廻国の痕跡をたどる
連載第2回では氏子かりがどのような規模で行われていたかについて、本州全域を俯瞰した地形図に位置情報を落とし込み観察したが、はたして氏子かりを行なった人物「廻国人」はどのような足取りで諸国の山々を巡ったのだろうか。
「廻国人の巡回ルート」としての直接的な資料は残っていないものの、氏子かり帳に残された情報は、山々で出会った木地師たちをある程度時系列に沿って記録したものだと考えられるので、そこから大まかな足取りを想像することができる。
前回より少し視点をクローズアップし、17世紀の中国山地と紀伊半島での廻国について、ひとつひとつの位置情報を地図上で順番に追ってみることにしよう。
藩領の境界を縫うように移動する(中国山地)
1694年に行われた中国山地での廻国について、廻国があった地点とその順番についてマッピングし、線で繋いだ。藩領の境界について点線で示し、幕領・譜代大名・外様大名と色別に塗り分けて見たものの、木地師の元を巡る廻国人の動きと、境界とには関係が見られない。木地師の元を巡るという都合を最優先に、行政上の区分にとらわれることなく移動し続けている印象がある。
この点と線は、標高図にマッピングしたほうがしっくりくる。藩領の境界は平坦な土地を中心とした社会にとって辺境となる場所(市街地から遠く、田んぼを設けることができない山間部など)に自然と設けられているのに対し、木地師にとってはその境となっている場所こそが生活のフィールドだった。そこを歩く廻国人の足取りは、平地の社会の人々によって引かれた線など、見えないし関係はないとでもいうように、境界を無視している。
木地師たちは「七合目以上の樹木は自由に伐採できた」と物語られることも多いものの、実際には伐採する期間や樹種を限定した契約を各地点の山村と交わしていたため、資源枯渇に陥れば契約を新たにすることで移動を実現していた★2。しかし、東近江から出発した廻国人たちに関していうと、廻国に出る旨を彦根藩に申しでた後は、木地師がいる諸国の山々を、藩領の境界や通常利用される街道・関所とは関係なく移動していたようだ。
およそ10年に一度、現在の行政区分でいう滋賀県東近江市蛭谷町・君ヶ畑町から、二人の選ばれた廻国人が氏子かりの名目で各地の山々を巡った訳だが、移住性が高く、10年もあれば居住地を変えてしまうことも多かった木地師たちの居場所を、何を頼りに訪ねることにしていたのかは定かではない。
しかし、氏子かりというコミュニティに属していた木地師たちは、移住などの手続きについて、蛭谷・君ヶ畑にサポートを求め手紙を書くこともあった。各氏子かりの時点で関わりが強くあった木地師の元を訪れたなら、そこから近隣の木地師のもとへ、そしてさらにその隣へとつたうように巡ることができたのかもしれない。
尾根をつたって近道をする(紀伊半島)
紀伊半島での廻国についても、木地師らしい移動の痕跡が氏子かり帳に残されている。先の中国山地での廻国と同じく、1694年に行われた廻国をマッピングし観察してみると、紀伊・大和の山々を巡っていた廻国人が、途中で突然に北上して近江の日野(195)へ行き、また紀伊・伊勢方面へもどって廻国を続けている。現在でいう三重県と奈良県の県境と滋賀県の日野町とが、交通アクセスが良い位置関係にある印象は全くなく、江戸時代の主要な街道と照らし合わせてもまた、直接繋がっているということはない。
しかし、地形をよく見てみると、現在の三重県津市美杉町付近(193,194)から滋賀県蒲生郡日野町(195)へは、布引山地、鈴鹿山地と、いく筋かの尾根で繋がっている。
これらの山地は標高が高すぎず、ほどよく連なっている。平地の社会からしてみると、近畿と東海を隔てる壁のような存在だったこの山々も、木地師からしてみれば、平地に降りることなく移動することが可能な「山民往来の道」として、近道のように利用できる都合の良い場所だったのではないだろうか。
鈴鹿山脈の南部にある鈴鹿峠などは、東海道の難所として古くから語られているが、この廻国のルートをみていると、木地師は独自の価値観によって、連なる山地と尾根をポジティブにとらえていることが伝わってくる。
21世紀にはもう木地師として移動生活をする人はおらず、また山々の風景も明治以後の植林によって江戸時代とは大きく異なっているとは考えられるものの、この資料に出てくる山地は現在も存在している。はたして山から山へ尾根をつたって歩くとはどのようなことなのか、実際に確かめてみることにした。
布引山地南端部の尾根道を実際に歩く
氏子かり帳に登場する地名を頼りにあたりをつけて、布引山地南端部にある大洞山から尼ヶ岳までのルートを設定した。三重県津市美杉町杉平のバス停から登り始める。
山桜で有名な三多気を通過すると、本格的に山に入る。林業が盛んな美杉町はどこまでも山がつづき、どこからか木材を切るチェーンソーの音が聞こえ、山村らしく茶畑が広がる。
集落からそれほど離れていないうちは、植えられた杉の間を、切られて無造作に置かれた丸太を避けながら登って行く。
大洞山の雌岳(標高985m)に到達すると、尼ヶ岳(標高957m)までは尾根道がつづく。尾根に出るまでは斜度がきつくとも、尾根まで出てしまえば確かに歩きやすい。もちろん現在これだけ尾根道がひらけているのは、ここが登山道として管理されているからではあるが、倒木や障害物となる岩などがあったとしても、方向感覚の維持のしやすさなど、尾根道を歩く利点は大きいように感じる。
大洞山雄岳(標高1013m)からは、北にこれから行く尼ヶ岳とその向こうへつづく布引山地、そして写真の外側ではあるが、東には伊勢湾を見渡すことができる。木々が生い茂る低山ではなかなか視界がひらけないが、このように山頂や山頂付近で展望が得られると、「ここから布引山地を進み、鈴鹿峠に差し掛かったところで北西に進めば日野町に至る」というような、旅路のイメージができたのではないだろうか。
尼ヶ岳頂上からはさらに名張・伊賀・松坂などの市街地まで広範囲に見渡すことができるが、頂上までの傾斜はかなりきつい。どの程度負担となるかは人それぞれだとしても、頂上まであと20分というところで尾根道の斜度が急激に上がり、普段運動をしていない私の心臓は爆発してしまいそうなほどだった。木地師は主に尾根を辿り、積極的に頂上にも登って現在地の確認などをしていたのではないか、という仮説・想像をしてこのルートを歩いてみたが、今はむしろ、尾根を進みつつも傾斜が急すぎるポイントは臨機応変に避け、むやみに頂上に登ることもしないほうが移動としては効率が良さそうだと考えを改めている。山頂という存在はどちらかというと、登るというよりはその特徴的な形をランドマークとして捉えられることで、現在地を確かめるのに十分役立っている。そもそも木地師や廻国人は行楽・スポーツとして山に登っているのではなく、木地稼業を営む、あるいは木地師の元を巡回する、という生業と目的のために山のなかで日々を過ごし歩いているのだから、必ずしも登頂を達成する必要はない。
それでも、頂上まで登り周囲の山々を眺め観察することは、木地師の生活領域についてより多くの想像を巡らせることに繋がった。特に新緑の季節に山に赴いたことで、木地師が生活していたであろう場所を外側から眺めたときの色について考えさせられた。植生は緯度に応じる水平分布の他に、標高に応じる垂直分布があり、日本列島の場合は低い方から常緑広葉樹林帯、落葉広葉樹林帯、常緑針葉樹林帯と大きく分けられるが、木地師はその中でブナなどの落葉広葉樹林を木地の材料として必要としていた。
頭の中では以前から、木地師の生活圏は落葉広葉樹林帯と密接な関係にあると分かっていたとしても、実際に春の山を目の前にしてみると、落葉広葉樹林が明るく輝いていることに驚く。それは他の樹種と比べると発光して見えるほどで、暗く深緑の杉林とも、低地で見かける常緑広葉樹林の新緑とも全く違って見える。
江戸時代には落葉広葉樹林だった場所も現在では杉林に置き換わっていることが多いのだろうが、木地師がいたような山々の特徴的な標高帯は、春になれば新緑の眩しさによってかなり目立っていたのではないだろうか。木地師は「山七合目より上」という言葉で自身の暮らす世界と平地とをしばしば区別していたが、その世界は木々の色によって今よりはっきりと可視化されていたのかもしれない。
他にも、周辺の山々からいろいろな音が響いてくることが新鮮に感じられた。少し離れた山から、ドライブするスポーツカーやバイクのエンジン音が聞こえてくる中を歩いていると、山の中にいると木々に隠れて姿は見えなくとも、他人の存在感が音の響きによって感じられることを実感する。江戸時代にはエンジンはなくとも、材料となる木々を切り倒す際には大きなエネルギーがぶつけられて、それなりに大きな音がしたのではないだろうか。
失われた空間を追体験する
資料を一旦置き、実際の山を歩いてみることで想像される事柄はあくまで想像であり、過去の実際の木地師の世界にどれほど近づくことができているのか、もしくは的外れなのか、答え合わせをすることは難しい。しかし、独自の価値観に基づいて築き上げられた、平地の世界とは別のあるもう一つの世界とも言えるような空間を、資料から得られる情報のみを頼りに視ようとすることもまた不完全だ。
氏子かり帳に残された木地師の空間に関する情報はかなり間接的で、かつ極限まで抽象化されたものであるから、それを白地図ではなく標高と地形を表現した図に落とし込み、順番も書き込んで、縮尺を管理した上で整理して、さらに実際にその場所を訪れて、とできる限りの具体性を与えてみる必要があった。干し椎茸は水で戻しても「戻した椎茸」となり、乾燥する前のフレッシュな椎茸とは別物にしかならないが、それでも椎茸の旨味は濃く感じられるというような感覚で、木地師の空間の追体験について考えている。
連載第3回では、廻国人の移動を地形や標高を鑑みながら地図上でたどった。そうすることで、平地から見ると辺境とされるような場所こそを自らのフィールドとしていたり、難所とされる山地を逆に近道かのように利用しているというような、木地師の土地に対する独特の視点が浮かび上がってきた。実際にその空間を訪れ歩いてみることで、平面的な線では簡単に区切ることができない木地師が生活した領域を、色や音、斜面の角度、そこに立つ自身の身体にかかる重力から実感することができた。他人にとっては厄介とさえ感じられる場所が、生業や生き方によって最も魅力的な空間として住みこなされる。木地師の視点を通すと、日本列島がこれまでと違う島々に見えてくる。
第4回では、数人の木地師とその家族について、彼らが人生のうちにどのような移動をしていたのかについて注目する。集団としてではなく、個人の動きが見えるほどにクローズアップして、観察して行こうと思う。■
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注
★1 永源寺町史編さん委員会『永源寺町史 木地師編 上下巻』(永源寺町,2001)参照 国土地理院地図白地図・色別標高地図を加工し作成
★2 松尾 容孝,移動職能集団木地師の活動とそれを支えるメカニズム,専修大学人文科学研究所,2013町,2001)をもとに筆者が作成