山名淳編著『記憶と想起の教育学: メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ』

もう少しゆったりとしている(評者:長谷川新)

長谷川新
建築討論
Jan 5, 2023

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本論集は「メモリー・ペダゴジー研究会」に集まった研究者たちによる論集である。メモリー・ペダゴジーすなわち「記憶の教育学」とはどういうことだろうか。記憶と教育が密接に結びついていることは容易に察せられる。しかし、編著者の山名に言わせれば、教育は「学際的なメモリー・スタディーズのなかでその意義が十分に承認されていない」(p.301)という。本書の論考のいくつかは、こうした現状に対して、記憶と教育の関係性に注目する有効性を例証している。

いっぽうで、山名は冒頭で不思議な表現を用いている--いわく、「本書の「記憶」はもう少しゆったりとしている」(p.ii)。何とくらべてゆったりとしているのか。学習技法や記憶の「能力」とその向上、平たくいえば受験教育に象徴されるような「暗記主義」としての「記憶」と比較して、である。個人の内部へと記憶を取り込んでいくような所有のモデルは丁寧に退けられている。「教育とは「文化的記憶」との接触によって生じる広い意味での学びを意図的に促す試み」(p.iii)であり、「「文化的記憶」に参加することこそが「教養 Bildung」なのだ」(p.iv)というのが、さしあたって「記憶の教育学」に通底する理念である。

こうした記憶理解は、山名によってたびたび参照されるアライダ・アスマン(とヤン・アスマン)に多くを負っている。アスマンは『想起の文化:忘却から対話へ』(岩波書店、2019年)、『記憶のなかの歴史-個人的経験から公的演出へ』(松籟社、2011年)、『想起の空間-文化的記憶の形態と変遷』(水声社、2007年)と邦訳が出ており比較的日本語でもアクセスが可能な「メモリー・スタディーズ」分野の開拓者である。彼女の議論を通過しながら、記憶を媒介する者としての個人と、その外部環境との相互作用に着目するような議論が並ぶ。本書の魅力はここに備わっている。

それゆえ、収録されている論考は狭義の「教育」に限らない。むしろ、本書で「もう少しゆったりとしている」のは「記憶」以上に「教育」の方である。たとえばルソーによる「自伝」を「社会的記憶」と「個人的記憶」の「汽水域」(海と河川の水が交わり合う領域)として捉え直す室井麗子や、8月15日に毎年頭を丸める「坊主の会」を行っていた鶴見俊輔の「訓練」を考察する西本健吾の議論はそれぞれ「自己」と「外部」を往復するような自己陶冶--自分で自分を「教育」していくことの分析であろう。

教育のなかでも、とりわけ重視されているのは「文化的記憶」の「継承」をめぐる議論である。たとえば先に挙げた鶴見俊輔論は、戦争体験の継承権をめぐる国家と個人の攻防という側面を有しているが、「ゆったりとしている」ことは非政治的で穏当な状況を意味しない。輪郭をゆるく構えているがゆえに議論が拡散しすぎてしまっているきらいはあるにせよ、本書の「ゆったり」はなかなか切迫している。当事者性を「読み手・聴き手」へと拡大することに踏み込んだ大塚類の論考も、文学(三村尚央)、映画(李舜志)のなかで「継承」を考察する議論も、それぞれ興味深い問いを投げかけている。

田中智輝が--彼もまたアスマンの整理を引きながら--論じるように、戦争体験の継承は同時代に生きる人々の間でなされる「コミュニケーション的記憶(世代記憶)」から、学校・ミュージアム・記念碑・儀礼などの外部記憶を介して形成される「文化的記憶」へと移行している。こうした「ポスト体験の時代」においては、「コミュニケーション的記憶」から「文化的記憶」へという整理は必然的かつ不可避であるように思われる。しかし、田中は「語り手の不在においてなお文化的記憶の再編成のための重要な参照点」(p.189)として、戦争体験者たちの個別の「語り口」へとスポットライトを差し向ける。ハンナ・アレントの議論を参照しながら田中は、語る行為の政治性、さらには公共性の源泉としての「私性」にまで論を進める。

現・東京都知事が、朝鮮人犠牲者追悼式典に6年連続で追悼文を送らなかったことは記憶に新しい。東京都人権プラザは、「震災時の”すべての”犠牲者を追悼する」というレトリックで実質的に朝鮮人虐殺の歴史を否定する都知事に追従し、展示作家の作品上映に検閲を行った。第五福竜丸の被曝事件を記憶するための「マグロ塚」は今もなお、「原爆マグロ」を埋めた築地ではなく都立第五福竜丸展示館横に「展示」されている(展示することで検閲をしている)。東日本大震災を直接あつかった劇場版アニメでは、集合的記憶の再編成は忘れるための技術として跋扈し、原発の「げ」の字も現れなかった。

記憶と教育を、個人と外部との相互貫入というダイナミズムから分析する本書は、狭量な「記憶の教育学」には収まらない奥行きを見せている。それは同時に、個人は常に外部から記憶の介入にあい、上書きされる可能性にあるという事実を照らし返す。記憶と想起の視点から、教育と人間形成についての議論の素地を提供してくれている本書は、「もう少しゆったりとしている」にも関わらず決して呑気なものではありえない。

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書誌
編著者:山名淳
書名:記憶と想起の教育学:メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ
出版社:勁草書房
出版年月:2022年12月

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長谷川新
建築討論

インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016–2017年)、「不純物と免疫」(2017–2018年)、「STAYTUNE/D」(2019年)、「グランリバース」(2019年-)、「約束の凝集」(2020–2021年)など。国立民族学博物館共同研究員。robarting.com