大工技能の評価はいかになされるべきか
はじめに
木造建築がそうであったように、アカデミックの世界では技能は対象外であり、論じられることはほとんどなかった。あるいは、不可侵の領域として扱い、発言することを避けてきたといってもよかろう。特に大工に関しては、一種の聖域でもあるかのように扱われて来たようにも思える。
本稿は、この問題意識に立脚し、大工とその技能について、できる限り具体的かつ客観的に論ずることにしたい。付与された主テーマは「大工技能の評価」であるが、評価するために整理すべき問題が山積しているのが実態である。今、大工を取り巻く状況は危機的であり、しっかりと問題を分析し、対策を講じるべき事項を明確化する必要がある。その上で、この討論の主題である、大工職人のテクノロジーの将来と可能性について考えたい。
著者は、日本の木造建築の伝統と大工技能を真に大切だと思っている。自ら、ある程度の技能も修得した。大工道具のコレクションは日本有数だとも自負している(図1)。しかし、大工技能と木造建築の現状と行く末をとても案じている。故に、物議を醸す可能性のある事柄についても言及する。それをご理解いただいた上で読み進めていただきたい。
なぜ大工だけが減り続けるのか
まずは、大工に関わるいくつかの数字を確認しておく。図2と図3は、国勢調査における建設技能者数と、コーホート分析による今後の推移を示したものである。分析では、2010年から15年の各年代階級の増加率を維持し、20歳代までの若年者は2015年の数値に人口減少率(出生・死亡とも中位)を乗じたものとして推計した。図1は技能者全体(職業分類中分類の「建設・土木作業従事者」)、図2は大工(約1割は型枠大工)である。双方とも大きく人数を減らしてきたことが分かる。特に大工はピーク時の半数以下になっている。
注目していただきたいのは、2005年から15年の変化である。技能者全体は2005年から10年に激減するも15年には減少幅が小さくなっている。その要因は、東日本大震災の復興需要や2010年以降に打ち出された様々な政策への取組が奏功したと考えられる。その政策は、社会保険未加入対策や建設キャリアアップシステム、技能者の能力評価制度等々様々であるが、今回は主題ではないため詳述は割愛する。
問題は、にもかかわらず大工は減り続けたことである。しかも、2010から15年の減少数は、技能者全体(47,770人)よりも大工(50,340人)の方が大きい。加えて、新規入職者層となる10歳代~20歳代前半を減らしたのは、大工、屋根ふき、左官の3職種のみである。これらは、全て町場の職種である。
この予想通りに推移すると、大工は、2030年代前半に今の半数となり、2045年頃には1/3にまで減る。高齢化も著しく、2015年の60歳以上の割合は37%(技能者全体は26%)となる。この先も続け、2040年頃にはピークを迎えて45%余りとなる。新規の入職者が減り、高齢化が進むのだから総数が減るのは自明である。
大工は、建設技能者の代表格、職人の中の職人というイメージがあり、今でも子供がなりたい職業の上位にあるのに、実態は、技能者の中でも大工だけが入職者も少なく、高齢化が進むばかりである。何故そうなるのか。以下に考察を加える。
そもそも大工はどこにいるのか
大工は主に工務店に雇用されていると考えられがちであるが、そうではない。確かに、各工務店には専属の大工はいる。各工務店のヘルメットや作業着を着用していることも多い。しかし、雇用はされておらず、請負契約や常用(日給)で働いているのがむしろ一般的である。
ややこしい話であり、詳述すると数ページを要するので、ここでは完結に説明を加えておく。労働法(職業安定法や労働者派遣法)では、建設技能者の派遣が禁止されている。よって、技能者の働き方は、雇用か請負かの2者択一である。雇用か請負かの判断基準は、簡単にいえば、誰かの指揮命令下で働いているか(雇用)、自己裁量で働いているか(請負)である。実質的に指揮命令を受けているのに、請負契約で働かせることは、法律違反である。例えば、加工設備を無償で使っていたり、車を無償貸与されているような場合は請負とはみなされない。長期間、常に同じ工務店で毎日働いている場合なども同様である。
偽装請負と判断されると、雇用していた場合に必用な社会保険料や税金を数年分訴求して請求されたり、労働者派遣とみなされれば逮捕されることもある重い法律違反である。派遣とみなされるのは、単価を定めて1日いくらで精算する、いわゆる常用という働き方である。よくある「応援」が典型的なケースである。
雇用か否かは、工務店が社会保険料の事業主負担をしているか否かでわかる。大工に関して確かな数値が把握されている調査はないが、雇用されている大工は、おそらくは20~30%、どんなに多くても50%を超えることはないだろう。
技能者の雇用問題は、野丁場では2012年頃から国交省の重点政策、業界の重要課題としてクローズアップされ、社保加入による雇用の推進が図られてきた。足かけ10年近い取組により、各種調査によれば社保加入者数は倍増している。大工と工務店が、この動きに乗ってこなかったことが、担い手減少の要因の一つであることは間違えない。
「一人前になるには10年」は本当か
「一人前になるには10年」とは、この業界に広く流布してきた言葉である。見て覚えろ、技は盗むものなどの言い回しも同様である。これに対して、書籍などで技能は暗黙知で言語化が難しく、教授法を確立するのは困難などの解説が加えられてきた実態もある。
スポーツ科学、心理学、生理学などの分野でも技能の問題は扱われている。身体の動き、人間の様々な行動は技能として捉える事が可能である。そこでも暗黙知、非言語などの言葉は使われるが、人間がどのように認識するか、それをどのように教えるか、どのように体現化するかなど様々な研究がある。実際、スポーツ、リハビリなどでは着実に言語化や数値化すること、教えることが進歩してきた。昨今では、映像やIT技術の進化も相まって飛躍的に発展し、目にもとまらぬ早さの体操競技の動きをミリ単位で測定することなどが可能になっている。それにより、物議を醸すことも少なくなかったスポーツの採点も自動化が進んだ。
確かに、木造建築は奥が深く、木を知り、規矩術を体得し、社寺建築ならば作法ともいえるディテールや木割を理解するのは簡単ではない。しかし、全てを習得しなければ一人前にはならないわけではなかろう。
10年我慢しなければ一人前とはみなされず、低賃金で働かざるを得ないことを若者が許容できないことが担い手不足の主要因であることは間違えない。また、道具を持つのは数ヶ月、数年の下働きの後などということでは、入職時のモチベーションが維持できるわけがない。
かつての日本の徒弟制度は、初等教育を終えた程度の齢の子供が親方に弟子入りするものであった。戦後でいえば、中学卒業か高校卒業後に弟子入りするのが一般であろう。それは、将来の生業とする技能だけでなく、挨拶や礼儀作法、社会常識など身を以て学ぶための一種の鍛錬であった。
ゼロからのスタートであるので、生活費などを勘案すれば、当初は親方の持ち出しとならざるを得ないので短期で辞められたら困る。故に、簡単には教えずに10年程度の時間感覚でゆっくりと育てる必要があったのだろう。しかも、親方は教えるプロではない。親方も徒弟で育ったところは同じである。故に、見て覚えろとならざるを得なかったと考えれば合点がいく。人材も、農村部から都市部への需給関係が成り立っていた。
ユニオンやマイスターの伝統がある欧米には、技能の教育訓練方策を研究し、教材やカリキュラムを立案する組織がある。日本にも職業訓練制度はあるが、以下の点で欧米には劣っているといわざるを得ない。
・日本の職業訓練は専ら入職時に力点が置かれ、継続・向上訓練の仕組みがない。おそらくは、それらは雇用した企業等がおこなう暗黙裡の前提に基づいている。
・教えるのは元技能者が中心であり、教えるプロが不在である。また、教えるプロを育成する仕組みがない。特に、建設関係職種は、その傾向が強い。
・そもそも、能力を測る基準がなかった。建設キャリアアップシステムに関連して能力評価基準が整備されつつあるが、これまで日本の職業訓練を担ってきた職業能力開発政策からは独立した制度となっている。
・日本の制度は雇用保険を財源としているので雇用が前提であり、入職前に教育訓練を施すことが想定されていない。
・欧米にある現代の徒弟制度(Apprenticeship)がない。これは、産業横断的に担い手確保から一人前になるまでの教育訓練を施す制度である。通常3年程度の期間、同じ処遇で働きながら学ぶ環境があるが日本にはそれがない。
・教育と職業訓練の関係が構築されていない。欧米では、職業訓練と高等教育の単位互換制度があり、学歴を積み上げることも可能である。従って、技能者から管理者、教育者、経営者等への多様なキャリアパスがあり、継続教育による自己啓発のモチベーションを高めやすいが日本にはそれがない。
木造建築の変化と技能ニーズの変化
つい10年前まで、家1軒の墨付けが出来て刻めるようになることが一人前の大工の証であった。それが2011年の東日本大震災を契機にドラスティックに変わった。
エネルギー政策の転換は、建物の省エネ化の必要性を一気に高めた。それまで、ともすれば木造建築の対立念とさえされてきた高気密高断熱が急速に普及することになった。高気密高断熱の環境下においては、グリーン材(未乾燥材)の使用は不可能といって良い。冬期の過乾燥環境においては、木材の収縮と変形が許容量を超え、構造材には大きなひび割れが生じ、床材などは明らかに瑕疵の対象となる状態まで変形する。隙間の増大や壁内結露なども問題になる。これらは、含水率20%程度の自然乾燥(AD)材でも厳しい。著者の経験では、20~30年、あるいはそれ以上自然乾燥させて木でも縮む。
同時にプレカットの普及速度が上がった。図4は、プレカット利用率の推移を示したものである。全国木造住宅機械プレカット協会の推計値なので多少過大である可能性はあるが、状況を鑑みれば直近で9割超というのは合点のいく数値である。
高気密高断熱には、確実に含水率が15%以下となる人工乾燥材が必須であり、含水率が低くなると材は硬くなるので手道具を用いた手刻みには厳しい。それに大工の高齢化が相まってプレカットのさらなる普及が進んだとも考えられる。
当然のことながら、プレカットには大工の墨付けは必要がない。一般住宅の場合、墨付、刻みとも1人/坪工程度とされているので、大工はその分の収入源を失うことになった。また、高気密高断熱のためには面材が多用されるので、簡略化された作業ばかりになり、単価も低下することになった。
大工が墨を打ち、道具を駆使して正確に刻み、それらを組み立てると寸分の狂いもなく建物の骨格が出来上がるのであるから、人々は大工に尊敬の念を抱いていた。それがなくなった今、大工の価値をどこに見いだすかが問題である。
プレカット時代の大工技能
大工は木を読んで刻むことが機械にまねの出来ない熟練技能とされてきた。それには、二つの意味がある。一つは、後々の乾燥に伴う変形を見越して不具合を最小限にする工夫、あるいは、変形を利用した欠点を利点に変える工夫である。後者は、例えば、反りを利用したクリープへの抵抗や捻じれを利用した臍の締め付けなどがある。もう一つは、元口と末口、木表と木裏、赤身と白太の使い分けなど、仕上がりの良さや耐久性に関わるものである。
集成材は、こういった木の特質が失われるので、昨今の一般的住宅建築では必要とされない技能になった。ハウスメーカーなどは、クレームのリスクを最小化するうえでも、乾燥材、集成材の利用が必須であったと考えてよかろう。また昨今では、羽柄材やボード類のプレカットも進展し、大工道具の出番もなくなった。極端な例では、大工は現場で丸鋸すら必要とせず、石膏ボードを切るためのカッターとボードを留めるための鉄砲(エア釘打ち機)、ビスを打つインパクトドライバーだけで仕事が成り立つ。
数百年の歴史を持つ鑿や鉋などの大工道具であるが、20年程前に替え刃式が登場して道具づくり(砥ぎや調整などの手入れ)が必要なくなり、最近では道具自体が必要なくなってしまった。非常に寂しいことではあるが、時代の流れは不可逆である。刃を研ぐことは重労働であり、それから解放されることは悪いことではない旨の話をベテラン大工から聞いたことがある。そのベテランは、(自分で手を動かさない)学者や建築家の理想論で機械より手刻みが良いなどと言われても困るのだとも言っていた。道具づくりは仕事の前後の時間外が原則であるので、昨今の感覚では、建設業の働き方改革を考える上でも正論である。
では、伝統の大工技能が不必要なのかといえば、そうではない。それは、良くいうリフォームはプレカットできないからとかという単純な回答ではない。
木造建築の美はディテールに宿っている。例えば隅木を四角形断面のまま使わず、「クセ」を取って五角形断面として、野地板を隙間なく納めるやりかたは日本以外にはない。クセ取りの必用がないように丸太を用いるか、クセは取らずにかいもの(飼い木、支物)で誤魔化すのがアジアでもヨーロッパでも一般的である(昨今では日本のプレカットも後者になってしまった)。
全てを直角に、隙間なく納めるために発達したのが規矩術である。ここでの詳述は割愛するが、規矩術とは、簡単にいえば、本来であれば、図学(展開図)や三角関数を用いる必要がある複雑な墨付を、屋根の平勾配を基準にした規矩基準勾配図を用いて簡易化した伝統技術である。こうした技術が発達したのは、日本は、多雨であることに加え、冬寒い気候であるが故に、雨漏りは許されず、隙間も最小限にする必要があったからであろう。
また、金輪や車知栓などの継手、角柄や留で納める角部、本実や樋部倉などの木の接ぎ合わせ、吸い付き蟻、矩枘組(ねじ組とも呼ぶ、図5)などの部材の接合に関わる技能・技術は芸術的とも称されるが、グリーン材の乾燥収縮への対応と何よりも金物がなかったが故の産物なのだと思う。それに反した使い方は後々の不具合に繋がるので、木使いの作法といっても良い。
しかるに、昨今もてはやされている「木造建築」には、多くの場合、こうしたディテールは用いられず、「源造」とビス留めが一般化しているのは残念な実態である。
大工職人のテクノロジーの将来と可能性
源造とは、二つの部材を何の細工もなく、ドン付けしてビスや釘で留める方法である。グリーン材であれば、後に透いたり、接合部が凸凹になるのは自明であり大工は使わない。ビス留めも、ビスが仕上げ面に見える仕舞いはしない。将来、雨がかりであればビス周りが傷んで透くことは確実であるし、何よりも無作法である。
源造やビス留めが当たり前になり、それも木造建築だというのであれば大工技能の意義は薄れるばかりである。この討論の必要もあるまい。
日本の木造建築の伝統と木工技能が受け継がれるためには、当然のことながらニーズが必用である。これまた当然のことながら、源造とビス留めよりは、本物の大工技能は手間を要するのでコストも嵩む。それを許容するには、使う側の目利きが必用である。少なくとも、建築に関わる専門家や設計者がもっと見る目を養う必要がある。
コンクリートや鉄、硝子等の素材、および、これらを用いた建築は、出来上がった瞬間が最高で、あとは、劣化するばかりである(コンクリート強度はタイムラグがあるとしても)。木造建築は、出来上がった瞬間も良いが、数十年後、数百年後には違った趣が出る。好き嫌いはあろうが、一般的には、深みが増す、渋みが増すなどポジティブな捉えられ方をされることが多い。
一部でもこうした木造建築と大工の価値が理解される土壌があれば、大工のテクノロジーは再興する可能性を秘めている。なぜならば、大工技能と木工はデジタルファブリケーションと非常に馴染みの良いテクノロジーだからである。手道具と規矩術を用いた伝統は、文化財修復などにおいて意図的に残すしかあるまい。プロセスも無形の文化財なのだと認知されれば、費用も確保可能であろう。
木造建築はプレカットの普及を通じて自動加工のノウハウを蓄積してきた。プレカットのCADは、使い切れないほどの機能を備えている。加工精度も高く、現場での施工精度は、プレハブ建築を凌駕する。ドイツのHundegger社製のマシンを使えば、相当な複雑形状でも加工可能である。
問題なのは、デジタルファブリケーションと大工技能の乖離である。現状では、上述のような作法ともいえる木使いを無視した加工が少なくない。それが、合板や集成材なら良いが、無垢材となるとトラブルの元である。それを防ぐには、木使い、すなわちは、木の繊維方向や表裏、元末(木の上下)を無視することはできない。
従来、木造建築や大工技能を大学で教えることはなかったので仕方がないが、まずは、デジファブと大工技能の良い関係を築く必要がある。大工技能を理解した上で、デジタルを駆使すれば、従来にない高強度の継手や幅矧手法の開発も可能であろう。強度はシミュレーションできるし、複雑な加工は機械に任せれば良い。加えて、デジタルにより、設計から加工、施工までを一貫させることが出来れば、設計と加工、施工が分離して下請と化した大工が復権する可能性もある。
それには、新しい教育・訓練の仕組みが不可欠である。大工にデジタルその他の技術や知識を教えても良いし、学生や設計者に大工技能と木の知識を教えても良い。両方が同時並行的に進めば、技能とアカデミーの枠を取っ払うことにも繋がり、より効果的である。
大工技能の評価はいかになされるべきか
最後になるが、大工技能の評価について述べたい。昨年から、国交省と業界団体が進める建設技能者の能力評価制度構築が進められている。平成31年3月29日に建設技能者の能力評価制度に関する告示も発せられている。この制度では、業界団体が各々に取り扱う技能を4段階に区分し、評価内容を細かく定めることになっている。大工も当然含まれるが、例えば鉄筋ならば全国鉄筋工事業協会、左官なら日本左官業組合連合会というように分かり易い対応関係にあるが、大工に関しては、JBN・全国工務店協会、日本木造住宅産業協会(木住協)、全国建設労働組合総連合(全建総連)からプレハブ建築協会まで関係8団体を取り纏める必要があった(著者は取り纏め委員会の座長)。また、こうしてみると明らかになるのだが、大工の組合というものが日本にはない。関係8団体は事業者の団体であり、主に大工を下請として使用する組織である。全建総連は、労働組合の名を冠しているが、一人親方と個人事業主の集まりである。使用する側が大工を評価することは一つの方法であるが、上述のような様々な問題から派生する障壁がある。
・能力が明らかになるとライバルに優秀な者を引き抜かれる危惧を抱くので積極的に評価制度を活用しようとしない。これは大工以外の職種にも共通する問題である。
・社員として、しっかりと囲い込んでいればこの問題は起こらないはずであるが、上述のように大工の社員化(雇用)は進んでいない。
・技能者の側も請負の方が儲かる、独り立ちしなければ一人前ではないという意識が強い。特に大工はその傾向が強い(若い世代は変わりつつある)。
・下請であっても市場原理が働けば能力と賃金は比例するはずであるが、市場原理よりも元請・下請の力関係が勝っている。
・力関係は米国のユニオンのような組織があれば対等化できるが、日本にはそれがない。また、新たにユニオン制度を構築するのは極めて困難である。
・派遣労働が可能であれば個人の能力が評価される可能性があるが、日本では建設職人の派遣が禁止されている。
・技能士試験を始め、大工の能力評価制度は未だに墨付けと手刻みに基づいており、現代の大工の評価基準が構築できていない。
こうした問題を一つ一つ紐解きながら大工の能力評価をおこない、昔のように誰もが尊敬するような技をもち、若者が憧れるような処遇を実現しなければならない。
おわりに
貴重な大工技能がどんどん必用とされなくなり、道具を自慢し合い、ミクロン単位の鉋削りと研ぎを教えてくれた凄腕の大工達が仕事を失い、建売住宅の現場で1日2万円に満たない賃金で働かざるを得ない現実、一方で、国産材活用ということで木が見直されつつも、歴史に培われた日本の木の建築とは全く別物の木の使われ方が増えていく現実に忸怩たる思いを抱いていた。
今回いただいたテーマは「大工技能の評価はいかになされるべきか」というものであったが、忸怩たる思いをどうにかしようともがいているうちに随分冗長になってしまったことをお許しいただきたい。
大工の能力評価は何としても実現する必要がある。しかし、能力が活用されなければ何の意味もない。課題は多いが、まずは、大工の雇用と木に関する教育の問題を何とかする必要がありそうだ。