吉田鉄郎の『日本の住宅』(1935)──馬場氏邸と桂離宮[後編](翻訳:江本弘)

国立近現代建築資料館(NAMA)講演、2020年1月25日

Manfred Speidel
建築討論
16 min readSep 27, 2022

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はじめに

本稿は、2019年冬に国立近現代建築資料(NAMA)で行われた「吉田鉄郎の近代──モダニズムと伝統の架け橋」展(会期:2019年11月1日~2020年2月11日)のギャラリートーク原稿を、マンフレート・シュパイデル氏の意向により訳出・公開するものである。

前編では、吉田鉄郎(1894−1956)が1935年にドイツ語で出版した『日本の住宅』(Fig. 1)の特殊な編集方針が、1931年から翌年にかけての外遊、ドイツ語圏の建築家との交流などから解き明かされた。この後編では、ドイツ語圏の建築家と昭和初期の日本の建築界との情報交流を辿りながら、吉田の代表作のひとつである「馬場氏牛込邸」(1928年竣工、現・最高裁判所長官公邸)の、実作とプレゼンテーションのねじれへと考察が進められる。(江本)

Fig.1 吉田鉄郎『日本の住宅』初版表紙

3.吉田とノイトラ(1930)

吉田の馬場邸にはほかにも興味深い点があります。ドイツ工作連盟の御用雑誌である『ディー・フォルム』を読みこんでいた読者ならば、吉田がベルリンに到着する1931年10月の半年前に彼の名前をそこに見つけている可能性もあったでしょう。オーストリア人建築家でフランク・ロイド・ライトの弟子でもあったリチャード・ノイトラ(1892–1970)が、1930年6月に日本を訪れたあと、その雑誌に日本建築の発展に関する3部構成の批判記事を寄稿していたのです(Fig.2)★1。

Fig.2 R.ノイトラ「日本の住まい:由来と問題」(『ディー・フォルム』1931年6月)

第1部は「日本における現在の建設活動」と題されていました。そして第2部の「日本の住まい:由来と問題」のなかで、ノイトラは東京の同潤会アパートの写真を用いて高度に発達した日本の伝統住宅の内的論理を紹介しながら、今やそれも「機能上の正当性を失いつつある」のだと語っています。 また彼は、石本喜久治や伊藤正文の作品の写真を用いて、現代建築家が設計した日本建築内部の、厳密な幾何学的抽象性を示しました。ここに吉田の馬場邸の写真が現れます(Fig.3)。まず応接間。そして次のページに風呂場、箪笥壁の部屋、書院ときますが、これらの写真は『新日本住宅図集』で使われたのと同じものです。ドイツ人読者は見とれたことでしょう。実際、それらはきわめてモダンなものと映りました。ただしノイトラは本文のなかで、それらが生き残る見込みはないと語っています。

Fig.3 馬場氏牛込邸内観(『ディー・フォルム』1931年6月)

ノイトラは米国のフランク・ロイド・ライトのタリアセンに滞在しているあいだ(1923年から火災のあった1925年まで)に、土浦亀城とその妻信子との親交を深めました★2。1930年6月に来日することになったのも土浦の招待がきっかけです。

ノイトラは2つの一般公開講座で講演を行いました。ひとつはインターナショナル建築会の主催で、 6月11日に東京で開かれたものです。『国際建築』の広告(Fig.4)には、左に「主催 国際建築協会」と書かれ、写真部分には「ノイトラ氏新建築講演会」、そして括弧書きで「土浦亀城通訳/幻燈説明」とあります。右側は『国際建築』の宣伝です★3。

Fig.4 「ノイトラ氏新建築講演会」広告

この翌日、前川國男がノイトラに宛てて興奮した手紙を書き送り、近代建築の国際性と無名性にとって、あのような講演は無くてはならないと伝えました。

大阪での講演は、毎日新聞社と日本建築家協会の後援のもと、1週間後の6月17日に行われました★4。その手配は振興建築会という共産主義団体によるものですが、吉田も一時(1930年末の解散まで)ここに参加していました。ポスターによれば、この講演会は司会を中尾保とし、伊藤正文が「近代建築の動向」、本野精吾が「日本に於ける問題」について喋り、石本喜久治がノイトラの経歴を紹介、そして最後にノイトラが幻燈を使って「インターナショナル建築」を講演しました。

講演者は皆、インターナショナル建築会(Arkitekturo Internacia)のメンバーです★5。これは大阪・京都を中心に1927年に結成された組織で、1933年にブルーノ・タウトを日本に招待したのも彼らです。吉田を含む(近代)建築家が、ノイトラに自作を紹介し写真を渡したことは明白です。『ディー・フォルム』でノイトラが使った写真(Fig. 5)は、伝統建築と近代住宅のバランスがしっかりとれていました。なかでも石本の作品が気に入っていたようです。

Fig.5 「朝日新聞社員クラブ」(片岡石本建築事務所、1930年竣工)(『ディー・フォルム』1931年9月)

4.馬場氏邸のミステリー、西洋室はどこだ

ブルーノ・タウトは1933年5月末までに東京に着いています。彼と妻が敦賀に到着したのは5月3日のことですが、そこから上野伊三郎とその他のインターナショナル建築会のメンバー2人に連れられ、京都を訪れています★6。図の右から2番目が中尾保、3番目が上野伊三郎です。京都・大阪のときと同じように、そしてノイトラのときと同じように、タウトもやはり、新聞社(毎日と朝日)をスポンサーとする公開講座での講演に招かれました。

主催者側は、タウトと日本人建築家との会合とともに、彼らの建物の見学会を企画しました。タウトは京都と東京のあらゆる現代建築家たちと面識を得ることとなりましたが、日記のなかには同時に、慎重にこうも書いてもいます。1933年5月28日に東京で書かれた日記です★7。

「吉田鉄郎、山田〔守〕、谷口Y〔吉郎〕と同行。吉田の中央郵便局、きわめて良し。適切、即物的〔Sachlich〕。吉田、能力すぐれ〔beste Kraft〕 、よい人〔lieber Mensch〕……山田の住宅、一部モダン、一部日本的。日本部分よし……西洋室プロポーションなし……」。吉田の馬場氏牛込邸にはこう書いています。「日本部分優。玄関!主応接間、銘木。住宅。老人部分、瞑想室、浴室きわめて簡素、大きい。日本の風習に従い鏡には覆い。妻は暖炉前で料理する。まるで宮殿、非常に高価。費用:2年前に15万、庭園5万(小山、石、樹木、すべて新品)馬場銀行家。西洋室もきわめて良し、玄関階段室の木材のみ「ベルリン的」」。

明治時代の近代化以降よくあることとはいえ、馬場氏牛込邸には木の床や木のテーブル、木の椅子の「西洋室」もいくつかあったのです。ですが1935年の本には、そうした西洋室の写真も、平面図も掲載されていません!NTTファシリティーズの吉岡氏が応接間と階段室の写真を見せて下さり、私は驚きました。私が編集したタウト日本日記の1933年の巻には、その西洋室の写真が2点追加されています。申し上げた通り、これがこの西洋室の、書籍での初お目見えのはずです(Fig.6)。

Fig.6 馬場氏牛込邸西洋室(図版左下)(M.シュパイデル編『日本のタウト:日記 第1巻 1933年』(2013))

階段室の「ベルリン的」な木製パネル壁はそこまでおかしくは見えません。たしかに、ソファーテーブルのカクカクした構成と全体のやわらかな雰囲気とが、すこし矛盾しているような気はしますが。

1954年にヴァスムートから出版された『日本の住宅』第2版には馬場氏牛込邸の平面図も掲載され、ここには西洋諸室も示されています★8。階段室もすぐわかります。ですが、西洋応接間はどこだったのでしょうか。平面図には内壁にくっついた本棚と床の間が図式的に描かれた「西洋室」が見えます。写真(Fig.7)には2つの「西洋式窓と、壁紙の貼られた高い壁」が写っています。

Fig.7 馬場氏牛込邸 西洋室写真(NTTファシリティーズ蔵)

昨年(2019年)の3月に近現代建築資料館で馬場氏牛込邸の図面を見たとき、私ははじめて『日本の住宅』の平面図がフェイクであったことを悟ったのでした(Fig.8)。暖炉のある部屋だったのか!もちろん、私も1968年の本をチェックしていれば、正しい平面図を見つけられていたはずなのですが★9。

Fig.8 馬場氏牛込邸1階平面図(拡大):『日本の住宅』第2版(1954、左)と原図面(右、国立近現代建築資料館蔵)

写真(Fig.9)には、大理石の大きな暖炉と、時計と油絵が写っています。これはある種、石造建築にみられるモニュメンタルな配置です。それを取り囲む市松模様の壁紙が、桂離宮の松琴亭に取材していることは明らかです。ですがタウトはそこには触れていません。タウトにとっては、それは一種のキッチュであったはずです。

Fig.9 馬場氏牛込邸 西洋室暖炉写真(NTTファシリティーズ蔵)

背面ファサード(Fig.10)の写真もありません。煙突は低く抑えられていますが、これはおそらく、切妻屋根の線を邪魔しないためでしょう。この暖炉が暖炉として本当に機能したのか、私には疑問です。

Fig.10 馬場氏牛込邸立面図(拡大)(国立近現代建築資料館蔵)

もう一方の西洋室には非常に薄い、煙突のない暖炉がついています(Fig.11)。壁は耐火用に石材かコンクリートのはずだと思うのですが。

Fig.11 馬場氏牛込邸 西洋室写真(NTTファシリティーズ蔵)

吉田はなぜ西洋室を見せたがらなかったのか。吉田はなぜ、日本の近代住宅の構造は純粋に伝統木造で、かつモダンな抽象性のようなものをそなえ、無装飾であるという印象を与えたのか。

あるいは、吉田にはその判断に確信が持てなかったのか。

5.余談

吉田はブルーノ・タウトの日本近代建築観をはっきりと意識していました。タウトの日向別邸内装のための実施図面、3つの異なる部屋の詳細は、すべて吉田のアシスタントが描いたものです。ひとつは西洋式の部屋、ひとつは新しい空間概念との一種の総合である、赤い絹布で壁の張られた海の景色を臨む階段スペース、ひとつは馬場邸の応接室のように厳格な和室です。これらの室を開け放てば、ひと続きの流れが生まれます。この3つの様式は互いに衝突しあいますが、タウトはそれを自慢に思っていました。このポストモダン的ともいえるタウトの態度は吉田にとって未知なものであったはずです。吉田も堀口捨已同様、西洋室と和室を慎重に切り分けたのです。

吉田がタウトの熱海の日向別邸(1935–36)を手伝ったことで、1936年から1940年にかけての自身の住宅設計にどれほどの影響があったかは分かりません。日向別邸の実施図面を完成させるために、タウトは何時間も吉田と議論を重ねて修正を行っています。タウトはプロポーションに念を入れ、それによって調和を得ようとしました。

吉田にはそのことがよく分かっていたはずです。吉田はそれまでにもタウトの原稿を翻訳しており、そこにはタウト著作集の『日本の建築』★10に収録されることとなる、日向別邸の解説も含まれていました。

1936年10月7日の『アサヒグラフ』に、タウトが日本に設計した2点の建築作品が掲載されました(Fig.12)★11。タウトが日本を発ち、トルコに向かうちょうど一週間前のことです。そこには日向邸の社交室が見開きで、そして久米権九郎とともにファサードと内装をデザインした大倉邸が紹介されています。タウトのタイトルは「新日本の住宅とは?」でした。タウトの文章を訳していたのは吉田です。

Fig. 12 B.タウト「新日本の住宅とは?」(『アサヒグラフ』1936年10月7日)22–1657/朝日新聞出版に無断で転載することを禁ずる

思い返せば、吉田が1931年に馬場邸の写真を出版した際の本のタイトルは『新日本住宅図集』でした。タウトのタイトルはおそらく吉田への返答だったのでしょう。タウトには確信がありました。新日本の建築は、伝統木造構造でもなければ、モダニズムのガラスの宮殿でもないのだと。

新日本の建築は、現代の生活様式と、高温多湿で過ごしにくい日本の気候に合わせたかたちで、それら両者を含むべきである。タウトの提案は、影をつくる庇を出し、その上部に付加的な開口を設けることで、テーブルの椅子に座っている人に風と光をもたらすというものでした。

タウトは現代の生活様式に直面した伝統という問題に取り組み、併用の可能性を見つけました。一方の吉田は、2つの世界を注意深く切り離しただけでなく、他国の読者に対してそれを隠し、それが純粋な日本家屋であるという印象を与えました。その理由は何だったのでしょうか。

タウトによる「世界的奇跡」桂離宮に対する称賛の影響は、吉田(あるいはヴァスムート)が戦後に出版した本の表紙に、いずれも桂の図版を用いたことにあらわれています(Fig.13)★12。

ドイツ人読者にとって、桂離宮はすでにそのとき、日本建築の同義語になっていたはずなのです。■

Fig.13 吉田鉄郎ドイツ語3部作 戦後の表紙:『日本の建築』(1952、左)、『日本の住宅』(1954、中)、『日本の庭園』(1957、右)

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注:

★1: Richard J. Neutra, „Gegenwärtige Bauarbeit in Japan,“ Die Form, Band 6, Heft 1, Jan. 1931, S.22–28; Richard J. Neutra, „Japanische Wohnung. Ableitung. Schwierigkeiten,“ ibid., Band 6, Heft 3, Jun. 1931, S.92–97; Richard J. Neutra, „Neue Architektur in Japan,“ ibid., Band 6, Heft 9, Sept. 1931, S.333–340
★2:Edgar Tafel. Frank Lloyd Wright persönlich. Zürich, München 1981, p.117
★3:Thomas S. Hines, Richard Neutra and his search for Modern Architecture, University of California Press 1962, pp.92–93
★4:Neutra, „Gegenwärtige Bauarbeit in Japan,“ p.22
★5:インターナショナル建築会(Arkitekturo Internacia)は大阪・京都を拠点とする団体で1927年創立。1929年からは日本語およびエスペラントで書かれた同名の国際誌を発行し、ドイツ、オーストリア、オランダに名誉会員を擁した。リチャード・ノイトラも1930年からここに名を連ねた。1933年にブルーノ・タウトを日本に招いたのも本団体であった。
★6:篠田英雄編訳『日本: タウトの日記 1933年(第1巻)』、岩波書店、1975、p.37; M. Speidel (Hrsg.) Bruno Taut in Japan, Das Tagebuch, 1. Band 1933, Berlin 2013. Tsuruga, Fig. p.18
★7:同前。以下の引用について、亀甲括弧内は論者による補足および、ドイツ語原文の指示。
★8:Tetsuro Yoshida, Das japanische Wohnhaus, Wasmuth Tübingen 1954. 馬場氏牛込邸の平面図はpp.86–87掲載、西洋応接間は29番。
★9:吉田鉄郎作品集刊行会『吉田鉄郎作品集』、東海大学出版会、1968年、p.39
★10:『日本の建築』は育生社弘道閣「タウト全集」の第4巻として1943年の出版が予告されていたが、未刊とされる。戦後「タウト著作集」第2巻として出版される。ブルーノ・タウト著、吉田鉄郎訳『日本の建築』、育生社、1946年
★11:「日本建築讃仰の結晶」、『アサヒグラフ』第27巻第15号、1936年10月7日。 M. Speidel (Hrsg.) Bruno Taut in Japan, Das Tagebuch, 3. Band. 1935–36, Berlin 2016, S.282–283に再掲。
★12:Tetsuro Yoshida, Japanische Architektur, Wasmuth Tübingen 1952; Tetsuro Yoshida, Das japanische Wohnhaus, Wasmuth Tübingen 1954 (4. Edition 1969); Tetsuro Yoshida, Der japanische Garten, Wasmuth Tübingen 1957

著者略歴
マンフレート・シュパイデル(Manfred Speidel)
アーヘン大学名誉教授/博士(建築学)
1938年生まれ/シュトゥットガルト工科大学卒業/早稲田大学において吉阪隆正に師事(1966–1975年)/アーヘン大学教授(1975–2003年)/日本、ドイツ、トルコにおいてブルーノ・タウト研究に従事し、『タウトの日記』原語版や日本論を中心に、ブルーノ・タウト著作集(Gebr Mann、全13巻)の編纂に携わる/日本(1994年、2007年)およびドイツ(1995年)にてタウト展開催/共著に『ハインツ・ビーネフェルト』(W. König 1991)、『ドミニクス・ベーム 1880–1955』(Wasmuth 2005)、『ゴットフリード・ベーム』(Jovis 2007)、編著に『TEAM ZOO 1971–88』(Thames & Hudson 1991)/ほか近現代建築に関する著書・論文多数

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Manfred Speidel/アーヘン大学名誉教授。博士(建築学)。1938年生まれ。シュトゥットガルト工科大学卒業。早稲田大学において吉阪隆正に師事(1966–1975年)。アーヘン大学教授(1975–2003年)