建築展をつくることの歴史と実践

Eeva-Liisa Pelkonen, Carson Chan, David Andrew Tasman eds., “Exhibiting Architecture : A Paradox?”, Yale School of Architecture, 2015.

川勝 真一
建築討論
Mar 5, 2022

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「彫刻の指やつま先、あるいは絵画の目や耳を集めたもの」( p.25)。19世紀イギリスの建築史家ジェームス・ファガーソン(James Fergusson, 1808~1886)は、実物を展示できない建築の展示物に対してこのように述べたと言う。たしかに建築は根本的にその場所から動かすことができない存在であり、その展示には常に現実からの「根本的な切り離し」そして「断片化(実物の一部や細部というだけでなく、図面や写真といった表現の断片化を含む)」(p.14)を伴う。展示室よりも大きく複雑な建築を展示するという行為そのものが、まずもってパラドックスだと言える。

にもかかわらず、建築を展示することは建築(史)の発展に大きな役割を果たし、近年ますます多くの建築に関する展覧会が開催されている。それらは若手建築家の新しいアイデアを紹介するものから、建築家の業績を称えるもの、研究者による綿密なリサーチに基づいた歴史的な展示、ある地域の建築にフォーカスを当てるものがあり、主催者や開催場所についても、建築を専門とする美術館、世界各地で開催される建築ビエンナーレなどの国際展、民間の建築専門スペースなど、一口に展覧会という言葉では括りえない多様性が存在している。こうした建築に関する展覧会の増加、あるいは建築をより広い公衆に対して提示する機会の増加は、何が展示されるかにとどまらず、「(建築の)展覧会をつくる」行為、そしてキュレーションへの関心をも生み出している。

建築展によって描かれる歴史
そうした展覧会に関する国際的な関心の高まりを受け、2013年にイェール大学で開催された同名のシンポジウムをまとめたものが本書『建築を展示することはパラドックスなのか?』(Exhibiting Architecture : A Paradox?, Yale School of Architecture, 2015)である。シンポジウムの企画者エエヴァ−リイサ・ペルコネン(Eeva-Liisa Pelkonen, イェール大学教授。建築史・建築論の専門家)は、通常の依頼とは異なり「20世紀以降の展覧会は、建築家に極めてスペキュラティブな立場を要請する」(ibid.)特殊な存在であり、建築展について議論することは「展覧会というメディアについてだけでなく、その場所から移動できないものとしての建築という既成概念に疑問を投げかけ、建築がどのようにつくられ、経験され、議論されるかについての思考を開く」(p.10)ものだとその意義を示す。

Eeva-Liisa Pelkonen, Carson Chan, David Andrew Tasman eds., “Exhibiting Architecture: A Paradox?”

本書は、序章と4つの章(「Exhibition as Medium」「Immersive Environments」「Public Encounter」「Curatorial Acts」)に収められた13本のテキスト、そしてふたつのダイアログの記録から成り立っている。取り上げられるのは、ミース・ファン・デル・ローエとヴァルター・グロピウスの模型がエントランスを飾った1923年のバウハウス展、学生運動の波によって閉鎖に追い込まれた1968年のミラノ・トリエンナーレ、1970年の大阪万博におけるExperiments in Arts and Technology(E・A・T)が主導したペプシ館、ポストモダニズムのショーケースとなった1980年の第1回ベネチア建築ビエンナーレなどの比較的よく知られたものから、1960〜70年代にかけて実施されたトリゴン・ビエンナーレやパリ私立美術館での空気膜構造のインスタレーション、建築家ハンス・ホラインがキュレーションした美術展などのマイナーなものまで、時代も地域も異なるさまざまな展覧会だ。

これら多彩な建築展から紡がれる建築の歴史は、これまで建築物や建築家の背後に隠れていたローカルな状況やネットワークを教えてくれる。その意味で本書は建築展という側面から描かれる歴史の書という側面を持つ。

建築展の始まりと近代建築の成立
では、建築を展示するということは、いつ、どのように始まったのだろうか。

序章においてバリー・ベルグドル(barry bergdoll,コロンビア大学美術史・考古学学科の教授、2007年から2019年までニューヨーク近代美術館建築・デザイン部門のキュレーター)は、西欧において建築家がアカデミー内のギャラリーで展示するようになった18世紀後半、啓蒙主義の時代へと遡り、展示するという行為が建築に及ぼした影響について考察している。

自らの建築デザインを発表する場を与えられた建築家たちは、徐々に未来の建築や都市像をデザインするようになるが、この「未来に向けて建築物を投影する」という建築家の試みは、フランス革命後の新しい社会像を求める政府の期待に応えるものだった。建築家にはさらに、近代という時代にふさわしい「全く新しいタイプの建物や機能を考案すること」が展覧会の中で求められていく(p18)。そうして「建築の公共性と責任に関する批評的な言説の出現」、「国や地域のアイデンティティの構築」、「新しい社会のプログラムを投影する能力」(p.14)という近代建築の成立に不可欠な要素が、展覧会によって促進されていったとベルグドルは結論づける。

続く第1章「媒体としての展覧会」(Exhibition as Medium)では、19世紀末から20世紀初頭の建築展で用いられたメディアの変容に着目しつつ、展覧会が近代建築の成立にどのように作用したかが語られる。ウォリス・ミラー(Wallis Miller,ケンタッキー・カレッジ・オブ・デザイン大学准教授。専門は19~20世紀のドイツにおける建築、建築展)は、ドイツでは美術内での建築の位置付けが、建築展におけるメディアを変化させ、そのことが建築そのものの表現に大きな影響を与えてきたことを示す。19世紀において模型は、「内容を設計する建築家」と「模型をつくる職人」によって生み出される「両義的な存在」だとみなされ、建築の展示はもっぱらドローイングによったとミラーは述べる。そのことは当時の(フリードリッヒ・シンケルなども含む)建築家に、実際の建物よりもドローイングで描かれる「理想的プロジェクト」への関心を生み出した(p.38)。

その後、19世紀後半になると博覧会での人気を受け、大型の石膏模型が再び建築の展示として復活する。この際、建築模型は彫刻と同じカテゴリーとして展示され、今度は建築と彫刻が近しいものとして扱われるようになる。その影響は、第一次世界大戦後に開催されたベルリン大美術展での11月グループによる「建築家と彫刻家が制作した表現主義的な(石膏)模型の類似」へと至る(p.41)。ここから「建築デザインは模型をつくることから、特に模型の素材を扱うことから生まれる」という認識が生まれたとミラーは指摘している(ibid.)。この考えをさらに押し進めることで、ミースは翌年の11月グループの展覧会で初めて透明フィルムを用いた「ガラスの摩天楼」の模型を世に示し「素材がモデルと建物の間の連続性を提供する」(p.42)ことを示したのだった。このように展覧会は、断片化されたメディアの在り方を通して建築そのものの変容を促すメディウム(触媒)として作用してきた。

図1 大ベルリン美術展(1901)の展示風景。彫刻の中に建築家ルートヴィッヒ・ホフマンによる石膏模型が展示されている。(出典:Pelkonen 2015, p. 39)

「環境」への実験場
1960年代はハプニングやパフォーマンスアートなど都市空間内でさまざまなアクションが繰り広げられ、それは1968年の世界的なデモンストレーションへと結びつき、街路や広場はデモの舞台として、人々が出会い、議論する場へと姿を変えた。そうした中、展覧会は作品を鑑賞するだけの場所ではなく、来るべき空間の「デモンストレーション」の場として位置付けられ、観客も参加者として、展覧会への「関与」が求められるようになっていく(p.137)。

第2章「没入型環境」(Immersive Environments)は、観客の「参加」を前提とした試みとして1960~70年代にかけて実施された、建築を「環境」へと解体し、身体と空間のインタラクションを生み出そうとした実験的な展覧会を紹介する。

1967年にオーストリア、ユーゴスラビア、イタリアからのアーティストが参加しグラーツで開催されたトリゴン・ビエンナーレ「Ambiente | Environment」は、「オブジェとしての建築の環境への拡散を示唆し、作品の多くが没入型のインスタレーションとして構成された」実験的な展覧会だった(p.61)。パウラ・バーレイ(Paula Burleigh, アレゲーニー大学準教授、アレゲーニー・アート・ギャラリーズ館長)によると、この鑑賞者の積極的な参加を前提とした環境は、「未来の都市空間の創造における公共的主体の強化」を目指し、「建築家と都市生活者の共同制作モデルによる建築の民主化」(p.62)を象徴するものであったという。しかし続く1969年の展覧会では、「環境」というテーマをさらに押し進めようとしたにもかかわらず、主体的な参加のモメントは失われ、ハンス・ホラインの「ピル(「非日常的な体験」が得られる錠剤)」に代表されるように、それらは「鑑賞者に新しい技術によって構成された現実と同化する」(p.67)ことを強いるだけのものへと変容してしまう。バーレイは「主体的な参加を目指した統合的な環境は、受動的な消費空間へと容易に結びついた」と結論づける。

図2 1967年のトリゴン・ビエンナーレでグラーツの建築家ギュンター・ドメニクらによって建設されたエントランスパヴィリオン。単管によるフレーム内にインタラクティブなオブジェが取り付けられている。(出典:Pelkonen 2015, p. 39)

参加の場としての建築展
第3章「公衆との遭遇」(Public Encounter)では、テクノロジーによって制御された「環境」によらず、より直接的に観客(市民)が参加し、対話する場として展覧会を目指した試みが取り上げられる。サイモン・サドラー(Simon Sadler, カリフォルニア大学教授)は、1973年にテオ・クロスビー(Theo Crosby, 1925–1994)によって企画された展覧会“How to Play the Environment Game”を、市民の参加を前提とした、まちづくりや都市計画についての幅広い議論を生み出す場として実施されたと位置付ける。クロスビーはコミュニティを「環境ゲーム」として捉えることで、「建築環境を構成する相互作用する力」、「環境面での利害関係のメカニズム」(p.101)を市民に示し、展覧会をその先のまちづくりへと接続しようと試みた。

図3 How to Play the Environment Gameの展示風景(出典:Pelkonen 2015, p. 39)

また、学生たちの占拠によって中止に追い込まれたと1968年のミラノ・トリエンナーレは、キュレーターのジャン・カルロ・デ・カルロによって、展覧会を一種の問題提起、未来に向けた生産的な議論の場になることが目論まれていたとフェデリカ・ヴァヌッキ(Federica Vannucchi, NYのプラット・インスティテュート建築学部准教授)は述べる。興味深いのは、トリエンナーレに向けた準備委員会(「スタディ・ルーム」と呼ばれた)でアルド・ロッシがこの方針に明確な反対を示したことだ。「展覧会は、現存する建築物の実物や複製(彼の言葉で言うと「fatti reali(現実の事実)」)を展示し、その分析から観客は建築の問題点と解決策を推論するべきだ」(p.111)とロッシは主張した(ヴァヌッキはその主張の背後に、建築を自律的なものとみなすロッシの建築観や、共産主義者ゆえの史的唯物論の影響を見てとる)。デ・カルロはそれに対し「プロジェクト(未来への投機)」にこそ価値があり、実際の建築(物)はその結果でしかない」(ibid.)と主張したという。

建築教育と展示の相互作用
先のロッシとデ・カルロの対立は、展覧会のキュレーションに対する異なる立場を表明するものとして読める。そこで第4章「キュラトリアルな振る舞い」(Curatorial Acts)は、個別の展覧会よりもキュレーターの役割、またキュレーションという行為について検証する。1960~70年代にかけて意識的に建築的要素が組み込まれたストックホルム近代美術館での3つの展示(“She-A Cathedral”,“The Model”, “ARARAT”)を主導した当時の館長ポンタス・フルテン(Pontus Hultén ,1924–2006)、1960年に修士研究の成果として実施された“Plastic Space; Space in Space in Space”から1976年のクーパーヒューイットでの“MANtransFROMS”など数多くの展覧会を手掛けたキュレーターとしてのハンス・ホライン、1980年の最初のベネチア建築ビエンナーレを主導したヴィットリオ・グレゴッティとパオロ・ポルトゲージ、そしてAAスクールにユニット制と同時に展覧会のシステムを組み込んだ元校長アルヴィン・ボヤースキー(Alvin Boyarsky, 1928–1990)についてのテキストが収録される。

イリーナ・スンウ(Irene Sunwoo, シカゴアートインスティチュートの建築部門ディレクター)は、ボヤースキーに注目し、教育とキュレーションの不可分な関係、教育における展示の役割を考察する。スンウによると、ボヤースキーは校長に就任するとすぐに、厳しい財政難にある大学の改革に取り組み、AAスクールの代名詞ともなるユニット制を導入する。スンウはこの教育改革を「社会のニーズに合わせて設計・建設するという近代的な職業訓練システムから、理論的・批判的な探求を継続的に行うことを前提としたポストモダンな教育モデルへの移行」(p.173)であったと位置付ける。そして、この世界中から著名な建築家を集めて展開された「競争的な枠組み」にとって不可欠だったものが、展示プログラムだった。以後、学期末になると学内のあらゆる壁面には、各ユニットの成果を示す展示が繰り広げられ、学生の次年度への期待を刺激していった。ボヤースキーは他にも、AAの国際的な知名度を高め、学生に「AAが特別であることを印象付ける」(p172)ための巡回展を精力的に実施した。「展示と教育的実践の相互関係を設計し、制度化」することで、ボヤースキーにとって展示は「ユニット制の補助的な役割以上のもの」(ibid.)となったとスンウは結論づけている。

図4 1980年代初頭におけるAAスクールのバーで実施されたユニットの展示風景(出典:Pelkonen 2015, p. 174)

建築展をつくることのプロトコル
本書の最後には現在進行形(当時)で建築展に関わる人々によるふたつの討論が収録されている。その中でエヴァ・フランク(Eva Franch, 元Storefront for Art and Architectureのエグゼクティブ・ディレクター兼チーフ・キュレーター、2018–2020年にはAAスクールのディレクター)は、建築への理解だけではなく「展覧会をつくるというプロトコルに組み込まれている慣習と限界を理解し、新しい関与の形式と制約を特定し、輪郭づけることだけが、建築を展示することへの挑戦になる」(p.196)と述べる。展覧会における建築の位置付け、メディアの形式、環境への没入や議論の場への参加、キュレーターの役割に関する本書のテキストは、この「展覧会をつくるというプロトコル」の一端を解き明かすものでもあるだろう。

建築をつくることがプログラム構築や周辺のまちづくりなどとも結びつく中で、既存のコンテクストが持つ価値や資源を発掘し、それらを体系的に編み直し提示するキュレーション行為は、展覧会にとどまらない重要性を帯びつつある。ゆえに本書の議論は展覧会にとどまらない、より広範な建築実践とも結びつく可能性を持つ。

このように本書は、建築展の歴史に関する書でありつつ、建築展をつくること、そして建築分野におけるキュレーションについての実践的な書でもある。本書をきっかけに、議論や理解が深まり、建築の役割や定義を揺さぶるような刺激的な展覧会が生まれることを期待したい。

★Further Reading
Exhibit A: Exhibitions that Transformed Architecture, 1948–2000, Phaidon Press, 2018.

編著者の一人Eeva-Lisa Pelkonenによる1948年から2000年までの主要な建築展に焦点を当てた一冊。“Exhibiting Architecture : A Paradox?”が理論編だとすれば、こちらはよりカタログ的に、数多くの展覧会を図版入りで紹介している。所々に当時のイントロダクションやマニフェストが掲載されている点が嬉しい。

[サムネイル=斧澤未知子+江川拓未]

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川勝 真一
建築討論

1983年生まれ。2008年京都工芸繊維大学大学院修士課程修了。2008年に建築的領域の可能性をリサーチするインディペンデントプロジェクト RAD(Research for Architectural Domain)を設立。