話手:親泊仲眞/聞手:青井哲人・辻泰岳・張亭菲[201806特集:沖縄戦後建築史ノート][連載:建築と戦後70年 ─ 04]

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Jun 2, 2018 · 63 min read

日時:2018年3月28日(水)
場所:株式会社国建
聞手:青井哲人(A)、辻泰岳(T)、張亭菲(F)

長らく日本史そして東アジア史の政治的な諸関係が圧縮されてきた沖縄。その戦後、とりわけ1972年の「本土復帰」後の建築を牽引してきた国場幸房(以下、幸房)が2016年12月に逝去した。この聞き取りでは国場と親交を結んできた親泊仲眞さんに、戦後沖縄の風景を描きながら、それを背景として幸房氏との思い出を語っていただいた。幼少期に沖縄戦を経験した国場と復興の喧しい槌音を聞いて育った親泊との時差。建築と美術、文学、音楽といった領域のゆらぎ。そして沖縄と日本、世界との関係。こうしたいくつもの交錯のなかに、ふたりの居た風景が描き出される。


国場幸房(こくば・ゆきふさ/1939–2016)

1939年沖縄県那覇市生まれ。1963年早稲田大学第一理工学部建築学科卒。1963年大高建築事務所入社。1967年株式会社国建入社。のち同取締役会長。JIA(日本建築家協会)沖縄支部長(2003年5月~2007年5月)。2016年12月逝去。作品に國場ビル(1970年)、ムーンビーチホテル(1975年)、琉球大学キャンパス基本設計(1976年)、平戸観光ホテル蘭風(1977年)、ホテルサンコースト(1980年)、那覇市民体育館(1986年)、具志川市庁舎(1987年)、沖縄県公文書館(1995年)、読谷村文化センター(1999年)、海洋博記念公園沖縄美ら海水族館(2002年)ほか多数。

親泊仲眞(おやどまり・ちゅうしん/1948-)

1948年末に那覇市首里に生まれる。復帰前に大阪(通称釜ヶ崎)に養子。1971年九州産業大学卒。商業施設の開発や関西の建築アトリエを経て復帰後沖縄支店勤務(ムーンビーチホテルのパース描きのアルバイト)。1980年建築デザインアトリエを創業し、有限会社アトレに。初期のケンタッキーフライドチキン(1985年〜)、「クバの木に降りた家」(2005年)、「TASbox」ローコストハウス(2008年〜)。著書『琉球風画夢うつつ』(ボーダーインク、2014年)。消えた風景や現存する消えそうな風景を切り取り、水彩画とエッセイを執筆している。

*以下、[]内は記事作成者が補ったことを意味する。

親泊仲眞氏(2018年3月28日、株式会社国建にて、撮影:青井)

首里に生れ育つ

親泊:僕は琉球新報や沖縄タイムスで「琉球風画・いまはいにしえ」と題して「ローゼル川田」の名前で連載中で、琉球王府[15–19世紀の琉球王国の統治機構]時代から現在までの風景をランダムに切り取って水彩画とエッセイの合体で書いています。ちょうどこの3月の号で国場幸房さんのムーンビーチ[写真]をとりあげて、それがいままでで一番新しい[時期の]題材なんですけど、それでも1975年。僕がちょうど帰ってきたときですね、本土から。沖縄の海辺を前にした観光ホテルの先駆けだったのですが、僕らはまだ20代後半くらいだったでしょうか、あまり意識もせず眼の前で立ち上がっていくのを見ていました。今でこそ沖縄を観光する人は年900万を超えて、海辺に立つ観光ホテルもたくさんあるわけですが、そこにつながるひとつのターニング・ポイントというんですかね、そういう意味合いでとりあげたわけです。この連載ではひとつの建物について書くことはないんです、風景論ですからね。まあ首里城は特別ですが。やっぱり沖縄の人がみんなで通過した場所という意識でやっている。でもこの記事を書いたときにはもう、幸房さんは亡くなっていた。

ムーンビーチ・ホテル(国場幸房設計、恩納村、1975年)(撮影:青井、2018年)

T:これから親泊さんがなさってきたことを時系列的におうかがいしていき、そのなかで沖縄の戦後の建築や都市のこと、国建の国場幸房さんのことをお聞きしたいと思います。まずお生まれは何年ですか。

親泊:1948年の年末。1949年の1月だとも聞きました。

T:場所はどちらですか。

親泊:首里ですね。昔の琉球王府があった場所ですね。

T:ご両親は、どういったお仕事をされていたんですか。

親泊:僕が生まれる前に、唯一沖縄は地上戦の戦場になり、その時、米軍上陸時に父母は祖父が赴任した嘉手納の教会に一緒に居たそうです。祖父は首里で儒学をやったあと、伊波普猷[1876-1947、沖縄学の父]の同時代ですが、本土から沖縄のキリスト教伝道に来た原口牧師の通訳(日本語をうちなー口に)として働き、のちに伝道師となり、1918〜1930年まで糸満バプティスト教会の専任牧師から、1930年に開拓伝道として嘉手納教会に赴任、戦争になったが親子家族は無事でした。敗戦直後の仕事のない時代にアメリカ軍の基地に勤めていました。基地内で理容職の担当でした。アメリカ軍とキリスト教は親近感があったのかな。

T:ご兄弟は。

親泊:3人です。男3人の真ん中です。その頃の沖縄は、1年でだいぶん違うんです、風景が日々変わっていき、復興期の真っ只中ですね。その時代、うちの叔母が琉球政府[1952–72年の沖縄の統治機構]に勤めていて、叔父は銀行マンでした。夫婦には子どもはいませんでした。僕らは貧乏の範囲でしたから、叔父が首里から近い原野に土地を購入、敷地の周囲にモクマオウを植えたので、またたく間に高木の並木になりました。その敷地の一角に小さな家を建てて住んでいました。敷地が広かったので、インゲン畑や養鶏場もやっていましたね。ですから、小さな多角経営?でしょうか。父は教会の庭でも闘鶏を育て闘鶏ギャンブルやっていたかも。僕の幼少期にも闘鶏がいて愛おしそうに抱えていた。休みになると一人で映画を観に行ったり、マイペースでユニークで、よく働いているようでした。

T:小さい頃はご兄弟たちと、どんなところで遊んでおられましたか。

廃墟と化した首里, 1945 (出典:https://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524)

親泊:兄弟と遊ぶというより、近くの悪ガキたちとでした。市街地の郊外の高台でしたから、原野の風景です。轍のある石ころ道や野山、川がありました。ダンボールを敷いて草スキーをして蜂に刺されたり、空き地でビー玉、メンコや銃弾も拾って磨いたりしました。印象に残っているのは、子供用の三輪車を解体して板切れで手作りゴーカートをつくり、首里の坂道を転がるように走り下りたワクワク感です。僕らの世代だと那覇の街はもうできていたんですよ。地方から出稼ぎに来る人たちで街は膨らんで密集地になっていた。それが僕らの原風景です。首里もほとんど空襲でやられますから、廃墟になるわけです[写真]。[「琉球風画」の]連載の前の回で、廃墟になった教会というのを書いたんですが、これはとても大事なことで、なぜ大事かというと、いままで続いてきた風景がぜんぶなくなった、もちろん人もですよ。そうして戦争前に建てられた教会が、破壊されたまま残っていたんですよ。それをそのまま修理して、1980年代までずっとあった。最近それがまったく同じかたちで復元されたんですけどね。そういった廃墟の風景と、街が増殖していく風景。増殖というのは粗末な家ですね。トタンとかセメント瓦とかのバラックがどんどん街に増えていく。どうしてそうなったかというと、那覇の街は戦後、米軍がぜんぶ押さえてしまった、物資置き場にしたりね。それを段階的に解放していくわけです。解放されるエリア毎に、民間の人たちが家をつくっていく。戦後の那覇というのはそうやってできてきたわけです。それを見ながら僕らは育った。その頃、たとえば川遊びをすると、砲弾のくず鉄があちこちにある。機関銃はベルトが付いたままだったり。手榴弾もありました。それを投げて遊んでいるのがいたんですよ。同級生とか。もちろん不発弾ですよ。それをボールのように投げていた。

A:戦争ごっこではなく、キャッチボールの球だったわけですね。

親泊:ええ。要するにそれが何なのか、分からないわけです。とにかくキレイだから、表面を磨いてね。僕らが意識が出る[物心つく]のが1950年代半ばでしょう。その頃にそういう遊びをしていました。あとはね、首里城の丘の南斜面があり、その向かい側に繁多川という地区の対岸があって、そういう斜面でいつも草スキーをしていたんです。板は自分でつくっていた。連載の次回は復興期の風景なんですけども、木の枝でパチンコをつくったり、それをゴム管といったんですけど、石ころで小鳥を狙ったりとかね。そういう具合で、川遊びと山遊びというか。すると洞窟があったりする。それは日本軍がつくった陣地壕や沖縄県がつくった避難壕だったりして、そういうところで探検遊びもやった。少し街に降りていくと、猥雑な密集地。国際通りももう出来ていました。米軍統治下で、モノもあふれていた。

A:ご自宅は首里の中心部ですか。

親泊:いや、1700年の首里の古地図に残っているだけです。戦後はさっき言った首里の対岸の繁多川に住みました[地図]。[中心部にあったもとの]土地が無くなったからね。うちは500年前から首里王府に勤めていたんですよ[琉球士族]。1609年に島津藩が沖縄にやってきて、それから琉球王府は中国と島津と二股かけながら独立した王国として存続したわけだけど、その時代に王府に勤めててね、那覇市の歴史博物館にうちの家譜があるんですよ。

右に首里と繁多川(地図上は繁田川と表記)、左に泊港と那覇市街(1919年測図、1/25000那覇)

A:家系図ですね。

親泊:ええ。その家譜は、王府に勤める一定のランク以上の家には必ずあるんです。

T:そういうお話をご両親からうかがったことは。

親泊:言っていましたね。でも[子供の頃は]興味ないですよねえ(笑)。ところが祖母も、両親もみな亡くなったあとで王府時代の風景にも興味が出てきた。歴史研究者の友人がいるということもあるんだけど。

A:家の土地が失われたというのは。

親泊:祖父の時代と関連しているかと思います。水の豊富な井戸のある家で、近所の人たちに開放していた話を聞かされたんですが、貧乏になったはずです。戦後の話に戻ると「復金」といって、琉球復興基金というのを民間に貸し付けたわけですが、たまたま叔父が銀行務めで、叔母は琉球政府にいたわけですから、そういう情報は早く耳に入ったんでしょうね。たぶんそのおかげで、首里に近い高台に広い原野を買った。そこは那覇の街がぜんぶ見下ろせるわけですよ。だからいつも俯瞰しながら、貧しい生活をしていた(笑)。

一同:(笑)

親泊:高いところから下界を見下ろすというと、たいがいお金持ちだけどね。うちは貧しい生活をしながら、俯瞰していた。まあ皆が貧しかったんだけれども。

住まい ── 木造赤瓦葺きからコンクリートへ

T:そこにお住まいを建てられたわけですね。

親泊:僕は生まれた時のことは覚えていないわけですけどね(笑)。木造のセメント瓦葺きや赤瓦葺きというのが、戦後の風景として始まってうわっと広がったんですけど、今もまだけっこうありますよその風景は[写真]。そういう木造の家をいち早くつくって、井戸を掘ったようです。首里や繁多川は水が豊富ですからね、風水的によいところで。12~13坪くらいのコンパクトな家だけど、小さいながら赤瓦葺きでした。

その後ね、面白いんだけど、何年かしたらコンクリートブロック造に建て替えるんです。それはとっても早い時期のコンクリート住宅だった。親の友達が米軍住宅を設計していて、その人がつくってくれた。外人住宅[米軍あるいはその関係者が住む住宅]というのは平屋なんですが、それを縦に積んだような家だった。畑を広く取っていたから2階建ての小さい家になった。その印象は僕にとってはとても強い。沖縄の人が住んでいる木造の家ではなく、プラスターというか漆喰を塗っていて、その白い壁を見て育ったんだけど、僕は違和感がありました。でも外人住宅と同じように白い。だから僕の家も象徴的なんですよね。安藤忠雄の《住吉の長屋》[1975]みたいにちっちゃくて、でもあんな完成度の高いものじゃなく、ただ積み木を重ねたような家でした。

那覇市内の住宅地。トタン屋根、セメント瓦屋根、赤瓦屋根の木造住宅に、コンクリートブロック造の住宅が混じる。(撮影:親泊仲眞氏、2000年頃)

T:木造で赤瓦の家がコンクリートの家に建て替わった。そのときのことは覚えておられますか。

親泊:覚えてますね。50年以上前ですから。要するにコンクリート・ブロックを積み上げるわけ。壁式で柱がなく、角だけちょっと、つなぎとして(柱型が)あるわけだけど。2.8✕6m(ブロック寸法)で5坪の2階建て、延床10坪足らずでした。とても小さくて、マッチ箱の家と言われていた。

A:竣工は1960年頃ですか。

親泊:東京オリンピックより前。1961~62年頃かな。中学1~2年という感じ・・・いや小学6年生でした。

A:すると1960~61年頃ですね。

親泊:小学校の先生でね、今でもお付き合いのある先生がいるんだけど、その先生が家庭訪問に来たときに「マッチ箱のような家だね」と言ったことを覚えている。 木造瓦葺きからブロック造へ、っていう復興期の沖縄の住宅をいち早くどちらも経験したのは、やっぱり象徴的だと思います。

T:小学校はご自宅に近かったですか。

親泊:いや、丘を下りていった。

T:6年間ですね。

親泊:そうです。6年の間に2回くらい学校が変わったと思う。那覇の人口は50年~60年の10年間に、4万人余から22万人余と急激に増加した。

T:学校が変わって、自宅から近くなりましたか。

親泊:少し近くなった。急激な那覇市の人口増加の時代です。路地と民家の密集地帯の丘に、400人規模の学校ができた。

T:1950年代の後半が小学校[に通っている時期]ということになるのですが、授業の記憶などはいかがですか。給食はありましたか。

親泊:小学校は弁当持参です。おかずは卵焼きとインゲン豆のワンパターンで恥ずかしかった。1学年1クラス50名以上で、300名近くいたと思う。高学年の担任は若く美しい先生で、2カ年クラスの担任でした。ほぼ全科目を教えていた記憶があり、日本の教育でしたよ。50年以上過ぎても交流があり、今でもその先生はクラス全員の名前を覚えています。教会に行く子どもたちも多かったかも。とくにクリスマス・シーズン。アメリカ軍の婦人団体も頑張っている時代でした。

うちの親父は米軍のなかによく入るような仕事をしていたらしくて、いろんなものを持ってきた。そして親戚は教員が多かったんですけどね、教員ってとても貧乏でね、やめちゃって基地に勤める人もいた時代ですから、基地からタバコとか色々なものを持ってきたんですね。

T:得意な科目は。

親泊:算数や図工、国語が好きでした。叔母は福岡出身で東京から太平洋戦争時に看護婦として中国に行き、出兵していた叔父と出会った。

T:琉球政府にお勤めになっていた叔母さんですね。

親泊:その叔母さんは戦中は中国にて、怪我をした叔父を手当して、目と目があったりして・・・一緒になった。

一同:(笑)

T:それは想像ですよね(笑)。

親泊:うん。その後に熊本に行って、沖縄に帰るわけですけど。福岡は叔母の故郷。沖縄に帰って、琉球政府と銀行に勤めるわけだからラッキーだったですね。叔父の家は金持ちでしたが、兄弟なのにうちは貧乏でした。それで、その叔母が毎年正月に小倉百人一首をやって、僕は意味が分からなくてもぜんぶ覚えちゃったわけです。いま僕が文章を書いたり、俳句もやってますけども、そのリズム感のようなものはそこで学んだという気がします。

T:図工の授業は。

親泊:得意でしたね。絵はいつも「描いて」と言われてね、写真みたいに肖像を描けた。頼まれて遺影を描いたりして、今も残っているのがあります。工作も得意で、ダンボールで戦艦大和みたいなのをつくって色を塗り・・・。夏休みの工作でね。

T:中学も近いところですか。

親泊:そうですね。

A:やっぱり丘を下りていく(笑)。

親泊:そう。吉永小百合の、山の手とか下町とか、あの歌が出てくる[佐伯孝夫作詞「若い東京の屋根の下」、1963年発売、同年公開された吉永主演の同名映画の主題歌]。そうすると山の上が「山の手」になって、こんどは下町が馬鹿にされたりとかね。

T:風景画も描かれましたか。

親泊:ええ、よく描いていましたよ。守礼の門とか、国際通りとか、川辺とか。普段の風景でしたよ。画用紙を挟む画板を膝に置いて。

F:水彩ですか。

親泊:あの頃は不透明水彩ですね。

F:ポスターカラーに近いものですか。

親泊:うん。あの頃もう、ぺんてるとか、一通りありましたよ。

T:国際通りには人があふれていたわけですよね。

親泊:あの頃もう、今の風景がほとんどできあがっていました。

街がうるさい ── 復興の槌音

T:親泊さんにとって「復興期」は何年から何年までですか。ご自身の体験にもとづく理解としてはいかがでしょう。

1960年代初期の国際通(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.316)

親泊:僕らが意識が出たとき、55年からが復興期ですよね。とくに10才頃までの印象がものすごく強い。だから1960年前後までですね、街がどんどん変わっていくわけですからね。建物がどんどん建っていく。普通のおばさんまで、屋根に赤瓦をのせるためにハシゴをのぼっていましたから。市場で何か売っているようなおばさんがね。国際通りがアスファルト舗装になったのが1950年代半ばかな。とにかく建物がどんどん建つ。だから街がうるさいという感じ。それから、普通にいわれている復興期と、僕らの感じた復興期というのが重なっているんですね。意識が芽生えたタイミングと重なったということですね。いいか悪いかは別にして、そういう世代なんです。

国場幸房さんの場合は、那覇の街の空襲を覚えているんですよ。5才だったということです。廃墟になっていく街を見ながら逃げていった。10才違うだけでこんなに違う。復興期というのはやっぱり建物ですよね。粗末な建物でも何でもいいから建つ。ブロックがどんどん積まれていく。誰でも積めるんですよ、ブロックは。素人でいい。ここです、大事なのは。僕は沖縄県立博物館・美術館が、十何年か前に、沖縄復興期の風景ということで原稿を書いたんだけれども[注1]、あれはいい資料かもしれないね。トタンでしょ、セメント瓦でしょ。そして復興基金[琉球復興金融基金。縮めて「復金」と呼ばれた]で建てる家というのは型が決まっていましたから、みんな同じような家が多いです。

F:家の大きさは。

親泊:割に大きかったですね。そうそう、[ご自身の水彩画を取り出して]この絵のような。

T:これはご記憶から描いたのですか。

親泊:いえ、残っていますから、直接に見て描いています。

A:この2階建ての下見板張りのタイプも復金ですか。

親泊:これは復金の型ですよ。一部2階建ての型ね。20坪余りの規模です。木造、板張りで、赤瓦かセメント瓦葺きですが、でもほとんど赤瓦が多かったですね。復金が動き出して、街のなかがスタンダードな風景になった。今でもけっこう残っている。その後、CB造もできてきます。

T:学校の授業のなかで、過去としてまだ近かった戦争のお話がされることはありましたか。

親泊:いや、なかったですね。記憶としては。過去を振り返ることよりも、本土に追いつけということでしたから。早く追いつけという感じで。でも先生のなかには親切な人、熱心な人、そして戦争の傷を負った影のあるような人もいましたね。授業では沖縄の歴史もあまりやらなかった。

A:沖縄史がない。

親泊:日本史ですからね、教科書は。

A:台湾でも中国史を教えるけど台湾史がないという時代がありましたから、似ていますね。

親泊:そうですね。学校でも沖縄の方言を使ってはいけなかったんです。

F:台湾の学校でも昔は授業中に方言[台湾語]をしゃべると、首から札を掛けられました。

親泊:沖縄にも上の世代では「方言札」がありました。ところが田舎ではそういうことはないんですよ。戦前のあいだに皇民化教育みたいなものがすっかり出来上がっていて、きれいな日本語になっていた。逆に那覇は猥雑で、自由というか、都市なんだね。それで戦後の学校では大変だった。一番大変だったのは僕らの少し上の代だと思うけど、僕らのときも残っていた。今じゃなぜ方言を話さないんだと言われるよね。ウチナー口(沖縄口)ルネサンスです。

ドルとコザの記憶

T:学校にはいわゆる「混血」の方はいましたか。

親泊:これはね、いましたね。いい質問ですね。高嶺剛[1948-]という監督の映画で、沖縄の笑いというのもテーマなんですけどね・・・戦争のときに沖縄は地上戦で20万人くらい亡くなるわけですよ、そのときに民家をまわって沖縄の笑いを広めて元気をつけていった小那覇舞天[おなは・ぶーてん/1897–1969]がいて、この人が復興期に活躍をして沖縄を盛り上げた。沖縄のチャップリンと呼ばれるわけですけど。そういうテーマで研究をしている人がいて、4日前に僕に会いたいと大阪から来たんですよ。ブラジルの3世くらいかなと思っていたんだけど、アメラジアン[アメリカとアジアの両親をもつ子ども、1960年にパール・S・バックが使いはじめたと言われている]の女性でした。彼女はとても優秀で、家出をしてカリフォルニア大学バークレー校を出ています。父親は黒人米兵なのでしょうが誰だか分からない。ここ[沖縄]で育ち、まわりにいじめられたけれど、母親はあなたは何も悪いことはしていないと言い続けてくれたのが救いだったと。彼女は13才くらいのときアメリカに養女に出されるんですね。とてもショックだったそうです。むこうでは大事にされたけど養母とうまくいかなくて、その家を飛び出して1人で大学に通ったというんですよ。象徴的なのは、彼女はアメリカ人になろうと思ったと。で、いまは大阪大学の大学院でパフォーマンスや笑いの研究をしている。彼女の研究テーマが「沖縄の笑い」。僕はたまたま笑いをやっている人が出る映画の制作にかかわったことがあります。建築家協会の沖縄大会[2002年]があった頃ですが。戦争ですごい打撃を受けた民衆に生きる力を与えるために笑いをつくったというのがすごいと思う。僕の同級生にもアメラシアンがいましたよ。でもイジメはなかったんですよ。なぜかというと、那覇は都会だから。中学校の同級生が800人くらいいたんですよ、団塊の世代ですからね。1クラス50人で、16クラスとか。しのぎを削って遊ぶ、食べる。その1学年に5~6人いましたね。

T:親泊さんの周囲ではイジメはなかったと。友達にもアメラシアンの子はいましたか。

親泊:いましたよ。それほど深い付き合いの友達ではなかったけども。コザでもおそらくそれほどなかったと思いますが、すこし田舎に行くと、昔の風景を引きずっていますからね。苦労したようなことを、さきほどの彼女も言っていましたよ。もともと親が、ある年齢までとはいえ、愛情を注いでくれたのが大きかったんでしょう。

T:小中学校の遠足ではどこに行きましたか。

1950年代中頃のコザ十字路(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.239)
1956年のコザ市、ゲート通り(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.236)

親泊:これもいい質問ですね。歩いて中城公園に行くとか。見晴らしのよいところ。海はそれほどなかったですね。僕自身は、バスに乗ってコザへビートルズのレコードを買いに行きました。中学の頃、KSBK(在琉米軍向けの琉球放送英語放送)という米軍のラジオが民間でも聴けたので、ビートルズが街なかでかかっていた。沖縄ってそのへんすごく早かったんですね。ビートルズを皆が聞ける状況というのは沖縄が早かったんじゃないですかね。聞くともう興奮するわけでしょ。いままで吉永小百合とか演歌や民謡だったんだから、興奮するわけで、コザの街まで行くわけです。コザには質屋があって、直輸入で向こうから来たレコードをみな質屋に流していくから、たくさん売られていたんです、LPでね。1枚1ドル[360円]でね。

T:その頃はドル札が流通していたんですか。

ドル交換所(写真はコザ、1958年)(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.166)

親泊:全部ドルですよ、復帰前の沖縄は。沖縄のジャズ・ミュージシャンも基地のなかで働くわけですよ、友達にもそういうのがいますけどね。

T:あ、そうですよね。親泊さんは街でそういうジャズなどの演奏にふれることはなかったんですか。

親泊:なかったですね。もっぱらラジオです。ラジオでも、日本と一緒でね。そのころ美空ひばりとか、吉永小百合とか、加山雄三とか、俳優たちの歌がすこぶる流れていましたよ。

T:民謡のチャンネルもあったのですね。

親泊:そう。民謡と歌謡曲が同居して、KSBKのロックなんかもあって、混在していた。僕は民謡は今でこそ好きですが、当時はロックとか歌謡曲だった。そのあたりは本土と一緒だと思いますね。

大阪で「留学生」たちと「思想」に出会う

T:高校まで進んだ後はどうされたのですか。

親泊:大阪の、通称釜ヶ崎の家の養子になり、パスポートを持って福岡の大学に行きました。

T:進路はどのようにお決めになったのですか。

親泊:その頃はただ沖縄から逃げたかったということです。「港便り」というラジオ番組[「出船入船・港便り」]があって、泊港(那覇港)から基隆港へとかね。あのキールンという言葉の響きね。あれでね、基隆に行きたいと思っていた。のちに行きますけどね。

T:沖縄あるいは那覇が息苦しかったのですか。

泊港(那覇港)を出る船。写真は1968年3月の集団就職者の船。(『写真に見る沖縄戦後史』(沖縄タイムス社、1972年、p.105)

親泊:いや、そういうことじゃないんです。「港便り」なんですよ、犯人は。黒田征太郎[1939-]というイラストレーターがいますでしょ、あの人も「港便り」みたいなことでね、美空ひばりの歌を聞いて家出したといいますから。それくらい港というのは何か思わせるものがあった。それともうひとつは、養子になったんですよ僕は。さっき密貿易をして大阪に住んでいた叔父のことを話しましたが、その養子に。中学くらいから、ひとりでパスポートをもって船で神戸港から大阪へ行っていたんです。浮島丸ですね。船で大海原を風切ってね。2泊3日かかりましたよ。神戸の夜景とかね、印象的でした。そうやってずっと往復していたんですよ。でも大学は福岡でした。

T:建築を勉強したいと思ったのですか。

親泊:いやまあ、絵が得意でしたから建築デザインを選んだというようなことで、大学では普通に学んでいました。でも休みのたびに大阪に帰っていた。大阪にいくといわゆる「国費留学生」[琉球政府の資金で本土に留学する者]たちがいるんですよ。万国博覧会の会場がある吹田市に彼らの寮があった。築百年という感じの崩れそうな家があって、そこで沖縄県出身の留学生たちが一生懸命勉強をしていたんですね。そこでいろいろな書物に出会ったんですよ。哲学、文学、現代思想など・・・。

T:県人会の寮ですか。

親泊:県が建てた寮ですね。そこで僕は夏休みや春休みなどはずっと過ごしていたんですよ。

T:その頃は沖縄にはときどき帰られましたか。

高度成長期の西成区(釜ヶ崎)

親泊:いや、もうあんまり。西成区の釜ヶ崎(通称)という、よく暴動もある労働者の街。西成警察署の近く、ほら天下茶屋とか萩之茶屋とかね、暴動が起こるわけ、三角公園の近くです。そこに叔父たちは家をつくって小料理屋をやって、それがヒットしたわけですね。その日暮らしの労働者が客ですから、今日の金は今日使うわけですよね。その2階に僕は住んで、そこから吹田の学生寮に遊びにいった。

T:大阪が拠点になったのは何歳頃からですか。

A:養子になられた時期から順にいくと・・・

親泊:養子になったのが中学で、高校までは沖縄に居ました。中学からはときどき大阪に遊びに行く感じだったわけですけど、大学は福岡ですから、休みになると大阪の家にいたわけ。

T:寮の名前は

親泊:沖縄県千里丘寮。そういうような名前でしたね。

T:大学に通う時は福岡にお住まいだったわけですよね。

親泊:ええ。市内の香住ケ丘というところにひとりで下宿ですね。箱崎に親戚がいて中学の教員をしていたのでいつもそこに遊びにいったり。

F:さきほどの大阪の寮ですが「沖縄県営学生寮」というのが今でもありますね。

親泊:そうですか。そこから巣立った人たちは多いんですよ。

T:大学の卒業年は。

親泊:復帰の年の前に卒業じゃないかな。

A:1967年入学、1971年卒業ということですね。

親泊:そうです。あの頃は大変だったんですよ。沖縄では復帰への賛否が入り乱れて、5.15[1972年5月15日の沖縄返還]は大変だったということです。後から聞く話ですけどね、僕は福岡や大阪にいたわけだし、復帰についてはニュースメディアでふれていた。

A:あまり現実味がなかったんですね。

親泊:そうだね。ただ、僕よりすこし上の先輩たちは学生運動をやっていた。

T:大阪におられたのは春・夏・冬の休みだけですから・・

親泊:そう、それほど時間的に長かったわけではないけど、中身が濃かったのです。

T:吹田というと大阪万博に向けた工事も活発だったと思います。今ほど開発されてはいなかったでしょうが。

親泊:そうです。西成の方は活気に満ちていてね。那覇が猥雑と言いましたが、比べ物にならないほど猥雑でした。危ない目に何度も遭いましたよ。

A:大学では建築は面白いと思われましたか。

親泊:それほど思わなかったです。太宰治や三島由紀夫、サルトルなどにかぶれていました。ただしデザイン系でしたから、地方都市の福岡には葉祥栄さんの「葉デザイン事務所」があり、雑誌『SD』(スペースデザイン)を読んでいたりしました。倉俣史朗の空間デザインや店舗設計に惹かれてました。等身大のスケールから何か既成の概念を変えるという感じでした。

T:印象に残った先生はいましたか。

親泊:早稲田出身で東京から製図の授業に来ている先生がいました。卒業後もときどき沖縄に遊びにいらして泡盛と沖縄料理を楽しんでいましたね。九州でも学生運動はありましたけど、千里丘寮[沖縄県学生寮大阪寮]の清貧学生たちは熱かった。友人の学生の部屋は本が山積みで、僕は図書室代わりにして中原中也、太宰治、三島由紀夫、サルトルなどにのめり込んで頭が散らかっていきました。中核派や革マル派もいたりして・・・。3年の頃か、福岡の部屋でボーッとテレビ[モノクロ]を見ていたら、三島由紀夫が市ヶ谷で演説したあと自決したというニュースが流れ、ショックを受けました。リアルタイムで読んでいたこともあり・・・。

たぶんその頃の学生運動と沖闘委[沖縄闘争学生委員会]と連動していた部分があったのかもしれません。69〜70年から本土復帰へと重なり合ったのかな。僕はノンポリでしたけど。

T:ご自身でそういう本を読んでおられた。

親泊:文学もね。太宰治、三島由紀夫。中原中也の詩に没入したり。建築は僕にとっては世界の一部であり、生活をするためのものであって。もちろん好きですが。ほかの世界に触れたことが本当に大きい。

T:卒業制作はどういったことを。

Jean Paul Sartre, Hui Clos by Michel Vitold, Christiane Lenier, Gaby Sylvia and R.J. Chauffard(LP, 1965)

親泊:あの頃は意味も分からず哲学書を読んで、やたらと難しい言葉を使っていたわけですが、「虚無思想的な空間」だったと思いますね。あの頃はいやにニヒリズムとか、萩原朔太郎とか、もう忘れちゃったけど。そういう眼差しでした。サルトルの実存主義をよく読んでいたんです。サルトルの「出口なし」[Jean Paul Sartre, Hui Clos, 1945]という戯曲を空間にした。入口はあるが出口がなく閉じ込められる、鏡がなくて自分を見ることはできない。そこには色々な人がいるが、自分を見ることができるのは他者である。そのなかでケンカがはじまる。そうして人間の関係性と存在とは何かが問われる。なんかそういう戯曲を空間に表現した記憶があります。まあ誰にも相手にされなかった。

T:卒業した後はどうされたんですか。大学院には進まれなかった。

親泊:進んでいません。関西のショッピングセンターを企画している事務所と、その後、建築アトリエに勤めました。

F:ショッピング・センターというのは。

親泊:ダイエーがあちこちにショッピングセンターを出す時代でね[1970年代〜]。

T:何年間くらいですか。

親泊:3~4年ですね。そして幸房さんのムーンビーチが完成する1975年までに沖縄に帰るわけです。そこでアルバイトをしたんです。

T:1967年~71年までが大学生で、そのなかで本を読み漁り、学生の仲間や先輩から影響を受け、あるいは万博があった。でも、その頃は沖縄のことは日常のなかではあまり考えておられなかったわけですね。それから沖縄にお帰りになるまでの間、企画や設計のお仕事をされている間にお考えに変化があったのですか。

親泊:本土復帰の沖縄が活気があり、「沖縄海洋博覧会」の開催が決定されていました。その流れの端っこにでもと思い、何となくでした。

T:ベトナム反戦運動もありましたか。

親泊:米軍による北爆はすでに65年くらいに開始していて、嘉手納飛行場からB52爆撃機が飛び立っていました。サイゴン陥落が1975年で、日本では沖縄問題はさほど注目されていなかったはず。ベトナム反戦運動で世界が沖縄に注目したのは、沖縄の米軍基地からベトナム戦争にかなり動員されたこと。コザの特飲街はつかの間の快楽に浸る米軍兵士たちで賑わっていましたが、現地ではベトナム人が殺されていくという悲惨な状況でしたよね。そんなわけで、ベトナム反戦から沖縄はクローズアップされたと思う。ベ平連[ベトナムに平和を!市民連合、1965–74]の運動もありましたね。やたらとフォーク・ソングが流行ってね。

T:その頃、親泊さんはどんな曲が好きでしたか。

親泊:ビートルズは中学の頃からラジオで流れていましたし、ボブ・ディラン[Bob Dylan, 1941-]やジョン・バエズ[Joan Chandos Baez, 1941-]とか、日本もフォークの時代です。ワイルドワンズ「思い出の渚」、ちあきなおみ「4つのお願い」は部屋にポスターまで貼っていた。

T:演奏もされますか。

親泊:適当にピアノやギターをやったり。今も続けています。楽譜があればぶっつけ本番で人の歌の伴奏やったり。

T:当時はその寮から皆さんデモに出かけていくわけですよね。親泊さんも行かれましたか。

親泊:何度か行きましたよ。

A:寮には何人くらいの学生さんが住んでいましたか。

親泊:2階建てで、割に多かったような・・・

A:20~30人くらいですか。

親泊:うん、そのくらいですね。親しい人は4〜5人。

A:そのうち半分くらいの人が色々な活動をしていた。

親泊:そう。もちろん勉強だけしている人もいました。

A:親泊さんは彼らをみて、この人は新左翼のこのセクト、あの人はあのセクトだとか、あるいは彼はノンセクトの全共闘だとか、そういう区別はつきましたか。

親泊:そうですね、教えてくれたりしましたから。中核派や革マル派、民青がいた。のちに県庁に勤める人なんですが、とくにその人に影響を受けました。思想とか文学とか。吉本隆明の『共同幻想論』をくれた人です。

A:政治的な党派や傾向によって寮の人たちとの付き合いが違うということはありましたか。

親泊:それは関係ないですね。ただ、酒を飲めばケンカがはじまります。沖縄に帰っても、マスコミに勤めた人たちとずっと付き合いがありましてね。その後『沖縄大百科事典』[沖縄タイムス社、1983]というのができたんですよ。すごくいい本ですけどね。20名くらいのプロジェクトですけど、それを引っ張った人も全共闘の世代(東京で)です。

A:寮には沖縄出身でない人たちが遊びに来ることもありましたか。

親泊:たまにありました。僕は休みの時期しかいませんでしたが。

A:すると、沖縄出身学生とそうでない学生との考え方の違いを感じることも多かったのではないでしょうか。

親泊:それはかなり大きい。沖縄は、一般の学生たちにとっては未知の遠い所だったかもしれません。

A:とくに沖縄の地位をめぐる議論になったりすると。

親泊:そういう議論にもなりましたね。帰ってからでもその種の議論は激しかったですよ。

A:寮にいた学生さんたちは、沖縄を出ようと思って出た人が多いのでしょうか。それとも沖縄に戻って仕事をしたい、沖縄をよくしたいと思って留学するのでしょうか。あるいは吹田の寮のように留学先で議論を闘わすうちに、意識が芽生えて帰って何かをしなければという気持ちになるのでしょうか。

親泊:うんうん、それでしょうね。学生運動を一生懸命やった活動家が沖縄で精神病院に勤務した後、地域の精神医療を考え、診療所を続けています。その「小規模作業所」のデザインをしました。通院者にデッサンを教えたこともあります。

沖縄へ戻る ── 本土復帰と沖縄国際海洋博覧会

A:親泊さんご自身が沖縄に戻ると決められたのはなぜですか?

親泊:これはね、食べられなくなったからですね。復帰後。73年頃かなあ。給料が安いから、生活が厳しくなった。沖縄に帰れば銀行勤めの叔父もいましたから。

T:あるいはその頃の沖縄には仕事が多かった。

沖縄海洋博建築写真集編集委員会編『沖縄海洋博建築写真集:自然と海と人間の記録』(Expo ’75 Okinawa Architecture in Photographs/新建築社、1975年)

親泊:偶然にですよ。海洋博[沖縄国際海洋博覧会、1975 年]に向かう時期ですからね。ムーンビーチができるわけですし。最初は大阪の設計事務所が沖縄に出張所を出したんですよ。パアスとかいう名前でしたが、今はもうその事務所はありません。僕はそこに1年間いたので給料を保証されて、仕事をつなぐことができたんです。

F:奥さまは大阪の方ですか。

親泊:京都府です。偶然に会ったんですよ。京都の南から奈良市役所に勤めていて、僕は大阪に通勤していたんですが、釜ヶ崎は危ないから奈良の学園前に下宿をすることにして、奈良市役所の出張所に住民票を取りに行ったら、そこに彼女がいた。京都といっても南の方の、宇治茶(和束茶)の茶畑の娘で、木津とか山城の国、万葉の郷です。でも父親が沖縄戦で戦死していた。これも偶然。彼女は僕より4つ上です。それで沖縄戦の南部で、宜野湾の嘉数(かかず)からどんどん追われていってね、そこで亡くなった、ということだけは知っているんだけど、遺骨も何も見つかっていない。「平和の礎」[糸満市にある平和祈念公園の刻銘石碑]に名前だけ刻まれていますけどね。だから妻は母親に育てられた。代々続いてきたお茶農家です。

T:戻ってこられたのは那覇ですね。その頃お世話になったのはどういった方々でしたか。

親泊:偶然、うちの叔父が國場組[建設請負会社、1931年に創業]のビル[国場幸房設計、1970年]のうえにレストランの役員をしていたんです、銀行を辞めてね。そのおかげで國場組の下請けの仕事をまわしてもらったりして。(当時の)沖縄のケンタッキー[日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社の店舗等]はぜんぶデザインしたんです。そのフランチャイズの権利を國場組が持っていたんですね。それで僕は食べられた。

T:[資料で一群の建築家の名前を示しながら]これは海洋博の設計共同体なんですが・・

親泊:この人たちは僕よりずっと上の人たちですね。でもみんな知っていますよ。僕らが20代の頃に、彼らはもう親の世代、50代かな。大濱信春さん、大城龍太郎さん、この人達がもう一生懸命ね。そして、呉我春明さん。この人にはとってもかわいがられたんです。のちに、呉我さんが創設した専門学校でデザインの講義をしていました。

T:戻ってこられて、沖縄の建築家のみなさんにはあたたかく受け入れられた。

親泊:知り合いだけです。特技を持っていたからかもしれない。透視図が描けたからね。他に透視図を描けるのが少なかったので。(笑)

一同:(笑)

親泊:当時は全部手描きでしょう。僕はアルバイトでパース(完成予想図)を描いて、しのいだ。

T:大阪でショッピング・センターの企画の会社におられた時の仕事は・・

親泊:まあ小間使いですよ、新入社員なんだから。でも何かプランができたらこれを絵に描いてと言われてササッと描いていた。

T:着彩された完成予想図のようなものですか。

親泊:そうそう。沖縄では海洋博やその後のコンペをみな一生懸命やっていました。そういう事務所に頼まれてね。

T:お付き合いのあった建築家は。

親泊:大城龍太郎[1905–1992]さんはお元気でしたね。

T:金城信吉[1934–84]さんは。

親泊:信吉さんはときどき夜会で見ました。パビリオンという名前の店があって、海勢頭豊[うみせど・ゆたか/1943-]というフォーク歌手の店で、建築家や画家、文学者などが入り乱れて議論していた。信吉さんはその中心人物でした。僕らは遠巻きにして、ときどきああだこうだと言うくらいでしたけどね、かなり歳が離れていますから。仲座久雄[1904–62]さんはもういなかったですが、大村重信さんも知ってます。

T:もう少し世代の近い方はいかがですか。真喜志好一[1943-]さんとか。

親泊:会う機会は少ないですが、会合などで偶然会ったときによく雑談をします。辺野古もしかり、高江のヘリパッドなどに関して「沖縄・生物多様性市民ネットワーク」など、積極的な社会活動をしていますね。彼が、県庁の廊下で座り込みをしているとき、偶然通りかかり、「お前も座れ」と言われ、立ち去ったんだけど(笑)。洲鎌朝夫[1943–2008]さんは天才的だったかも。スケッチも上手かったし、筆力もあった。文筆家、詩人、美術家との交流が深く、金城信吉さんたちとひとつのネットワークをつくっていたはずです。二人とも亡くなったのですが、二人の追悼文を沖縄の詩人が書いています。同世代では本庄正之さんや伊志嶺敏子さんですね。小さい島ですから距離も近いけど、会う機会は少ない。

F:みなさんパビリオンに入り浸っていたのですか。

親泊:いや、通っていたのは洲鎌さんや金城さんで、彼らは美術家や文筆家、詩人らとの交流が深く、ときどき国場さんが。パビリオンはサロン的な役割を果たしたと思います。僕は新聞の文化欄に駄文を書いたりしていたので、共通の知人が多く、遠くで見てました。「すきま」にいた感じで、身近でもなく離れてもいない。中途半端な感じです。本庄さんはよく知っているかも。

沖縄と地域主義について

T:その頃に竣工した主な建築物としては、ムーンビーチ[国場幸房/1975年]、アクアポリス[菊竹清訓ほか/1975年]、沖縄館[金城信吉/1975年]、今帰仁村中央公民館.[象設計集団/1975年]や名護市庁舎[象設計集団/1981年]などがあがるかと思いますが、そういった建築物との関わりなどはいかがですか。

親泊:僕は生活で精一杯ですからね、商業建築を中心にしながら住宅をやったりして、要するに「個」ですよ。一般的には沖縄は公共の割合が高くて、設計事務所で民間だけにしても食べていけそうなのは国建くらいかもしれません。でも僕はほそぼそと民間だけでやってきました。沖縄に戻ってきてすぐ、半年くらいの間だったと思いますが、ムーンビーチにアルバイトで関わって、すごく印象に残っている。海岸と砂浜から一体化するようにピロティがあってね。名護市庁舎はアトリエ・ガィィの佐久川一さんが詳しい。

沖縄海洋博 沖縄館(設計=海洋博沖縄設計共同企業体[金城信吉]、1974年)(出典『沖縄海洋博建築写真集:自然と海と人間の記録』)

沖縄海洋博覧会会場「沖縄館」の赤瓦の大屋根には圧倒されました。プランは正方形だった記憶があります。ちょうどその近くに「多目的ホール」の計画コンペに呉我さんの事務所も参加していて、イメージの完成予想図を描き、デザインも勝手にやった気がします。
名護市庁舎は、その時代性もあると思いますが、あの骨組みとアサギテラスが色彩も影響しているのか遺跡を思わせる感じで、名護の街に現れました。地域性と風土性の入念なリサーチと解読がなされたと思います。

図12 名護市庁舎(象設計集団設計、名護市、1981年)(撮影:青井、2018年)

T:名護市庁舎は当時、建築に関する雑誌などでも話題になったわけですが、同時代的にどう見ておられましたか。あるいはいまのご意見でもよいのですが。

親泊:これはねえ、意見が大きく分かれるかもしれないんだけど。あの時代って、ヴァナキュラーっていうのかな、風土的、土着的、そういうふうなものが大きなうねりを持った時代だったのかなと思うのだけど、僕らは遠くから、ただ見ているという感じではあったんですね。時代の潮流だったのかなという。こちらはリアリズム+イージーモダン派ですから、よくあれだけの時間を設計にかけていけるなあと感心する。沖縄の空間が眼差されたときの現れ方のひとつとして、充実感を覚えますね。やはり、涼しい日陰だし、室内もそうですが書類も風に吹かれる。沖縄特有の気だるさもあり油断して座れる空間だと思いますよ。そこには緊張した世界がない。蓆を敷いて一休みしてもいいですよって感じです。あれだけ綿密に計画して油断できる空間を創出した功績は大ですね。

T:地域性、あるいは地域主義といったことについてどうお考えですか。

親泊:さきほどお話した、小学校6年の時にできたコンクリートのマッチ箱のような小さな家。あれが僕にとっては大きいのかな、後から考えれば。公共建築なら地域性の表現に時間と金が使えるけれども、富裕層の豪邸はともかく、いわゆる大衆というのは個人ではそうはいかない。いつも、何となくそこのところに戻っていく。そこで大事なのがマテリアルですね。沖縄ではコンクリート・ブロックがどこにいってもマテリアルとして存在感があるし、合理的だと思う。そういうことを子どもの頃に目の前で見ていた。普通のおばさんたちがブロックをつくり、自分たちで積んでいくわけでしょう。多少の指導があれば誰でもできる、どこでもできる。だから、沖縄の風景の面白さというのは本島だけじゃなくて、波照間島に行っても石垣島に行っても、どこに行ってもブロックの民家があるということ。それは復興期に米軍がもたらした技術を、大衆が自分のものにしてつくっていったという歴史があるわけですよね。デザインはともかく、簡単につくれて、割に強い。そこに青色とかいろんなダサい色が塗られるんだけれども、それはともかく、同じマテリアルが同時期に広がっていって、いまも原風景を成立させている。その条件は合理性、安さ、そしてイージーさ。そこに、沖縄の風土というのならば、暑い、眩しいといって庇をくっつければいいのであって、というようにして風景ができている。地域性や地域主義の冠をのせて、硬直することの危うさがそこに同時に発生します。

ブロックのある沖縄のスタンダードな路地風景(糸満市)(親泊仲眞氏撮影)

A:つまり、表現として「沖縄らしさ」を押し出したい、というようなことは親泊さんは考えない。

親泊:ないですね。つまり「沖縄らしさ」とは何なのかということです。どの時代で切り取ればいいのか。500年前の風景? 誰でも「沖縄らしさ」って何気なく言うんですけど、どこが? 何をもって? というね。「沖縄らしさ」の紋切り型を繰り返すと言葉が軽くなって、逆に無意識に根拠のないものを共有しているという怖さもあるでしょう。「沖縄らしさ」と言う場合、もちろん自然の風土というのはどうしてもあると僕は思いますよ。日差しが強い、湿気が強いというようなね。でも逆にいえばそれはどこにでもあることなわけですよ。それは当然として考えたときに、僕はやっぱりあのブロックの家を、ひとつの例として、あくまで例としてですよ、あれが広がったという事実があるんだと思います。

親泊仲眞(ローゼル川田)氏による水彩画(糸満市、2008年)

T:率直に、いまおっしゃったように何をもって沖縄らしさとするのかという問いがついてまわるにもかかわらず、「沖縄らしさ」のイメージが[「本土」から]与えられたり、それに対して沖縄という共同性やアイデンティティを強調したり、差異を見出そうとしていることに、なぜ・・・

親泊:そういうように感じましたか? たぶんね、沖縄の人たちと話していてもずっとそういう[「沖縄らしさ」という]言葉が出てくることが多いんですね。ぼくは幸房さんと雑談のなかでよくおしゃべりして考え方がフィットするんだけど、みんな過剰に肩に力が入りすぎているんじゃないかという気がします。たぶんね、思考が硬直化しているんです。沖縄はこうあるべきだとかね、そういう圧力があちこちから来て、それが積み重なって無意識のうちにベースになっているという。はっきりいえば、30年もそういう話ばかり聞かされていると飽きてくるわけですよ。逆に、もっと深く問おうとすると、相手は応えられなくなってしまう。皆さんはどう思いますか?

那覇市民会館(元那覇市公会堂、現代建築設計事務所(金城信吉他)、1972年)(撮影:青井、2018年)

T:たとえば現在、那覇市民会館[現代建築設計事務所(金城信吉他)、1972年]についても取り壊しか保存かという問題がありますが、その際も主に地域性に関する議論になりがちですよね。地域主義という問うための方法と評価のありかたが[竣工時から]更新されていないように思います。2018年には2018年の問題があるはずだから、地域性と一口にいってもそれそのものを点検しなければいけないのではないか、という印象があります。

A:親泊さんがさきほどおっしゃられた、風景を成立させるマテリアルとしてのコンクリートというお話はとても魅力的でした。コンクリートは、ある場合にはブロックになり、そのかたちをとることで誰でも担げ、積まれる。眩しければ庇が付けられ、風を通したければ花ブロックになる。そのようにして人の身の丈、つまりお金や労力をどれだけ出せるか、土地をどれだけ用意できるか、どう生きるかといった事実に即すことで具体的な形になっていく。あるいは、公共[県・市町村]の仕事なら同じマテリアルがラーメン構造になり、ピロティを力強く持ち上げてその下に広場という形を産んでいく。そのようにしてひとつのマテリアルが個別のかたちをとり、全体としては共通性のある沖縄の風景をつくっていく。なるほどと思いました。しかし一方では、建築家は「なっていく」というだけでは設計ができない、ということがどうしてもありますよね。そこではやっぱり赤瓦の屋根が、ひんぷんが、石積みが・・というように表現が強いられていく[その根拠の明示化を自身に課す]のは避けがたいのかもしれません。

国場幸房との思い出

A:そのあたりを幸房さんはどのように考えておられたのか、という点に興味を持っています。

親泊:連載の記事にも書いたんですが。この詩集『あすら』はたぶん建築界の人には知られていないと思いますし、500部くらいしか出していないけれども、詩集としては割に歴史があるんですよ。このなかにね、僕は幸房さんへの追悼を書きました。2ページの、詩というよりは散文ですが、彼の人となりや建築論を表していると思う。他の方にはどのように話されたのかわかりませんが「ガジュマルのような建築・・・」という短いフレーズです。それが沖縄の土着性や風土、地域性だと思いますが、あわせて合理性を追求する人だと実感しましたね。それはローコスト感覚につながりますが、豊かなガジュマルの広がりがあり、「美ら海水族館」の大きなガラス面(アクリル板)に途中フレームで区切らずに一面として表した。それも象徴的合理性というのか、そういう言葉はないかもしれないけど、そんなふうに理解しています。

[聞き取りを小休止]

A:親泊さんが沖縄に戻ってムーンビーチの仕事をされたというのは、国建のアルバイトであったという理解でよいですか。

親泊:そう。

A:それが幸房さんに会われた最初ですか。

親泊:そうです。

A:その時の印象はいかがでしたか。幸房さん自身と、それから事務所の様子など。

親泊:その後、僕は彼が亡くなるまで個人的にかなり密に付き合ったので、最初の印象は遠くなってしまったのですけど、彼は若い時からボソボソと喋る人でした。むかしは彼も僕も痩せていて、ちょうど10歳、幸房さんの方が先輩でした。彼はね、復帰より前に本土から帰ってきて、30歳のときに國場組の社屋をやって、[ムーンビーチができる75年は35~36歳で]ちょうど忙しい時期でした。僕らは10歳下の20代の後半になったところでただうろうろしているだけです。何しろ国建は大きな事務所です。ムーンビーチホテルの発案者であったお兄さんの幸一郎さんが創立された。事務所にいると、幸房さんはただ目の前を通り過ぎたり、何かあれば覗きに来たり、その程度の印象しかなくて。ただ鋭く優しいという感じ。それと言葉は何を言っているのか分からない。

F:ボソボソと声が小さいのですか。

親泊:発音がはっきりしないんです。これはもう誰にも共通した皆の印象です。人が優しいということと、東京の第一線でやってきたという空気感みたいなものが漂って。僕はその下の担当者の人と打合せをして、完成予想図を描いたりして往復していた。そのときに幸房さんと喋ることはほとんどなかった。ただ通り過ぎたり、覗きに来たり。それが75年にムーンビーチができる前の時期のことで、半年くらいは関わったけれど、じつはその後、しばらくはもう会わないわけですよ。その頃の国建はもう100人くらいいたんです。[『沖縄建築 創立40周年記念誌』vol. 28, 社団法人沖縄建築士会, 1996年8月 掲載の沖縄の建築家に関する系譜図を指さしながら]ここに名前のある人たちも国建出身がたくさんいる。僕が一緒に遊んでいたのは、国建のなかでも世代の近い人たちですね。幸房さんも、社内の同世代の人たちと付き合っていたでしょう。それから僕はケンタッキーの店舗設計の仕事を、國場組からいただいたのですが、その仕事は10年以上続きました。そういった建物のオープニングのときに、幸房さんが遊びにきてくれることがありました。ときどき、僕は透視図を描くために呼ばれました。そういうかたちで僕は国建さんにすごくお世話になりました。そうこうするうちに、色々な場所で幸房さんに会うようになりました。どういう場所かというと、沖縄の美術家たちが集まる発表会や展覧会のような場所ですね。建築界でそういう場所にいつもいるのは幸房さんと僕だったんです。幸房さんはだんだん僕に声をかけてよく、そういう場所に出歩くようになった。それに彼はギターをやって、僕はピアノをやったり、音楽のある場所にも彼はよく来たりして。30年くらいになりますが、ある意味では、だから長く続いたのかもしれないなと思います。遊び人でした。麻雀も囲碁も強い、ゴルフは週に1~2回、ずっとやりながら、仕事も真剣にやる。僕はもともと沖縄に帰ってきた時から、画家や詩人や音楽家といった人たちに友達が多かったんだけど、幸房さんもそうやって・・・

T:写真家の方は。

親泊:写真家の人もいますね。比嘉豊光[1950-]とかね[注2]。美術の展覧会のレセプションにいったり・・。僕は会費が払えず退会しましたが、建築家協会が会員の遊び場[サロン]をつくったとき、「琉球浪漫座」というんだけど、その名前を僕が付けて、そこに中古のピアノを1台運んで、ときどき遊んでいた。お披露目のときは僕の知り合いのソプラノ歌手を連れてきて皆に楽しんでもらったり。

A:そういったご関係になったのは、ムーンビーチホテルが終わって、しばらく間が空いて、だいたい10年後くらいですか。

親泊:そうだね、それくらいじゃないかな。あまり記憶がないですけどね。

F:親泊さんからみて、10歳上の幸房さんは天の上の方にいる感じですか、それとも。

親泊:それはないですね。最初はもちろんそうですけどね。

F:それからだんだん、いろんなところで会ったりして覚えてもらったという感じですか。

親泊:むしろ、前から僕がそういうところに出入りしているもんだから、なんであいつはいるんだろうと興味を持って近づいたんじゃない? 僕は大阪の寮で現代思想とか文学に出会って、沖縄でもその延長みたいな感じだったし、そのときの彼らが沖縄に帰って新聞記者をやっていたりするでしょう。幸房さんからすれば不思議なやつだったんじゃないですか。高嶺監督『夢幻琉球つるヘンリー』を製作上映した際も、真先に観に来てくれた。彼が関心のある人たちと僕は付き合いがあるわけだから、僕が一緒にいることで、安心感があったんだと思います。もちろん彼は彼の世代に、美術や文学の友人がいたわけだけど、そういう共通の友人が多かったわけです。

A:ふたりで建築の話はしなさそうですね。

親泊:あまりしなかった。もちろんやるときはやるわけですけど、しょっちゅう建築の話ってできないですよね。だって映画のこととか、面白い話がいっぱいあるじゃない。いつも言っていたのは「ガジュマル建築」ということで、ガジュマルっていう照葉樹の強い葉っぱの木陰に入ると、強い光はカットされて、風が吹いてきて・・・僕はいつでもそれを意識していると。それがムーンビーチに生きている。下がピロティーで上がガジュマルの葉っぱなんですよ。その木陰に誰でもが集って、風が吹いて、海が見える。これはやっぱりすごいですね、一貫していましたね。それ以外は枝葉であるというように彼は考えていた。もうひとつは幼い頃に住んだ山原[やんばる、沖縄本島北部の俗称]のおばあさんと一緒の家に住んでいたときの記憶。昔の家だから、木造で、軒が出て、風が通ってという。そういう原風景がすごく大きいということはよく言っていましたね。

那覇市民体育館(国場幸房、那覇市1986年、撮影:青井、2018年)

T:幸房さんの好きな音楽は。

親泊:クラシックでしたね。あとはフラメンコとか。

A:美術の話はよくされたわけですよね。

親泊:そうですね。彼は彼で美術家の知り合いは多かったですからね、同世代を中心に。沖縄の画壇のトップにいて、色々な展覧会を審査するような人たちね。主に抽象画でしたね。沖縄の良さというのは、色々な分野が近いということですよね、距離感として。沖縄のスケール感はちょうどいい小ささ。そして幸房さんは人柄の魅力があった。それはもう別格でしたね。人を惹き付ける。言葉は何言っているのか分からないのにね。

A:不思議ですね。

親泊:不思議だね。あの人がガジュマルだったのかもしれないね。

T:一方で、さきほどのお話のように沖縄は小さいので分野ごとにグループができて、それが重なり合うということがおきやすいかわりに、あのグループには違和感があると言ったり、別のグループをつくったりする距離を取りにくいということもあるのではないでしょうか。

親泊:うん、ありますね。優しい排他性とでも。いろんな面で、幸房さんが亡くなって寂しがっていますね。彼がもつスケールの大きさなのかもしれません。

T:具体的にどういった画家とつながりがあるというようなことについて、何かにまとまった資料などはありますか。

親泊:ないですね。

A:たとえばお1人、幸房さんの交友関係を象徴するような画家の方をあげるとすれば。

親泊:真喜志勉(故人)さんですネ。それに喜久村徳男[1937-]さん。僕も親しい方々ですが、沖展の画家で、1~2年に1度生徒たちを集めて展示会をやるんですが、幸房さんが亡くなる2~3ヶ月前にもその展覧会があり、会場で会いました。

T:批評家の方はいかがですか。

親泊:たとえば川満信一[1932-]さんという、沖縄タイムスの元文化部長。いま85歳だけど元気ですね。長いこと記者をされていましたけど、『新沖縄文学』という、1960年代に立ち上げた季刊雑誌があって、これは沖縄の文芸シーンを語るにはとても重要かつ貴重な本なんですけどね。もう終わっていますが、その編集長でもあったんです。この人は建築家の洲鎌さんが亡くなったときの追悼を書かれていますね。彼らは深く、そして広がっていく言葉をもっていましたね。とにかくね、幸房さんには何か別格な感じがあった。それとね、人に興味があったね。

A:こういう絵が好きだというようなことは。

親泊:抽象的な絵でしたね。彼が好きなのは、心象的なものと宇宙的なものというか。彼は最初は物理学に進もうかなと思っていたくらい。そういう意味でも何かものと宇宙をつなぐというか・・・何か宇宙観みたいなもの、距離感みたいなものがあったんじゃないですかね。

T:リアリズムの絵画とか、あるいはポップ・アートとかにはあまり。

親泊:そうですね、デュシャン[Marcel Duchamp/1887-1968]やウォーホル[Andy Warhol/1928–87]、ポロック[Jackson Pollock/1912–56]の話をしたこともありましたが、それほど興味があるようではなかった。

A:尊敬する建築家は? 師匠であった大高正人[1923–2010]さんはもちろんでしょうが。

親泊:他の人の方が詳しいだろうけど、吉村順三[1908–1997]さんのことは聞いたことがありますね。東京にいたとき、メタボリズムが盛り上がっていたでしょう、あの方向には行かなかった。耳と目に触れながら沖縄に帰ってこられた。

A:宇宙観といっても、メタボリズムのようなものではなかった。

親泊:ガジュマルなのかな。

ひらかれた沖縄の都市建築史を

A:少し振り返って確認したいことがいくつかあります。まずパビリオンに色々な人々が集まっているのを遠巻きに見ていたというお話がありましたが、それは幸房さんと親しく付き合うようになってからのことですか。

親泊:いや、それは前ですね。僕は沖縄の詩人とか画家とか、その同世代がいて、それでパビリオンに行くようになったんですね。でもそこで飲んでいた中心は10歳以上の世代。金城信吉さん、洲鎌朝夫さんのような建築家だけじゃなく、画壇の人たちも上の世代の人たちが集まっていた。すごいエネルギッシュでしたよ。海勢頭豊という人がやっていた店です。今はもう店はない。狂ったように語り合い、踊っていましたしね。

A:店で熱気を帯びた議論がたたかわされていたというのは、復帰直後の時期ということでしょうか。

親泊:そうですね。直後は分かりませんが、熱かったのは70年代ですけど、80年代も続きました。戦争を体験した世代と戦後生まれの団塊世代の差です。

A:建築だけじゃなく、美術や文学などの色々な人たちが集まっていて、政治的な議論が多かったのですか。

親泊:沖縄の自立論の思想も含めて、要するに政治抜きで会いましょうなんてのは嘘だと思いますよ。人はどこにいるにせよ政治から自由になることはできないし、すべては政治ですよ。政治的な立場を持たないことも政治です。最初に話した沖縄問題や本土化の潮流、乱開発など資本の洪水も沖縄に流れてきましたから。実際しょっちゅう喧嘩ばかりしていましたよ。

A:芸術分野の人たちですから、表現の問題と沖縄の地位、基地、アメリカ、日本、そういった話題が絡まり合いながら、あっちにいったりこっちに来たりしながら延々議論が闘わされているというイメージでしょうか。

親泊:うん。そうなりますね。琉球自立社会のね、『琉球共和社会憲法(試)案』という出版物があるんですよ。これは先ほどもお話した川満信一さんという、詩人で沖縄タイムスの記者でもあった人が書いたものでね、幸房さんも親しかったけど。たぶん彼は幼い頃に10・10空襲(1944年10月10日の大規模な空襲)を間近で体験して、爆音を聞き、火の海を見たというわけだから、それが大きいのではないかということと、他方では山原のおばあさんのやさしさという・・・。

A:内容は聞いていらっしゃるのですか。

親泊:聞いている。ある意味では大人だったのかもしれない。

A:議論で争っているのは幸房さんからみれば同世代ですよね。戦争という意味でも共通の記憶を持ってらっしゃるけれど、何か違うところがあった。

親泊:そうですね。面白い逸話があります。僕が映画を観た話をすると真っ先に「残酷シーンや暴力シーンがあるの?」と幸房さんは聞いてきます。「ありません」というと観にいく。「あります」と観にいかない。おそらく幼年期に身近で見た那覇の空襲、爆撃機の爆音と火の海のような赤く染まった空の恐怖感が原体験としてあるのかと思います。

T:一方で、県知事や市長といった首長が変わることは、建築では仕事に直結しますね。そういう場合、誰を支持するかというような話もあるわけですよね。

親泊:そうです。ただそれは会社がどの政党を支持するということであって、原則的には個人は別です。会社が支持するのは基本的には政権政党ですね。ですから幸房さんは会社の代表として集会とかパーティとかには行く。思想や信条については話さなかったでしょうけどね。ほんとに付き合っているのは美術や文学の人たちで、幸房さんも内面にはそういうものがあったんじゃないですか。生きている喜びを夜の巷で酒と共に。幸房さんはね、不規則な生活を規則正しくやっている、と言っていました。

一同:(笑)

A:沖縄にかぎらずそうでしょうが、沖縄で生きていくうえでは政財界との関係、内面、友人との関係、芸術あるいは技術者としての志向性といった色々な層を抱えざるをえなかった。

親泊:でもね、そういう複数性を生きない人は多いと思う。そういう意味で幸房さんは自然児で異端児の社会人だったんですよ。

A:そういうことですね。

T:私の関心として、伝統や風土、地域性などをなぜ見出したり強調したりするようになったのかということがあります。私自身はそれらの語り方がステレオタイプ化していて、独自性や固有性を求めて地域主義を語ることは、ひろく問題を構える上での有効な前提にはならないのではないかと思っています。たとえば、沖縄の地域性は東アジアや東南アジアの亜熱帯圏にあらわれていることと変わらない事項もあるのではないか。あるいは戦後の沖縄の社会とはまったく背景が違っていても、たとえばフロリダやそれより南の海域、アフリカの西側といったトロピカルな地域になぜかよく似た近代化のプロセスがあるかもしれない。つけくわえると、仮に沖縄の建築に特徴が見出されるとしたら、ポップあるいはポピュラーなものとして表れる国際通りの風景なども特徴といえる。月並みにいえば一般化したアメリカの風景といいますか、今日もお話にも出たペンキですとか、そういった材料は建築や都市の歴史では軽んじられてきたのかもしれないけれども、考察できると思っています。

親泊:すごく面白い話だと思います。さきほども言いましたが、一般的にパタン化した「沖縄」があり、外部から内部からのまなざしが固定化されたりしている。「沖縄というのはこうだ」とかいうのがね。そういうことが思考を止めている。止めた方がやりやすいんですよ、区切りができるから。そうやって固定した上で答えている人が多い。とても失礼な話になるかもしれないけど、こういう話題は他のジャンルを含めた広い視野で話をした方がいいけど、関心を持つ人がすごく少ない。さっきのパビリオンに集まっていた金城さん、洲鎌さんといった人たちは特別なんですよ、美術や文学の人たちと付き合って。その世代が亡くなっていって、幸房さんまで亡くなってしまった。それを彼らはよく分かっていて、誘ってくれる。沖縄が抱えがちな閉塞性を突き抜けていこうとする志向性が、たとえば文学の人たちにはあるんですよ。「世界のウチナーンチュ大会」[1990年〜]というのがあって、いま沖縄の人口が140万。それ以外に40万人が世界にいて、あわせて200万人に近いウチナーンチュがいる。地球の反対側にも彼らがいる。そこに、僕は沖縄のアイデンティティというか、共同体の無意識的な意識みたいなものが残っているような気がする、感じるわけです、彼らと会うと。そういうことって何だろう。僕は決して閉ざしてはいけないと思う。たしかに沖縄は特殊かもしれない。辺野古に通っている人たちは実にまともなことを言っている。それは僕らももっともっと日本に言っていかなきゃいけない。沖縄だけに上陸戦があって、そして沖縄だけに70年もこれほどの基地が残されている。そういうなかで沖縄はどういう思想を持つのか、ということだと思います。詩や美術の世界にもそれぞれの目で見ている人たちがいます。そこから見る沖縄というのがあって、それは意外に硬直化していないんですよ。

T:さきほどビートルズのお話もありましたが、今あえて基地を捉えるとしたらどのような・・

親泊:まず、ない方がいいに決まっています。でも実際にはありますよね。気がついたらあった。深く話すと長くなる。子供の頃は基地に入り込んでました。

T:基地って入り込めるんですか?

親泊:子どもたちは越境しますから。外人の子どもたちと基地のなか(外国人住宅地)で一緒に遊んでいるんですよ。野球をしたり。僕らは何も道具がないんですけど、まあ色々つくってね。フェンスの破れているところから入っていった。それを誰が見ても咎めなかったですね。いまの新都心のところだからもう当時の基地はないんですけど、あそこはシュガーローフの戦いで一番大変だったところですね。その基地に入って、外人住宅に入っていって冷蔵庫を開けて、コーラとか、名前は忘れたけど白いドリンクなんかを飲んだりしたときは、衝撃でしたね。世の中にこんなおいしい飲み物が・・・。

A:新鮮なおいしさだったということですね。

親泊:うん、おいしい。炭酸が効いてね。

T:電化製品への憧れのようなものもありましたか。

親泊:ありましたね。だって冷蔵庫、洗濯機でしょう。そんなものは民間にはあまりなかったんだから。金持ちだけが米軍から流れたものをね。緑の芝生に、白い外人住宅、フラットな屋根、洗濯物がたなびいている。幸房さんのガジュマルとは違うガジュマルかもしれないね。僕は俳句を少しやっているんですけど、数年前の俳句大会で、全国から千数百の句が集まるんですが、その大賞をもらいました。その句は基地の句だったんですよ。著名な金子兜太[かねこ・とうた/1919–2018]が最高得点を入れてね。「花デイゴ 家族の墓は 基地の中」。要するに墓だけはまだ基地のなかに残っていて、年1回だけ許可をえて供養にいく。あるいはフェンスの外から、花を投げ入れる。基地のなかにはでいごがたくさんあって。5月に花が咲いて、芝生の緑の上に。フェンスの向こうはアメリカ。でもそこには墓があって、もとは・・・ これが沖縄の風景です。

T:幸房さんとは違うガジュマルなのですね。

親泊:幸房さんはね、たんなる平和主義ではなくてね。平和が好きなんじゃなく、争いが嫌いだったんです。

T:強い光に対しては日よけをつくるということになるけれど、大きな音は暴力の象徴だから拒絶されたのですね。

親泊:そうですね。沖縄は硬直せざるをえない歴史を背負わされたのかもしれないね。沖縄に負が集まったわけですから。

A:少なくとも政治的には特殊な場所に閉じ込められ、そこにアメリカや日本の、政治も文化も技術もどんどん押し寄せてくる。圧力がかかる。でもだからこそ反発して外へ飛び出す力も生じるともいえるかもしれませんし、別の角度から見る視点も求められるのでしょう。幸房さんはどちらかといえば一度、内地に留学されたけれど、沖縄に「根」を持ちながら静かにそれを探してこられたイメージです。親泊さんはどちらかというと、沖縄を外から見る。

親泊:そう。外から。外がどこなのか分かりませんが、でも沖縄にいる。

A:面白いです。本日は楽しいお話をどうもありがとうございました。

インタビュー風景(2018年3月28日、株式会社国建にて、撮影:張亭菲)

1) 親泊仲眞「沖縄・風景の基層」、翁長直樹、大城仁美、上間常道、中程香野編『美術館開館記念展:沖縄文化の軌跡 1872–2007』沖縄県立博物館・美術館、2007年 所収。

2) 親泊仲眞と比嘉豊光との関係については「アトピック・サイト」展(1996年8月1日〜25日)について語る以下を参照。ローゼル川田、岡田有美子と町田恵美によるインタヴュー、2014年10月5日、NPO法人raco(URL: http://nporaco.net/atpick/rozeru/)、2018年5月3日閲覧。

建築討論

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。

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