建築と社会の二項対立をこえて

『建築雑誌』を読む 05|1737号(202005)特集「社会のマテリアライゼーション―建築の社会的構築力」

中島伸
建築討論
7 min readJun 1, 2020

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建築は、社会的な存在だ。建築学を考え、また、建築に携わり続ける以上、自身のキャリアのどの時代にも社会との関わりについて考えざるを得ない。筆者よりも経験を多く積まれた先輩諸氏も、初学者である学生会員の諸氏も、本特集にはそれぞれの読まれ方があり、また思考を深めることができる魅力的なテーマであることは間違いない。建築と社会の関係について、その往還を思考することが何周目であったとしても、尽きることのない議論がそこにはある。

本特集号は、建築学の専門家による社会と建築に関わる論点が提示された論考、人文・社会科学系の論者とのインタビュー、座談会で構成されており、どの記事も非常に読み応えのある内容となっている。

趣旨文がまず惹きつけられる。「建築には社会を構築する力があるだろうか。」そして、「これまでの社会学は社会活動と都市や建築との関係を主要なテーマとして掲げてこなかった。」との指摘、批判から始まる。他分野の学問体系の批判を自学会内で問題提起することに、鼻白む読者もいるかもしれない。しかし、ここはさらに読み進めていこう。本趣旨文の「建築」と「社会」の関係は、逆もまた真なりか?と批判的精神を持って読まれるべきではないかと筆者は考えた。そして、「新しい社会のあり方は、新しい都市や建築のあり方とともに提案されるべき」というステートメントがいかに議論されたかを軸に各論考を読んでいくこととしよう。

筆者がまず、興味を覚えたのは、このやや扇動的な「これまで社会学では空間を論じてきていなかったではないか?」と社会学者に問うといずれも「そうではない」という反論から、社会と空間(もしくは建築)の二項対立を越える必要性と協働できる接点の提示があることである。

建築と社会のあり方について、議論する上で、近年参照されることが多くなった、フランス文化人類学のブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論は、これまでの議論をアップデートする視座に富んだものと筆者も考える。特集冒頭の久保明教氏との座談では、アクターネットワーク理論(ANT)を建築に適用することは可能かというテーマで議論が展開している。ANTでは、社会に内在した存在として、建築家や建築そのものがネットワークの一部をなし、その状況を記述されることが特徴である。

社会に内在する建築家という自覚がありつつも、作品というある種外在的に切断した空間をつくりだし、意志として決定する以上、外側から作品という建築を社会に投げかけている存在にも見える。そして、社会科学分野の諸氏からそれはやはり不可能ではないかと指摘されているようにも見える。この一見矛盾した存在のように見え、両義的な存在である建築家(ないしは、建築学)の立場をどのように考えていくべきか。非常にエキサイティングな問いかけに感じた。また、久保氏はさらに「社会が建築を規定するのか/建築が社会を規定するのかという答えの出ない二者択一にこだわるのではなく、むしろ建築に伴う社会(科学)的な概念の可変性に注目することが大事」ではないかと指摘されている。社会学と建築学の二項対立的な関係を越えた第三の視点の必要性は、同じく南後由和氏の指摘にもあり、本特集に対する人文・社会科学分野からの通底する視点といえそうだ。こうした二項対立的な構造を越えた視座の提示として、岡部明子氏の<公>と<私>の二元論から二極論による止揚は、非常に示唆的だ。岡部氏の論考は、公共空間における境目についての刺激的な論考なのだが、本特集においては、「境目」とは<建築>と<社会>の境目を考える「キーターム」のようにも読むことができ、本特集を一層深いものにしている。

アクターネットワーク理論に依拠しつつ、建築の存在を位置づけようと本特集を読み進めると、建築家・建築学は社会の中のどこに存在しているのだろうかと考えた。

本特集の趣旨文にある「社会が建築をつくる(社会に建築をつくらされるに近い意であろう)」に対する反発は、建築そのものの自律的な生成の立場として素直に理解される点もある。一方で、山本理顕氏との座談会での集落の自然発生を巡る議論の中での作者不明(インコグニート)と自然発生(アノニマス)の議論は示唆的である。「”物化”する主体の内側には、常に新しい物を想像したいという欲望が潜んでいる」という明確な建築家の自意識は、集落を自然発生と呼ばず、作者不明の意図を介した空間を伴った社会と見ているからである。

インコグニートに対する目線を持ち、社会の一員として内在しつつも、社会からの距離を取ったところで作品としての新しい建築(社会の外部から内部への投射)を打ち出すことの両義性がそこにはある。しかし、この建築作品としての存在価値はどのように社会に受け入れられ内在化していくのか。その点も今後の議論の展開として、関心を持った。本誌内の言葉で言い換えるならば、「エイヤ」と「ポロリ」の間にゆれる建築設計はどのように社会に説明されていくのか。

佐藤学氏の学校建築における議論の中で、学校建築は半世紀以上のロングスパンで使用されるために、教育の変化の速度に対応できない場面が生じている点が指摘されている。社会と建築のそれぞれの変化の時間軸をどのように計画するかということも今後さらに議論が深められるべき点である。

そして、建築学と社会学の接点を増やすために、本特集に登場する人文・社会科学分野の各氏より共通して提案されていることは、異分野との「協働」である。

―価値の可変性をオブジェクト化することで、人文・社会科学との協働を図る(久保)
―言葉にならない埋もれている声に耳を傾けるのがよい建築家(佐藤)
―なぜデモクラシーなのか?専門家だけの議論に閉じると早期収束しがち(齋藤)
―協働のインターディシプリナリティ(学際性)によって、ディシプリンの固有性を際立たせる(南後)

異分野との往復によって、建築学を新しくどのよう発見し、どのように建築学のディシプリンを際立たせていくのか。門内輝行氏は、つくることから育てること、空間をつくり規定することから、使用し変えていくこと、つまりよりよく育むことの重要性を指摘している。
レジリエンスというキーワードのもとの今期の建築雑誌が編集されていくなかで、こうした社会の中で建築を協働することの先にどのような展望が見られるのか。社会と空間の関係はそもそも偶有的であるという(岡部)。その中で、建築学に浴する私たちは、いかなる協働を行うことができるのか。山本理顕氏は、座談会でこう発言する。「コミュニティの空間は公的空間なのですが、その同じ空間が外側から見ると排他的な私的空間のように見えるという、捻れた関係になっている」と。そして、「コミュニティは、その外側に対しても十分な心遣いをもった空間をつくっていたのです。決して閉鎖的・排他的な空間構成だったわけではないのです。」建築学がこれからの社会にどのような開かれた態度をとり、発信ができるのか。筆者も一学徒として考えていきたい。

本特集の人文・社会科学分野との議論応答は非常に刺激的なものだった。そして、編集に関わられた委員の発言からは、建築学に関わる者の職能と責任の問題が、数度となくあったことも印象に残っている。社会は複雑化しており、ある技能体系単体では解けない課題が多くあり、それらと建築は密接に関わっている。その中で他分野との協働は今後さらに広がっていくだろう。そうした多様なアクターとの関わりにおいて、アクターネットワーク理論のように内在しつつもそれを俯瞰する記述方法は私たちのふるまいに有効に働く記述法であるのではないかと改めて理解した。

協働は同時に責任範囲を明確にする。建築に関する職能論というと建築家の職能論がよく議論されるが、計画に関わる者や実際の物的施工に関わる者、管理に関わる者、解体された資源の行き先に関わる者、使用者、生活者、もちろん学として研究者も、である。このように範囲はどこまでも広がるだろう。さらに本特集からそのような発展的議論を受ける特集がこの後も出てくることを期待したい。

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中島伸
建築討論

なかじま・しん/1980年東京都生まれ。都市デザイナー。東京都市大学都市生活学部准教授。2013年東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修了、博士(工学)、専門:都市デザイン、都市計画史