安藤紀雄[1940-]すべては建築設備の技術向上のため

話手:安藤紀雄/聞手:光永威彦、青井哲人、種田元晴、砂川晴彦[連載:建築と戦後─10]

建築と戦後
建築討論
48 min readMar 15, 2022

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日時:2021年7月24日(土)14:00–17:30
場所:日本建築学会 会議室(東京都港区)
聞手:光永威彦(Mt)、青井哲人(Ao)、種田元晴(Tn)、砂川晴彦(Sn)

安藤紀雄氏(撮影:砂川)

地球温暖化を背景に世界主要国の脱炭素化への潮流が強まる中、日本も2050年までのカーボンニュートラル化を宣言した。建築業界においても、建築物省エネ法の強化やZEB(Zero Energy Building)の標準化が促されている。建物内の温熱環境などの快適性を維持しながら、省エネや創エネの実現が求められ、建築設備分野の寄与するところは大きい。

安藤紀雄氏は、戦後日本の建築設備の第一人者である井上宇市[1918–2009](★1)に師事し、建築設備技術を学んだ後、設備施工者・技術者として現場主義に徹し、その成長を目の当たりにした。その傍らで、建築設備技術に関する多数の著書を執筆し、講演・非常勤講師を担われ、社内外を問わず後進の技術向上に大変貢献された。その活動は定年退職後も続けられ、生涯現役をモットーに82才となられた現在でも継続されている。

建築設備はどのようにはじまり、発展したのか。今回は、戦後日本の建築設備技術の黎明期を生きた安藤氏の視点から、建築設備技術の軌跡に追った。そこからは建築設備の脈動が感じられる。

本インタビューは、日本建築学会 建築討論委員会戦後建築史小委員会による2021年のインタビューの記録である。なお、インタビュー時の事前質疑に対して、安藤紀雄さんより、事前に文章による丁寧な回答をいただいたため、ここでは、その事前回答とインタビュー時の内容を重ね合わせて記録する。(Mt)

理論的な父の反動で(生い立ちから高校時代|1940年2月~1958年3月)

Mt:はじめに、生い立ちからお聞かせください。

安藤紀雄(以下、安藤):私は昭和15年(1940年)2月9日の生まれで、妹と弟がいます。そのちょうど2日後の2月11日は皇紀(神武天皇即位)2600年にあたり、日本国民全員は「ああ一億の…」という唄を歌ってお祝いをしていました。当時、2月11日に誕生日登録をすれば、ご褒美を貰えたそうですが、両親はそのまま私を“紀雄”と命名して誕生届を出したそうです。ですから、昭和15年生まれの男性は、紀元節の“紀”を取った名前の人が多いようです。かつて、会社に同年生まれの同僚がおりましたが、彼の名前は、なんと“二千陸(2600)”でした。

Mt:ご両親はどのような方でしたか。

安藤:父方は川越藩の下級武士の家系で、父は大正3年(1914年)頃に、明治維新で提灯(ちょうちん)職人となった祖父の次男として生まれました。父は真面目で無骨な人柄で、高等学校の数学教師として、生徒と一緒に勉学することを生きがいとしていました。そのため、自宅に学生を招いて授業をすることもあり、その様子を私もよく見ていました。私が仕事として建築設備の施工という泥臭いことを志望したのは、父がとても理論的であった反動であるように思います。母方は、東京都西多摩郡霞村大門(現 青梅市大門)で小売り商人と百姓を営んでいました。

Mt:終戦時はどちらにいらしたのですか。

安藤:誕生地は、東京の上板橋ですが、終戦(1945年)の前年に、母親の実家であった東京都の霞村大門に疎開しました。ここでは、空襲警報発令のたびに防空壕に逃げ込んだり、遠くの八王子が米軍の爆弾投下で、真っ赤に燃え上がるのを見ました。当時の霞村大門では、ラジオを持っている家庭は少なく、ラジオのある我が家の前に大勢の大人たちが集まり、神妙な顔をして玉音放送に聞き入っていた記憶があります。このとき、私が「お母ちゃん!これでまた東京にもどれるね?」と母親にいったそうです。しかし、そのまま霞村大門で過ごすこととなり霞村小学校・霞村中学校(現 青梅市立第三中学校)で学ぶことになりました。当時は一律に皆が貧乏でしたが、百姓が多かったこともあり、食べ物でひもじい思いをした記憶はありません。中学校は1学年5クラスで200名と生徒数は多かったです。高校へ進学するのは、そのうち20名程度。当時、百姓の子はたいてい農林学校へ、勉強の得意な人は都立高校へ進学していました。私は都立立川高校に進学しました。

立川高校は、かつては「村長学校」とも呼ばれており、三多摩地区の村長・市長のほとんどは、立川高校の出身者だったそうです。私は、そこへ青梅線(当時チョコレート色の鉄製車体)で片道40分ほどかけて通学しました。高3の夏には、国立市谷保の戸建てに転居したので、それからは毎日、自転車で通学していました。

Tn:立川高校からどの大学へ進学する学生が多かったのですか?

安藤:高校時代の学友には早稲田大学・慶応大学の出身者が多いです。あとは国立大学ですね。中でも隣接していた一橋大学の進学者が多かった。私は一橋大学は自宅の近所であったため行きたくないと思っていましたが…。

インタビューの様子(撮影:砂川)

井上宇市先生・尾島俊雄先生との出会い(早稲田大学建築学科時代|1959年4月~1965年3月)

Mt:早稲田大学建築学科への入学の経緯について教えてください。

安藤:私は「東大以外に大学はない!」と思い込むほどの、自信過剰な高校生でした。このような中で、高校3年まで部活動として柔道に勤しみ、“四当五落”というように受験勉強に没頭していました。そのツケが廻り、東大受験時には、体調をすっかりこわし、東大現役合格どころではない状態でした。案の定“不合格”で、すっかり自信をなくしてしまいました。我が家は私立大学に入れる経済的余裕はなかったのですが、一年の浪人後に、両親に頼みこんで私立大学である早稲田大学への受験を許可してもらいました。

当時、受験料は一学科当たり、3,000円でしたが、早稲田大学第一理工学部建築学科と早稲田大学第一政治経済学部新聞学科の二学科への出願をしていました。たまたま、2学科とも合格したのですが、当時は安保闘争の最中で学生運動が盛んな時代であり、私が学生運動にのめり込むことを心配した父親は、“建築学科”への進学を勧めました。そこで、父親の意向を素直に汲んで、建築学科への入学の道を選択しました。当時は将来、朝日新聞の天声人語を書いてみたいと思い、新聞学科を受験していましたが、今ではそちらを選択しなくてよかったと思っています。結果的に、在学期間中、60年安保で活動しているような学生は私のまわりにはいませんでした。

Mt:その後、建築設備を専攻することを選ばれます。

安藤:早稲田大学へ入学して、しばらくは東大を受験し直したいと思っていましたが、次第に早稲田大学の雰囲気が心地よくなってきました。ただ、建築学科に入ったもののデザインのセンスはなく、構造学には興味があまりわかない。そのとき、井上宇市先生に出会い、建築設備の面白さを知りました。

Ao:当時の建築設備の位置づけについて教えてください。

安藤:当時、デザインや構造に加えて、建築設備を充実させないと良い建物とならないことに気付き始めていた時期でした。そのときの建築設備、空調設備の認知度を表す出来事があります。私が大学院に進学し、井上宇市研究室で留守番していた時のことです。

「井上先生は、いるかい?」

某中堅ゼネコンの常務が人事部門担当者を引き連れて、井上宇市研究室を訪ねてきました。

「現在、授業に出かけておりますが、30分ほどでお戻りになります。しばらくお待ちください!」

大学院生の私が簡単に返答すると、その後しばらくして、この常務は、井上先生を待っている間に、私に向かって、

「ところで学生さん!あなたはここで何をしているの?」

と尋ねてきました。

「空調設備の勉強をしています。」

と真面目に返答したところ、この常務は、不思議な顔をして聞き返しました。

「あんたのいう“空調設備”って何だい?“水道屋”かい?それとも“ガス屋”かい?」

このように、当時、建築設備は水道やガスといった各専門業者によるもので、空調設備や衛生設備という建築分野の設備領域への認識がそもそもありませんでした。

Mt:井上宇市先生はどのような先生でしたか?

安藤:井上宇市[1918–2009]先生は、東京大学で造船を学んだ後、就職するも数年で体調を崩したようです。そのとき就職難でしたが、櫻井省吾[1897–1977]先生とのご縁で大成建設へ就職されたと聞いています。当時は建築設備を教えられる先輩が大成建設にいなかったため、先生は会社公認でたびたび国会図書館通いをし、独学で建築設備をマスターされたようです。その後、大成建設から早稲田大学へ移られます。

先生の建築設備授業(空気調和換気設備)は、黒板に片手で文字を書き、もう片方の手で絵を描いて講義される独特の授業で、既存の資料を使用しないので、ノートを取るのに精一杯で苦労をしました。

井上先生は、先生の都合で休講すると、しっかりと覚えていて、夏休みに入って必ずその補講をしてくださる真面目な先生でした。また、思い出深いエピソードは、先生は帰宅途中私がバス停でバスを待っている時、「安藤よう!俺、今頭が疲れたからよう、これを見ているんだ!」といって、私の前に突き出した雑誌が、なんと“空気調和・衛生工学会誌”でした。頭が疲れている時でも建築設備に関する図書を読むほど、井上先生は建築設備の虫でした。

Ao:井上宇市研究室は学生の人気がありましたか?

安藤:当時の早稲田大学の建築学科には約30室の研究室がありましたが、そのうち環境・設備分野の研究室は、建築設備の井上宇市研究室と、環境原論の木村幸一郎[1896–1971]研究室の2室のみでした。それにもかかわらず、我々が3年生の時は井上井先生が学年担任だったことも重なって、1学年120名のうち約20名が建築設備(井上研)に所属していました。井上先生の人気は高く、影響も大きかったです。

井上研の私の同期生は、建築設備関連では、田中辰明[1940-]さん(元お茶の水大学名誉教授)・岡本章さん(元鹿島建設専務)・山本廣資[1940-]さん(元高砂熱学・東急設計コンサルタント)・佐藤英治[1936-]さん(ESAアソシエイト会長)等々の面々です。建築関係では、熱海のMOA美術館の設計者で、村松映一[1938–2021]さん(元竹中工務店)がおりました。また、その時、研究室の先輩として、尾島俊雄[1937-]先生(早稲田大学名誉教授)や、田中俊六[1938-]先生(元東海大学学長)がいらっしゃいました。なお、田辺新一[1958-]さん(早稲田大学教授・日本建築学会会長)は木村研の卒業生ですが、今も個人的にお付き合いがあり、親しくさせてもらっています。

Ao:安藤さんが学部3年生の当時(1962年頃)は建築設備の技術や認知も進んでいなかったようですが、学生にとって不安はありませんでしたか?

安藤:当時の私は「それしかない!」という思いで、井上研へ進みました。ただ、もともと私は歴史好きで、日本史か世界史の先生になりたかったこともあり、建築史にも興味があり、建築評論家になろうかと考えた時期もあります。ただ、そのうち化けの皮がはがれてしまうと考え、結果として建築設備に進みました。

Ao:当時の早稲田大学の建築史の先生はどなたでしたか?

安藤:建築史の先生として、田辺泰[1899–1982]先生と、渡辺保忠[1922–2000]先生がおられ、3年生のときの泊りがけでいった京都・奈良旅行のことはよく覚えています。

Ao:井上先生が建築設備に関する講座をもたれたのはいつ頃ですか?

安藤:井上先生は1953年に講師として、建築設備の研究者として大成建設から早稲田大学へ入ってこられてからですので、その頃からだと思います。ですので、我々の世代が日本の建築設備をつくってきたという自負はあります。

なお、櫻井省吾先生は、1953年より以前から早稲田大学で衛生設備の講座をもっていて、我々の世代が櫻井先生の衛生設備を受講した最後の世代でした。

Tn:井上研出身者は幅広くご活躍の方が多いですね。例えば、田中辰明先生はブルーノ・タウトを研究されておられます。

安藤:田中辰明さんは、もちろん建築設備の勉強はされているのですが、ドイツ語が得意な井上先生の推薦もあり、ドイツ留学をされて、それをきっかけにブルーノ・タウトの第一人者になったと思います。

Tn:井上先生も建築設備以外に興味をもっていたのですか?

安藤:井上先生は“興味のわかないものがない”というくらい、何でものめり込む性格で、特にヨーロッパのお城については「本をだすぞ!」とおっしゃっていました。あと戦争の歴史とか。私の前でもそういう話をしてくれました。私も似たところがあって、日本酒の研究をしてまして、先日も日本酒に関する小冊子『酒上戸なら是非知っておきたい:日本酒学こぼれ話』を脱稿したところです(笑)。

Tn:井上研究室がそういう雰囲気だったんですね。

安藤:そうですね。先輩であった尾島俊雄先生も田中俊六先生も少しも偉ぶることもなく、みな仲の良い雰囲気でした。

Mt:尾島俊雄先生について教えてください。

安藤:大学時代の恩師といえば、まず第一に井上宇市教授です。井上教授との出会いがなければ、大学院への進学もなかったでしょうし、ましてや、高砂熱学工業への就職もなかったと思います。もう一人の恩師が、尾島俊雄教授です。私の学位論文および修士論文の直接の指導者です。学位論文のタイトルは「某ビル冷暖房負荷の解析」でしたが、これは名古屋の「東海銀行本店」(設計:日建設計[1961])の空調熱源設備の年間運転記録の資料を借用して解析したものでした。このデータを解析して、尾島教授のご指導の元に初めて“冷房予冷負荷:プルダウンロード(Pull-down Load)”というものの存在を公表することができたのです。当時、熱源(ボイラー)の“焚き始め負荷”、すなわち、“予熱負荷(Warming-up Load )”の存在は、すでに知られていたのですが、“空調冷房負荷”のピークは、窓からの日射量の最も多い午後3時頃という既成概念がありました。この解析によって、“間欠空調方式”では、そのピーク負荷は、“冷凍機の予冷運転”時になるという、今では当たり前の事実が判明したのです。この発見が、その後の私の修士論文のテーマ「間欠空調と24時間空調」につながります。この時、「物は事実に基づいて言え!」の大切さを実感しました。

Mt:いまの建築設備における“当たり前”の基礎となるデータ分析をされていたのですね。

安藤:そうですね。当時は自動測定するためのサーモセンサーなどはしっかり管理されていないので、研究室ではアスマン温度計や風速計といった実験器具を毎年少しづつ買い足しながら、測定をしていました。今でも記憶に残っているのは、尾島先生の指示で、コイルの出入口温度を測定するために、空調機の中に入って、チャンバー内断面を9点ほど測定して、冷房能力を算定していました。また、当時は少なかった空調熱源設備の年間運転記録を施主に借りたものの、持ち出しはできず、機械室内にカンヅメになってデータを複写したり、熱負荷計算においても、電卓のない時代ですからタイガー計算機を借りて、ジャキジャキと鳴らしながら計算していました。いま振り返ると大変にラフで非効率ですが、その後の仕事に活きる経験であったと感じています。

Ao:当時はすでに空調熱源設備の年間運転記録などの管理データの有効性が認知されていたのですか?

安藤:いえ、認知されていませんでした。そのため、当時、日建設計にいた石福昭[1930-]さんから東海銀行本店に貴重な機器管理データがあると聞いた井上先生の指示で、私含め3人の学生で名古屋まで泊まり込みで測定しにいくこととなったのでした。

試練のシンガポール赴任(高砂熱学工業時代①:現業編|1965年4月~1986年頃)

Ao:高砂熱学工業の会社としての始まりについて教えてください。

安藤:1923年、高砂煖房工事株式会社として始まり、鋳鉄製のボイラーなどを主に扱っていました。その後、温水暖房や蒸気暖房を扱うようになったと聞いています。会社が飛躍するきっかけは、他のサブコンもそうですが、進駐軍の事務所や住宅などの工事や、東京オリンピック関連工事です。高砂熱学が空調設備工事をやりだしたのは、井上宇市先生のハンドブック(第1版1956年)が出たころではないでしょうか。繊維工場の糸が乾燥すると切れやすくなることから、エアワッシャーで加湿した空気を給気したことが空調設備の始まりであったと思います。

Mt:入社の動機をお聞かせください。

安藤:私は父親が、高校の数学教師であったので、従来から、できれば父親とは縁遠い泥臭い職業(実業)につきたいと思っていました。しかも、もともと語学(英語)にも興味がありました。そんな背景もあり、大学院修士課程の修了後、私は「英語を完全にマスタ―したいので、できれば米国留学のチャンスがありそうな東洋キャリア(現 新日本空調)に入社したい。」と井上先生に申し出ました。すると、井上先生は「安藤!サブコンに就職する意思があるなら、高砂でも米国留学の機会はあると思うよ!」と、それとなく「高砂へ就職したら?」と勧めてくれたのでした。

なお、後日知ったことですが、高砂熱学にも早稲田大学建築科卒OBが数人就職しており、当時の高砂熱学工業の専務と井上先生がとても親しく、大学院修士課程修了生がおれば、ぜひ推薦してほしいと根回ししてあったようでした。

当時、大学院修士課程修了者で建築設備専攻の学生は、その数も少なく、著名な設計事務所や大手ゼネコンなどに就職していました。私は井上先生が推薦してくださるならと、高砂に就職することになるのですが、当時、修士課程修了者でサブコンを志望したのは、私が初めてのケースでした。

Mt:入社試験で思い出深いエピソードがあるとお聞きしました。

安藤:入社試験の際(1964年)、井上研の大学院修士課程修了者ということで、恥をかかせまいとしたのか学科試験は免除となり、試験は面接試験のみでした。その面接試験では、5・6人の技術系役員の前でいくつかの質問を受けました。その第一問は、「安藤君、石炭の発熱量は、どのくらいかわかりますか?」でした。それに対し、私は「石炭の質にもよりますが、約5,000kcal/(kg・h)程度だと記憶しています。」と答え、第一関門をどうにか通過しました。その後いくつかの常識的な質問をうけた後、最後に「安藤君、層流と乱流とは何か説明してください。」と言われました。私は「層流とは滑らかな流れで、乱流とは乱れた流れのことです。」と即座に答えようと思ったんですが、「待てよ!大学院修了者にそんな幼稚な愚問をするはずがない」と思い返し、「層流と乱流ですか?層流とはレイノルズ数が…。」と言いかけた途端、「もうよろしい!」と言われました。私は引き続き、「レイノルズ数が1,000以下が完全層流域で、4,000以上が完全乱流域で、遷移域は2,320程度と記憶しています。」と答えてどうにか難(?)を逃れることができ、井上先生にも恥をかかせることがなくてよかったと胸をなでおろしたのでした。

Mt:入社された当時の高砂熱学工業の雰囲気はいかがでしたか?

安藤:高砂に入社して最初の印象は、そうそうたる技術員(東北大学卒・東京大学卒・東工大卒など)が会社のトップを占めており、「高砂は、さすが技術の会社」であるとつくづく思いました。その一例が、毎月一度程度開催される“技術勉強会”です。例えば、送風機の基礎知識と題しては、社内の専門家がその知識と実務経験談を聞かせてくれました。また、当時は、各人が本社の方向に顔を向ける必要はなく、各人に仕事を一任する社風に溢れていました。加えて、高砂熱学はそれぞれ“一家言”を持つ個性的な技能集団の集合体のような会社であると感じました。その他、工事屋の会社らしく、酒好きの酒豪が多かったように思います。

Mt:入社当時はどのような仕事をされていましたか?

安藤:入社当時、新入社員は大型物件で、現場代理人の下の担当社員として配属されることが多かったのですが、私は小型物件の工事施工担当や現場代理人をすることが多かったです。そのため、施工図の作成・設備資材の手配・実行予算の作成などの全段階にわたる工事の段取りに従事したので、設備工事の全体像を把握する能力が自然に身についたように思います。

また入社して間もないころ、蒸気の還水管(蒸気の凝縮水を通す配管)に配管用炭素鋼鋼管(白ガス管)を使用してコンクリート埋設してしまったトラブルがありました。現在では、炭酸腐食するため、白ガス管では腐食割れしてしまうことがわかっていますが、当時は誰も知識がなく、大学院修了者ということで私が派遣されました。いろいろ調べる中で、原因がわかり、結果的にはコンクリート埋設管をはつって、ステンレス管にやりかえたことがあります。

その後、後半は、自ら設計し、現場施工まで担当するケースが多くなりました。私の現場では、Plan(計画)、Design(デザイン)、Quality(品質)、Safety(安全)、Moral(モラル)で通称「PDQSM」を大切にしていました。モラルは、複数の人と現場をまとめるにあたっては、ある程度考え方が同じでないと現場運営に支障をきたすんですね。なので私は「私のやり方にあわないんだったら、他の現場へ行きなさい!」と言うようにしていました。

高砂熱学時代、先輩からの貴重な教訓は、「設計事務所の設計図を丸写しにして施工図を描くな!」でした。その意味するところは、「設計図は、設計者のデザインコンセプトを表現化したものに過ぎない。」ということで、施工や維持管理をするための水や空気の補給や制御については、落ちないように見積段階で適宜追加していました。

Mt:当時の思い出深いエピソードを教えてください。

安藤:いまだから言えますが、分離発注の場合、歩金(ぶきん)をゼネコンに納めるのですが、当時、その請求金額が法外に高いときがありました。その支払いを拒否すると後でひどい目にあわせられるので、それがサブコン業界の悩みの種でした。でも私は大学院を修了したという自負もあって、正当な歩金の金額を調べた上で、「歩金がこんなに高いのであれば、お施主さんや設計事務所さんへ相談しにいかなければなりません!」とゼネコンをけん制しながら交渉していました。それもあって、他のサブコンの代理人から、「歩金の相談は安藤へ」といわれたこともあります(笑)。

安藤紀雄氏(撮影:砂川)

安藤:当時の職人とのやりとりで強く記憶に残っているエピソードを紹介します。機械室が2階にある現場で、夜中に車両でセクショナルボイラーを搬入していたときのことです。その機械室周辺の壁には、左官屋さんが翌日の施工のために調整した定規棒を敷設していたのですが、夜中で照明も不足していたためか、搬入作業をした搬入業者が、それに気が付かず、定規棒をめちゃくちゃにしてしまったのです。

作業後に、この状況に気が付いた私は、腹を決めて、翌朝、一升瓶の酒とつまみを用意して、左官屋の親分が現場に来るのを待ち構え、事情を説明しました。そうしたところ、その親分に首襟をもたれ、階段を引きずり上げられ、機械室まで連れていかれました。そして現場をみた親方は「なるほど、よくやってくれたな!!」といいました。私は土下座して謝って、「すいません。これはつまらないものですけどお酒とつまみを準備しました。これだけでは気持ちが収まらないでしょうけど、お許しください!」と懇願しました。職人肌な方であったこともあって「おまえがそこまで言うなら許してやる。」といわれ、なので会社にもクレームがいかずに事なきを得ました。ただ、私は大学院まで修了して、このような惨めな思いしなければならないかと、帰宅時に涙しました。

安藤:現場事務所に新しく着任すると、地回りとして、チンピラが「チケットか何かを買ってくれ」と来ることがありました。1回目はしょうがないと思って買ったんですが、その翌日、今度は違うチンピラがきて、また買ってくれと来たんです。これをこのまま買ってしまうと、こいつはちょろいと思われると考えまして、私は「昨日もご同僚の方がみえました。はじめてでしたので付き合いのつもりで買いましたが、そう何度もお付き合いするわけにはいきません。つきましては、当社の名古屋支店と取引口座を開いてください。」と言ったんです。それに対して、「俺はそんな面倒なことはできねえ」ときたものですから、「私も会社のルールから逸脱するようなことはできません。」といったら、もう来なくなりました。

Mt:これまでの職人や地回りとのエピソードを聞いていると、入社して間もない人にはなかなかマネができない立ち振る舞いのように思いますが、そのような胆力は入社前から身についていたものなのでしょうか。

安藤:そんなことはないです。たくさん失敗をして、それなりの授業料を払ってきました(笑)。

Mt:その後、念願の海外赴任として、シンガポールへいかれるのですね。

安藤:そうです。当時、私は某大型福祉施設の工事に携わっていて、もう少しで竣工という時に、シンガポール赴任の声がかかりました。このシンガポール赴任が、私の高砂熱学時代における、最大の試練となります。

入社9年目(1973)でシンガポールに派遣されたのですが、最初は、44階建ての超高層ビル「ホンレオンビル」(Hong Leong Building, 設計:スワン&マクラーレン[1976])の現場所長で、所員は私を含めたった2人の日本人スタッフで担当しました。しかも、いわゆる“丸腰の状態”で材料の手配の方法すらわからない状況でした。ところがさらに、その工事の途中で52階建ての超高層ビル「OCBC(華僑銀行本店)ビル」(設計:イオ・ミン・ペイ[1976])の受注が決まりました。そのため、東京本店からそのビルの工事を担当する、私より先輩の現場所長をシンガポールへ派遣してもらいましが、着任早々に言葉や協力業者の問題などで悩み、ノイローゼになって帰国してしまったのです。

東京本店に代替の現場所長を即派遣してくれるように依頼すると、そのような代替人材はいないというつれない返事でした。当時、日本では池袋の「サンシャイン60ビル」(設計:三菱地所[1978])が工事中でした。そちらに現場員は十数人派遣されているのに、なんという無理解で非情な仕打ちかと思ったものです。しかたなく、ホンレオンビルは部下一人に一任し、私がOCBCビルの現場所長となりました。

ところが、現場所長の仕事は、日本の場合と全く事情が異なり、協力業者(ダクト工事・配管工事の下請け業者など)は、育成されておらず、現場での施工管理どころではありませんでした。毎日10通ほど舞い込む、設計事務所やPRIME CONTRACTOR(日本のゼネコンに相当)からの手紙(DOCUMENTS)に対する回答書の執筆作業に追いまくられる日々が続きます。私は、所長としてこの書類作成業務に追われ、他の現場管理に不可欠な管理項目として、さきほどお話した「PDQSM」に関与する時間もなく、現場をみる時間すらほとんどない状況でした。

そのような中で、よくこの激務(試練?)に耐えることができ、何とか竣工まで迎えることができたものだと、自分で自分を褒めてあげたいと思っていますが、OCBCビルで莫大な赤字を出した罪で、日本に帰還して2年ほど干され、罪人のように過ごしていました。

よく、過去を振り返って、「あの時は、楽しい思い出」であったという人がいますが、私にとっては、シンガポール時代は、今でも思い出したくもない苦難の時代・悪夢の時代でした。

Ao:シンガポールの仕事の受注はどのように決まったのですか?

安藤:OCBCビルの受注に際しては、分離発注でした。メインコントラクターは米国と地元のJVで、設備業者については設計事務所のコンサルタントが、高砂と他4社の地元業者を比較する書類選考を行い、その後、残った3社を面接し、高砂に決定しました。

Ao:シンガポールはアジアのハブですから、そこで評価されると近隣諸国からの仕事も増えそうですね。

安藤:それが顕著なのはマレーシアですね。シンガポールの実績の後、マレーシアでの仕事が増えたようです。

Ao:安藤さんはシンガポールでは大変な苦労をされ、赤字をだして帰国後も戦犯あつかいされたということですが、会社としては、国際的な評価を得られたなど、よかった点もあったのではないでしょうか?

安藤:その通りですね。また私自身もシンガポールで鍛えられたため、日本に戻ってからは、設計事務所に対する質疑書などについては、すべて回答時期を明記して、「設計側の回答時期が遅れたことによる工事遅延については、当社の非とするところではない」としていました。当時、設計事務所の人間は尊敬されていましたから、これにはとてもびっくりされました。ただ、プロジェクトが終わってみると、その設計者からは、「工程を遵守する上で安藤さんのやり方はよかった。」という感想をもらっています。

Mt:帰国後数年して、シンガポールでの過酷な経験をされた安藤さんにしかできないプロジェクトが続くと伺いました。

安藤:帰国してしばらく干されていたのですが、その後、日建設計に出向し、「竹橋合同ビル」(設計:日建設計[1979])を担当します。これは日本輸出入銀行、海外経済協力基金、国家公務員共済という3つの行政機関が同居しているビルであったことから、財務上、財産区分を明確に分ける必要があり、さらに計量メーターを多数設置する、これまでに高砂が経験したことがない建物でした。私はそれら与条件を丁寧に紐解いていき、施工図や配管に区分を明記するなどの工夫も凝らしました。

その後、スイスのバーゼルに本社のあるサンド薬品の川越工場(「サンド薬品埼玉工場」, 設計:日建設計[1981])の空調設備工事を担当しました。施主側の現場管理者のコロンビ氏は、スイス人なので母国語の他は、英語しか話せませんでした。日本側の設計監理者である日建設計も英語が話せませんでしたし、衛生設備施工者の三機工業や電気設備施工者の関電工の現場所長も英語は話せませんので、困っていました。そのとき、私は高砂熱学(空調設備)の通訳要員として現場常駐していたこともあり、他の施工者の通訳役もかってでて、対応していました。その話にはオチがあって、現場の終盤になって、各サブコンが追加工事の増額を認めてもらうため、施主と交渉したのですが、高砂が担当した空調設備工事のみが増額請求を認められ、衛生設備工事・電気設備工事は認められませんでした。そのことについて「安藤くん、これはどういうことかね?」と上司に問われたので、「私の通訳料です。」と私は答えました(笑)。

また、日建設計への出向時には、「成田空港第一旅客ターミナルビル」[1978]の空調設計も担当しました。当時は大空間用の空調吹出口という考え方が一般的でなかったため、「国立代々木競技場」(設計:丹下健三[1964])のノズル吹出口で尾島先生が提案されたものを模して設計をしました。

Ao:当時の出向先の日建設計で印象に残っている人物はいますか?

安藤:当時の日建設計では、後に宇都宮大学から早稲田大学で教鞭をとられる石福昭さんがおり、その優秀さが印象に残っています。石福昭先輩からは、かねがね「安藤さん!どうせ高砂熱学に就職するなら、日本一の設備施工技術者を目指しなよ!」と鼓舞されておりました。

尊敬する先輩と社外の様々な人との出会い(高砂熱学工業時代②:社外活動編|1986年頃~2000年3月)

Mt:社外活動および出会われた方々について教えてください。

安藤:私はどちらかというと、好奇心が旺盛で、かつ外向的な性格です。また、高砂熱学が建築設備のリーディングカンパニーとして、技術をオープンにして、業界全体を引き上げていくべきだと私は常々考えており、1986年の名古屋支店時代頃から、“高砂熱学工業の広告塔”を自称し、積極的に社外での活動をしていました。

社外での活動のきっかけをつくってくれた、社内での最も尊敬した先輩は、60歳前に夭逝されてしまいましたが、早稲田大学建築科出身の笹野敦常務(尾島俊雄教授と同期生)でした。その笹野先輩は、私が名古屋支店豊田営業所に左遷(栄転?)された後、4年足らずで、私を施工の合理化開発を主眼とした施工技術センター所長として本社技術部に呼び戻してくれた、非常に先見の明のある恩人でした。

その笹野先輩は私を社外活動である空気調和・衛生設備工学会の『空気調和・衛生工学便覧(施工管理編)』の編集・作成に積極的に参画させてくれたのです。その他、いくつかの「建築設備の歴史」の著作・編集には、必ず声をかけてもらい、櫻井省吾さんの生誕100周年記念本:「アーバナの日」や、井上宇市先生の業績記念本:「井上宇市と建築設備」の両方の執筆・編集に加わることもできました。

『井上宇市と建築設備』丸善出版、2013(撮影:光永)

社外活動で遭遇した人には数多くの方がおられますが、まずその筆頭に挙げなければならないのが故・原田洋一氏です。原田氏と初めてお会いしたのは、既述の『空気調和・衛生工学便覧(施工管理編)』の編集委員としてでした。その後、原田氏の紹介で、JSPE(給排水衛生設備研究会)に入会します。

この事がトリガーとなり、私は人的には、東工大の紀谷文樹[1938-]教授、東京大学の鎌田元康[1945-]教授、明治大学の坂上恭助[1949-]教授などの知遇をうることができました。さらに、給排水衛生設備を再勉強させていただき、給排水衛生設備や建築設備配管工事の実態も把握できるようになりました。

ちなみに、高砂を定年退職後、橋本総業(株)主催の「HATセミナー」開催を通じて知り合った人の中に、元大成温調の瀬谷昌男[1941-]氏がおります。彼は、私が発刊した設備技術の参考書のさし絵を全面的に描いていただいておりますが、司馬遼太郎と須田克太との関係のように、今でも親交が続いております。その他、大西規夫氏(レッキス工業(株))および円山昌昭氏(元レッキス工業(株))も、私にとって忘れてはならない人達です。

Mt:安藤さんがJSPEで配管技能講習会の企画に到った経緯はどのようなことでしたか?

安藤:名古屋支店から施工技術センター長として、本社技術部に転勤になって後、しばらくして先輩の笹野敦常務の元に、早稲田大学の石福昭教授から電話が入りました。衛生設備の担当講師に欠員がでたので、高砂に協力してほしい旨の依頼で、笹野常務から、「安ちゃん、君がやれ!一番君のためになるから…。」という一方的なご託宣がありました。“何とかスル男さん”の私ですから、ありがたくお引き受けすることにしましたが、授業内容が教科書の棒読み一辺倒になってもまずいと思いまして、当時、配管工事の件で親交のあった、故・原田洋一さんのご紹介で、さきほどお話した通り、JSPE給排水衛生設備研究会に入会させていただきました。

一方、橋本総業からは、原田洋一さんの後任として、「HATセミナー」の企画・立案を委任されていたこともあり、橋本総業独自主催の「配管技能の実務講習会を開催したいから、検討してくれ!」と依頼されました。ただ、実務講習費用は、受講生一人当たり、配管その内容にも因りますが最低でも10万円はかかるため、受講生は集まらないであろうということで、橋本総業には、その企画を断念していただきました。

ところが、“何とかスル男さん”の私は、JSPEの企画委員会にこの企画案を持ち込みました。というのは、配管技能講習会の実技指導講師を、JSPE賛助会員の中から無報酬で提供していただけば、十分に成立可能と読んだからです。最初の5年間は、3日間コース毎回定員である30名近くを募集するのに四苦八苦しましたが、現在ではすぐに定員に達するほど盛況であると聞いています。2020年で19回を迎えますが、配管技能講習会の延べ受講生は、1,000名以上になります。設備施工者のみならず、設計者が配管のことを理解して、監理されることに寄与できれば幸いです。

Mt:オーム社『設備と管理』誌では「設備英語の英絵:おもしろ百科」が40年の長期連載になっています。

安藤:さきほどお話した通り、私がシンガポールから帰還して数年後、高砂熱学は、「サンド薬品(本社:スイスバーゼル)川越工場新築工事」[1981]を受注しました。私は、その現場に、現場所長としてではなく、打ち合わせ通訳として、常駐することになりました。

その後、現場の竣工も間近になって、オーム社『設備と管理』誌上にサンド薬品川越工場の竣工写真・竣工記事を掲載したいという話が私のもとに着たため、私は客先から誌上への掲載許可を取るとともに、竣工写真集や当該記事などの業務も代行してあげたのです。

その折、オーム社の編集担当者から、建築英語に関する執筆者はいるけど、設備英語に関する執筆者を探しているという。「それなら、私が執筆しましょう!」ということで話がまとまり、「せっかん誌上DJ・設備英語の英絵おもしろ百科」の40年の長期連載がスタートしたのです。この長期にわたる連載により、個人的にも大いに勉強させていただきました。

この“何事も断らず、何でも引き受ける”私の性格のため、後に高砂名古屋支店に転勤した際、支店長から「何でもスル男さん」とか「何とかスル男さん」という、ありがたい“ニックネーム”を拝受しました。

安藤氏による設備英語に関する著作(撮影:光永)

生涯現役を体現(N.A.コンサルタント時代|2000年4月~現在)

Mt:設立のきっかけについて教えてください。

安藤:N.A.コンサルタントの「N.A.」というと、Not Applicable(適用なし)・National Academy(国立アカデミー)・No Account(取引なし)等の略語を連想される方も多いと思われますが、私の名前:Norio Andohのイニシャルを借用したものです。生涯現役を信条としている、私にとって、定年退職してすぐに無冠になってしまっては寂しいと思い、これからも「がんばるぞ!」という意味で命名したものです。

ですから、N.A.コンサルタントとは、他意はなく、決して設立といった大袈裟なものではありません。私は幸いにも早稲田大学の建築科に入学し、大学院まで進むことができました。私が入学していなければ、別の一名が入学していたかも知れません。ですから、その人の分まで「頑張ろう!」という気持ちは在学中から常に消えませんでした。換言すると、大学・大学院・高砂熱学で習得した、貴重な知見・体験を私物化せずに定年後に爪痕として、後世まで“技術伝承”として書き残しておきたいと考え、その機関として「N.A.コンサルタント」を設立したのです。

この考えは、井上宇市先生の「自分の知り得た知見は、どのような情報でも“ディスクロージャ―”して、全ての人に活用していただく!」という精神をそのまま受けついたものと理解しています。ただし、個人的には私の老化防止(ボケ防止)の目的でもありました。

Mt:N.A.コンサルタントの主なお仕事は?

安藤:N.A.コンサルタントとは、名義だけで“コンサルタント”としての報酬を直接いただいた仕事は、特殊な場合(講演会・セミナーなどの講師料など)を除き、ほとんどありません。収入は主として、雑誌などの原稿料ですが、ここで特筆しておきたいことは、毎月のオーム社発行『設備と管理』誌への見開き2頁にわたる原稿投稿です。令和3年(2021年)12月で、丸40年間の長期連載(通算:40年×12ヶ月=総計480号)になりますが、これをもって最終稿とする予定です。

Mt:これまでに多くの著書を執筆されていますが、執筆時に特定のパートナーがいらっしゃるようですね。

安藤:N.A.コンサルタントは、私一人の会社で営利目的の会社ではありません。したがって、建築設備参考書や趣味の本を書く場合は、共著として共著者が必要となります。その共著パートナーには、瀬谷昌男氏(元大成温調)・水上邦夫氏(元清水建設・NYK顧問)・堀尾佐喜夫氏(元須賀工業)・小岩井隆氏(元東洋バルブ)などのメンバーがおります。

共著による建築設備の参考書(撮影:光永)

Mt:執筆に際して心がけていることは何ですか?

安藤:私の師である井上宇市先生は、私に向かって「安藤よう!俺は頭が悪いからよう!自分にも相手にも分かりやすい文章しか書けねえんだよう!」とよく言っていました。その影響を受けたせいか、私は文章を作文するに際して、だれにでも分かりやすい、読んで貰える平易な文章を書こうと心がけております。加えて、執筆したものは多くの人に読んでもらってなんぼの世界ですから、できるだけ、難解な言葉や数式などの使用を避けております。

また、技術用語解説コーナーや知っておきたい豆知識コーナーなどを随所に設けて、息抜きしてもらっております。そのおかげでか、私の文章は素人にも親しく分かりやすいと好評をいただいております。

Mt:これまで数多くの執筆をされてこられていますが、文章を書くことが苦になることはないですか?

安藤:最初に大見出しを作っておいて、詳細な文章を少しずつ書き足していくことで、リフレッシュしながら文章をつくっていくようにしています。一度に文章を書くのではなく、少しずつ仕上げていくことがコツと考えています。

Tn:瀬谷昌男氏のさし絵もご著書の分かりやすさに影響しているように思います。お二人のご関係や協働のされ方についてもう少し詳しくご教示ください。

安藤:私が、高砂熱学を定年退職する前後から、(株)橋本総業から技術顧問として、「HATセミナー」の立案・企画を依頼されました。以降その第1回から最終50回まで、合計50回の「HATセミナー」の企画・立案に参画することになるのですが…。この「HATセミナー」に、大成温調から毎回のように出席され聴講される方が、瀬谷昌男氏でした。その内、彼とは「昵懇の間柄」となり、最初は共著者として私が企画した参考書の発刊協力をしていただきました。その内、彼には拙著のイラストレーション(さし絵)を専門に描いてもらうようになりました。拙著を献本させていただいた方々から、瀬谷氏のさし絵が素晴らしいという感想が毎度のように寄せられます。彼は大成温調に在籍していた設備技術者なので、どのようなさし絵にしてほしいと特別に注文しなくても、的を得たさし絵を提供してくれるので、私にとっては非常に助かる存在です。

瀬谷昌男氏の挿絵が表紙を飾る安藤氏の代表著作(撮影:光永)

趣味を楽しむ

Tn:安藤さんは英語やその他の外国語について、大変興味をお持ちと伺っています。

安藤:私が中学2年生の時、当時、英語は高校受験の受験科目になっていませんでしたが、「これからは英語が話せないといけない」と考え、英語の教科書を毎日読んでいました。その成果として、全校生徒中で2名しか満点をとれなかった英語の試験で満点をとったこともあります。余談ですが、私が高校1年生の時に英語が受験科目になりました。また、私のおじさんが米軍基地に勤めていたこともあり、英語でわからないことがあるとよく聞いていました。

現在では、「英語」の他に、「中国語(15年学習・現在でも学習継続中)」・「韓国語(過去に3年学習済)」・「マレーインドネシア語」・「タガログ語」なども、カタコトを話すことはできるようになっています。

英語に限らず、言語は、あいさつ程度でも話せるとその国の人との距離を縮めることができると考えています。私の子供も父親に似たのか、現在はシンガポールで働いていますが、それまではインドネシアにおり、インドネシア語が上達しています。

はじめての海外は、1965年頃に尾島先生と一緒にいった中華民国(台湾)でした。その後アジアを中心に、韓国、中国、タイ、インドネシア、インド、ネパール、ミャンマー、ベトナム、カンボジアなどへ、すべて仕事ではなく観光で行っています。中国は興味があって13回いきました。もう一度行きたい国はブータン。よかった点は素朴であることと、ロマンティックな国であることです。しかも女性が主権をもっているのも興味深い点です。なお旅行の際は、家内もだいたい同行しています。

Tn:日本酒指導師範(菊正宗酒造認定)を取得されたきっかけは何でしたか?

安藤:この取得の仕掛け人もまた、故原田洋一氏です。ある日突然、私の自宅に、「日本酒指導師範」の講習テキストが一式送付されてきました。送り依頼人が故・原田洋一氏でした。それを受けて立って、2年がかりで資格を取得することができ、その後の営業活動上でとても役に立ちました。

相棒の瀬谷氏からは、建築設備技術関係の参考書もいいけれど、折角「日本酒指導師範」の名刺を持っているのだから、「日本酒」の小冊子でも書き残しておいてはどうかと言われて、2021年の2月・3月にかけて、『―“酒上戸”なら、是非知っておきたい―日本酒学:こぼれ話』の原稿を脱稿しました。瀬谷氏も言い出した責任上、素晴らしいさし絵を数多く描いてくれました。なお、同著はすでに刊行済みで、非売品ではありますが多くの友人に発送させて頂きました。

安藤氏による建築設備以外の著作。やはり瀬谷氏のさし絵が表紙を飾る(撮影:光永)

Tn:伝統技能・文化へのご関心も深いようですね。

安藤:約4年前、歌舞伎ファンの家内に連れられて歌舞伎座を訪れたことがある。これがきっかけとなって、歌舞伎に関する書物を読み漁り、毎月のように歌舞伎観劇をするようになりました。ただし、歌舞伎鑑賞は、素人筋には切符が入手しにくいのが難点です。しかしながら、最近(ここ2年間)は、日本の古典芸能である「能・狂言」に次第に興味が移り、毎月一度は「梅若(うめわか)能楽学院会館」(設計:大江宏[1961])に観劇にでかけています。

Tn:趣味・旅行の際に注目されていることは何ですか?

安藤:私の生涯を通じての趣味は登山(山歩き)ですが、私が高砂に入社した頃から、次第に深田久弥(ふかだきゅうや)氏の「日本百名山」という言葉が知名度を得るようになりました。当初「百名山完全登頂」はとても無理と思っていましたが、高砂に在職中の丁度57歳の時に、「深田久弥氏の百名山」の登頂をはたしました。現在、日本山岳会指定「日本300名山」には、「164座」で中断し、加齢と腰痛のため、断念しております。

そのため、最近では慢性腰痛のため、登山は断念し、もっぱらTVで旅行番組を見ることを楽しみにしています。特に、ローカル鉄道に乗車して、車中でチビリチビリお酒をのみながらの、六角精児の「呑み鉄本線一人旅」は、私の大好きな番組の一つです。私の登山愛好は、戦争疎開で高校3年まで青梅で育ち、奥多摩の山々を駆け巡ったことにあると思います。

旅行する際にその吸収度を高めるには、ネタバレ(事前に旅行地の情報を習得)にして出かけることが重要である。そして、帰宅後は必ず復習しておくと、一層内容の深い思い出深い旅行となる。さらに欲を言えば、私の場合、海外旅行から帰国後、必ず遂行しているように、記憶が新鮮な内にその「旅行記」を残しておくとよいと思う。そうすると、グリコキャラメルの宣伝ではないが、“一粒で、二度も三度もおいしくなる”こと請け合いです。

安藤紀雄氏(撮影:砂川)

建築設備の将来

Mt:新技術や社会情勢を踏まえての、安藤さんが考える設備設計の将来像について教えてください。

安藤:私の独断と偏見かも知れないですが、技術というものは先達の習得した技術を模倣(immitation)することにその原点があると思います。その習得技術の上に、新しい社会情勢を配慮することにより改善(improvement)が加わり、新技術は誕生すると考えます。したがって、「温故知新」という言葉の具備する意味は重要です。

つまり、当時、革新的な技術と思われた新技術も栄枯盛衰の理で、時代とともにすっかり陳腐化して、姥捨山に捨てられ、顧みられなくなってしまった例も多々あります。その一例として、1960年代以降に空調方式として、「二重ダクト方式」や「インダクションユニット方式」があります。これらの空調方式は大流行した時期がありましたが、現在では皆無といっていいほど採用されておらず、この空調方式用語は死語に近い状態です。そのため、私が空調方式について講義する場合も、この2空調方式は割愛しています。

私は、新しい設備設計の開発も、常に不可欠なニーズであると思っています。設計図を例に挙げると、その作図手法は「T定規による作図」⇒「ドラフターによる作図」⇒「CADによる二次元作図」⇒「CADによる三次元作図」へと各段の進歩を遂げてきています。私の早稲田大学建築科の建築構造専攻の友人は、元の古巣の設計事務所を訪ねた際、製図版やT定規がすっかり姿を消しているのを目の当りに見て、昔日の感を新たにしたと言っていました。

Mt:これからの設備設計者がもつべき心構えとは何でしょうか?

安藤:私は“設備工事施工業者(サブコン)”に就職したものだから、そういう職場環境にどっぷりつかってしまっています。したがって、これも宿命で、設備設計者としての発想はなかなか浮かびません。ただ、設備設計のアウトサイダーとして言いたいことは、設備設計者たるもの、いずれの建物の設計にしても“デザインコンセプト(設計哲学)”だけは、しっかりともって設備設計に当たっていただきたいということです。

建築家・建築設備設計技術者にとってもっとも重要なのは、完全な「設計与件の把握・整理」と考えます。ここでいう「設計与件」とは、客先(顧客)との設計条件の「擦り合わせ」のことを意味します。大半の客先(顧客)の担当者は、設計与件を表現するのに不慣れな人が多いですが、設計与件の「擦り合わせ」が不十分なままの設計図が、「建築会社(ゼネコン)」⇒「設備施工会社(サブコン)」⇒「協力会社(下請け会社)」と「後工程」に流れると、竣工後、施主から“こんなはずではなかったのに”という苦情(complaint)が出る羽目になります。また設計与件の整理が不十分であったことは設計に起因することから、設計者がしっかりとその設計責任を担うべきです。

これも井上宇市先生の受け売りですが、設備設計者は、建築家と対等な立場で、プロジェクトの企画初期段階から建築設備設計の実施段階まで参画すべきであると思います。

最後にこの機会を利用して、建築設備技術者として少し提案申し上げたいと思っています。

ひとつは、建築設備配管等の「当階敷設・当階処理」についてです。従来、建築設備は、床下(下層階の天井ふところ)を利用しておりましたが、今後は、メンテナンスおよび防火上、当階の床上に設置できるようにすべきです。イニシャルコストは増加し、階高は多少高くなりますが、当該床から簡単にフリーアクセスできるようなOAフロアとすべきだと考えます。

もうひとつは、レンタルフィーの請求原単位についてです。従来、天井高の如何に関わらず、室床面積:m2当たりの料金ベースになっておりましたが、今後これは室容積:m3当たりの料金ベースに改めるべきだと思っております。

私、どうにか82歳まで生かされて感慨無量でありますが、石原裕次郎の唄ではないけれど、「我が人生に悔いはなし!」と思う今日この頃です。

一同:本日は長い時間に渡り、貴重なお話を伺わせていただきまして、ありがとうございました。

(★1)井上宇市(いのうえ・ういち)は1918年生まれ。現代建築設備設計の先駆者。1944年東京帝国大学第一工学部船舶工学科卒業後、第一航空技術研究所、大成建設株式会社を経て、1953年早稲田大学専任講師。1962年同校教授。戦後ほぼ皆無であった暖房や空調設備に関して数多の技術書を執筆した。中でも『建築設備ポケットブック』、『空気調和ハンドブック』は設備設計者にとって必携の書となる。また『空気調和・衛生工学便覧』の編纂委員長として手腕をふるった。建築設備の研究・教育においては、現在の建築設備業界で活躍する数多くの教え子を世に送りだした。設備設計作品としては、1964年「国立代々木競技場」、1970年「大阪万国博覧会お祭り広場」をはじめ、多くの作品に携わった。1992年勲三等瑞宝章を叙勲。2009年永眠。
※参照:『井上宇市と建築設備』(2013)

安藤紀雄(あんどう・のりお)
1940年2月9日東京都生まれ。1958年立川高等学校卒業、早稲田大学第一理工学部建築学科入学。井上宇市、尾島俊雄らに師事し、新しい分野であった“建築設備”を学ぶ。1963年卒業、同大学院修士課程進学。1965年修了。同年、高砂熱学工業㈱東京本社入社。設備施工に従事。1973~76年シンガポール支店勤務。名古屋支店、本社技術部施工技術センター、営業本部を経て2000年退職。同年N.A.コンサルタント設立・代表。1995~1998年早稲田大学理工学部建築学科非常勤講師(「空気調和設備概論」「環境設備設計製図」担当)。1998年給排水設備研究会副会長。2000年日本建設技術教育センター取締役、(株)前川製作所理事、橋本総業(株)技術顧問。2002~2007年神奈川大学工学部建築学科非常勤講師(「建築英語Ⅰ」担当)。2003年ものつくり大学建設技能工芸学科非常勤講師(「建築設備」担当)。2005年社団法人東京都設備設計事務所協会理事、建築環境・設備技術情報センター(AEI)副理事長。2007年三菱ビルテクノサービス(株)冷熱事業本部顧問、耐震総合安全機構(JASO)理事。主な資格に建築設備士、1級管工事施工管理技士、消防設備士、危険物取扱者、衛生管理者、菊正宗酒造認定日本酒指導師範。
主な著書に『空調設備配管設計・施工の実務技術』(1992)、『海外建築設備技術者のための「建築設備英語」1・2・3』(1993,1994)、『ダクト/配管工事の省人・省力化計画』(1997)『空調設備ダクト設計・施工の実務技術』(1999)、『空調衛生設備技術者必携シリーズ』(日本工業出版)、『図解建築設備工事用語事典(監修,2003)、『建築設備工事データブック』(監修,2004)、『目で見てわかる配管作業』(編著,2014)、『空調衛生設備 【試運転調整業務の実務知識】』(監修,2014)、『建築設備 配管工事読本』(監修,2017)、『空調・換気・排煙設備工事読本』(監修,2019)、『給排水・衛生設備工事読本』(監修,2019)など共著を含めて約50冊。寄稿原稿は2,000稿に及ぶ。

光永威彦(みつなが・たけひこ)
明治大学理工学部建築学科専任講師。建築設備、給排水衛生設備、水環境。1983年神奈川県生まれ。2008年明治大学大学院博士前期課程修了。株式会社山下設計を経て現職。博士(工学)。技術士(衛生工学部門)、設備設計一級建築士。日本建築学会建築設備運営委員会幹事、拡張排水システム刊行小委員会幹事。

青井哲人(あおい・あきひと)
明治大学理工学部教授。建築史・建築論。1970年愛知県生まれ。京都大学博士課程中退後、神戸芸術工科大学、人間環境大学を経て現職。博士(工学)。主著(共著含む)に『植民地神社と帝国日本』『彰化一九〇六年‐市区改正が都市を動かす‐』『日本建築学会120年略史』ほか。

種田元晴
文化学園大学造形学部准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。近現代日本建築史、図学。1982年東京都生まれ。2012年法政大学大学院博士課程修了。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。博士(工学)。一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。

砂川晴彦
東京理科大学補手。株式会社文化財工学研究所。青山製図専門学校非常勤講師。1991年埼玉県生まれ。東京理科大学大学院博士課程修了。博士(工学)。近代東アジア都市史・日本建築史。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦