじってこれはだめだなと思った。これで論文を書いても誰も読んでくれないと思ったから。

Ta:大学院に入られたのが1955年で、出られたのはいつ頃ですか。

佐々木:修士コース(課程)の2年はちゃんととっていて、3年で出るはずなのが5年かかっているんじゃないかな。授業料は払っていて、育英会から資金をもらっていたんだけど、もう結婚していて子どももできていたので本当に育英資金だった。

一同:

佐々木:就職もしないのにそういう大胆なことを私はしてきている。

Ts:奥様との馴れ初めは。

佐々木:ワックスマン・ゼミが終わって、皆で懇親会を兼ねて見学旅行をしようということで、模型を手伝ってくれた日本女子大の生徒とかも呼んだほうがいいと磯崎(新)が言うんで、皆で出かけたときに(後のパートナーは)模型を手伝いに来なかったけど(手伝いに)来た人に誘われて来た。うちの家内はそのころ日本女子大の寮にいて。それで一緒に丹下さんの印刷工場(《図書印刷原町工場》1955年)の見学にいった。そのときに屋根の上まで上ったんだよね。そうしたら屋根がベッコベコに膨れ上がっていてね。浅田孝さんが案内してくれた。浅田さんに「膨れたところは踏むなよ」と言われた。防水が破れるからね。工場の蒸気がこもって膨れていたらしい。

Ts:それは1955年の冬ですか。それとも明けて1956年頃ですか。

佐々木:明けているんじゃない? 56年頃じゃないの。

Ts:冬頃ですか。

佐々木:うん。その帰りにかわいこちゃんがいるから一応、声をかけて名刺を出したのかな。どこにいると聞いてきたから池辺研にいると言ったら、卒業論文を書きたいから相談にのってもらいたいと。私はできないから「池辺さんに言ってみる」といって池辺さんに紹介をした。池辺さんの出したテーマは、明治以降の小説のなかでの住宅に関する記事をピックアップして集めること。それで何回かやりとりをして知り合いになったからデートに誘ったの。その頃、千葉県建築士会の雑誌にコンクリートのことを書いて何万円かもらったんだよ(佐々木宏「鉄筋コンクリートと建築のデザインについて」『千葉建築士』1958年1月号)。それがあったからデートに誘って銀座で飯を食って、そのときにプロポーズをした。

Ts:はやいですね。

佐々木:早いよ。卒業する前にプロポーズして。家内の就職先は知り合いの手蔓で浜口ミホさんのところ。住まいは今の歌舞伎の市村羽左衛門だったかの家の、家庭教師兼下宿。

Ts:場所はどのあたりですか。

佐々木:青山。浜口さんのところの事務所のすぐ近く。

Ts:佐々木先生はどのあたりにお住まいだったんですか。

佐々木:千葉の我孫子にいた。東北大学を出て就職をしていた兄が、姉のうちの横に小屋を増築して、そこで2段ベッドにして(住んでいた)。

Ts:大学院に上京されてからは千葉にお住まいだった。

佐々木:4年間くらい。結婚するまでは。

Ts:結婚されて、奥様と一緒に住むことになったのですか。

佐々木:そのころ北大を出て住宅公団にいった友人が、谷口(吉郎)さんが設計した《乗泉寺》のすぐそばのうぐいす団地が分譲で売りに出すから、それ(に住んだら)どうかと情報を教えてくれた。それで調べたら、4分の1が頭金でよいといわれた。それで家内に相談したら、父親に立て替えてもらうからそこに住もうといって、最初から新築の2DKに住んだ。あとで返したけどね。

O:池辺研にいらしたとき、池辺さんがシリーズでずっと住宅を設計しているじゃないですか。あれに佐々木先生は関わられていたんですか。

佐々木:私は2件か3件しかやっていない。なぜかというと(池辺さんは)よそからきた言うことを聞く女子に図面を担当させて、私はやっぱり歯向かうほうだから、やらせたくないわけだよ。そのかわりにひどいのをやらされた。コンクリート・ブロック造の家は構造計算も全部やってるし、あとは所沢にある2階建ての診療所の病室も。プランは真四角だけど、私は構造計算もできるんだ。学会(日本建築学会)が出した鉄筋コンクリートの構造基準についての簡単な本を参考にした。それから世田谷の共産党の議員の2階建ての鉄筋コンクリートの家も私がやった。そういうややこしいの(仕事)は私のところにきた。

Ic:それは先ほどの池辺研を休んで店舗設計をされていた頃の後ですか、前ですか。

佐々木:同時にやっていたこともある。お店の人には「まだ学生だから、うちにも事務所にも電話をもらっちゃ困る、こっちから連絡をする」というと、みんなオーケー。安くやってもらえるんだから御の字だった。

Ic:そのときに新築の店舗はやっていたんですか。

佐々木:全部改装。

Ic:佐々木さんが池辺さんに関する講演をされたものを読んだのですが……。

佐々木:あれは建築家協会と名古屋の瓦屋(野安製瓦株式会社)が主催した講演会。あれは貴重でね、単行本(『素顔の大建築家たち 02』建築資料研究社、2001年)になっているけど、後半が編集者に切られているからもとのほうがいい。池辺さんのスペース・スタディにはネタがあるとか、そういう肝心なことを暴いたんだ。

Ic:そこではGMモデュールについて詳しく述べられましたね。

佐々木:池辺さんは丈三の材木をどう使うかということからモデュールの研究をはじめたらしい。私が入るより前に池辺さんが学会で嶺岸泰夫とかと一緒に何編か発表しているはず。丈三というのは昔の寸法で13尺、4メートルに近い長さのことで、これは海軍の規格寸法。池辺さんは戦前の人だからそれを知っていたわけ。それで私が入ったとき、これからは(電子)計算機が普及したら二進法の世界になるという話を池辺さんにしたら、ガマモデュール★5の話を出してきて、たしか岩波の『数について』(デーデキント著、河野伊三郎訳、岩波書店、邦訳1961年)という本に二進法のことが書いてあると私が教えたら、池辺さんに「貸してくれ」と言われた。そしたらぜんぶ赤線が引かれていてボロボロになって戻ってきた。

O:池辺さんは岩波から『すまい』を出しましたけど、作品集が出ないという話を前にしましたね。

佐々木:聞きたいの? あまりいいたくないんだけど……。

O:そこをひとつ。

佐々木:池辺さんが『モダンリビング』(婦人画報社)の特集をいっぱいやって、あまりにも婦人画報社にとりいりすぎていた。そのときの担当だった渡辺曙が池辺さんに著作集、全集、それから作品集も出しましょうといってきた。(池辺さんはその人を)根っから信用していた。その人が婦人画報社の建て替えのときに、業者の選定で余計な口出しをして、業者とよからぬ関係を持っているんじゃないかってクビになっちゃった。それで池辺さんの計画が全部パアになっちゃった。それまで他の出版社も、池辺さんはもう婦人画報社に決めているんだろうと思ってもう誰も(作品集を出す)話をもちかけない。その事件があるから池辺さんの死後、奥さんが何か記念に残したいというから、「池辺さんの著作集を出したらどうですか」と言ったら奥さんに「本はいけません」と言われた。だめになったことを知っているから。それからもう、私もその話には絶対にのらない。

Ts:渡辺さんがお辞めになったのはいつ頃ですか。

佐々木:知らない★6。何度か中原暢子[1929-2008]らに渡辺曙を囲む会に久々に来ないかといわれたことがあるけど、私は池辺さんとのからみ(関係)があるから絶対にいかなかった。

海外の建築に関する言説を受容することについて

Ts:修士論文のお話を聞いてもよいですか。

佐々木:機能主義についてだった(佐々木宏「機能主義建築について」東京大学修士論文、1957年3月)。

Ts:そのテーマを選ばれた理由は。

佐々木:当時は、日本の戦後の建築界は機能主義が大きなテーマだったわけで、私もそれにのせられたみたいなものだよ。その頃、デ・ザーコ[Edward Robert De Zurko]の新しい本(Origins of Functionalist Theory, New York: Columbia University Press, 1957)が手に入って、ファンクショナリズムの源流まで辿れるようになっていたというのを読んでいた。浜口さんだってそういうのは読んでいないから、それで書いたわけだけど、製本が間に合わずにバラで出した。そしたら審査会のときに池辺さんではなくて浜口さんが持っていった。浜口さんが持って帰った。浜口さんがそれをどうしたかは知らない。

Ts:ということは修士課程のとき、池辺先生のほかに浜口隆一さんにもお世話になっていたということですか。

佐々木:いや、お世話なんて、池辺さんに出した(提出した)つもりなんだけど、池辺さんが出席できないから浜口さんに頼むという話。その頃(東京大学生産技術研究所が)東京でなくて西千葉だったから、行くのが大変だった。

Ts:先生が修士課程の大学院生だった頃、主に『新建築』や『建築文化』のような商業誌でいろいろな論争がありましたよね。機能主義に関しても、たとえば平良敬一[1926-]さんが論考を書いていたのですが(平良敬一「機能主義を超えるもの:ハンガリーの建築論争から学ぶ」『美術批評』1954年3月号など)、それらについて先生は当時、どのようにご覧になっていたのですか。

佐々木:私がその反論やまとめみたいなものを『新建築』に2回書いているでしょ(『新建築』1966年11月号に「機能主義建築論Ⅰ」が、『新建築』1966年12月号に「機能主義建築論Ⅱ」がそれぞれ掲載)。あの論文を超えたものは今のところ日本にはないんじゃない、と私は自負しているよ。それをまとめた本が出ないのは『現代建築の条件』(彰国社、1973年)で失敗しているから。あれは私の評論のエッセンスなんだけどまったく売れなかった。写真が1枚もないの。

Ts:修士課程のご卒業が1957年ですが、1957年は浜口隆一が東京大学の生産技術研究所を辞める年ですよね。

佐々木:ええ。その前の年だったか、池辺さんや浜口さんが西千葉の生産研に来ないからというので、彼らの先輩教授だった坪井善勝が「君たちはどうして教授会に出ないんだ」と責めたことがあった。それで池辺さんは九州大学に新しくできる建築学科の教員としてとばされそうになった。池辺さんはそれを挽回しようとしてモジュールの研究に熱心になったんだけど、その時に浜口さんは辞めさせられた(と聞いたことがある)。そのあとはたしか(1967年から)日大(日本大学)の教員になったと思うけど、そういう人事を坪井善勝がやっていた。ところが全然授業もしなくても許されていた教員が丹下健三。丹下さんは2年間で1回しか講義してない。

Ic:在学中に丹下さんとお話される機会はありましたか。

佐々木:丹下さんは(大学院)1年生のときの講義で、アテネ憲章の英語版のブループリントを配ったんだけど、どうも私が知っているエディションと違っていたから、講義後に丹下さんの部屋に聞きにいったら、丹下さんは『Can Our Cities Survive?(我々の都市は生き延びられるか)』という本を開いて、その後ろのアテネ憲章のページを見せてくれた。これはセルト[José Luis Sert, 1902-1983]がCIAMの会議の主旨を採りいれてアメリカで出した本で、そのセカンドエディションを丹下さんはアメリカで手に入れていた(初版は1942年、第2版は1944年)。私はその前から吉阪(隆正)さん[1917-1980]が訳したアテネ憲章(住宅研究所編『住宅研究』(3号、彰国社、1953年)に所収)を知っていて、それと内容が違っていたから丹下さんに質問したんだ。そのように私は質問する習慣があった。例えば太田博太郎が大学院の最初の講義で「今年は民家をやります」と言うから、手を挙げて「民家ってなんですか」と質問した。太田博太郎は立ち往生、そういう質問を私は平気でする。

A:佐々木さんの修士論文は(参考にした)デ・ザーコの本が出たのが1957年の正月なので、そこからだいぶ慌てて書かれたという感じですか。

佐々木:そういうこと。よく知っているね。清書も間に合わなくて手伝ってもらって、ノートもバラになっていて、そのバラを貸せといって持っていったのが小能林(宏城)[1935-79]。

A:それ以前から機能主義のことを総括するというテーマで準備をされていて、デ・ザーコの本が出たのですぐに入手されたんですね。その本について何か感想はお持ちになりましたか。

佐々木:いや、大分経ったあとにみると陳腐な理論だなと。やっぱりファンクショナリズムというのはひとつの流行だったんじゃないのかな。アメリカでもヨーロッパでも。「空間論」がそうなんだ。私たち日本人がドイツ語をやらなくなって、英語の空間という言葉があまりにも広い意味をもちすぎていて、いちばんだめなのは外部空間のことを言うときに、英語だと私たちが欲しがっているリアルな外部空間は出てこないということ。ドイツ語だとアウセンラウム(Außenraum)といって、建物の外側にすこし距離をおいてくっついている部分が外部空間なんだけど、日本では英語のアウター・スペース(Outer Space)を外部として使うでしょ。それだと広範囲のすべてが外部空間になってしまうから、適切な言葉ではないんだ。ドイツは哲学が盛んな国だけあってそのあたりのところを区別している。私たちがワックスマン・ゼミで一番ショックを受けたのは「建築のつくり方がいくつあるか」とワックスマンに聞かれて、日本人が答えたものが全部否定されたこと。コンクリートでつくるとか木でつくるとかいっても全部だめ。ワックスマンにいわせると3つしかなくて、カッティング、フォーミング、アディングの3種類の組み合わせで全部建築はできると、何もかもを議論したあとにそう言った。参ったと思ったね。抽象的な思考に日本人というのは慣れていない。ドイツ人というのはすごい。世界の建築にはカッティングだけで、つまり削り取るだけでできた建築が多くある。エチオピアのラリベラの教会、インドの石窟寺院、フランスのボルドーの近くの地下教会(サン・テミリオンのモノリス教会)教会。そうした一体型の建築を我々は知らなさすぎたし、建築家たちの建築論のなかにも出てこなかった。だから「建築史」という歴史の学問に私は今でもずっと疑問を持っています。たとえば東京大学の稲垣栄三[1926-2001]が書いた『日本の近代建築―その成立過程』(丸善、1959年)。

Ic:稲垣さんのお話が出たのでついでにお聞きしたいのですけど、建築史学会の入会を稲垣さんから直々に拒否されたという話(佐々木宏『どうやって近代建築を学んできたか』私家版、2012年)をしておられましたが、そのことについてまた覚えていることがあればお話ください。

佐々木:建築史か何かの本か雑誌かを出すので、会があると誰かが言うから会費を出して、第1回の集まりの案内をもらって行った。そしたら稲垣さんに外に連れだされて、これは建築好きだけど論文を発表できない人たちの集まりのための雑誌だから、君みたいに商業雑誌にいっぱい書いている人には入ってもらっては困るという話。

Ts:ワックスマン・ゼミが佐々木先生にとってすごく大きな出来事だったということが今日のお話で伝わってくるのですが、もうすこしあとになると国際建築学生会議が出てきますよね。

佐々木:国際建築学生会議はワックスマン・ゼミよりも前。最初の日本代表は日大の北野(幾造)君という長野の北野建設の社長の息子が手を挙げて、二度目は黒川紀章[1934-2007]が行った★7。

Ts:国際建築学生会議に先生が関わられていたことは?

佐々木:ぜんぜんない。だって声なんてかからないんだから。北大になんてそんなこと言ってくるのは誰もいないし、情報通の先生もいない。

Ta: 小能林(宏城)さんは建築学生会議に関わられていたんですよね。

佐々木:そうなの? よく知らない。

Ts:ご卒業される1957年だと、太田邦夫さん[1935-]や原広司さん[1936-]が、国際建築学生会議に関わられていて雑誌をつくられていたとのですが。

佐々木:代表で行ったなんて聞いたことはない。

Ts:代表では行かなくても活動としてはみなさんでやっていて、『核』という雑誌があるんです。

佐々木:へえ。私はわりとはやくに『国際建築』に関係していて、若い連中をどんどん紹介して入れたんだ。いちばんよい例は池辺研に(自分よりも)後で入ってきた小能林宏城と山田弘康[1936-]の2人を誘った。まずメタボリズムの論文で、帝国ホテルとサヴォイ邸(サヴォア邸)がどう残るのかというのを2回くらい書いたのかな(佐々木宏、小能林宏城、山田弘康「建築の新陳代謝1:サヴォイ邸と帝国ホテルの荒廃」『国際建築』1959年11月号)。その2回のほかに、今思うと恥ずかしいけど《オーガニックシティ》という六角形のグリッドで高層ビルを建てる案を出して、それも『国際建築』に載ったかな(佐々木宏、小能林宏城、山田弘康「有機的都市」『国際建築』1959年7月号)。それが『カサベラ』(1963年3月号)にも載っている。そのときに私もすこしずつ世に出ていて、山田君や小能林君たちも世に出したいと思っていた。太田君や原君なんかも『国際建築』(の編集部)に連れていった。若い連中を育てようと思った。

Ts:クセナキス[Iannis Xenakis, 1922-1922]が来日したときの座談会もありますね(秋山邦晴、木村俊彦、栗田勇、佐々木宏、原広司、堀川正也「私の建築思想:来日したイアニス・クセナキスにきく」『建築』1961年6月号)。

佐々木:あれには原君が入っていたよ。

Ts:そうですね、秋山邦晴さん[1929-1996]も。あのときは編集者側にいた人は植田実さん[1935-]ですか。

佐々木:植田実がいたね。

Ts:細かいことで聞きたかったことがあるのですが、MoMAで行なわれた「ヴィジョナリー・アーキテクチャー」展(1960年)が1963年に東京に巡回してきたときに、『国際建築』(1963年11月号)で「建築のヴィジョン」という大きな特集が組まれています。先生も書いていた(アントニオ・)サンテリアなども取り上げられた展覧会で、『国際建築』の特集には先生のペンネームである中真己(なかまさき)の文章も載っています。これについておぼえておられることはありますか。

佐々木:あの頃、藤森健次[1911-1993]が訳して彰国社から出たヴィジョナリー・アーキテクチャーの単行本(『幻想の建築:近代におけるユートピア建築とその計画』 ウルリヒ・コンラーツ、ハンス・G・シュペルリヒ著、彰国社、原著1960年、邦訳1966年)の下訳をやったのかな。ずいぶん藤森さんを手伝っていて、『スカンジナビアデザイン』(エリック・ザーレ著、藤森健次訳、彰国社、邦訳1964年)の下訳もやっている。先輩の下訳をやって、すこしずつ取り立てられてもらった。

Ts:「ヴィジョナリー・アーキテクチャー」展の話に戻るのですが、この展覧会を企画したのがアーサー・ドレクスラー[Arthur Drexler, 1925-1987]という人で……。

佐々木:知ってる。

Ts:先生はアーサー・ドレクスラーに関して研究されていて、『「インターナショナル・スタイル」の研究』(相模書房、1995年)を執筆するときに先生はニューヨーク近代美術館で調査していますよね。この当時(「ヴィジョナリー・アーキテクチャー」展が東京に巡回したとき)に、MoMAの建築デザイン部にいた人で交流された方はいましたか。

佐々木:いや、ない。

Ts:ずいぶんあとの話ですか、キュレーターとの交流は。

佐々木:ぜんぜんない。外国の建築家や評論家で交流したのは、黒川(紀章)に誘われてさ……誰だっけ、SD選書でコルビュジエの本を訳したやつ(『ル・コルビュジエ』チャールズ・ジェンクス著、佐々木宏訳、鹿島出版会、邦訳1978年)。彼に黒川の話をしろと言われて(話を)したんだけど、あんまりないんだよ。喋る方は苦手だから。

A:ジェンクスですか。

佐々木:そう、チャールズ・ジェンクス[Charles Jencks, 1939-]。それからホライン[Hans Hollein, 1934-2014]ともなんべんか会ったことがある。

Ts:なるほど。直接的に海外の建築家や建築に関わる人たちと交流する機会は、それほど多くはなかったということですか。

佐々木:あと、交流したのはデンマークのヘニング・ラーセン[Henning Larsen, 1925-2013]とか、フィンランドのレイマ・ピエティラ[Reima Pietila, 1923-1993]。ピエティラの家まで行った。ピエティラが死んでから奥さんが来て、フィンランド大使館に呼び出された。日本語版で作品集を出さないかと相談をうけた。日本で早稲田を出てピエティラ事務所に行った人が1人いるよ。

Ts:直接の交流がきっかけというよりも、雑誌に掲載された論文などを見て、その翻訳をしたり、ご自身の論を構築していったというお話になりますね。

佐々木:私の仕事で(海外で)いちばん反応があったのはチェルニホフ[Yakov Chernikhov, 1889-1951]の本(『Process Architecture:ヤコフ・チェルニホフと建築ファンタジー』26号、佐々木宏訳、プロセスアーキテクチュア、1981年)。なぜ大きかったかというと、私の文章をロシア語に翻訳するとき、アメリカ大使館かどこかにいるロシア語ができる人に、(プロセスアーキテクチュアの社長である)室谷(文治)さんが頼んだんだ。私も室谷さんに言われて、私のとっておきの本を提供した。海賊版なんだよ。ロシアは著作権協会に入っていないから出せた(出版できた)の。この室谷さんというのはさっき言った旭川中学のスタルヒンと同級生で、ものすごい秀才。戦争中には舞鶴の海軍兵学校の教官だった。そこで同僚だったのが東京工大を出て同じく海軍兵学校の教官をしていた清家清[1918-2005]。新建築社が『a+u』をやるときに社長に室谷さんを連れてきたのはそういう経緯なの。清家さんの話は今はじめてしているけれど、清家さんは日本の建築界のものすごい黒幕なんだよ。知ってる?

『Process Architecture:ヤコフ・チェルニホフと建築ファンタジー』26号、佐々木宏訳、プロセスアーキテクチュア、1981年

H:ぜひ伺いたいです。

「新建築問題」以降 建築ジャーナリズムへ

佐々木:「新建築問題」のときに一号も欠巻が出なかったのは、清家さんが自分の教え子で鹿島建設にいた佐藤正巳を口説いて編集部に連れてきたから。それまでは『新建築』はゼネコンの仕事を嫌って載せなかったけど、それからはゼネコンの仕事も『新建築』に載るようになった。がらっと変わったんです。

Ic:「新建築問題」を当時、どう見ていましたか。

佐々木:編集者たちがみんなクビになったのは当然だと思った。作品の発表とその批評を同時に載せるということはありえないはず。それを川添(登)[1926-2015]たちは平気でやった。その何号か前にも、吉武(泰水)研の《八雲小学校》が載ったときに同時に「まるで鳥小屋のようだ」と書いた人がいる、建築構造の織本匠(筆名は鳳立夫)[1918-2001]。私は読者としてけしからんと思った。(北大から吉武研に進学した)太田利彦も、作品を載せるといいなから悪口も載せるなんてけしからんと★8。

H:作品の発表と同時に批評が載るというのは、事前に仕込みがあったように思えますね。

佐々木:卑怯すぎるよ。編集者としてのモラルが欠けている。

A:作品の発表と批評が同時に載ることの一番の問題は何でしょうか。

佐々木:批評が同時に載るのだったら発表しない人がずいぶんいるでしょう。

A:ジャーナリズムとしては何を載せるかは編集権の一部ですよね。設計者が嫌だとかいう問題が重要なのかどうか。

佐々木:批評と作品の発表が同時(に載る)ということはないよ。必ず時間差があるでしょ。芸能人のゴシップでもそうだよ。

H:本来は雑誌に載ったあと、それを見ていろんな人が意見を言うという環境でないとフェアじゃない、ということですよね。

佐々木:そうだよ。

A:建物はしかし、雑誌に発表されなくても世の中に実在しますよね。

佐々木:だから雑誌に発表したがらない建築家ってたくさんいるんじゃない。こと日本だとセキュリティの問題があるから発表されない大邸宅があるし、生産のための工場は企業秘密のため雑誌に載らないでしょ。まあ私らは逆に大邸宅を早くに載せて、一方では叩かれて一方では褒められたけど。《水野邸》(1963年)といって、敷地は500坪で、平屋で110坪の住宅。中庭が20坪。あれは『新建築』(1963年7月号)と『建築文化』(1963年7月号)の両方に出た。

Ta:当時、佐々木さんは編集者の方々との交流はけっこうありましたか。

佐々木:あったけど、交流というか私からではなく向こうからです。「新建築問題」のあと『新建築』に「住宅設計についてのメモ」という色紙の印刷の4ページの連載記事が2回か3回載ったんだけど(『新建築』1958年10月号、同11月号、同12月号に連続で掲載)、あれは佐藤正巳が私に書いてくれとアプローチしてきた。こっちからは売り込んでない。そもそもなぜ私が建築ジャーナリズム(商業誌)に載るようになったのかというと、やっぱり60年安保なんだよ。毎日デモで練り歩いていたわけ。流れ解散のあとに淡路町の『国際建築』(の編集部)に寄って、埃だらけになった顔を洗ったりしながら外国の雑誌を拾い読みしていると、田辺員人が「佐々木君、わるいけどこのコラム訳してくれないか」と言うから、辞書を片手にして訳して。

Ta:田辺さんとはそのときに知り合われたのですか?

佐々木:その前に田辺さんは学会のモデュール委員会の委員で、私は池辺さんのお供をしていて知り合いだった。それと安保で一番大事な知り合いになったのは水谷頴介[1935-1993]。彼はそのとき久米事務所にいて、安保に一緒に行った。彼はそのあと大阪市大の助手になって大阪に戻るんだけど、そのときに川名吉エ門[1915-1998]が何かをやるから手伝えといって、旅費と宿代を出すからといって、私の大阪通いが始まった。

H:川名吉エ門さんはどういう方ですか。

佐々木:川名吉エ門は東大の昭和16(1941)年の卒業で、はじめに鹿児島大学の先生。鹿児島高等工業が前身。そして大阪市大の先生になって、そのあとは都立大学(東京都立大学)の教授。

H:大阪市大に水谷さんを引っ張っていった方なのですね。

佐々木:そう。

Ic:修士を出られたあと『国際建築』『近代建築』『新建築』など、非常にたくさん書かれていますが、編集者からの執筆依頼に応じたということでしょうか。それとも書きたいことがあるから掲載してくださいという……

佐々木:掲載してくださいと頼んだものはそれほどないけど、ひとつだけ覚えているのは『近代建築』(1962年9月号)に書いたフーゴー・ヘーリンクについての論文(「フーゴー・ヘーリンクの再評価——近代建築の異端と正統」)のこと。『近代建築』の片桐(軍)という社長と親しくなってからのことで、長い論文なんだけど載ることは載ったの。だいぶあとになってから「あれは浜口さんに読んでもらった」と聞いて、やるなあと思ったね。人の論文を偉い先生にチェックさせるなんて。

Ic:当時のジャーナリズムのなかで、たとえば川添さん、平良さん、植田さんは自分で発言されているのでけっこう記録が残っているのですが、たとえば『近代建築』の片桐軍さんや『国際建築』の田辺員人さん[1926-]などは、あまりわれわれが読める記録が少ないのです。

佐々木:片桐さんは書かない。あの人はもともと牧師さんあがりの人で生臭坊主だから。

Ic:片桐さんの頃の『近代建築』(1960年11月号)でメタボリズムの特集号をやっていますが、関わりはありましたか。

佐々木:あのメタボリズムの特集をやったのは中村敏男と菊竹(清訓)。メタボリズムについては当時、誰がいちばん先に言い出したのかという論争があって、私は参加していないんだけど、最初の言い出しはどうやら私らしい。最初だという証明は田辺員人に送られて来たんだ。それを都市工学(科)を出て建築評論を書いている人が……誰だっけ、メタボリズムの本をこのあいだ出した……。

Ic:八束はじめさん[1948-]。

佐々木:八束はじめが、その本のなかで「メタボリズム」といいだしたのは菊竹清訓だと書いたわけ★9。それで田辺員人が怒っている★10。

S:佐々木さんが書かれたメタボリズムの論文の主旨についてお聞かせください。

佐々木:それは新陳代謝よ。そっくり。あの頃は帝国ホテルもサヴォア邸も壊すかという話があって、私は、建築は新陳代謝をするのはやむをえないと書いた。

Ic:それは『国際建築』(1959年11月)に発表されている「サヴォイ邸と帝国ホテルの荒廃」という論文で書かれているということですか

佐々木:そう★11。そのときは小能林(宏城)や山田(弘康)といっしょにやっていた。

Ts:グループ名はあるんですか。

佐々木:ない。そのあとメタボリズムと名乗ったのは菊竹。菊竹はあとで私に、君の論文から名前をかりてグループの名前にしたと言ったから。フィンランドにいったとき、菊竹が借りたサウナを私らも利用させてもらったくらい親しかった。だからメタボリズム(という名前の初出)に関する論争にも、私は口出ししないようにしている。

Ta:田辺員人さんは佐々木先生とかなり親しかったんですか。

佐々木:親しいどころじゃないよ。彼からは何件も住宅だとか知り合いの家なんかを紹介されて設計しているから。あの人、家政学院(東京家政学院大学)の退官記念講演で「建築評論を書いている佐々木宏を育てたのは私だ」と皆の前で言ったそうだよ。

Ta:それは仕事をたくさん紹介したことと、書く場所を提供されたという意味でですか。

佐々木:うん。わずかしか原稿料はもらっていないけれど。

Ta:原稿料をもらわないで書かれていたことはかなりたくさんあるのですか。

佐々木:ものすごく多いよ。『建築』なんかほとんどくれていない。だから最後になって、神代雄一郎[1922-2000]に言われたから、私は東光堂の請求書をまわすことにした。

Ta:タダで原稿を書くなと(神代さんに言われたということ)ですか。

佐々木:違うよ。おれたちの仕事を妨害するなと。面と向かっていわれた。タダで原稿を書くのはけしからんと。

Ta:ペンネームを使われたのもそれと関係するんですか?

佐々木:あんまり華々しくしたくないということもあるけれど、それは田辺員人に言われたんだ。人間はシャイでないといけないと。「俺が俺が」と天狗になっている奴にろくなやつはいないと。

Ts:同じ号のなかで佐々木宏と中真己の両方の名前で論文を掲載しているものもありますが、こうした場合はどのような意図で違う名前にしているんですか。

佐々木:西山夘三のまねで、戦後すぐの『新建築』でペンネームと実名の両方を使っていたのを知っていたから★12。

Ts:先生は中真己の名義で「丹下健三序論」(『建築』1963年1月号から1965年12月号にかけて連載。後に中真己『現代建築家の思想:丹下健三序論』近代建築社、1970年として出版)の執筆を始めるわけですが、これはどういった経緯で始まったのですか。

佐々木:名前の由来は『佐々木宏書誌目録:1952-2001』(佐々木宏先生書誌目録刊行委員会、2002年)にも書いてあるけど、下から逆に読めばよいよ。

Ts:田辺員人さんは丹下健三研究室の出身ですよね。「丹下健三序論」も田辺さんとの共同で……。

佐々木:初版と新装版で内容が違うんだよ(『現代建築家の思想:丹下健三序論』の初版は1970年、新装版は1983年に出版)。第一章の広島に行ったあたり、田辺員人がいちゃもんをつけてきて「おれが言ったのと違うじゃないか」と言うから削ったの。だからこっち(新装版)の方がいいんじゃない? 田辺がそう言うんだから。だってこれ、私ひとりで書いたんじゃないんだよ。大勢でね。田辺員人、稲田尚之[1927 -2003]、宮内嘉久[1926-]、西原清之[1930-]、鈴木一。この人たちがみんな資料を出してくれたんだ。

Ts:会合の場があって毎回、お書きになっていたということですか。

佐々木:喫茶店かレストランかどこかに集まって話をしていたんじゃない? 雑誌が出たら、それを送った人もいるし、コピーを送った人もいて。(それに対して)返事をくれるわけだよ、これをどうぞと。

Ts:じゃあ、そういう方々と一緒に。

佐々木:うん。自分たち(の名義で)は書きたくなかったんじゃない?

Ts:佐々木宏イコール中真己ではなくて、佐々木宏ニアリーイコール中真己ということなんですか。

佐々木:そういうことなんじゃない?

Ts:中真己という人物がどういう人たちだったのかということを、先生のまわりの方々はどこまで知っていたのでしょうか。

佐々木:だいぶ知っていたんじゃないか。ただ不思議なのは、日大(日本大学)の郡山の学生たちが教授の谷川(正己)君[1930-]に、佐々木宏か中真己を講演に呼んでほしいと言ったということはあった。別人だと思っているということだね。

Ta:中真己の名義を使われたのはいつ頃からですか。

佐々木:『佐々木宏書誌目録』を見たらいいよ★13。

Ta:その名前で書かれたものと、ご本人の名前で書かれる原稿の内容は区別しているんですか。

佐々木:いや、してない。きまぐれ。それ以外にも記号をいっぱい使っている。

Ta:そうですね。HRSとかMSKとか。

H:大学院にいた頃、他の東大の先生方の思い出はありますか。

佐々木:岸田日出刀(の講義)は1回だけ顔を出した気がするけど、面白くなかったから(講義に出るのを)中止した。面白いのは星野昌一[1908-1991]。昭和6(1931)年卒で、学生のときに2年連続で社交ダンスの日本一になった人で、奥さんはダンサーあがりの美人。星野さんの卒業ゼミも星野邸の隣のダンス練習場でやっていて、現役のときにみんな行きたがって大変なものだったといいます。私も話を聞きに行きました。戦争中に学位とっているんだけど、迷彩について書いている。

A:防空建築論ですよね。

佐々木:そう。戦後には建築意匠の本を出してね。授業では千葉県庁や三軒茶屋の自衛隊病院とか、自分が設計したのを見せてくれていた。いっぱい仕事していて『近代建築』の片桐(軍)さんとも親しく、作品集を出すとか出さないとか言っていた。関野克先生[1909-2001]は部屋が池辺さんの隣。村松貞次郎[1924-1997]とは仲良くなったけど、(関野先生は)ほとんど東大の本郷にはこないし生研にもこない。なぜなら関野先生は文化庁の国際的な、今でいう世界遺産を決めたりする仕事の日本代表だから。この人の何がすごいかというと、目の前で辞書なんか見ないで英語の推薦状をすらっと書ける。田辺員人の友人の牧谷(孝則)君[1935-]が関野さんと一緒にヨーロッパに日本代表で行くときに、関野さんが英文でその案内状を目の前で書いた。高山英華[1910-1999]の仕事で忘れてならないのは、同潤会か住宅営団かのどっちかで、世界の住宅のプランニングだけを集めた厚い2冊の図案集を編集したこと(『外国に於ける住宅敷地割類例集』(同潤会、1936年)および『外国に於ける住宅敷地割類例続集』(同潤会、1938年))。それを私は欲しくて、大阪市大の川名吉エ門の研究室に原書があったから皆で海賊版をつくった。松下清夫[1910-2003]は内田(祥三)さん[1885-1972]の娘婿で、ローマ五輪ヨットでいった山田水城[1929-2008](法政大学教授、《江の島ヨットハーバークラブハウス》を谷口吉郎と共同設計など)の先生でもある。吉武(泰水)さん[1916-2003]はボス。なぜなら吉武さんのところは皆、毛並みがよい学生を集めていて、鈴木成文[1927-2010]はフランス文学者の息子だし、北大から来た私の一年上の太田利彦も日銀の副総裁の息子。吉武研はみんなそう。4人の娘がみんな習い事をやっていて、その発表会の切符は全部、研究室の学生が売る。

A:そのへんもマメにこなさなければいけないと。実際に娘さんと結婚された方もいらっしゃいますよね。

佐々木:娘婿になって筑波大学の教授になったりしたのはいるね。勝田高司[1916-2010]は大蔵大臣の御曹司。品のある人でね、青山の焼け残った家の増改築を池辺研の時代に私が担当したから、よく知っている。池辺さんと組んでサッシの漏水の実験をやっていて、研究費をもってくる名人だった。それから梅村魁はね、構造力学の本を出したっきりで建物の設計は何もやってない、でも頭のいい人だった。あの構造力学はものすごく難しかった。この人は戦前の日本史の権威だった東大教授の中村孝也って人の娘婿。池辺(陽)さんもいいとこの坊ちゃんで、父(池辺稲生)は小田急電鉄の創始者。大分県の出身者がつくったの。その前は明治時代に内務省の土木を出て、朝鮮(半島)の港湾なんかをずいぶんやった。

Ic:太田博太郎先生の授業が民家だったというお話がありましたが、1950年代後半以降、アカデミズムでもジャーナリズムでも民家研究、民家論が盛り上がっていましたよね。そういうものに対して佐々木先生はご関心はなかったのですか。

佐々木:かなり民家の本は読んで実際に見に行ってたりもしたけど、やっぱり参考にならないというか、青臭いんだ。浜口さんが大学院の講義で民家の写真集(『民家の造形』彰国社、1958年)を出した西川驍を連れてきたことがあるんだけど、その人が民家のディテールについて説明するとき、圧倒的に池辺さんの話が多い。池辺さんは京都のお兄さんのうちに転がり込んで、京都中の古建築を靴を何足も履き潰すくらい歩いて見て回ったという。たとえば修学院離宮の中御茶屋の襖の下桟が横にのびているなんて話は、池辺さんから聞くまで誰からも聞いたことがなかった。それに秋田の民家の屋根は勾配の下がっているほうの出が小さくて、妻の出ほうが長いといったことも知っていた。ディテールの鋭い観察は、池辺さんの足元に及ばないと思った。

Ic:北海道大学の時代には建築史の講義に関してかなりご不満があったようですが、東大の建築史はどうでしたか。

佐々木:太田(博太郎)さんは京都の民家や奈良の町並みの話はしていたけど、建築物そのもののディテールの話をしなかった。面白かったのはむしろ藤島亥治郎[1899-2002]。ヨーロッパをまわったときにどこかの国際会議でベルラーヘをみかけたという話をしたり、明治の浮世絵画の小林清親[1847-1915]の浮世絵を一枚一枚もってきて、国立銀行から何から明治時代の建築の話をしてくれて、写真よりもこういうもののほうが役に立つんだと言っていたのを覚えている。

60年代以降 渡航と設計活動

Ta:『近代建築の目撃者』(佐々木宏編、新建築社、1977年)でも藤島さんにお話を聞かれていますよね。『近代建築の目撃者』では海外に行った方々の話もたくさん聞かれていますが、行かれた方よりも佐々木先生のほうがだいぶ詳しく話されている印象を受けます。

佐々木宏編『近代建築の目撃者』新建築社、1977年

佐々木:実はアメリカにはそのとき行っていなくて、知ったふりして話をしているんだ。さっきから私はアメリカの話はしていないんだ。

Ta:アメリカについての話をぜひ。

佐々木:アメリカの建築はちょっと日本とは違うんだ。アリゾナのフェニックスで(フランク・ロイド・)ライトのカラー・パースの展覧会をやるという記事を読んで、ツーソンという街に息子が留学しているから連絡をとって家内と行ったんだけど、何千機も飛行機が野ざらしになっている飛行機の墓場にはびっくりした。ライトの展覧会の翌日はタリアセン・ウェストを見に行って、グランド・キャニオンにも息子が連れていってくれた。

Ta:最初にアメリカに行かれたのはいつ頃ですか。

佐々木:いつだったかな……アメリカに4回か5回くらい行っているから。

Ic:60年代にはヨーロッパに行かれていましたよね。そのときはどのようなルートで?

佐々木:いちばん最初に行ったときは、横浜からナホトカまで船で行って、ナホトカからハバロフスクまでロシアの列車で寝台車。そこから飛行機でモスクワまで行って、モスクワからヘルシンキまでは列車を使った。途中下車したいと思ったのがヴィープリという町で、アアルト[Alvar Aalto, 1898-1976]の図書館が今どうなっているか見たいと思った。そこにあるヴィープリ駅は父親のほうのサーリネン[Eliel Saarinen, 1873-1950]の設計だけど、あんまりいい建築ではないね。

Ic:そのあとは?

佐々木:ヘルシンキに行ったけど2、3回、アアルトの《パイミオのサナトリウム》に行ったことは自慢できると思う。普通は見学できないけど、藤森健次の紹介状で許された。最初のときは中まで見ることができた。階段も床も全部まっ黄色で驚いた。発表も何もしていないけど、だいぶあとで『プロセスアーキテクチュア』のフィンランド特集のときに、その写真を私が提供したけどね。

S:最初に北欧にいかれたのはいつ頃ですか。

佐々木:最初にいったのは昭和39(1964)年、その次が41(1966)年だったかな。(2度目のほうは)ユヴァスキュラでユネスコの会議があって、藤森(健次)さんが私を勝手に推薦して、金がないのに。みんな集めてくれて助かった。

Ta:最初のご旅行の方は私費ですか。

佐々木:大塚末子[1902-1998]のテキスタイルのデザインスクール(大塚テキスタイルデザイン専門学校)の費用だよ。デザイナーの藤森健次が生徒を40人近く連れていくはずだったのが、急用でいけなくなったということで、その代わり。

Ta:引率ということですか。

佐々木:引率は旅行会社の添乗員もするけど、私は説明役。デザイン会社についての資料をぜんぶ藤森さんから借りて前もって調べた。

S:1964年ですよね。その頃にデザイン学校で、生徒と一緒に海外を視察するのはけっこう特別な気がします。

佐々木:そうだよ。藤森さんのせいなんだ。

Ta:藤森健次さんとはどうやってお知り合いになられてるんですか。

佐々木:(北欧で)藤森さんが買って来たいろんな小物の展示会があるというので、見にいって名乗り知り合いになって、そのあと『国際建築』の編集部でまた会った。そこで細かい記事を手伝えと言われて、はやくからただ働きの原稿を書いていました。

O:先生は事務所を経営しつつ執筆も行なわれていたとのことですが、所員だった方に聞くと事務所でも家でも書いたことがないといいます。どこで書いてらっしゃったんですか?

佐々木:喫茶店で書いた。メモはとっているけどね。富士通がコンピュータを売り出したときに、初期の大きなセットを買った。商売上、富士通の仕事をしてたから。それでワープロ(ワードプロセッサー)を使おうと思ってやってみたらもの凄く時間がかかって文章を書くどころじゃなかったから、それっきりコンピュータのセットはお蔵入りになった。

Ta:建築設計者としての佐々木さんの活動について伺いたいのですが、まずスペース・コンサルタンツと佐々木宏建築研究室の2つは同時期にあったんですか?

佐々木:スペース・コンサルタンツをやったときは、佐々木研究室はない。「スペース・コンサルタンツ特集」というのを、確か『建築』(1966年5月号)でやっていたと思う。『敷地計画の技法』(ケヴィン・リンチ著、前野淳一郎、佐々木宏共訳、鹿島出版会、邦訳1966年)を一緒に訳した前野淳一郎[1926-]が所長で、私が実施設計する担当だった。田辺員人がいち早く九州芸工大に引っこ抜かれて行ってしまって、私が実施設計をするのを前野君があまり好まなかったんだ。それで昭和42(1967)年頃から私は辞めちゃった。やっぱり自分の事務所で設計したいから。

Ta:スペース・コンサルタンツは別で続いているんですね。

佐々木:続いているよ。私が出ていったの。

Ta:会社は一緒につくられたんですか。

佐々木:いっしょにつくった。

Ta:つくられたのは大学院を卒業されてあとですか。

佐々木:もちろん。

Ic:スペース・コンサルタンツという名前の「スペース」というのは、当時では早いですよね。

佐々木:鹿島の『SD(スペース・デザイン)』(1965年発刊)よりもスペース・コンサルタンツのほうができたのは先。命名したのは田辺員人。

Ta:田辺さんは社員だったのですか? 初期のころに名前が載っていましたよね。

佐々木:会社の一員だった。あの人は東大の建築の出身ということになっているけれど、本当は東大の新聞会に入り浸っていて、建築の学生のときに図面もださないから丹下さんのお情けで卒業させてもらって、就職先も『国際建築』に押し込んでもらった。恩義を感じた田辺さんは『国際建築』で丹下健三特集をやって、それがグロピウスの目にとまった。《広島計画》はすごいということでイギリスのホッデストンのCIAMの会合(1951年)に、丹下さんは新婚旅行を兼ねて行った。(恩義ということでいえば)私も市原の富士石油の独身寮の仕事で、家具を藤森健次に頼んでいるんだ。雑誌に出ているよ。外国に行かせてもらった恩義としてね。

Ta:スペース・コンサルタンツでのお仕事はだいたいどのようにとられてきたのですか。

佐々木:それはあまりいいたくないけど……、いちばん最初の《水野邸》(1963年)は兄の友達だった人の家。その父親が山下太郎[1889-1967]。富士石油の副社長をやったあとに、アラビア石油の会長になった人。それでアラビア石油や富士石油の社員の住宅をずいぶん頼まれた。それと家内の実家が四国の松山で医者をやっていて、その関係で《松山市成人病センター》も。あと発表はしてないけど東埼玉で大きな総合病院。これは法政大学の川口衞[1932-]の助手の陳祐成君という、麻布高校を出た人の友達の医者の病院だった。

Ts:ワックスマン・ゼミから続いて、おそらくスペース・コンサルタンツでも共同設計がテーマのひとつだったと思うのですが、そのことについて意識されていましたか。

佐々木:共同設計はしていない。私が基本設計から全部、ある程度一般図をつくる。あとは所員たちがそれを詳細図にすればいい。

Ta:基本的には佐々木先生の事務所で、あとのことはスタッフの人たちがやるということですよね。

佐々木:そう。図面描きはいても建築家がいない。だから対等の共同設計というのは、やったことがない。

Ta:作品の名前に、というか、発表されるときに田辺さんの名前がはいっているのは、一緒に設計しているわけではないということですか。

佐々木:仕事をもってきたときには名前は書く。

Ic:役割分担が明確にあるということですね。アドバンテストの仕事についてはどうですか。

佐々木:アドバンテストは富士通の子会社で、半導体のテスターでは日本一の企業。仙台などにラボラトリーがあるけど、いちばん大きいのは群馬県の組み立て工場。横幅が100メートル、長さ300メートルの工場を6ヶ月で(完成させた)。あまり自慢するわけじゃないけど、なぜこの仕事をこなせたのかというと、学生のときから貪欲に建築技術を身につけていたおかげ。大事なのは施主の予算にあわせることと工期を守ること。無理のない工期を着工前にきちんと読むこと。今はPCM(プロジェクトコストマネジメント)といってコンピュータでできるけれども、それを手書きのリストで私はできた。そういう実務のことについては原稿を書いたりするよりも熱心にやっていた。これまでなるべく表に出さないできたけど、今日ははっきりいいます。

Ic:スペース・コンサルタンツはセラミックブロックに注目したプロジェクトにも関わっていますが、どのような経緯があったのでしょうか。

佐々木:いちばん最初に『国際建築』(1963年5月号)で焼き物の特集をやるというので、私も参考に伊奈製陶の本拠がある常滑に見学に行ったんです。堀口捨己の設計した研究所を見て『近代建築』に批判的な記事を書いて木村徳国に睨まれたのもその頃。線路脇のケーブルを通すのに使われる電纜管を専門につくっている日本セラミックタイルブロック会社(日本タイルブロック製造株式会社)が新しい建材をつくるということで、東京工大の加藤六美[1911-2000]が顧問になって建設省にはたらきかけようとした。その試作を常滑で建てたときの意匠を私がやって、建設省からもオーケーが出て実際に建てられるようになったんだ。それで堀坂政太郎さんという通産省の人の吉祥寺の自宅をセラミックブロックでつくった。それから雑誌には載せていないけど、いちばん大規模が大きいのは北海道の小樽の銭函にあるアドバンテストの研究所で、鉄骨造だけど外側は全部、セラミックブロック。それよりも私がやった建物ではないけど、久米設計がやったニッカの仙台工場の方がセラミックブロックを派手に使っているんじゃないかな。

S:また執筆の方の話に戻るのですが、佐々木さんがそれまで建築史家が着目してこなかった海外の建築家に関心を寄せてきた理由についてお願いします。

佐々木:日本の大学は前の代から受け継ぐことが重くみられすぎていると思います。だからとつぜん新しいことをはじめようとしても、よってたかって叩かれる。だけど私は怖いもの知らずで北海道から東京にやってきて、いちばん先にサンテリアや(ジュゼッペ・)テラーニをとりあげたんです。それに賛同する支持者がすこしだけいたということも大事です。

S:つまり佐々木さんが、それまで知られていなかった建築家に着目した頃には、明治期以来の日本の建築史の認識に対する懐疑のようなものがあったということでしょうか。

佐々木:ずっともってきた。今でももっている。

S:最後に伺いたいのですが、60年安保の頃、大学にあまり出なくなったとのことでしたが、そこから建築ジャーナリズムの方(商業誌における執筆)に進出されていった頃の心境について何か覚えておられますか。

佐々木:それはよく思い出せない。もうそうとう前の話だしね……やっぱりひとつには、私はわりと怖いものしらずなところがあるわけです。だから『近代建築の目撃者』が出たとき「なんで佐々木はいろんな年寄りの建築家と会うんだ」とみんな批判してた。逆に若い連中がどうして年寄りのことを聞かないんだというのが私の意見。だから私のことを高く買ってくれたのは山口文象[1902-1978]で、RIAに来ないかとまで言ってくれた。あんな奴を入れたら大変だということで所員から猛反対されたらしい。山口さんは私もよくわからない人で、自己粉飾し過ぎたと思う。どうも眉唾なところが多くて。でも親しかったからあの人のプライバシーは暴きたくないんだ。

Ta:今日はたいへん長い時間、お話を続けていただき申し訳ございません。

A:話題がつきず私たちももっとお話を伺いたいのですが、また機会をあらためさせていただければと思います。ありがとうございました。(終わり)

1)1948年の仙台市公会堂コンペでは、斎藤福弥、浅田孝、太田実、大谷幸夫の連名による応募案が2等となった。

2)北海道では札幌と函館にCIEインフォメーション・センターが設置される。また旭川や千歳、釧路、帯広、小樽には分室が設置される。

3)坂根厳夫オーラル・ヒストリー、辻泰岳と井口壽乃によるインタヴュー、2016年3月30日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

4)朝日新聞社は一般的に、記者として入社した者をまずは地方の支局に配属させる。

5)GMモデュールのこと。GMモデュールはもともと池辺研究室では「ガマモデュール」と呼ばれていた。

6)渡辺曙は1951年に『モダンリビング』の創刊に加わり、1960年までその編集に携わる。

7)国際建築学生会議に日本がはじめて代表として参加したのは1954年のローマで開催された第2回大会であり、2回目に参加したのは1958年のレニングラードで開催された第5回大会だった。

8)《八雲小学校》は『新建築』(1956年2月号)にて発表された。設計者は仲威雄、鶴田明、吉武泰水、広瀬鎌二、内田祥哉ほか11名。また建築作品のページに続き、鳳立夫「ディテール以前の建築:八雲小学校に対する控え目な批判」が掲載されている。

9)八束との共著で吉松秀樹は、川添登に参加を呼びかけられた菊竹清訓がメタボリズムということばを辞書から見出し、川添、菊竹、黒川紀章の3者で同意しこれを名前として用いることを決定したと述べている。吉松秀樹「「メタボリズム」というコンセプト」八束はじめ、吉松秀樹『メタボリズム』INAX出版、1997年、28–30頁。

10)『国際建築』は1959年1月に菊竹清訓の「搭上都市」を、1959年2月に同じく菊竹の「海上都市」を掲載している。八束はじめ「新たな生活圏に向けて」『メタボリズム・ネクサス』オーム社、2011年、135–157頁。

11)この論文には題字として “METABOLISM OF ARCHITECTURE”という訳語があてられている。

12)西山は『新建築』第21巻第7号、1946年で、本人の名義による「世界的新日本建築文化創造の可能性」と、筆名である香川三郎の名義による「建築文化運動当面の課題」をそれぞれ発表した。

13)同書の目録によると、中真己による最初の論文は「プランニングメソッド — 住空間と決定するもの — 住宅設計方法論序説1」(『近代建築』1960年6月号)である。


佐々木宏
1931年北海道生まれ。1955年北海道大学工学部建築学科卒業(卒業論文「シェル―その構造と空間」)。同年、東京大学大学院(池辺陽研究室)に入学。1957年に修士課程を修了(修士論文「機能主義建築について」)。1962年同大学院博士課程単位取得退学。スペース・コンサルタンツ(前野淳一郎・田辺員人らと設立)を経て、1969年佐々木宏設計研究室開設。1964-2002年 法政大学工学部建築学科兼任講師(佐々木宏ゼミ主宰、講義「建築思潮」担当)。1997年東京大学大学院にて博士号取得(博士論文「「インターナショナル・スタイル」の研究」)。主な建築作品に「水野邸」(1963)、「志賀邸」(1964)他一連のセラミックブロック住宅、「目黒アパート」(1964)、「芳野病院」(1966)、「吉野内科医院」(1966)、「松山成人病センター」(1969)、「富士石油市原独身寮・社宅・ゲストハウス」(1969)、「稲城の家(自邸)」(1975)、「富士通須坂工場KL棟」(1979)、「タケダ理研工業群馬工場」(1983)、「アドバンテスト基礎研究所」(1987)他多数。主な著書に『現代建築家の思想:丹下健三序論』(1970、中真己名義)、『コミュニティ計画の系譜』(1971)、『現代建築の条件』(1973)、『二十世紀の建築家たちⅠ・Ⅱ』(1973,76)、『近代建築の目撃者』(1977)、『ル・コルビュジエ断章』(1981)、『いい家が設計できる秘密集』(1981)、『「インターナショナル・スタイル」の研究』(1995)、『巨匠への憧憬―ル・コルビュジエに魅せられた日本の建築家たち』(2000)、『知られざるル・コルビュジエを求めて』(2005)、『真相の近代建築』(2012)他。訳書多数。

種田元晴
種田建築研究所。法政大学、東洋大学、桜美林大学非常勤講師。近現代建築史、図学。1982年東京都生まれ。法政大学大学院博士課程修了後、東洋大学助手を経て現職。博士(工学)、一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。2017年日本建築学会奨励賞受賞。

市川紘司
東京藝術大学美術学部建築科教育研究助手。1985年東京都生まれ。中国近現代建築史。2013–15年中国政府奨学生(高級進修生)として清華大学建築学院に留学。東北大学大学院工学研究科都市建築学専攻博士後期課程修了。博士(工学)。編著書に『中国当代建築 — — 北京オリンピック、上海万博以後』など。

青井哲人
明治大学理工学部教授。建築史・建築論。1970年愛知県生まれ。京都大学博士課程中退後、神戸芸術工科大学、人間環境大学をへて現職。博士(工学)。主著(共著含む)に『植民地神社と帝国日本』『彰化一九〇六年‐市区改正が都市を動かす‐』『日本建築学会120年略史』ほか。

橋本純
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了、新建築社入社。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年株式会社新建築社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。新建築社時代の担当書籍に『現代建築の軌跡』『日本の建築空間』ほか。

佐藤美弥
埼玉県立文書館学芸員。日本近現代史。1979年秋田県生まれ。一橋大学大学院修了。博士(社会学)。一橋大学特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員をへて現職。著作に『近代日本の政党と社会』、『戦争と民衆―戦争体験を問い直す』(いずれも共著)ほか、担当展覧会に埼玉県立歴史と民俗の博物館企画展「埼玉の自由民権」ほか。

辻泰岳
建築史・美術史。1982年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。日本学術振興会特別研究員、コロンビア大学客員研究員などを経て現在、慶應義塾大学特任助教、芝浦工業大学非常勤講師。

建築討論

建築をめぐる幅広い批評的議論のプラットフォームを提供する日本建築学会のウェブマガジンです。

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。

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