対談|魚谷繁礼×吉村靖孝 ── 都市に漂着するコンテナ建築

055 | 202105 | 特集:建築批評《コンテナ町家》/Container architecture drifting in the city

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魚谷繁礼|吉村靖孝
ゲスト:森田一弥
参加者:能作文徳|伊藤孝仁|川井操|川勝真一|水谷晃啓(以上、建築作品小委員会)|佐々木啓
編集:中村睦美
日時・場所:2021年4月11日(日)@魚谷繁礼建築研究所

川井:今回、建築討論5月号の建築批評では魚谷繁礼建築研究所の《コンテナ町家》を取り上げたいと思います。《コンテナ町家》は、一部に長屋を残し、新たにコンテナを挿入し、それらを鉄骨造の大屋根で覆う、というこれまでのいわゆる京都の町家保存や継承のあり方とは全く異なるアプローチの建築作品です。

そして今回の対談者である吉村靖孝さんは、「超合法建築」や「エクスコンテナ・プロジェクト」など建築法規の解釈で生まれた建築やコンテナによる建築作品の実践に取り組まれています。お二人の扱うコンテナは、立地条件や扱い方は全く異なりますが、一方で都市に介入する意識に対して共通するものがあるのではないかと考えます。

まずは、魚谷さんからは《コンテナ町家》の設計プロセスや京都の都市構造との関係性について、続いて吉村さんからはコンテナに関連する作品についてご紹介いただきます。

京都の都市構造から《コンテナ町家》を語る

魚谷:今日はよろしくお願いします。まず、今回の《コンテナ町家》の背景にある京都の都市空間の変遷について一瞥します。もともと私は修士研究でグリッド都市京都の都市構造の変容と現況について調査分析し論文を執筆しました。平安京の条坊制のもと、京都の旧市街地は120m×120mの正方形グリッドを四行八門制(4×8)で地割りした都市として形成されました(図1)。応仁の乱を経て、豊臣秀吉の都市改造によって南北120m×東西60mの天正地割が新たに区画されます(図2)。四行八門制の地割りに沿って家を建てると、通りに面することができない家が出てきます。時代を経て土地の私有化と売買が進むと、次第に通りに面するように間口が狭く、奥に長い家々が建っていきます。これがいわゆる京町家の原型です。そして奥に長く建てるのにも限界はあり、グリッドの中央は空き地となります。

図1:四行八門制(4×8)の地割り
図2:グリッドの中央が空き地となった街区

近世になると、その空き地を私有化し、都市の中に自然景観を見出すことで、現代にいたる町家の型が成立します。そして町家の奥にあった庭や蔵を壊して、賃貸住宅とする家も出てくる。これが一棟が区分された「長屋」であり、長屋ができると同時に、そこにアプローチするための路地が発生するのです。地割りの変遷から、平安京の120m×120mグリッドも、秀吉の120m×60mグリッドも寸法が大きすぎたと言えるでしょう。そういったある種の都市計画の失敗を乗り越えていくなかで、町家や路地などの文化がうまれたと考えると面白いわけです。

さて、このような町家の、通りに面した「表」は、人をもてなす空間として整然としているのに対し、通りから離れた奥の「裏」は混沌としています。洗濯物の干し場になっていたり、猫が走り回っていたり、樹木が生い茂っていたりする。こうした表裏の対比も伝統的な街区の住まいこなしの重要な特徴なのです。

図3:現代にも残る混沌とした「裏」

ところが現代になると、町家が取り壊され、「表」には屋外駐車場、セットバックした「裏」にはマンションやホテルが建つという例が非常に多い。旧市街地にここまでマンションが林立している風景は日本国内でも珍しいのではないかとすら思います。なぜこのようなことになっているのか、それは中世までに形成された地割りが元となった街区では、路地奥で車両が入れない敷地が多く、再建築不可となる安い土地が多いためです。そうした土地を不動産がまとめて買い取って合筆し、街区の中央にマンションができる、という仕組みです。じつはこの状況を誘導している因子として建基法の道路斜線制度や京都市の景観条例などの都市のルールがあるのです。通りに面した壁に庇のデザインを求めるなど、表の街並みに関しては制約が多く設けられていますが、裏の部分に関しては無頓着です。こうした景観条例は新しく建てるものにしか成立しないので、もともとある町家を守るためのものではないわけです。京都特有の道幅や旗竿敷地といった伝統的な都市構造と、資本主義的にふるまう不動産業者や建設業者、そして行政の景観条例が組み合わさると、マンションやホテル、駐車場の林立は容易に想像できますよね。これを踏まえて旧市街地の路地の変遷を見ると、1951年から2019年の間に、一時的に増えつつも全体としては減っています。基本的に新しく路地ができることはない。実際にはそうならないでしょうけれど、単純計算すると後20年ほどで旧市街地の路地はすべて消滅することになります。

図4:街区の中央にマンションが林立する(Yohei Sasakura)
図5:路地のプロット 1966〜1972年(Narumi Kawabe, 2019)
図6:路地のプロット 2017〜2019年(Narumi Kawabe, 2019)

私は「裏」の景観や取り残された路地、ボロボロの長屋を、取り壊してビルを立てるのではなく「都市の遺構」として残していくことが必要だと考えています。「表」の街路がモータリゼーションにより支配された現代においては、「裏」を生活空間に活用することが有効だと思います。こうした思想を持って京都で設計活動をしています。《コンテナ町家》、敷地は、御池通り、河原町通り、五条通り、堀川通りという4つの大通りに囲まれた、田の字地区と呼ばれる京都の旧市街の一角にあります。建設前は、表の通りから駐車場(コインパーキング)、3軒の長屋、その奥に地蔵の祠と駐車場が奥に向かって並び、その横にうねるように路地が通っていました。長屋を外壁で包んでしまうと博物館の展示物も同然で、あくまでも都市の遺構として残すためには何をつくればいいのか。そこで、鉄骨造で500平米以下2階建ての賃貸事務所ビルであれば外壁に耐火要求や準耐火要求はかからない、外壁はなくてもいいのではないか、と考え、長屋を覆うように鉄骨のフレームを架構して床と屋根を設け、そこに中古の海上コンテナを設置する計画としました。

閉じた建築にならないように、鉄骨のスケールをコンテナのモジュールには合わせずに、スケールを大きくすることで、街区中央に散らばる敷地周辺の長屋とコンテナのスケールを合わせ、鉄骨フレームが街区のスケールと建築のスケールの間を調整し、このコンテナ町家が街区中央の混沌とした世界に開かれることを意図しています。

そして計画されたグリッド状の街路に対して自然発生的な路地は、京都の都市空間に裏への奥行きを生んでいる重要な要素です。もともとあった路地を単に残したり復元するのではなく、裏までぐるっと路地を一周させ、長屋の通り土間やコンテナとコンテナの隙間へと路地を延伸させることで、もともとの路地を拡張しています。このコンテナ町家を巡っていると、京都の街区構造の現況が体感できるのではないかと思います。

路地の奥には祠が置かれていますが、ここは京都の夏の風物詩である地蔵盆で地域の子供たちが集まって数珠回しをする場所を確保しています。そして長屋そのものは腐朽した柱を根継ぎなどにより健全化するなど、必要最低限の改修に留めています。

魚谷繁礼氏

今回私は建築家としてプロジェクトの企画段階から関わることができました。だからこそ長屋や路地の痕跡を残し、法規や条例を解釈し、事務所ビルというプログラムとして《コンテナ町家》はできあがりました。事務所ビルや商業施設などは、多くの場合不動産事業者によってあらかじめ企画や規格の骨格が決定されたうえで建築家は設計することしかできないことが多いかと思います。今回も不動産が先行する事例であれば、敷地は更地になりそこにマンションを建てることになっていたかもしれません。もちろん不動産や法規を駆使することはあくまで目的ではなく方法でしかなく、歴史的な都市や建築に対してどういう態度で臨むか、という建築家としての思想が最初に立ちます。最終的にはいかにどのような空間こそを継承していくかが問われるんじゃないかと思っています。

コンテナ規格を流用した建築と半動産

吉村:唐突ですが、最近木材の値段が上がっていますよね? コロナ禍に対応した新しい暮らしを求め、世界中至るところで郊外住宅の需要が増えたので、輸入木材に頼る国では木材の値段が跳ね上がっています。そして追い打ちをかけるようにコンテナ輸送の値段が上がっています。ものの輸送には陸海空の3種類があり、空は早くて高価、海はゆっくりで安価、陸はその中間です。1970年にISO海運コンテナ規格が定まったことで、以降海上輸送への投資が一気に加速し、港もコンテナ船も大型化しました。高度流通社会の幕開けです。海上コンテナ輸送のネットワークは、今やわれわれの生活に隅々にまで浸透し、コンテナ輸送をまったく経ない商品を手に入れることはほとんど不可能な状況になっていますから、コンテナ輸送の高騰はものの値段の上昇に直結します。この高騰の要因も、コロナ禍によるわれわれのものの買い方の変化だと言われています。土地に縛られた状態で近隣からものを買うのではなく、ネットワークを介して世界中どこからでも距離によらず購入ボタンを押すようになったため、海上コンテナの需要が増えて、2020年の1年間で3倍以上値上がりしてしまったのです。港湾のエッセンシャルワーカーのあいだで感染が蔓延したことも一因と言われます。国際的な流通網が破綻し始め、コンテナが血流のように地球上を巡る状況ではなくなりつつあります。つまり、この2020–21年の例外的な状況下では、僕がこれまで言ってきたような、コンテナ規格を使えば海外から建築を安価に運ぶことができるという話が通用しなくなっています。そのことをお伝えしたうえで、コンテナ規格を流用して建築をつくるとはいったいどういうことなのか、お話ししたいと思います。

吉村靖孝氏

《コンテナ町家》と違い、僕が実践している一連の「エクスコンテナ・プロジェクト」は、コンテナそのものを転用する建築ではなく、コンテナの規格を流用してJIS規格の鋼材で新規につくったコンテナ“風”建築です。まず海外でJIS規格材を仕入れ、日本で建築としての利用に耐え得るフレームを組み立てるための工場の整備から始めます。なぜそんな面倒くさいことをするのかというと、日本では海運コンテナそのものを恒久的な建築の一次部材として使うことが禁止されているからです。これまで、コンテナを利用した建築物の取り扱いに関して建設省−国交省が3つの通達を出しています。まず平成元年に、いわゆるカラオケボックスを想定して通達が出ます。当時は海上コンテナをそのままカラオケボックスに転用するのがブームだったのです。この通達ではコンテナが腐食腐朽していないこと、連結されていないこと、といった程度の制約が設けられており、これまで黙認されていたものがこの通達によって追認されたようなかたちでした。続いて平成16年。コンテナ倉庫が普及し始めたこの時期に風向きが変わります。コンテナ倉庫は一般にコンテナを積層して使うため、より厳しい制約を設ける必要があったわけです。ここでコンテナを転用すればそれは建築物であることが確認されたことによって、JIS規格鋼材の縛りや基礎への緊結のほか、さまざまな制約が加わります。平成26年になると、「違反対策の徹底について」という通達が出て、既存のコンテナ転用建築も遡及的に是正勧告を受けることが周知されます。具体的な是正例も添付されており、事実上海上コンテナをそのまま建築として使うことが禁止されました。

前述の木材をはじめ、日本の建築産業はさまざまな建材を輸入しているのですが、いくら海外の安い材料を仕入れてもトータルのコストは現場の人件費によって大きく変わってしまう。特に日本の場合は人件費の占める割合が高いわけです。ならば建築そのものを海外で製造し、完成品を日本に運んだらどうか。実際に《ベイサイドマリーナホテル横浜》(2008)では、タイでJIS規格の鋼材を仕入れ、現地の鉄骨ファブに日本のグレード(工場認定)を取得してもらい、内装まで仕上げてから日本に輸送しました(図7)。当時タイの建設コストの平均値は日本の10分の1程度だったため、その差を利用することができたわけです。輸送費や日本の規格に合わせるためにかさんだコストを含んでも、同程度の仕様の国内の建築に比べ2分の1から3分の1程度には納めることができました。

図7:《ベイサイドマリーナホテル横浜》建設の様子(提供=吉村靖孝)

2011年には、大和リースと協働で災害支援のためのオフグリッド・ユニットをつくりました(図8)。運搬に便利な20ftコンテナサイズなのですが、大人2名1ヶ月間のインフラフリー生活を実現するための水のタンクや水素燃料なども内蔵されるので、当時の技術ではコンテナ内が設備機器に占領されてしまう。そこで、設置後に自動で殻の部分をスライドして2階建てに変形するデザインとし、新たにできた2階部分のスペースに人が居住できるようにしました。2011年の1月17日の防災の日に合わせてリリースしたら、その2カ月後に東日本大震災が起こりました。当然ながら、実際に被災地で使えないかと考えました。しかし実用性の検証が不十分であったことをはじめ、被災地での行政の許可、大和リースのリソースが仮設住宅の供給に特化されるなど諸問題が重なり、被災地に運ばれることはありませんでした。

図8:オフグリッド・ユニット《EDV01》(提供=吉村靖孝)

その後、仮設住宅の供給が滞っている状況を受け、コンテナを組み合わせた安価で恒久転用可能な仮設住宅を提案すべく試作品を携えて東北を回りました。しかしここでも諸々の事情でうまく採用とはならず、コンテナ建築の限界を感じて、2018年ごろまでコンテナ建築から離れていました。時を経て、最近またコンテナ建築の設計を始めています。例えば大阪でつくった住宅《GPT TAISHO》(2020)では韓国の工場でフレームをつくりました(図9)。かつてのLアングルフレームを見直し、より安価な角パイプを採用したほか、ジョイント方法を新規開発し、木造との組み合わせでサイズの冗長性をもたせるなど、2つの特許も取りました。

図9:《GPT TAISHO》(提供=吉村靖孝)

また来年の芸術祭に向け、清春芸術村の中に一室だけのホテルを設計中です。藤森照信さんの茶室の後方に建つ、コンテナが森の上に浮いているような建築です。コンテナは、やはりジョイント部分に問題が起こり易いので、複数つながずに単体で完結させた状態が最も自然だというのがひとつの結論で、ほかにもいくつかのコンテナ単体建築の計画が進行中です。また最近は、コンテナ規格だけに限らず、可搬性のある建築全般へとだんだん関心が広がっています。《CROSS WAVE HUT》(2019)は軽自動車の荷台に載る「モバイルハウス」で、軽自動車の最大積載寸法を視覚化したような形状の部屋です(図10)。シェアハウスを渡り歩く生活スタイルのクライアントで、水回りやリビングはシェアハウスのものを使いながら自分の部屋だけ持ち歩くわけです。こういった可動建築への関心は特にこのコロナ禍の一年で、広く共有されるようになったと感じています。例えば感染症対策の優等生ニュージーランドではキャンピングカーを罹患者の隔離施設として使っています。キャンピングカーが駐車場にズラーっと並び、重症化したらそのまま病院に運ばれていくシステムです。動くものと動かないもの、自動車と不動産の境界線が、ニーズの面でもテクノロジーの面でも揺らいできている状況がある。そういった境界線上の建築を「半動産建築」と呼んで、吉村研究室での研究テーマとしています。

図10:モバイルハウス《Home2GO》(提供=吉村靖孝)

町家の持つ情緒への批判と「好み」

能作:ここからは、魚谷さんの《コンテナ町家》と吉村さんの「エクスコンテナ・プロジェクト」の相違について話し合いながら、《コンテナ町家》の特異性を探りたいと思います。吉村さんから《コンテナ町家》を見てどういった印象を持たれたか、お聞かせください。

吉村:この座談の前に《コンテナ町家》を見学させていただいた際、現地で魚谷さんは、鉄骨のディテールはあくまでも一般的な納まりとなることを目指し、コンテナは既製品を使い、長屋自体も最低限の改修にとどめたとおっしゃっていました。鉄骨もコンテナも長屋も魚谷さんのデザインではない、と言っても良い。そうすると、「デザインとはなんぞや」という問いが生まれます。これまでデザインの対象とされてきた領域とは違うものが、デザインと呼ばれ始めていると感じました。

一方で、町家改修の仕事とも通底する「好み」のようなものも感じます。例えば千利休の茶の湯道具には「利休好み」と呼ばれるものと「利休形」と呼ばれるものがあります。「利休形」は千家の指導のもと、寸法や型に沿ってつくられた稽古用の道具のことで、一方の「利休好み」は形式的な概念ではなく、利休が好んだ道具、いわばテイストを指します。コンテナにはその両方の側面があり、規格的なフォーマットとしての面白さがある一方で、肌触りや錆びなどを愛でる対象としても面白い素材だと思います。僕の場合、コンテナそのものを新しい鋼材からつくっているので、そこにいわゆるワビサビのようなものはありません。でも僕自身はコンテナの錆びた風合いが好きなので、新造コンテナから始めてもいつかは風化してくれるだろう、という気持ちでやっています。だから中古海運コンテナをそのまま使うアプローチは羨ましい笑。このような「○○好み」のような、型では説明できないで部分をどう捉えているのでしょうか。

魚谷:なるほど、面白いですね。まずどこをデザインしましたかと言われると、やはり鉄骨フレームのモジュールやスケールです(図11)。コンテナのモデュールに合わせずに敢えて逸脱させるというデザインを施しています。ただ、わかりやすく目に見えるディテールのデザインはなるべくしないようにしている。「あざとい」というより伝統的な建築に対し「情緒的」に関わらないようにしたいとは常々思っています。情緒というのはなんとなく「町家っていいよね」といった思考停止的な態度です。そのような態度では伝統的なストックの消費に陥りかねない。それよりも具体的に何が良くて、その土地に何をどう残すべきか何をどう変えるべきかを考えたい。《コンテナ町家》の場合は、建築としての長屋を残す以上に、伝統的な表と裏の対称性などの街区構造をどのように活用すれば現在の都市生活がより豊かになるか、何を後世に継承すべきかを考えることから始めています。プロジェクトによって主題は変わってきますし、設計全般に唯一の特殊解を導くのではなく、さまざまなモデルをつくっていきたいと思います。

図11 《コンテナ町家》立面パース

また、建築には社会性と空間性があり、社会性は言葉で説明しやすい概念ですが、空間性については、とくに実際見てもらう場合僕からは何も言わずに空間を見てもらいたいと思っています。空間性についてその場で言葉にした瞬間嘘くさくなってしまう。そうした空間性とはまた異なる「好み」という軸は面白いですね。やはり意図的に好みには頼らないようにしていますが、どこか中古のコンテナや街区中央の雑多な性質に好みを持っているのかもしれません。

ラディカルな歴史感覚と空間のヒエラルキー

吉村:外からやってきた僕のような人間にとって、街区の表面を一皮剥いだ奥にコンテナと地続きのバラック群があることは驚きでした(図12)。路地、お地蔵さん、町家と長屋の連続など、121m角と比較的大きなグリッドが採用された京都の都市構造が生んだ風景の遺伝子を引き継いでいて、そこに不思議とコンテナが馴染んでいる。都市構造にコンテナの肌触りやスケールが直接プラグインされて、木だとか左官だとか勾配屋根だとか景観法的な手続きが捨象されている。すごくラディカルな建築だと思います。一方で、デザインしたと言われた柱のスパンにしても、狭い階段を上ると突如現れる天井の高さにしても、これまでの建築の世界でシークエンスとかプロポーションとか呼ばれてきた、ある意味では古典的な操作ですよね。最初に言ったように個々の構成要素はデザイン対象ではないので、配置とかスケールといった、何が建築を建築たらしめるのかという、原理的なところまで突き詰められていると感じました。

図12:路地奥の長屋から望む《コンテナ町家》(Yohei Sasakura)

能作:昔の街区の裏側は入り組んだ状態で、長屋が占拠するように適当に建てられていた。それを現代で置き換えると《コンテナ町家》のようなかたちになるのだとおっしゃっていました。魚谷さんのこうした歴史の読み方に都市的な独自の感性があると思いました。「町家っていいよね」というノスタルジックな感覚を批判されたことも納得できます。

魚谷:そうですね、町家は残すべきものと考えていますが、現存する町家も所詮100年ほどの歴史しかないのです。まさに街区こそが脈々と変遷し1200年もの歴史を孕んでいるわけですから、そうした歴史のなかで、町家を残すことだけに躍起になってもあまり意味がないのではないか。繰り返しますが、みな表の景観ばかり気に留めますが、表と裏、その対照性こそが面白いのです。この感覚が少し特異なのかもしれない。《コンテナ町家》周辺の街区の裏の風景がこれほど豊かなのは、モータリゼーションに支配されている今日ではより価値のあるものだと思います。そこをマンションで潰してしまうのはもったいない。言葉では説明できないという意味では「街区の裏」が好みと言えそうです。

伊藤:法規的な区分ではコンテナは「内装」、長屋の屋根が「天井」と位置付けられていることに驚きました。構造的観点では構造材と非構造材、景観や都市的な観点で捉えると手前と奥、時間的観点で捉えれば既存長屋と新設鉄骨フレームというように、眼差しごとにそれぞれ異なるエレメントへと分節される建築だと感じました。様々な眼差しを行き来しながら、分節のズレ、ヒエラルキーのズレを構築していっていることが建築の新しいエレメントの捉え方に繋がるようにも思います。

魚谷:屋根を天井といっているのは法律の解釈のための言い分で、むしろあれは屋根だと思っているわけです。外壁で閉じて内部空間化してしまうと、エレメントの意味がまったく変わってくるかもしれないですが、おっしゃる通りズレによって生まれる、階段を上がったときの景色のような普段とは違う見え方がここにあります。それはエレメント的なものの見方が変わるとも言えるかもしれません。法規上は内装と見立てたコンテナをむしろ建築スケールにして、街区の裏に連続する長屋のように扱いたかった。そのためには鉄骨のフレームのスケールを大きくして、街区と建築の間を閉じない状態をつくり、コンテナと裏の長屋とが繋がっていくようにしたかった。敷地の中にどう建築をつくるか、ではなく都市の中に街区があり、街区の中に建築があって建築の中で……という重なりをどう接続するかを設計している、これは普段から意識しています。ヒエラルキーこそが都市・街区・建築・建築の中を繋いでいく要素なので、歴史のコンテクストを利用しつつ、ヒエラルキーの操作によって新しい空間を生むことができるのではないか。

図13:現地見学にてコンテナの上で解説する魚谷氏

佐々木:魚谷さんの歴史的感覚は面白いと思います。意匠論を組み立てるときも似たような観点が重要になると感じており、たいへん勉強になりました。「遺構」という言葉を使われていましたが、遺構には「かつて生きていたけれど今は死んでいる」という意味合いがあると思います。しかし魚谷さんの建築的試みは「遺構を残す」のではなく都市構造を生きたものとして使うことではないかと思いました。島村昇さんらのフィールドサーベイをまとめた『京の町家』(鹿島出版会、1971)では、京都の都市構造が、大路から小路、路地、町家、さらに通り庭、座敷、庭というように、大通りから敷地奥にいたる段階的な空間構成として描かれています。そこに都市と建築の明確な境界線はなく、重層する奥行きの段階のなかで培われた暮らしの知恵や文化に京都の気質を捉えている。香山壽夫さんは「都市住居考(都市住宅、1973.9)」で同様の考えを展開されていて、古今東西問わず、優れた都市住居の形式には町家のような奥行きの段階が備わるもので、各地の地域文化をこの奥行きの使い方として理解すれば、今日の暮らしにも有効な知恵が得られるはずだと主張されています。つまり歴史的建造物の古さではなく、今日の暮らし方を相対化してくれる差異のほうに価値をみている。この見方を支えているのは、奥行きの段階という構成へのニュートラルな眼差しです。魚谷さんの都市構造への眼差しにはこれと近いものを感じます。ゆえに「遺構」という言い方がよいのかどうか。

魚谷:おっしゃる通り、生きたものとして使うことに意味があると考えているので、遺構は適切ではないかもしれない。「生きた都市遺構」と言えばよかったかもしれない。ただ、建築遺構ではなく、都市とセットで「都市遺構」と言うことに意識的で、剥ぎ取って博物館の展示物してしまうとそれは生きた都市遺構ではなくなるのです。あくまでもその場所にあることに意味がある。これが単なる遺構と生きた都市遺構の違いかもしれません。町家をただ保存することはさして重要ではなく、都市構造の変遷や連続するヒエラルキーの中で残ったものが何かが重要であり、都市遺構を残しつつ生きた建築空間として活用していくことが重要だと思っています。何も京都が特別なのではなく、歴史やコンテクストはどんな場所にでもすでに存在しているわけです。それを利用して空間や居住を豊かしていけばいい、ということを考えながら設計しています。

佐々木:グリッドや街区、路地といった都市構造こそが京都であるという主張ですね。極端な言い方ですが、歴史的建造物としての町家がなくなっても都市構造によって京都のアイデンティティは残る。非常にラディカルな考え方だと思います。

魚谷:そう思います。グリット状の街路や街区があってこその町家なので、グリットが失われて町家が残ることにはあまり意味がない。

森田:先ほど魚谷さんが指摘されたように町家も所詮 100年ほどの歴史しかありませんが、民家や町家などに使われる技術に着目すると、町家・蔵・納屋といった建物ごとに使われる技術にヒエラルキーがあるんですね。新しい技術は最も表の道に近い町家に適用されてい きますが、古い技術は蔵や納屋などの付属屋に残されていくといわれています。技術の歴史が建物に蓄積されているのも都市の面白さだと思います。建物は常に更新されていきますが、古い技術は都市のどこか、たとえば路地奥の建物に流れて澱のように溜まっていくのです。私は今残っている町家と同時に、古い技術の痕跡もきちんと見える形で残したいと思って設計をしています。

アジア都市京都

川勝:《コンテナ町家》の上から見た街区の裏の風景に、アジア的な雰囲気を感じました(図14)。京都を「アジア都市」として捉える視点を持つことは、日本の古都としてナショナルな文脈で捉えがちな京都の自己イメージをずらし、より広い視野からこの街の可能性を探ることにつながるのではと思いました。実際、平安京の条坊制は長安の都市計画に倣ってつくられたわけですし、オフィシャルにコントロールされる表に対し、自生的に発展する裏という対比を生み出すものこそ条坊制だと言えるでしょう。アジアの都市組織を研究されている布野修司さんの研究室で京都の都市構造研究に取り組まれた魚谷さんにとって、京都をアジア都市として捉えることは当然のことなのかもしれませんが…。残り続ける静的な街区に対し、裏にある人々の暮らしに合わせて変化する長屋やバラックと、コンテナの移動可能性や流動性はとても親和性が高いのではないでしょうか。さらに言えば、コンテナを動くものとして捉えているのは吉村さんも魚谷さんも共通しているのですが、吉村さんは生産や流通、魚谷さんは都市構造や裏の空間が持つ質感というように、異なる背景があるように感じました。

魚谷:たしかに長屋もコンテナも動くものですが、港と違って京都におけるコンテナは「流れ着いた」という言い方がふさわしいかもしれません。どこかの町家で使われていた敷居が長屋の構造材に転用されることもあります。コンテナも交換性に優れるというより、大阪の南港からこの場所に流れ着いて、朽ちていくようなイメージで使用しています。そうしたなかでも町家は、用途目的的なnLDKのプランではなく、基本的に型とヒエラルキーのみで構成されているので、使われ方はその時々によって変化します。興味深いことに、居住専用の長屋と職住共存の町家のどちらもが、土間をもち表から順に部屋が並んでいます。型とヒエラルキーしかもたないことでさまざまな職種や居住に対応していた。それゆえに都市の遺構として残しつつ、多様なクライアントの要望に応じた建築をつくることが可能なのだと思います。

川勝:形式的な型をいかに解釈し適応するかという次元ではなく、建築の型と都市構造が相補的であるにはどうすればいいかを考えられているのではないでしょうか。つまり都市の街区構造に準じて敷地割りや住居がつくられるとき、そこにある種の型が生まれますが、見方を変えるとその型の集積が都市の街区を構成しているようにも見えます。町家が集まって街区ができているのか、街区を割って町家ができたのか、判然としない状態です。部分と全体の順序が反転可能性を持つような関係性が設計をドライブさせているのだと思います。

魚谷:そうかもしれません。街区の寸法によって建築の寸法が自由をもちつつも規定され、かつ建築の中には京間の寸法が明確に出ている。通り土間で半端な寸法を調整する。これらはすべて関係性によって生まれた寸法です。そして街区の表と裏があり、町家の中にも表と奥はある。重要なのはそれをうまく利用して、その時々の社会の要求に応えていくことでしょうね。

水谷:「アジアから見た京都」という視点は合点がいきました。と言うのも、《コンテナ町家》から臨む街区の裏の風景は、これまでの僕の京都のイメージからは想像できないもので、もしかしたらこれは現代の「日本趣味」を体現しているのかもしれないと感じたからです。そこにアジア、もっと広い世界から見た日本の印象、インバウンドで外国人観光客が押し寄せた京都の現在形があるように思いました。また、京都の都市構造や町家の型と変遷についても客観的な分析をされていたのが印象的でした。コンテナは、いわゆる情緒的視点では京都の町家と結びつかないものだと思います。魚谷さんがアジア都市史やフィールドサーベイといった主眼で京都をとらえ、京都を拠点としながらもある種の外からの視点、「日本趣味」的な感覚をもちながら建築を設計されているからこそ《コンテナ町家》のような形が生まれたのだと思います。

川井:階段を上ったとき見える街区の裏には、共有地やコモンの意識が拡がっていました。コンテナの上もまさにそうで、街区の裏も含めて一体的に共有地が繋がっている。魚谷さんは共有地、つまり所有が及ばない世界を創り出そうとしていたのではないでしょうか。

魚谷:路地ってひとりが所有している場合もあれば、ひとつの筆を区分所有している場合もある。或いはひとつの路地が多くの筆に細分化されていることもある。僕自身、自宅の面する路地の10分の7を区分所有しているのですが、横に住むおばちゃんは路地全体に洗濯物を広げています。所有の概念は一応存在していますが、べつに10分の7を強く主張する必要もないですから。

図14:コンテナの上から街区裏を望む(Yohei Sasakura)

不動産と半動産、法規との向き合い方

魚谷:吉村さんのお話の中で、動産と不動産の中間である「半動産」という概念が非常に興味深かったです。インフラは水の浄化システムが向上するとさらに自由になると思います。トイレや台所も可動性を持ち、建築の空間も自由になり、都市空間で考えると車と住宅の区別つかなくなる。キャンピングカーのような生活できる車やテントのような移動できる住居はすでに普及していますが、あくまでもそれは車や住居の範囲を超えていない。平安京はもちろんギリシャ以降の都市計画はそもそも人が移動する場所と留まる場所を区別することから始まったものです。動産と不動産の境界が曖昧になり、すべてはが半動産となって道路と宅地の概念が変わると、都市計画は大きな転回を迎えうるような気がします。

吉村:『反穀物の歴史──国家誕生のディープヒストリー』では、農業の発明によって人類は定住を始め、やがて都市ができたという人類史観が批判され、定住が必ずしも我々の本能でも合理的な生き方でもないと書かれています。集まって定住することで、農業という労働が発生し、栄養の摂り方にも偏りが生じるなど不合理なことも多々起こっている。感染症の蔓延も定住と都市化による不合理のひとつでしょう。このような都市で定住することの見直しを迫られている状況があるように感じています。今まで通り固定された敷地に住み続けることは我々の人生の目標でもなくなっているし、それが快適な住まいのあり方でもなくなってきている。さきほどは建物が動くことを半動産建築と紹介しましたが、たとえ建築そのものは動かなかったとしても、複数の建物を渡りあるくように住むライフスタイルもその範疇にあると考えています。

川勝:半動産のような「動くもの」とは一体何なのか、これは法の話にも繋がると思います。コンテナの扱い方ひとつとっても吉村さんと魚谷さんの法規に対する意識が違いますね。吉村さんが発見された「超合法建築」は愚直に法規を突き詰めていたった結果、慣習的な建築のあり方を超越し、普通に考えるとありえないようなシュールな世界観が生まれているもの。一方で、コンテナ町屋は違法なのではと疑いたくなるような建ち方ですがそうではなく、法規の過剰な読み込みと適応によって法律が想定していた範囲を脱してしいる。合法なのに何か脱法性のようなものが見て取れるのが個人的にとてもおもしろいです。法の解釈に揺らぎを与えるというのは、批評性を持った行為だと思います。法規とはつねにどう向き合っておられるのでしょうか。

魚谷:そうですね、べつに法律を利用してデザインすることがしたいわけではないので、《コンテナ町家》も法規を主題にして語ろうとはしていません。こういう建築をつくる際、法規の下では必ずぶつかる場面が多く発生するので、当たり前ですがどうクリアするかをつねに考えていくわけです。実現できればそれで良いのではなく、実現したいことと法規がずれている現象をどう解釈するのか。この作業自体は目的ではありませんが、結果的に何かしらの批評性を都市のルールに対しても持つことは重要だと思っています。

川勝:ともかく、魚谷さんが長年ひとつの場所で設計を積み重ね、都市政策の面で行政とも連携して活動されてきたことが、この建築では大きく生きているのだと思います。都市のつくられ方と法の適応の相性や、条例のもつ解釈の振れ幅のようなものもコンテクストだとすれば、それを理解した上で都市と建築の新たな関係を問うことの意味は大きいですね。

魚谷:もちろん行政の担当者との個人的な関係性によって法律をくぐり抜けているわけではありませんよ。京都の街をよくしていこうという意識を持つ人は行政にも民間にも数多くいます。こちらの設計や法規の解釈に対し頭ごなしにダメだとは言わず、こちらの考えにある程度の共感をもってもらったうえで、どうすれば法を遵守しつつ実現できるか、ともに考えてくれることはあるかもしれません。歴史的なものを次世代へいかに引き継ぐか、真剣に向き合っている行政の人も増えているので、そういう人たちがいないと《コンテナ町家》は実現できませんでした。

吉村:魚谷さんが実践されている法規や不動産との付き合い方は重要な示唆を含んでいると思いました。最近学生の設計課題を見ていると、プログラム偏重で、空間、構法、マテリアルといった具体に対する意識はどんどん後退していると感じます。結果なのか原因なのか、就職先として不動産分野の人気も高まっている。彼らにはぜひ《コンテナ町家》をよく見てもらって、最大容積・最大収益だけが不動産開発ではなく、またそうでないからと言って単純に不採算物件をつくるわけではない第三の道があることを知ってほしい。建築家がコストや面積を含む設計条件の提案をできれば収益マンション以外の選択肢を提示できるわけですね。プログラムの追求に可能性があるとすれば、こういった側面だろうと強く思います。逆にその段階を逃すと、建築家はファサードをいじる程度のことしかできなくなります。魚谷さんはご自身で「遺構」と呼んだけど、都市の遺すべき構造を見極め、それを継承したうえで不動産の価値も建築の価値も高めています。これは学生だけでなく、僕もぜひ学びたいと思います。

対談会場の様子

魚谷繁礼
1977年生まれ。建築家。2003年京都大学大学院工学研究科修了。魚谷繁礼建築研究所代表。京都工芸繊維大学特任教授。作品に《京都型住宅モデル》《西都教会》《ガムハウス》など。著書に『住宅リノベーション図集』オーム社(2016)。主な受賞に、2012年関西建築家新人賞、2017年京都建築賞藤井厚二賞、《コンテナ町家》で2020年JIA新人賞受賞。

吉村靖孝
1972年生まれ。建築家。吉村靖孝建築設計事務所主宰。現在、早稲田大学教授。作品に《Nowhere but Hayama》《ベイサイドマリーナホテル横浜》《中川政七商店新社屋》《エクスコンテナ》《フクマスベース》ほか。著書に『超合法建築図鑑』『ビヘイヴィアとプロトコル』など。主な受賞に2014年日本建築学会作品選奨、2011年JCDデザインアワード大賞、2010年住宅建築賞金賞、2006年吉岡賞など多数。

森田一弥
1971年愛知県生まれ。建築家。1997年京都大学工学部建築学科修士課程修了。森田一弥建築設計事務所主宰。現在、京都府立大学准教授。作品に《御所西の町家》《君府亭/Shelf-pod》《法然院の家》など。著書に『“山”と“谷”を楽しむ建築家の人生』『京都土壁案内』など。主な受賞にARAWARD2006、2014-2015年京都建築賞奨励賞、2019年京都建築賞優秀賞など。

能作文徳
1982年富山県生まれ。建築家。2012年東京工業大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、東京電機大学准教授。作品に《ホールのある住宅》《高岡のゲストハウス》《西大井のあな》など。著書に『野生のエディフィス』(LIXIL出版)、『共感・時間・建築』(TOTO出版)など。主な受賞にSDレビュー2013年鹿島賞、第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示審査員特別賞、ISAIA2018 Excellent Research Award、住まいの環境デザインアワードなど。

伊藤孝仁
1987年東京生まれ。2010年東京理科大学卒業。2012年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年tomito architecture共同主宰。2020年よりAMP/PAM主宰、UDCOデザインリサーチャー。

川井操
1980年島根県生まれ。専門は、アジア都市研究・建築計画。2010年滋賀県立大学大学院博士後期課程修了。博士(環境科学)。現在、滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科准教授。

川勝真一
1983年兵庫県生まれ。RAD(Research for Architectural Domain)ディレクター、オフセット共同代表。京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。同大学院工芸科学研究科博士後期課程単位取得退学。建築に関する展覧会のキュレーションや出版、市民参加型の改修ワークショップの企画運営、レクチャーイベントの実施、行政への都市利用提案などの実践を通じ、 建築と社会の関わり方、そして建築家の役割についてのリサーチをおこなっている。現在、大阪市立大学、京都精華大学、摂南大学非常勤講師。

水谷晃啓
1983年愛知県生まれ。建築家。博士(工学)。2013年芝浦工業大学大学院博士(後期)課程修了。2009年隈研吾建築都市設計事務所(プロジェクト契約)。2010〜14年SAITO ASSOCIATES。2013年芝浦工業大学博士研究員。現在、豊橋技術科学大学大学院准教授。東京電機大学、芝浦工業大学非常勤講師。

佐々木啓
1984年島根県生まれ。建築家。 博士(工学)。東京工業大学卒業、同大学助教。

南側から見る長屋とコンテナの重なり(Yohei Sasakura)

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建築作品小委員会
建築討論

建築作品小委員会では、1980年生まれ以降の建築家・研究者によって、具体的な建築物を対象にして、現在における問題意識から多角的に建築「作品」の意義を問うことを試みる。