内側に留まり、事物を追跡すること
- つくることと物質性を巡って

能作文徳/Stay inside and follow things.
- On making and materiality / Fuminori Nousaku

能作文徳
建築討論
Oct 2, 2021

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つくること=育てること

人間が事前にもののデザインを持つかのように、学者たちがくり返し書いてきたので、人びともそう考えるようになってしまった。そして、コンセプチュアルアートや建築における或る立場の人たちは、この推論を極端なまでに推し進めてきた。この立場は、もの自体を過剰な何かにしてしまう。すなわち先行するデザインの表象−派生した複製−以外の何ものでもない。形状に関するすべてのものが事前にデザインされるのであれば、どうしてそれをわざわざつくったりする必要があるのか。つくり手はもっと深い認識を持っている。本書の目的は質料形相論のモデルを無批判に適用したことで生じた幻影から、つくること(メイキング)を表舞台に引っぱりだし、つくることが成し遂げてみせる創造性を祝福することにある。

人類学者ティム・インゴルドの『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』によれば、「つくること」は「育てること」であり、物質の性質に従いながら、実践者がそれに調和し、対応していくプロセスであるという。これを「コレスポンダンス(応答・調和)」とインゴルドは呼ぶ。「つくること」についてわざわざ論じるのは、つくり手が心の中に描いた形状を物質世界に押しつけるというギリシア哲学以来の質料形相論が機能しているからだという。こうした物質(質料)を形のイメージ(形相)に当てはめようとする態度に対して、「つくること」は「成長」の過程であるとインゴルドは主張する。「つくること=育てること」は、一見当たり前のように思える。しかし育てるようにつくるというロマンチックな言葉の中には、近代的な主体概念や創作行為に対する批判や、つくることが生命的なプロセスであるかを示そうとしている。つくり手は本当の意味において成長のプロセスで創作しているのかもう一度問いかける必要があるだろう。ただし、ここで付け加えておきたいのは、つくり手が物質世界と触れ合い、つくることに素朴に向き合うという状況にいるわけではなく、「つくること=育てること」のプロセスを難しくする現代社会の枠組みにつくり手が巻き込まれていることを指摘しておかないといけない。現代における技術、法、社会通念、生産体制など様々なフレームが「つくること」を規制しているのである。

『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』

アクターネットワーク論における行為性

デザイン=つくることは近代的思考法に深く関連づいている。デザインそのものが近代的であるとさえいえる。例えば、デザインを説明する言葉である「手法」、「操作」、「決定」は人間だけが意図を有する主体であるかのようである。また、建築で用いられる「空間」という概念はあたかも偶像のように作用している。「空間」は、時には交換や移動が可能なものとして扱われ、時には審美的な価値やイメージとして用いられ、時には設計者にとって操作可能な対象、使用者にとって認識のツールとなる。近代が生み出した「自然」や「社会」という概念と同じように「空間」概念は都合よく使われている。こうした空間概念に紐づいた近代思考法やマインドセットを相対化する必要があるのではないか。そこで近代概念を批判するブルーノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論(以下、ANT)」に着目したい。

『虚構の近代 科学人類学は警告する』

近代的思考法において、主体は人間に限られている。人間のみが意図的な主体であり、人間以外の存在は不活性な客体であると想定される。この思考を土台にして多くのデザインが組み立てられている。これに対してANTではアクターは人間に限定されない。様々な人間と非人間のアクターの絡まり合い(ネットワーク)によって、それぞれのアクターも影響を受けて変化させられる。あらゆる人工物は他の諸要素と結びつくことによって作動している。例えば自動車はアスファルト舗装、信号、ガソリンスタンド、タイヤ、道路交通法、運転免許証、駐車場と結びついている。アスファルトを失った社会では自動車はスムーズに移動できなくなる。このように人工物はそれを取り巻く連関と同時に存在している。アスファルト舗装の表面が平坦であることで、自動車の車輪がスムーズに回り、スピードをあげることができるという意味において、アスファルト舗装にも行為性が認められる。このように各アクターの性質は他のアクターとの関係の効果として生み出されている。

近代的思考法によれば人間は行為者であり、ものは行為者ではない。人工物は人間の意図によってつくられると想定される。しかし人間と非人間のハイブリッドは予測不可能であるとANTでは考えられている。ラトゥールは人間と非人間のハイブリッドの例として「銃」と「市民」の連関を挙げている。「銃が人間を殺す」とは銃規制を推進する人々のスローガンであり、「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」とは全国ライフル協会のスローガンである。唯物論的な前者では、人間が銃を持つことによって人格が変わってしまうかのようであり、後者では銃は完全に中立的な客体である。これに対して第三の可能性をラトゥールは提示する。すなわち2つのアクターが互いに互いを変容させるとき、元々持っていた目的が変化し、その目的は事前に予測することが不可能であるというのである。例えば銃と市民が結びついたとき、殺人、脅迫、自殺、収集癖、スポーツなど様々な目的が生成されうる。それは「銃」と「人間」が独立に存在しているのではなく、「銃人間」という混成した存在様態になっていることを示している。現代では「スマホ」と「人間」の結びつきは多種多様なバリエーションがある。SNS依存症、インフルエンサー、マッチングアプリ、近視眼など、「スマホ人間」のハイブリッドのバリエーションは今もなお増え続ける。ラトゥールによれば「何事も他の何かに還元されることはなく、何事も他の何かから演繹されることはない。あらゆるものは他の何かに結びつきうる」のである(=非還元主義)。

予測不可能なハイブリッドと技術の道徳化

つくり手にとってハイブリッドは完全に予測不可能なのだろうか。デザインという行為が、人間と非人間の予測不可能なハイブリッドに対してなす術がないかというとそうではない。むしろ予測不可能な帰結を回避するためにデザインは存在するとさえいえる(しかしデザインで物事を完全にコントロールすることはできない)。ANTは近代の諸概念や体系を強力に批判する認識論であるが、具体的な創作論ではない。そこでANTを継承するオランダの技術哲学者ピーター・ポール・フェルベークの『技術の道徳化』を参考にしたい。

『技術の道徳化』

フェルベークによれば様々な技術的人工物には道徳性が内在するというのである。一般的に道徳性は人間の生きるための規範であり、主に言説や教育という形で伝達されてきた。それに対しフェルベークの捉え方では、道徳性は技術によって媒介されるという。例えば精密な超音波検査の技術によって、胎内の赤ちゃんは、産まれてくる以前にダウン症などの遺伝的な病気が判明する。このことによって赤ちゃんを産むか産まないかなどの倫理的な判断が技術を媒介して現れ、超音波検査によって両親と胎児の関係性が変化してしまうのである。もっとわかりやすい例としては自動車のシートベルト着用についてである。人命を守るためには、シートベルト着用キャンペーンを実施するよりも、ブザーの不快な騒音によってシートベルトを締めるよう誘導する方が効果的である。

フェルベークはラトゥールの他に、ポスト現象学の流れを組む技術哲学を紹介している。例えばドン・アイディの技術の4つの類型である。アイディによると、技術にはメガネや双眼鏡のように人間の身体能力を補完する役割を持つ「身体化関係」、温度計や超音波探査機のように代理表象によって解釈の幅を拡張する「解釈学的関係」、自動販売機やATMなどの「他者関係」、空調機や冷蔵庫の自動オンオフなどの「背景関係」の4つの類型的関係があるという。こうした関係性に対する理解があれば、人工物は予測不可能ではなく、その帰結をある程度絞り込むことができるようになる。楽観的な技術礼賛ではなく、技術がどのような問題へと結びつくかを認識し、技術の方向性を誘導することができる。また、北米の技術哲学者アルバート・ボルグマンは「デバイス・パラダイム」によって技術的人工物と人間の関係の仕方が変化し、文化を規定していると述べている。ここでは「技術以前的事物」と「技術的装置」が対比されている。例えば、暖を取ろうとするときの暖炉とエアコン、水を得ようとするときの泉と水道という対比である。「事物」は人間が他者と繋がる実践を引き起こすが、「装置」は繋がりを欠いた消費だけを引き起こす。人間は火という技術以前的な事物に対して、火を起こし、薪をくべるといった行為に積極的に参加しなければならないが、エアコンなどの機械に対してはリモコンのボタンを押すだけである。技術的装置は時間や場所や共同体への関与という文脈から切り離すというのである。ボルグマンは「善い生」への問いかけこそ倫理学の中心的問題であるとし、人間の行為や生のあり方の形成に技術的装置や人工物の配置が介入していると述べているのである。現在のエネルギー生産様式は大量のエネルギーを使うことが必然的であるような生活様式を作り出すことに介入している。ボルグマンの議論を踏襲すれば、気候変動の問題において一人一人の環境意識や行動に働きかける従来の道徳性の考え方では限界があり、むしろ技術体系によって生活に介入する方がよっぽど効果的なのだと言えるだろう。人工物が道徳性を帯びるのであれば、それを逆に活用しようというのである。そうした技術は、単に機能性や利便性だけでなく、むしろ多少不便だとしても「善い生」へ向けられたものになる。

内側に留まり、追跡すること=つくること

「つくること」はどのようにあるべきか。ラトゥールのANTの用語を再び登場させたい。ANTの主要な方法はアクターを「追跡する(Follow)」ことである。ラトゥールは科学的事実がどのようにつくられているかを、ブラックボックス化される前の作成段階におけるアクターの動きや繋がりを追跡することによって明らかにしようとした。この分析は近代の枠組みである外在的な観察者の視点から事物を説明するのではなく、事物の内側に入り込むことにより説明している。「ネットワーク」という考え方を採用することにより、事物の諸関係は「システム」や「構造」から導出されるという想定を外すことができる。システムや構造から、個別の現象を演繹したり、個別の現象から構造を帰納的に導出することは避けられる。こうした内在的態度はつくることにも当てはまる。例えばつくることを図式や分類に当てはめたり、メタな視点から捉えることは外在的態度である。

気候危機とつくることの関係について指摘しておきたい。外在的観察者の視点でつくることが量や規模の問題に還元された場合、リソースが事物連関の健全性を考慮にいれずに動員されてしまう。フロンガスによるオゾン層の破壊、大量なCO2よる地球温暖化、マイクロプラスチックなどの様々なハイブリッドが生み出された。環境問題の根源には、近代の生産システム=外在的観察者の思考法がその背景にある。外在的なメタ思考は増殖するための近代の方法である。それに対して内在性に留まるとは抑制するための非近代の方法である。

今、「つくること」に求められているのは、増殖とは反対の「抑制」ではないか。近代概念では、「つくること」は生産すること、構築することに置き換えられてしまった。それらを破壊すればいいというわけではない。破壊の後にまた構築を招くだけである。緊密に構築されたがんじがらめのネットワーク自体を解きほぐし、組み替えていかなければ、「つくること」は増殖するままだろう。「つくること」は外側から形を押し付けることではない。物質のふるまいを起点に世界を内側から知ることである。

参考文献

ティム・インゴルド『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』、金子遊+水野友美子+小林耕二(訳)、左右者、2017

久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説 アクターネットワーク論から存在様態探究へ』、月曜社、2019

ブルーノ・ラトゥール『科学論の実在 パンドラの希望』、川崎勝+平川秀幸(訳)、産業図書、2007

ブルーノ・ラトゥール『虚構の近代 科学人類学は警告する』、川村久美子(訳)、新評論、2008

ピーター・ポール・フェルベーク, 『技術の道徳化 事物の道徳性を理解し設計する』、鈴木俊洋(訳)、法政大学出版局、2015

谷繁玲央「グラデュアリズム ネットワークに介入し改変するための方策」https://www.10plus1.jp/monthly/2020/01/issue-02.php

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のうさくふみのり/1982年生まれ。建築家。東京工業大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、東京電機大学准教授。東京建築士会住宅建築賞、SDレビュー2013鹿島賞、第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示特別表彰、ISAIA2018 Excellent Research Awardを受賞。