『巨匠たちの住宅 20世紀住空間の冒険』 淵上正幸

「記憶の中の住宅」を追体験する(評者:風間健)

風間健
建築討論
Nov 16, 2023

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本書は、そのタイトル通り、建築史に名を刻む住宅作品を取り扱った一冊である。フィリップ・ジョンソンの「グラス・ハウス」から始まり、フランク・ロイド・ライト「落水荘」やル・コルビュジェ「サヴォア邸」を経て、ルイス・バラガンの「クアドラ・サン・クリストバル」に至るまで、24の住宅作品について平明な語り口と、著者自身による写真で紹介されている★1。

名作住宅をテーマとした類書は数あれど、本書の特徴はすべての作品が、著者の淵上正幸氏が訪れた視点から記述されていることだ。説明するまでもなく、淵上氏は海外建築ジャーナリズムの第一人者であり、誰よりも多く国外の建築を訪ねた日本人と言って過言ではない。本書で取り上げられる24作品は、そんな氏の膨大な歴訪の中でも特に心に留まるものがあった住宅と考えて良いだろう。

本書と切り口の近い一冊としては、杉本博司氏の『空間感』(マガジンハウス、2011)がふと思い浮かぶ。杉本氏という「アーティストの視点」によって、出展してきた美術館をめぐり展開される論考である。その視点は、各美術館の空間やそれらを設計した建築家を、明らかに「対戦相手」に見立てている(なにせ、第一章のタイトルは「スター建築家攻防記」である)。加えて、巻末の「スターアーキテクト採点表」では、「作品が展示・収蔵される作家」としての視点がさらに前景化され、世界のミュージアムに対する独自の評価が忌憚なく展開される。例えば、フランク・ゲーリーの「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」を「建築を見に来る施設であって、アートを見に来る場ではない」と手厳しく断言する一方、建築デザインの文脈ではいまやあまり言及されないゴードン・バンシャフトの「ハーシュホーン美術館」に最高の評価を与えていたりする。

さて、今回の淵上氏の書籍に目を戻すと、上掲書のように過激に建築に対峙するアティチュードはない。次々と読み進めながら感じるのは、住宅のデザインや、残された痕跡を手掛かりとして、かつてそこに居た建築家や住まい手の姿を見出そうとする、暖かくも冴えわたる目線だ。例えば、「ヴァルター・グロピウス自邸」を訪ねた氏は、居間の書棚に清家清氏の著作を発見するが、そこから、「おそらくグロピウスが1954年に来日した際、親交をもったのだろうと思った」(p.24)と推理を展開する。ノーマン・フィッシャー邸では、その糸杉外壁の美しい輝きを、フィッシャー夫妻自らが亜麻仁油を塗ってメンテナンスした類まれな結果として、その建築への愛着を称賛する(p.45)。その他の住宅でも、建築家や住人、或いは管理人といった「人」のエピソードが頻繁に登場することに気づく。

著者も本文中で述べているが(p.219)、我々が訪ねることができる名作住宅のほとんどは、「建築遺産」として保存・公開されているものだ。言い方は悪いが、つまり我々が見学しているのは、大概においては時間軸上のある位置で固定された、死んだ状態の住宅である。

淵上氏が一連のエッセイのなかでなぜ建築家や住まい手にまつわるエピソードにこだわるのかという点を想像すると、死んだ状態の建物に佇みながらも、人という主体同士の「ドラマ」が起きる血の通った本来の姿を透視しているのではないかと思われる。加えて氏は、取材時に発生した自身と管理人とのやり取りや事件も、その住宅をめぐるストーリーとして盛り込むが(例えば、「シーランチ・コンドミニアム」では、予約を忘れて訪問したために管理人のシンディー氏に一度は見学を断られるも、自著『アメリカ建築案内』の同住宅ページを見せたところ感激されて入館許可を得、難を逃れた話が登場する(p.95))、これは自身も積極的に建築の主体となることで、死んだ住宅に「ドラマ」を吹き返させようとする試みであると解釈できなくもない。

本書のエッセイの元となる取材は、1990年頃から2010年代と、かなりバラバラな年代にわたっているようである。複数回の訪問体験に基づくエピソードもあり、例えば先述の「フィッシャー邸」では、2008年のフィッシャー氏逝去後に再訪したところ「建物は荒れ果て外壁はひからびて、美しいアメ色の輝きは見る影もなかった」(p.45)という悲しい出来事が追記されている。つまり、氏が本書で語る「フィッシャー邸」は、ある意味ではもうこの世に存在していない。本書計24章の記述は平明な語り口もあり、見学ガイド的な解説文のようにも読めるのだが、実のところは先述の個人的「ドラマ」とあいまって、淵上氏という人物の「記憶の中の建築」像が文章になったものと考えたほうがよさそうである。氏は名作建築の敷地内の「石ころ」や「葉っぱ」を収集することを習わしとしているらしく、本書の中でも度々それに言及している(p.106)。 読者としては、なぜ独特な趣味の話が何度も出てくるのかはじめは疑問に感じてしまうのだが、これらの物体が「記憶のよすが」として機能していると考えると、納得がいく。

なお評者も、淵上氏の足元にも及ばないものの、2018~20年に米国に滞在していた時期に、アメリカ各地の建築を見て回っていた。本書のサブタイトルは、「20世紀住空間の冒険」とあるが、私自身は建築見学を通して、「20世紀が取りこぼした建築の側面」について思いを巡らせていた。淵上氏は本書前書きの中で、20世紀を空間コンセプトの時代として形容する(p.2)。私が当時感じていたのは、20世紀建築の受容における「視覚」への偏重だった。

例えば、私が落水荘を訪問した時、最も印象に残ったのは「滝の音」だった。同住宅はきわめて「フォトジェニック」な作品としてあまねく認知されているが、住宅の中からは滝の姿は見えないため、住人にとって視覚的なメリットはむしろ少ない。逆に感じたのは、住宅に充満する流れの音。特に、滝の上にせり出すテラスで覚えた「せせらぎに全身が投げ出される感覚」は、写真=20世紀を代表する視覚メディア、では絶対に理解することができないものだった。本書の「落水荘」章を読み、筆者の「記憶の中の建築」を追体験しながら、そんな私自身の五感の記憶が蘇ってきた。

観察対象としての建築の面白くも不便なところは、それが土地に固定され動かないことだ。名作と呼ばれる建築は、様々な人によって見られ語られる対象となる。あらゆる観察者は、同じ場所に異なる時期に訪れ、それぞれの視点と記憶を持ち帰る。文章で表現された建築を通して他者の記憶を追体験するとき、そこが自らも訪れた場所であれば、時間を隔てた記憶のクロスオーバーが起きる。24の珠玉の住宅建築を通じて、そんな記憶のあやとりを楽しむのも、本書のひとつの楽しみ方ではないだろうか。


★1 巻末には、さらに10作品のコラムが紹介される。


書誌

著者:淵上正幸
書名:巨匠たちの住宅 20世紀住空間の冒険
出版社:青土社
出版年月:2023年4月

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