〈小さな矢印の群れ〉がつくる街路

[ 201902 特集:建築批評 東急設計コンサルタント 小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt 《渋谷ストリーム》]/ The street formed by "The clouds of small allows"

2018年9月にCAtの赤松佳珠子さんの案内で《渋谷ストリーム》の内覧会に参加した。建設中は赤松さんのfacebookから工事の進行状況を断片的に知る程度であり、自宅の居間から超高層にしてはランダムで奇妙なデザインのカーテンウォールを遠目に眺めてはいたが、それ以外の前知識はほとんどなかった。内覧会の当日は風が強く、ビルの足元を通り抜ける貫通通路(ストリームライン)には、帽子を吹き飛ばされそうなほどの強風が吹き荒れていた。超高層ビルの足元に風が通り抜ける半屋外の街路を貫通させるというコンセプトは、設計当初からの小嶋一浩の明確な意図だったことを知るのは、ずっと後になってからである。緩やかに湾曲しながら超高層ビルの足元を南北に伸びる貫通通路、天井から吊り下げられた黄色いエスカレーター・ボックス、亜鉛めっき鋼板のラフな内装仕上げといったデザインが記憶に刻まれている。

1ヶ月後の10月13日(故・小嶋一浩の三回忌)に、駒場の東京大学生産技術研究所で〈小嶋一浩賞〉の創設シンポジウムが開催された。小嶋一浩は2011年に前任の山本理顕を引き継ぐ形で横浜国立大学大学院Y-GSAの教授に就任しているので、賞の発起人には当時の校長である北山恒をはじめとしてYGSAの関係者が多数参加していた。

https://www.kojimakazuhiro-award.org

〈小嶋一浩賞〉の第1回の審査委員長は山本理顕、シンポジウムのパネラーは、妹島和世、千葉学、西沢大良、赤松佳珠子、平田晃久、司会は西沢立衛と小野田泰明という錚々たるメンバーだった。シンポジウムの最後に会場の参加者にコメントが求められ、指名されたので僕が東大建築学科教授に就任した直後の2004年に、小嶋に設計課題の指導を依頼した際の動機についてかいつまんで話した。当時、僕は小嶋の『アクティビティを設計せよ!―学校空間を軸にしたスタディ』(小嶋一浩:著 彰国社2000)を読み終わったばかりで、そこに建築計画学と建築性能論を統合するヒントを直感したからである。コメントに対する会場の反応はイマイチだったが、その経緯を整理してみよう。

戦後の建築計画学は東大建築学科の吉武泰水研究室において創始され、建築の目的・機能を科学的に体系化することを目指し、後にこの研究はプログラム論へと展開していった。一方、建築性能論は同じ内田祥哉研究室において追究され、1960年代前半に大学院生だった原広司によって、光、空気、熱といった個別性能のパラメータの統合を目指した博士論文『ビルディングエレメントに関する基礎研究』にまとめられ、後に〈有孔体論〉へと設計方法化された。ちなみに昨今のCASBEE(建築環境総合性能システム)は、この性能論の延長上に開発されているといってよい。後に原広司は生産技術研究所教授となり、研究テーマを性能論から世界中の集落調査へと転換するが、小嶋が京都大学から原研究室に入る頃までには、集落調査は一区切りつき、原の興味は〈アクティビティ・コンター(活動等高線)〉の研究へと移行していた。これは1960年代初期にクリストファー・アレグザンダーが追究した、都市の多様なアクティビティの分布図を重ね合わせることによって高速道路の経路を決定する設計手法「高速道路計画におけるグラフィック・テクニックに関するスタディ(1962)」に近い研究テーマだった。僕の見るところ〈アクティビティ・コンター論〉は性能論と集落論を数学的に統合することを目指していた。〈アクティビティ・コンター論〉は都市現象に関する〈理論〉すなわち〈認識論〉としてはきわめて興味深いテーマだったが、〈実践論〉つまり〈設計方法論〉にまでは到達していなかったと思う。それに対して、小嶋一浩の〈アクティビティ論〉は、それを一気に設計方法論にまで展開させているように思えた。同時に、それは建築計画学=プログラム論を再編成する可能性を孕んでいた。建築における機能とは、人間の社会活動をカテゴリー分類した集合概念であり、個々の人間の個別的な行動の多様性は捨象されている。それに対して、小嶋が提唱する〈アクティビティ論〉は、コンピュータ・シミュレーションによって人間の個別的な行動をフォローし、建築空間に対応させようとする設計方法である。小嶋はこの方法を実際の小学校の設計に適用することによって、従来の壁に囲まれたクラスルームを解体しようとしていた。僕は小嶋の〈アクティビティ論〉に、建築計画学における機能概念を微細化することによって、機能に対応する〈壁によって閉じたられた空間〉を開放し緩やかに再編成する可能性を直観したのである。

渋谷一帯は、その名が示す通り〈谷〉の地形であり、渋谷駅は池袋駅と新宿駅に並ぶ副都心の一つとして、JR山手線、東京メトロ銀座線と京王井の頭線のターミナル、東京メトロ半蔵門線と田園都市線の接続、東急東横線と東京メトロ副都心線の接続という6つの公共交通が立体的に重なり合うように交差している。さらに渋谷駅周辺には、都心と郊外をつなぐバスターミナルも集中している。

1945年の終戦時には、渋谷一帯は焼け野原だったが、戦後復興の中で当初は自然発生的に仮設的な闇市のドヤ街が形成された。そうした状況に対して、戦後モダニズムの建築家、池辺陽は1946年に戦後復興院の計画として〈渋谷計画〉を提案している。これはモダニズムの思想と美学に基づいて提案された都市計画であり、商業施設、文化施設、居住施設を分散的に配置し、その間を緑地としたユートピア的な計画である。しかしながらそのようなトップダウン的な提案とは裏腹に、渋谷のドヤ街に対しては民間資本と行政によって市街地調整事業が適用され、1950年代から1960年代の高度成長期には、複雑で錯綜した街並が形成されていく。そのプロセスの中で、坂倉準三が率いる坂倉建築研究所は、東急電鉄の依頼を受けて、JR渋谷駅と地下鉄銀座線ターミナルを含む東横百貨店(1954)、東急文化会館(1956)、東急東横線渋谷ターミナル駅(1964)といった一連の建築を実現させ、これによって渋谷一帯の都市的な骨格が整備されていった。これらの建築は、どれも渋谷の街のシンボル的な存在だったが、残念ながら全て解体され、あるいは(2019年1月現在)解体中である。1970年代から1990年代にかけて、渋谷は若者の街として放射状に発展し、1973年にはハチ公広場前に〈スクランブル交差点〉が導入される。さらに2000年頃からは、渋谷駅周辺の都市のあり方に関する官民による都市計画的な議論が盛んになり、再開発のための「渋谷駅中心地区まちづくりガイドライン2007」が策定され〈住・職・楽〉を混合したまちづくりが始まるのである。渋谷まちづくりの責任者の一人である建築家の内藤廣は、谷状の地形から放射状に広がる渋谷の街を〈ダイバーシティ〉と名づけ、一連の再開発プロジェクトに渋谷らしい多様な表情を与えることを目指して、組織事務所と建築家とを組み合わせた〈デザイン・アーキテクト(DA)システム〉を提案し、これによって超高層ビルを中心とする再開発がスタートする。このシステムによって初めて実現したのが、東急設計コンサルタントと小嶋一浩+赤松佳珠子/CAtの共同設計による《渋谷ストリーム》なのである。

「渋谷区復興計画案」(1946)

《渋谷ストリーム》の敷地は、以前は東急東横線の終点、渋谷ターミナル駅があった場所である。JR山手線渋谷駅のホームの東側に沿って南北に伸びる細長い敷地であり、敷地東側には渋谷川と明治通りが細長い街区を挟んで南北に走り、北側に位置する渋谷駅東口との間には、上下2層で敷地を挟むように、渋谷を東西に横断する国道246号線と、その上を走る首都高速道路が交差している。

《渋谷ストリーム》は、地下4階、地上36階建のホテルとオフィスを収めた超高層ビル、地下4階、地上7階のイベントホール、地下2階、地上2階の〈アーバンコア〉という3つの建築によって構成される。〈アーバンコア〉は、渋谷駅を取り囲む一連の再開発ビルそれぞれに設置が指導された施設で、地下のコンコースと地上階とを結ぶ縦動線を確保し、すでに完成している《ヒカリエ》にも組み込まれている。《渋谷ストリーム》を連結するこれらの建築は、互いに歩行者デッキによって連結されている。北側に隣接して現在工事中の超高層ビル《渋谷スクランブルスクエア》と《渋谷ストリーム》とに挟まれた歩行者デッキには、かつての東横線渋谷駅の屋根の記憶を模した鉄骨ラチスシェルの連続屋根が架けられている。2019年に《渋谷スクランブルスクエア》が完成すれば、その足元の通路と《渋谷ストリーム》の歩行者デッキとが連結され、渋谷駅と直結することになる。

《渋谷ストリーム》のデザインにおいて小嶋が最も重視したのは、高層ビルの足元を南北に貫通する半屋外の街路、ストリームライン(貫通通路)である。それはかつての東横線渋谷駅のホームに沿って緩やかに湾曲しながら南へと伸び、その両側には小さな飲食店が連なっている。貫通通路と帯状に連なる店舗との関係は、小嶋が学校建築のデザインで考案した〈白と黒〉の図式と同じである。

小嶋が提唱する〈アクティビティ論〉は、元々は学校における子供たちの行動のシミュレーションから生み出された設計方法論である。ターミナル駅の主要機能は、まさに人に流れそのものであり、小嶋は〈アクティビティ論〉をそのまま〈貫通通路〉という都市空間にも拡大適用できると考えたに違いない。《渋谷ストリーム》という名称もそこから発想されたように思われる。日本の都市空間の特異性のひとつとして、公共空間は西欧のような人が集まる(広場)にではなく、絶えず人波が流れる〈界隈〉にあることは、つとに指摘されている。(『日本の都市空間』(都市デザイン研究体:著 彰国社 1968)。その特性も小嶋のデザインの意図をバックアップしたことだろう。『アクティビティを設計せよ』をまとめて以降、小嶋は『CULTIVATE CAt』(小嶋一浩+赤松佳珠子:著 TOTO出版 2007)において、〈フルイド・ダイレクションFluid Direction〉の概念を提唱し、それによって伊東豊雄の建築における流体的なイメージをアクティビティの流れとして読み替え、実践的なプログラム論へと展開させている。さらに『小さな矢印の群れ — -「ミース・モデル」を超えて』(小嶋一浩:著 TOTO出版 2013)においては、アクティビティを再組織化するために、レム・コールハース/OMAによる「シアトル市立図書館」の空間構成を参照しながら、機能が確定した目的空間と、機能が不確定な非目的空間とを「黒と白」のゾーンに分類する計画学的な方法へと展開させている。そして小嶋は、原広司が唱える「建築は〈もの〉ではなく〈出来事〉である」というテーゼにヒントを得て、アクティビティの概念を人の行動のみならず、空間を満たす光、風、熱、水、力といった多様なパラメーターの〈小さな矢印の群れ〉へと拡大して捉え、建築空間は〈小さな矢印の群れ〉の〈自己組織化〉あるいは〈創発〉として生み出されるというヴィジョンへと展開させている。僕はそこに先に述べたような、建築計画学と建築性能論を統合し、サスティナブルな設計方法論へと進化させる可能性を見る。『背後にあるもの 先にあるもの』(小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt:著 LIXIL出版 2016)は、これまでの小嶋一浩+赤松佳珠子/CAtの一連の仕事を、サスティナブルなヴィジョンによって整理した小嶋の遺作であり、その最後に《渋谷ストリーム》が紹介されている。

〈貫通通路〉は光や風が通り抜ける半屋外の街路であり、その北端は歩行者デッキへと伸びて、まもなく渋谷駅や歩道橋を経て周囲の街へと連結されるだろう。〈貫通通路〉は脇に建つ〈アーバンコア〉にも連結され、さらに舞台のような大階段によって地上レベルの街路へとつながっている。〈貫通通路〉には所々に人が滞留できるアルコブ的な場所が設けられ、エスカレーターによって吹抜を介した3階通路にも連結されている。3階の貫通通路の両側にも帯状に店舗が並び、2階の〈貫通通路〉よりもやや静かな滞留空間になっている。〈貫通通路〉の南端は建物を抜けて、エスカレーターと緩やかな階段によって地上レベルの街路につながっている。かつての東急東横線の高架下にあたる地上レベルの歩行者用街路の側にも、帯状に店舗が並んでいる。建物と渋谷川に挟まれた歩行者街路は、さらに南方向へと伸びて、その先にはホテルとオフィスを収めた線状の建築〈渋谷ブリッジ〉に達し、さらにその先は代官山へと伸びている。〈渋谷ストリーム〉に沿った渋谷川の河岸の両側には人工的な滝が設けられ、滝の水音が明治通りの車の喧騒を忘れさせる。街路に沿って樹木が並び、建物の壁面は所々緑化されている。

このように、従来の超高層ビルの足元を〈ポーラスな都市空間〉へと変え、そこに風が通り抜ける半外部の街路を差し込むという小嶋のコンセプトは、ほぼ達成されているといってよいだろう。渋谷らしい「小さなスケールの重なり合い」というコンセプトも、一見ランダムな外壁のカーテンウォールに反映されている。僕はこの原稿を書くために2018年12月から2019年1月にかけて、何度か《渋谷ストリーム》を訪れたが、貫通通路に沿った飲食店はいつも人で溢れていた。未だに人の流れが渋谷駅や周囲の都市空間とスムーズに連結していないにも関わらず、多くの人が訪れているのは、小嶋と赤松が提案した《渋谷ストリーム》のプログラムが成功していることの証である。〈貫通通路〉はジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』(ジェイン・ジェイコブズ:著 山形浩生:訳 鹿島出版会 2010)で描いた1950年代ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの〈街路〉になりかけているようにさえ見える。訪れる人々は街路に沿ったアパートに住む住民ではなく、どこからともなく訪れてくる固有名を持たない人たち、ヴァルター・ベンヤミンが『パッサージュ論』で描いた都市の〈フラヌール(遊歩者)〉たちに過ぎない。しかしながら〈盛り場〉とは本来そのような都市空間ではなかったろうか。したがって、小嶋は〈建築〉をつくろうとしたのではない、〈街路〉をつくろうとしたのである。これが僕の結論である。

《渋谷ストリーム》1階平面図
2階平面図
3階平面図
断面図