建築が実験的実践から学べること(サマリー№22)

Felicity D.Scott, “Architecture or Techno-Utopia : Politics after Modernism”, THE MIT PRESS, 2007

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フェリシティ・D・スコット(Felicity.D.Scott)の『建築もしくはテクノユートピア:モダニズム以後の政治』(Architecture or Techno-Utopia : Politics after Modernism, 2007)は、1960年代と70年代の建築にまつわる実験的実践(展覧会、出版物、アクティビズム、カウンターカルチャー、架空のプロジェクトなど)に光を当てた、20世紀後半のアメリカ建築史の本である。スコットは、今まで建築史として取り扱われる事が少なかった事例を拾い上げ、今となっては失われてしまった「建築の政治性」をどう見出すか、これらの実践群から学ぼうとしている。

本書の構想は1990年代の後半から2000年代の初頭であり、アメリカにおいては9.11の同時多発テロが生々しい記憶として残っていた時期である。ワールドトレードセンター(WTC)というモニュメンタルな建築物がテロの標的となったこの世界的事件は、戦争によって培われた新技術の影響や、体制への不信感、メディアの報道のあり方など、広義の「政治」との関係性に関して、建築家や建築史家達が今一度再考せざるを得ないタイミングであったことは間違いないだろう。

Fig.1 『建築もしくはテクノユートピア:モダニズム以後の政治』 2007

スコットは、米国コロンビア大学の建築学の教授であり、建築学博士課程のディレクター、及び建築学における批評・キュレーター・概念実践プログラム(CCCP)共同ディレクターである。著書に、60・70年代に活躍した「過激派の環境保護活動家」アント・ファームの活動をまとめた『生きているアーカイブ 7:アント・ファーム』(Living Archive 7: Ant Farm,ACTAR, 2008)、ベトナムやカンボジアでの戦争の頃の混乱下における建築とアーバニズムを研究した『無法地帯:不安定な環境/対反乱軍建築』(Outlaw Territories:Environments of Insecurity/Architectures of Counter-Insurgency, Zone Books, 2016)。また、ルドフスキーの戦後日本における観察とアメリカとの比較をまとめた『錯乱:表徴の帝国におけるバーナード・ルドフスキー』(Disorientations: Bernard Rudofsky in the Empire of Signs:Sternberg Press, 2016)など、やはり60年、70年代の建築とその周縁に焦点を当てたものが多い。本書は、彼女の一連の出版物の中の最初の本であり、自身の博士論文での研究が土台となっている。

本書の章立てをざっくりとわけると、前半の数章(1、2,3,4,5)は、主にキュレーターや美術史家、建築史家を主役として、展覧会、美術館に付随する出版物や、その周縁の議論が取り上げられ、続く数章(6,7,8)はコミューンやカウンターカルチャー、仮設建築、アクティビズム、メディアアートなどが取り上げられる。そして最後の章(9)は、レム・コールハースとOMAの初期の架空の建築プロジェクトやマンハッタンの読み解きを、2000年代に入ってから起きたマンハッタン南部開発公社(LMDC)によるグラウンドゼロの再開発コンペの案と比較するような構成となっている。各章毎にストーリー仕立てになっており、毎回何名かの登場人物ががいる。当時の様々なアーカイブ、手紙やインタビュー、雑誌の記事などの生の声を掘り起こされ、登場人物たちが生き生きと描かれているのも、特徴的であるかもしれない。

本書のタイトルは「Architecture or Technoutopia」となっている。ただし、“OR”は修辞的な表現であり、本書が目指すところの一つは、むしろ、「〇〇か〇〇」のような対義的な関係性をくつがえすことにある、とスコットは述べている。建築と20世紀後半テクノロジーとの関係性は、単純な二者択一の考え方ではなくより複雑でニュアンスのある関係性であり、それらを可視化することもこの本の目的の一つである(P.12)。

展覧会や出版物を通じた議論

第1章「社会主義への重要な影響」は、本書の中心となる60・70年代から遡り、30年代の先見的なマルクス主義美術史家であるリトアニア系アメリカ人のメイヤー・シャピロ(Meyer Shapiro)の言説を追う。彼が1932年に匿名で書いた「近代建築:国際展覧会」(Modern Architecture: International Exhibition,1932)への展評から始まる。そこには、本展覧会に際して、アメリカにおける近代建築の立ち位置が、社会革命的可能性をはらんでいるのではないか、という一節を含んでいた。この、MOMAで行われた展覧会にシャピロが見出した社会的意味の重要性は、企画者の3人(フィリップ・ジョンソン、ヘンリー・ラッセル・ヒッチコック、アルフレッド・バー)の意図とは異なっており、彼独自の解釈であった(P.18)。また、本章には、MOMA、バックミンスター・フラー、ルイス・マンフォード、フランク・ロイド・ライトなど後にアメリカにおけるモダニズムの権威化への道の立役者となる人々への批判、ホワイト派・グレイ派議論の先取ともいえるような「建築の自律的形式と資本主義への同化の二項対立」という問題を、30年前に先取したシャピロの鋭い洞察が紹介されている。

第2章「建築かテクノユートピアか」では60・70年代の建築家達を批判的に見ていく。同時代における後期資本主義への建築家達の反応に対し、マンフレッド・タフーリやコーリン・ロウ、そしてホワイト派とグレイ派の議論を追っていたブライアン・ブレース・テイラーの見解などが展開する。タフーリは、ホワイト派とグレイ派の両者を同じカテゴリに入れていた。なぜなら、明白な二極化にも関わらず、二者間の議論は閉鎖的で、建築の意味論の回復という共通のプロジェクトにおいて、弁証法的に対立する両極の間を揺れ動いていたのみだったからだ(P.40)。また、彼は、メディア・コミュニケーションなどのテクノロジーに対する建築家の無批判的な態度にも警鐘を鳴らしていた(P.50)。他方でロウは、「建築か革命か」という問いはアメリカにおいてはもう1776年(のアメリカの独立宣言)において既に答えられており、アメリカにおいてモダニズムは、「啓蒙的な資本主義における大企業の活動に対する薄いベニヤのようなもの」として紹介されたのだ、と建築家の批判を展開している。テイラーはタフーリの批判を受け継ぎ、MOMAやその周縁を起源とする当時のインスティトゥーションの系譜(IAUSやOppositionsなど)は、建築家達がおかれている社会的領域が閉塞的である事態を強調している、と批判している(P.55)。このテイラーの批判を受け、この時代において主流とされてきた建築家や建築史家の物語だけでなく、同時代のよりオルタナティブな実践に目を向けるべきだ、とスコットは読者を誘導していく。

Fig2.「近代建築の変容展」1979
[出典:https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1773]
Fig3. IBM 305 RAMAC (Random Access Memory Accounting Machine) 操作盤 1950
[出典:https://www.moma.org/collection/works/1491]

第3章「システムが失墜する時」では、MOMAで35年間もディレクターを務めたアーサー・ドレクスラーによる、建築とデザインに対するテクノロジーの影響を展示した展覧会を紹介している。ポストモダンへの転換点とも言われる、建築における装飾性や言語の復活の契機の一つとなった「エコール・デ・ボザールの建築展」(The Architecture of the Ecoles des Beaux-Arts, 1975)や、近代建築の断片的な白黒写真が大量に展示された「近代建築の変容展」(Transformations in Modern Architecture,1979)など。後者に関しては、ドレクスラーによるモダニズム批判としてスコットは紹介している。そして、当時の講演の音声記録から彼の発言を追うことが出来る:

システムが失墜するとき、統一的な思想や図式が適切な統一された思考や図が、与えられた課題に対してもはや適切でないと思われるとき、人は波の下に沈み、救命胴衣やイカダ、木の棒に手を伸ばすように、注意 関心が移る。注意は断片に、デザインに役立つ孤立した要素に移る。(P.72)

また、ドレクスラーは、IBM 305 RAMACのサーキットボードをはじめとする、ポスト工業社会のテクノロジーがデザインに与える影響に非常に興味を持っていた。「新機械芸術」と名付けられた、とある展覧会のカタログで彼は、「新しい機械によってもたらされる美学の一番の特徴は、有限な形態が、図式的な関係性に非物質化することにある」と述べている(P.80)。つまりポスト工業社会において、ものは、その機能に沿った形態、デザインである必要がなくなり、デザイナーの仕事は「関係性」や「プロセス」の設計に向けられるようになるかもしれない。その象徴ともいえるMOMAにコレクションされたRAMACのサーキットボードは、長い年月の中で何度も様々な展覧会で展示された。

彼のポスト工業社会のテクノロジーの社会的そして美的影響への興味は、第4章「環境をデザインする」の主人公である、彼の後輩にあたるエミリオ・アンバースと共有され、一部引き継がれる(P.85)。 アンバースが提唱した「ユニベルシタス」プロジェクトは、ニューヨーク州の中に環境デザインの問題を解決するための実験的な大学をつくるという壮大な目標をもったプロジェクトであった。それはとても野心的なものであり、多方面から数々の知識人を巻き込み、議論を作り出す事には成功したが、最終的には様々な批判に合い、実現しなかった。だがスコットは、この試みは、彼のその後のキュレーションワークに多大な影響を及ぼした意味からも、建築における理論との関係性における大事な事例だと挙げている(P.115)。

Fig4. ユニベルシタスプロジェクト 1972[出典:https://designaftercapitalism.org/the-universitas-project]

つづく、第5章「イタリアンデザインと新しい政治的地平」では、イタリアのラディカル建築運動のアメリカへの持ち込みを、MOMAの「イタリー・ザ・ニュードメスティックランドスケープ」展(Italy: The New Domestic Landscape,1972)を通して追っている。スコットはこの展示における展示空間内とカタログにおける論文の多さは、アンバースにとって理論がいかに大事なものであったかを物語っていると述べている(P. 148)。 本章は、展覧会自体の他に、テクノロジーやそれによってもたらされる環境を脅威として見ていたタフーリと、その到来をある種、必要な賭けのようなものだと見ていたアンバースの姿勢の違いなどにも焦点をあてている。

コミューン・アクティビズム・テクノクラート

Fig 5. ドロップ・シティ [出典:Scott 2007, p.33]
Fig 6.ジオデシック・ドームの軍事利用[出典:https://www.usni.org/magazines/naval-history-magazine/2021/october/marine-corps-goes-geodesic]

後半の第6章「革命かドロップアウトか」7章「アシッド・ビジョンズ」8章「黙示録を叫ぶ」は、権威のある美術館や言説、出版物を離れ、従来の建築史には含まれなかったような実験的実践に目を向ける。コミューン、アクティビスト、メディア・アート活動家達が、いかにこの時代オルタナティブな建築家として政治的、実験的なプロジェクトを推進したかが、時代背景である冷戦期の軍事的緊張やスペースエイジなどの話と合わせて展開される。

「ドロップ・シティ」(Drop City)は、「ヒッピー」という語が生まれる前の1965年に、コロラド州の南に、コミューンとして生まれた。1940年代に開発されたバックミンスター・フラーのジオディシック・ドームをベースとするドーム型の形状は、機動性、施工可能性などの観点からカウンターカルチャーにとって最適な建築であり、居住者たちは皆各々の住居を自分達の手で作った。コミューンは、アメリカ、そして世界の資本主義にたいして反体制的、政治的に拒絶することを一つの目標として、新種の集落がつくられていった。彼らが建築したドーム群が厳密な「建築」という定義とは異なるとしても、この活動の様なオルタナティブな建築と都市批評は様々な視点を与えてくれる、とスコットは言う。建築が新しいテクノロジーの条件からいかに逃げるかではなく、いかにそれに向き合うかにあたって、倫理的そして政治的戦略に関するがあるか、などの問いを生み出すこととなった(P.206)。しかしそのドームは、皮肉なことに、冷戦期においてアメリカによって軍事利用された。機動性と独創的なイメージの融合により、ドームは、モスクワ、ミラノ、モントリオール、カブール、デリーなど、世界中の戦場で使われた。開発者のフラー自身はテクノクラートであり、政治性が強かったわけではないが、1954年に特許を取っていた彼はこの軍事利用により巨大な富を得た(P.155)。反体制の建築的シンボルであったドームが同時に、帝国主義的な戦場で率先して使われてしまっていたということは、当時のテクノロジーと政治思想の関係性の複雑さを物語るエピソードである。

また、第7章にはその他にも、主に北米で活躍したメディアート集団のUSCOグループによるサイケデリックな作品群、NASAによる地球の画像の発表がもたらした影響、バックミンスター・フラーとカウンターカルチャーの相互影響など、興味深い当時の実験的実践の事例や背景が取り上げられている。

Fig 7. エア・エマージェンシー [出典:Scott 200, p.210]

第8章では、アント・ファームの活動が深堀りされる。「環境」という概念へ意識が高まっていた1970年の春、第一回目のアースデーとなる4月22日に、彼らは「エア・エマージェンシー」と名付けたパフォーマンスをカリフォルニア大学バークレー校にて発表した。50フィート四方の空気注入式のビニール製の「クリーン・エアポッド」がキャンパス内に設置され、彼らは「空気中に毒が発生したので、クリーンエアポッドに入らない人は15分で死んでしまいます。」というアナウンスを流し、人々をポッドの中に誘導した。次の日、本件は、バークレー校の核実験のサポートを批判した記事と共に新聞に載った。

メンバーのほぼ全員が建築教育を受けていたアント・ファームは、徐々に物質的なものから離れ、メディア・アクティビスト、「イメージの建築家」(P.220)として知られていくようになる。彼らは同時代の新しいテクノロジーと向き合い、体制批判の目線を持ちつつ、政治的且つ美的なプロジェクトを次々と公表していった。スコットは、これまで建築史であまりスポットライトの当たってこなかった彼らの活動が、いかに建築領域の拡張であったかということを様々な方向から解説している。ジョン・F・ケネディの暗殺を映像上で再現した「エターナル・フレーム」(The Eternal Frame, 1975)を製作した際には、「彼らはテレビのイメージをある種のパブリックスペースとして解釈していた」とスコットは言う(p.225)。また、コミューン住人達と違い、アント・ファームはシステム(体制)に抗うために、敢えてその中で戦った。

田舎に引っ越して行った人々は明らかにラディカルな声明をだしているが、同時に、その行為はシステムには影響していない。私達はまだ、日常生活をコントロールするシステムとやり合うことに興味があるんだ(P.225)

システムに対して、パフォーマンスなどの物理的なアクションを行こしていくことや、映像などのメディアを介して非物理的にも抗おうとする彼らの姿勢からは、建築家、アーティスト、アクティビストとして文化の力を借りながら、自分達を取り巻く大きな力に対し、発信をし続ける事の大事さを学ぶことが出来る。

ポストモダニズム議論を超えて

最終章である「第9章:建築の自発的な囚人」は、マンハッタン南部開発公社(LMDC)の批評性を欠くコンペ案達と、レム・コールハース・OMAの初期の作品と、マンハッタンの読み解きを比較し、建築家の政治的関与の取り戻しの可能性を模索する。

Fig 8. 「メモリアル・スクエア、世界貿易センター提案」
アイゼンマンアーキテクツ、リチャードメイヤーアンドパートナーズアーキテクツ、グワスミーシーゲルアンドアソシエイツ、スティーブンホールアーキテクツ作[出典:Scott 2007, p.744]
Fig 9.「エクソダス、あるいは建築の自発的囚人」 [出典:Scott 2007, p.254]

本書の序章から、LMDCのコンペの案に対し、スコットは批判的である。参加したほぼすべての建築家が、政治的アジェンダを持たず、コンペのプログラムの背景に疑問を呈したりなどせず、「ヒーロー」「モニュメント」「再復活」「パブリックスペース」「ヴィジョナリーな建築」「守りやすい空間」「スピリチュアルそして象徴的な解読性」など、分かりやすい記号を追い求めたからである。(P248)その結果、建築家たちは、「美的実践や新興テクノロジーが、ただ緩和的・機能的なものだとのみみられるのではなく、出会い、合意不一致、論争、の政治的関与の場として理論化される機会を逃してしまった」(Ibid.)。

スコットはレム・コールハースとOMAの初期の作品、主に「エクソダス・建築の自発的な囚人」(1972)を通して、この失われた機会を詳しく見ていく。彼らは、自らの生きている時代に敏感だった。レムは70年代当時、「(容赦なく楽天的で究極的に純粋であった)ヴィジョナリーな60年代」に対して違和感を覚え、(P.255)ポストモダン期の中心的議論であった形式や記号を乗り越えた先として、プログラムの構成によって作り出される建築を目指した。(P.257)アンソニー・ヴィドラーに言わせると、その後のOMAはアイロニーを用い、モダニズムにおける「形式とプログラム」の関係性の愚かさを示す建築を作っていった。(P.265)更に、本書で見てきた政治的関与を提供する実験的実践と共通する重要な要素として、「フィクションやファンタジーの批評的価値」(P.272)を存分に利用した。スコットは、「資本主義の記号論と体制の構造と建築の関係性を問う能力は、それらの記号を「不安定化(destabilize)」させることである」(P.280)と言う。「不安定さ(Instability)」が生じてはじめて、「他者の発話の余地が生まれる」(Ibid.)。

建築のポストモダンの隆盛のタイミングにおいて、反体制的実験的実践は、意味論上のパラダイムやプログラムと機能の確実性に問いを投げつつも、それらとしっかり向き合っていた。これらは歴史的に特有なものであり(…)同時代の理論的言説とも活発に会話していた。(P.280)

レム、OMAの架空のプロジェクトや文章は、実験的実践達と同様、記号を「不安定化」させる効果を存分に使っている、という。

ひとつの時代のアジェンダを、多元的に描写する

本書で紹介されている事例や登場人物は、多元的な扱われ方をされている場合が多く、当時の新しいテクノロジーやメディアなどとの関係性も一筋縄でいかないことが多い。例えば、本の中の複数章で何度も登場するバックミンスター・フラーは、ある時はテクノクラート、ある時は軍事産業で儲けたデザイナー、またある時はカウンターカルチャー世代にとってのアイコン、と登場毎に彼の中の違った側面が見え隠れする。ドロップシティの住人たちは、根底には反体制的態度を持っているものの、徐々にメディア露出に躍起になり、それが最終的に彼らのコミューンの終焉にまで結びつく様が描かれている。本書を読んで頭の中で描くこの時代、人々のテクノロジーとの関係性は混沌としている。60年ほど経ったいま、この関係性が単純化する傾向はなさそうだ。

スコットは、これらの実践による理論や批評的戦略の歴史を掘り起こすことは、決して後ろ向きな姿勢ではなく、今の時代においての新しいテクノロジーや新しい社会的主体、新しい地政学的組織地理政治的機関への政治的な応対を考える上で、強い政治性を意識し、妥協なき姿勢を持っていた実践者達から学ぶことは有用なことだと考えている。それは、本の出版から15年程経ち、グラウンドゼロの敷地の建築群がほぼ完成した現在でも変わらないだろう。■

★Further Reading

Felicity D Scott, Ant Farm: Living Archive 7, New York: ACTAR, 2008.
スコットによる、このアント・ファームのアーカイブに特化したこの本は
は、「アント・ファームのタイムライン」「寓意的なタイムワープ:1969年7月21日のメディアの凋落」という2冊をまとめたもので、ついでにアント・ファームの「トラックストップネットワークプロジェクト」のアーカイブの小冊子が付属している。当時の写真、スケッチ、コラージュなどがフルカラーで掲載されており、図版が少なくモノクロである本書とは対照的に、60、70年代の時代性をより鮮やかに見て取ることが出来る。

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上野有里紗 | Alyssa Ueno
建築討論

1986年東京生まれ。建築家。Goldsmithsにて視覚文化論学部を首席卒業。AASchool、Royal College of Artにて建築を修了した後、2019年よりULTRA STUDIO一級建築士事務所を共同主宰。http://ultrastudio.jp/ 2021年より TŌGE 代表理事(共同)