砂山太一
Jan 31, 2018 · 3 min read

バスの中、段差の縁に足元注意喚起のLED点滅灯が横に並んでいる。座席に腰掛けながら、右から左へ流れる動きを見つめる。ひとつひとつのLEDは周期的な点滅を繰り返しているだけだ。しかし、規則的な順序が与えられると動いているように見える。仮現運動とは物理的な運動が実際に存在していないにもかかわらず物が動いているように見えるという知覚上の現象である。この段差の縁に動きを作り出しているものも知覚のイリュージョンである。ただ、そのバスのLEDは、点滅の周期や配置の距離関係が不十分なせいか、運動の発生と破綻がないまぜになり、退屈なバスの中で筆者を魅了していた。

1878年に写真家エドワード・マイブリッジが撮影した走る馬の記録。あまりにも有名なその連続写真は、それまで人間の目では知覚不可能だった運動する物の状態を、写真機の目を通して現前たるものとし、新たな視覚文化の平野を切り開いた。映像メディア論研究者の増田展大による本書は、「馬の足並み」の直後から30年の間にフランスで実践された、5人の科学者による実証実験に焦点を当てる。各章ごとに取り上げられる科学者は、身体鍛錬術、生理学、写真技術、実験心理学、美術解剖学など研究領域は様々であるが、その捕捉対象はいずれも人間である。

本書は、19世紀後半の「映画とは直接結びつかなかった」「失われた」映像技術を丁寧に拾い集め、連続写真のみならず、心理的動向をプロットするためのグラフ法や、あらゆる角度から撮影した写真をもとに立体を作り出す写真彫刻の技術などに光をあてる。ただし、その意図するところは、単なる「失われた」技術の紹介ではない。そこでは、人間の動きを機械技術によって精緻に捉えようと奔走する科学者、また機械の目の前に立つ当時の人間の立ち振舞い、その記録を見た人々にどのような「感性的変化」を生じさせていたのかが明るみにされる。そして増田は、観察者と実験機器、被験者という三者関係の相互作用の中に立ち現れる矛盾や不一致、「非決定性の余白」を、「見ること」と「知ること」の本質として捉えなおそうとする。

本書を通読して浮かび上がってくるものは、計量的な観測の精度を上げていくにしたがって、むしろ露呈していく人間の不完全さや曖昧さ、そしてそのような計測の空隙に魅了される科学者たちの姿である。

「時間を空間化することによって生じる古典的なパラドクス」への、技術転回点における実証的応答が与える知性。デジタル化が進み、複雑なものを複雑なまま記述できるようになった現在において、建築や都市を議論する上でも、本書が例示する「非決定性の余白」の観点は、技術的確度向上の議論に収斂されることのない、データと解釈、見ること/知ること、つまり情報性の普遍的な問題を指摘する上で参照すべきものであると考える。

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書誌
著者:増田展大
書名:科学者の網膜──身体をめぐる映像技術論:1880–1910
出版社:青弓社
出版年月:2017年3月

建築討論

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砂山太一

Written by

すなやま・たいち/1980年京都府生まれ。美術家、建築家、プログラマー、研究者。専門は、デジタル技術を介した制作手法論。博士(芸術)。京都市立芸術大学美術学部専任講師。主な企画展に「マテリアライジング展 情報と物質とそのあいだ」(2013–2015)。「フィットネス | ftnss.show」(2016)など

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