平良敬一[1926-]運動の媒体としてのジャーナリズム

話手:平良敬一/聞手:青井哲人・橋本純・石榑督和[連載:建築と戦後70年 ─ 01 ]

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Nov 1, 2016 · 51 min read

日時:2016年7月17日(日)14時~17時
場所:平良敬一氏ご自宅(仙台市)
聞手:青井哲人(担当、A)・橋本純(H)・石榑督和(I)

平良敬一氏は、いうまでもなく戦後の建築ジャーナリズムを牽引してきた編集者の一人である。これまでに活字化された回顧談は少なくないが、本インタビューでは平良氏の半生を最も幅広く詳細に綴った記事といえる「戦後建築ジャーナリズム秘史」(『建築思潮』1号、AF「建築思潮」編集委員会、1992年12月所収)を下敷きに、いわばその行間を探ろうと試みている。ひとことでいうなら、編集者としての平良氏のむしろ基盤にある運動家としての側面である。一方で前段では平良氏が生きてこられた沖縄(宮古)と東京(赤羽)について時間を割いているが、これもまた広い意味で「戦後」への示唆があると考えたからである。(A)。

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A:「戦後70年」の節目の年は過ぎてしまいましたが、戦後建築史と呼べるものがいずれ書かれるとして、そのときに活用されうる資料をできるだけ豊富にしておくことには意義があると思います。平良さんはこれまで何度もインタビューを受けてこられたと思いますが、ほとんどは雑誌編集者としての平良さんが戦後建築ジャーナリズムの流れやエピソードについて語る記事でした。そうしたなかで、『建築思潮』に平良敬一の名前で掲載された記事「戦後建築ジャーナリズム秘史」(以下、記事)は、その題名が示唆するよりはるかに豊富な話題を含んでいます。これは平良さんがご自身で書かれたものですか。

平良:あれは布野修司さんが、『建築思潮』を出すに当たって、わたしが以前に携わった雑誌と同名なものだから、その名前をいただきにあがりたいといって訪ねてきたとき、最初の号だから何か書いた方がいいと言われて、それで書いたものです。

A:これが一番詳しいと思います。

平良:そうですね。

A:私どもとしてはこれを下敷きにしながら、質問をさせていただけたらと思っています。記事と重複することも多くなるかもしれませんが。ところでこの御自宅はどなたが設計されたのですか。

平良:これは安藤邦廣さんなんです。彼がさかんにこれを広めたいと言って、じゃあやってくれと頼んだんだ。山形の山から木を切り出して、あちらの地元の職人に刻んでもらった。それでこっちへ運んでバタバタっと建てたんだ。あっという間に。そのときからプランはあまり変わっていないんです。

A:そのときは平良さんもこちら(仙台)にお住まいになるつもりだったのですか。

平良:そうです。2階が広くて、家内と一緒に住むことになっていた。そのときは東京の仕事を早めにやめてこっちへ来ようと思っていたんだろうねえ。けれど雑誌の仕事が続いちゃって、だから1年に2回、冬と夏にちょっと来て過ごすようにしたんだけどね、そのうちにすっかり倅たちの家になっちゃったんだ。それで、今度こっちに住むことにしたんで、ちょっと改築してもらった。

A:それまでご自宅はたしか千葉でしたね。

平良:そう。松戸です。大成建設が建てたコンクリート・プレファブの家があってね。あれは割合早い時期のものだったね。

大成プレコンですね。

平良 そう。5階建の集合住宅でね、値段が手頃だったからそこへ入ったんだ。銀行が貸してくれるってんでね。分譲でね。

A:そのお宅から両国の事務所(建築資料研究所)へ通っていらした。

平良:そういうことですね。『SD』をやめて、『都市住宅』をつくって、75年頃かな、松戸に移ったのは。

平良のこと、赤羽のこと

A:では時間を遡りまして、ご出身の宮古島の平良町のことを少しおうかがいしたいのですが。平良はどんな町ですか。

平良:宮古は小さい島だけど、港がある。小さな港の町。町はそこにしかなかった。記事にもあるとおり、本当は「ひらら」と呼ぶんだ。親父が沖縄師範学校に行って、平良に戻ってきた頃から「たいら」と呼ぶようになった。まあその頃は島でも「ひらら」と「たいら」が混じっていたけど、その後すっかり「たいら」になっちゃった。親父はね、沖縄本島には二字で「平良」と書いて「たいら」と読む人がいっぱいたもんだから、要するに多数派に屈したわけだ。

A:平良町は漁師の町ですか。

平良:たぶんみんな漁師だったんじゃないかな。そのなかで親父は師範学校を出て小学校の教員になったもんだから、あっちで身につけてきた新教育か何かを広めるってんで、若い教員を集めてある種の教育運動をやったわけだ。ところが狭い島だからあっという間に首になった。そんときは親戚中たいへんだったらしい。県の教育委員会にも「あれは放っとけないぞ」と睨まれて、小さな離れ島に左遷された。何人だったか知らないけど、親父のグループはみんな飛ばされた。親父は短気なもんだから、怒って辞めちゃって、東京に出ることにしたんだ。ところが東京高等師範を出ないと中学の教師になれない。聴講生のようなかたちで授業に出ていたらしいけどそれもやめてしまって、結局は小学校の教師になった。それまで赤羽のタバコ屋の2階に間借りしてたんだけれども、給料をとれるようになったから、お前ら出てきてもいいぞってんで、宮古に残してきた家族3人を呼び寄せたんです。母と2人の子供。僕が敬一で、弟は信二で「信ちゃん」って言った。ところが信二は1年たたないうちに、日曜日に家族で豊島園に行ったときに食べた団子か何かが当たって、すぐに慶應病院に入院したんだけど、急に手術が必要ということになってね。手術したんだけれども、翌日亡くなっちゃった。それで僕は一人っ子になっちゃったんです。あの当時、疫痢が流行っていて、子供たちが死んでいくんだよ。あれには驚いた。

A:そうでしたか。平良の「平良家」はどんな家ですか。

平良:代々何をやってきた家か、よくは知らないけど、おじいさんは平良町の収入役をやっていたらしい。あと親父には妹がいた。そういう家族です。

H:それで、家の人たちは自分を「ひらら」と呼んでいたわけですね。

平良:そう。親戚も含めて。

ところがお父さんは沖縄師範から帰ってきて「たいら」と言い始めた。

平良:まあ両方使ってた。学校の名前もね、「平良(ひらら)第一小学校」とか、「平良(ひらら)第一中学校」と言っていた。中学まであったんだな、島に。「ひらら」が正式だったんだ。それが、平行して両方使うようになった。先生たちもそうだった。

H:はじめてお父さんが突然、自分のことを「たいら」と言ったとき、どんな気持ちでしたか。自分は「ひらら」だと思っていたわけでしょう。ショックはありましたか。

平良:小さい子が自分が「ひらら」だとか、そんなことは意識しないでしょう。そのとき僕はまだ幼稚園だからさ、そんなの記憶にないよ。そういえば幼稚園でひとり仲のいいのがいて、僕らが東京へ出たから別れちゃったんだ。当時は島の人はみんな貧しいから簡単には上の学校にはいけない。のちに僕が浦和高校へ入った頃、その友達は陸軍士官学校に入った。授業料がないからね。僕の親父だって師範学校だから行けたんだと思うよ、貧乏だったんだから。そのかわり卒業後何年かは軍人をやらなけりゃいけないし、教師をやらなけりゃいけないというようなことはあったんだと思うけど。

A:小学校1年までですね、宮古におられたのは。

平良:1年の夏に東京へ出る。だから1学期までは宮古だったわけ。東京へ出たらね、あの頃は面白いねえ、僕は早生まれなんだけど、なぜか翌年、下の学年に入れられちゃった。だからもう1回1年生やった。小学校でもう留年したわけだ(笑)。

A:宮古の小学校の同級生は何人くらいでしたか。

平良:1クラスしかなくて、たぶん10人いたかどうか。

A:割に貧しい家が多かったのですか。

平良:みんな貧しかったんじゃないかな、宮古全体が。

A:東京に出て通い始めた赤羽の学校は大きかったですか。

平良:それほど大きくはなかったね。1クラス20人くらいだと思う。でも3組あったなあ。男子組、女子組と、残った男女を混ぜた男女組と、3クラス。

A:赤羽のどこにお住まいだったのですか。

平良:僕らが住み始めたのは「志茂町(しもまち)」というところ[江戸時代の豊島郡岩淵領下村]。志茂町は割に貧しい庶民の町で、駅を境に向こうの高台には裕福な層が住んでいた。そっちに「岩渕第一小学校」があって、こっちは「岩渕第二小学校」。同じ小学校でもずいぶん違ったんだ。

A:赤羽の町の様子を教えてください。

平良:東京へ出てきたとき、午前中に神戸を発って「特急つばめ」で東京へ来た。夕方着いて、有楽町なんかは明るいんだよね。だけど赤羽に着いたら真っ暗なんだ。ばかに田舎に来ちゃったなあと思った。駅前に旅館が2軒あって、家まで行く間に、当時漫才か何かやってた有名な人が住んでる長屋があった。その長屋をこすと、原っぱがあって、池があって、煉瓦造の工場があった。その向こう(北)が赤羽の町で、住まいがびっしり並んでいたんだけど、僕らはそっちじゃなくて、こっち(南)の暗い方の、さっきの長屋を通り越したところのだだっ広い原っぱの先に、石炭殻で埋め立てたばかりの敷地に貸家が立ってた。そこが志茂町。親父は僕らが行く前に駅前のタバコ屋の間借りを引き払って、貸家を借りてたんだろうね。東京といっても田舎だったなあ。

A:名古屋大学に入るまでそのお宅にずっとおられたわけですね。そうすると、小学校1年から高校3年になるまでの間に、その原っぱに次々に家が立っていったのではないですか。

平良:そう。原っぱや田んぼがどんどん宅地に変わっていった。

I:これが昭和初期の地図です(図1, 2)。

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平良:ああ、ここに志茂町があるね。建て込んでないから川がまだ近かったね。志茂町1丁目から3丁目と荒川に近づいてく。ここに走ってる線路はね、石炭を運ぶ列車が1週間に1回だけ通ったんだ。

I:学校は工場で働いてる人の子が多かったですか。

平良:こっちの第二小学校は労働者と農民の子が多い。岩渕第一は稲付町の方にあって、サラリーマンの家が多かった。

I:西の高台に同潤会の住宅地がありましたよね[当時の上十条]。

平良:ああ、ここですね。その北に被服廠があるでしょう[当時の赤羽3丁目]。兵隊さんの服をつくるんだ。ああ地図で見ると大きいね。大きかったんだよ、たしかに。

A:「赤羽町被服本廠」とありますね。

H:そこが後に公団の住宅団地になるわけですね。ほかに製麻工場があったとも記事には書かれていますね。

平良:製麻工場は駅の南の低い方にあって、さっきいった煉瓦造の工場がそれです[日本製麻会社工場、当時の岩渕町1丁目]。その南に大きな池があって、僕らはその池のそばから志茂町の方。ああスゴイなあ、こんなにはっきり地図で分かるんだ。

A:これが先ほどおっしゃった池ですね、大きいですね。

平良:そうそう、大きな池だったんですよ。池に接するように製麻工場があった。

I:製麻工場の北側に東西の道路がありますね、ここだけ直線です。

平良:そう。製麻工場ってのはどこの会社だったのかな。何となく政府の関係のような感じもするけど。

H:被服廠があったことからすれば、そこに納品したのかもしれませんね。

I:この「しもむら」というのは都電の駅ですかね。

平良:そう都電ですよ。ああ思い出した。当時は「王子電車」といったんだ。王子と赤羽を結んでたから。ああ、これが発電所だなあ[当時の志茂町1丁目]。僕はこの線路のそばに住んでたんだ。だから汽車ポッポをいつも見ていた。家の住所は「志茂町1丁目1144」。まわりは田んぼばかりだった。その田んぼをやめて、石炭殻で埋め立ててどんどん宅地にしていったんだ。

A:線路をこえた南側が神谷町ですね。

平良:そう。神谷町は空き地というか、小学校の頃までは野っ原で、その向こうに工場が見えたんだけど、僕が住んでる間にコンクリートの都営住宅がずーっと建って、いっぱいになっちゃった。こりゃ面白いなあ。その頃の写真があればもっと面白いんだけど、その頃は撮ってないんだなあ。

戦争の足音

A:戦争についての平良さんの記憶はいかがですか。

平良:さっき言ったように小学校1年を2回やったせいで、同じ1年生でも教科書が変わったんだ。宮古のときは「はな、はと、まめ、ます」、赤羽では「さいた、さいた」。これ、もう戦争の足音が聞こえてるってことなんだ。「さいたさいた、さくらがさいた」、その続きが「すすめすすめ、へいたいすすめ」なんだから。それから小学校5年のとき二二六事件。あのときは親戚中が集まった。親戚のなかに陸軍士官学校に入ったばかりのがいたからね。彼は毎週来ていたんだけどね、今週も来るだろうか、ひょっとして事件に関係しちゃったんじゃないかとか皆で心配した。戦争を身近に感じるようになったのはその頃ですね。★1

H:身内に陸軍士官学校に入った人がいたので親族会議になったわけですね。

平良:そう。陸士にいったのは僕のおじさんに当たる人。それとは別に、従兄弟で高等師範学校に入ったのがいてね。大山宏と言った。彼はその頃すでにアンチ天皇制といって、天皇制を批判していた。

A:すると宮古の親戚がずいぶん東京に出ておられたんですね。

平良:僕ら家族より少し後に出てきていたんだ。師範学校の従兄弟は、母の姉の子。僕らの頃は一高が憧れだった。宮古島でもそうだったんだけど、その従兄弟は赤羽に来てからもう1年がんばって一高へ入ると頑張り出した。そしたら、うちの親父は短気でね、貧乏なくせに授業払わなけりゃいけないのに何だ!って。そしたら彼が怒って自殺をはかったんだ。神谷町の下宿で。それは失敗に終わったんですが。

A:その大山宏さんが、平良さんの記事にある「アナーキスト」ですね。

平良:そうそう。彼はマセていて、僕を引き込むんですよ。天皇は神だと言ってるが子供がいるじゃないかとか言ってね。ただの人間なんだって。それで僕もすっかり天皇制反対になっちゃったんだ、その頃。だけど親しいおじさんが陸士にもいたわけだしねえ。

A:その方も宮古ですか。

平良:うん、そうだけど、台湾の学校を出てから陸士に入った。お兄さんと呼んでいたけど、本当はおじさん。

A:その頃、沖縄から東京へ出てくる人は多かったのですか。

平良:そうだね、みんな親族で固まってやってくるわけだ。実際ね、僕らが出てくるときだって、何となく同じルートで一緒に来た人たちもいるんですよ、宮古島から。

A:中学の英語の先生として、荒正人[1913–79]に出会っておられますね。荒正人といえば戦後の近代文学と主体性をめぐる論争などで非常に有名です。★2

平良:荒さんは東大を出たばかりの青年でね、授業中にもかかわらず自分の目の前の生徒に、おいオマエ姉さんはいるか、とか聞いてる。新宿の中村屋の菓子はうまいぞ、とか。そんな調子で、ろくすっぽ授業なんかしない。英語の原書を抱えて教室にやってきて、ここからここまで暗唱しろとか言って、みんな言えないもんだから片っ端から廊下に立たされる。すぐに全員廊下に行っちゃって、自分は本を読んでいる。

A:荒先生とは色々お話をされたのですか?

平良:あまり話はしてないな。怖い先生だったからね。それで校長先生は東大の歴史を出た人で、右の方だった。毎朝朝礼で訓示をするんだけど、下らない偉そうな話をしてね、そうすると荒正人は平気で遅刻してやってくる。

:荒さんはそのときすでにマルキストですね。

平良:そうでしょう。文学関係の仲間がいて、彼らはみんな左だったと思う。

A:中学生の平良さんにとって、左だとか右だとかということは分かっていらしたのですか。

平良:何となく分かっていましたね。かなり分かっていたんだろうな。少なくとも自分が右ではないと思っていた。天皇が神だとかいうのはおかしいと。言葉として正確に分かっていたんじゃないけどね。左だ右だとかは誰も教えてくれないんだから。

A:中学・高校で友人と政治的な話をしましたか。

平良:あまりしないね。だけどやっぱり雰囲気で、自分に近い友人とかそういうのはどっちか分かるよね。高校に入ると、東京の中学を出た秀才たちがいて、みんな生意気なんだ。文学青年でね。ぼくは田舎っぺだから、浦和高校にいって文化的なショックを受けましたね。知らない小説の話で議論していたりするのがいたから。

H:平良さんはどうして浦和高校へ行かれたんですか。

平良:僕は府立九中を出たんだけど、成績がよくて、クラスで1・2だったけど受験勉強は熾烈だったね。模擬試験というか実力試験があって、浪人の人も含めてみんなそれを受けた。その成績が貼り出される。1番のやつが一高を受けて、2番と3番のが浦和とかいういふうに何となく決まっていくんだ。ぼくはたぶん3番だったんだろうね。説得されるわけじゃないけど何となく決まっていくんだ。そうやって、校内の順位を競って上下していく、ああいう勉強の仕方はそのときは面白かったなあ。

H:そうやって浦和に入ってみたらいろんな生意気なやつらがいたわけですね。

平良:そうそう。ただね、僕は高校に入ったっきり勉強しなくなっちゃった。その頃は体操班って言ったかな。そこにも戦争の足音が近づいてきた。蹴球班は戦争班とか、名前まで変わっていった。運動部が戦争準備に入っちゃったんだな。

A:平良さんは?

平良:僕は体操部。身体が弱いやつと、中学から体操やってきたやつと、部と班でごっちゃにされた。戦争のためには身体が弱いやつも鍛えなけりゃならないというんで。

H:運動は得意な方でしたか。

平良:うん、得意な方だった。背は低かったけれど。大高正人[1923–2010]が1年か2年上にいて、肺の片方がなくて身体は弱かったけれど、非常に真面目で立派な人だった。

東大建築学科へ

A:平良さんが建築を選んだのは大高さんの影響だというようなことを書かれていますが。

平良:まあ影響というか、彼が浦和から建築へ行ったから、じゃあ俺も行こうと。大高さんは高校の寮で僕の部屋の室長だったんだ。新入生が部屋を割り振られるわけだけど、僕は大高さんが室長の部屋に入ったわけだ。

H:大高さんはどこの中学校だったんですか。

平良:彼は有名な福島の三春町の生まれ[福島県立福島中学校卒業]。(のちに)そこでたくさん設計しているでしょ。

H:福島から浦和高校に来たわけですね。それで先輩であったと。

平良:うん。大高さんは絵が得意だった。

I:同じ部屋で、大高さんから建築を目指すんだというような話を聞かれていたわけですか。

平良:そういうわけでもないけど。

H:その頃、進路を決めるのは高校進学のときですか、それとも大学進学のときに決めるという人が多かったですか。

平良:高校に入るときにだいたい決まっていたような気がするね。

H:大高さんは早くから建築一本に決めていた人ですね。

A:平良さんはいつごろ建築に決めたのですか。

平良:本気になったのは戦争が終わってからかなあ。

A:戦争の一番激しい時は愛知県で経験されていますね。東大建築の前に、名古屋大学の金属へ進んでおられて。

平良:そう。不勉強で東大へ入れなかったんだ。高校で試験やってもぜんぜんできないもんだから白紙で出しちゃったこともある。浦和高校だったら、よほど成績が悪くないかぎり、東大に入れたんだけど、僕はクラスのなかでもビリの方だったからね。それで大学受験では第一志望は東大建築学科、第二志望は何にしようかと思って、名古屋大学の、何となく金属学科を選んだんだ。なんで金属かっていうと、東北大学の金属学科が有名で、世界的に有名な研究者がいたんだけど、その人の弟子が名古屋にいたから。それで名古屋の金属に入ったら、沖種郎[1925-]がいたんだ。僕は彼にあそこで出会った。ところが戦争が終わったら金属学科がなくなっちゃったんだ。軍の関係なのかな。そしたらもう一回入試を受けられるっていうんで、たしか9月だったと思うけど名古屋を退学して、赤羽に帰ってにわか勉強をして、東大に合格したわけ。試験会場に沖種郎もいたんだけど、彼は落ちちゃって、次の年には入ってくるかと思ったらまた落ちて、2年後になったんだ。

H:東大に入ると同級生に色々な人がいますね。たとえば池田武邦[1924-]さん。

平良:池田さんは海軍から来た人で、きっと優秀で勉強家だったんだと思う。戦艦大和の護衛艦に乗り組んでいて、その船が沈められたけど泳いで助かったという人なんだ。

H:ほかに田辺員人[1926-]さんが航空学科から移ってますね。航空学科は戦時中は花形ですが戦争が終わって廃止されてしまいますから。

平良:田辺は同級生で、三高出身。それから金子勇次郎も航空学科から来た。のちに建築センターにいく。川上玄は東工大から入ってきた。あと、これは余談だけど渡邉恒雄は唯物論研究会というのをやっていて、顔を出したら、話がうまいんだ。えらい講談師でね。女子学生がいっぱい聞きに来てるんだ。だけど彼とは話をしたことはない。

H:川上玄さんは設計だけじゃなく施工もやる設計事務所を経営したとか、ソ連建築研究をしていた、と記事に書いておられますね。

平良:川上さんは僕が一番仲良くしていた人ですね。真面目で勉強家だった。鹿島建設に入ったんだけど、ロシア語の勉強なんかはじめちゃって上に睨まれたか何かで、鹿島をやめた後、先輩がやっていた川村建設に務めた。そこが設計も施工もやる事務所だった。

H:建設会社なんですね。

平良:いや、建設事務所と言っていた。少人数の事務所だったんだ。

H:当時の専業的「建築家」の理念像からしたら批判されたのでは?

平良:いや、そんなことはない。ただ、珍しい人ではあったね。

マルクス主義、共産党、新日本建築家集団(NAU)

A:平良さんがマルクス主義を勉強しはじめたのはいつですか。

平良:高校のときにね、エンゲルスの書いた『自然弁証法』が岩波文庫で出ていた[加藤正・加古祐二郎訳『自然辯證法』上・下、岩波書店、1929・1932]。だけど中を見たらバツ[伏せ字]がいっぱい。こりゃしょうがないと思ってやめたんだけど、まあ見てはいたし、関心は強かった。

A:本格的にはやはり戦後、東大の建築学科に入った後ですか。

平良:そうだね。僕はいろんな影響を受けてるんだ。高校の倫理の先生は西田哲学の系統の人で、話が上手で、分かんないけど非常に心地よく聞いていた。講談師だった。そのへんで西田哲学の影響を受けた。勉強というほどのことではないよ。

A:東大の建築学科に入ったのは終戦の翌年、1946年ですよね。

平良:そう。

A:その翌年、1947年の春に共産党の東大細胞に入った、ということですが。

平良:ろくすっぽ勉強もせずに、活動に入っていったわけだな。ははは(笑)。その前に、本じゃないけど色々読んだ。戦争が終わったらとたんに雑誌だとか翻訳本だとか、どこの本屋に行ってもいっぱい並んでいた。雑文に近いものだけど、読み漁った。

H:戦争が終わると雑誌なんかが突然出てくるんですか。

平良:たちまち出てくるわけ、たくさん。珍しいから手にとってどんどん読んだ。勉強というんではないんですよ。

A:もっぱらマルクス主義でしたか。

平良:まあ雑文なんだけど、唯物論とかね、そういう立派な言葉が並んでいた。

A:共産党の「細胞」というのはどういうことですか。

平良:共産党は各居住地、各工場などに、それぞれ支部のような下部組織を持っていた。それを細胞というんだ。細胞みたいに増殖していくんだな。

A:平良さんは「民青」(日本民主青年同盟)ではないのですね。

平良:民青は共産党に指導されていた組織ですね。民青のなかにも党員はいただろうけど、組織としては別です。

A:東大の共産党細胞というと、どれほどの数いたわけですか。

平良:東大建築で僕1人しかいなかったね。法学部でも3~4人。★3

A:NAU(新日本建築家集団/1946年設立、1951年後半には崩壊)の事務局に入られたのは、共産党細胞であったことと関係ありますか。

平良:直接は関係ない。戦前から文化活動というか運動団体があるけどつぶれてしまって、戦後、共産党と同じようにばあーっと出てきた運動団体が合流したのがNAUでしょ。それでね、僕がNAUに入ったのは、共産党の科学技術部にいた人でね、名前は何と言ったかな。

A:この記事ではイニシャルで「Iさん」と書かれていますが。

平良:そうそう、その人なんだけど・・・、やっぱり思い出せないな。NAUのなかでも割合影響力があったんだ。その人が、NAUの事務局長の平松(義彦)[1905–80]さんに頼んでくれたんだ。それで平松さんが、いいよいいよと言って、無試験で入れてくれたんだ。NAUには今泉善一[1911–85]のような人がいた。この人は共産党でもあったんだろうけどね。戦時中に投獄されているね。道明栄次さんは、戦前から前川事務所にいた人。小泉和義さんは僕と同い年だったかな。NAUの事務局長は平松義彦さんという芸大を出た人だったんだけど、この人も立派な人で、講談師だったけど、小泉さんは平松事務所にいた。親父は高尾山の神社か何かに出入りしていた有名な宮大工なんだ。この人は共産党だけど、毛沢東派になったり、色々揺れ動いた。池辺陽[1920–79]はみなさんよく知っているでしょ。

A:ええ。池辺さんは党員でしたか。

平良:党員になったことはあるんですよ。でも新聞でばーっと出てしまって、東大第二工学部にいたわけだけど、あんまり有名になったものだから上から説得されて党を出たと思うんだけども、はっきりとは分からない。党の周辺で活動していたのは間違いないけど、少なくとも党員ではないという格好になっていた。

H:東大の教員で共産党員ではいけないということですか。

平良:というかまあ、具合が悪いということでしょう。

H:池辺さんは今泉善一と2戸1の住宅を建てて一緒に住んでいましたよね。

平良:そうそう。今泉の方が歳は上で、戦前から共産党員だった。

H:あの二人がなぜ一緒に住んだのでしょうね。何かお聞きになっていますか。

平良:なぜかは分からないけど、同じNAUの会員で、池辺さんが代表になったでしょ、その頃から仲がよかったんだ。そんなわけで一緒に住もうということになったんじゃないか。

A:NAUで一番発言力の強かったリーダーは誰だったと認識されていますか。

平良:池辺さんはもちろん、事務局長の平松さんも有力だったけど、戦前から活躍していた図師嘉彦[1904–81]さんというのが発言力があった。この人は共産党だけじゃなくて日ソ協会[日本ソ連親善協会として1957年設立。1992年に日本ユーラシア協会と改称。通称「日ソ協会」]でも活動していたという記憶がある。これは戦後につくられたんだけど、戦前の団体にも前身があったと思う[1931年設立のソビエト友の会。1932年ソビエト文化協会と改称]。ソ連と関係の深い人だったと思うんだ。それから図師さんの息子さんもNAUに入っていた。図師嘉彦というのは体格のよい人だったね。

A:西山夘三[1911–94]はどうでしたか。

平良:関西のボスという感じで、東京にはあまり出てきていないと思う。

A:およそ主だった人々はそんなところでしょうか。

平良:うーん、戦前からの人たちはたくさんいましたね。

A:若い人では、明治の神代雄一郎[1922–2000]、芸大の山本学治[1923–77]などがいますね。

平良:うん。彼らは真面目な人たちだったね。

共産党の動揺と建築論

A:1950年1月にコミンフォルム[実質的にはソ連共産党]が日本共産党を批判する事件がありますね。NAUへの影響は大きかったですか。★4

平良:あれで上の方がグラグラっとするんですよ。僕は下の方にいたけど、ソ連が他国の共産党を一方的に批判したわけでしょ、あれはあまりよくないと思ったね。日本共産党のうち、野坂参三[1892–1993]だけ名前をあげて批判していたでしょ。それで野坂を軸に分裂がはじまった。徳田球一[1894–1953]はそれにくっつくとかね。そしたら今度は中国共産党が日本共産党を批判した。あれが決定的だったんですよ。野坂参三、徳田球一、伊藤律[1913–89]なんかが中国へ行ってしまった。ひそかに中国へわたって、向こうから日本共産党をコントロールしようとした。それと日本に残ったなかでも分裂が起こる。宮本顕治[1908–2007]とか、神山茂夫[1905–74]とかが国際派。僕は神山派で、赤羽に住んでいて神山の選挙運動をやった。労働者出身の、堂々とした人で、面構えもよくて演説もうまくて。いつも自民党の鈴木仙八[1899–1967]ってのと張り合っていたんだ。僕は神山の応援に行って、夜ドブに落ちてケガしたことがあって、いまでも脚に傷跡がある。

A:コミンフォルム批判というのはおよそこういうことだと私は理解しています。つまり、日本共産党は敗戦後、アメリカを解放軍とみなし、占領下で共産主義社会へと平和革命を成し遂げればよい、そう考えていた。これに対してソ連がそれは誤りだと批判してくるわけですね。背景にはアメリカとソビエトを中心とする冷戦構造の問題があり、日本共産党もアメリカ帝国主義からの民族独立を掲げた武装闘争へと転換せざるをえなくなります。

平良:そのとおりですね。

A:それで、このことが当時の文化的な言論状況にも影響を与えたといわれます。建築にもそういったことはないでしょうか。具体的には、川添登[1926–2015]さんや平良さんたちが『新建築』で1953年頃から55, 56年にかけて仕掛けていった民衆論や伝統論も、きっと無関係ではなかったように思うのですがいかがですか。

平良:関係はねえ・・・、どの程度あったかは分からないが、確実に影響があったと思う。

A:当時、文学でも民衆・民族・伝統などのテーマが出てきますね。

平良:出てきますね。

A:建築分野でも、左派の人々が、それまでなら反動とみなされていたために口にできなかった「民族」や「伝統」といった言葉を、ある意味ではコミンフォルム批判以降の情勢のおかげで表立って言いやすくなったという側面があるのではないかと思うのです。

平良:ありますね。

A:ただ、一般には伝統論の契機はレーヴァイ論文だといわれますね[ヨージェフ・レーヴァイ著・針生一郎訳「建築の伝統と近代主義」1953.10]。やはりあれが決定的なきっかけになったのですか。★5

平良:いやあ、どうかな。あれは針生一郎[1925–2010]が訳したんだけど、それに僕は噛み付いた。レーヴァイは理解するけれども、そのうえで違うと思うことを書いた。レーヴァイの影響は、どの程度だったか分からないけど、あったね。

H:レーヴァイはその当時ヨーロッパでは有名な人だったのですか。

平良:ヨーロッパで有名というよりは、ヨーロッパの左翼のなかで、ということでしょうね。

A:ハンガリー共産党の中央にいた人ですね。つまり党執行部の人。

平良:うん。まあそれくらいのことで、そんなにはね。

H:そういう人があの文章を書いて、それを同じ左翼だった針生一郎が知って、近代主義批判、民族・伝統路線の論文として日本に紹介したということですか。

平良:針生もあれを支持したわけじゃない。翻訳して『美術批評』に載せたということであって。僕がいち早く反応したわけだけど。あれを書いたのはちょうど『国際建築』から『新建築』に移る途中なんですよ。

A:針生さんがレーヴァイ論文を知り、紹介しようと思ったその経緯はご存知ですか。

平良:いやあ、面白いと思ったんじゃないの。むこうでも問題になっている、ということが。ヨーロッパでもそういう主題が問題になっているということを、針生さんが見つけたんでしょう。

A:平良さんはレーヴァイの様式主義的な社会主義リアリズムはよくないが、しかしある種のリアリズムは必要だという考え方ですよね。

平良:そうそう。

A:それは近代建築の機能主義をどう読み替えて、リアリズムへつなぐか、という問題意識ですね。

平良:そう。僕は機能主義の立場から考えた。機能主義をどう評価するかということが、民衆や伝統の問題にかかわると思っていたから。向こうでも大いに関係づけられているだろうという想定のもとで書いたわけです。なんか難しい話題になってきたね(笑)。

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建築運動の拠点としての雑誌

H:大学を出られた後、就職先がなくてまずNAUの事務局に入られますが、設計事務所に就職することは考えなかったのですか。たとえば前川國男[1905–86]さんのところとか、丹下健三[1913–2005]さんのところとか。

平良:考えたんだろうけれども・・・まあ僕のようなのを素直に受け入れるところはないだろうと、こっちで思ったんだ。

H:建築学科に入られたときは設計をやるおつもりだったのですよね。

平良:やるつもりだったんだ。NAUの事務局に入っても、チャンスがあれば、若いんだから、また設計をやれるだろうと、そういうちょっと甘い考えもあったんだな、今思うと。だけどね、結局、編集が面白くなっちゃったんだ。アメリカの雑誌なんか見ても、機能主義に反対の建築家がいろいろ出てきている、これは面白いと。だから編集で通すのも・・・いいかなと思うようになった。

H:さきほどのお話のように、コミンフォルム批判くらいからNAUがガタガタになって、田辺さんに相談して[主宰者の小山正和に引き合わせてもらい]『国際建築』に行かれる。そのときにはもうNAUでやっておられた編集の仕事が面白くなっていたわけですか。

A:いや、NAUでは編集はやられていないですよね、組織(オルグ)の担当ですものね。

平良:そう。NAUでは編集にはかかわっていない。

H:『国際建築』に行かれた経緯は。

平良:それはね、NAUにいったときに、僕より先に宮内嘉久[1926–2009]がいて[機関誌『NAUM』、機関紙『NAUニュース』等の編集担当]、その影響が強いですね。あとで聞いてみるとね、当時、NAUに入る前から浜口隆一[1916–95]なんかと議論をしていてね、1人前になっていた。その影響があるんじゃないかな。NAUにいてもどうにもしようがないから、『国際建築』に入った。田辺員人が先にいてね、彼は授業に出ないで大学新聞で活躍していて、編集のプロだったんですよ。そうはいっても、東大新聞[『東京大学新聞』]が続きそうもなくなって、それで『国際建築』に入ったんだ。丹下(健三)さんの推薦か何かで。

H:『国際建築』には生田勉[1912–80]さんと浜口隆一[1916–95]さんが編集顧問でいらっしゃったんですね。

平良:そうです。

H:『国際建築』はアメリカやヨーロッパ、つまり自由主義・資本主義社会の建築を紹介しているわけですけど、左派の平良さんとしてはソ連などに関心がおありだったかもしれませんし、どう感じておられたのでしょう。

平良:いや、ソ連に気持ちが向いていたというようなことではない。戦前の色々な雑誌は見ていて、アヴァンギャルド運動が盛んだったソヴィエトも知っているから、興味はあったんだ。でも特別にソ連に傾いていたわけじゃない。

H:さきほどのコミンフォルム批判の一件もあって、ソ連には距離を感じておられたわけですか。

平良:うん、そういうこともあるね。

H:ただ、『国際建築』には長くおられずに、割合早くに『新建築』に移られますよね。

平良:そうだね、『国際建築』は欧米の雑誌をみて、面白いものを選んで載せるということに限られちゃうんだけども、建築運動をやるためにはナマの人間と接触しないといけないと思ったんだ。要するに、かつてのNAUがあるじゃないですか。『国際建築』にいてもNAUとの関係がなくなったわけではないけど、運動としては切れてしまった。新たに運動をするためには人間と接触しないといけない。良いも悪いも、そのうえで判断しなくちゃいけない。『国際建築』では実態としてはアメリカに限られちゃうんですよ。アメリカはね、どんどん翻訳しても、著作権料も要らない、どんどん載せなさいということだったからね。

A:写真も版権料を取らなかったといいますね。

平良:そう。

H:ある種のプロパガンダも兼ねて情報を提供していたということですね。

平良:そうそう。

H:そういう情勢のなかでアメリカの情報を伝えるのが当時の『国際建築』であって、それでは当時の平良さんにとっては物足りなかったということですね。そして生の、日本の建築家に関わろうということで『新建築』に移った。そのように思われたのは、川添さんとお話をして歩調があったというようなことがあったのでしょうか。

平良:川添さんとは、国内の運動で接触があったわけ。つまりNAUですね。

H:『新建築』の黄金時代、つまり平良さんのほかに、川添登、宮内嘉久、宮嶋圀夫さんがいた時代がありますね。新建築社に入った最初は川添さんですよね。

平良:そうです。

H:川添さんの後に平良さんたちも入られたわけですが、みなさん左寄りなわけですよね。このメンバーがなぜ集結したのですか。社長の吉岡安五郎さんは左寄りではないと思いますが。まず、なぜ吉岡さんは川添さんを入れたのでしょうか。

平良:あれはね、三輪正弘[1925–2013]さんとか植田一豊とかが辞めていなくなっちゃったからなんだ。別に難しい話じゃなくて、いなくなっちゃったから、当時編集部に出入りしていた川添が編集長になった、ということなんだ。

H:吉岡さんはたまたまそこにいた若者を編集長に据えたというわけですか。

平良:うーん、据えたとかいう感じじゃなくて、いたのは川添だけだから、川添が編集長になっちゃった。したんじゃなく、なったんだ。川添というのはね、早稲田にいて、建築も卒業しないのに文化運動をはじめるんですよ。こどもたちを連れて、児童文学とか。そういう動きのなかで、『新建築』に関係のあった誰かと知り合って、手伝うようになったんだ。

H:清家清[1918–2005]さんですか。

平良:清家さんじゃないなあ。誰だったかな。三輪さんでもないし・・・。いずれにせよ川添の最初の奥さんは児童文学か何かをやっていた。子供もできたけどうまくいかなくなって、分かれちゃうんだな。それで2番めの奥さんが『美術手帖』か何かの編集をやっていた。彼女が川添に惚れ込んじゃったんだけど・・、その関係かもしれないなあ。彼女は編集者として活躍した人なんだ。

H:ちょっとはっきりしない感じですね。

平良:うーん。

H:いずれにしても終戦直後の『新建築』の立ち上げに携わった人たちが去った後、川添さんが編集長になり、宮嶋さんが加わり、ついで平良さん、やや遅れて宮内さんが、次々に集まったわけですね。しかし、宮嶋さんは『近代建築』にいらっしゃったし、宮内さんは彰国社で建築学大系なんかをやられていたわけで、お二人のような元気のいい編集者を各社がそう簡単に手放さないだろうとも思うのですが、川添さんが彼らを口説き落としたということなんでしょうか。

平良:まあ集結しようという話は、川添と僕のなかではあったんだ。ただ、なかで話しているあいだはいいんだが、川添は口が早いからいきなり宮内にも話して、そしたら宮内もこっちに来ると。結集する。結集してここから建築雑誌を活用して運動を、というイメージをみんな描いたんだな。宮嶋はちょっと違って、そういうことを考えていたかどうか分からないけれど、話をきいて参加した。

H:吉岡さんからすれば、編集者たちがそんなことを考えているなんて思いもしなかったでしょうね。

平良:思ってもいないよ。吉岡さんだけじゃなくて、清家さんなんかもあんまりそんなこと考えてなかったと思うよ。だけど結集したら、どうもあいつら何かやりそうだぞと。

I:「最強メンバーの結集体」と書かれていますね。★6

A:どんなヴィジョンがあったのですか。

平良:そんなヴィジョンというようなことではなくて、編集をやってれば建築家たちと接触できるじゃない。そうすれば何か膨らませていけるんじゃないかと。それはみんな同じように考えていたと思う。でも始めると違いが出てくるんだ。

H:どのあたりが違ってきたのでしょうか。

平良:それはなかなか言いにくいね。

H:たとえば建築家でいえば、川添さんは丹下健三や白井晟一[1905–83]をプッシュしますよね。

平良:それは後の方の話ですよ。

H:ではもっと早い段階から違いを感じることがあったと。

平良:うん・・・。

A:その「違い」について何かヒントを。

平良:なかなか言いにくいけども、違いがあったわけだよね。結集の前からね、お互いに。ふふふ(笑)。

H:平良さんは、川添さんよりも宮内さんとの方が付き合いが古いですよね。NAU以来ですからね[川添もNAUに参加]。

平良:うん・・・。困ったのはね、僕と宮内はいいんだけどね、宮内と川添がね、入ったらこう・・・、にらめっこして・・・。

H:宮内さんと川添さんとの違いは、平良さんの眼からはどう見えていたのですか。

平良:うん、まあ二人ともクセがあってね・・・。

H:川添さんは『新建築』を辞められた後、民俗学的な方向へいきますよね。宮内さんはジャーナリズムの線を通しますよね。そういったことからも、ある意味でお二人の違いをうかがい知ることはできるわけですけど。

平良:たしかに宮内はあくまでも建築。あれは学生の時から建築ジャーナリズム研究所っていうのをやってて。卒論か何かでそういうことをやったし。あの人は最初から建築ジャーナリストを目標にしていた。川添は違うんだ。そういうのはないんだな。ただ児童文学をやったり、美術にも興味があったし、色々なことに興味があった。のちにメタボリズムなんて、ああいう方向へ簡単に行っちゃうわけですよ。簡単にじゃないけれども、浅田孝というのが丹下さんの弟分でいたんだけど、難しい、大変な理論を持っていたわけだけど、川添はあれに巻き込まれたというか、引っ張られたんだな。それで浅田孝は、川添と平良を分けたんだ。僕は嫌われた方なんだ。川添は柔らかくて、どんどん傾いていった。

H:浅田さんから見ると宮内嘉久さんはどうなんでしょう。

平良:まあよくないでしょう。だから宮内と僕はずっと、クセは違うけれども、まあね、別々の場所にいても連絡をとりながらやってきた。

H:川添さんとはその後はあまり・・・。

平良:いやあ。丹下健三を取り込もうと二人で考えたことがあるんだ。川添と僕とで、そういう相談したことがある。川添の方が積極的だったけど、僕はまあ難しいけれどやってやれないこともないだろうからというんで。だけど、丹下さんの方が2度目の結婚か何かで、やめちゃったんだ。

H:丹下さんを取り込むというのは?

平良:NAU以来の運動とね、丹下さんとは必ずしもいい関係ではないから、丹下をこっちに取り込もうと・・・。

A:そのお話はNAUの時代ですか、それとも『新建築』に入ってからのことですか。

平良:『新建築』の時のことです。

A:するとNAUは終わっているけれども、その延長上の運動を考えておられたわけですね。

平良:そういうことです。

新建築問題

H:その後、例の「そごう」の問題(新建築問題)があって、全員解雇になってしまうわけですけど、あの過程は実際にはどのようなことだったのでしょうか。その事実は誰でも知っているわけですけど、あれが本当に「そごう」の批評文だけの問題であったのか。それとも、さきほどの「運動」の展開を吉岡さんが嫌ったのか。あるいは、そもそもその時点では川添・平良・宮内・宮嶋はすでに「結集体」といえる状態では・・・

平良:ない。

H:そういうことなんですね。あの年、川添さんは病気で入院しておられて、ただ編集後記だけはご自身がずっと書いておられた。以前川添さんにお話をうかがった際、「俺はあそこに全部書いた」、そしてそのなかで平良さんたちのことを批判したんだとおっしゃっていましたが、平良さんは川添さんの編集後記を読まれてどう思われましたか。★7

平良:僕はもう関係ないと思ったから、読むことをやめた。

H:つまり川添さんが何を言おうと平良さんには関係のないことだと。

平良:うん(小さな声で)。

A:決裂は深かったわけですね。吉岡さんとしては、あの若い編集者たちを放っておけない、あるいは分裂もあって危なっかしいというようなことがあって、「そごう」問題をきっかけに処置を、というようなことがあったのでしょうか。

平良:うーん・・・。

A:川添さんと、平良さん・宮内さんの関係がよくないという・・・。

平良:それは誰かから耳に入ってはいただろうね。何も編集部じゃなくても、誰かからね。そういうのは伝わるもんだからね(笑)。

60年安保と全共闘運動

A:60年安保のときに、平良さんは共産党を出たと書かれていますが・・・。

平良:実際にはもっと前だったと思う。要するに、50年のコミンフォルム批判以降に内部分裂があって、下の方にいた僕も分裂批判をして孤立して、除名を宣告されたんだ。様子をみてると宮本顕治主導の体制ができた。ということになると、誘いの声もかかってきて、あの分裂について自己批判をしていれば戻ってくればよいと。だけど僕はそんな自己批判はする気はない。僕が当時批判していたのは分裂をすること自体だからね。それを悪いとは思っていないから、自己批判を書いて戻る気はないと。

A:ではその後、六全協[1955年7月の日本共産党第6回全国協議会。武装闘争方針の放棄を決議]で日本共産党の基本路線が変わって、58年に一度復党されるようですね。

平良:うん。でも戻っても、やっぱりダメだと思ったのが60年安保のときだな。上を見ても、下を見ても、何も変わらない。そういう感じになってたんだ。

A:60年安保のときの全学連[全日本学生自治会総連合]に対する共産党の態度に憤慨して離党とありますね。

平良:そのとおりです。

A:これが最後ですね。

平良:うん。女性が亡くなったじゃない。

A:樺美智子[1937–60]さんですね。★8

平良:そう樺さん。あれが決定的でした。

A:平良さんは全共闘運動はどのようにご覧になっていましたか。

平良:全共闘運動は、割合プラスには考えていたんだけどね、でも難しかったね。難しいですよ、運動というのは。党活動も難しい。だいたいね、共産党がね、日本社会党と決裂した、あれは早すぎたね[60〜70年代の社共共闘の模索]。もっと前にコミュニケーションが成り立っていれば少しは事情が違ったかもしれない。あれは共産党が悪いですよ、話し合わないというのは。

戦後70年をどう振り返るか

A:最後に、平良さんは「戦後70年」を振り返ってどうご覧になりますか。

平良:そうだね・・・、僕はアメリカとの関係がどこかで切れないとどうにもならないと思っている。中国との関係も解決できないしね。朝鮮半島が北と南に分裂している状態にも何も手が打てない。これじゃダメだね。でも当面はしょうがないな。今の状態が続くんじゃないかな。いい兆候が読み取れない、いま。どう?

A:そうですね・・。

平良:もう少し時間がかかる。どこかで何かが起こらないと、この状態を変えられないね。それから中国共産党が、ヨーロッパの共産主義・社会主義運動とどう違うかも、読み取ってなかったね。毛沢東路線っていうのが過大なかたちで現れたわけだけれども、中国が毛沢東主義で統一されたわけじゃないだろうしね。今はもっと下の方で大変なことになっているわけで、中国共産党が何か大きな世界情勢の変化を起こす火種を持っていそうな気がするね。でもまだ分からない。難しいね。こんな状態になるって想像はできなかった。

A:建築についてはどうですか。

平良:建築も難しいね。建築は大きく二つに割れているんじゃない。アメリカのモダニズム運動と、日本のモダニズム運動とがズレている。僕はソ連の動きに注目しているんだけれども。あのプーチンってのはくせものだね。世界を見るときの情報量が、あの人すごいと思うんだ。まあ色々興味をもって見ているんだけれども。面白い。この人も面白いですよ、中沢新一。この人の『吉本隆明の経済学』(筑摩書房、2014)って本、これいろいろ問題あるけれども面白いから読んで感想を聞かせてください。同じ著者の『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社、2004)という本があるでしょ、あの網野という人も共産党にいて、多数派にいじめられたんだ。まあ読書だけは続けているんだけどもね。

A:雑誌『チルチンびと』(風土社)に書評を書かれているそうですね。

平良:ああ、それね。編集長の植林(麻衣)さんと雑談をして、彼女が書いているんだ。彼女もよく動く人で、活躍しているね。

A:今回は植林さんのおかげで平良さんにお会いできました。長時間にわたり本当にありがとうございました。今まで活字になっていないこと、あるいはニュアンスでしか分からなかったことについて、たくさんの示唆をいただいたように思います。 (おわり)

1)平良氏は1933年4月に赤羽の岩渕第二小学校に入学しており、1936年2月の二・二六事件は、小学校5年生ではなく、3年生の冬に経験したと考えられる。なお、「サイタサイタ・・」ではじまる教科書(尋常小学国語読本)を使用したのは1933~40年に入学した世代である。

2)荒正人(1913–79)。文芸評論家。福島県南相馬市生まれ。山口県の旧制山口高等学校で知り合った佐々木基一らとマルクス主義学生運動に熱中した。東京帝国大学英文科卒。1945年12月、荒・佐々木および平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・小田切秀雄の同人7名で『近代文学』を創刊。個人より組織を、内面より社会体制の変革を重視する共産党から距離を取り、文学=芸術の自律性、文学者個人の主体性を強調した。この対立は「「政治と文学」論争」と呼ばれる議論の応酬として知られる。また1947年12月には東京大学で『近代文学』に影響された学生党員が分派活動を行って細胞の分裂を招き、党による大量処分に発展する事件が起きた。共産党にとって、文学・芸術や文化運動は現実政治の問題でもあったのである。

3)平良氏は別のインタビューで、共産党東大細胞時代の活動についてこう語っている。「僕の学生時代は、学生の自治組織をつくる運動が盛り上がってきて、東京都学連が自治会の連合体をつくるのがその当時の目標だった。マルクス主義の影響は全国の旧制高校に伝わっていたから、その中の活発な分子が東大に入ってきたということも背景にある。ものすごく勢いのいいのは僕よりも1級下で、のちに全学連の委員長になった武井昭夫もいた。激しい左翼がそのクラスにはたくさんいて、猛烈に運動をしたんだね。彼がいたから僕もできたようなもので、僕は1級上だけれども静かに共産党に入って、工学部班の中でいろいろな活動をした。しかし、そもそも僕がこの種の運動を始めた動機は武谷三男(注2)の技術論でした。(……中略……)僕は武谷を呼んで学内で講演会を開いたりしました。同時に、住んでいた北区の赤羽で、美校(東京美術学校:今の東京藝術大学)の仲のいいのと12~13人で職工さんを集めたりして学内とは別の活動も始めた。運動に夢中になっていて、建築の勉強はあまりしないまま卒業することになった。共産党には、いつのまにか巻き込まれていたという感じです。東大の中で学生運動をしていたときは、みんなペンネームだから名前はわからなかったけれども、卒業してから、あの人が!とわかることがある。教授たちや、有名な財界人もいた」(平良敬一談/聞き手=青井哲人・日埜直彦「戦後日本と伴走して — 建築家・建築運動・メディア」、『建築雑誌』2013年11月号、p.8) 武井昭夫(1927–2010)は文芸評論家。1948年結成の全日本学生自治会総連合の初代委員長。

4)占領下日本の民主化政策で労働運動が激化したのを受け、占領軍は1947年のゼネスト中止命令以降、労働運動や共産主義勢力の弾圧に転じる(逆コース)。1949年10月、中華人民共和国が成立すると、アジア・太平洋地域の共産化に対する米国の懸念はさらに膨らんだ。翌50年1月にはコミンフォルム(スターリンが設置した東側陣営の連絡統制機関)が対米従属に甘んじる日本共産党の姿勢を批判し、「植民地収奪者」「帝国主義者」としてのアメリカに対する「民族独立」の闘争を強めることを要求、日本共産党もこれを受けて武装闘争路線(民族解放戦線)に向かう。対する占領軍は同年5月以降、共産党幹部の公職追放や逮捕などのいわゆるレッドパージに踏み切る。
NAUの崩壊(1951)については漠然とレッドパージを原因とする解釈がある。そうした解釈は、戦前1930年末の新興建築家連盟のたった1ヶ月での解散、それも「建築の共産化」という新聞報道を契機とする自壊劇の反復、といった皮肉に訴えるような面がある。これに対して、NAU内部には共産党員・元共産党員が多数おり、彼らが指導力を発揮していたことから、コミンフォルム批判による共産党指導部の動揺・分裂がNAUの統率をぐらつかせ瓦解に至ったとする平良氏の指摘は重要だろう。
コミンフォルム批判への対応をめぐって、日本共産党は「所感派」と「国際派」に分裂した。所感派の徳田球一・野坂参三はレッドパージで追放されたのをきっかけに臨時中央指導部を編成し、国際派のメンバーを除名。自らは北京に亡命して「北京機関」を設置、そこから党を指導しようとした。その後、国際派が自己批判することで日本共産党は統一を回復するが、党勢の衰えは止められなかった。この経過のなかで、平良氏は(分裂反対、党内民主主義を守れ、と主張しつつ)居住地細胞において国際派として活動したため除名宣告を受けた。この事実がまもなくNAU内部の共産党員グループに伝わったらしく、彼らとの連絡は途絶えたという。一方でNAU事務局は、戦前の旧プロレタリア文学運動に関わった作家たちが戦後つくった「新日本文学会」の会館(NAU設計、今泉善一担当)の片隅にあったが、新日本文学会は国際派の人々が「牛耳っていた」。そのため平良氏は、事務所の居心地はよいがNAUの組織からは孤立しているという「奇妙な状態」に置かれたという。ちなみに新日本文学会の所感派メンバーは同会を脱退し、『人民文学』を創刊している。共産党傘下あるいはそれに近い文化団体は、コミンフォルム批判以後の党分裂のあおりを多かれ少なかれこうむったのである。
平良氏はNAUでは「組織担当」であり(宮内嘉久は機関誌紙の編集担当)、日大・芸大など各大学に通って学生のオルグ(勧誘)に努めたが、NAU事務局として「正規に活動したのは一九四九年十二月まで」だったと振り返っている。コミンフォルム批判以降、NAUのオルグ活動は止まったのだろう。その後も50年夏頃まで事務局の仕事を続けたが、手当も支給されなくなり、NAUの組織はもはや「末期的な状態」であったという。9月には同級生の田辺員人のつてで『国際建築』編集部に入った。NAUは翌51年6月の総会を最後に崩壊する。(平良敬一「戦後建築ジャーナリズム秘史」、『建築思潮』創刊号、1993年、p.250–251、平良敬一×布野修司「建築ジャーナリズムの50年」『Glass&Architecture』1995年春号、p.4)
ところで、コミンフォルム批判以後の共産党の方針転換は、文化運動一般に(動揺や瓦解だけでなく)相当の変質をもたらした面もある。戦後まもなくのあいだ、左翼にとって民族・伝統などナショナリズムにかかわる言動はタブーであったが、これ以降は民族独立を補強する「民族文化」の積極的な礼賛・啓蒙が推奨され、逆にそれを軽視・批判する者は「近代主義者」と攻撃されるようになったのである。とりわけ共産党の主流派(所感派)の影響下にあった文化団体はいっせいに民族文化の賞賛を開始したといわれる。所感派であった石母田正らの「国民的歴史学運動」もその主な動向のひとつ。

5)ヨージェフ・レーヴァイ著・針生一郎訳「建築の伝統と近代主義」(『美術批評』 22、美術出版社、1953年10月) レーヴァイはハンガリー共産党中央にいたスターリニズムのイデオローグ。訳者の針生は美術・文芸評論家。1953年に共産党入党したが60年安保闘争時に党を批判して除名処分。生前の針生への聞き取りとして次を参照。「針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日」(インタヴュアー:建畠晢・加治屋健司/ 書き起こし:坂上しのぶ/公開日:2009年11月1日/日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ )
レーヴァイ論文に反応した平良氏の文章は、平良敬一「機能主義を超えるもの:ハンガリーの建築論争から学ぶ」『美術批評』27号、1954年3月、pp.24−29)。

6)正確には右のとおり。「建築運動の経験をもつ編集者の当時として最強のメンバーの結集体が形成されたという感じになった」(平良敬一「戦後建築ジャーナリズム秘史」、『建築思潮』創刊号、1993年、p.253)

7)新建築問題に関する『新建築』誌上記事は右のとおり。(1)1957年10月号編集後記に編集部員を解雇した旨の吉岡保五郎名の告知、(2)同11月号編集後記に川添・平良・宮内・宮嶋の連名記事、(3)同12月号に浜口隆一による吉岡社長と清家清編集長に対する批判記事および清家清の応答。同問題についての川添登の回顧として次のインタビューも参照。「川添登オーラル・ヒストリー 2009年4月3日」(聞き手=中谷礼仁、鷲田めるろ、書き起こし=戸田譲/インタビュー2009年4月3日/公開2009年6月15日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ所収 )。この記事でも必ずしも事実関係は判然としないが、他方でこの記事からは、戦後に復刊・創刊された『新建築』『国際建築』『建築文化』『近代建築』といった建築雑誌の編集者、すなわち川添・平良・宮内・宮嶋らが、編者・執筆者として互いの雑誌に相乗りしながら状況をつくり出そうとしていた様子もうかがえる。平良氏のいう「最強のメンバーの結集」とは、1953-54年に彼らが『新建築』に集結してから、この雑誌を拠点として活発に論争・運動を仕掛け、そして57年の新建築問題で「編集者の主体性を貫こうとしたぼくたちの敗北に終わ」るまでの数年間を指したものということになろうか。

8)60年安保闘争の主軸のひとつであった全学連主流派は新左翼のブント(共産主義同盟)が主導していたが、共産党は新左翼とは対立していた。樺美智子はもと共産党員だが、安保闘争時点ではブントの活動家であり、その死について共産党は、官憲の暴力を批判するとともに、新左翼の「冒険主義」にも責任があるとして樺自身をも批判した。

(注作成=青井哲人)

平良敬一
編集者・建築ジャーナリスト。1926年沖縄県宮古島生まれ。東京大学建築学科卒業。『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』の編集や立ち上げに関わり、1974年に建築思潮研究所設立。『住宅建築』『造景』を創刊。1997年日本建築学会業績賞受賞(建築ジャーナリストとしての多年にわたる業績)。

青井哲人
明治大学理工学部准教授。建築史・建築論。1970年愛知県生まれ。京都大学博士課程中退後、神戸芸術工科大学、人間環境大学をへて現職。博士(工学)。主著(共著含む)に『植民地神社と帝国日本』『彰化一九〇六年‐市区改正が都市を動かす‐』『日本建築学会120年略史』ほか。

橋本純
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年株式会社新建築社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。新建築社時代の担当書籍に『現代建築の軌跡』『日本の建築空間』ほか。

石榑督和
明治大学理工学部助教、ツバメアーキテクツ。1986年岐阜県生まれ。都市史・建築史。明治大学理工学部建築学科卒業。同大学大学院理工学研究科建築学専攻修了。博士(工学)。共著に『盛り場はヤミ市から生まれた・増補版』ほか。2015年日本建築学会奨励賞受賞。

建築討論

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。

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