惑星都市彷徨 ── ウィルスの蔓延する街路を踏査することは可能か

仙波希望/Planetary city wandering — Can we traverse and survey virus-ridden streets? / Nozomu Semba

仙波希望
建築討論
14 min readSep 1, 2020

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ダニー・ボイル監督『28日後…』(2002)オフィシャル・トレイラー

1. 砂漠/社会の都市

ジムは28日間にわたる昏睡から目覚め、抜け殻となったビッグベンのまわりを彷徨いていた。ダニー・ボイルの手掛けた、ゾンビ映画でありパンデミック映画でもある『28日後…』のオープニングである。無許可で早朝のロンドンの街を撮影したボイルの豪胆さから、同様に無許可で撮影された『太陽を盗んだ男』での東急デパートから札束をばら撒き群衆をあつめるシーンをふと想起する。これは余談にせよ、2002年公開の『28日後…』から18年後の私たちが、CGではない誰もいないロンドンの街に再会するとは思いもしなかった。新型コロナウィルスという不可視な存在に翻弄され、惑星規模で2020年の私たちの前に立ち現れたのは、単なる廃墟というわけではない、人のいない蒼茫の都市である。

長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』(1979)

都市に人がいないという矛盾を、私たちはどのように受け止めるべきなのだろうか。

ジョン・カーペンター監督『ゼイリブ』(1988)オリジナル・トレイラー

そもそも、ロンドン、マンチェスターなどのイギリスにおける大都市の密集状況をその優れた観察眼から描出したのは、若かりし日のフリードリヒ・エンゲルスである。人口が集中した巨大かつ壮麗な港湾都市を歩きまわりながら、まるで映画『ゼイリブ』の主人公ナダがかけるあのサングラスのようにエンゲルスの目が捉えたのは、過密で不衛生な貧民たちの暮らしであった。富と歓喜と華やかさで埋め尽くされたかにみえる、世界に名だたる近代都市の中心で、人々は空気の汚染に喘ぎ、そこでは熱病やチフスが蔓延している。絶えざる工業化と高密化を求める大都市は、確かに災いをもたらす存在であった。いやより正確に述べるならば「[…]大都市は、少なくとも萌芽的にはすでに存在していた災いを、もっと急速に、もっと十分に発展させただけなのである。(Engels 1844–45=2000(上):184)」

エンゲルスの経験を都市研究のひとつの起源と見定めるならば、つまり都市と対峙するという営みは、過密、衛生、貧困、そして労働といった問題・事象を丹念に分析すべく、都市を意識的に彷徨する試みから始まったといえる。社会学者の松尾浩一郎による極めて精巧な研究が指摘するように、視野を可能な限り拡げ、現地に赴き調べ上げる「社会踏査social survey」の方法論は、後の都市社会調査史のひとつの雛形となる。チャールズ・ブースのロンドン調査に端を発し、19世紀後半から20世紀初頭のアメリカにムーブメントを巻き起こし、そして日本では後の都市社会行政の高まりを準備した「社会踏査」が涵養したのは、都市をまさに「都市社会」として見る視点であった。「理念や制度のような次元だけを見るのではなく、実地に足を運び、そこで暮らす多くの人びとにじかに触れて情報を集めていく」このアプローチは、「ひとりひとりの住民が、ある土地ある空間のなかに共に存することで、その都市が構成されていると見なす視角」を作り上げた(松尾2015:45)。貧困、衛生、労働、そして過密を争点としながら、もう一方で、都市を社会と見なす視点が、街を彷徨することによって形成されたのである。

2. 都市を彷徨い発見する

新型コロナウィルスが猛威を振るう2020年からおおよそ100年前の1918年、折しもスペイン風邪と世界戦争の波がこの惑星で猛威を振るっていた頃、ひとつの都市社会調査が東京で実施されようとしていた。日本の社会統計学の祖の一人に称される高野岩三郎の主導した、「月島調査」である。東京・月島地区を舞台に、労働者の生活実態を衛生、住居、娯楽、家計、労働事情などに関して統計学的に明らかにした本調査は、「わが国の社会・労働調査が単なる観察記録から統計へと発展する里指標(マイル・ストーン)」となり「都市におけるコミュニティ・サーベイ」の原型を形づくった(関谷 1970:42)。

調査主体は保健衛生調査会であり、当時の社会課題であった結核やトラホーム(トラコーマ、エジプト眼炎のこと)などの保健衛生上の諸問題を背景に、月島調査は労働にまつわる諸問題、都市生活問題、近代産業労働者を中心とした労働・職・住などの新たな生活共同体、地域生活共同体の形成過程を記述するためのものとなった(川合 2004:111)。そしてこの調査のひとつの特徴は、月島に直接の調査所を設けたところにある。それは「専任の調査担当者が成るべく常に此処に居住し、処に慣れ民衆に親しみつつ実地の調査を行うことが得策である」という考えのもとであったが、高野はその意図するところとして、社会調査が「単に一片の形式的調査であってはならぬ」「直ちに民衆の生活中より自然に生まれ出るところの調査でなければならぬ」「それでこそ始めて(注:原文ママ)調査の形骸に精神を與え、血と血を以って満ちしむることが出来る」と記している(高野 [1921]1970:49)★1。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、2017)

つまり1918年から1920年の月島において高野たちは、あくまでも社会科学的な調査の遂行を目的としながらも、その場所に身を浸すことに意識的であったといえる。都市空間では数値化しえないもの、予測できない何かがある、ということに彼らは気づいていた。「歩くこと」そのものをテーマにしたレベッカ・ソルニットの刺激的な著作『ウォークス 歩くことの精神史』では、「田園、および都市の徒歩移動は二世紀間にわたって、予期できぬことや計算できぬものを探り当てる第一の方法であった(Solnit 2000=2017:21)」と語られる。なぜなら「場所に身を投じたなら、場所はわたしたち自身を投げ返してくれる。場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。[…]世界の探検は精神の探索の最良の手段のひとつであり、足はその両方を踏破してゆく。(Solnit 2000=2017:26)」

だがいま、私たちはこのコロナ 渦において、都市を自由に歩くことができない。いつまでこの状況が続くかもわかりえない。都市を彷徨し(もちろんそれは「遊歩者」としてでも)、その空間に身を投げ出し、その場所で考え抜くことこそが都市研究の積み重ねてきた重要な技法であるとしても、現下の状況では、私たちはその手段に頼ることができない。これまで都市で歩んできた道がまるでいまの都市にはつづいていないかのように。

けれどももう一度立ち止まって考えてみれば、彷徨することが禁忌とされるのは、何もロックダウンが契機であったわけでもない。再びソルニットを引くと、「テクノロジーは効率性の名のもとに増殖をつづけ、生産に充てられる時間と場所を最大化し、その間隙の構造化されえぬ移動時間を最小化する。そうやって空き時間を根絶してゆく。(Solnit 2000=2017:21)」つまり私たちはすでにある意味で、都市を歩けていなかったとも考えられる。Google map上に表示される最短ルートをなぞることが、街路を突っ切ることと同義となる。乗る電車の車両さえも最も効率の良いものが示される。衛星写真から加工される情報を、可能な限りの少ない歩数で乗り切ることにもはや私たちは慣れている。行動履歴がこれほどまでに開示を求められる下地は十分にあった。境界や壁が立ち上がるのはむしろ、描き出されてきた一人一人の無数の線の上である。

前田悠希『ワンダーウォール 劇場版』(2020)予告編

3. 無数の過程が貫く都市

都市が見えないバリケードテープに囲われるとき、ドローンカメラの目を借りて見るその都市をいかに掴むことができるのだろう。京都大学吉田寮の立ち退き問題を明らかに題材にした映画『ワンダーウォール』では、話し合いを求める学生たちと大学の学生課のあいだに突如として設置された「壁」が象徴的に映し出されている。壁は確かに分断を表象する。だが忘れてはならないのは、その壁が、分け隔てられた此方と彼方の視点では見えない場所から建てられている、ということである。対話の閉ざされる仕組みが、対面するAとBの意志とは関係のない場所で作り上げられる。大学寮での学生たちの暮らしは「無秩序の秩序」(リチャード・セネット)を構成し、その存続を理性的に追求しようとするものの、彼ら彼女ら、ないしは壁越しに対峙する学生課の職員たちとも遠く離れた場所からの「壁的なるもの」が、その生態系をも根絶やしにしようとする。

であるとすれば、それでもなお引かれ続ける無数の境界線を飛び越えていくことを私たちは目指すべきだ。私たちが家に縛りつけられることが、それ自体が同時に受け身であり可能性であり特権であることに気を配る必要がある。そして「不要不急」や「自粛」という言葉の背後にある、丁重かつ暴力的なる自発性の強要を強く意識する必要がある。そして私たちは、いま世界に無数の線が引かれつつある過程、ガヤトリ・C・スピヴァクが言うところの世界化 worlding のポリティクスを直視していることを想起すべきである。

ガヤトリ・C・スピヴァク著、上村忠男 訳『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998)

スピヴァクは、書き込みのなされていない惑星のうえに植民地化された空間を刻み込んで行く過程、植民地化された空間に帝国の言説を刻み込んでいく過程を、(世界の)世界化として概念化した(Spivak 1985, 1988=1998)。それは同時に「他者化」の過程でもある。権力機構からの上意下達のみでなく、地図化し、名前をつけ、人々の移動と存在をつうじて、生きる主体が「他者」へと転化されてゆく(Ashcroft, Griffiths and Tiffin 2013:284)。2020年現在では、もはや手放すことのできないスマートフォンも当然このなかに組み込まれているであろう。空白に見える都市空間に、無数の線と視線が書き込まれる過程を、私たちはまさに目の当たりにしている。

過程としての都市を理解する、といった姿勢は、プラネタリー・アーバニゼーション研究(惑星都市理論)やポスト・コロニアル都市理論として、現在世界的に様々な潮流を生み出しながら進展しつつある★2。なかでも、ここにおける惑星=プラネタリー Planetary という形容詞の起源のひとつも、スピヴァクにある(Spivak 2003=2004)。彼女は「他者化」という論点に付して次のように述べる。かつては赤道や南北回帰線等々であったものの位置にいまや地理情報システムの要求するところにしたがって引きなおされた仮想上の線が刻みこまれている。そのなかで「他なるものについて考えるということは、すでにして、境界を逸脱/侵犯している(transgress)ということなのだ。それというのも、わたしたちはわたしたちが外的空間と内的空間というように区別して隠喩化しているものへの略奪行為を繰り返しているにもかかわらず、わたしたちの手の届かないところにあるものが、わたしたちと切れながらもそのじつ、はっきりと断絶しているわけでもないかたちで存在しているからである。(Spivak 2003=2004:125)」

誰もいない都市に境界線が引かれつづける。そして「都市が過程であるということはどこか街の一角がつねに工事中であるメタボリズム的光景を何気なく目にしている日々の生活を振り返ってみても、見慣れたものである。(平田 2018)」社会思想史を専門とする平田周は、プラネタリー・アーバニゼーション研究をめぐる理論的考察をこのような言葉をもって締めている。都市は過程である。翻って私たちの目線も、そして足取り自体も過程である。この惑星に引かれつつある境界を蒼茫に見立て、絶えず彷徨く術と責務がまだ私たちにはある。「不可能なるものの経験」(Spivak 2003=2004:102)は、とどまることのないこのコロナの渦のなかでむしろ可能性として開かれている。

★1 引用にあたっては読みやすさを重視し、旧字体を新字体に、旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。また、高野岩三郎の評伝などを除き、多くの先行研究において月島調査と「スペイン風邪」のつながりがほとんど触れられていないという事実は、現在の私たちにとって考えるべきところとなるだろう。

★2 こうしたプラネタリー・アーバニゼーション研究やポスト・コロニアル都市理論といった現行の複合的都市研究の成果に関しては、2020年刊行予定の『惑星都市理論』(平田周・仙波希望編著、以文社)を参照いただきたい。

引用文献

Ashcroft, Bill, Griffiths, Gareth and Helen Tiffin, 2013, Post-Colonial Studies: The Key Concepts 3rd Edition, Routledge.

Engels, Friedrich, 1844–45, Die Lage der arbeitenden Klasse in England(=2000, 浜林正夫訳『イギリスにおける労働者階級の状態〈上・下〉』 新日本出版社.)

平田周, 2018, 「プラネタリー・アーバニゼーション研究の展開」『10+1 website』, LIXIL出版, [http://10plus1.jp/monthly/2018/11/issue-01.php](最終閲覧2020年8月13日)

川合隆男, 2004,『近代日本における社会調査の軌跡:社会観察・調査と社会学』恒星社厚生閣.

松尾浩一郎, 2015,『日本において都市社会学はどう形成されてきたか : 社会調査史で読み解く学問の誕生』ミネルヴァ書房.

関谷耕一, 1970,「解説 高野岩三郎と月島調査」『生活古典叢書第6巻 月島調査』光生館.

Solnit, Rebecca, 2000, Wanderlust: A History of Walking, Viking Adult.(=2017, 東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』左右社. )

Spivak, Gayatri C, 1985, ‘The Rani of Simur, ’ in Francis Barker et al. eds., Europe and Its Others Vol. 1, Proceedings of the Essex Conference on the Sociology of Literature, University of Essex.

Spivak, Gayatri C, 1988, ‘Can the Subaltern speak?, ’ in Cary Nelson and Lawrence Grossberg eds., Marxism and the Interpretation of Culture, University of Illinois Press.(=1988, 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』みすず書房.)

Spivak, Gayatri C, 2003, Death of a Discipline, Columbia University Press.(=2004, 上村忠男・鈴木聡訳『ある学問の死──惑星思考の比較文学へ』みすず書房.)

高野岩三郎, [1921]1970,「第一編 総説」『生活古典叢書第6巻 月島調査』光生館.

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仙波希望
建築討論

せんば・のぞむ/ 1987年生まれ。都市研究、カルチュラル・スタディーズ。博士(学術)。広島文教大学人間科学部専任講師。主な著書に『忘却の記憶』(共著、月曜社、2018)。主な論文に「『平和都市』の『原爆スラム』──戦後広島復興期における相生通りの生成と消滅に着目して」(『日本都市社会学会年報』第34号、2016)等。