小松理虔著『新復興論』

生活に寄り添い、現世をも超えるデザイン・設計の必要性(評者:藤田直哉)

建築を専門としている人たちに、わざわざぼくが言う必要のあることではないと思うが、「地域づくり」や「復興」や「建築」は、ハードだけを作ればいいというわけではない、ということが、東日本大震災後の復興の中ではっきりと目立つようになってきた。本書は、その問題に、福島で具体的に実践をしている人間が直面し、分析し、提言をした、実に貴重な証言の書物である。

小松理虔は、福島県いわき市の小名浜地区で活動する、「ローカルアクティビスト」である。「ローカルアクティビスト」というと、社会運動をするような活動家をイメージするだろうけれども、実際に読んでみると、小松のやっていることは、地域を活性化させたり諸課題を解決するために走り回り、動き回り、様々な手を打っていく「なんでも屋さん」に近い。

『新復興論』は、そのような、活動家でもあり、妻子ある居住者でもある小松の複眼的視点から、福島の復興を論じた本である。小松自身が手掛けたり関わったりした事例の中での成功例も失敗例も語られるし、希望や期待もあるし、絶望や憂鬱もある。街づくりや建築への批判もある。このような率直な立場からの復興論であるという点が、本書の特筆すべき価値である。

福島は「課題先進地」であると言われる。原子力発電所の事故に起因する問題をはじめ、少子高齢化など、様々な深刻な問題を抱えている地方の土地で、それでもなんとか希望を失わず、明るく楽しく創造的に地域を豊かにしていこうと彼は活動している。もし彼のようなアクターが全国各地にある程度の数いるのだとすると、「街づくり」「地域づくり」は全く違うものになるのかもしれない。彼のような人間がいて、活動をすることを前提とした建築や計画を発想・実現しやすくなるかもしれない。

小松は、一九七九年生まれ。福島県いわき市に生まれ、福島テレビの報道部で記者をやり、香港に移住して雑誌編集を行っていたという経歴を持つ。グローバルな視野と行動力を持つ人物が、故郷に帰り、住みながら活動しているのである。

行っている「活動」には、比較的若い印象を受けるものが多い。共同でオルタナティヴスペースを借りた「UDOK.」を主催して若い意欲のある人々の遊び場にしたり、行政と関わって芸術祭を主催したり、放射性物質による水産物への影響を監視し発信する「うみラボ」を行ったり、福島の食の安全を発信したり、ブランド化の戦略を練ったりと、多様な活動をしている。かまぼこメーカーの会社のエアコンを塗装して「かまぼこエアコン」にしたり、福島美少女図鑑に関わったエピソードは、軽やかで楽しげである。

内容は、三つの部に分かれている。第一部は「食と復興」、第二部は「原発と復興」、第三部は「文化と復興」。

第一部は、かまぼこメーカーに勤めていた小松の立場から書かれており、マーケティング寄りの視点からの実践が語られる。いわゆる「風評被害」などと呼ばれる福島産の食べ物を巡る、具体的な実践が語られている。

第二部は、ジャーナリスティックな視線から、原発事故と痛みと、その後の復興の矛盾が記述される。「復興」といえば聞こえはいいが、「復興バブル」の中で様々な不正も起きている。賠償金や助成金によって働く意欲を失って、かえって活力を失う漁師たちもいる。妬みや嫉みも著しく、新築の家に「賠償金御殿」と落書きされる……。いわき市の住人と避難してきた双葉郡の住人との衝突に関して、小松はこう書く。「国や東電の担当者が机の上で書いた賠償システムが、生活者目線からかけ離れたものであった」(p157)。この批判は、小松の活動と本書の意図を明確に示すだろう。生活者とかけ離れた設計ではダメだ、ということが、本書の重要な主張である。小松の「活動」は──本書の刊行それ自体も含めて──その間をつなぐ営みである。これを単に国や行政や設計者を「悪」と名指して非難していると受け止めるのは間違いで、もっと丁寧なタッチでユーザーのニーズに答えてほしいという要望として受け止めるべきである。実際、行政の人や設計者の中で志の高い人たちがそうしたいと願っていることを、ぼくは経験から知っている。しかしながら、声に出されたり、データにならない生活の様々な面にアクセスするのが困難であるという実務上の問題があることも確かだろう。実際に生活者であり地域に関わっている小松は、それらにアクセスしやすい立場にいる。だから、本書を、フィードバックのために使える(生活者の)ユーザーエクスペリエンスのレポートとして読んでもいいだろう。この本を、設計をより良い形に変えるために使えばいいのである。

個人的に印象的なのは、第三部「文化と復興」だ。ここでは、小松が生活者の目線で多くの人に接した経験を踏まえ、生活感情や情緒、文化や宗教観のレベルにまで踏み込んで書いている。これらの死生観などは、「アンケートなどでそもそも項目にされない」「それを答えるのは恥ずかしい」などの原因でデータに反映されにくく、数値化しにくい部分である。しかし、生きた生活者としての人間は絶対にそれから自由にはなれない。東日本大震災は、そのことをつくづくぼくたちに突き付けた。

その象徴的な事例として挙げられているのは、海岸線に作られた津波を防ぐ防潮堤である。高い防潮堤は確かに安全性を高める。しかし、海と親しんで暮らしてきた人々にとっては、海が見えなくなるのは自然や職業とのつながりの感覚を損ない、目には見えないけれども尊厳や活力を失う帰結になりかねない。

あるいは、帰宅困難区域にある自宅よりも便利で快適な復興住宅を提供されていたとしても、先祖代々の土地や建物や墓があるなどの理由で、これまで住んでいた家に戻ることを願う人間は少なくない。

「地域づくり」や「建築」は、死生観・宗教観・生活感情の細かい襞にまで触れて考えなければならないということが、東日本大震災を経験して、認識しなおさなければいけなくなった最大の事柄のひとつであると、個人的にも取材を通じてつくづく感じている。

正直言って、綺麗事では覆い隠せないような深刻なことばかりだ。本書で挙げられている「課題」を列挙すると、原発事故の処理、帰宅困難地域はどうなるのか、津波の被害に遭った地域の遺構をどうするのか(痕跡をなくしてこぎれいなニュータウンのように整地してしまっていいのか)、風化にどう抗うのか、文化や歴史にアイデンティティを置こうとしたときに現れる常磐炭鉱などの過去、戊辰戦争の敗北、国策としてのエネルギー産業によって発展したという事情、首都圏とバックヤードとしての福島の関係、などなど……。

解きほぐそうとすれば日本という国家の成立に関わってくるような大問題に、本書は最終的には触れてしまい、解決不能なまま、「外部」たるぼくたちに呼びかけを行う。

こんな大問題に対して、個人は無力かもしれない。しかし、彼は諦めていないし、活動を続けている。それを、文章や写真やアートなどを使って発信し続け、「外部」へとつなぐことで、なんとか解決の道を模索している。その姿そのものに、一種の救いが、あるいは希望の感覚が宿っていると、個人的には感じる。

ぼくたちはこれを受け取り、ローカルな問題だけではない、人類史的・国家的な規模の巨大な課題として──さらにはそこに不可避的に巻き込まれている自分自身の問題として──受け止め、思考し、何かを実践したほうがいいのではないか。少なくとも、本書はそれを願っている本である。その期待に応えて、それぞれのローカルを超えた協力により、諸課題を解決する道を探っていくような未来を、ぼくは夢見る。そうしなくてはならないと、感じさせられる本である。

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書誌
著者:小松理虔
書名:新復興論
出版社:株式会社ゲンロン
出版年月:2018年9月