分析:「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」

連載:会場を構成する──経験的思考のプラクティス(その2)

桂川大+山川陸
建築討論

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— モニターやプロジェクションの映像がそれぞれさまざまな方向を向くように配置することで、観客は次から次へと作品の正面に方向を変えながら座ることになる。こうして自然と順路ができあがり、次に見るべき作品へ導かれていく。
(「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」会場構成について/西澤徹夫建築設計事務所 ウェブサイトより)

前回、会場構成は空間と時間の応答的な関係を伴い、設計者と鑑賞者がともに経験により連続した存在となることを示した。
今回から具体的な事例分析を行い、constructionという観点で会場構成について考えていく。

建築家と会場構成

ところで現在、展覧会において会場構成のクレジットで建築家やデザイナーの名前が記されることは珍しくはないが、こうした関わりはいつ頃から始まり、どのような経緯を辿ってきたのだろうか。

東京国立近代美術館(以下、東近美)は1952年に開館、1967年に谷口吉郎の設計による現在の建物へ移転した。移転以前の1950–60年代、東近美では当時若手建築家であった丹下健三や谷口吉郎、吉阪隆正らが会場構成(当時のクレジットでは「展示構成」)を担っていた。各展示ごとに設計した特殊な什器や掲示方法を用いて、空間的な介入を行っていたのだ。東近美の月刊誌「現代の眼」(現在は隔月刊)では、展示構成にあたった吉阪を聞き手とした出展者とのインタビュー掲載や、谷口吉郎による新館設計についての寄稿の掲載が確認できる。

現代の眼 534号 (2002年 6–7月)pp.14–15 「近代美術館における展示と建築」(保坂健二郎 著)を参照

しかし移転以降、会場構成に取り組む建築家の存在が注目されることはほとんどなくなり、そもそも建築家が会場構成に関わりやすいデザイン展、建築展自体の開催が減っていく。これは東近美に限った調査結果であり、一般公開された記録から確認できる範囲での所見だが、当館が当時最先端の美術館であったことを考えると、商業施設での展示会などを除けば、建築家が会場構成を担う機会の少なかったことは想像に難くない。

こうした経緯を踏まえると、建築家・西澤徹夫の東近美を中心とした会場構成の多さが目立ってくる。西澤は青木淳建築計画事務所(当時。現名称:AS)では青森県立美術館を担当し、近年は京都市京セラ美術館(ASと共同設計)、八戸市立美術館(浅子佳英、森純平と共同設計)と美術館建築も多く手掛けてきた。今回扱う「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」(以下、「ヴィデオ~」)は、2009年3月から6月にかけて東京国立近代美術館で開催された1960–70年代の初期ヴィデオアートを中心とした映像展であり、西澤が手がけた二つ目の会場構成である(西澤が会場構成を初めて手がけたのは、建築展「建築がうまれるとき:ペーター・メルクリと青木淳」だ)。本分析を通じて、西澤の会場構成の特徴を明らかにするだけでなく、建築設計における会場構成の意義や意味を問うてみたい。

建築家が関わることで展覧会には何が起き、可能になっているのだろうか。

「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」を眺める

本稿の執筆にあたっては、西澤氏より設計資料の提供およびヒアリングの機会を頂いた。ここでは掲載図版として、西澤のホームページおよび東近美の展覧会アーカイブで公開されている画像を主に用いる。

本展はアメリカ、ヨーロッパ、日本のアーティストによる60年代から今日までのフィルムとヴィデオ作品51点を5つのセクションで展示する映像展で、「ヴィデオ」のスタート地点にあるローテクかつプロセスを重視した試行錯誤が、2次元のフィルムとヴィデオを中心に集約されている。展示台とプロジェクションの配置関係によってのみ構成された本展における、ヴィデオのいくつかの特徴を踏まえた鑑賞体験の特徴を、ここでは以下の通り考察した。

・圧倒的に平面である。角度を変えても寄っても情報量が変わらず距離の概念が薄れやすい(距離)
・正面性が高い媒体であり、身体の向きを拘束する(身体)
・絵画と異なり、鑑賞する時間に始まりと終わりがある(時間)

©Daichi Ano

冒頭に西澤のテキストを引用したように、「ヴィデオ~」の会場構成の原理はきわめてシンプルだ。映像作品を映し出す矩形のブラウン管モニター(KX-21HV1S / SONY / 1986年発売)と平面寸法を揃えた柱状のラワンベニヤによる什器の組み合わせが、3種類の高さで用意され、様々な方向性をもちながら展示室内に並べられる。様々な、とはいうものの、展示室の壁に平行になるよう配置されているため、実質90度ずつ異なる4つの方向しかここには存在しない。

©Daichi Ano

映像作品を鑑賞するとき、私たちは映像の映し出される画面の前へ立ち、眺める。そしてまた歩き、次の作品へと移動する。作品から作品へと移動することは展覧会がそもそも要請している運動ではあるが、移動を推進する力を発生させるように映像の向きが振られている、というわけだ。異なる向きの画面を追うことで、人は前へ前へと進んでいく。

©Daichi Ano

ところで西澤による説明で「いくつかは、キュレーターの指示によって個室化している」とあるように、51作品中9作品が仮設壁で区切られた個室内に展示されている。また、個室内の9作品中7作品はモニターではなくプロジェクションで展示され、個室外42作品中10作品も同様にプロジェクションから成る。一方、ブラウン管モニターは前述の品番で統一されており、3種類の高さのうち最も低い床置きは5作品である。一部、作品の設置方法にまで細かく指示のある作品が本展覧会には含まれるが、基本的にはキュレーションと、それを体現する空間のあり方との折り合いの中でこうしたつくりが選択されているように見える。

分析:ヴィデオアートの時間

本稿では、先述したヴィデオの特徴(距離、身体、時間)と、調査資料から設定した観察の項目をもとに、会場とヴィデオの配置関係が明快な写真に配置図を投影した図(以降、投影図)を作成するという分析方法をとっている。

観察の項目

設計プロセスの図面やスケッチを調査すると、担当学芸員(当時)であった蔵屋美香氏から会場構成の依頼があった時点で、①全作品共通で上述品番のブラウン管モニターを用いること、②映像を鑑賞するための椅子を配置すること、が要望としてすでにあげられていることが分かった。

初期ヴィデオアートは彫刻分野のアーティストによる制作も多く、映像だけでなく、その映写面でもあるブラウン管やモニター本体、あるいはその支持体すらも制作対象に含まれていた。ヴィデオアートとは光を放つオブジェクトを考えることでもあったのだ。そのことから、オブジェクトとしての存在感と抽象度を併せ持つ品番のブラウン管が選定されたと考えられる(少なくとも本展の展示対象となる作品との時代的な関係から、液晶モニターが不適なのは納得できるはずだ)。また椅子に関しては、連続的に経験していくことで今日に至るまでのヴィデオアートの変遷を知ることが目的となる本展で、座るところがないため長くは見ていられない、といった実際的な理由による機会損失を防ぐため、ひとつひとつの作品を視聴時間いっぱいに鑑賞できる会場を構成する意図があったためだと考えられる。

当時の展覧会を鑑賞することが叶わなかった筆者らにとって、投影図は経験を理解することを助けとなり、かつ計画段階での配置図と実際の配置関係との微差が立体的に浮かび上がり、キュレーターによる現場調整が垣間見えた。例えば、投影図3をみると、個室に入る開口部は配置図上では既存柱の見付と揃える位置に開けられているが、実際には視認性を考慮してか柱からずれた位置にあることがわかる。また投影図4では配置図上の床置きのモニターが壁側に移動し、視線だけでなく歩行の抜けがある通路状の空間が意図されている、と推察できる。

配置図の投影図1
配置図の投影図2
配置図の投影図3
配置図の投影図4

キュレーションは、展覧会を経験する中で鑑賞者に伝えられる。一部の絵画は鑑賞者が作品を経験する時間を除いても、画面内に描かれたものの構造は担保されているため、会場構成においてまず重要となるのは、空間的にそれらがどのように配置され、その配置状況を眺められるかである。いっぽう映像作品は作品にまつわる時間がその映写時間によって明示された作品形式であり、鑑賞者が自らの時間を作品の時間に重ねることで成立する。たとえば3秒見ただけで鑑賞したことになる絵画は可能だろうが、15分という上映時間の映像作品を3秒で鑑賞したということにはならないだろう。
映像展においては、画面の空間的な配置だけでなく、それらを順に経験し、経験の積みあげることでしか展覧会という全体像は得られない。
一方、どんな媒体の作品であれ作品が持つ時間というものは存在するはずだ。その示され方が具体的かつ明示的であるという点で、映像展は展覧会の経験を考える題材として重要である。

分析:通路と順路

この点から、改めて西澤による会場構成を見直してみよう。「こうして(=画面が様々な方向を持ち、鑑賞者がそれに正対しようと移動することで)自然と順路ができあがり、次に見るべき作品へ導かれていく」ことで、鑑賞の経験はひとつの作品の上映時間に閉じられたものではなくなる。ひとつ見ては歩き、また見て、歩き、、と配置順に沿って経験が積みあがっていくのだ。

展示室の一連なりの空間を着色。多少の拡縮はあるが、通路状の空間が連続していることが分かる。

「ヴィデオ~」は5部に分かれた展示構成だが、そのうち1,2部は小規模の一室と細長い通路状の展示室へ展開されている。これら展示室は、一般的な展覧会では終盤に用いられることが多く、小品や習作の展示が行われた後、会場を出る前の部屋として中規模な作品が〆として現れる。「ヴィデオ~」ではこの通路状の空間を巡ることから展覧会の経験がはじまる。ここで注意したいのは、通路と順路は異なるということだ。順路とは、それを経験して得られる全体像のあるものだ。空間の形状が一本道であることから、ここはすでに順路を思わせるが、本展で通路を順路たらしめるのはブラウン管たちだ。ブラウン管は作家ごとのまとまりももつが、同じ向きに並ぶことはほとんどなく、ある壁方向を向いた次は異なる方向を向いている。蛇行しながら斜面を進むように、身体の向きをブラウン管に合わせて歩みを進めていくうち、鑑賞者は展覧会を奥へ奥へと進むこととなるのだ。

3部以降は、まず特定の作家の個室群が大規模な展示室を分節し、残った空間のなかでブラウン管やプロジェクションの画面が向きを変えてここでも並んでいる。分節された空間は、1、2部の通路幅に近いボリューム感で、その形状は折り畳まれうねっている。ブラウン管が順路を導くいっぽう、先取りするように目に入ってしまう順路外の映像も存在し、1、2部と比べて空間の状況は複雑になっている(なお、3部の始まりの位置から5部の終わりが見通せるようになっている。視線上に並ぶブラウン管は地面置きされており、同じ床置きのブラウン管でも残りの4台は壁や柱に近い場所へ設けられており、床置きが持つ効果は異なる)。こうした状況に対しても、1、2部で画面を追いながら歩くことを経験した鑑賞者は、3部以降も順に画面を追うことができただろう

ブラウン管のうち背の低いものを水色で表記。なお、公開図面と実際の什器配置の違いが見受けられるため、一部配置を修正している。

このように「自然と順路ができあがる」以前に、ここにはすでに通路的な空間が用意されているのである。しかし、先述したように、通路と順路は異なる。順路は作品間の移動を促すものであり、また作品によって導かれることで経験されるものでもある。ゆえに、一見すでに順路が明らかに思える通路空間を通り抜ける「ヴィデオ~」は、会場構成が何を成しているかを端的に知ることのできる展覧会なのだ。

分析:構成と時間

順路に合わせて左から右へ作品を並べた図。向きの変化や通路の折れ曲がりなど、空間変化も記載している。筆者ら作成。

空間的に折り畳まれた通路とそこでおきる作品との遭遇を、一本の線上に並べてみた(オレンジはブラウン管、紫はプロジェクション、ピンクは特殊な設置形式を指す。上部の黄色い帯は作品の尺を示す)。時間と空間の密接な経験の連なりとして捉えようとすると、ここには考慮されていない要素があることに気づく。それは各作品の上映時間である。
1分で終わる作品と、30分以上かかる作品では内容だけでなくより身体的な経験としての差が大きくあるはずだ。しかし、たとえば長い作品を観る場所ではゆっくり過ごせるように、といった空間的な、あるいは設えによる細かな配慮はこの会場には存在していない。そうした設えを実現するための空間的な余剰は設けられず、淡々と同じペースで画面が現れるのみだ(例外的に5部にはソファが設置されているが、プロジェクションとブラウン管の選択同様にこれは作品の要請によるものと思われる。経緯は調査中)。
だがこれらを指して、作品に流れる時間を無視した、空間のみを考えた設計だと言うのは誤りだろう。画面が様々な向きを持ち、それに導かれて鑑賞者が進んでいくという話は、元となる空間がすでに通路的に仕立てられていることから、そこで重視されたのは空間的効果だけではなさそうだ。

どれだけシミュレーションしようと、現場検証と修正を繰り返そうとも、来たる鑑賞者が35分の映像作品をその場で35分見るかどうかは設計不能である。だが個々人に委ねられる一連の経験、特に作品を見るという時間が扱えなくとも、鑑賞者が経験の積みあげによりキュレーションを受け取り、展覧会という全体像を描くことは、会場構成によって支えることができる。むしろ、一連なりの経験の上に全体像を描くためにこそ、会場構成はあると言ってもよい。

観賞用に椅子を置きたいという蔵屋の要望に対して、専用の椅子を西澤は設計した。製作予算に準じて小ぶりにつくられ、鑑賞者が持ち運びも可能な大きさ・軽さであることは、固定した空間をつくるためではなく、設計不能な個々の経験を支えるものである。
また、「ヴィデオ~」ではキャプションなどの文字情報のデザインも西澤が手がけており、徹底して鑑賞時間を除く経験が、空間上の操作によって支えることが試みられている。

「ヴィデオ~」の会場構成では、作品と作品の間にある、また経験の上であらわれる時間が検討の主題となっており、それは時間を捨象したcompositionでは設計しえない。時間の流れと合致する一本道の通路状の設え、作品と作品を時間によって結ぶ運動の設定と、運動により経験される順路から成ることで、この会場構成はconstructionなのだと言えよう。

「ヴィデオ~」に学ぶconstruction

前述のとおり、本展では映像作品を視聴する時間そのものは設計の対象から外されている。同様に、作品の形式や展示会場の状況、キュレーションなどを理由に、他の展覧会にも設計では取り扱えないポイントがそれぞれに存在しているはずだ。こうした取り扱えないものと取り扱えるものを見極め、またそれを時間の問題として構造を与えることで、より経験的な設計に至ることができる。

公開されている平面配置図へ順路、セクション分けなどをmiro上で加筆しながら検証した。

「ヴィデオ~」における設計の普遍性は、こうしたタイムライン的な空間のつくりにもかかわらず、視線の抜けや見えがかりといった、経験を分岐・拡張させるつくりがそこここでされている点にある。ありえたかもしれない順路に対して、鑑賞者を導く1部2部の経験が、3部以降もひとつの順路を示す。こうして鑑賞者は、面的に広がる空間の中で、時間的に一連なりに作品を経験することが可能となる。順路的に一連なりの線によって面的な空間を覆うことが、構成constructionの一つの方法ではないだろうか。

今回は、映像展という内在する時間と向き合うことが明示された「ヴィデオ~」の会場構成を通じて、経験における時間的な側面の取り扱い方を分析した。次回は順路の設定がよりシンプルに現れる、作品が淡々と配列された「会場構成」を対象とする。西澤徹夫による「パウル・クレー | おわらないアトリエ」(2011年)と、建築家の介在しない展覧会において、キュレーションを担う学芸員が作品群を壁面へ並べることで実現する「会場」を対象とし、経験がいかに立ち上がるかを検証し、「構成」の時間的な側面を分析する。

謝辞
本連載にあたり、西澤徹夫建築設計事務所の西澤徹夫氏、佐藤熊弥氏には資料の提供やヒアリングをさせて頂き、ご助力頂きました。特に西澤氏には、執筆についてコメントを頂きながら進めることができ、とても発見ある執筆期間となりました。また快く写真の許諾を頂いた(有)フォワード|FWDの阿野太一氏にも感謝の意を表します。

大+陸 連載「会場を構成する──経験的思考のプラクティス」
・その1 経験と構成
・その2 分析:「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」

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桂川大+山川陸
建築討論

かつらがわ・だい(左)/STUDIO大主宰。1990年生まれ。2016年 名古屋工業大学大学院博士前期課程修了。2019年- 同大学院博士後期課程在籍。| やまかわ・りく(右)/一級建築士事務所山川陸設計代表。1990年生まれ。2013年 東京藝術大学美術学部建築科卒業。