商業空間から公共性を視る―オルタナティブ・パブリックネス論について

西倉美祝/Alternative Publicness — The Perspective of Commercial Architecture/ Minori Nishikura

西倉美祝
建築討論
15 min readSep 30, 2020

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01.商業性と公共性の間に横たわる、謎の「にぎわい」

商業空間と公共的な空間は相矛盾するものとされてきた。
例えば、斎藤純一による以下の指摘を見てみよう。

まず、「現われの空間」(the space of appearance)としての公共性の意味を少し踏み込んで探ってみよう。それは、人びとが行為と言論によって互いに関係し合うところに創出される空間、「私が他者に対して現われ他者が私に対して現われる空間」である。※1

行動とは、「規則」を再生産する活動様式、正常な規範にしたがった振舞いすることを通じてその規範の効力をさらに強化していく活動様式のことである。行動は、すでに確立されている規範的な意味を反復する — — この反復は定義上ズレをともなわない — — ことによって、それを正統化していく。※2

「社会的なもの」の全域を「行動」によって覆い尽くすことによって、「社会的なもの」を覆していく「行為」の可能性はその外部に排除されてしまう。※3

この引用に従って解釈するなら、公共的な空間とはすべての人が自由に「行為」できる空間であり、他方商業空間は「入店→商品選択→レジ会計→退店」といった管理された「行動」を人に強いる空間となる。「自由な行為」と「管理された(不自由な)行動」、この両者の特徴と違いを図にして表現してみると、以下のような「広場モデル(公共的な空間)」と「店舗モデル(商業空間)」として表現できる。

図A-01:店舗モデル、図A-02:広場モデル

しかし現実社会はそうは見えない。

サードプレイス的カフェ、パーク(公園)の名を冠した商業施設など、商業空間はある種の公共性を帯び始めているように見える。公共空間サイドも、Park-PFIなどの商業性をより意識する傾向を見ることができ、「新しい公共」とも表現されるこの流れは、理論的な矛盾に反して「商業性と公共性の相補的な関係」が存在しているかのように感じさせる。商業空間により多くの来客を見込むためには「公共性」が必要で、公共的な空間の維持には経済的な基盤、つまり「商業性」が必要であるという具合だ。

図B-01:商業性と公共性の相補性

そして、この商業性と公共性の仲介項(⇄)が、いわゆる「にぎわい」なのだろう。相反する「商業性」と「公共性」は、「多くの人が集う(にぎわい)」という共通の目的によって結託してしまう。ハンナ・アレントに「社会的※4」とも批判されそうな状況だが、ところで「にぎわい」は具体的に何を意味するのだろうか。アレントは公的領域が理想的な状況になるためには人々の間の相互「活動」と「言論」が重要としている※5が、家族や友人と会話することはあっても、街中で突然知らない人たちと会話を始めるといったケースは稀だ。すると「にぎわい」は集客数を意味するだけの公共性からは程遠いものなのだろうか。

02.商業空間の行為調査からの気づき

人々が「行動」に支配されていると思われがちな商業空間だが、注意深く観察すると「行動」から予想外に逸脱する「行為」が無数に存在することが分かる。
下図は筆者が実施した商業空間における行為調査(共同:東京大学川添研究室)のうちの1つで、ある商業空間における「隅のベンチ(デッドスペース)をリビングのように勝手に利用する逸脱行為」の事例だ。商業空間特有の動線(=行動)がデッドスペース発見を促し、設計・運営サイドが予想しない形での有効利用を発生させていると読める。

図B-02:商業空間における行為調査事例(作成協力:Juree Saelee)

ここでこの逸脱行為を、「特定の『行動』を前提に発生する行為」として改めて「Ex.行為」と呼ぶことにする。このEx.行為は斎藤純一による以下のアレント解釈から発想されたものでもある。

行為は行動とは別次元の活動様式としてではなく、行動の空間の内部に不断に生まれる活動様式としてとらえ直すことができる。※6

また、商業空間で見られる「行動」も「Ex.行為発生の前提となる行動」として改めて「Pre.行動」と呼んでみると、「店舗モデル」は以下のように書き換えられる。

図A-03:店舗モデル(Pre.行動-Ex.行為)

するとPre.行動とEx.行為は、冒頭で示した「管理/自由」の二項対立とは異なる、循環として解釈できる。

図B-03:Pre.行動-Ex.行為の循環

Pre.行動を前提とし各人の自由意志がEx.行為を生み出し、そのEx.行為が発見・分類されることで、花見の沿道に屋台が出現するかのように、何かしらの商業形態を伴いPre.行動として再生産される可能性が生まれる。

図A-04:Ex.行為の再生産により生まれるPre.行動

逆に、最初から複数のPre.行動を一つの空間に埋め込み、商業空間を多目的化するという動きも実際に見られる。喫茶ランドリーを例に見てみよう。

図B-04:喫茶ランドリー平面パース

図のように、喫茶ランドリーは飲食空間、ランドリー空間、執務空間で構成されており、その中央にレジカウンターが存在する。各空間の利用者はレジカウンターを介して別の空間の利用者と出会うようになっており、ふとしたキッカケで執務空間の店員と会話が生まれたり、飲食空間とランドリー空間を併用する人が現れたりする。さらに、ランドリー空間で歩き回る人に影響されてか、飲食空間の人も比較的自由に店内を歩き回っていたりする。複数の異なるPre.行動を効果的に並存させることで、より多様なEx.行為が生み出される事例として見ることができる。

図A-05:複数のPre.行動から生まれるEx.行為

しかしこれらEx.行為は、果たして商業空間の公共性の証左と言えるのだろうか。各々が自由に何かをしているだけでは、アレントが指摘するような相互の活動を意味しない。一方、喫茶ランドリーにおける店員との会話のように、Ex.行為がキッカケで実態的な相互活動が行われうることも事実だ。

03. 「お互い知っているけど会話するのは面倒くさい」=潜在的公共性

アレントが言う、実態的な相互の活動や言論がある状況を「顕在的公共性」と表現してみる。それに対し、お互いの素性を全く知らずにいる状況を「無関係」と呼んでみよう。当たり前だが「無関係」は、相互の会話も関係もないので「公共的である」とも「にぎわっている」とも言えない。では、「無関係でない」=「顕在的公共性」であるかというと、そうでもない。「それぞれが勝手に何かしているのを見ているので、お互いのことはある程度知っているが、キッカケがない限り面倒くさいから会話はしない。」という、どっちつかずで、だからこそ現実的な領域が「無関係」と「顕在的公共性」の間に存在する。これが「Pre.行動⇄Ex.行為」が依拠する領域であり、筆者はこれを「潜在的公共性」と呼び、商業空間から視た公共性であると考えている。

図B-05:潜在的公共性とPre.行動-Ex.行為

商業空間には顕在的公共性を強要する義理もメリットもなく、「各人がほどほどに自由にしていて互いを知っている(けど面倒くさいから会話はしない)」をひたすら蓄積することが、商業空間、ひいては建築空間一般に可能な次元の公共性であると、筆者は考えている。また、人々が実際に会話をして実質的に関係しあっている状況を仮に「実態的なにぎわい」と呼ぶなら、「潜在的公共性」は実態的なにぎわいを強要せず、できるかぎり多くの他者と並存し、できるかぎり多くの他者へ想像力を巡らす「想像的なにぎわい」に重きを置いている(1人との対話より100人への想像力)、とも言えるかもしれない。
・・・とは言え、「仮に自由な行為が可能だとしても、商業空間は商業の都合で人を差別し特定の人を疎外しうる時点で公共的とは言えないのではないか?」という批判は依然あり得るだろう。これについては「都市的回答」と「建築的回答」の2つを、以下に提案したいと思う。

04.複数の空間の積層で作る公共性(APness論その1:都市的回答)

商業空間から視た公共性論として、筆者はオルタナティブ・パブリックネス論(APness論)を展開している。下図はその中で提案されている「異なる人間関係やサービスを享受できる空間(オルタナティブ・パブリック=AP)を、必要に応じて選択しながら営むライフスタイル」を示している。ここでいうAPとは商業空間だけでなく、家族のような小さなものから宗教や国といった大きな圏域も並列して含んでいる。

図A-06:APness論1(ビルのような公共性)

この図が提示しているのは、「あるAPが何か・誰かを疎外していたとしても、積層したAP群全体で見れば、すべての人と行為がカバーできる」という都市像だ。APn+3では憚られる宗教の話題をAPn+7で気心の知れた人とするように、各APは無理に完ぺきな公共性を実現する必要はなく、それぞれが持つ「潜在的公共性」を最大限蓄積していけばよい。もしあるAPで疎外される人や行為が存在したとしても、それは価値還元のブルーオーシャンとして、他のAPが積極的に開拓し「商業性⇄公共性」の相補性に取り込むことを期待できるからだ。
そのためこの都市像では、1つのAPが「誰も・どんな行為も疎外しない」完ぺきな公共的空間を目指すこと以上に、各APが何・誰を疎外しているかに着目し、AP群ではカバーしきれない原理的な疎外を明らかにすることを重要視する。どんなAPでも何かしらの疎外は現実的には避けがたい。そのため、「受け入れること」と同時に「疎外すること」をAPの個性として認め明示することで、公共事業がサポートすべきポイントを洗い出すことができる。また、一律にどのAPも同じような「にぎわい」を追い求めなくなるので、個性豊かで多種多様な「想像的なにぎわい=潜在的公共性」によって都市が満たされていくと考えている。

05.複数の視点が同時並存する建築(APness論その2:建築的回答)

ここまで、多数無数の異なる空間が同時並存することにより都市における公共性を捉えた。しかしこの「複数空間の同時並存」は都市に限らず建築単体の次元でも実現することができる。以下ではスペインのメスキータを事例として取り上げ、建築単体における「異なる視点=空間の複数同時並存」について掘り下げていきたい。というのも、この寺院は「イスラム教のモスクでもあり、キリスト教の教会でもある」という特徴を持っているからだ。

図B-06:メスキータ内観(筆者撮影)

平面図を見ながら考察していこう。

まず、この寺院は教会なので、平面図を見ると寺院空間の中央に教会があるのが分かる。

図B-07:メスキータ平面図(キリスト教視点) ※7

他方、この寺院はモスクでもあるのでミフラーブとその軸線によっても構成されている。一見すると教会部分に妥協して軸線が偏芯しているようにも見えが、イスラム教徒の「膝をつきお辞儀をする」という儀礼を念頭に床材(平坦な白い大理石とデコボコしたレンガ)の範囲に着目すると、ミフラーブの軸線はしっかりと大理石床の中央を通っている。

図B-08:メスキータ平面図(イスラム教視点)※7

結果メスキータは、2つの宗教を対立・干渉せずに並存させており、キリスト教の儀礼=Pre.行動Aに従っている人には教会空間になるし、イスラム教の儀礼=Pre.行動Bに従っている人にはモスク空間にもなるという稀有な両義性を成立させている。「依拠するPre.行動によって建築への視点が変わり、一つの建築の中にあたかも複数の空間が同時並存してしまう、そんな可能性を示す事例だといえよう。

そしてこの現象をより一般化すると、以下のような店舗モデルの積層として表現できる。

図A-07:APness論2(パースペクティブ主義的建築)

つまり、上手く設計ができれば空間の物理的容量に関係なく別様のPre.行動=視点を無数に同時並存させられ、結果、視点の数だけ半ば無限に異なる空間を一つの建築に埋め込めこむことができる。これは商業空間においても、別種のPre.行動(ビジネス)を互いの邪魔にならないよう同時並存できることを意味し、この別視点=空間の同時並存自体が、メスキータにおいて同じ建築を共有するキリスト教徒とイスラム教徒が会話しようと思えば会話できる(でもしなくてもいい)のと同様、潜在的公共性であると言える。
事実、上述の通り喫茶ランドリーではすでに近しいことが実現されている。またb8taなどの店舗では物理的空間での商品販売だけでなく、顧客が店舗で商品を手に取る様子をデータとして販売元に売るという商業を展開しており、これも物理的空間のPre.行動(商品販売)と非物理的空間のPre.行動(データ還元)の両方を商業空間で同時並存させている例と見ることができる。

06.まとめ

以上をまとめてみよう。
実社会の動きを見ると、商業性と公共性には相補的な関係性があるように感じられ、その相補性の仲介項がいわゆる「にぎわい」であると解釈した。しかし、「にぎわい」がそのまま公共性を意味するわけではなく、実際の商業空間の行為調査からPre.行動⇄Ex.行為の循環を発見し、無関係と実質的な会話・関係(顕在的公共性)の間にある「互いに知っているけど面倒くさいから会話はしない(想像的なにぎわい)」という状況を潜在的公共性と呼ぶことで、これをひたすら蓄積することが「商業空間から視た公共性」であると捉えることができた。
さらに、都市を多数の空間=APの積層として見れば、「AP群を総合すれば公共性の理想を達成する」というビジョンも構築でき、他方、複数視点・Pre.行動の同時並存により、一つの商業空間=建築においても際限なく複数の空間=APを導入することができる。
そのため、商業空間から視た公共性においては、一つの空間=APが完ぺきに公共的であることよりも、一つ一つのAPが個性的であることと、特定の何か・誰かを疎外していることもその空間=APの個性として引き受けることが重要である。公共事業の一時的にサポートが必要な「いずれのAPからも疎外されてしまう行為や人」を発見する必要があるからだ。

都市や建築には視点の数だけ無限に潜在力がある。それをどん欲に開拓する検索エンジンとして、商業空間には魅力がある。もしかしたらどこかの未だ見ぬ商業空間が、全く新しい潜在的公共性を実現しているかもしれない。

※1:「公共性」(岩波書店)著:斎藤純一 p39 l9–112

※2:「公共性」(岩波書店)著:斎藤純一 p52 l19-p53 l1

※3:「公共性」(岩波書店)著:斎藤純一 p52 l15–117

※4:「人間の条件」(ちくま学芸文庫)著:ハンナ・アレント/訳:志水速雄 p64 l1–8
以前には家族が排除していた活動の可能性を、今度は社会が排除しているというのは決定的である。活動の可能性を排除している代わり、社会は、それぞれの成員にある種の行動を期待し、無数の多様な規則を押しつける。そしてこれらの規則はすべてその成員を「正常化」し、彼らを行動させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ。ルソーとともに私たちは、このような要求を上流社会のサロンに見る。・・・問題なのは、このように個人が社会的地位にふさわしいものでなければならないとする態度であって、その枠組みそのものが問題なのではない。

※5:「人間の条件」(ちくま学芸文庫)著:ハンナ・アレント/訳:志水速雄 p321 l7–9
出現の空間は、人びとが言論と活動の様式をもって共生しているところでは必ず生まれる。したがってこの空間は、公的領域やさまざまな統治形態、つまり公的領域が組織されるさまざまな形態が、形式的に構成される以前に、存在するものである。

※6:「公共性」(岩波書店)著:斎藤純一 p54 l5–17

※7:引用元:https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/45/96/85/src_45968502.jpg?1477141874

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西倉美祝
建築討論

にしくら・みのり/建築家 MinoryArts(建築設計)代表 CAP(=Club Alt. Publicness 企業の公共性コンサル業務)代表 東京大学大学院博士課程在籍 1988年生まれ 2015年-2017年株式会社坂茂建築設計勤務 現在「商店建築」にて「商業空間は公共性を持つか」を連載中