佐藤信著『近代日本の統治と空間:私邸・別荘・庁舎』

「政治」から「空間」へ、「空間」から「政治」へ(評者:長谷川香)

長谷川香
建築討論
May 1, 2021

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「政治」という語を辞書でひくと、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象」とある(『広辞苑』第7版、岩波書店、2018年)。物理的な実態を伴わず、なんとも捉えどころのない抽象的な概念であるが、そのような人間による「営み」には、必ずその現場となる「空間」が存在する。本書を貫いているのは、「政治」と「空間」は一体的なものであり、「政治」は「空間」を抜きに語ることはできない、という徹底した姿勢である。筆者は、「空間」をエピソード的にしか扱ってこなかった従来の政治史研究に疑問を投げかけたうえで、政治と空間の一体的な顕れを「政治=空間」と表現し、その分析を通して新たな政治史の叙述を試みている。

佐藤信著『近代日本の統治と空間:私邸・別荘・庁舎』

本書で具体的に扱われるのは、明治初年の東京奠都から、国家統治の空間秩序が固定化される1930年代までの「政治=空間」の様態である。特徴的なのは、国家の統治に関わる「政治=空間」として、いわゆる公的な建築(庁舎)だけでなく、統治エリート(官僚や政党領袖、元老、財閥トップなど)の官邸や私邸、別荘といった一見私的な空間をも含めて分析対象とする点である。筆者が星々に喩えるように、そのような統治の空間にはひとつの不動な中心があるわけではなく、可動性のある複数の中心が存在し、それらの相互関係の中で空間秩序が創られていく。本書では、そのような空間秩序の変遷が、緻密な資料分析のもと明らかにされる。

例えば、明治20年代以降の統治エリートらの動向を追うと、彼らは東京や東京近郊、地方に複数の邸宅を持つことが多く、そこには「本邸(東京)−奥座敷(大磯)−地方」といったような目的別かつ階層的な秩序が存在し、なおかつその秩序が流動的であったことが分かる。何より興味深いのは、そうした空間的、地理的な布置があるがゆえに生じる、「引き籠り」や「引き出し」、「呼び寄せ」、「詣で」といった人間同士の駆け引きである。遠隔本邸として小田原(後に大磯に移転)に滄浪閣を構え、東京という統治の中心地から多くの統治エリートを引き寄せた伊藤博文。政治的な抗議をするために自邸に引き籠り、ときに東京から離れた遠方に出かけて他の統治エリートを困惑させたという井上馨。そして、地方在住の第一世代の統治エリートと東京在住の第二世代の統治エリートという分裂状況を統合しようと、東京の総理大臣官邸だけでなく、葉山別邸を政治化しようと試みた桂太郎。それぞれの統治エリートが、それぞれの戦略のもとで空間を巧みに利用し、邸宅を使い分けていたのである。政治的な手腕は、空間認識能力と密接不可分なものであることを思い知らされる。

本書は、こうした個別具体的な事例を様々な角度から検証したうえで、俯瞰的な目線で近代日本の統治に関わる「空間=政治」を捉え、その全体像を見事に描き出している。筆者の問題意識は、「権力の館」を主題として「建築と政治」の関係性を論じてきた御厨貴、そして広場や団地、鉄道などの空間がもつ政治性を指摘し、「空間政治学」を提唱する原武史と多くを共有するといえる。本書の終章において、「空間=政治の分析は、他領域との越境を可能にし、またそれを要請する」と表明されているとおり、このような政治史・政治思想史側からの「空間」へのアプローチは、既存の専門分野の境界を超えた、新たな研究の枠組みを提供するものである。

はたして、「空間」を主な分析対象としてきた建築分野は、それに対してどのように応え、参画していくことができるだろうか。元来、建築分野では「空間」の形態的なおもしろさや設計理念などが重視される傾向が強く、その政治的な側面を積極的に語ることは避けられてきたように思われる。しかしながら、近年では「地域社会圏主義」を提唱する山本理顕のように、「空間」の政治性に向き合ったうえで、それを実践につなげていこうとする動きもある。コロナ禍により、個人と国家の関係性や地域社会、住宅の在り方が問い直されるなかで、「空間」と「政治」の関係性は、今後ますます活発に議論される必要があるように思う。僭越ながら、評者も建築史・都市史の分野から「空間」の政治性を読み解こうと試みている一人である。

それぞれの専門分野の内側にいると、気が付かないうちに、その分野で長年培われてきた分析手法や枠組みにとらわれてしまう。「政治」から「空間」へ、そして「空間」から「政治」へという分野を跨いだアプローチが交差するところに、新たな学問領域が生まれようとしているのではないだろうか。

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書誌
著者:佐藤信
書名:近代日本の統治と空間:私邸・別荘・庁舎
出版社:東京大学出版会
出版年月:2020年7月

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長谷川香
建築討論

はせがわ・かおり/1985年東京都生まれ。建築史・都市史。東京大学大学院工学系研究科修了、博士(工学)。東京藝術大学美術学部建築科講師。著書に『近代天皇制と東京』(東京大学出版会、2020年)、共著に『明治神宮以前・以後』(鹿島出版会、2015年)など