土居義岳
Jun 15, 2018 · 16 min read

テーマとしての日本

古今の作品100点ほどをあつめ、模型などマテリアルも充実している展覧会である。日本をテーマとしている点についてはすでにプレスやSNSなどで論がいくつか示されている。専門組織である日本建築学会において開示されるエッセイとしては、結論先取り的にシンプルな構図を示したい。本展は次のような文脈でとらえられよう。

(1)かつて近代において、西洋はなにより古く伝統的な日本像をもとめた。モダンな日本はとくに期待しなかった。

(2)日本はモダンな日本像をアピールすることで、西洋に追いつき追い越す気概をみせたかった。

(3)西洋と日本とのあいだの妥協点ができた。すなわち日本では日本らしさが伝統とモダンを貫通しているという美学にして歴史観であった。

(4)妥協の帰結は多様で永いこと有効であった。とりわけ日本では前近代/近代の断絶はそれほど厳しくもなかったという誤解、近代の超克もじつはできていたなどという超楽観論も可能になるくらいの日本特殊論ができた。この日本特殊論は、日本らしさをより強固にするという循環を可能にするとともに、さらに固定化されて疑いえない自然や風景のようなものとなった。「建築の日本」展はその延長線上にある。

国際的な建築展というものはさほど遡及できないので、補助線として、万国博の日本館なるものをレビューしてみよう。1893年に開催されたシカゴの世界コロンビア博では日本館が平等院鳳凰堂風(本展にも展示されていた)であったように、伝統建築が日本をリプリゼントしていた状況が続いた。1937年のパリ万博における坂倉準三によるモダンな日本館は例外であった。1964〜65年のニューヨーク世界博覧会における前川國男の日本館は城郭石垣風であった。そして1967年のモントリオール博では、芦原義信による雁行型に配置された校倉造りにいたり、やっとモダンと伝統とはバランスがとれた。こうした背景のうえで、MoMA(ニューヨークの近代美術館)が1953〜58年に巡回展として企画した「日本建築」展の展示内容をめぐり、アメリカ側はあくまで伝統建築を展示することを考えていたが、日本側は伝統とモダンの両方を展示することを訴えて譲歩を引き出した。この一件は近代における日本らしさの構図そのものであり、本展の歴史的位置づけを考えるのに示唆的である。

虚構性

日本建築とはもちろん近代になって構築された概念である。まず伊東忠太は「建築進化論」(1909)のなかで世界を分節化し、そのなかに日本を位置づけようとしたが、それ以上の理論展開はできなかった。問題は、いわゆる古典建築、西洋建築、大陸(中国)建築との差別化において、日本建築なる概念を「○○でないなにか」として、ポジティブな定義からではなくいわば虚構として立ち上げたのに、そのメカニズムを忘れてしまい、なかば実体、なかば虚構であった日本建築についての誤った自明性のなかに自らを没入させてしまったことであった。この懸念そのものが数十年へても払拭されていない。いっぽうアカデミーでは近年、いちど大陸から切断した日本建築の伝統を、ふたたび大陸に接続させようとしているが、これは研究上のリバイバルでもある。

かつて村松貞次郎は『日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(1977)のなかで日本近代は虚構だと指摘した。つまり駆逐された大工道具などの伝統が実像であった。ところがいわゆる在来工法も1980年代には消滅したことが認識された。ということは虚構が勝利したのである。忘れっぽい建築界は、こうした理論的帰結のことはとくに意に介しない。いわゆる木質構造は伝統の継承でも再生でもなく、しいていえば輪廻転生なのだが、その連続性をいうのに本展では「遺伝子」などという概念が有用なのであろう。

「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの(セクション01:可能性としての木造)」森美術館、2018年[撮影:来田猛、画像提供:森美術館(東京)]

非歴史性

堀口捨己は「建築における日本的なもの」(1934)で、伊東忠太がつよく推奨したかった東洋建築にたいし日本建築の日本性をとりたてて強調することで、美学的にも政治的にもクリティカルな主張をした。ただ堀口はトリッキーにも西洋の近代建築の(素材、機能、合理性、非左右相称などの)観点から日本建築を意味づける。すなわち日本の伝統建築はモダンを先取りしていたという発想がベースにある。岸田日出刀の『過去の構成』(1929)と『現代の構成』(1930)はそれに先行する直感であり、浜口隆一の「日本国民建築様式の問題 — — 建築学の立場から」(1944)における建築意欲論(日本建築は空間的なものを、西洋建築は彫塑的なものをめざす)はその変奏である。MoMAの「日本建築」展(1953–58)は戦後一時期における一種の文化的外圧として感じられ、それへの反動としての伊藤ていじの『日本デザイン論』(1966)や『日本の都市空間』(1963)もまた、じつは西洋との対決のなかでいかに日本という枠組を構築するかという仕事である。日本の伝統しかみようとしない西洋的な視線にたいし、伝統と近現代を貫通させようとする日本からの反動であった。

しかし分析ツールは西洋からこっそり、いわば袖の下を経由して導入されていた。さらに日本とは非時間、非歴史、永遠の現在であり、地球上の還元不可能な特異点であり、歴史の外部である、という理論的帰結を招くこととなった。これではグローバル化のなかで世界や他文化圏とどう相関するのかが説明できない。まさにそのように磯崎新はパリ装飾美術館での「間」展(1978)のなかで、間の歴史性ではなく芸術性に集中し、超時代的レベルにおける説得力を確保した。いっぽう三宅理一はポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本1910–1970」展(1986)においてアヴァンギャルドという明確な歴史的指標を選んだがゆえに、西洋との比較において誠実ではあっても強い主張はできなかった。

個人

虚構においては定点確保のために個人が挿入される。稲垣榮三の『日本の近代建築』(1959)は下部構造(制度、産業、技術など)が上部構造(精神、芸術など)を規定するという理路整然とした方法論を展開しながら、近代初頭の状況において建築文化はまだまだ貧相であったという認識からなのか、日本分離派とは近代的「自我」の確立であったなどと無理な立論をしている。ただその反響は大きかった。長谷川堯による建築における「実存」などというものは、さすがに言葉足らずであったが、それでも個人を登場させたことは意義深かった。個人として日本建築を生きるということを可能とし、その個人的体験が建築に反映されるというサイクルが、このように制作された。比喩的にいうと三島由紀夫は自分の生のなかに現代史をまるごと引き受けてしまう演技の完成度を求めた。論敵ではあっても江藤淳や西部邁などをも連想させる。鈴木博之は『都市のかなしみ 建築百年のかたち』(2003)のなかで失われたものに殉ずる心情を継承した。こうした個人はいわば悲劇を生きることで確立される英雄である。より若い世代は無理をしてまで英雄であろうとはせず、むしろ喜劇的なストーリーの枠組における受動的な構えをみせる。村上春樹の『羊をめぐる冒険』や『ねじまき鳥クロニクル』は引きこもる若い男性の日常生活のなかに現代史が乱入してしまう、個人のなかに日本が闖入することの当惑を、陰画のように描いている。飯島洋一の『<ミシマ>から<オウム>へ──三島由紀夫と近代』(1998)や五十嵐太郎の『日本建築入門──近代と伝統』(2016)などは、このようなメンタリティを含んで読むことが薦められる。

MoMA/金沢21世紀美/住宅展/近代美術館

1932年のMoMAにおける「近代建築」展や前後して出版された『インターナショナル・スタイル』は、空前の経済成長をとげた合衆国における建築展として「アメリカ建築」を問うてもよかった。しかしそうはせず、むしろ建築を普遍的に論じ、かつその指標のいくつかを明確に指摘した。ところがわが国における日本建築への問いはつねにトートロジックに日本性を問う。建築性を本格的に問うことはしないし、そのなかでじつに率直に外部が欠如してゆく。日本におけるこの「日本らしさ」構図は西洋の「グローバル性」構図と表裏一体である。普遍的な建築を論じられるアメリカ、フランスなどが世界的拠点となるいっぽう、ローカルであることに存在意義があるという役割を与えられたのが日本などであった。このグローバルな二重構造は21世紀にも変わりそうにない。日本はあいかわらず国際やグローバルとの関係がみごとに捨象された美のユートピアとして名誉ある孤立を守る。そんな妄想にひたれそうな便利な場所である。もはや既得権というべきか。

金沢21世紀美術館の「ジャパン・アーキテクツ1945–2010」展の図録論文「日本建築の来たるべきアイデンティティ」ではアイデンティティ欠如が批判されている。フレデリク・ミゲルーなる世界的拠点の当事者(ポンピドゥー・センター パリ国立近代美術館副館長)は、世界的構図のなかで日本にローカルな役割を分担させたという歴史的な経緯を忘れて紋切り型の批判を繰り返すという、状況の困難さを示している。

もうひとつの興味深い対比は、20世紀初頭における生活改善運動をバックにして開催された各種住宅展(文部省主催の「生活改善展覧会」など)である。20世紀初めはある明快なビジョンを知らしめる建築展が多かったという意味で、まさに啓蒙的であった。かつて展覧会のミッションはそうした理想の提示であった。

[左]『Japan Architects 1945–2010』(新建築社、2014)[右]『日本の家──1945年以降の建築と暮らし』(新建築社、2017)

東京国立近代美術館の「日本の家──1945年以降の建築と暮らし」展(2017)は戦後日本の分厚い中産階級という、考えてもみれば世界史上希有なものの実験の記録である。しかし展示全体としては、歴史的な実験の諸成果は建築家ごとのバリエーションに拡散してしまったという、いわば事実をそのまま投げ出すような演出となっていた。だからこそ正解であったという理解もできる。

こうして建築展100年の歴史の概略となる。まず20世紀初頭の展覧会はなにより理想を描こうとした。そういう意味では啓蒙主義的であった。しかしそれらの理想は挫折したか、あるいは実現されるやむしろ悪現実をもたらした。だから21世紀初頭の建築展は、したたかに挫折そのものを栄養とする悪理想があればまだいいが、そもそも混迷しつつ近代化してきた次の、すなわち文明や啓蒙の次の段階を示唆せざるをえない。よき理想とよき理性により導かれて実現されるはずであったよき世界は、むしろ反省をうながしている。金沢、近美、そして今回の森美での展覧会はこの文明化と啓蒙がもたらしたものを、よりはっきり認めるよう、求めている。

ところがそれはアドルノとホルクハイマーがすでに戦争直後の『啓蒙の弁証法』のなかで描ききっていた図式にほかならない。さらにいえばやはり戦争直後のMoMAの「日本建築」展も戦利品文化のやはり大衆向け展示であった。それらは同期にして同根であろう。

啓蒙と野蛮

レヴィ=ストロースによる文明と野生の二元論や、アドルノたちの啓蒙の弁証法は、ともに文明と野蛮とがたがいに反転しうることを指摘している。構造としては、文明はある領域の内部であり、野蛮はその外部である。ところがそれらは反転しうる。文明/野蛮の反転は、また内部/外部のそれという形象をとりうる。反歴史、反西洋、反大陸・・・・という「○○でないなにか」の多重性としての日本は、外部であり野蛮であるはずであった。しかし逆説的なことに、そこにおいて文化性や洗練がみられるとならば、反転して、そこは内部であり文明となる。この種の反転は16世紀の「南蛮」概念においてすでに開始されている。

本展監修者である藤森照信が唱えてきた「野蛮ギャルド」論には驚くべき汎用性がある。すなわち工業化素材と自然素材との対比という原義から出発するにしても、そこにはすでに、素材そのものを啓蒙的な理性や科学技術などにより加工して合理性や操作性を向上させるという文明のプロセスそのものが内包されている。だから野蛮論は文化としての理性と野生、あるいは啓蒙と野蛮という二元論に格上げされる。彼自身、文明開化の近代建築研究と野蛮ギャルドというかたちで二元論とその反転を実践している。

整理すれば文明以前の野蛮、啓蒙、啓蒙がもたらす野蛮、さらに反復、という構図がみえてくる。始まってしまった情報化時代のなかでは、まず野蛮とは生(なま)の情報がカオティックに集積されつづけることであり、つぎに文明的なものとは、諸情報を分節し、範疇にわけ、構造を与え、各アイテムにラベルだのタグをつけ、さらにはストーリー化することである。ただそこで生まれ再生産されるのは神話である。そして神話をベタに信じ込むことで野蛮が発生する。そしてこれらの野蛮と文明は、反転をくりかえしつつ循環するのである。

このプロセスはなにも想像上のものではなく、雑誌や展覧会を編集するという実践のなかの基本構図である。ふんだんにある作品や概念から、たやすく候補がリストアップされる。初期条件としての野蛮は分節化されざる──したがって分析されることを待つ(とはいえキュレーターは案をもってはいる)──カオス状態にあるデータとして提示される。キュレーターは、いくつかの指標候補(木造、美学、屋根、工芸、空間、折衷、集まる、日本、自然)と、とりあえずすでに評価の高い過去や現在の作品を並べ、それらの相関をさぐる。因子分析や数量化手法のようなものである。手作業であれPCやAIであれ原理は同じである。こうすればアプリオリな枠組みがなくとも、それなりのコンテンツはできる。それに「日本」という看板をつける。ところがそれは一世紀まえ、半世紀まえに書かれた神話であった。これが21世紀初頭における潜在的な野蛮である。そして展示されているのはそれなりの建築叙述であるのみならず、それが編集される手続きであり、日本がアプリオリであるはずの神話のもとでアポステリオリに制作されるフォーマットなのである。

「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの(セクション09:共生する自然)」森美術館、2018年[撮影:来田猛、画像提供:森美術館(東京)]

新しい野蛮へ

カーサ・ブルータスや森美術館をもって、日本の建築界はアドルノらが想定した文化的な状況に到達した。それが先駆的かどうかは知らないが、歴史的な役割は担っている。ただ建築関係者のなかには、この展覧会の主催が公立美術館でもアカデミーでもないことの特殊性をことさら指摘するむきもある。そうなのだろうか。伝統的にアメリカでは私立美術館が中心であり、ヨーロッパは国公立美術館中心、日本は折衷的であった。近年は全世界的にエージェント型へとむかう趨勢である。ポンピドゥー・センターは1970年代フランスにおける芸術の大衆化であったということを、美術史家の高階秀爾から聞いたことがある。だとすればMoMAの「近代建築」展も「日本建築」展も20世紀中葉アメリカにおける建築文化の大衆化のはじまりであった。そうすると指摘されている商業主義だ、大衆相手だ、ツーリスト向けだなどということがどのくらい特段のことかも、歴史的に検証されていい。普遍的な情報発信をめざすとして、その主体は公、民、私、・・・いずれであるべきか、などについてはべつに決まりごともない。

啓蒙はすでに終わっていたはずであり、現状は新たな啓蒙ではなく新たな野蛮であると認識されるべきであろう。かつて日本が西洋的論理を裏口から輸入しつつ日本らしさを演出して西洋と差異化していたように、文化産業もまたアカデミーからいろんなものを借用しながらアカデミーと差異化している。同じ構造であるから、切断そのものが中途半端であることまで継承している。そもそも西洋モデルに追随する段階は終了したことになっているのだから、日本らしさを構想しなければならない動機そのものがすでに蒸発しているはずである。そのことがなかなか意識されない。

100年まえも50年まえも伝統と近代はある同じ価値において共振できたし、いくつかの明確な指標で指摘できた。空間、無装飾、機能主義、などはそういう指針であった。それは理性であり啓蒙であった。しかしこの啓蒙は反転し、よくいえばダイバーシティ、悪く言えば混迷として現象している。「日本」という明快な指標でよく定義された建築があるとおもえたその希望が、すでに形骸化しているのに、100年のちの今甦っている。それは神話である。現実には啓蒙や近代を経由して、可能性としての新しい野蛮がうまれたとしても不思議ではない。膨大な試行や情報のたえまない集積は安定した構造をもたらさない。野蛮はわたしたちを安心させも安定させもせず、エネルギーに満ち、つねにカオスを指向する。こんにち指針が明快でないとしたら、むしろ野蛮化を加速させることが日本における建築の可能性であろう。くりかえすが「日本建築の可能性」ではなく、日本における「建築の可能性」である。だから建築の普遍性をめざすと解釈するかぎり「建築の日本」は間違っていない。そのためにも啓蒙のなれの果てという相対的な野蛮ではなく、より普遍的な野蛮へといたる道はありやなしや。そこに拡張された野蛮はその現代的な、いな近未来的な意味をもつ。

「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの(セクション06:開かれた折衷)」森美術館、2018年[撮影:来田猛、画像提供:森美術館(東京)]

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土居義岳

Written by

どい・よしたけ/1956年生まれ。九州大学大学院教授。建築史。フランス政府公認建築家。著書に『知覚と建築』(2018年度日本建築学会著作賞)『アカデミーと建築オーダー』(中央公論美術出版)、『言葉と建築』(建築技術社)、『建築と時間』(磯崎新との共著、岩波書店)など。訳書にラヴダン『パリ都市計画の歴史』(中央公論美術出

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