寄稿|地球の上の建築 ── 太陽・大地・⽣命と建築
[ 201905 特集:建築批評「自然・技術・人間の新たな混成系としての建築」]/ Architecture on the Planet ── Sun, Earth, Life and Architecture
人新世における建築を考える
今、なぜ「人新世」における建築のあり方を考える必要があるのか。
これまで人間は地球を改変してきており、それにより人間の生存条件である地球環境が不安定化してきている、といった科学者により提示されているコンピューターのデータ処理能力に由来する地球の現実像は、熟読すれば頭で理解することが可能なものであるが、日常的な人間生活に関わることとして受け止めることが難しい。
地震や台風といった災害は人間の生活基盤を物理的に破壊し、人間生活が地球という土台の上に成立していることを一時思い出させるが、人間はそのような災害を一過性のものと考え、元の状態に復旧し、なかったことにしようとする傾向にある。進行する地球温暖化問題に対しても、人間の活動が起因で排出される温暖化ガスを削減するだけでなく、気候を人為的に操作するジオエンジニアリングや、地球から脱するスペースコロニーの建設までをも真剣に検討する。
しかし、地球環境は人間には制御しきることのできないものだろうし、人間は地球との関わり合いの中でしか生きていくことができないだろう。このようなリアリティを受けとめながら生きていくことができるような状況を、どのようにしたらつくることができるかが問われている。そこで、人間生活の基盤となる「建造環境(Build Environment)」の再構築が必要になってくると考えるからだ*1*2。
自然から切り離された建造環境
では、これまでの建造環境のつくられ方はどうだったか。
津波に対する巨大防潮堤や土砂災害に対する砂防ダムが象徴するように、災害を経てもなお、人間は自らの生活空間を一層堅牢で強靭なものにして、自然から切り離されたものにしようとする。そして、地球温暖化・資源枯渇に配慮し、省エネルギー・省資源を実現するため、都市と建築のシステムを、情報技術をも駆使して徹底的に高効率なものにすることで、現在の都市を維持しようとする。
しかし、ここで忘れてはならないのは、現在の近代型都市はたかだか100年ほどの歴史しかないということだ。135億年前に宇宙が形成され、45.6億年前に地球が形成され、35億年前に地球上に生命が誕生し、200万年前に人類が誕生した、といった歴史と比べてみれば、現在の都市は、非常に短い時間の中で、急速に形成されたものなのだ。
しかも、日本・東京においては、敗戦後の復興期とそれに続く高度経済成長~一極集中の時期が、人類史上かつてない技術革新の時代に重なり、それが関東地方の地震静活動穏期とピタリと一致した。現在のような超過密な都市を急速に構築することができたのは、地震という自然現象から切り離され忘却していることができたからこそ可能だったとも言えるが、それにより本質的に地震に弱い体質になってしまった。そこに潜む本質的な無理が大地震の際に極限まで顕在化して、ここで生ずる震災は人類がまだ見たことのないような様相を呈する可能性が高い、といった警告が地質学者によってなされている*3。地震は日本を含むプレート境界域に位置するエリアで特に問題となるものであるが、台風やハリケーンの頻発など近年の異常気象はプレート境界域に限らない問題であり、近代都市の多くはこのような気象による災害に対して弱いつくりとなっている。
落ち着いてゆっくり見る必要がある
これまで不変で安定していると思われていた「背景」としての地球が、「前景」化してきているのが現在である。その要因のひとつに、人間活動による地球の改変がある。そのような事実に対して、地球に与える負荷をとにかく削減するために、早急に解決策を出そうと短絡するのは得策ではないことを過去は教えてくれる。
たとえば、フロンガス。1920年代に冷媒ガスとして開発され、当時、同様に冷媒ガスとして使用されていたアンモニアに比べ取り扱いがしやすかったため多く使用されていたが、1970年代にフロンガスがオゾン層破壊をもたらす物質であることがわかり、使用規制がかけられるようになった。今では使用が禁止されているアスベストも、当時は、耐久性・耐熱性・耐薬品性・電気絶縁体などの特性に優れ安価だったため建築においても断熱材や防火剤として重宝されていたが、同様に1970年に入って人体や環境への有害性が判明した。当時は効率的で合理的と思われていたものが、後々になって人間・環境にとって害があるものであったことが発覚するということは往々にしてある。
近年も同様のことが起き続けている。象徴的なもののひとつに、代替エネルギーとして期待される太陽光パネルによるメガソーラー発電所建設問題が挙げられる。政府による補助もあり投資効果が見込めるため、多くの事業者がこぞってメガソーラー建設を計画・実行しようとしている。そのための用地として、安価で入手できる山林などの土地を買収し、森林伐採をし、山を切り崩して造成することで確保しようとするケースが多発しており、雨水や土砂の流出といった自然災害や生態系への悪影響が懸念されるため、住民による反対運動が全国各地で起こっている。地球環境配慮のためのはずの技術が地球環境を破壊するといった皮肉なことが起こりうるのだ。
そのため環境アセスメントの必要性が叫ばれているのであるが、人間の行為が地球環境にどのような影響を与えるのかを事前に、しかも短時間に、計算によって全てを把握しきることができるという考え方自体にも無理がある。このように危機的な状況の中では、早急に見通しを立てて気持ちを楽にしたくなるものことは理解できる。かといって、これさえやっておけばOKというような万能薬のようなものは存在するはずはなく、現時点でそう見えるものがあるとすれば、それは批判的に検証され続けるべきだろう。
近年の科学技術を捨て去るべきだとか、事前の科学的検証に意味がないというのではない。大事なことは、人間活動が地球環境を改変している、つまり、人間を含めた地球システムにおける複雑なネットワークが存在することを認めること。かといって、その相互連関に振り回されることなく、そのネットワークを最大限理解する努力を続けながらも、とはいえ全てを把握しきることはできないということを認める、といった態度だろう。そのためには、性急に答えを求めるのではなく、「落ち着いてゆっくり見る」ことが必要となる。
過去の学びなおし/にし阿波の伝統的集落から学ぶ
そうしたときに重要なことのひとつに、エコロジカルな視点での「過去の学びなおし」があると考えている。先も述べたように、現在の近代型都市はたかだか100年ほどの歴史しかない。産業側から提示される新しい技術は、現代の都市が抱える問題を解決すると言うが、そもそもその問題自体が、産業が加担して作り上げた近代都市が生み出した問題であるという矛盾であることが多い。そのようなことを見極めるには、近代都市が生まれる前の過去を、エコロジカルな視点から今一度見直してみることが有効だろう。急がば回れだ。
たとえば、伝統的な集落や慣習的な建築形式には、先人たちがその地で長い年月かけて学んできた「地球の上で暮らすためのエコロジカルな知性」が蓄積されている。近代以前は、太陽・大地・生命との連関の中でしか人間は生きられなかったからだ。そこでここでは、「にし阿波」と呼ばれる徳島県西部の山間部に位置する「ソラ世界」と呼ばれる伝統的集落について紹介しようと思う。二年前に建築家の新居照和氏らとともにこの集落を訪れ、環境調査を行う機会を得た。
「にし阿波」は中央構造線上に位置し、プレートの動きによって形成された急峻な地形の谷あいに沿って200を越える集落が分布している。谷地形に沿って、海から風が流れ込んでくる。斜面地では、昼は日射で暖められ上昇気流が生じ、夜には下降気流が生じる。水も重力により下降するため、水はけが良い。この自然の空気と水の流れを活かし、カヤを用いたコエグロと呼ばれる風雨による土の流出を防ぐ工夫を行い、山間部の気候に適した少量多品目を組み合わせる伝統農耕が受け継がれてきており、この「にし阿波の傾斜地農耕システム」は昨年2018年に世界農業遺産に認定された。
自然がつくり出す地形は複雑で、様々な方角を向いた斜面が存在する。南向き斜面は「日の地(ヒノジ)」、北向き斜面は「蔭地(カゲジ)」と呼ばれているが、この「蔭地」という言葉は必ずしもネガティブな意味で捉えられていない。集落が形成されているのは日照上有利なイメージのある南向き斜面だけではない。大規模集落のひとつである家賀は北向き斜面に位置しているし、東向き斜面地に位置する集落もあれば、西向き斜面地に位置する集落もあるのだ。そこで、家賀(北向き)・赤松(南向き)・葛城(西向き)・長野(東向き)の4つの集落に着目し、地形データ・気象データを用い、地表面の積算日射量をコンピューターを用いて解析してみた。家賀(北向き)は赤松(南向き)と比べて、冬季の積算日射量は約50%となるが、年間でみると約80%となることがわかった。北向き斜面でも、斜面勾配が緩ければ日射を十分に受けることが可能であり、日射量の差異に応じて適した農作物を育てているということが理解できた。一方、家賀の周辺に位置する、勾配が比較的急な北向き斜面における積算日射量は家賀と比べると少なく、そこに広がる集落は小規模だ。受ける日射量に従って、集落の広がり方が決定されていったようにもみえるのだ。
住まいの構えられ方からも学ぶことが多い。環境条件の良い場所にまず農地がつくられ、余った場所に、農地をつくる際に地面からでてきた石を用いて石垣を築き、斜面方向を臨むように住まいがつくられている。石垣から引きを取った位置に、山側は斜面に半分埋まるように建つ。谷から吹き上がってくる強い風は、石垣にブロックされ、山から吹き下りてくる風は急勾配の屋根にブロックされ、建物の前庭の風は弱まり、穏やかな風を室内に取り込むことができる。厳しい環境から守るように、巧みに建てられていることが理解できた。縁側の並びに便所があるが、人間の糞尿を農地の堆肥として利用することを効率化するための配置計画だ。急勾配な屋根によってできた屋根裏空間は養蚕のための空間として機能していた。
このように太陽・大地・生命との連関の中で暮らす人間は、「地球のうえに生きる感覚」を否が応でも持っていただろう。プレートの動きによって人為的に構築された石垣や建物は次第に崩れていく。その度に皆で協力してそれを直し続けてきた。そのような行為を通じて、山は動いており、それは「人間には制御しきることはできない」ということを、説明されるまでもなく理解できていたはずだ。
技術から離れた自然世界に回帰しようというのではない。現代は産業社会化が進行し、人口も比べものにならないほど増加している。そのような状況下であるから、当時の合理性が失われ、伝統的な集落や建築は消滅傾向にあるのである。しかし、こういった伝統的集落が現代の我々に突きつけるのは「目の前に与えられているすぐそこにある資源を十分に活かすことができているか?」といった問いだ。
太陽・大地・生命と建築
現在では、資源は様々に加工され姿形を変えた状態で、なんらかの製品として私たちの目の前に届けられることがほとんどだ。そのような工業製品は、少ない資源・エネルギー・労力で、高性能で高品質なものを、多くのひとに安定的に届けようとするものであるから、この存在意義を否定するつもりはない。しかし、問題があるとすれば、その製品が、誰によって、どこで、どのようにつくられているのかが分かりにくくなっている、つまり、その製品にまつわるネットワークがブラックボックス化されている点である。また、様々なパーツがパッケージ化され、完結した新品として提供されることが多い点である。その製品の成り立ちやしくみがわからなければ、そして、パーツの互換性がなければ、それが壊れたとき、廃棄して再び新品を買うしかなくなる。人間からの能動的な働きかけが必要とされていない。
その事物に含まれていたはずの過去の姿や、ありうべき未来の姿を想像する余地が残されていれば、ユーザーはそれを自ら修繕し、古いものと新しいものを組み合わせ、長く使うといったことができるはずだ*1。そのためには、その事物の自然的性質が可能な限りそのまま残されている状態が望ましい。
過去も現在も変わらず、目の前に与えられている、すぐそこにある資源は「太陽・大地・⽣命」だろう。産業側から提示される環境技術の多くは採用するのにお金がかかるものが多いかもしれないが、「太陽・大地・⽣命」といった資源はやりようによってはフリーだ。
過去三世紀で人間の人口は6億から10倍の60億に達した。地球上の限定的な居住可能エリアに高密度に構築された都市においては、「太陽・大地・⽣命」がすぐそこにある資源だとしても、そこにアクセスする際のバリアが数多くある。しかし、そうであるとしても、可能な限りその資源に直接的にアクセスすることを試みてみよう。試みてみない限り、そのバリアを具体的に把握できないし、その解決方法も思いつかないはずだからだ。
つまり、ここで提案したいのは、「太陽・大地・⽣命」という資源との、可能な限り"直接的な"結びつきを持った建造環境を考えることから始めてみよう、ということだ。
東京の高密度にビルが林立する街を歩いていると、自分がどの方角を向いているかがわからなくなることがある。しかし、それでもそんなこと気にすることなく生活できてしまうのは、太陽という資源に日々頼っていないからだ。まずは少しでも太陽という資源に頼って暮らしてみよう。私の友人が、太陽熱給湯に用いられるような黒い金属膜が蒸着された真空二重ガラス管を用いて、自宅でソーラークッキングをはじめたそうだ。すると、季節によって時間によって天気によって、自宅のどの場所にどういう角度で太陽が差し込むか、この天気であれば調理にどれくらいかかるか、といったことが徐々に身体化されてくるそうだ。太陽に意識的になり、晴れたときにはなんだかとても嬉しい気持ちになるらしい。ソーラークッキングはちょっとハードルが高いという人は、まずは一度人工照明を消して、昼光のみの状態で暮らすことを試みてみるといい。そうすると、東京の都市・建築が、どれだけ太陽に頼らないものとしてつくられているかがすぐにわかるだろう。逆に言えば、そうすることで、どうすれば太陽をもっと有効に活用できるような都市・建築に再構築できるかが見えてくるはずだ。現在では、年中変化する太陽の軌道や日射がどのように都市や建築環境に影響を与えるかを、精度高くシミュレーションする技術があるから、その検討の手助けをしてくれるはずだ。
大地についても同様のことが言える。私たちが日々歩いている道路のアスファルトのすぐ下の大地の中にある、土・砂・石といったものがどのようなものなのかを意識する機会はほどんどない。そして、その大地の上に立つ樹木が、自生種なのか、どういった名前がつけられているのか、といったことをすぐに答えることができるひとはほとんどいないだろう。私たちが生活する都市や建物を構成する素材の多くは、すぐそこの大地から取り出されたものではない。特に大都市を構築するために必須の素材である鉄は、地球の内部から取り出され、加工され、海や川や幹線道路といった大規模な物流を可能にする交通路があるからこそ、都市に存在できている*4。しかしここでも、現状の産業社会システム下では、非効率で不合理であること承知で、可能な限りすぐそこの大地の、可能な限り表層から取り出した素材で構築しようと試みてみよう。そうすることで、なぜそこすぐそこにある山林から伐採した木を使えないのか、なぜすぐそこにある土を使うことが難しいのか、といったバリアが見えてくるはずだし、逆に言えば、どうすればそのバリアを乗り越えることができるかも見えてくるはずだ。
そして生命。地球上の気象は、大気と水の循環があってはじめて維持されるが、地球には大気・水以外にも物質の循環が存在する。それは養分の循環だ。植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる。肉食動物に限らず、すべての動物・植物の生体・死骸を微生物が分解し、植物は動物・微生物の排泄物中にある無機物を原料にして有機物を生産する。このような〈食うー食われる〉の関係=食物連鎖が、地球上の養分の循環を成立させており、この養分循環を介して膨大な種類と個体数の生物種が連関され、生態系が維持されている*5。(そう考えると、現在の下水処理方法や農業の方法に致命的な問題点があることに気づく。)
私たち人間も、日々食べている。殺された生命である動物や植物が、加工・流通を経て家庭または工場に運ばれ、台所において火と水で加工されたものを、私たちは食べている。しかし、私たちは口に入れる食べ物が、どこでどのように育てられ、どのように加工され、届けられているのかをそこまで意識することは少ない。そもそも、食べるという行為自体がないがしろにされ、効率化・合理化が徹底される傾向にある。その象徴的な存在が、「瞬間チャージ」を謳う栄養機能食品だろう。また、働いたお金で購入した豪華な、徹底的に合理化が追求されたシステムキッチンを、結局、仕事が多忙なあまりほとんど使用しない、あるいは汚したくないので火や油は使わない、という人も多いと聞く。食べるという行為が単なる「栄養の摂取」では味気ない*6。食べたいものを作り、誰かと一緒に食べるという行為は、人と人の繋がりを醸成する。そして、自分が食べるものに意識的になることは、地球との繋がり、地球に生かされていることを意識する機会になる。
生命同士の関係は、〈食うー食われる〉の関係が全てではない。犬や猫と生活をともにする人は多いだろうし、食べるわけではない植物を日々手塩にかけて育て、愛でるひとも多いはずだ。私も猫とともに暮らした経験がある。心が通じ合っていたと思いたい気持ちがないといったら嘘になるが、実際のところ、私はその猫が考えていることを本当にわかることはできていないはずだし、猫も私が考えていることをわかることはできないはずだ。しかし、それでも共に暮らす。そこにあるのは「関係性」だけだ。考えてみれば、血縁関係の家族同士だって他者であり、お互いを本当に知ることはできないはずだ。ダナ・ハラウェイが言うように、「愛とはつまり、自己を知り、他者を知り、そしてお互いを知ることだろう、という思い込みが、愛の本質とはまったく無関係のものである」*7ということを認識しなければならない。その思い込みが、暴力や争いを引き起こす。大事なのは、私たち人間を含む諸存在は、相互の関わりあいに先んじて存在しえないということだ。
私たちは地球の上に生きている。そのような、地球との繋がりを確かに実感でき、人間が自らの居場所感覚を取り戻すためには、太陽・大地・生命と建築の関係性を改めて問い直すところから始めるのがよさそうだ。■
参考文献
1 『人新世の哲学』(篠原雅武 著,人文書院)
2 『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン 著,篠原雅武 訳,以文社)
3 『大地動乱の時代』(石橋克彦 著,岩波新書)
4 『動く大地、住まいのかたち』(中谷礼仁 著,岩波新書)
5 『エクセルギーと環境の理論』(宿谷昌則 編著,井上書院)
6 『ナチスのキッチン」(藤原辰史 著,共和国)
7 『伴侶種宣言』(ダナ・ハラウェイ 著,永野文香 訳,以文社)
*本論考は、以上の文献のほか、日本建築学会「地球の声」デザイン小委員会(主査:塚本由晴)メンバーとの議論、そして能作文徳との継続的な議論から多大な示唆を得ている。