岩崎駿介[1937-]横浜市の都市デザインからセルフビルドの実践へ

話手:岩崎駿介/聞手:佐藤美弥・中島直人・橋本純[連載:建築と戦後70年 ─ 06]

建築と戦後
建築討論
102 min readNov 15, 2020

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日時:2019年9月3日(火)
場所:落日荘(岩崎駿介・美佐子邸)(茨城県石岡市)
聞手:佐藤美弥(S)、中島直人(N)、橋本純(H)

岩崎駿介氏(佐藤撮影)

岩崎駿介さんは、1937年東京都の三田に生まれ、60年安保闘争のただなかにあった時代の東京藝術大学で建築を学び、ガーナ共和国のクワメ・エンクルマ科学技術大学で建築教育に携わった後、米国ハーバード大学でアーバンデザインを学び、飛鳥田一雄市政下の横浜市で都市デザイン行政を担った。横浜市退職後は、国際連合アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)でスラム問題を担当し、同時に日本国際ボランティアセンター(JVC)で開発途上国の農村の問題に取り組んだ。筑波大学でも教鞭を執り、2001年からは茨城県石岡市に移住し、妻の岩崎美佐子さんとの共同設計かつセルフビルドによる自邸「落日荘」(2011年JIA環境建築賞)の建設に勤しんでいる。現在は、ネットメディアを中心に南北問題や地球環境問題へのメッセージを発信し続けている。

このインタビューは、日本建築学会歴史・意匠委員会戦後空間ワーキング・グループによる「戦後空間シンポジウム03 市民・まちづくり・広場――1960–70年代の革新自治体と都市・建築のレガシー」において、岩崎さんがコメンテーターとして登壇されたことをきっかけに、同シンポジウムを企画・運営された中島直人さんを聞き手に迎えて実施したものである。

インタビューは、岩崎氏さんよるレクチャーの後、彼の経験について時系列で質問する形式をとった。

なお、インタビューを掲載するにあたっては、読者の読みやすさを考慮し、語順を整え、表記の統一を行うなどの編集を加え、時系列に沿って話題を再構成している。

自邸について

岩崎:まずこの家を説明します。19年前に私たちはここへ来ました。この敷地には、篠竹(しのだけ)と言って、人間の背の高さ以上の高さの竹が生えていますが、女房(岩崎美佐子さん)と2人で2か月かけて全部刈りました。そして大きな木を2本移植しました。

最初に坂を上がって、一番特徴的だったここの風景は、正面の山です。足尾山(芦穂山)と言って、標高627mで大して高くはないのですが。栃木県に足尾銅山がありますが、同じ名前です。芦穂(あしほ)という地名が、芦穂小学校などに今でも残っています。この辺りの麓は芦穂と言います。恐らく明治年間に、発音が同じだったせいか、足が悪い人が、松葉杖や靴を投げ入れてお参りする人が増えたために漢字を変えてしまったのではないか。麓へ行くと分かりますが、本当に豊かな農村です。「芦穂山」のほうがいいのですが、「足尾山」と書いて、括弧付きで「(芦穂山)」と書いています。

落日荘からみえる足尾山(芦穂山)(岩崎氏提供)

わが家から、この足尾山の頂上があまりにも正面に見えるから、わが家と山の頂上がどういう位置関係になっているかグーグルの航空写真で調べたら、同じ緯度、北緯36度16分49秒にありました。これは信じられない偶然だったんですよ。窓には右側に加波山事件が昔あった加波山が見え、左には筑波山が見えます。今、皆さんは石岡の中心街から来て、ちょっとした丘を越えて到達したわけですが、ここは山で囲まれた盆地をなしているわけです。

私は、敷地の入り口に釘を打ち、この釘にひもを結びつけて足尾山に向かって糸を引いて、その糸に平行または直角に、コの字型の家を造ろうという基本構造というか、アイデアが生まれました。私は設計した数は少ないのですが、イメージはすぐ出るので、あまり長く考えた記憶はないのですが、そういう構想が浮かびました。

「釘」を指さす岩崎氏(佐藤撮影)

ここに来た当初は私が64歳で、女房が57歳のときだったので「もう小さい家でいいや」というぐらいの気持ちでしたが、スケッチしだしたら、えらく大きくなってきてしまったんですよ。大工さんに頼んだら大変なお金になるので、「それじゃあセルフビルドしようか」ということで、別にセルフビルドを意識していたわけではないんですが、金銭上、やむを得ずということです。(大工さんに頼むと)半分以上は、手間で持っていかれますから、セルフビルドだと実際恐ろしく安いのです。

土地は1,200坪、坪1万5,000円という信じられないほどの安さで、合計1,800万円でした。今後こうした土地が出てくるかどうか。私は昔、日野市(東京都)で、親父(故・岩崎徹太/岩崎書店創業者)が買ってくれた40坪の土地を持っていました。日野市、八王子市の近辺だったから、当時、普通の価格だと思いますが、坪50万で売れました。それで、2,000万円でした。つまり200万円お釣りが来たという形で、ここに決めたわけです。

山に向かってコの字型に配置するという案を構想して、こっちにゲストハウスを作るとか、ここに露天風呂を作るとか、2番目の息子がもしかすると一緒に住みたいということもあるので、家族3人の家を作るかもしれない。そういう全体構想ですが2人で作るので、最初にいま私たちがいるこの母屋を作ろうと思いました。

落日荘の構想(岩崎氏提供)

8年かかって作りました。私が図面を引いて、全部地産地消で、茨城県の八溝杉で、プレカット屋にカットしてもらいました。建前のときは大工さん4人に来てもらいました。瓦とそれから漆喰(しっくい)は専門家に頼みました。あとは、ガラスのはめ込みから、テーブルから、何から何まで、2人で作りました。電気、下水などは、私自身が1人でやりました。

落日荘 階段室(佐藤撮影)

西に向かう全ての線は北緯36度16分49秒という緯線とわが家から見た地平線。すなわち海抜約85mとの交点に収束します。写真を撮っても透視図法上の焦点がはっきりと映し出されるので、とても安定した写真に見えると同時に、秋分、春分には、真西、すなわち足尾山の頂上に太陽が沈むわけです。夏は日が長いから、加波山のさらに右に沈む。それから冬は筑波山の左に沈む。半年をかけて太陽は右に左に沈む位置が移動しているわけです。自然と親しく接したいということにおいて成功していると思います。

(いずれも岩崎氏提供)

この建物が母屋ですが、コンクリートの樋を作りました。朝に東から上がる太陽が、この瓦屋根の影を棒に映します。そして夕方、同じように影を落とします。メキシコのマヤ文明のチチェンイツァ神殿のようです。

落日荘 母屋(佐藤撮影)
落日荘母屋の柱に現れる影(岩崎氏提供)

こういうフォーメーションで家を設計した理由は、地球の一点にいて地球を見たいという気持ちが、50いくつのときにわき上がったことにあります。「われわれは、日本に住んでるんじゃなくて、地球に住んでるんだ」ということを日常的に理解できるような空間を作りたいと考えていました。開発途上国の、悲しき国々の隅から隅まで歩いたことが理由です。

例えば、熱帯の国々で森林が伐採されています。それがベニヤ板になり、日本で建築家は素知らぬ顔をして使っているわけです。丹下健三(1913–2005)の「東京計画1960」や黒川紀章(1934–2007)の「東京計画 2025」のアーバンデザインについても、「どこから型枠持ってくるの」と思っていました。インドネシアでも、マレーシアでも、森林を伐採されて生活に追われて、悲しいわけです。われわれは日本にいて、知らないのはまずい。そういう現場を日本で見られるようにしたいと長く思っていました。

だから地球の一点にいて、地球が見えるように設計したいという意識を持ったんです。イタリアの南端のシチリア島に生まれた女の人が来ました。「われわれは地球に住んでるんだ」という意識が、非常に強い人なのですが、「じゃあ、あたしんち、このテラスの向こうの、あの山の向こうね」と言って「地球が見えるマジックテラス」と名付けてくれました。

(いずれも岩崎氏提供)

向かいの建物は、50人入る集会室で、子ども会を開催して「じゃあ君、オーストラリアはどっちのほうだ」とか「アメリカはどっちのほうだ」とかと言うと、小学校上級生以上であれば正確に答えます。わが家に来れば説明を抜きにして、われわれは地球に住んでいるのだということを体感できるようにしたい。地球の一点にいて、地球を見、地球を感ずるというのが、設計の基本的主旨です。

母屋から見た落日荘集会室(佐藤撮影)

両親からの影響について

岩崎:私は昔から、理性に訴えることでなく、感性に呼びかけることが必要だというふうに、一貫して思っているところがあって、Facebookによく投稿するのはそのためなんです。ビジュアル・コミュニケーションをしたいという意識が非常に強い。

小さいときから空間の記憶力が良かったんだと思うんです。私の文化的知覚、価値の体系は、親を引き継いでいると思います。おふくろは、出版社の編集長を歴任するなど、非常に頭の良い人だったと思います。親父は74歳で死んでしまいましたが、非常に下町っぽい性格の人でした。例えば、電車で老人が立っていて、その前で若者が座っていると、「おまえ、立て」って言うんです。下町のしつこいおじさんみたいで、子どものときに、そば屋行っても、「おまえ、早く食え。待ってる人がいるぞ」と言う。そういう人でした。人と同じ地平に立つということが、私にとって、相当、大きかったと思う。自分だけよければという気はなかった。

それと同時に親父は反権力でした。戦前に特別高等警察に捕まっていました。戦前に、慶應義塾大学の先生とマルクスの本を出したために捕まりました。慶應大学の前で古本屋から出発したのですが、後に出版業に転じ岩崎書店という書店を経営していました。親父は共産党の活動はしていませんでしたが、資金援助はそうとうしていたと思います。

親父の兄貴(伯父)がその昔慶應大学の学生で、思想的には左翼支持だったと思います。その伯父は、非常に優秀な人らしく、関東大震災の時にアメリカ人からたくさんの寄付をもらったお礼をするということで、寄付を募ってアメリカに渡り、アメリカ大統領にお礼を言いに行ったというぐらい、非常に活発な人でした。しかし、親父が大学生になるかならない頃に腸チフスで死んでしまいました。それで、伯父が読んでいただろう本を古本屋の最初の本棚に並べたのだと思います。

従って骨の髄まで反権力ですよ。戦前は捕まったけど、戦後はレッドパージに逢いました。その後岩崎書店という本屋をやって、児童出版に変えます。おふくろは絵もうまかったので、私の建築的能力はおふくろのほうから来ていると思います。

東京藝術大学で建築を学び、ガーナで建築教育に携わる

岩崎:そういう背景で、東京藝術大学2年のときに自治会の委員長になって、1960年、2年生のときに、樺美智子さん(1937–1960)が死んだ日米安全保障条約改定反対デモ(6月15日)に参加しました。一生懸命デモしました。勉強はしなかった。

私は最初から、社会問題に強い関心がありました。芸大のときの私の教師は、吉村順三(1908–1997)でした。1年のときは、制作課題は平均Aでした。2年で学生運動始めてB。3年でC。4年で「Dでよければ卒業させてやる」と吉村順三に言われました。だから、もう学校は真面目にはやらず、学生運動ばかりやっていました。

当時、住宅設計の課題は、敷地だけあって、周囲がどうかという説明はありませんでした。しかし、現実には敷地の前に大きなビルが建って日陰になってしまうといった、矛盾を感じていました。おかしいなと。だから、あるとき、「先生、もう少し、周りのこと説明してください。設計しようがないです」と言いました。

東京オリンピックを翌年に控えた1963年。私は大学卒業を控えていました。都市の混乱、都市の矛盾を目の前にして、建設とは何かを考えました。オリンピックで地面を掘り返したり、高速道路もできたりという現実を見て、国を作るとか、建築物を建てるというのは、どういうことかということをもっと広い意味で見たいと思いました。

クワメ・エンクルマ(1909–1972)というガーナの大統領が書いた本を学生時代に読みました。アフリカは40数か国ありますが、最初に独立した国がガーナで、1957年のことです。私は1963年に大学を出ています。ガーナでは、建築と都市や国がどういう関係になっているか見たいと思って、ある日、ガーナ大使館に行き、「あなたの国で働きたい」と言いました。そしたら、大使館の人に興味を持たれました。

おまけに、当時女房はまだ藝大の学生で付き合っていましたが、「私もガーナに行きたい」と言うんです。今から外国行くのに、付いて来られたら困るなと思ったので、「やだ」、「そんなに行きたいなら、自分で行って、交渉すりゃあいいじゃないか」と言いました。そしたら、彼女は自分で行ったんですよ。「どうだった?」と言ったら、「すごい親切にしてくれて、私、どうも行けそうよ」と言うんです。私よりも若い、22歳の若い女の子が、21歳だったかな、が来たのには大使館はもっと驚いたと思います。結局2人で行きましたが、英語もさしてできるわけではない。もう度胸一本でした。非常に緊張して、交渉したと思います。

結局、1年近く時間がかかりましたが、飛行機代も出してくれて、当時初任給は1万5,000円でしたが、ガーナではお雇い外人として勤務し、なんと19万円の月給でした。ガーナの国立大学で、大統領の名前を取ってエンクルマ科学技術大学といい、建築科がある大きな大学です。建築科の教師・スタッフは40人ぐらいいて、そのうち、ガーナ人はわずか2人でした。あとは全部アメリカ人、イギリス人、そうした人を呼ぶためには、当時それくらいの給料を払わないと来ませんでした。

私が行ったのは1966年だから、ガーナはまだ独立して10年前後でした。植民地時代にボーキサイトなどで金をため込んでいたので、教育に力を入れました。そういうことで私は運に恵まれました。最初、1学年の担当で、2年目は3学年の担当でした。教育に力を入れている国はその当時まだアフリカでも少なかったので、周辺の国からもたくさんの学生が来ていたし、実におもしろい経験でした。

休みには女房と2人で、いろんな地方に行って、(ガーナの民家を)調査・実測しました。一番印象に残ったのは、奴隷制と植民地支配がどれだけ悲しい歴史であったかということです。(奴隷制・植民地支配に関する)遺跡がいっぱいありました。ガーナ人の態度にもそれを感じました。白人に対してある恐れというか、畏怖というか、すっきりしない印象を持ちました。アフリカ大陸から1,500万人を奴隷として連れて行ったと言われていますが、はっきり数字は分かりません。恐らく、運ぶ途中に半分以上は死に、あるいは殺されました。奴隷を捕まえるさいには、ある部族を手なずけて、そこにいっぱい褒美をやり、「おまえ、他の部族を捕まえろ」と言う。つまり、奴隷制は部族を仲たがいさせる原因を作ってしまった。アフリカは民族対立が激しいと言いますが、もともとはすみ分けていた。ところが、そういう植民地や奴隷制で、ある民族を持ち上げ、その部族の人を使って捕まえさせるという、けしからんことをやっていたわけです。

ハーバード大学でアーバンデザインを学び、横浜市の都市計画に携わる

岩崎:ガーナに2年半いて、給料が高かったので、400万円以上も貯まった。それで、アメリカに行ってハーバード大学の大学院に入った。デザインについては、自分でよくできると思っていたので、全然おっかなくなかったです。どんな野郎でも負けないと思っていました。しかし、徹底的に「論理」を教えられたように思います。英文のレポートを書いたりすることが、論理的な思考にとって、とても勉強になりました。藝大出身だから、感情ばかりが先走っていましたが、ここで論理を習ったかもしれません。

その後、ボストン市役所で働きました。それが大きかった。ボストン市役所で働いてみて驚いたのは、職員が自分の街に誇りを持ち、自分の街を自分で作るという、気概に満ちた自治の精神です。日本の役所は、実に国の役人の下働きみたいなことになっていますが、そうではないことに驚きました。

ちょうどベトナム戦争を戦っている時代で、私も英語が下手でしたが、「学生運動を一生懸命やってんだ」というやつが、現れて、「日本の安保条約に対する考え方を、一回、みんなの前で話してくれ」なんて言われたこともありました。そういう政治的な問題についても、自分なりにいろいろ興味を持って見ていました。

だけども33歳のとき外国でふらふらしていてもよくないということで、横浜市で働き始めました。ガーナからアメリカへと、外国で技術を切り売りして、渡り歩くことより、特定の地域に関わらなければならないと思い、飛鳥田一雄さん(日本社会党の政治家 1915–1990)の「地方をもって、国家を包囲する」という言葉に引かれて、横浜市職員になり、地方自治をやりました。

横浜市長の飛鳥田一雄は、やっぱり自治の精神に満ちていました。「君の好きなようにやりたまえ」とみんなに言っていました。それで、「何か問題が起これば、私が責任を持つ」と言います。田村明(都市プランナー 1926–2010)さんも、もちろんとても頑張られました。特に、高速道路の地下化は、田村さんの最大の功績だと思います。建設省の役人は「横浜なんか、場末だ」なんて言って高架にしようとしましたが、それを地下に下ろした。今は、高速道路があれば、都心が分断されると言う問題がありますが、偉かったと思います。親父の影響かもしれませんが、無意識ですが、論理で説明はできませんが、私はいつも国を避けてきました。

横浜市では、いっぱいプロジェクトをやりました。くすのき広場とか。山下公園の全長800mに渡って、建物を2.3mセットバックさせたのは、私が横浜に行ってやった中で一番大きな功績だと思います。条例もない中で、一軒一軒、話をつけていきました。

くすのき広場(岩崎氏提供)
800mに渡ってセットバックした海岸通り(岩崎氏提供)

最初のきっかけは神奈川県民ホール(1972)です。県民ホールの土地の中に、一部、横浜市の持っていた土地がありました。それで県が、「今度、県民ホールを建てるから、おたくの横浜市の土地を、県に売ってください」って言ってきました。そしたら、田村さんが、「岩崎君、そういう申し出があるんだけど、ただ売っちゃうんじゃなくて、条件を付けて売ったほうがいい。どういう条件を付けたらいいか、考えてくれ」と言うので、私は2.3mのセットバックを提案しました。なぜ2.3mかというと、公道上の歩道幅が5mで、植え込みが2.3mあるので、従って、2.7mしか歩けません。敷地いっぱいに建物が建つと、2.7mではあまりにもせまい。だから、2.3m分だけ、下がれということを、県民ホールに言いました。県は、敷地もけっこう大きいので、喜んで下がってくれた。それを設計していたのが、日建設計で、藝大の私の4年先輩で岩崎(孝彦)という方でした。だから、建築家同士で話しをつけて、実に容易にことが決まりました。

ところが、産業貿易センター(1975)というのが出てきました。これは三菱地所がやっていまして、なかなか言うことを聞きませんでした。いろんなトラブルはありましたが、港北ニュータウンその他、いっぱい横浜でやりました。

国際連合でアジアのスラム問題に取り組む

岩崎:ところが、飛鳥田市長が、社会党の委員長になるために辞めました。それで、自治省の細郷道一(1915–1990)事務次官が名乗りを上げて、おまけに社会党を含む6党相乗りで、自民党ももちろん推薦で相乗りするというので、「まずい、俺いやだな」と思いました。それで、当時、鳴海正泰さんに、「俺、市長に立候補したいんだけど」と話を持って行ったら、あのとき42歳でしたが、「おまえ、若すぎるよな」って言われて、そんなもんだろうなと思って「そうですか」と言った。それで、すぐ外務省に行き、国連の職員になりたいと言いました。それで、国連職員になって、アジアに行くわけです。

その後、鳴海さんとは田村明さんの葬儀の時にお会いし、「岩崎君、申し訳なかった。あのとき、あなたを推薦すればよかったんだ」って謝るんです。それには驚きましたが、鳴海さんも30数年後になって表明してくれるなんて、実に誠実な方と思いました。

いずれにしても、アジアに行ったわけです。これには驚きました。もうアメリカやイギリスや、日本にいるよりもおもしろい。「うわあっ」という感じで。私は、国連のスラム担当課長といって、アジアの大都市、バンコクやマニラ、ジャカル、ムンバイ(インドのボンベイ)など、数限りないスラムをいっぱい見ました。

バンコクのスラム(岩崎氏提供)

国連の職員として各国のスラム改善に努力し、またボランティアとしてもタイ・バンコクのスラムで子ども図書館を作る運動にも参加しましたが、これらの努力をしてみて感じたのは、あまりにも多くの人々が故郷を捨て、都市に出てくるので対応しきれず、なぜこれほどの人が都市に出てくるのだろうということです。そのため都市の背後にある農村に興味を持ち、国連退職後も「日本国際ボランティアセンター(JVC)」というNGOを設立し、アジア各国の農村を見て歩くようになりました。

アジアの農村では日本を含む先進国による森林破壊、すなわちとてつもない大きな環境破壊が進行していたのです。例えばユーカリ植林です。タイ政府が農民にユーカリの植林を教えます。5年ぐらいすれば、パルプ材として輸出できるから、金になるということで苗を提供します。私たちが関係していた農村に、植林部隊というのがたくさん政府から派遣されてやってくるほど、大規模にやっていて、日本政府が技術援助を進めていました。タイの政府として外貨がほしいので日本に売ります。ところが、ユーカリは急激に水分を吸収するので、5年たつと、地面が割れます。紙の消費量をみると2010年のデータでは、タイから結構たくさんのユーカリのパルプ材が輸入されていました。15パーセントぐらい来ていた時代もあります。コピー用紙になるわけです。しかし、そのうちに農民はユーカリ植林が土壌を傷めることに気が付き、そういう政策はやめろとデモを組んで、バンコクにデモ行進をかけようとしましたが、機動隊に粉砕されました。

カンボジアのポル・ポト(カンボジアの政治家 1928–1998)時代には、虐殺、餓死などの被害者は100万人を超えました。本当に悲劇です。アメリカと、その尻馬に乗っかった日本が果たした罪は大きいと思います。ソマリアにも8年間もかかわりました。日本で、明治維新があった1868年には、エチオピアの皇帝がイギリスの遠征隊により処刑されました。この皇帝を殺した部隊は、そのときボンベイ(現ムンバイ)にいたのですが、急遽エチオピアに派遣され、歯向かう皇帝を処刑したのです。途上国の人は、このような歴史については何も言わないけど、とても厳しいだろうな、悲しいだろうなと思います。1984年に、エチオピアでは飢餓が起こり、100万人も餓死しました。われわれ日本国際ボランティアセンターも、病院も建てて食料も運びました。そうした途上国の悲劇が、連綿と今も続いています。こういう現実を、どう考えるか今でもとても重要な問題です。

マレーシアのサラワクでは、今、ジャングルがすべて焼き払われてヤシ油のプランテーションになっています。ですから、先日のブラジルでの森林火災(2019年8月以降に多発した森林火災)は、起こるべくして起こっているんです。ジャングルを牧場にするかプランテーションにして、金を儲けるのです。私と女房は、マレーシアの住民と長く付き合ってきましたが、今、住民はどうなっているか。もう彼らは行き場もないはずです。

マレーシア・サラワク州の油ヤシ・プランテーション(2016年撮影)(岩崎氏提供)

先進国の資本主義経済は基本的に途上国の安い労働力と資源で成り立っています。日本のコンビニではなんでもそろうが、何も見えません。こういう今の都市生活ははたして何か。

それで、私は、都市に疑問を持ちました。都市は自分のよって立つ基盤が見えないように設計しています。都市はなぜか、自分の上にベールをかぶせ、自分の生きる基盤である環境そのものを見えなくさせてしまう。やっぱり都市はくせ者だと思っています。都市人口はもう圧倒的に増えていくわけです。今、世界人口の57%ですが、2030年で67%、2050年では、恐らく80%以上となるかもしれない。都市をまずいと言いながら、都市が拡大していくということをどう考えるか。

1960年までの資本主義経済以前は自立的農村社会という自給自足の時代。次の1960年から1980年、これは都市化の時代です。私はまさに都市化の時代に横浜市で仕事を始めました。その後の1980年から2000年までが、国際化の時代です。私は、1979年に国連の職員になる。それで2001年、グローバリゼーションの時代にはもう、ここ八郷村に引っ越してきました。私は時代がどうなっていくかということが気になっていました。自慢話みたいになってしまいますが、必ず一歩前に動いていました。時代が動いているから、ここに来ました。だから、ここに隠居に来たわけではありません。

岩崎氏による戦後史把握(佐藤撮影)

どうしてここに来たかというと、私は日本国際ボランティアセンター(JVC)とは別に、市民フォーラム2001という100名以上の環境問題活動家が集まった環境団体を作り活動していました。そのときには例えば、辻元清美とか、飯田哲也、田中優、いっぱい活動家がいました。皆30歳前後で、若かった。ところが、2001年になっても、やっぱり地球環境問題はよくなりません。1992年のブラジルの地球サミットの翌年1993年に、「市民フォーラム2001」を作り、活動が開始され、8年間、2001年までやりました。2001年、つまり来世紀を目指して頑張ろうという団体でしたが、2001年になっても一向に状況はよくならないので、今度は「市民フォーラム3001作ろうぜ」と言ったのですが、あまり人は集まりませんでした。つまり、1000年やらないと何も解決できないと思ったのです。

1000年私が生きるとしたら、東京でふらふらしていたら、やっぱり参ってしまう。だから、自給自足的に、どのような世の中になっても、生き延びられるように2001年、私が64歳の時に1000年のうちの最初の20年間かけて、自給自足の基地を作ろうと思ったのです。その2020年までには、あともう1年しかないんです。84歳までと思っているのですが、今、82歳だから、あと2年しかありません。84歳になったら、もう一回東京に行って、活動を復活させようかなというふうに、一応、予定はしているのですが・・・・・・。

再び生い立ちについて

S:ありがとうございました。生い立ちから、これまでの歩みをお話しいただきました。

大学時代のことや、卒業後にガーナに渡られて、そしてアジアに行ってというご経験の中で、だんだん、都市への懐疑というようなモチーフが生まれ、現在に至るという流れをお話しいただきました。ここからは詳しく、生い立ちから、お話しいただいたライフストーリーの行間を埋めるというところで、お話を聞かせていただければと思います。

まず、生い立ちについてですが、1937年生まれということですね。

岩崎:そうです。

S:お父さまの岩崎徹太(1905–1980)さんは、(東京の)本所の生まれということでした。駿介さんがお生まれになった時代は、徹太さんの追悼文集(『追想 岩崎徹太』)を拝見すると、(神奈川県の)鵠沼にお住まいになっていたということですが。

岩崎:そう。私は三田の生まれだというふうに聞いていて、慶應義塾大学の前で古本屋をやっていて、兄貴もいます。三田から赤羽橋のほうに寄った、大きな病院、何という病院か忘れましたが、そこで生まれたというふうに聞いています。

最初は三田に住んでいたように思います。その後、鵠沼に引っ越しました。それが、何年に引っ越したか、分かりません。しかし、親父が牢に入っているときは、おふくろが藤沢からいろいろ差し入れとか大変だったという話は聞きました。小学校2年まで鵠沼に住んでいました。小学校は湘南学園といいます。活発な学校です。

N:鵠沼の方々が作った、私立の小学校です。

岩崎:親父は牢へ入っていましたが、転向すると宣言をすれば出られました。当時の親父の写真を見ると痩せこけていました。

終戦のときは、私は栃木県にいたと思います。8月の15日にはね。というのは、親父の考えだと、相模湾に米軍が上陸してくるので鵠沼は危ない。だから、栃木県の鹿沼の山の上の小屋のような、別荘で建ったのか、とにかく小屋に家族全員で引っ越しました。おふくろの兄弟の家族なども来て、狭い家ですが、親族がたくさん終戦までいたと思います。

S:ご記憶にある戦争経験はありますか。

岩崎:戦争経験。私は小学生で、栃木県には1年前後しかいなかったのですが、覚えているのは、栃木の家は山の上で、相当遠望がきく高い所でした。向こうのほうに鉄砲の破裂した雲みたいなものがあるというのが、実際、見たか見ないかは覚えてないのですが、長くそういうイメージが頭の中にある程度です。実際に焼けたとか、そういう体験はありません。

岩崎駿介氏(佐藤撮影)

それで、終戦になったために東京の世田谷区東玉川に引っ越しました。清明学園といって雪が谷大塚にあった学校に兄弟3人で入りました。ところが、終戦後も朝礼で天皇礼拝をやっていたので、親父に即刻、辞めさせられました。その後、近くの奥沢小学校に入りました。小学校3年か、4年ぐらいだと思います。少年時代は東玉川という、奥沢と雪が谷大塚のちょうど中間辺りの住宅地で育ったわけです。

H:東玉川へ引っ越してきた理由は、もともと土地を持っていたということでしょうか。

岩崎:土地を持っていたわけではないと思います。私たちがそこに着いたときは、もうすでに住宅地で空き地は一つもないぐらいでしたからね。何の縁故もありませんが、不動産屋などを通して購入したのではないでしょうか。

H:戦後、直後ですよね。1946年に東玉川には家がいっぱい建っていたわけですね。空襲で焼かれていなかったということなのでしょうか。

岩崎:焼けていなかったですね。

N:お父さまが牢を出られたのはいつでしょうか?

岩崎:いや、それは分かりません。終戦直後まで牢へいたとは思えません。

S:1937年に駿介さんがお生まれですが、徹太さんは、(追悼文集によれば)1943年に治安維持法違反で検挙されて、三田署に勾留されています。2月から10月まで勾留されて、その後、釈放されています。明けた1944年の2月に栃木の鹿沼に疎開されています。

岩崎:(父は)勾留中に盲腸を患ったんです。十分な手当てを受けられなかった。70歳で死んだのは肝臓が死因でしたが、盲腸が原因なんです。割と若くして死んでしまいました。

N:お父さまの職場に行った記憶などはないのでしょうか。

岩崎:小学校上級生になってからは、しょっちゅう行っていました。戦後、本屋の仕事は神保町で再開しました。そのときにおふくろも、勤め出したので、小学生だからというので、しょっちゅうおふくろの所へ、職場に行っていました。神保町の1の65という、三省堂のそばです。行けば、必ず飯を食わしてもらったりしました。

親父、おふくろにはとにかく「本は好きなだけ買え」と言われました。栗田書店という問屋があります。

H:取次でしたね。

岩崎:取次。栗田書店の親父さんと、私の親父は仲が良くて、「栗田書店に行って、何でも持って来ていい」と言われました。「岩崎書店の付けにしていい」と言っていましたから。本だけはたくさん。

ところが正直、(現在)私は、ほとんど本は読まないのです。さっき言ったように、ビジュアル・コミュニケーションしていて、本を読むのが面倒くさくてしょうがないんです。まどろっこしい。記憶も全部、物語とかいろんな関係性を、絵に描いて記憶してしまいます。絵を通して思い出すというか、頭を整理しているので、文字を読むのが時間の無駄というか、まどろっこしくてしょうがないのです。

女房は、ものすごく本を読みます。だから、教えてもらったりすることが多いんです。そういう意味で、本屋ではあるけど本は読まないという感じでした。

S:中学校、高校は、もう新制の時代になるんですね。

岩崎:そうですね。小学校は奥沢小学校ですが、できたほうでした。親父が慶應義塾大学の前でやっていたせいか、中学から、兄貴も慶應、私も慶應、弟も慶應でした。池上線と山手線で田町駅まで行って、そこから歩いて、慶應義塾大学の裏に中等部がありますが、そこに3年間いて、それから高校も行きました。中学では勉強ばかり好きなやつが多いので、私は、成績は上から3分の1くらいで、さして目立つわけではなかったです。

兄貴は勉強を一生懸命やっていたので慶應義塾大学の医学部に行きました。私は慶應に建築がなかったので、「しょうがねえや」と思って、早稲田を受けようとしました。慶應高校はマンモス校で、A組からR組まで1学年が18クラスありました。だから1学年900人、3学年で2,700人もいるんです。友達は皆、運動は好きでやっていましたが、勉強はしません。なぜなら、勉強しなくても無試験で大学に行けるから。私も、高校で勉強したことはありませんでした。

H:建築を目指そうと思ったのはどうしてでしょうか?

岩崎:それは親父が、「おまえ、建築がいい」と言っていたので、そんなもんかなと思ったのです。

H:「建築をやれ」と?

岩崎:いや、そういうふうには言いませんが、建築が向いているとは言われました。ただ、あんまり強く言われたことはありませんでした。だけど、そうかと思って、建築を受けようと思いました。ところが、受験に向けてそういうコースを歩いてきていないので、友達もいるわけではないでしょう。900人いて、慶應を辞めたのは私1人ぐらいです。その前後にはいるでしょうがね。だから受験は苦労しました。正直、3年も浪人しました。

最初、早稲田を受けようと思いましたが、そのときちょうど、世田谷の東玉川の家を改修していて、大工さんが来ていて、建築が好きなせいもあるのでしょうが、面白いから大工さんの仕事を見ていました。そしたら兄貴が起きてきて、「おまえ、きょう早稲田の試験日じゃねえか」と言われたんです。忘れてしまっていたんですね。それでタクシーで早稲田まで行きました。受験会場に入って行ったら、「なぜ遅れたんだ」と言うから、当時(コメディアンのトニー谷の)「家庭の事情」という言葉が流行っていて、「家庭の事情で遅れました」と言ったら、みんなに笑われたりして。何科目も受けなければならないので、「もうこれじゃ受かんないな」と思って、途中で出てきてしまいました。それが浪人の始まりです。

落第することなく、高校は卒業して、2年目は東大を受けました。1次は受かりましたが、2次は落ちました。3回目は東大をもう一回、受けようと準備していましたが、受験間際になって、藝大というのがあることに気が付きました。学科は受かったのですが、絵で落ちてしまいました。それで、3年浪人して、今度は絵も勉強して、藝大に入ったというわけです。私たちの学年は、12人の学生がいて、4浪が1人、3浪は3人いて。現役は2人しかいませんでした。

H:建築科でもそうですか。絵画のほうは、それが普通のようですが。

岩崎:建築でもそうでした。

N:早稲田を受けたり、東大を受けたり、あるいは藝大を受けるときに、どういう先生がいるということは理解していたのですか。それとも、どういう建築家に師事しようとか、そういうことは関係なかったのでしょうか。

岩崎:そういうことは考えませんでした。藝大に入ってみたら、そういうことを考えている人がいるので、驚いた記憶があります。(私の場合は)単純に作るのが好きだったんだと思います。

S:お父さまが「建築が向いているんじゃないか」とおっしゃっていたということですが、お父さまは、書店を経営される前に、逓信省の経理局で建築関係の仕事をやってらっしゃったと思いますが。

岩崎:関係ないと思います。親父は、とにかく不器用。絵は描けないし、徹底した不器用ですよ。だけど、おふくろがビジュアルというか、視覚的な能力を持っていたと思います。兄貴も弟も、絵は全然できません。私しかできません。

H:3人兄弟ですか。

岩崎:そうです。

H:お父さんは、岩崎書店を継がせようとは思われなかったのでしょうか。

岩崎:思わなかったんですね。好きなようにやれということです。親父の後2代、社員だった人が社長になりましたが、お袋がアメリカにいた弟を呼んで、社長をやれと言いました。そういう意味で結局、親父から見れば一番下の息子が継いではいますが、親父自身としてはやれとは言いませんでした。

H:兄弟、誰にも言っていなかったということでしょうか。

岩崎:誰にも言っていませんでした。

H:お父さまから、社会や国家というものについて、よく話を聞いたりしましたか。

岩崎:いや、親父が言っていたのは「俺は、こうした、ああした」というエピソードばかりです。論理立てて説明を受けたことは一回もないと思います。

H:今の岩崎さんの思想形成の原点がご両親、お父さまにあったという感じではないわけですね。

岩崎:結局、下町育ちが原因していると思います。親父は8歳のときに父親を亡くしています。親父には兄貴がたくさんいて、2番目らしいです。妹もいたらしいのですが。

親父の父親は、これもはっきり分かりませんが、埼玉から出てきたという話を祖母から聞いたように思います。しま模様の浴衣のデザインをして、もうけたんです。その祖父はだから、四十幾つで、親父が8歳の時に死んだのですが、家作をいっぱい持っていました。だから、父が死んでも親父は十分生活できたんです。兄貴が慶應に行くとか、本人も早稲田に行くわけです。

親父がよく言っていたのは、自分がその家作の家賃を取りに行くときに、貧しい人をいっぱい見るというわけです。それで悩んでいたというか、気になったというようなことを話してくれた記憶があります。

S:そういう意味では、体系だって教えられたわけではないが、生活の中で影響を受けたということでしょうか。

岩崎:私は、人々に尽くすというか、ちょっときざな言い方になってしまいますが、人と連帯して生きるということが、その場、その場で歩んできたときに大きな基準になったと思います。自分だけ良ければという気はない。だから、ここに来たのも、自分だけの別荘という意味ではなくて、田舎に住むということを含めた考え方です。自分だけという意識はなかったということは、明らかに親父から受け継いだと思います。

東京藝術大学での経験

S:藝大に入ったのが1959年でしょうか。

岩崎:そう、1959年から1963年まで。

S:藝大は4年で済ませたということですね。

岩崎:そう。学生運動ばっかりやっていました。

S:1959年ですから、その年の後半ぐらいには60年安保の問題が盛り上がっています。

岩崎:そうですね。1960年は藝大の2年生でした。学校行くのは授業行くより自治会室に行っていた感じでした。

N:高校時代まではあまり興味がないというお話でしたが。どこで目覚めたのでしょうか。

岩崎:自治会委員長になって、相当、社会問題を気にはしていたんですね。藝大新聞に結構長い論文を書きました。いずれにしても、60年安保の後だったか、前だったか、どこで目覚めたか、よく分かりません。なぜ自分がそんなに、例えば国家にはすり寄らないで、地方自治に、というのが、どこでどうなって、そうなったのかは分かりませんが、親父の影響以外、ちょっと考えられないですね。

S:藝大の自治会というのは、芸術学部の自治会の委員長をやられていたんですか。それとも、藝大全体でしょうか。

岩崎: 芸術学部というか、音校と美校がありますが、音校はさすがに、あんまりデモとか活発でないんですよね。だから、われわれが美校のほうで組織して、音校からも何人か参加するというスタイルでした。藝大自治会と言っていましたが、活動しているのはみんな美校のやつでした。

2年のときに、1級か2級上かも知れませんが、油絵の秋野亥左牟(1935–2011)さんという、有名な絵本作家になった方が委員長をやっていましたが、「俺はもう辞めるから、あんたやってくれ」と言われたんです。やり始めたときは、まだよく分からない部分がありました。そのとき、学校側の補導委員といって、デモや学生の自治会に対応する担当教員が平山郁夫(日本画家 1930–2009)でした。あのときはいい先輩というか、まだ若かったです。

N:自治会の委員長は、2年生でなるのでしょうか、その後、3年間務められたのでしょうか それとも、1年間でしょうか。

岩崎: 1年か2年か、ちょっと忘れたけど、4年までやっているわけではありません。浅野義生君が次やりましたから。その次は、岩村和朗君といいました。だから委員長は1年で辞めているのかもしれないな。岩村氏は、有名な絵本作家で、「ねずみの何とか」(「14ひきのねずみ」)というシリーズの絵本を書き、自分の記念館まで作っています。

H:いわむらかずおさんでしょうか? 建築家の野沢正光さんが建物を設計したいわむらかずお絵本の丘美術館(2003)ですよね。

岩崎:ああ、そうです。野沢さんが設計していますね。栃木県(那須郡那珂川町)のほうなんですが。

いよいよ卒業だということになって、あまりにも学生運動やっていて勉強しないので、親父に「1年留年していいかな」と言ったら、「もう、いいかげんにしろ」って言われました。

H:入る前に3浪してますもんね。学部時代に同期はどんな人たちがいましたか?

岩崎:同期で私が一番、敬意を表しているのは山田荘彦といいます。

同級生といっても12人しかいないので、彼はやっぱり一番のライバルでした。あとは土岐新というのは、雑誌に出ているかもしれない。板垣は、吉田五十八(1894–1974)の所にいたやつですが・・・・・・。

H:板垣元彬さんですね。

岩崎:そうです。あと、酒井建二というのが、都市計画のほうかな。1年先輩には、永橋為成、山本厚生。下には、1年下に益子(義弘)がいます。

S:学生時代は、学生運動がメインだったという話ですが、勉強のほうはいかがでしたか。いろんな先生、いらっしゃったわけですけど。吉村順三さんに学んだということですが。

岩崎:吉村順三は、いいおっさんだとは思っていますが、単純に言うと好きではない。どうしてかというと、まず、私が学生のとき、四国高松の栗林公園にある掬月亭を学生に実測させてくれたんです。彼が、そのときの香川県知事と仲良くてさ。それは、私にとってとても勉強になったので、吉村先生に感謝しています。

栗林公園の掬月亭(佐藤撮影)

H:金子正則(1907–1996)さんですか。

岩崎:そうです。知事だから、学生にいっぱいごちそうしてくれたりして、非常に良い先生で教員と生徒という立場を越えて人間的に接してくれたと思います。彼はやっぱり、下町育ちなので人情に篤いのです(東京本所の生まれ)。

ところがね、卒業設計では社会的な問題でやっぱりすごい悩んでいて、住宅団地を設計しました。秋山東一を知っていますか? 秋山東一は私が卒業のとき1年で、(卒業設計を)手伝ってくれました。それは藝大の慣習なんです。

藝大生は美術館とか博物館とかを設計し、微に入り細に入り、空間に凝るようなことをしているでしょう。私はそういうことをしませんでした。どういうふうに、何を設計してということを非常に悩んでいました。吉村順三のほうから見ると、「この学生、何を考えてんのかな」と思うわけなんです。全然藝大らしくはないから。それで、卒業設計の発表でも、「しょうがないね、君」、「でも、落第させるのも気の毒だから、総合評価が「D」でよけりゃいいよ」と言われました。

ちょっと話がずれて申し訳ないのですが、ハーバード大学大学院にアプライしたら、「学生時代の成績出せ」と言うんです。これには驚きました。成績表は失くしてしまっていました。それで藝大に「卒業証書、欲しいんですけど」と頼みに行ったら「今までかつて、2枚卒業証書を出した経験はない」と断られましたが、親切な職員で、すぐ返してくれるんだったらと言って、「1日だけ、あんたの名前書いて、渡して写真撮れ」と。それをハーバート大学に提出しましたが、吉村順三が採点した成績が悪いので合格しないと思い、英文を付けて「この教師が俺の能力を見る力がなかったからDになってしまったけど、俺はできるんだ」と言いました。それで、一発でハーバードに合格しました。

H:入学されたときは、まだ吉村さんではなくて、吉田五十八ではなかったですか。

岩崎:両方いました。それから、岡田捷五郎(1894–1976)、山本学治(1923–1977)。それから、西洋史を教えていた蔵田(周忠 1895–1966)と言ったかな。だけど、吉田五十八とか岡田さんは、吉村順三より先輩で同じ教授なんですが、講評会では吉田五十八は後ろのほうに座ってただ見ているだけという感じです。

陣頭指揮を執っていたのは、吉村順三がやっぱり中心だ。それから、吉村さんの所で働き藝大の先生になった奥村昭雄(1928–2010)さん。私は長く会ったことなかった。ここ石岡に引っ越して来て最近、初めて奥村さんに会った。

S:奥村さんは1952年から1956年まで研究員をやられて、その後、1964年に助教授となっていますね。ちょうどいらっしゃらなかった。

H:吉田五十八さんは、あまり印象はないですか?

岩崎:私の印象は、いすの脚が竹でできている。ところが、中に鉄筋が入ってるという。そういう人だなと思って。

H:それ、かなり言い得て妙です。

岩崎:岡田さんは、人がいいばかりで何を言っていたか、さっぱり記憶がない。蔵田周忠さんについて覚えているのは、西洋史ですが、「先生の話、つまんないですよ」と言って、それで「僕にやらせてください」って言ったんです。それで、西洋の広場、イタリアのサンマルコ広場などのスライドをいっぱい集めてきて、私が西洋史の授業やりました。蔵田さんが、「よく勉強したね、君」って、褒めてくれました。

N:そういうやり方があるんですね。

岩崎:山本学治さんは私のことをえらい心配してくれました。ハーバードを受けるとき、やっぱり学校の先生の推薦状が要るから、山本学治さんに頼みました。非常に親切にしてくれました。

N:学生時代に藝大の先生以外の先生、あるいは同期の、藝大以外の学生仲間とかはいらっしゃいましたか。

岩崎:学生運動をやったからというわけではなくて、藝大の学生はあの当時、東大の卒業設計を手伝うという慣習がありました。それで、東大のやつはいっぱい知っていますよ。私は、土田旭の設計を手伝いました。ニュータウンを設計しました。でも私から見ると「絵が描けねえな」という感じで、東大生には、頭ばっかり、論理ばっかり先行して、感情がどうなっているのということを感じたな。中にはいいのもいるんだろうけど。

N:学生時代からでも、そういう付き合いがあった。

岩崎:そういう感じです。みんな私とほとんど同年代で、東北大学出た大村虔一(1938–2014)。それから、早稲田のやつはよく知っています。現代計画研究所の藤本昌也などたくさんです。

横浜市時代に、横浜市としての施主として数多くの建築家と付き合いました。一番典型的だったのは、金沢地先の団地(金沢シーサイドタウン)を計画したときです。大きな敷地でしたが、歩行者の専用道を造って、4人の建築家に設計させました。1人は、神谷宏治(1928–2014)。それから、内井昭蔵(1933–2002)、藤本昌也と、あと宮脇檀(1936–1998)。宮脇檀は、藝大の先輩です。

H:宮脇さんとは一つ違いぐらいですよね。

岩崎:そう。だけど、私は浪人していますので、私が入ったときにはもういなかった。設計に参加した1人は藤本昌也でした。一番印象に残っているのは、神谷宏治なんです。彼の設計がどうという以上に、あの人はすごく優しい人でした。おまけによく聞いてみると、やっぱり浅草のほうの下町育ちなんです。だから、丹下健三の事務所でやってたわけですが、そういう外見とは違いました。だから、4、5年前まで、死ぬまで結構付き合っていました。

S:60年安保のときですと、学生ではありませんが、事務所員懇談会とか、民主主義を守る建築会議などが活動していたと思いますが、記憶にありますか。

岩崎:いや、そんな記憶はありません。

東京芸術大学卒業からガーナへ渡航するまで

岩崎:私は藝大を出て3年間、山田荘彦と事務所をやっていました。だけど、28歳のときに、ガーナへ行ってしまったので、藝大については、聞かれればしゃべるのですが、ただ、4年間いた、ただ一時期いた学校で、それ以上の関係はないというのが実感なんです。

山田荘彦さんについては、友達として考えた場合、非常に重要な意味を持つと思います。山田は、浦和高校を出て、年齢は私と同じです。3浪して入ってきて、非常に個性がはっきりしていました。私なんかよりずっと大人でしたし、施主を見つけてくるのがうまいんです。広島の河内義就(1913–1987)設計事務所の東京支店というか、本社から給料が出るということになりました。東京原宿の神宮マンションの4階にありました。5階には浅田孝(1921–1990)の浅田事務所の分室がありました。そこに田村明さんが来ていたんです。だから大学出てすぐ田村さんを知っていました。

H: 2人でいきなり事務所を始めたのではなくて、広島の河内事務所の分室ということで・・・・・・。

岩崎:そうです。

H:一級建築士事務所の資格は、本社が持っているという前提ですか。

岩崎:資格というより給料ですね。河内設計は、広島では電電公社(現NTT)の建物とか手広くやっていたわけです。さして味気ない建物をいっぱい受けてやっていました。彼らのほうから、広島工業大学の基本設計とか、大きな仕事がどんどん来るんです。

N:それを東京でやるんですか。

岩崎:東京でやりました。私と山田が同級生だし、張り合うわけです。また下級生なども手伝いに来て。彼は相当、能力がありました。デザイン能力もありました。彼と2年ぐらいやっていたと思います。

私は大学を卒業するとき、学生運動ばかりやっていましたから、親父にもう1年と言ったのですが、駄目だと言われました。ではどうしようかと思ったら、藝大に1枚だけ求人広告の張り紙がありました。見たら、藝大の先輩で橋本(嘉夫)という私より相当先輩で、青山にある大きなスーパーマーケット、紀ノ国屋の設計などをやっていました。銀座に事務所があったのですが、そこにまず入りました。6カ月ぐらいたったら、山田が「今、パトロン見つけたから、一緒にやろうぜ」と言ってくれたので始めたわけです。辞めるとき、橋本さんが怒っていましたよ。東大の龍岡門の前の水野薬局の設計を担当していました。

N:今もありますね。

岩崎:橋本設計を辞めて、山田とやっていましたが、いろいろ考えることがあり、アフリカに行くと彼に言い、ガーナに大学教員として渡航しました。

山田がどうなったか知らなかったのですが、彼はジャパン・シティー・プランニングという会社をつくり、パトロンとして、イラクの(サダム・)フセインを見つけてきました。バグダッド市の都市計画をやったんです。そのときは、すごく大きなプロジェクトだから、自分が知っている建築家をたくさん使っていました。ところが、フセインが失脚したときに、壊滅的に打撃を受けたんです。

1990年頃から30年間元気がなかったのですが、30年ぶりにバグダッド市から招待があって、もう一回、何とかならないかというので視察に行ったんだそうです。それで元気になったらしいです。その彼と、2年前後、設計を張り合ったわけです。

港北ニュータウンのセンター地区を設計するとき、東大の3人グループで案ができていたのですが、田村さんとしては、横浜市内の開発を、何も住宅公団に設計させることはないという強い思いがあり、「岩崎君、やれ」と言うんです。田村さんは公団の川手昭二さんよりも先輩です。田村さんから「センター地区を設計してくれ」と言われたときに、山田の所に行って、「一緒にやろう、手伝ってくれ」と言いました。ところが、そのとき山田の事務所の現状を見て、彼らは少し忙し過ぎると思い、1週間ぐらいいて引き上げてしまいました。それで、横浜市の一室を借りて、港北ニュータウンのセンター地区の設計を私たち自身でやりました。そのとき、現代計画の藤本さんに助けを求めたら、西脇(敏夫)さんを派遣してくれました。西脇さんはその後横浜市の職員になりました。そういう意味で友達という意味では山田が一番大きかったな。

ガーナでの経験

S:自ら、ガーナ大使館に働き掛けてポストを得たということで、またエンクルマ大統領の影響でということでしたが、アジア、アフリカの問題にもご関心があったということなんでしょうか。

岩崎:いや、特に造詣が深かったわけではありません。エンクルマの本が翻訳されて、出ていました(『わが祖国への自伝』理論社、1960年、『アフリカは統一する』理論社、1964年)。それを読んで、そういう国があるということを知りました。独立して間もなく、10年ぐらいたって、国づくりに燃えているという印象が漠然とありました。そこで1個の建築から国土全体の開発がどうつながっているか、構成されているのかを見たいということでした。

外国行く金なんかもちろんないし、いきなり大使館に行ってみました。そしたら、飛行機代も出してくれ、破格の待遇で行けたわけです。ガーナはアクラで野口英世(医師 1876–1928)が黄熱病で死んだ。それぐらいの知識で、行く前に様子を聞いても、行った人がいないから誰も知らないんです。だから行くときは、製図道具の長いT定規を持って、女房と飛行機に乗って行ったのですが、女房のおじさんが医者なので、何があるか分からないからと抗生物質をいっぱい持たされました。ガーナの空港に着いたら馬小屋みたいな宿舎で、未知な国というか、想像もできなかった国に行き、そのようなことを経験しました。

ガーナに着いて、海沿いの首都アクラの国際空港から200kmぐらい飛行機に乗り、ガーナ第2の都市で一番古い町といわれるクマシに行きました。タクシーで大学に行くと、事務局長がいきなり英語でしゃべり出すので、結構、度胸がいったと思います。そのときくれたのはまず金でした。驚いてしまいました。それと案内された宿舎がちゃんとしたもので、立派な待遇でした。特に2軒目の宿舎は、1000坪の土地に、60~70坪の、フランク・ロイド・ライト(1867–1959)が設計したように大きなひさしで、ベランダがあったりね。

N:そこにお2人で住む。すごいですね。

岩崎:大学の宿舎は、普通は大学のキャンパス内にありますが、私は、とてもその建物がきれいだから、大学から離れているそこを希望しました。その住居は、普通の集落のある、クマシの郊外にありました。だから夜になると、近所の太鼓が聞こえてきます。異質な空間というか、日本で想像もつかないような空間体験でした。

船で別送して車を持っていったのですが、休みのときには、ガーナ中といったら極端ですが、女房と2人で旅しました。特徴的なのは、高低差がなく、何百Km走ろうと、ずっと平らなんですよ。海岸沿いの地形風土と、ジャングルとサバンナという地域と、それから砂漠へと、だんだん乾燥していきます。ガーナの面積の主要な部分を占めているのが、ジャングル、熱帯雨林で、30~40mの高い木が乱立しています。おまけに平らだと、一生、自分の住んでいるところを裏山に登って見返すということができない。

すごく驚きました。ジャングルだからどっちを向いても遠目が利かないわけなんです。井戸の中に住んでいるとでもいうのでしょうか。そこで一生過ごしていると、生きているという実感を得るために、地面をたたく、つまり太鼓をたたくという行為が必然的に生まれてくるなと思いました。人間は、自分の生存、自分が生きているということを、何かにぶつけて、確認したいわけです。

それは、最初は分からなかった。毎晩のように音が聞こえてきて、祭りというほど大げさではなく、日常としてやっているわけですが、なぜあんなに毎晩、たたいているのかと思うと、やっぱり、彼らなりに生きているという、そういう意味の、空間の異体験がすごく強かった。

西洋文明の個人主義を始め、資本主義経済システムそのものも、西洋の持っている地形風土から、原則的に導き出されたというふうに私は思っていて、単純に言えば、西欧の気候風土は厳しかったんですよ。西洋に生きるというとき、気候風土が貧しいから、土壌が貧しいし、雨が少ない。ヒマラヤという山が、気候的に東西を分けている。従って、ヒマラヤの向こう側が西洋文明を生み出したわけですが、いずれにしても、ガーナでは、そういうことを感じたということで、ものすごく大きな意味がありました。

S:きっかけはエンクルマ大統領の著作だったわけですが、1966年で、クーデターでエンクルマは失脚しています。しかし、ガーナで経験したことが、とても意味があったということでしょうか。

岩崎:もちろん。私は大使館で、「あなたの所の住宅公団で働きたい」と言ったんです。そしたら「住宅公団なんかありません、大学の講師だったらありますよ」と紹介してくれました。おっしゃるようにエンクルマは中国に行っている間に失脚し、もう着いたときは軍事政権になっていたわけです。

ガーナの民家は、彼らが未開だなんて言いますが、住んでいる家は、実に素晴らしい。とにかく、丸く、丸く造るわけなんです。それで、塀の中に1羽入るニワトリ小屋があります。生活のイメージで、粘土をこねて、どんどん、彫刻的に造っていっちゃうというようなイメージです。

ガーナの民家(いずれも岩崎氏提供)

それからロビ族の家というのがあります。ガーナとオートボルタ(現ブルキナファソ)と、あと象牙海岸の中間辺りの部族は、家の中に入るために梯子を設けて、屋根を歩いて中に入ります。知らなかったのですが、通り掛かりで「なんか珍しい形の家があるな」と思って、実際に見せてもらいました。なぜその家は入り口を持たないのか。一つは動物のこともあると言われていますが、それ以上に、フランスによる植民地であったときに、その部族は非常に戦闘的で、フランス政府に対抗するために入り口を作らなかったというんです。家の形が気候風土以上に、社会的な条件によって、不便でゆがんでいるんです。そういう経験も、ガーナで得ました。

S:ガーナの大学ではどのようなことを教えられたのでしょうか。

岩崎:ガーナでは、担任制だったので、課題を出すわけです。彼らは、伝統的な空間体系を持っているんです。ガーナ以外の学生もいたけど、やはり裕福な学生だったと思います。近代というものに対して、例えば丹下健三の国立代々木競技場(1964)のような曲線の建物なんか、みんな好きなんです。女房は藝大で、私なんかよりもデッサンがうまかったので、学生の為に特別にデッサン教室を開きました。石こうでできたブルータスの彫像を、ガーナ人に描かせたわけですが、「あれはどうなんだ」とかと妻に言いました。文化の錯綜というのでしょうか。でも、西洋文化は一応いいとされているわけだから、教育方針も原則的にそれに沿っていました。

岩崎:イギリスのAAという学校(Architectural Association School of Architecture)があるでしょう。ガーナの大学は、AAのスタッフが中心で動かしていました。学部長はそこの先生だったのではないでしょうか。イギリス人が中心に動いていたということがあるから、ガーナも植民地だった。

私が教えていたんじゃないのですが、ある絵の先生が、ロールシャッハ法というらしいのですが、絵の具をパタッと落として、二つに折って、広げるんです。それを見て、もう一回絵を描けと。それは建築科の学生じゃないのですが、だんだん、自分に眠っている深層心理みたいなのが、画面に表れてきます。それを見て驚きました。そういうプロセスで、すごく印象に残っているのは、怪獣みたいなものが出てくるんです。われわれの近代の価値概念とは全く関係ない、かけ離れた、彼らの心底が絵に表れてきたという意味で、彼らの価値体系をどうすべきだったのか。丹下健三を学生が憧れるということはどういうことかとか、もう少し真剣に考えて、やらなければいけなかったかもしれませんが、2年間いたわけですが、精神的にそれだけの余裕がなく、私も目いっぱい、精いっぱいでした。

学部長から、私が設計能力はあるとみなされました。ガーナ大学で「教員宿舎の設計をしろ」と言われ、それで一生懸命、模型を作ったりしました。後に一回、ガーナに行ったのですが、建っていました。

同僚の教員、7、8人と、休みにドライブして、いろいろ見ようということで、ボルタ川をダムでせき止めたボルタレイクに行ったことがありました。そこに着いたら、フェリーボートが需要に対して少ないから、みんな順番に乗るために何日も待っていました。ニワトリを積んだトラックは、餌はどうしているんだ、死んじゃったとか、そういうような社会です。私たちが着いたら、英語が母国語のイギリス人が、幹事役をやっていてすぐにフェリーボートの船長と話を付けて、「おい、次の船で行こう」と言うんです。こんなに並んでいるのに、次の船に乗せてくれると。多分、彼が金を何倍か払ったのでしょう。そういう、あからさまな差別に驚きました。自分が差別するほうなわけですが、そういうことがまかり通っている、そういう世の中があるんだというのは、やっぱり印象深かった。

N:日本人の、西洋人でもなく、現地人でもないという、そういう特殊なポジションというか、人種に対する印象はどうでしたか。

岩崎:ガーナの町の人はあまり東洋人を見たことないんです。だから、チャイニーズと言うんです。それで、これは見事な笑い話なんですが、「僕は中国人じゃない」、「日本人だ」と言うと、「日本人と中国人は、何が違うんだ」と言うので、「あんたはガーナ人だ。でも、隣の国にはナイジェリア人がいるでしょう。ナイジェリア人とガーナ人が違うように、われわれ日本人は、中国人とも違うんだ」と。そしたら彼らが、「We are all African」と言ったんです。これは驚いた。中国人と(日本人は)今、けんかしているけれど、「We are All Asian」、アジア人だから、けんかする必要はないんだという。

それからよく言われたのは、料理人を雇う習慣になっているので、その黒人の男のコックが、「日本には太陽はあるのか」と言うんです。自分たちが真っ黒なのに、あんたたち、そうじゃないと。彼は普通のおっさんだから、ほとんど知らないんです。でも見たところ、「われわれみたいに黒くなんないのかな」と思ったんでしょう。「太陽あるのか」と質問されたのには、驚きました。

N:日本を背負っているという感覚はなかったんですか。

岩崎:われながら、あって驚きました。アクラで国際博覧会が開かれて、日本が出展していたので、見に行ったら、まあ、貧相な展示でした。それで憤慨してしまいました。無意識なんですが、日本で育って、いつの間にか日本を心配しているという、私も日本人だったんです。だけど、その感覚はもう薄れてしまいました。

その話と関連して、ハーバードの学生だったときに驚いた経験は、あるとき、製図かなにかを一生懸命していたときに、同級生に「明日、野球やるんだけどやらない?」と言われたのですが、私は「みんなは参加すんの?」と聞いてしまったのです。そしたら、彼はアメリカ人なんですが、「えっ」というような顔をして、「みんなはどうだっていいだろう。あんたが参加したいのか、参加しないのかって聞いてるだけだ」と言うんです。みんなを見て自分の行動を定めるという、典型的な日本人だったんです。

そういう感覚も時代とともにずっと薄れてきました。ましてや、今、日本人だという意識は全くなくなってしまって、女房は、よく海外の悲劇に直面して日本に帰ってくると、飲めや歌えの大騒ぎというか。彼女が「もう日本人、こんなにだらけてんだから、死んじゃったほうがいいわ」と言うほどに、日本人を憎んでいました。私も若干、そういうところが今もあって、世界のスタンダードというか、いろんな国を比べると、いろんな断面で相当、日本人は精神がたるんでいます。

そういう意味で、ガーナでの経験とアメリカの経験を通して、文化というのは見知らずまとっていたという感じですね。

米国での経験

H:どうしてガーナから離れようと思ったのでしょうか。

岩崎:それは、世界の果てに来てしまったという思いが強かった。そういう感覚が非常に強かったね。例えば、隣にアメリカ人夫婦が住んでいて、仲良くしていたのですが、米国の(リンドン・)ジョンソン大統領(1908–1973)がどうしたこうしたとか、世界がどう動いているかといって、私もそれなりに気になっていたのかもしれません。新聞はほぼないんです。英字新聞は何日か遅れて来たと思います。世界が動いているのに、すごい田舎へ来てしまった、外れてしまったという意識があったかもしれません。いろんな面白い経験があるけど、ここにいても、しょうがないという思いがありました。

それで、これからどうしようかというときに、都市を勉強したいと思って、同僚にハーバードの卒業生が結構いたので、アメリカの大学はどこを受ければいいかと聞きました。彼はハーバードを出ていて、アメリカ生まれの黒人で、アメリカで育ったのですが、自分の故郷を見てみたいと思って来たらしいんです。

その人に相談したら、都市だったらハーバードだと。ハーバードには都市計画のような学科はいっぱいあるわけだけど、私はアーバンデザインというコースを選びました。ハーバードのアーバンデザインを専攻したのは良かったと思います。アーバンデザインは日本で理解している人はほとんどいないと思いますが、ランドスケープとは意味が違います。シティープランニングとも違うし、建築とも違います。アーバンデザインは1960年代のアメリカで、自動車社会に対する反省として生まれました。

もっと人間的な空間を、という危機感があったんだと思います。ハーバードのアーバンデザイン専攻は1960年前後に設立されています。私は1968年に行くわけです。今、まさに、この日本の都市にとっても、人間的な触れ合いをどうやって回復するかが、最大の問題だと思います。今、子供に「人を見たら逃げなさい」と言っている時代にね。そういう意味で、都市デザインは意味が大きい。

私の理解だと、ランドスケープは王様の美学です。眺めがいいと言って、上から見るという印象が強い。ランドスケープはヨーロッパで発達したんだと思いますが、日本の桂離宮とか、修学院離宮なんか、自然が豊かなんです。それを刈り込み、池でも造れば、きれいな自然を生かしながらという方法です。ところが、ヨーロッパの社会の中で庭園を造るとなると、そういう自然は少ないから、自分で造っちゃうわけです。そのために変な三角形の木とか、つまんない形になってくるわけです。

ハーバードで建築学科ができたのは、日本の明治初年前後です。それから、次にできているのがランドスケープです。その次に出てくるのが都市計画で、最後に1960年にアーバンデザインができるんです。

N:ハーバードに行くときは、アーバンデザインのコースの関係者として、既に槇(文彦)さんだったり、長島(孝一)さんがいて、そういう方には事前に相談はあったんでしょうか。

岩崎:いや、ガーナにいたから、そんなことはあり得ません。日本人は、まして長島君なんか知らないし、槇さんも知りません。横浜市に入る前は、日本の建築家なんか、誰も知らない。同級生の山田荘彦ぐらいしか知りません。ガーナから、そのまま行ったんです。

ハーバードの合格通知が来たときは上の子が生まれそうで、女房は日本に帰って来たんです。それで、私はガーナから日本に帰ってきて、すぐアメリカに行ったんです。息子が生まれてから35日目だったんですが、日本には、ただ1日か2日いて、アメリカに行きました。アメリカで、日本人の同級生は建築科にはヤマシタという人がいました。アメリカでやっているかもしれません。それから、東大の交通工学の先生で、太田勝敏。彼は同級生でした。彼は、シティープランニングだったと思います。

N:太田先生は、ハーバードで都市地域計画の学位を取得したのち、東京大学都市工学科の先生になられます。

岩崎:そういうふうにして、ガーナからアメリカの話になってしまいますが、アメリカに行ったんです。

N:1968年。(ホセ・ルイス・)セルト(1902–1983)が、教育の中心でしたか。

岩崎:スケッチというか製図をやっていると、セルトが来て、「日本の建築家はどうして、サムライ建築なのか」と言うんです。サムライ建築とは、どういう意味か分かりませんが。

N:分からないですね。

H:私たちも分からないです。

S:分からないです。

インタビュー風景(佐藤撮影)

岩崎:想像するに、大上段に振り構えているというか、素直でないというか。具体的には何を意味したかはよく分からないけど、例えば、手すり一つ取っても、太いというのでしょうか。丹下健三の東京計画1960を指して言っている可能性はないわけじゃないかなとは思いました。

やっぱりアーバンデザインの人とは違うんです。日本では、アーバンデザインというと、丹下健三の東京計画1960が出てくるのは、これは実に日本的現象だと思うんですが、もっと庶民的というか、足元を見ろよとセルトは言いたかったんだと思います。サムライ建築には、大上段に振り構えてというか、切腹というイメージがあります。そういう、非人間的な側面というのを感じたということで、私も何とも答えようがないです。

あと、ジャクリーン・ティルウィット(1905–1983)は非常に親切でした。アーバンデザインの担任の先生は、あんまり目立たない。フィラデルフィアの都市計画をやっていたヴィロ・フォン・モルトケ(1911–1987)という方が、アーバンデザインの責任者をやっていました。

N:エドモンド・ベーコン(1910–2005)のお弟子さんのような人ですか。

岩崎:関係はあったと思います。

S:2年間の大学院の課程なわけですよね。どういう内容の教育になるんでしょうか。

岩崎:課題を与えてやるという。

S:課題が出てきて図面にするというようなものでしょうか。

岩崎:課題といっても、設計じゃないんです。建築設計のコースとは違うから。コミュニティーをどう構成するかとか、幼稚園や小学校といった公共施設を町にどうやって配置すべきかというようなのが出ました。

私は修士論文もしっかり書きました。「アーバンデザインモデル」という題目で、都市の構造を、インフラストラクチャーがあって、それにアクティビティー・インフィルと言うのですが、活動がどう張り付くか、量的にはどう関係あるかなど、そのような都市の中の原理、仕組みを研究するという論文を書いたと思います。

アルバイトをしようと思って、ボストン市役所が募集していた、ダウンタウンプロジェクトの要員として、2人の同級生と一緒に参加しました。卒業してからまたしっかり何か月かやって、最後に日本に帰ってくる前は、黒人街の地域開発というか、コミュニティー改善をする、ハウジング・イノベーションという名前のオフィスに勤めていました。

そのとき、町をものすごくよく調べました。1万軒ぐらいを、全部、1戸1戸、用途といろんな状況を書き込んで調査したりということを、一生懸命やっていました。

ハーバードで何を習ったというと、デザインはできると思っていたから、論理的に考えなければならない課題を与えられたという意味で、すごく参考になったと思います。

H:アメリカ以外で、都市計画を勉強しようとは考えなかったんですか。

岩崎:考えてないと思う。ガーナではイギリス人も結構多かったのですが、そこのところは、ちょっと分かりません。

横浜市での経験

S:ガーナに行って、ハーバードから横浜市に行くのは、ほぼ連続しているんですか。半年ぐらい空いているんですか。

岩崎:そう。卒業して半年、1969年11月に日本に帰ってきます。ボストン市役所の様子を見て、都市は市役所がやっているんだと分かったわけです。『朝日ジャーナル』で飛鳥田一雄が座談会をしていて、横浜市のことが書いてありました。即刻、もうフラフラしていてはまずいと思いました。ガーナに行って、アメリカに行って、技術の切り売りではまずいと思いました。

アメリカで都市計画をやると、住宅地一つをとっても、黒人と白人の問題はものすごく大きいわけですよ。黒人が住み始めると白人がみんな逃げていくという。都市計画をやるには、白人と黒人の関係を正確に捉えないとできないというぐらいです。それを契機に、社会と密接に自分の仕事をしないと、あるいは社会のことがよく分かった上で仕事をしないとまずいと思いました。だから、技術を切り売りしていたのではまずい、日本に帰ろうと思いました。飛鳥田一雄がそういうふうに発言しているんだというので、気分的には、すぐ辞めて、早く帰ろうと思いました。帰ってきてすぐ、何の紹介もなく、「市長に会いたいです」と言って横浜市へ訪ねていったわけです。

H:会えたんですね。

岩崎:会わせてくれました。それで、「そうかい、君、アメリカにいたんだ」、何だかんだと言って、「そうか、ぜひ入ってくれ、頑張ってくれ」と励まされたわけです。そのとき、田村さんがいるのは分かったんですが、田村さんを慕って入ったというわけではありません。

田村さんは、長く都立大学前に住んでいました。私が住んでいたのは奥沢だから、渋谷行きの同じバスに乗って神宮マンションにいくんです。その当時、「あの田村というおっさん、ぼけっとして何考えてんのかね」というのが、私たちの評価だったんです。浅田(孝)さんの下で働いていました。ところが、その田村さんが横浜市の企画調整室長でした。「へえ」と思いました。飛鳥田に会いに行ったので、田村さんが横浜市にいるということも知らなかったんです。だけど、入ってみたら田村さんがよくできる人だというのは、よく分かりました。

入江(昭明)さんという庶務を担当している調整課長に会って、「条件を決めなさい」と言われました。「岩崎さんね、ハーバード大学出ても、横浜には無試験では入れません、嘱託だったら入れてやるよ」と言われました。嘱託とは、そのとき意味が分からなくて、顧問とか嘱託とかなんか偉いのかなと思ったわけです。そしたら、「ボーナスは出ないよ」と言われました。日給制とまでは言わないけど、アルバイトだというわけです。でも私は、もうここしかないと思ったから、「いいですよ」と言いました。2年間、みんな以上にいっぱい働いているのに、私だけボーナスがないわけです。だから、皆が心配してくれて、岩崎さんを職員にしてやれという運動が起こって、2年たったら横浜市の職員にしてくれました。正確には9年いたんですが、田村さんを慕って行ったわけではなく、本当に飛鳥田さんを慕って行ったんです。

N:入った後、飛鳥田さんと直接お話しすることはありましたか。

岩崎:それはほとんどない。全くないっていってもいい。やはり市長と応対するのは局長の田村さんです。局長同士が集まったいろんな会議を、市長を中心にやっています。横浜市の職員になったとき、私は係長でした。田村さんとは、もうしょっちゅうやっていたのですが、飛鳥田さんとはやりません。

だけど、1回だけ、市長に呼ばれたことがあります。山下公園の前に関東大震災(1923年)の1年前にレンガで建てられた建築(旧英国七番館)がありました。創価学会がそこの土地を創価学会神奈川県本部として買ったときに、山下公園の前面の街区の指導で、「文化的意義もあるし、創価学会にもふさわしいじゃないですか」というようなこと言って、「この建物(旧英国七番館)を残してくれ」と申し入れました。結局、3分の1くらい残して、後ろは壊してしまいましたが、残してくれました。あの当時、私はセットバックするように言っていたわけです。

そしたら、隣のザ・ホテルヨコハマ(現ホテルモントレ横浜、2020年5月閉館)というホテルは、吉原設計事務所という横浜にある設計事務所で高橋志保彦君が担当していたのですが、海岸線に対して建物の配置を指導しました。ホテルだから、(宿泊客は)海を見たいので海に向かって平行に建てたいと言うのですが、私は「嫌だ、内陸側の建物の人も海を見られるように、あるいは風が抜けたりするため、海岸線に直角に立てるべきだ」と主張しました。高橋志保彦君が相手だったから、いろいろ話が弾んでしまいましたが、ある日、高橋君が、「俺、首になっちゃったよ」と言うんです。役所の意見を聞き過ぎているから、「外されちゃった」と言うんです。

それで結局は、創価学会の建物より前に出る結果になりました。そしたら創価学会の神奈川県本部長が、「池田大作会長が、現場を視察に来られて、「なぜこんなに引っ込んでんだ」と言うんです」と言うんです。「見えないじゃないか」と。あの8階に彼の特別居室を造るといううわさがありましたが、隣があんなに海側に出ていると眺望が遮られて困ると言うのです)。そこで、飛鳥田さんが私を呼んで、「創価学会から、すでに杭を打ったけれど、前に出てもう一回杭を打ち直すから補償してくれと言ってきたんだよ、岩崎君」と言われてしまいました。

田村さんは知っていたかもしれませんが、セットバックは全て私が1人でやったんです。だから、飛鳥田さんは「おまえの所の課長の岩崎というのが、どうもやっとる」と言われたらしいんです。それで私を呼び、彼は怒ったりはしないので、「岩崎君、僕も公明党の票をたくさんもらって市長になっているので、実に困った。何も言えない」と言うんです。

飛鳥田さんは政治的な権威があったから、大きなビルを建てようとするとき、市とあまりけんかしたくないと思うから、私が交渉しても相手側にはとても響くんです。だから、私がしゃべっているだけでも、「後ろが控えているな」という、圧力を感じるんですね。だからやりやすいんですよ。それが自治の精神というか、政治的な権力というか、力だと思うんです。私は、職員としていろいろやっているだけなんですが、その背後に、そういう構造を感じるから。

いずれにしても、そのとき、飛鳥田市長は「まさか出せるはずもないし」と「岩崎君、困ったよ」と言う。しょうがないから、私は国吉(直行)君などと一緒に、山下公園の模型を作って、創価学会神奈川県本部に説明に行きました。「あなたたちは、古い建物を残し、環境を増進させる偉大な貢献をしているのだから、これでいいじゃやないですか」というようなことを、結構図々しく言いました。そうしたら、いまさら法的にも無理だし、立ち消えになりました。飛鳥田市長とのやりとりはそのときぐらいで、あとは全部田村さんとのやりとりでした。

横浜スタジアムを造るときに、田村さんが「岩崎君、造ることになったよ、市長が造りたいって言ってるんだ」と言うんです。市長は広島カープと市民との関係を、すごくうらやましく思っていた。だから、横浜市民も球場をつくり球団をつくるというわけです。

あそこは横浜公園といって、ベーブ・ルース(野球選手 1895–1948)が来たという古い公園なんです。でも私は田村さんに、「野球場を造る場所ではない、保土ヶ谷辺りに造ってくれ」と、断固「嫌だ」と言いました。田村さんは「いや君、市長がそういう意味で造りたいんだから」と困ったような顔して、「分かった、じゃあ君、やらなくていい」といって、私をそのプロジェクトから外してくれました。それで、ずっと見ていただけですが、都市計画上はあそこの貴重な緑を人工物にしてしまうというのは遺恨を残すと思いました。保土ヶ谷辺りに工場跡地がいっぱいあったので野球場なら十分そちらにできるのにと思っていました。そこは市長と意見が違った。だけど、田村さんはその間に立って、私に押し付けたりしないで、私の考えを尊重してくれました。彼は市長に従ってやっていたわけですが、そこはすごくありがたかった。市長との具体的な関係はそのような感じです。

印象的なのは、県や市町村では建築基準法上の問題が起こると、職員は「じゃあ、本省に聞くか」と言うんだよな。建設省のことを本省と言うんだよ。それほど、職員に出先機関意識が染み付いていたんです。そのときに、飛鳥田市長は、「君の好きなようにすればいい」と言ったんです。「国とのトラブルが起こったら、俺が背負うから」と。

私は横浜市を辞めて国連職員の傍らNGO活動をしていたのですが、ある日、飛鳥田の次に市長になった自治省事務次官出身の細郷(道一1915–1990)という人に、横浜市で使い古したバスをベトナムに寄贈してくれと頼みに行きました。「古いバスがいっぱいあるからいいよ」と言うんですが、しばらくたったら、市長が「岩崎君、申し訳ない。外務省が駄目だと言ったから、やめます」と言ってきました。それほど腰抜けなんです。

ところが、相模原の基地から戦車が、横浜の瑞穂ふ頭に行くのに、横浜の橋を通らなければいけないのですが、飛鳥田市長は国がなんと言おうと「この橋は横浜市のもんだから、通っては駄目だ」と言ったんです。そのくらい根性があった。自治というか、横浜の街を良くしようという意味で、国がなんと言おうと、自分は自分なんだという、私がボストンで感じたことを飛鳥田市長は実行していた。自治に対して、それほどの確固たる確信を持っている市長が現れない限り、すぐ妥協するから、アーバンデザインが今後日本に定着するのは無理です。

この八郷もそうだし。福島県の矢祭町といって、やっぱり頑張った佐川正一郎町長が、国交省の補助も打ち切られました。これは余計な話かもしれませんが、普通、市長を何期もやると、名誉市民みたいな国民表彰があるらしいんですが、その町長だけは、何期もやったけど国は表彰しない。それほど、頑張る市長に対していじめるんです。

飛鳥田さんは国会議員でもあったから、国はつぶせなかった。おまけに社会党を背負っていたから、自民党も何とも言いようがない。それだけの政治的な力があったから、飛鳥田さんは突っ張れたんだと思います。

S:それがまた、市民に選出されているということですよね。

岩崎:もちろんそうです。市民に対して、1万人集会とか、市長への手紙とか、市民との接点をどうやってつくろうかとえらい苦労していた立派な市長でした。私が尊敬する人はあまりいないんだけど、飛鳥田さんは心から尊敬しています。

N:最初のときの気持ちは、ずっと変わらないという感じですか。

岩崎:最初から変わらない。社会党の委員長になって、割とすぐ死んでしまいました。やっぱり、精神的な負担が強かったんだと思います。市長のときは、いきいきやっていました。田村さんが「なんか、社会党の委員長に戻ったら、人が変わったように元気なくなっちゃった」と言っていました。

落日荘 母屋(岩崎氏提供)
落日荘 母屋 室内からみる足尾山(岩崎氏提供)

国際連合での経験

岩崎:1979年に国連の職員としてタイに行って、カンボジアの難民が出てきたのをきっかけに、1980年の2月に日本国際ボランティアセンター(JVC)ができました。

私は前年の12月に国連に行ったので、行ったときにすぐにできたという感じです。女房は最初から参加していましたが、6か月くらいはまだ国連で余裕がなかったから、私はあんまり活動していませんでした。それから参加しました。子どもが大きくなってからあんまりタイにいるのはよくないと思って、日本に帰ってきて筑波大学の教員になりましたが、気持ちの上では途上国というか、JVCにありました。

JVCにはそのとき若者が100名くらい来ていました。筑波大学の学生と比べるともう根性というか、学ぼうとする意気込みが違いました。JVCに集まってくる若いやつのほうが真剣なんです。教授会はくそくらえと思うから出ないわけですが、学生には誠意を尽くそうと思うからそれなりにはやりました。

JVCの歴史は長くなってしまいます。私は代表という立場でお給料はもちろん一銭も出ません。10か国くらいでいつも活動しています。私は学校も休みが多いから、必ず年に2回か3回、全部を回ります。スタッフと話して、現場が抱えている問題点を議論したり、相手方の、例えばエチオピア政府との交渉に代表という名目で行き、代表が要求しているという形で滞在条件みたいなものを交渉します。そういう役割を果たしました。そういう国で活動するには必ずその国の現地語をしゃべれないと駄目です。私は政府の役人と交渉するときは英語でいけますが、現場は農村に入っていきます。JVCは全部の土地にその国の言葉をしゃべれるスタッフが育ちました。女房もタイを最初に担当したから今でも十分に話せるぐらいタイ語はできます。だけど私は1か所にいたわけじゃないから、タイに住んでいたからタイ語は少し、という程度で、ほとんどできません。

普通に観光で行ったら農村にのこのこ行ったってツテがなければ、容易に奥地には入れません。政府のツテで入っていくのと、NGOで入っていくのは全く異なります。向こうの人はよく見ています。政府のやつだというと緊張して本音を話せない。だけど、われわれが行った場合には、みんなで一緒に飯を食ったり、現地に小屋を建ててそこに住んだりという姿勢がまず違うから、困っているんですよという本音が聞けます。政府のルートで入っていくと、同じ集落に来ても対応する人が違います。政府系に対応するのは偉くなりたい村のボスのような人。ところが実際はそれに反対する一群のグループがあります。

例えば、エチオピアで典型的な事例が起こったんだけど、飢餓が起こったから、山に植林し、農作物を有機農業的な性格でやろうというので、8年ぐらいJVCのスタッフがその村に滞在しました。多いときで日本人5、6人、少ないときは3人くらいだったと思いますが、「みんなでやろうぜ」と働きかけて集まってくる農民は、その村の中の貧しいというか困った人が集まります。ボスはなかなか出て来ません。われわれはその人たちに親切にと思って一緒に動いていたら、その裏のボスが、「変な野郎が自分の社会に入ってきて」と、快く思わないんです。それで最後、そのボスが雇った者に銃で襲撃されました。それで結局、私たちはエチオピアを引き上げることになったんですが、その社会に巻き込まれていくと、当然その社会が持っている上下関係というか社会構造に巻き込まれていくわけです。いろんな人がイラクで人質になって、「けしからん、おまえの自己責任だ」なんてやっていますが、あれはとんでもない話なんです。

今、例えばモザンビークというところで日本と、なぜかブラジル政府とモザンビーク政府が日本の耕地面積の4倍の莫大な面積を、大豆を育成する大規模農場にしましょうというプロジェクトが進んでいます。日本のODA(政府開発援助)で投資してやっているわけです。ところがその土地は昔から誰かが住んでいる土地です。その農民には全く何の話かけもありません。土地制度が、途上国はみんな共有制だったから登記してないんです。登記というシステムは近代に入ってきたものですが、それを名目に土地の権利を失っていくわけです。

したがって、今JVCはモザンビークの土地を追い出されそうになっている農民の団体と協力して、その人たちの権利を主張し、政府は何を作ろうとしているんだと検証することをやろうとしています。それを担当しているのが渡辺さんという女性なんだけど、日本政府から激しくにらまれる。モザンビーク政府も農民なんかどうでもいい。外貨がほしいというやつが牛耳っていますから。そういうしがらみの中で、人と人の連帯、助け合い、NGOはそういうことを目指しています。持てるもの、権力が、貧しきというか普通の人を虐げている現状は日に日に世界各国で起こるから、それに興味あって、ずっと取り組んでいました。

N:横浜市を辞めて、国連で働かせてほしいということで行って、スラム課長になられたときには今のようなお仕事を思い描いていらっしゃったんですか。

岩崎:それは分かりませんでした。飛鳥田さんが辞めたから、以前飛行機の中で隣に座っていた人が国連の職員で、それで面白そうだなって思ったのです。それは横浜市に入る前かもしれません。

それで飛鳥田市長が辞めた後、まず外務省に行きました。国連の職員になりたいんですけど、どこ行ったらいいですかと。何のツテもないから、受付のじいさんに聞いたら、何階の何課だと言うので、そこに行って、出てきた女性の職員に「国連の職員になりたいんですけど」と言ったら、じゃあこれ履歴書を書いてきてと紙をくれたので、書いて持っていきました。そしたら、そうですか、そこに置いといていいと言うから、これでなれるのかなと思いました。「課長さんか係長さんにもう少し僕の事情をお話ししたいんですけど」と言ったら、女性の職員がじゃあちょっと聞いてきてあげますと言って。戻ってきたら、「今、忙しいから駄目です」と言われました。

それぐらい何のツテもなく行ったのですが1週間くらいで、すぐ呼び出しがかかって、今、国連の部長が来たから面接だと言うんです。ガーナにいたことが大きいんですよ。私の年代でそういう日本人はいませんでした。国連は途上国問題を主なテーマにしているから、途上国のことを知らないと職員は務まりません。それで私がアメリカの大学も出て、英語もしゃべれるということで外務省はすぐに飛びつきました。

日本政府は国連に金を出しているわけですが、スタッフのなり手がないんですよ。だからいい玉を見つけると、日本政府としてとにかく送りたいということで、スラム課長に推薦されました。

S:アジア太平洋経済社会委員会ですね。

岩崎:国連は世界を5つの地域に分けています。区役所みたいなものです。アジアの「区役所」(の管轄)は39か国あって、人口は世界の中でも圧倒的に多い。そこの要するにスラム担当課長。正確にはチーフ・オブ・ザ・セクション・オブ・ヒューマンセツルメントと言って、訳せば人間居住課長という職にいきなりなりました。

その前にガーナに行っていたので、何となく途上国の印象はあったんですが、アジアは面白かった。アメリカにも2年ちょっといましたが、人間的接触が少ない。アジアに行ったらウワーッと、人口が多いせいなんだろうけれど、湧き出すようなエネルギーを感じたし、困っている度合いは大きいし、嫌な印象を受ける人は少ないし、それでだんだん飲み込まれて、インドのスラムとか、フィリピンのスラムとかに行って、スラムをよく見たんですよ。

その国の建設省の役人が私のカウンターパートになるわけです。資料を出せとか何とかと言って、今でももらったスライドフィルムなども残っていますが、だんだんそういうものに巻き込まれていくというか。

S:いろんなスラムをご覧になったということですけど、スラム担当のスタッフの構成やミッションはどういうものだったのでしょうか。

岩崎:各国は、農村から出てくる人口による巨大なスラムを抱えています。普通、いかなる都市でも20から30%はスラムと言われています。スラムと、スクォッターセツルメントと言うんだけど不法居住には2種類あって、スラムは多くは湿地帯とか線路の脇とか、普通住めないと思われるところに住みだします。巨大な1万人を超えるスラムがざらにあります。まず水をどう確保するか。それから排泄、便所をどうするかと居住上の問題がいっぱいあるわけです。

日本政府は私に言わせると、住宅団地を建てればいいと言うんです。日本はある開発援助で、とあるスラムに4階建ての日本の団地みたいなものを建てた。もちろん希望者は多いから抽選にしました。そして当選した人はその日のうちにその権利を他人に高く売っ払って自分は元のところに住んでいると。そんな団地のようなかたちで解決できるはずないんです。

もう一つの方法は、住民の力でどうやって自己改善していくかという、日本では経験できないようないろんなトライアルです。それを一生懸命やっていたのは(ホルヘ・)アンソレーナというイエズス会司祭です。それと一緒によくやっていたのが、日本福祉大学の穂坂光彦教授です。彼は本城和彦(1913–2002)さんがいた国連事務所のスタッフでした。英語がよくできるんです。彼が、私がいた部署の所員になったりして、今でもスラムの改善をやっています。それほどどうしようもない大きな問題です。結局私はスラムに関わって、農村に入っていくわけです。

いずれにしても、参加する空間を作り出す行為というか、いろいろ感じたんです。スラムは単純に言うと下町。都市は私の理解だと、王様だとか権力的に発生するんですが、そこに田舎出の人が来ます。田舎で食いにくくなったとか、環境が破壊されてとかいろんな条件で。

いかなる都市でも都市に集まる人は、東京を例にすれば、まず本所・深川と言う下町に来ます。いきなり田園調布に行かないで、江戸川とかゴミゴミしたところに最初に行って、何年かたつと、あるいは何世代かたつと金ができれば山の手に引っ越すというプロセスを経ると思います。スラムは下町なんです。あるいは戦後たくさんあった木賃アパートと言ってもいい。とにかくたくさんの若い人が出てきても住むところがないから劣悪な、と言っても日本の木賃は便所もしっかりしているしガスも付いているからスラムとは比較になりませんが、一応社会構造的には一種のスラムです。そういう問題をどうするか。

話がそれてしまいましたが、なぜ国連に行ったのかということを話に戻すと、私は建築から出発して都市に移った。都市をよくしなければ、建築をよくしてもしょうがないという意識があった。学生時代から都市をやりましたが、都市を見ていて、その原初、最初であるスラムを見たら、農村と深い関係があることがわかり、農村に行った。農村に行ったらその背後の森林が壊されている。そして結局、森林は地球環境の基本ですから地球全体が見えてきたという、そういう感じかもしれません。

S:アジア太平洋経済社会委員会にいらしたのはいつでしょうか。

岩崎:1979年の10月ごろ赴任し、1982年の8月まででしょうか。

S:3年くらいですね。3年間の間で印象的なプロジェクトはありますか。

岩崎:結局は情報交換なんです。国連は金を持っているわけじゃないので、プロジェクトごとに政府のスポンサーを見つけてやるんですよね。

私は日本政府に食いついて、タイの大使館は国連拠出用に用意している金を持っているから、大使館と話して、情報交換、要するに専門家会議を開催します。各国の政府の役人が集めている経験者、インド人がよく講師になりましたが、あと中小都市の発展の仕方という本を出版しているオランダ人を呼んで講師にして、各国の役人を集めて講習会やるとか。中国に行って中国の役人を相当数集めてわれわれが連れていった講師に講演してもらうようなこともありました。情報交換、専門家会議と、大きなカンファレンスを開いて、スラムをどうやって改善していくかという方法について情報交換しました。

国連で具体的にプロジェクトと言っても、建てるとかそういうことはしません。会議の結果を本にして各国政府の役人が参考にできる資料を作る、それが主要な役割です。

S:そうすると事務局がバンコクにあるわけですが、いろんなアジアの各国に行ってカンファレンスを開いたりして現地事情を知ったわけでしょうか。

岩崎:そう。もうほとんど1年中旅している。39か国と言っても限度はあるけど、それを仕事とするんです。

N:国連の仕事には、横浜の経験はほとんど関係ないのでしょうか。

岩崎:いや、なかった。スラムだから都市の一部であるんですが。

N:ご自身では、横浜市で経験したことが国連で生きるということはなかったのでしょうか。

岩崎:横浜ではいろんなことをやっていたとはいえ、ある人に同じようなこと聞かれて答えたのは、あんなファンシー(小奇麗)なストリートや街なんかには、もうまったく興味がないのです。

N:それは横浜市を辞めるときに、もうそういう気持ちだったのでしょうか。

岩崎:それはそうじゃない。横浜市を辞めるときはとにかく飛鳥田さん以外の下で働きたくないという一心で逃げたから、何をやるかというのははっきりしていなかったし、横浜の経験が生きるともあんまり考えていませんでした。

アジアの都市でみんな困っているのは便所をどうするかとか、そういう点です。例えばフィリピンでみたプロジェクトが面白いんです。スラムは都心にあるんです。夜に商売やっている人が多いんです。ゴミ集め、タクシーの運転手など、都市に張り付いた下積みの人たちが住んでいます。でも住むところとしては劣悪だから、政府はなんとかしたいというので、郊外の土地を手に入れてそこに敷地を区切って、政府が便所と台所だけ作ります。便所はブロックで作り、その脇にくっついたような台所、流しが一つあるだけなんです。それで4本の柱に簡単な斜めの屋根を付けて、住民に安く提供します。これが公共サービスなんです。

それを今度は、スラム住民が自力で全部作り出す。敷地はそれなりに余裕があるから、だんだん大きくなってくるんです。だから段階ごとに、原始的な風さらしのところに住んでいる人もいるし、御殿みたいなきれいな大きくなったようなものまであります。 全てを自分で作る自力建設が印象的でした。そういうような事例を写真に撮って話して、他の国に知らせるとか、そういう仕事です。面白いといえば面白いんです。

私たちはタイに住んでいたから、タイのスラムに1軒、子ども図書館を作りました。国連とは別にJVCで作りました。女房も大工ができるから棟梁をやりました。私は図面を描きましたが、そのために毎日スラムに行っていたんです。それでスラムの構造がよく分かりました。

私の横浜時代の友達は、私がなぜアジアに行ったという意味が皆目分からないんです。なんで岩崎さんそんな汚いところ行くのという、そういう感じです。みんなニューヨークだパリだとか、体裁の良いアーバンデザインをやっていますからと、なかなか話が通じません。

S:履歴書を書いて外務省を通じて国連に応募したときは、向こうから、アジアに行くとかどこに行くというのは全然なかったんですか。

岩崎:分かりませんでした。明らかに外務省の役人が私の履歴書を見て判断したんです。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)というバンコクのオフィスの部長が来たので、もちろんそこに行くんだなというのは分かりました。

横浜市をやめて、途上国に行きたいという以上に、もっと世界に出たいと、国連に出たいという意味のほうが強かったと思います。タイに行ってみたら、アメリカよりエキサイティングというか、気分的にもエキサイトしたから、だんだん引かれていったんだろうと思います。

筑波大学での経験

岩崎:自慢話になってしまうかもしれないのですが、どう言ったらいいかな、私は正直言って、偉くはなりたくなかったんです。

私は、ハーバードを出たでしょう。横浜市でアーバンデザインをやっていたでしょう。長島孝一君の奥さんはキャサリンさんというのですが、彼女はイギリスのウェールズの出身で、おばさんがハーバードの教授でした。ジャクリーン・ティルウィットさんというのですが、私はハーバードでその人に習ったわけです。そのティルウィット教授の姪御さんが長島孝一君の奥さんだから、日本によく遊びに来ていました。そのたびに、私が横浜市で仕事しているのを見に来ていました。

横浜市で大通り公園だ、何だかんだと、プロジェクトが相当進んでいましたので、私は一生懸命ティルウィット教授にそれらのプロジェクトを説明しました。彼女は、ハーバードの教授でもありましたが、ギリシャのドクシアディス・オフィスの『エキスティックス』という雑誌の編集長だったんですが、『エキスティックス』に私が横浜でやっている仕事を全部、自分で英文で書いて記事にしてくれました。

N:はい。(コンスタンティノス・)ドクシアディス(1913–1975)の。

岩崎:そう。

そういうことがあって、もう一回、ハーバードの都市計画の教授が横浜市に来ました。その教授は、区画整理事業に興味があったので、港北ニュータウンの区画整理事業の案を出して見せました。そしたら感心して、「台湾で国際会議があるから、それに来てくれ」と言われたんです。ところが私、そのとき女房の大工仕事を手伝って、ノコギリで手を切ってしまって、行けなくなってしまいました。

だけど、私が横浜市を辞めて、国連に勤め始めてしばらくたったら、その都市計画の教授がわざわざハーバードから、タイに飛行機に乗って「お会いしたい」と言って来ました。「なんで来るのかな」と思ったら、私が卒業した1970年前後まで、ホセ・ルイス・セルトが学部長をやっていましたが、セルトという人はスペイン人で、ル・コルビュジエの所にいた人です。

ジャクリーン・ティルウィットさんも若いときにル・コルビュジエのところで働いていました。そういう関係で多分、教授をやっていたんですね。そして、1960年にハーバードにアーバンデザインというコースができます。

私は1968年に入って、1970年に卒業しています。長島孝一君は私より1、2年前です。ハーバードのデザイン学部長は、1970年までセルトがやって、1970年から1980年まで、他の方がやっています。彼らとしては当然ハーバードのアーバンデザインの卒業生を教授にしたいわけです。それで、1981年か1982年、つまり、私がタイに行ったときに、ティルウィットさんと、都市計画の先生であるウィリアム・ドーブルさんに「ハーバートのデザイン学部長にあなたを推薦する」と言われたんです。

ドーブルさんは区画整理事業における民主的な住民参加にとても興味がある教授でした。今までの学部長が辞めるので、新しい学部長を選任するため、5人の委員会を作り、ティルウィット教授とドーブル教授はその5人委員会のメンバーであり、われわれ2人が推薦すれば、あなたはハーバード大学のデザイン学部長になれる公算が大きいと言われたんです。でも、私は興味がありませんでした。もうそのときには、私はアジアの大きさ、アジアのほうがずっと面白くなってしまって、都市には興味を失い、それは結構ですと言ったんです。

私としては、立身出世することには、ほとんど興味がなかった。親父ゆずりの、人と同じレベルで生きたいという意識があって、アジアの人たちは、私にとって、すごい魅力に富んでいました。だから、アメリカ人みたいに自分の立身出世という生き方はしたくない。自分だけが得をするような場面がなかったわけではないですが、東大教授の渡辺定夫さん、それから、藝大教授の益子(義弘)さんからも先生になれと誘われましたが、みんな断ってしまいました。後に勤務した筑波大学は大きな責任を持たなくてもいいので、一番楽でした。給料は大体、同じだろうし。

国連をなぜ辞めたかというと、子どもの教育問題で帰ってこようと思ったのです。息子の学校が寄宿舎制であったからというのも大きな原因の一つでした。そうしたら、たまたま(筑波大学の)川手昭二さんが引っ張ってくれました。港北ニュータウンで張り合った先輩ですから。

N:そういう縁なんですね。

岩崎:港北ニュータウンのセンター地区は、公団側は東大卒3人組が設計していましたが、横浜市案は私が設計し、張り合いました。

筑波で教えたのは都市デザインでしたが、日本に帰ってきたときには都市に興味を失い、学生にはよくアジアの話をしていました。でも、建設省OBの方から、TX(つくばエクスプレス)という筑波に来る鉄道がありますが、守谷など沿線に新しい駅がいくつかできるので、その周辺の街の設計をしてくれという話もありましたが、断りました。もう気持ちとしては、「都市は、いいや」という感じが非常に強かった。

やっていたのはアジア、アフリカの話で、それは夢中になってやっていました。1984年のエチオピアの飢餓の悲劇、ソマリア、タイ、カンボジア、ラオス、たくさんの世界の現実を見ました。だから、授業も学部と大学院、両方ありましたが、結局教えていたのはアジアの話だと思います。

「中心と周辺」理論(岩崎氏提供)

私が筑波大学で教えていたのは、人間居住論という名前です。私はある論理を持っていて、世界を4つに分けています。中心の中心、中心の周辺、周辺の中心、周辺の周辺。そしてそのさらに奥に地球環境という図を作っています。「中心の中心」はニューヨーク、東京、ロンドン。「中心の周辺」っていうのは、日本の場合は沖縄、青森、福島などが日本の中の底辺。「周辺の中心」っていうのはバンコク、マニラ、あるいはブラジルのリオデジャネイロとかという途上国の首都です。それから「周辺の周辺」というのは、世界人口の巨大な部分を抱える途上国の農村など。その農村の後ろ側に森林を始めとする地球環境が眠っているという構図をよく確かめたかったのです。どういう構造、どういう関係性になっていてどういう居住条件か。私は本も書いていますが学生も喜んでいたと思います。

これまた自慢話になってしまうのですが、私は教員会議には出なかったけど、学生の文化祭のときに一番面白い授業という投票があり、一番に選ばれたこともありました。それは、さっきまで途上国にいたけど、帰ってきて急いで授業しているという緊張感があったから、そういう現場の話をしたので面白かったのだと思います。今でも、それを思い出していろいろ言ってくるかつての筑波大生もたくさんいます。

筑波大学ではそういうことを一生懸命やっていた。筑波大学というより日本国際ボランティアセンター(JVC)では給料が出ないから、しょうがないから筑波大学でやっていたというようなところがあります。

S:国連でスラムから森林までという問題にたどり着いて、お子さまの教育のこともあり、筑波大学に行かれます。

岩崎:国連は3年近くで短いのですが、1982年に日本に帰ってきて、それから20年近くNGOと筑波大学でやってきました。 途上国に日参したわけです。国連よりももっと状況を深く知り得ました。たくさんのメンバーが参加して、情報交換し合いながら今でも10か国で国際協力をやっているのですが、方針を貫いてやっています。結構危険で、活動中に1人殺されました。そういう危険も踏まえながらやっていますが、今でも頑張っています。私もできるだけ協力したいと思っています。

政界への挑戦

S:筑波大学を退職されたのは、参院選に立候補したのがきっかけなんですか。

岩崎:全くその通りです。

JVCは現場で活動する団体で、農民といろいろ頑張ってやっているでしょう。そこに日本政府がODAでガサっとかっさらっていきます。それはまずいよと、私もだんだん政府に言う立場になってきました。NGOも時代とともに発展してきて、現場でお人よしよろしくやっていたのがだんだんと政府の話がおかしいと、アドボカシーと言いますが、NGO活動の一環として政府に提言していくようになります。

筑波大学には15年もいて最後まで助教授なんです。教授になるとさすがに教授会すっぽかすとか、そんなことはできないから、それで十分満足していました。

外務省や環境庁は、一応国立大学の教員だというふうに見るから、信用を得て環境庁とか外務省など政府の委員にたくさんなりました。外務省の言い分としては市民の側の人も入れていますということです。政府系も企業系もいますが、市民も入れていますという体裁を繕うために、いろんなところから声が掛かりました。それで「市民フォーラム2001」という団体を作って活動をはじめました。ブラジルで地球サミットが開かれたときに私は頑張って、日本市民館というパビリオンを立てて、そこで集会を開いて各国からいろんな人々が集まって、非常に面白い経験でした。

話がずれてしまいますが、そこでの集会に韓国の人が来ていて、日本はけしからんと。日本は、「われわれの国を占領して」と愚痴を言い出したんです。そしたらタイの人が立ちあがって、「今、あなたは日本に文句言っているけど、今、あなたたちはわれわれタイ人に同じことやっているんじゃないですか」と言ったのです。つまり韓国もまた森林破壊とかそういうことを東南アジアでやっているわけです。そういう構造が見えてくるというか、あからさまに非難し合うというようなこともあって、国際会議はよくやりました。アメリカ人、マレーシア人とか世界的に活動しているNGOをいっぱい日本に招待して国際会議を開きました。

バングラデシュのユヌスを知っていますか。

H:グラミン銀行を作ったムハメド・ユヌス。

岩崎:ユヌスを最初に日本に呼んだんです。 そういうふうに国際的な市民連帯をどうやってやるかというのが基本的なテーマです。

そうしているうちに、つまり政府に対して物を言うようになったら、岩崎さん政治家にならないですかという声が掛かりました。それに乗っかってしまったんです。それが井上礼子さんと言って、アジア太平洋資料センター(PARC)というNGOをやっている人です。PARCは非常に古い。東大を出て英語がよくできる武藤一羊という人が1960年代に始めて、政府批判をやっていたんです。彼は割と早く引退してしまったのですが、あとを継いでいた井上さんに、「岩崎さん、選挙に出ない?」と言われて、「じゃあやってみるか」とやってしまったんです。

そこで私は2度も出て落選するわけです。参議院選挙に最初に出ました。東京で立候補したわけです。参議院選挙で落選したら、新潟の人が、出したいんだけど誰もいないから、新潟に来てくれないかと言われたので、今度は新潟に行って衆議院選挙に出ました。それも落選したわけですが、出てみて何よりも感じたのは、私自身、政治的な訓練がなされてなかったなと思いました。

プロフェッショナルな人の政治は、若干うそをついてもいいし、演説は私みたいに長々と話さないで短くしゃべるとか、政治家特有のノウハウがあるんですね。日本では二世議員が多いが、あれはそういう特別な技術が伝授されているんだと思います。私は素手で立ち向かってしまったというか、全然通じませんでした。

JVCの運動をやっていたとき、当時日本の政治は自民党と社会党がありましたが、ふたつとも私の立ち位置とは違うなと思いました。私は先進国と途上国の経済の差を見ているんであって、彼らは先進国内部の争いみたいに見えたから、あまり自分が関係しているとは思いませんでした。立候補して本来私が持っていたアジア的な視点を大胆に言えばよかったんですが、言ってもその当時は誰も興味がなかったかもしれません。だけど、そこまで私がしっかりした理念と確信を持っていればもう少し戦いようがあったかなと思います。そのとき初めて出馬したから、いろんな諸般のことが分からないから先輩に聞くと、昔のことしか助言してくれない。確信が持てないまま選挙運動を2回展開しました。だから当然落落選したのだと思います。だからしょうがなかったと思います。

これはちょっと言い訳じみていますが、NGOをやってここに引っ越して20年近くなるのですが、その間、私はなんだったのかということをはっきりさせようと努力しています。今、今だったら多分確信を持って演説もできます。だからと言って当選するかどうかは分かりませんが。そのとき、もう60歳を過ぎていたにも関わらず経験がなかった。自信なり確信が選挙に出たときは持てませんでした。

それでここに来て、あれはなんだったのかということをずっと、あるいはJVCで活動してきたのはなんだったのかっていうことを考え続けて、今、私があるという感じでしょうか。

N:選挙に社民党から出るときに飛鳥田さんのことを思い出したりとか、考えたりしたことありますか。

岩崎:いや、あんまりないです。

N:新潟から出たときの資料だと、地方から中央を・・・・・・。その辺というのは。まだ深くは・・・・・・。

岩崎:そこは確信が持てませんでした。つまり新潟は、生まれて初めて行ったというぐらい知らないところだから。

みんな社民党が組織的に応援してくれるわけです。車で演説するのも運転手専門の人がいて、プラカード持つ人もいて、そこに私は乗っかっているだけでした。また彼らも社民党はつぶれるくらいの感覚ですから、追い詰められており、まあ激しいことを言っていました。

今だったらはね返せたと思うけど、駄目でした。そういう意味で政治的な経験、つまり戦いなんだけど、演説一つでも相当違うんです。

S:選挙に出た経験と、ここに引っ越ししようということに因果関係はあるのでしょうか。

岩崎:選挙に出て敗れるし、まずいと思ったわけです。特に2001年は世界貿易センタービルも壊された(9・11同時多発テロ)。長く途上国との関係を改善したい、あるいは地球環境問題でも、特に森林伐採の現場にものすごく行って、やめてほしいと思ったりもしましたが、全然解決のめどがつかないわけです。

選挙も落っこちて無残な思いでしたが、もう一回立て直さなければという思いがありました。だから「市民フォーラム3001」と言う団体をもう一度作って、1000年かけてみようと思いました。10年や20年ちょこちょこやっていたって、そんなに変わらないから、1000年のスパンで捉え直さないと戦えないなと思いました。

そのまま、都会の一角に住んでいたって駄目だと、腰が定まらないというか、スーパーに物がなくなってしまえば、うろうろするような生活はまずいと思ったから、まずここに来てコメを作ろうと。2人でコメを10年も作ってきたわけです。コメは意地でも作ろうと思いました。コメがなかったからというよりは、自給するということに少しでも近づかなければしょうがないという意味です。

石岡市八郷の水田(岩崎氏提供)

これからについて

岩崎:この頃一番感じているのは、先日のブラジルの火災を見て、人類は地球の破滅への道を確実に歩いているなということです。火をつけて牧場にして牛肉を売りたいとか、プランテーションで例えばアブラヤシとかわれわれが日常的に口にしているものを作って、先進国に輸出してということをやっています。北極で凍土が溶け出しているとか信じられないようないろんな事象が起こっています。ゴミの問題、プランクトンの問題、もちろん温暖化の問題もそうです。

だから私にとっては、横浜市の経験は全く過去のものなんです。この家ももうできてしまったから、この家のことを聞かれてもいいですよということです。私が一番知りたい、議論したい、あるいは話したい、講演したいのはやはり「途上国の問題」です。それが心配でえらい気になるんです。

でも、これから都市人口は圧倒的に多くなるわけです。それだからこそ都市をいかによくするか。都市はベールを被っているように感じます。みんな、そこの中に安住して外が見えないんです。でもそのベールの中では自立して生きているんじゃなくて外部から支えられているだけなんです。支えられている条件が一つずつ崩れつつあることを知ってほしいと思います。それでもみんな都市に住んでいるし、都市はさらに大きくなっています。

でもケチばっかりつけていないで、どうやったら改善できるかについては、なかなか難しいんですが、アーバンデザイン的には緑のネットワークをいかに広げていくかということに尽きます。大体、道路を通すのに家を壊すでしょう。だから緑のネットワークを作ろうと思えば、税金で買収するなりして一歩一歩作れるんです。そうして都会の人が自然との関係を少しでも回復する方向へ都市を動かしていかないと。エベネザー・ハワード(1850–1928)の『田園都市』は都市と自然の関係をよく考えていました。それがニュータウンという結末になってしまったのはしょうがないこととはいえ、そういう都市と農村の問題を真剣に考えた人はいないのです。

こないだ柳田國男(1875–1962)の本を読んでいて、彼も兵庫県の田舎の出なんですね。それで東大に入って、農林省の役人になって、つまり農村を捨てて都市に出たというある種の思いがあって、都市と農村の関係をすごく真剣に考えていたんです。結局、彼が言っているのは、歴史的には農民が都市を支えたと。あらゆる意味で自分が犠牲になっても一番近い町、都市を支えて、都市を誇りに思うぐらい、農民は都市を支えていたのです。彼の結論は、都市と農村とは、互いに仲良くしなきゃいけないというものなんですが、特に小さな都市同士の連帯も重要だと言っています。これは重要な指摘だと思います。

しかし、彼の主張は、都市と農村は仲良くせよというものですが、私はできないと思います。世界的に農村はいじめられています。難民とか森林伐採とか、資本主義側が意図的に農民を追い出すようなことが起こっているんです。安い工場労働者を絶え間なく供給するために、農村の後ろの森林に火をつけて、農民を都会に追い出しています。実に、矛盾に満ちていると感じます。

今日は長時間にわたり私の話を聞いていただきありがとうございました。

(了)

主要参考文献

・JVC「NGOの挑戦」編集委員会編『NGOの挑戦――日本国際ボランティアセンター(JVC)10年の記録』上下、めこん、1990年
・SD編集部編『都市デザイン|横浜 その発送と展開』鹿島出版会、1993年
・岩崎徹太追想集刊行会編『追想 岩崎徹太』岩崎徹太追想集刊行会、1981年
・東京藝術大学建築科百周年誌編集委員会編『ケンチクカ――芸大建築科100年建築家1100人』建築資料研究社、2007年
・山田千代・中川ちあき・木村勇樹編『都市デザインの現場から 横浜都市デザイン40年の軌跡』横浜市立大学、2011年
・横浜企画調整研究会・SD編集部編『横浜―都市計画の実践的手法 その都市づくりのあゆみ』鹿島出版会、1980年

岩崎駿介(いわさき しゅんすけ)
1937年東京都に生まれる。1963年東京藝術大学美術学部建築学科を卒業後、橋本嘉夫設計事務所、河内義就設計事務所に勤務。1966~68年ガーナ共和国科学技術大学(現クワメ・エンクルマ科学技術大学)教員。1968~69年ハーバード大学大学院都市デザイン専攻で学ぶ。1969~79年横浜市企画調整局都市デザインチーム。1979~82年国際連合アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)スラム担当課長。1982~98筑波大学助教授と同時に、日本国際ボランティアセンター(JVC)代表、NPO市民フォーラム2001共同代表。2001年に茨城県石岡市に移住し、落日荘のセルフビルドを開始。著書に『一語一絵 地球を生きる』上下、明石書店(2013)など。

佐藤美弥
埼玉県立文書館学芸員。日本近現代史。1979年秋田県生まれ。一橋大学大学院修了。博士(社会学)。一橋大学特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員をへて現職。著書に『分離派建築会――日本のモダニズム建築誕生』『近代日本の政党と社会』『戦争と民衆――戦争体験を問い直す』(いずれも共著・分担執筆)ほか。

中島直人
東京大学大学院工学系研究科准教授。都市計画。1976年東京都生まれ。東京大学助手・助教、慶應義塾大学専任講師、准教授をへて現職。博士(工学)。主著に『都市計画の思想と場所 日本近現代都市計画史ノート』『都市美運動 シヴィックアートの都市計画史』。

橋本純
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了、新建築社入社。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年株式会社新建築社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。新建築社時代の担当書籍に『現代建築の軌跡』『日本の建築空間』ほか。

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建築と戦後
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