信仰の山小屋(承前)

連載:山岳空間の近代(その4)

一色智仁
建築討論
Sep 1, 2022

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前回は登拝のための建築として、山形県月山のヌマ小屋についてみてきた。極限環境における宗教建築としてその形態は特異で、山麓集落の生業との関連も見られた。今回も引き続き信仰の山小屋として、飯豊連峰、朝日連峰の事例を紹介する。そして月山では「藁」に着目したように、今回も山小屋の構法的な条件を注意深く見ていくことにしよう。

飯豊連峰の助小屋 — 杉皮/トタン

飯豊連峰は福島、山形、新潟県境に位置する褶曲山地で、その主峰である飯豊本山は月山と同様に各地からの信仰を集めてきた★1。その痕跡は現在でも見つかり、たとえば山形県置賜地方では、飯豊山を登拝するにあたって、道者が心身を清めるための「行屋」が保存されている(写真1)。また本山山頂へ不自然にのびる福島県境は、登拝の目的地である山頂の領有をめぐり、福島県と新潟県が争った名残である(図1)。国を巻き込み20年近く続いた裁判は、1907年の判決で一端の決着を見せ、山頂及びその登拝路は福島県とされた。それ以降、三県から通じる登拝路のうち、福島県からの道が広く知られることとなる。その起点となる一ノ木集落では、月山羽黒口の手向集落と同じく、十数か所の掛小屋を毎年夏に建設していた。

写真1 米沢市農村文化研究所に移築された行屋(筆者撮影)
図 1 飯豊山頂へのびる福島県境(国土地理院提供の白地図、空中写真を加工して作成)

飯豊山における掛小屋は「助小屋」と呼ばれ、文字通り道者の登拝を助ける役割を持っていた。また小屋には神社(小祠)が併設され、登拝者は小屋に着くたびに「綾に綾に奇ししく尊と、飯豊の御山の神の御前を、拝みまつる」という祝詞を唱えた。この印象的なリズムを持つ祝詞は、明治期の国語学者である物集高見氏の作詞と伝わり、出羽三山にも「飯豊」の部分を変えたものが残っている。

ここで助小屋と神社の関係を、月山ヌマ小屋も合わせて一覧で整理しておく(表1)。表より、飯豊山一ノ木口には月山羽黒口と遜色ない数の掛小屋が建設されていたことがわかる。しかし、渡辺幸任氏の研究が重要な参照源として存在した月山ヌマ小屋とは異なり、民俗学的な研究が数少ない飯豊山助小屋では、半世紀近く前に失われた仮設の建築の姿を十全に知ることは難しい。ここでは関係者へのヒアリングや当時記録された写真などを用いながら、不十分ではあるものの、助小屋の建築的特徴を記述していく★2。

表 1 月山のヌマ小屋と飯豊山の助小屋(参考文献1–4をもとに作成)

助小屋の特徴

麓の集落で生産・規格化された「ヌマ」を使い、システマティックに建設されていたヌマ小屋と比較して、助小屋は基本的に不定形な材を用いながら、建設のプロセスは即興的な性格が強い。柱にはクヌギ等の叉木が使われ、梁として細いスギの丸太を紐で固定した(写真2)。唯一モジュールを持っていたのは屋根材の杉皮である。それは丸太の刻み(6尺)に由来を持つものであり、1枚3尺、2枚重ねで5尺ほどを目安に葺かれた。防水性が高く軽量な杉皮は腐りにくく、山上でも10年ほど持ったようである。屋根の上には重石や丸太がのせられ、尾根を吹き抜ける強風を防いだ(写真3)。また、解体した軸組材はその場に「にゅう(“に”とも)」として束ね、冬の間は近くの立木に立てかけ保存した(写真4)。栗や松などの材はやはり10年近く使用できたという。腐食・破損した材はその時々で補修・補充され、解体と更新のプロセスもヌマ小屋と対比的である。そして木造の小祠は水汲み場の窪地に保管された(切合小屋の場合)。

写真 2 渡邉満氏による助小屋軸組みの再現(筆者撮影)
写真 3 地蔵小屋の屋根(提供:渡邉満氏)
写真 4 地蔵小屋の「にゅう」(撮影:渡邉満氏)

地形と一体となった形態も特徴といえるだろう。地面を掘り込み、石を積み上げて小屋の三方を囲み、片流れの屋根は石垣の上に直接掛けられた。大地を壁とすることで、実質的には屋根材と軸組材のみで建設可能となっている。そして雨水が侵入しないよう周囲には排水溝が掘られた。床は石積み(御沢小屋、地蔵小屋等)、あるいは土盛り(切合小屋等)で整地され、傷んだ杉皮を敷いた上からゴザを並べた。風下に設けられた出入口には垂れ幕が掛けられ、夜には帳を下ろした(写真7)。地形に寄生するかのようなかたちと、ブリコラージュ的な建設手法を持つ助小屋は、最後まで藁という素材にこだわりが見られたヌマ小屋と違って、時代に応じて柔軟に素材を選択することができた。

写真 5 切合小屋(1932.7安斎徹撮影/山形県教育センター安斎ライブラリー所蔵)
写真 6 切合小屋(1932.7安斎徹撮影/山形県教育センター安斎ライブラリー所蔵)
写真 7 切合小屋の垂れ幕/1962年まで約10年使用、グラデーションは炉の煙によるもの(長谷川伸平家蔵/筆者撮影)

助小屋のうち最も写真資料を見つけられたのが地蔵小屋である。うっそうとした木立が続く長坂の急登を越えた、剣ヶ峰の難所の直前に立地している。80年代まで建設が続けられ、最後まで残った助小屋でもあった。写真を年代順に比較すると、小屋の形態や軒先のテキスタイルにはほとんど変わりはなく、屋根素材の変化が目につく。もともと杉皮で葺かれていた屋根が、やがてトタンへと移り変わっていたのだ。切合小屋の主人を約60年勤められた長谷川伸平氏によると、杉皮からトタンへの移り変わりは1959、60年頃に始まり、他の小屋でもほとんど同時にみられた現象だったという。継続的な補修と補充が必要な杉皮と比べ、トタンはメンテナンスが容易である。今でも一ノ木集落では茅葺屋根をトタンで覆ったものが見られ、平地の生活環境の変化が山岳の仮設建築に影響を与えていたことが伺える。

写真 8 杉皮葺の地蔵小屋(藤島玄撮影/関川村藤島蔵書館所蔵)
写真 9 トタン葺きの地蔵小屋(出典:小荒井実『写真集飯豊連峰:山と花』1981)
写真 10 深田久弥、藤島玄と同行の際に撮られた地蔵小屋(撮影:渡邉満氏)

江戸期の飯豊山の登拝を描いたものに「絹本著色飯豊山山道絵図」(1699)がある。一ノ木集落から飯豊本山までを描いたひとつなぎの絵巻物で、「瀬尾瀧不動(御沢)」「地蔵権現」近くに小屋が描かれている(図2)。興味深いのは、小屋の屋根が茅葺らしく表現されている点である。また、米沢方面からの登山を描いた紀行文『飯豊の山ふみ』(泉崎賢親、1838)にも、「大日」に茅葺屋根の小屋が描かれている(図3)。1950年代から飯豊山に登り、動植物や信仰登山の調査を続けている日本考古学協会会員の渡邉満氏によると、かつての御沢小屋の屋根には藁が部分的に使われており(写真11)、やがて杉皮、トタン葺きへと移り変わったようだ。絵図や御沢小屋の例から示唆される藁→杉皮→トタンという屋根材料の変化は、より軽量で耐久性のある素材を追求した結果として十分考えられる。

図2 「絹本著色飯豊山山道絵図」(1699、福島県立博物館蔵)
図3 米沢方面中津川口「大日」の様子(出典:泉崎賢親『飯豊の山ふみ』1838)
写真11 御沢小屋(出典:山都町史編さん委員会『福島県山都町史資料集:第9集 (飯豊山信仰)』1990)

現在も助小屋跡は山中におけるわずかな平坦地として特定可能である。さらに横峰小屋、地蔵小屋には、鍋や皿、酒などを貯蔵した穴倉と、その上に蓋として被せられたトタンが残されている(写真13、14)。かつては杉皮が積み重ねられており、屋根材を穴倉の上に被せて保管する方法は、月山の「ぬまにおう」との類似が指摘できる。屋根材がトタンに変わっていたからこそ、かろうじて約半世紀前の痕跡を見つけることができた。いまも穴倉の中には食器や焼酎などが残されているそうだ。

写真 12 晩年の地蔵小屋(出典:山都町総務課編『飯豊 : 信仰の山写真集』1992)
写真 13 横峯小屋跡(筆者撮影)
写真 14 地蔵小屋跡(筆者撮影)

朝日連峰の朝日岳神社 — 鉄筋コンクリート

信仰の山小屋として、最後に朝日連峰の事例を紹介する。月山と飯豊連峰の中間に位置する朝日連峰は、両山域と比較して山岳信仰が近世を通じて盛んではなく(一説には鎌倉期に北条時頼によって弾圧)、ここで取り上げるのは近代に入ってにわかに盛り上がりを見せたものだ。そのきっかけとなったのは「山形電気株式会社」による寒河江川流域の電源開発である。

会社を興したのは塚田正一という人物である。彼は1895年に京都で開催された第四回内国勧業博覧会に山形県の職員として参加した。博覧会で東北の地に産業が少ないことを痛感した塚田は、蹴上のインクライン及び琵琶湖疏水を利用した水力発電所を見学する。京都を走る電車、紡績や機織りの機械はすべて電気で動いており、感銘を受けた塚田は、郷里での水力発電事業を決意する。生家を売却しながら予備調査、資本金集めに奔走し、その後一代で、山形電気を県下最大の会社にまで押し上げた。

図4 山形市街の電柱電線数の推移(出典:山形電気株式会社編『山形電気株式会社沿革史』1926)

塚田は会社事業の成功を受け、電力の源である朝日連峰への信仰を高めていく。

我が山形電気會社の存在は一に朝日連峰の恩恵である。当會社の水力発電所は全部朝日嶽の水で活動して居る。(中略)我が山形電気株式會社の存在は慥かに朝日嶽神霊の恩恵である。この神霊に対する私の尊拝は一朝一夕ではなく、遠く山電創業の当初にある。爾来毎日朝日嶽に向かって遥に参拝し誠意を籠め只管事業の発展と成功を祈願して来たのもこの意に外ならぬ。(中略)此一念何を以て表さんかと考慮の際、山高教授安斎先生より朝日山上には鳥原山より外神社なきを聞き、さてこそ神社建立の発願を起こしたのである — — 塚田正一「朝日連峰の恩恵と神社建立の精神」1929

ここに見られるのは水力発電という近代的事業から生じた新たな水源信仰である。塚田は神社建設にあたり、山形高等学校(現山形大学)の地質学教授であった安斎徹にアドバイスを求めた。安斎は山岳部顧問として1922年に朝日連峰の縦走を成功させ★3、朝日連峰開拓の第一人者であった。安斎は大朝日岳の北斜面に水場が近く風を避けられる建設適地があること、そしてその神社は信仰の為だけでなく、登山者にとっても大いに意義のあるものだとして賛意を示した。こうして標高約1780m地点に「朝日岳神社」を建立することが決定した。

写真15 水ケ瀞発電所(出典:日本動力協会編『日本の発電所:東部日本篇』1937)

建設にあたり問題となったのは神社の構造と施工方法であった。

併し六千尺の高山気象は格別のものにて普通の木造建築では心細い、寧ろ萬年不朽の鉄筋コンクリートにしようか、夫れにすれば材料の運搬建築作業等に至大の困難がある — — 塚田正一「朝日連峰の恩恵と神社建立の精神」1929

塚田は多大な建設資金を負担し、地元の鮎貝村青年団の協力などを得ながら、2間×3間平屋建ての鉄筋コンクリートの社殿を大朝日岳直下に建設した(写真16)。工事は芳賀重松(詳細不明)が請け負い、建設資材を運ぶため中ツル尾根には新道が開拓された。工期は短く、1928年7月からひと月余りで完成したという。水力発電所の建設など、山形電気の山中における建設工事のノウハウが活かされたことが予想される。同年8月17日には神社落成の鎮座祭が挙行された。祭主は塚田が務め、登山隊と神社建築の職人等約90名が集まった。

写真16 新造成れる朝日岳神社(出典:佐藤栄太編『朝日連峯』1929)

鉄筋コンクリート造の社寺建築に関しては多くの先行研究があるが、山形県内は特にその先例が多い。山形の中心市街地に建つ長源寺本堂は1924年の竣工であり、全国的に見ても先駆的であった(写真17)★4。米沢市の上杉神社稽照殿は伊東忠太の設計で、1923年の竣工である(写真18)。いずれも大火(山形は1911年、米沢は1919年)の後に建設され、寺院と神社関連施設という違いはあるものの、地方都市における社寺建築の先進的な事例として挙げられる。米沢出身の塚田は、伊東がその発足に関わった「米沢有為会」の山形支部役員・評議員を務めており★5、こうした社寺建築の鉄筋コンクリート造化に対して一定の理解を持っていたことが予想される。

写真17 長源寺本堂(筆者撮影)
写真18 上杉神社稽照殿(筆者撮影)

ただ前例と異なる点は、朝日岳神社が装飾をほとんど持たないこと、標高1700mを越える高地に建設されたことの2点である。長源寺には左官職人による精彩なセメント彫刻が施されており、稽照殿も簡素化されてはいるものの組物や虹梁などに輪郭としての装飾が残る。一方の朝日岳神社は山岳に建つがために必要最小限の装飾しか持つことが出来なかった。落成式に撮影隊として同行した細矢四郎は「コンクリート建の神社は朝日岳神社を以て嚆矢とし日本一のモダーンと云うものだ」記したが、意図したかどうかは別として、構造のみならず意匠的にも朝日岳神社は近代的な姿として映る。

しかし厳冬期は氷点下10度を容易に下回る環境の中、すでに1938年時点で凍結融解作用によると思われるコンクリートのひび割れが見える(写真20)。また1958年の出版物に掲載された大朝日小屋(朝日岳神社)は庇部分が崩壊しており(写真21)、山岳高地における鉄筋コンクリート社殿の維持管理の難しさがうかがえる。

写真19 朝日岳神社前での休息(1933.7安斎徹撮影/山形県教育センター安斎ライブラリー所蔵)
写真20 朝日岳神社内部 (1938.8安斎徹撮影/山形県教育センター安斎ライブラリー所蔵)
写真21 大朝日小屋(出典:藤島玄『飯豊・朝日連峰:マウンテンガイドブックシリーズ29』1958)

その後世界恐慌のあおりを受け、山形電気は経営難に陥り、責任を感じた塚田は1930年12月3日に自宅にて短刀自殺する。朝日岳神社の竣工から2年後、享年64歳であった。そして山形電気は戦時体制下のもと日本発送電に統合され、戦後に社屋や水力発電所等は東北電力山形支店に移管された。朝日岳神社の隣には新たな避難小屋が建設され(1959年竣工)、その後は崩壊するままになった(写真22)。現在は、4代目大朝日小屋(1999年竣工)から10mほど離れた場所に、東北電力山形支店の所有する小祠が建つ(写真23)。山小屋の傍に小祠が併設された様子は、かつての月山ヌマ小屋、飯豊山助小屋と同じであり、神社兼山小屋から山小屋が分離した経緯は示唆的である。

写真22 老朽化し破損した朝日岳神社(大朝日小屋内の展示写真より)
写真23 大朝日小屋傍に建つ小祠(筆者撮影)

物質的側面からみた信仰の山小屋

月山・飯豊連峰・朝日連峰において山岳信仰を支えた山小屋を、それぞれ藁・杉皮/トタン・鉄筋コンクリートという物質的な側面に着目してみてきた。月山と飯豊連峰の例からは、山岳においては材料の強さがそのまま建築の寿命に反映されるわけではなく、むしろ三匹の子豚の寓話が教えるものとは逆のことが見えてきた。つまり解体のプロセスを内包した建築が持つ強さである。月山のヌマ小屋、飯豊山の助小屋は、解体を前提に建築され、建築を前提に解体された。そうすることで、「萬年不朽の鉄筋コンクリート」と期待され建設された朝日岳神社が約30年しか持たなかったのとは対照的に、長きにわたって登拝者を支えることができたのだ。

具体的にそれを可能にしていたのは、「にゅう」や「ぬまにおう」といった解体材の保存方法の確立が大きかったように思う。そうして毎年部材が少しずつ更新され、建物が断続的というよりは連続的に継承されていく様子が見られた。また場所的な観点からは、山岳において数少ない建築適地に寄り添うように、掛小屋は特定された一つの場所に建ち続けていた。そしてその場所を示していたのは、例えば神社としての小祠、石積みや土盛りといった地形の改変、「にゅう」や「ぬまにおう」、あるいはピークや鞍部といった地形そのものであった。

常にそこにあるのではなく、時に部材を麓とやり取りしながら、建築と解体の両方の状態を持ち得たヌマ小屋、助小屋は、夏の間だけ集中的に登拝が行われる信仰登山ならではの建築タイプであった。次回は、朝日岳神社(大朝日小屋)がそうであったように、季節を問わない近代登山が主流となっていく日本の山岳空間のなかで、建築が果たしてきた役割についてみていきたい。

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謝辞

調査にあたって福島県立博物館の高橋充様、内山大介様、喜多方市出雲神社の神田良市様、山都町史の編纂に関わられた小澤弘道様には関係者への取次や資料の提供にご協力いただきました。ヒアリングにご協力いただいた方々に加え、記して感謝いたします。

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山岳書案内

10- Schweizer Alpen-Club『Klubhütten-Album des Schweizer Alpen-club』1911

スイス山岳会(SAC)が所有する山小屋のうち69件を豊富な写真と共に紹介している。当時のヨーロッパアルプスの山小屋の意匠を詳しくみられるほか、岩場と一体化した「№21 Qamchibalmhutte」(2414m)など特殊な事例もみることができる。
https://archive.org/details/klubhttenalbum00schw/mode/2up
現在もスイスの山小屋のほとんどはSACが所有・管理しており、民間の営業小屋と公共の避難小屋に大別される日本とは異なるシステムで登山者を支えている。

https://www.sac-cas.ch/en/huts-and-tours/sac-route-portal/?type=hut

11- グスターフ・クルック著/山崎春雄訳「瑞西山岳會の登山小屋」(1930.11-)

雑誌『山と雪』(1930.10-)に連載・翻訳され、スイスの山小屋情報を日本に紹介した初期の例として挙げられる。原文は1922年に出版され、著者はチューリヒ市の建築局長として勤めた傍ら、スイス山岳会ウト支部での山小屋建設を指導した。写真だけでなく豊富な図面と共に、10の山小屋と計画案が紹介されている。また、日本建築学会編『建築設計資料集成1(6版)』(1949)の「11.運動競技場/32.33.山小屋」の項目にも図版等が一部参照されており、その後の国内の山小屋設計に一定の影響を持った著作であると思われる。ちなみに、設計資料集成の山小屋の項目を執筆した間野貞吉(1903–1979)は、1934年2月に国立公園協会において開催された「国立公園に建つ山小屋」コンペ(審査委員に岸田日出刀、今井兼次ほか)の一等に選ばれている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1525363?tocOpened=1

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参考文献

1. 日本山岳会編『山日記』1936、1942
2. 高橋四郎『飯豊山案内図絵』1931 (田中新一郎家文書/福島県立博物館蔵)
3. 月光善弘編『東北霊山と修験道』1977
4. 渡辺幸任『出羽三山絵日記(増補版)』2016
5. 山都町史編さん委員会『福島県山都町史資料集:第9集 (飯豊山信仰)』1990
6. 佐藤栄太編『朝日連峯』1929
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029537?tocOpened=1
7. 近藤乙吉編『塚田正一翁言行録』1930
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175791?tocOpened=1
8. 横山秀哉『コンクリート造の寺院建築』1977
9. 西川町史編纂委員会『西川町史下巻:近代・現代・民俗編』1995

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★1 成人儀礼としての性格を強く持ち、特に会津地方、置賜地方の男児は13–15才になると飯豊山に登拝した
★2 2019年8月1日飯豊山神社にて一ノ木集落老人クラブ、2022年8月20日長谷川伸平宅にて長谷川夫妻、2022年8月20日山都町の農作業小屋にて渡邉満氏にヒアリング調査を行った
★3 日本山岳会編『山岳:第22年第1号』(1927)などに記録が残る
★4 濱定史, 内山夏歩, 永井康雄, 栢木まどか「地方における鉄筋コンクリート造寺院の普及に関する研究(その1)-山形市長源寺の構法について-」(日本建築学会東北支部研究報告集計画系第83号, 2020. 6)、参考文献8などを参照した
★5 米沢有為会雑誌発行所『米沢有為会雑誌第359号』(1927.1)の会員名簿より

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一色智仁
建築討論

いっしき・ともひと/1997年生まれ。2018年国立明石工業高等専門学校卒業、東北大学工学部編入学。現在、東北大学工学研究科博士後期課程在籍