廖惟宇著『ゲリラ建築:謝英俊、四川大地震の被災地で家を建てる』

復興プロセスという旅、あり得たかもしれない可能性を求めて(評者:連勇太朗)

連勇太朗
建築討論
8 min readAug 31, 2020

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建築家というプロフェッションの再定義

序論「謝英俊とその建築」の謝英俊はかなりカッコいい。現代社会における建築家の存立条件に迫り、自ら開発した建設システムを携え、中国の周縁である「農村」と「被災地」というふたつのフィールドから建築家の職能モデルを再定義していく。謝英俊は科学的思考をもとに、工業化の特徴である合理性を最大限活かしつつ、ローカルな材料とコミュニティの知恵を取り込むことによって、産業や専門家のもと独占されてきた「住まい」という枠組みそのものを再び人々の生のなかに取り戻していく。現地住人が共同組合をつくり労働力を交換価値として互いの家を建設し合う「協働セルフビルド」、軽量鉄骨による誰もが理解可能な建築言語によって構成された「シンプル構法」や「オープンシステム」など、目的達成のために開発された構法や生産システムは素人でも理解することができ、それでいて知的で美しい。「台湾にこんな凄い建築家がいたのか!」と、私の手元にある「ゲリラ建築」の序論部分は、鉛筆の線でイイ感じに埋まっている。

ひたすらカオティックな現場

しかし、書籍の八割近くを占める本論「実践の記録」には、そのカッコいい謝英俊は登場しない。「実践の記録」は、2008年に中国で発生した四川大地震の被災地における復興プロジェクトのプロセスを、著者であり当時大学院生だった廖惟宇が二年間の参与観察を通して民族誌アプローチで記述した部分なのだが、そもそも謝英俊はあまり登場しないし、現場はかなりの高レベルなカオス的状態である。物語の主役は、謝英俊が生み出した被災地復興のための建設システムと、それを復興現場で実現しようとするスタッフや地元住人など様々なプレーヤーたちであるのだが、鉄骨は指示通り穴があいていないし、セルフビルドする住人は技術的助言を無視するし、スタッフは徹夜続きで不満や愚痴を言いまくるし、工事資金は回収できないし、もう、めちゃくちゃである。謝英俊はたまに登場しては、酔っ払いながら禅僧のように意図があるのかないのか分からない発言を残して次の現場へと去っていく。230ページ近くに渡って、著者が復興現場で体験する大小様々な事件や出来事の数々が時系列に沿って語られていく。

廖惟宇著『ゲリラ建築:謝英俊、四川大地震の被災地で家を建てる』

本論部分を読み始めて、最初は「参ったな・・・」と思った。学生による現場レポートを読むのかと思うとあまり読む気がしなかった(本書は著者の修士論文を改作し書籍にまとめたものである)。私が知りたいのは、生産プロセスをシステム化し、合理的にかつ対話的に様々な矛盾を調停しながらスマートに理念を体現していく謝英俊の建築思想の核心であり、それを支えるシステムやサービスの詳細なのだが、本論にそうした解説は断片的にしか登場しない。

こうした当初の期待はあっさりと裏切られたが、読み進めるうちに序論で感じた興奮とは異なる、全く別の楽しさのもと、まるで小説を読んでいるかのように夢中でページをめくっている自分がいた。それは、廖惟宇による情景描写が的確でテンポがよく、時に語られる誠実かつ自嘲ぎみな内省的吐露がユーモアに溢れているから読者を飽きさせないからであり(筆者の筆致の力は確かである)、そして何より重要なことは、この冗長でカオティックな状況の記述そのものが謝英俊という建築家の本質を深く理解するために必要な本書の価値を決定づける重要な特質になっているということである。この一点に気づいてから建築書としての本書の強度を確信するようになった。

システム化する世界にいかに抗うか

それにしても、なぜ現場はここまで混乱しているのか、そして著者はなぜそれを記述する必要があったのだろうか。そこに謝英俊の実践を理解する重要な手がかりがある。謝英俊は、産業化や商品化によるシステム化が進行し、地域の共有知や紐帯が失われていく地域社会のなかで、住まいの自力建設を通して地域経済や労働のあり方までを再定義し、住人をエンパワーしようとする建築家である。その実践の射程は建物単体を超え、より広範な社会システムそのものまでに及ぶ。そして当然のことだが、それは非常に実現困難な試みでもある。

著者が現場調整のため行ったり来たりを繰り返す楊柳村と草坡郷という二つの集落のエピソードから、そうした困難の度合いを理解することができる。草坡郷は楊柳村に比べて近代化が進みコミュニティの結束力は失われており、「協働セルフビルド」は結果的にうまく機能しない。役人も住人が自力で建物を建てられるなんて初っ端から信じていないのだ。一方、楊柳村には古い村の慣習や儀式が残っており、地域の紐帯が存在する。2008年11月、住人による歌声や音頭が村中に響き渡るなか、白銀のフレームの立ち上がっていく様子はなんとも感動的である。この祝祭性を帯びた復興プロセスの一瞬に、我々はすっかり忘れていた、あるいは失っていた共同体の可能性を目撃する。

謝英俊の建設システムは、このようにコミュニティの共有知やリテラシーと深く結びつくことではじめて機能する性質のものだと言える。それは人々の価値観の問題でもあり、共同体の潜在的な可能性を問うものでもある。故に、それは必ずしも快く受け取られるとは限らない。むしろ、金さえ出せば家が手に入る現代社会のなかで、多くの場合、現実条件との間で多くの摩擦を生み出す。それでも、そうしたことに屈せず、共同体の自律的な力による社会システムの確立を、復興現場という社会に突如生まれる「隙間」のなかから介入し実現しようとするのだから、謝英俊のアプローチはシステマティックに語ることができる一方、それは市場やユーザーニーズに最適化していくスムーズなサービスとは決定的に異なるもっとザラザラとした性質を備えている。著者の廖惟宇は、そうした状況を自らの個人的な考察や青年特有のセンチメンタリズムを交え読者に伝えることを試みているのだ。

復興プロセスという旅

本書は確かに謝英俊という建築家の実践の記録であるが、一方で、廖惟宇という台湾の都会っ子建築学生の個人的な物語でもある。廖惟宇という青年の目を通して私たちは、未曾有の大震災と謝英俊が率いるゲリラ部隊によって攪拌した社会の断面の数々を追体験していくことができる。そこでは、制度やシステムによってガチガチに硬直化した定常運転状態の社会とは異なるコミュニケーションの層が浮き上がっては消えていくが、廖惟宇はそうした特異な出来事の数々を瑞々しく描写することに成功している。それは謝英俊の復興プロジェクトに関係するものもあれば、まったく関係しないものある。ちなみに筆者は本書を読みながら懐かしい気持ちになった。2011年の3.11の復興現場や、限界集落での地域活性プロジェクトなど、学生時代に経験したことの数多くが廖惟宇の経験と重なった。忘れていた記憶がゾルゲの高原やバスで揺られる長時間の旅と共に、風景は違えど鮮明に思い出された。そういう意味で本書は廖惟宇の個人的体験を超えて、同時代に建築を学んだ学生が体験し突き当たる社会の矛盾や希望を記録しているような気もする。ちなみに自分自身の名誉のために言っておくが、私は著者のようにう○こを漏らしたことはない。

本書を通して私たちは、現行の社会が捨て去ってきた様々な可能性の束を再発見していくことができ、現状の制度がいかに恣意的なものであるのか気づくことになる。変化を起こすきっかけは様々なところに隠れており、恣意的に組み立てられた様々な現状の社会制度と別のあり様を構想できるか、私たち一人一人の想像力が問われる。美しく奇跡的な楊柳村のフレームの立ち上げと、そしてその物悲しい結末は、そんな廖惟宇の二年間の旅を物語る象徴的な出来事であったと言える。

きっと謝英俊のゲリラ部隊のまわりでは、定常時では気づくことが難しい社会の無数の可能性が開いては閉じ、閉じては開いているのだと想像する。謝英俊にとってのシステムはそういう類のものなのだろう。20代の若さで各現場のゲリラチームを指揮する通称・三巨頭(ビックスリー)のひとり老聶がフレーム立ち上げ後に、著者に語りかけた一言がなんとも象徴的である。

たいていの結末はみじめだが、うまくいくことだってある。

強力な力でシステム化されていく現代社会のなかで、私たちは「うまくいくことだってある」というこの一言に人生をかけることができるだろうか。社会変革の主体としての建築家の可能性が問われる。

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書誌
著者:廖惟宇
訳者:串山大
書名:ゲリラ建築──謝英俊、四川大地震の被災地で家を建てる
出版社:みすず書房
出版年月:2020年1月

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連勇太朗
建築討論

むらじ・ゆうたろう/1987年生まれ。建築家。モクチン企画代表理事。慶應義塾大学大学院SFC特任助教。著書に『モクチンメソッド:都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社)ほか。