山岸剛 著『東京パンデミック 写真がとらえた都市盛衰』

写真術と科学研究(評者:菅野颯馬)

菅野颯馬
建築討論
May 25, 2022

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フェルメールの故郷であるオランダの古都デルフトに向かう飛行機でこの本を読み返す。留学への期待の背後に暗い社会の状況がちらつくせいで、どこか気分的に漂っていた自分の精神が、地に足を着けられる場所を見つけた感覚を覚えた。それは本書が、今日の激しく揺らぐ社会を前にして、全く動じない自然の側から思考する冷静さを教えてくれたからかもしれない。

本書の著者は人工と自然の関係を極めて即物的に記録する写真家である。氏の前著『Tohoku Lost, Left, Found』★1では、震災後の東北の風景がこれまた物質感を滾らせる分厚い本に記録されている。そこでは建築物や土木構造物が強大な自然の力と激突することで人間の営みから解放され、純粋な「モノ」へと姿を変えた様子が活写されている。人間が作ったモノを撮ることは、人間そのものを撮ることよりも、人間のなんたるかをよく示すと著者は考えている。

“人間的な物語に安易に感情移入せず、モノ語りに耳をすませば、人間という動物が、ヒトという生き物が何を考え、何をしているのか、何をしようとしているのかが、むしろ克明に、より冷徹に見えてくるのではないか。昨今あまりに過剰な、人間の「人間性」をぎりぎりまで抑えて、人間の「自然」をこそ見極めたいのである。”(p.40)

『2011年3月16日、千葉県旭市下永井』©TakeshiYamagishi

本書ではパンデミック初期の東京で撮られた写真と、それらを端緒とするエッセイが繰り返される。ここでも人工と自然の多種多様なモノたちが、様々なかたちで両者の関係を示しており、それらをして語らしむ「東京のモノ語り」が実践されている。緑化のために計画された街路樹などはここでは人工物の範疇である。筆者の意図する「自然」とは、“すべてが意識的にコントロールされた都市で、意識がつくったものでないもの”(p.89)を指す。著者は静まり返った東京を奔走し、都市空間を異化する自然との邂逅に感謝の挨拶をするように写真を撮った。

人工性を執拗に集積させた都市の生活では自然への意識が希薄になる。パンデミックは津波と同様、不意にやってきた自然が人工性に埋没した人間の精神を揺さぶる事件であった。しかし、ひとたび自然へ向けられた意識も、すぐに人間中心の忙しない生活に引き戻される。コロナ禍の東京でのモノ語りは、過度な人工性に閉塞した都市の病理はもとより、狭い水槽で互いに緊張して生きることを強いる社会の鬱屈を、静かに、しかし痛切に暴き出しているように見えた。

写真が語るもう一つのことは、都市の「異物」たる自然の美しさである。例えば雑草たちは、人間に疎外されていることなど一切無関心なように、光や風を浴びて健やかである。それらをモノとして観察してみれば、人工物よりも遥かに複雑な輪郭が異質さを放つ。そして人間はその美しさに心を動かされる。時に自然を蔑ろにし、時に自然の美と共振する不可思議な『人間の「自然」』こそが、著者と私の関心の最も大きく重なった部分であった。自然に対する傲慢さと自然への生得的な愛好が矛盾する人間の性質は、人工と自然のバランスを調整する行為としての建築に関わる者には見過ごせない与件だろう。私はそれに加え、モノの即物的な記録から人間と自然を考察する著者の写真術そのものに、自然現象の測定と分析を繰り返す科学研究との類似した構造を感じ、強く興味を引かれたのである。

『2020年1月29日、大田区城南島』©TakeshiYamagishi

私がオランダに来たのは、建築環境学、つまり科学を研究する技法を学ぶためである。科学もまた自然を相手どり思考する古くからの方法であり、世界の理解を目的とする自然観の一種でもある。科学的な検証の手順には、あらゆる感情を一度脇に置き、努めて客観的に観察、記録する過程がある。ここに即物性を追求する著者の写真術との類似性を感じた。そこでは都合良く見たいものだけを見ることは出来ない。意図しない偶然が写真に映り込むように、予期せぬ結果は実験や測定につきものであるが、我々の相手も自然であるのだからそれも必然と教わった。しかし、客観性の担保が義務付けられた研究プロセスの外においては、大学アカデミズムの内部で論じられる自然観や建築の思想を柔軟に拡張させることを目指したいとも思う。モノから『人間の「自然」』までを見極めんとする著者の写真術から、科学研究の技法を人間や建築を探求する独自の術にまで磨くことを触発させられた。そしてその術こそが、他者や自己の人間性、あるいは混迷した社会によって酷く濁って見える世界を、しかと見据えるためのフレームになり得るのではないかと希望も抱いている。

オランダに到着した翌日、マウリッツハイス美術館にフェルメールの絵画を見に行った。本書で見た東京のパノラマ写真が脳裏に残っていたせいか、彼の数少ない風景画の一つ『デルフトの眺望』にひと際目を惹かれた。画面の上下を大きく占める空、雲、川。そして雲の切れ間からの陽光を淡く受けるデルフトの街が横一線。かつて芸術文化が栄えたその都市の姿は、自然の中で静謐であった。この作品を結実させるだけの才覚と技術の傑出の度合いなど、私には到底測り知れない。それでもフェルメールの絵画技法に関する論文を調べてみると、彼がモチーフや光の観察にカメラ・オブスクラ(ピンホールカメラと同様の原理で画像を投影する装置)を用いたという説が複数見つかった。彼もまた、現象を客観的に記録するための技術を活用し、自らの芸術を深めたのかもしれない。モノを冷静に観察することから、その先にある人間や自然の理について洞察を得ようとする動きが、著者の写真術、科学研究の技術、そしてフェルメールの芸術にまで反復した。これが単なる誇大妄想だとしても、私にとってはこれからの学びの心強い支えになると思う。

人工と自然が相まみえる現場写真の数々は、私たちの日常の風景とも構造的に重なりうる。人間と自然を媒介する建築の領域にいればこそ、その機会は少なからずあるだろう。自然物と人工物の状況を見極め、進んでそのモノ語りに耳を傾ける態度こそ、冷然と在る自然を鑑みて流転する社会にも動じない思想の取得に繋がるのではないだろうか。

★1:山岸剛, Tohoku Lost, Left, Found 山岸剛写真集, LIXIL出版, 2019

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書誌

著者:山岸剛
書名:東京パンデミック 写真がとらえた都市盛衰
出版社:早稲田大学出版部
出版年月:2021年4月

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菅野颯馬
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すがの・そうま/1995年東京都生まれ。早稲田大学理工学術院総合研究所 次席研究員(研究員講師), 博士(工学)。2020年~23年 日本学術振興会特別研究員, 2022年 デルフト工科大学Visiting PhD, 2023年 早稲田大学大学院博士後期課程修了, 2023年より現職