労働者の団結の城としての組合建築

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その1)

Sumiko Ebara
建築討論
22 min readFeb 24, 2023

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ストライキに遭遇して

2022年度、サバティカル(研究休暇)を取得し、4月半ばにロンドンに来た。生活も落ち着き、そろそろ旅行でも、と思った矢先、不穏なニュースが飛び込んできた。鉄道ストライキである。

最初の打撃はエリザベス女王のプラチナ・ジュビリーのお祝いの翌日、6月6日のロンドン地下鉄駅職員のストライキ。テレビには祝日を利用して出かけていた人が空港から先の移動手段がなく途方に暮れ、くたびれ果てた様子が映し出された。そして、ほぼ同時に、6月半ばのストライキの予定が発表された。6月21、23、25日、全国的な鉄道ストライキになるという。

私が小旅行を予定していたのは、6月22、23日だった。当初、23日の移動を避け、24日まで旅を延長すれば良いかと思っていたが、ニュースによると、ストライキ当日はもちろんのこと、飛び石となっている日もダイヤは乱れがちになるので、「よほどの必要がないかぎり」移動を避けよとのことであった。自分の旅行は「よほど」のことか。そうとは思われない。しかも私の旅は、すべて公共交通機関頼み。1日数本しかないバスや鉄道を乗り継ぎ、結構な距離の徒歩も含む旅だ。ダイヤの乱れは困る。やむなく、旅はキャンセルした。

そして迎えた6月21日。私は近所の公立図書館に行った。ストライキの日は開館/閉館時間がそれぞれ30分から1時間程度遅れたり早められたりしていた。だが街はそれほど混乱しているようには見えない。夏至も近く、日が長いので、夕飯後に公園に出かけると、結構な数の人が宵の散歩を楽しんでいた。ストライキなぞどこ吹く風の、リラックスした人々を見て、この国では、ストライキは日常の一部であることを知った。

2022年6月22日 ストライキ中日のケンジントン・ガーデンズ

私は今までストライキなど経験したことがなかった。日本では「通常運行で料金のみ徴収しないという利用者に優しいストライキ」という形があるようだが、ストライキを通して、他者の困窮を知ることも大切なことに思われた。急激な物価上昇による市民生活の危機については日々報道されている。交通機関のストライキは多くの市民に影響を及ぼしたが、同時に多くの市民の窮状を代弁するものでもあったと思う。

ストライキは単なる堕業ではなく、労働者による争議行為の一種である。イギリスではストライキはれっきとした労働者の権利として社会に受容されている。その後、ストライキはゴミ収集車、教員、看護師、救急車運転手、消防士、公務員など、さまざまな職種に広がり、現在も拡大しているが、テレビの街頭インタビューでは、多くの人が「困る」と言いつつも、「これは大事なこと。ストライキをしている人たちを支持する」と話している★1。“労働組合”が労使交渉を行う機関となり、民主主義の重要な一翼を担っていることが窺われた。

”組合”の建築

私は、今、“組合”というものに興味を持っている。組合員の雇用を維持し改善することを目的とする「労働組合」、農業協同組合や住宅供給組合など、共通の目的のために結成された相互扶助組織である「協同組合」、そして、労働者自身が主として資金を持ち寄り、労働者自身によって所有・管理される協同組合の一種である「労働者協同組合」など、一般庶民の生活を支える連帯の形がいかにして生まれて来たのか。そして、大衆・労働者の時代がいかに築かれて来たのかを、建築を通して知りたいと考えている。

そのきっかけは、建築家・大髙正人を通してであった。国立近現代建築資料館の主任建築資料調査官を務めた際、大髙資料の整理に携わる中で★2、大髙が数多くの農協や全日本海員組合本部会館や自動車労連会館の設計に携わったことを知った。

国立近現代建築資料館「建築と社会を結ぶ 大髙正人の方法」展の様子。2017年2月12日

当時、大髙は「協同組合に惚れこんでつき合っている」と述べた★3。組織の至上命令が徹底するような生産工場や、個人の趣味が横行する大邸宅のような仕事ではなく、個と群が比較的折り合いのつきやすい組織を通じて仕事をするようにしているとのことであった。また、自身の設計事務所の体制についても、「ひとりあるいは少数の人々が、全体の決定権と財布をにぎっている組織では、まれな例外をのぞいて一般には千の眼を持った組織にはなり得ない。」として「今年からは私がサラリーマンになる組織を所員諸君と作り上げて、せいぜい賃上げ闘争でもやろうかと思っている」★4と述べた。これは、今でいうところの、労働者協同組合(ワーカーズコープ)に近い体制だと言えよう。

農協の設計を通して

農協の設計においては、例えば、大髙事務所が最初に手がけた片岡農協では、“都会的”な事務所が欲しいという組合員の要望に応え、一度は鉄筋コンクリート造で陸屋根の矩形のビルを提案した。しかし、一方で、農村風景の中に溶け込む木造・傾斜屋根の建築案を提出した。そして、組合員と膝を交えて協議した結果、2案を合体させたような大屋根と大庇による建築が誕生した。片岡農協組合長は「こうした作業の結果として、「新事務所はあくまで組合員のものであり、(中略)この建物の中で事務をとる職員は、新しい事務所の職員として、形の上からも、近代的感覚を持ち始めている」「この新事務所を訪れる組合員も、新しい形式の組合の建物と、このスペースに働く職員とが、渾然一体となった新しい事務組織に次第に同化されつつある」と述べた★5。事務所の建築を通して職員の意識の近代化が促されたのである。

片岡農協検討 A案・B案★6

だが、大髙建築設計事務所の設立時メンバーの一人である藤本昌也によれば、大髙は、何も農協などの組合建築にとどまらず、他の仕事においても、常に施主・行政・利用者など建築に関わるさまざまな人々との対話を重視していたそうだ。中には厄介な人、要求もあっただろう。しかし、大髙は、そうした難題を「いい宿題をもらった」と考えたそうだ★7。社会の近代化を目指す彼らにとって、設計のプロセスそのものが、民主主義を実践する重要な“活動”の場だったのであろう。

だが、そのようにして建てられた片岡農協は2016年に建て替えられ、今はない。御所見、山内、静岡、花泉の各農協も建て替えられてしまった。

左:片岡農協(1962年:非現存)
右:花泉農協会館(1964年:非現存)

全日本海員組合本部会館

一方、大髙が設計した全日本海員組合本部会館(1964年)は2017年にドコモモ・ジャパン選定となり、昨年12月に元大髙事務所所員の野沢正光率いる野沢正光設計工房による改修がなされることが決まり、見学会とドコモモ・ジャパン選定プレート贈呈式が開催された★8。田中伸一組合長代行の「船乗りにとって船は職場であり生活の場。本部会館も同様に手入れをして来た。1964年に神戸から東京へ組合本部を移転した時の先人たちの思いを再確認し、これから50年100年と使い続けて行きたい」との言葉からは、この建物が組合員たちの活動の拠り所として大切に使われて来たことが窺われた。

左:全日本海員組合本部会館 外観 右:同地下大会議室

農協の建て替えは、農協の統廃合があったことも大きいだろう。1961年には全国に13,300もあった農協は2021年にはわずか585となった。合理化の波は実に厳しかった。

しかし、大髙と、山名元★9らによって1964年に設立された農協建築研究会による農協建築は、単なる機能的なオフィスビルではなかった。それらの建築は、およそ60年を経て、何らかの手入れは必要であろうが、組合員の心の拠り所、地域のシンボルとして、あるいは、今日的な“連帯”の実践の場として、再び、価値を見出すことができるのではないだろうか。

そこで、イギリス滞在中に、いくつかの組合の活動拠点となっている建築はどのようなものなのか、調べてみることにした。

トレード・ユニオン・コングレス

まずは、トレード・ユニオン・コングレス(Trade Union Congress)本部。イングランドとウェールズの労働組合をまとめる組織だ。トレード・ユニオン・コングレスは1868年にマンチェスターの職工講習所で結成された。

左:マンチェスターの職工講習所
右:TUC設立の場となったことを記したプレート

その後、本部はロンドンで6回もの移転を繰り返していたが★10、第二次世界大戦末期1944年にブラックプールで開催された第78回大会で、二つの大戦で命を呈した組合員たちを慰霊しその勇気を讃える場を作ることが決議された。そして、その建物に本部および会議場、トレーニング・センターを併設することとなった。1946年にグレート・ラッセル通り沿いの土地を取得。1948年には戦後初の公開設計競技が開催され、181件の参加があった。元王立建築家協会会長のパーシー・トーマスによる審査が行われ、デイヴィッド・アバディーン(1913–1987)の案が当選した。1953年に建設許可が下り、1954年に着工。現場で働く職人はすべて組合員だった。マホガニー、チークなどの木材の多くは海外の労働組合から寄贈された。また、コーンウォール産の石は失業者の雇用創出につながったという★11。コートヤードの下の地下会議場は六角形の天窓から自然光が差し込み、夜には会議場からの光がコートヤードを照らす。コートヤードにはイギリス現代彫刻の大家ジェイコブ・エプスタイン(1880–1959)による戦没者慰霊碑が据えられた。また、正面玄関前にはコンペで選ばれたバーナード・メドウズ(1915–2005)による「助け合いの精神」と名付けられた彫像が設置された。

トレード・ユニオン・コングレス(1957年)
左:コートヤードは改修時に屋根が架けられた。正面はエプスタインの戦没者慰霊碑。地下会議室は六角形の天窓から自然光を入れる。
右:バーナード・メドウズの「助け合いの精神」

この建物は、1985年、セドリック・プライス(1934–2003)による監修のもと改修工事が行われることとなった★12。プライスは陶器生産で名高いストーク・オン・トレント近郊ストーン生まれ、窯業地域の労働者組合を組織していた伯父に大きな影響を受けたとのことである★13。その所見によれば、構造は極めて健全、外装の補修もほとんど必要ない、とのことであった。改修は温熱環境およびセキュリティの見直しが主となった。唯一、1階ピロティ部分にホワイエが拡張されたが、建具は元のものが移設して使われた。改修工事後、プライスらは、定期的なメンテナンスのためのマニュアルを提出した。1988年、この建物は、戦後に建てられた建築として最初に登録建造物(Grade II*)となった18件のうちの一つとなった★14。

マリタイム・ハウス

次に、大髙が設計した全日本海員組合に関連するところで、海事関係の建物を見てみると、海員らの全国的な組合(National Union of Seamen)は1887年に起源があり、1939年にロンドンのクラッパムに本部会館となるマリタイム・ハウス(Maritime House)が建設された。本部は長らくここに置かれていたが、海員組合が1990年に鉄道運輸の組合と合併してRMT(National Union of Rail, Maritime and Transport)となった後は、本部はユーストン駅近傍に移った。しかし、先日、ここを訪れてみると、この建物には、いまだRMTの法令部門が置かれていることが分かった。頂部には巨大な魚の彫像が据えられ、正面扉の欄間も水と魚をモチーフとしており、海に関する建物であることは一目瞭然である。由来を記した定礎石もあった。現在は、RMTがこの建物の“大家”としてテナントを募集している。

左:マリタイム・ハウス外観
右:正面玄関

国際運輸労連・国際海事機関

このほか、全日本海員組合が所属している、国際運輸労連(International Transport works’ Federation)の建物は、元は19世紀に建てられた靴墨工場を改修したもので、 Grade II登録建造物である。また、国連機関である国際海事機関(International Maritime Organization)は比較的新しく、1983年に建てられたが、ロンドンで毎年9月に開催されるオープン・ハウスにも参加している(2022年は女王の逝去のためキャンセルになってしまったのは痛恨であった)。

左:国際運輸労連(19世紀)
右:国際海事機関(1983年)

イギリスには登録建造物が50万件以上もあり、日本に比べて建物の寿命が長い。建物は組織の顔としておろそかにはできないという考えがイギリスにはあるように思われる。次回の連載で見てゆくように、20世紀には、新たな時代を表象するメディアとして近代建築が援用される側面もあった。

連載を始めるにあたって:偉人たちの足跡

ところで、イギリスには、至るところに、偉人たちの痕跡が残されている。代表的なものはロンドンのブルー・プラークという偉人の住んだ場所を示す銘板であるが、その開始は1866年に遡る★15。ロンドン以外、またブルー・プラーク以外にもさまざまな説明板があり、過去との繋がりを想起させてくれるものに事欠かない。ブルー・プラークを頼りに偉人の住んだ場所を訪れたり、旅先で何らかの説明板を見つけると、その土地柄などから過去の人々の生活、思想、指向性が垣間見えてなかなか面白い。

そこで、本連載をはじめるにあたって最後に、現在、私が興味を持っている建築関係以外の3人の人物と彼らにまつわる場所を紹介したい。その人物とはトマス・ペイン、ピョートル・クロポトキン、ジョージ・オーウェルである。

トマス・ペイン

まず、トマス・ペイン(1737–1809)は、イギリス中西部のノーフォークに生まれたが、アメリカ独立戦争時に『コモン・センス』を著し、王侯貴族が何不自由ない暮らしをする一方、農民や小作人、そして黒人の基本的人権が蹂躙されていることを糾弾した。アメリカ独立、フランス革命を支持するのみならず、世襲君主制を否定するに至って、本国イギリスから追放された。しかし、イギリス南部のルイスというペインがアメリカに渡る前に住んだ町は、ペインを讃え、彼の家や彼が通ったパブに銘板が設置されていた。実は私が6月の旅行を延期して、8月に泊まった宿が偶然にもそのパブであった。また、ロンドンにもペインがよく通ったパブの跡地には立派な記念碑が立てられている。ペインが飲んだくれながら数々の著作に取り組む姿が想像された。

ルイスの White Hart Hotel
左:ルイスの土産物屋ではペイン関連のグッズも売られている
右:ロンドンのエンジェル・イン跡の記念碑

ピョートル・クロポトキン

次に、19世紀から20世紀にかけて活躍したロシア出身の科学者で思想家であったピョートル・クロポトキン(1842–1921)。クロポトキンは「相互扶助」は人間のみならず動物の本然であることを科学と歴史の2側面から考察し、ともに助け合いさえすれば国家は不要とのアナキズムの思想に至った。彼は、故国ロシアでの投獄・脱獄を経てイギリスに亡命した。その後、スイスに渡ったが、1894年からはロンドン郊外のブロムリーに居住した。ブロムリーはロンドンの南、かつてはケント州に属する郊外だが、中世に遡るマーケット・タウンで活気ある町であった。さらに1858年には鉄道駅の開設により、ロンドンへの交通の便も確保され、都市的生活と田舎の自然が楽しめる。この地を選んだのは、庭を持つことを重要と考えた妻の意向であったとのことであるが★16、ここでクロポトキンは『田園・工場・仕事場』(1899)を著し、産業の分散化、農業の可能性を論じた。 大髙正人は学生時代、シャルル・ジイドの『住宅経済学』ほか、クロポトキン全集を読んでいたが、大髙が都市と農村の相互扶助的関係を目指した思想的な背景となったのではないだろうか。

左:ブロムリーのクロポトキンのブループラークが設置された家
右:古くからマーケット・タウンであったことが分かるブロムリーの中心街

ジョージ・オーウェル

最後に、ジョージ・オーウェル(1903–1950)。1917年の二月革命後、クロポトキンはロシアに里帰りし、モスクワ近郊で没したが、その後、オーウェルは、“社会主義”国家であるはずのソ連が次第に全体主義、そして階級社会に変貌しつつある徴候を発見し、嫌悪した。そして、オーウェルは貧しい産業労働者が不当に抑圧され無視されているイギリス社会にも批判の目を向け、中産階級の中でも決して豊かとは言えない人々に向けて、連帯を呼びかけた。

「われわれ没落しつつある中産階級の人間 — -私立学校の教師、飢えかかった自由契約のジャーナリスト、元陸軍大佐の娘で年収が75ポンドしかないオールドミス、ケンブリッジ出身の失業者、乗る船のない高級船員、事務員、外交販売員、三回も破産した田舎町の反物商 — -は、悪あがきするまでもなくそのまま労働者階級のなかへ溶けこんでいくことができよう。・・・なぜなら何がどうなろうと、われわれにはHの発音(aitches)のほかに、失うものは何ひとつないのだから。」
『ウィガン波止場への道』より★17

この著作は1937年のものだが、今の日本人の多くもここに挙げられている人々に含まれるのではないか。

オーウェルによれば、当時、“社会主義者”はイギリス社会において、 “変人”と見られる節もあったようだ。オーウェルは極端に禁欲的な、禁酒主義者や菜食主義者を批判した。個人でやる分には構わないが、それを他人に押し付けることをオーウェルは拒絶した。一杯のおいしい紅茶を飲んだり、近所のパブへで出かけること、季節の移ろいを楽しむこと。社会主義を実現するには、小難しい理論を並べたり、労働者のささやかな楽しみを奪ったり、個々人の趣味や価値観を変えたりする必要はないというのがオーウェルの考えだったと思われる。彼がよく通ったロンドン中心部ソーホーのパブには、その旨を記した銘板がある。

ロンドンのソーホーのパブ Dog and Duck

オーウェウルが住んだイスリントンの家は、当時、ロンドンで一番美しいとも言われたカノンベリー・スクエアに面したタウン・ハウスで、この界隈には作家のイヴリン・ウォーや画家のヴァネッサ・ベル、フランシス・ベーコンも住んでいたという。実は、私は、労働者住宅寄りの貧しい家をイメージしていたので、現地を訪れて少々意外だった。だが、オーウェルは労働者の生活をルポタージュし、彼らの労働環境の改善を心底望んでいたが、労働者の“臭い”はどうしても耐えられないと述懐していた。中流階級出身で、労働者階級とは話し言葉も違う。労働者階級にはなりきれないことを自覚していていた。オーウェルは自身のことを“トーリー(保守)・アナキスト(無政府主義者)”と呼んだという。そのことが、納得される家だった。オーウェル関連の記念碑はロンドンに何ヶ所もあるが、いずれも現在では比較的高級といわれる地域にある。

カノンベリー・スクエア
左:ノッティング・ヒルのオーウェルの住んだ家にブルー・プラークが設置されている
右:パーラメント・ヒルの家にはハムステッド・プラーク・ファンドによるプラークが設置されている

イギリスは、いち早く産業革命を成就させ、生産力を増大させはしたが、農地を奪われ、都市の流入した多くの人々は過酷な労働環境に喘いでいた。アメリカの独立革命や隣国のフランス革命はイギリスにとって他人事ではなかった。爆発的な人口増の中で、“大衆”の一人一人が、いかにして人間的な生活を送るのか。その命題はおよそ200年をかけて模索され、今もその実現に向けた途上にあるといえよう。

19世紀末、ウィリアム・モリスが著した『ユートピアだより』も、およそ22世紀を舞台として、労働の喜びを基本とした自由な社会を描いたファンタジーだった。あと100年で、到達し得るかは分からない。しかし、まず、本連載では“労働者・大衆”の時代とともにあった建築に、その痕跡を辿ってみたい。■

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★1:BBC「イギリスで教師30万人がスト 子供たちと親の反応は?」2023.2.3 https://www.bbc.com/japanese/video-64507745 (Accessed on 13th Feb 2023)
★2:2016年「建築と社会を結ぶー大髙正人の方法」、平成29年度、30年度収蔵品展企画図録は国立近現代建築資料館HPで閲覧可能。https://nama.bunka.go.jp (Accessed on 13th Feb 2023)
★3:『現代日本建築家全集 18 大谷幸夫 大髙正人』粟田勇、現代思想研究所、三一書房、1970年、p. 136
★4:大髙正人「最近10の設計」『建築』1974年1月号
★5: 山名元「農協事務所建設の問題点(最終回)」『農業協同組合』9’4)(98)、1963–4、 p. 129
★6:松隈洋・蓑原敬・中島直人『建築家 大髙正人の仕事』エックスナレッジ、2014年、 p. 138
★7:2022年11月25日 藤本昌也氏聞き取り調査
★8:BUNGANET: https://bunganet.tokyo/kaiinkumiai/ (Accessed on 13th Feb 2023)、美術手帖: ttps://bijutsutecho.com/magazine/news/report/26600 (Accessed on 13th Feb 2023)
★9:大髙正人とは東京大学第二工学部の同期。清水建設を経て農林中金に勤務。1974年に社団法人地域社会計画センター設立。
★10:Architects’ Journal 2004/03/11
★11:150 years of TUC: https://tuc150.tuc.org.uk/stories/congress-house (Accessed on 13th Feb 2023)
★12:Architects’ Journal 1990/04/11
★13:「1960年代のロンドンの建築シーンを振り返る ──AAスクール、『Architectural Design』、セドリック・プライス」https://www.10plus1.jp/monthly/2014/08/pickup-01.php (Accessed on 13th Feb 2023)
★14:Architects’ Journal 1999/04/11
★15:‘London’s Blue Plaque’ https://www.english-heritage.org.uk/visit/blue-plaques/ (Accessed on 13th Feb 2023)
★16:Russians in London: Pyotr Kropotkin, http://sarahjyoung.com/site/2011/01/09/russians-in-london-pyotr-kropotkin/(Accessed on 13th Feb 2023)
★17:土屋宏之・上野勇訳『ウィガン波止場への道』筑摩書房

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Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』