感染症リスクが縁どる社会 ── 都市と距離をめぐるジレンマをめぐって

田中大介/The society strongly framed by the risk of infectious disease — Concerning the dilemma of “city” and “distance” / Daisuke Tanaka

田中大介
建築討論
22 min readSep 1, 2020

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新型コロナ感染症と「社会」の流行

「コロナ専門家有志の会」のひとりは、そのウェブサイトにおいて「日本では、コロナの流行を収束に向かわせるために、社会全体(社会全体に傍点)で、人と人との接触を8割減らすことが必要です」(https://note.stopcovid19.jp/n/n1d0745601527, 傍点引用者)と述べている。「人と人との接触」は「社会的接触」ともいいかえられている。この文章でも推奨されている新型コロナ感染症対策──「3密回避と接触8割減と外出1回」は広範な議論を引きおこした。また、人と人が一定の距離を保つ「社会的距離(social distance)の確保」や「社会的距離戦略(social distancing)」も、政府や自治体などからさかんに呼びかけられている。ただし世界保健機関(WHO)は、社会的なつながりを断つことを意味しかねないという理由から、「社会的距離」ということばを「身体的距離(physical distance)」に改めている。しかし、社会的距離ということばは各所で使われ続けている。

社会的距離を保ってショップ前に並ぶ人々。作者:井上しのぶ, 2020年5月31日, CC BY-SA 3.0(出典:日本語版Wikipedia「社会距離拡大戦略」より)

新型コロナ感染症が問題化するなかで、「社会/社会的」ということばを今まで以上に目にするようになった。「人と人との接触」、「身体的距離」という即物的な言い方でその対策は十分に表現できるはずだが、そこに「社会的」という表現が付加される。

アルベール・カミュ著、宮崎嶺雄 訳『ペスト』(新潮社、改版、1969)

「接触を減らそう」、「距離をとろう」という実際の対策だけみれば、とくに「社会」ということばは必要ない。だが、そこに「社会」が含まれることで、物理的・空間的な交流を削減しつつ、「みんな」であること、「みんな」でやっているという意味がにじむ。局所的な接触と関係を「社会的」ということばで表現しつつ、それを「社会全体」という広域的な範囲で共有すべき問題とすることで、そうした印象は強くなる。感染症というリスクを通して社会の輪郭がぼんやりと見えてくる──「遮断を通じた連帯」とでもいえるだろうか。現在、アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947)がベストセラーになっているが、そこで描かれている、ペストによる不条理な断絶と都市的な分業のなかに現れる人びとのなけなしの連帯の表現のようでもある。

エドワード・T・ホール著、日高敏隆・佐藤信行 訳『かくれた次元』(みすず書房、1970)

「社会的距離(social distance)」は、アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールが、対人距離を四つに分類したなかのひとつとしても知られている(1966=1970『かくれた次元』みすず書房)。「親密距離(intimate distance)」、「個体距離(personal distance)」といったプライベートな関係よりも遠いが、「公共距離(public distance)」という演壇にたつ要人などとのパブリックな関係よりも近い──社会的距離は、そうした知らない人同士や公式的な対面・交流における対人距離を指したものである。ホールによれば、社会的距離は近い場合1.2~2m、遠い場合2~3.5mを指すというが、現在、感染症対策として多くのところで推奨されている2mという社会的距離とも合致している。そのため、人類学と公衆衛生という異なるコンテクストで表されてきた言葉が、同じように見えてしまう。

そう考えると、新型コロナ感染症対策で頻繁に言及されている「社会(的)」とは、親密性の外側にある、匿名的・公式的関係における対面距離を指しており、そうした関係や距離の広域的な広がりと考えることもできる。

距離としての都市と社会

「社会」ということばはきわめて多義的である。その思想的起源や歴史的変容を探究する研究も存在するが、そうした議論をつぶさに見ていく余裕はない。ただし、上記のような意味における「社会」の近代的成立は、都市化の過程と並行している。

18世紀後半以降、産業革命が進むなか、大量の人びとが労働力として都市に集まる。大量の人びとは、近距離ですれ違い、公共交通や公共空間などにおいて他人同士として居合わせる。そのため、大都市を生きる人びとの局所的関係の多くは、一時的になり、匿名化する。

ベネディクト・アンダーソン著、白石さや・白石隆 訳『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版、1997)

こうした大都市への人口集中は、都市の情報を遠くの地域に伝達する電気通信や離れた地域から都市に人びとを移動させる蒸気機関などの近代的技術によって促された。近代的な交通・通信テクノロジーの存在は、実際に会ったこともない人や行ったこともない所を「知っていること」にする。つまり、B・アンダーソンがいう「想像の共同体」のように、広域的関係としての「社会」を仮想化=実質化(virtualize)する。

都市化が進むことで、見知らぬ他者と対面する場面が増え、そのような中途半端な関係が局所をこえて拡大する。エドワード・ホールがいう「社会的距離」がそのような「近くて遠い/遠くて近い」関係を指しているとすれば、都市化とはそうした社会的距離の関係の増加・拡大ともいえる。この都市の密集状況と社会的距離の関係は、高い感染症リスクと表裏一体であり、近代都市と公衆衛生はきわめて密接な関係をもってきた。

大澤真幸『社会学史』(講談社、2019)

19世紀に急激に進展する都市化は、自分たちが生きる世界を見えにくくし、共に生きる他者をわかりにくくする。実際に貧困、格差、衛生、治安などの問題も発生することになった。急激に変化する世界、あるいは理解しがたい不条理な現実を「社会」として対象化し、分析する学問として、社会学は19世紀に誕生している。そのため社会学史では、社会学をしばしば「近代社会の自己意識」として位置付けている(近年の著作であれば大澤真幸『社会学史』講談社)。

自分たちが生きる世界を「社会」とよぶとき、自己と他者、主体と客体のあいだに「距離」が生まれている。たとえば、誰かが「現在の社会は…」と述べたとき、なんとなくわかったような気がするものの、どこか括りとして大きすぎる。私や私たちのことを指しているはずなのだが、それを突き放した視点に立っている。そもそも「社会」が意味する範囲や内容は人それぞれだろう。

社会は「わかっているが、わからない」、「わからないが、わかっている」、「近いが、遠い」、「遠いが、近い」という両義的な存在である。しかも日本語の「社会」は、翻訳された一種の外来語であるため、事情はさらに錯綜している。そして、私たちが生きる世界にそうした距離や隙間があるからこそ、それを埋め、理解するために「学」や「論」という営みが存在する。とくに危機やリスクが広く認知され、集合的に対応せざるをえないとき、「社会」という視点が要請されやすい。新型コロナ感染症において頻出する「社会/社会的」という用語は、そのひとつといえるだろう。

19世紀後半の成立期の社会学は、そうした世界の見えなさを見る技法としての「統計」(E・デュルケム)や他者の分らなさを分かる技法としての「理解」(M・ウェーバー)などの方法を彫琢した。さらに、人びとの相互作用の「距離」をキーワードのひとつにして都市や社会を論じた社会学者としてG・ジンメルを挙げることができる。

ゲオルグ・ジンメル『社会学―社会化の諸形式についての研究〈上〉』(白水社、1994)

都市という《旋回点》のジレンマ

ジンメルは、都市を《旋回点》として位置付けた(1908=1994『社会学』白水社)。都市とは、特定の領域においてヒト、モノ、コトの運動を支えるコマの軸として現れる空間と理解することができる。逆にいえば、そうした運動がなくなれば、軸としての働きは維持できなくなりコマは倒れてしまう──つまり、都市は都市であることをやめるだろう。ヒト、モノ、コトを肺・心臓(循環器・呼吸器)のように吸い込んでは吐き出すことによって、都市は、都市がある社会に「熱気」をもたらしている。

現代社会では、資本主義と市場経済がグローバルな規模で拡大し、ヒト、モノ、コトのモビリティが活性化し、大都市への一極集中が進んでいる。《旋回点》としての都市がその速度・規模・範囲を増大させることでグローバリゼーションを加熱している、と考えることもできるだろう。

ウルリッヒ・ベック著、島村賢一 訳『世界リスク社会論:テロ、戦争、自然破壊』(筑摩書房、2010)

《旋回点》としての都市が担う集中と拡散という運動は──ヒトという乗物にのって──ウイルスや細菌も運んでいる。そのため、多くの人びとが「発熱」することにもなる。世界中の新型コロナ感染症の流行が毎日のように報道され、国際移動が規制されたように、リスクによって世界が一体化しつつ、被害や責任の所在をめぐる分断も続いている。社会学者のウルリッヒ・ベックは、かつてこうした状況を「世界リスク社会」と呼んだが、現在、その焦点はグローバルシティ・東京にある。

「東京は諸悪の根源」、「圧倒的に東京問題」──東京都の感染者数が再急増しはじめた2020年7月、自治体の首長や政府の中枢を担う政治家はそのように発言した。観光庁は全国一律の観光支援事業「Go To キャンペーン」の実施を試みていたものの、結局、「東京都発着の旅行を除外する」という方針に変更された。これらのことは《旋回点》としての都市が、都市の内部で完結するのではなく、その外部との相互作用において成立していることを示している。とりわけ、一極集中によって巨大化し、グローバル化した東京に対する不安や恐れは強い。県外ナンバー狩りが話題になったが、そこまでいかなくとも地方では、都内の地名を表記した車のナンバープレートに「近隣に住んでいます」という張り紙がつけてられていることがしばしばある。

ただし、都市をめぐるヒトの移動を止めてウイルスの拡散を止めることは、都市の内部や外部の経済の動きを止めることにもなる。政府や自治体の政策、各業界や世論の動向は、《旋回点》としての都市がもつジレンマ──経済の加熱か/体温の冷却か──のなかでゆらぎ続けている。

距離をめぐるジレンマ──距離をとること/つめること

ジンメルは、都市を論じたすぐあとに「ランデブー」という関係の形式を扱い、多数の人びとの交流を発生させる都市の魅力が他者との出会いにあると示唆している。都市は他人同士の距離をつくるが、まさにそうであるがゆえに、その距離を越えることへの欲望も強い。政府や自治体は「夜の街」の感染症リスクの高さに警鐘を鳴らし続けているが、ジンメルが論じた都市に魅力がそのままリスクとみなされている。

また、新型コロナ感染症対策として厚労省が打ち出した「新しい生活様式」も、アーバニズムとよばれる都市的な生活様式を可視化している(この点については拙著2020「顕在化した「都市の危機」」『まち座』学芸出版社において論じた)。

アーバニズム論は、ジンメルをルーツのひとつとし、シカゴ学派の都市社会学者ルイス・ワースによって提起された。ワースによれば、大都市の匿名的関係においては、人と人の距離が保たれる傾向にある。ただし、高い人口密度のなかで社会的距離を物理的・空間的に維持することは困難なため、あくまで心理的・儀礼的な作法となる。

現在、透明なアクリル板やビニールシート、並び位置を示すシールやマーク、マスクや消毒液がさまざまな場所で導入されている。これらのコロナ感染症対策は、都市でもとめられる社会的距離を物理的・空間的に可視化している。上記の「アーバニズム」は、都市のコミュニティを衰退させるものとして批判的に言及されることもあった。しかし、感染症対策として可視化された社会的距離は、むしろ道徳的に推奨されている。

アーヴィング・ゴッフマン著、浅野敏夫 訳『儀礼としての相互行為』(法政大学出版局、2012)

一般に人間関係においては、社会的な場面や地位・属性に応じて「距離をとったり」、「距離をつめたり」することが必要になる。社会学者のアーヴィング・ゴフマンは前者を「回避儀礼」、後者を「呈示儀礼」と表現し、そのようなコミュニケーションを「面目行為 face work」と位置付けている(『儀礼としての相互行為』法政大学出版局)。近すぎると傷つけてしまい、遠すぎると寂しくもある──心理学でいわれる「ヤマアラシのジレンマ」とよばれるものにも近いが、いずれにしても私たちは自己と他者の距離をめぐるジレンマをうまく調整しなければならない。その調整に失敗すれば自己や他者の面目をつぶし、人格を傷つけることになりかねないからだ。逆にいえば、お互いの人格が「聖なるもの」として尊重され、その輪郭にそってマナーやエチケットといった「儀礼」が設定されているわけである。

現在のコロナ感染症対策は、「人格」の尊重や配慮よりも、「リスク」の警戒と忌避として距離が維持されている。また「呈示儀礼」という近接化よりも「回避儀礼」という距離化に偏っているようにみえる。それらは社会学でアーバニズムと表現されてきたものと表面上、似ている。そのため、距離化の強制は──アーバニズムがそのように批判されたように──他者との関係を排除し、「社会」の連帯を壊すとされるかもしれない。だが、冒頭の感染症専門家たちのように、このような距離化の配慮や感染症対策の明示は、他者への関心の迂回的な呈示であり、結果として「社会」の防衛になる、と主張されることもあるだろう。

W・ベック、A・ギデンズ、S・ラッシュ著、松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三 訳『再帰的近代化』(而立書房、1997)

メディア都市の再帰性──リスクが可視化する都市/メディアが可視化するリスク

感染症リスクを通して、現在の都市や社会のかたちが反省的にとらえなおされ、可視化される。自己や他者の行為や状況を省みながら、その行為や状況を統御するプロセスを、社会学では「再帰性(reflexivity)」、あるいは再帰的モニタリングとよぶ(A・ギデンズ、U・ベック、S・ラッシュ『再帰的近代化』而立書房)。

現代社会では多様なリスクが認知されている。そのため個人や集団・組織は、みずから選択する行為の結果と責任、発生しうる被害や負担をつねに考慮にいれて行為する必要にせまられる。とくにウイルスや細菌は目に見えないため、感染症リスクに対する不安は強い。ドアノブを握るとき、公共交通を利用するとき、店員と顧客が金銭や商品をやりとりするとき、「もしかしてウイルスが?」、「誰かに感染させる/させられるのでは?」と疑う。体調に変化がないかと体温をはかる。そして、うがいや手洗い、消毒を繰り返す。公共交通、商業・娯楽施設、学校や職場など、さまざまな場所で感染症対策の明示が求められる。不可視のリスクによって不安が増大し、自己と他者の行為や状況をいちいちモニタリングし、それらへの対応を呈示しながら行為せざるをえない。リスクが再帰性をドライブさせるのである。

ただし、そうした対応にどれだけの効果があるのか本当のところはわからない。緊急事態宣言や「8割削減」などの対策に対しても、さまざまな批判や検証がおこなわれている。しかし、感染症リスクが認知されている──場合によっては過剰な責任を問われることもある──以上、そうした対応をやめられない。リスク社会とは、不安がる文化であり、責任が肥大する社会でもあるといえるだろうか。

さらに再帰的モニタリングは、最新の情報テクノロジーによってより高い精度と速度でおこなわれ、可視化されている。たとえば、非接触型体温計によって体温をチェックされる職場や施設も少なくない。市街地の人出量、道路の混雑率、鉄道の乗車率などの移動データも収集され、連日のように報道された。さらに厚生労働省は、2020年6月20日に接触確認アプリを公開している。

デマ・流言、差別・偏見を蔓延させる「インフォデミック」も、このような情報テクノロジーを介して発生する。たとえば特定の集団・組織が集団感染(クラスター)を発生させてしまえば、マスメディアのみならず、インターネットやモバイルメディアを通じてすぐに「晒される」だろう。そのため、ウイルスのみならず、「風評」という情報の爆発的拡散のリスクを意識せざるをえない。ウイルスだけでなく、ウイルスに対する高度な認識や対応、感染に関連する風評の影響力──それらを幾重にも考慮にいれざるをえないため、リスクはきわめて高く見積もられる。恐れているのは、ウイルスなのか、ウイルスの「情報」なのか──それがあいまいなまま、高度な情報環境にいる私たちは「高いリスク」(という認識)と付き合わざるをえなくなっている。

ミシェル・フーコー著、田村俶 訳『監獄の誕生〈新装版〉:監視と処罰』(新潮社、2020)

ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』の冒頭で17世期のペスト対策について触れていることはよく知られている。都市の封鎖、人びとの取締り、多様な情報の収集・管理というペスト対策は「監獄」の理想形になる。フーコーの議論をうけてジル・ドゥルーズが論じたように、さらに現代社会では情報テクノロジーによって人びとが動くプロセスを管理するようになっている。カミュが『ペスト』で描いた絶望的な状況におけるわずかな連帯は、監視社会・管理社会と表裏一体の関係にある。

21世紀の新型コロナ感染症は、情報テクノロジーよって人びとの動きを事細かに補足する情報都市や管理社会の進化をもたらすのか、それとも新たなアーバニズムや「社会的なもの」の種子を見出すべきなのか。答えは二者択一ではないが、現在のリスク社会においては都市が焦点のひとつとなっていることは確かだろう。

都市を語ることの現在──都市論の再浮上?

一極集中を続けてきた東京は、2020年に開催予定であったオリンピックという国際的イベントを通じてグローバリズムの陽画(ポジティブ)となる見込みだった。しかし、現実の2020年の東京は異なっている。むしろ、ウイルスという不可視のリスクを通して、局所的関係としての都市的生活様式(アーバニズム)と広域的関係の《旋回点》である大都市の輪郭が、陰画(ネガティブ)として可視化されている。

吉見俊哉・若林幹夫 編『東京スタディーズ』(紀伊國屋書店、2005)

1970年代後半以降、「都市論の時代」があったといわれる(若林幹夫「東京論の系譜2」『東京スタディーズ』紀伊国屋書店)。記号論や身体論、建築学や建築史、歴史学や社会史、文学や文芸批評、消費社会論や情報社会論など、都市や東京に対して個別の学問領域を越えた視線が注がれていた。「都市論の時代」を生み出したコンテクストに対する批評的な視点をもちつつも、バブル経済へと進む、華やかな都市を語ることが「現在」を語ることになる時代であった。大都市を中心に発行されている都市情報誌や都市論を特集する学術誌・書籍も多く、「都市論の時代」のインフラになっていた。いまからみると人文社会系に偏っているようにみえる。しかし、だからこそ都市(論)というコンテンツと紙メディアのポジティブ・フィードバックがつくりだされ、売上や部数をある程度見込めたのだろう。

バブル崩壊後も大都市への一極集中は進んだ。にもかかわらず、その後の都市論はそれ以前と比較すれば低調だった──より正確にいえば都市の「全体語り」は難しくなり、「局所語り」の積み重ねになったと指摘されている(「座談会平成のまちを歩いて」『SD2019』における近森高明の発言)。日本の都市的地域への居住人口は1970年代にはすでに70%を超えている。高度成長期を通じて現れた「都市化社会」は「都市型社会」へと移行しており、都市とその外部、あるいは都市と社会全体の区別があいまいになっていく。そのため都市社会学という社会学の一分野では、固有の問いや対象の模索が続いている(町村敬志2013「都市社会学という『問い』の可能性」『日本都市社会学会年報』31)。

むしろ、1990年代後半以降は、インターネットとモバイルメディアの発展と普及による「メディア論の時代」だったといえるかもしれない。インターネットは、コンテンツであり、メディアでもあるという自己循環的な関係を作りだし、送り手と受け手の境界をあいまいにしながら発話者とメディア論的言説を爆発的に増大させた。1980年代の都市論がバブル景気と共振していたように、2000年代のメディア論もネットバブルと響き合っていたのだろう。いずれにしても、2000年代以降もヒトやモノは都市空間へと集積し続けていたが、コトバは情報空間をめぐって爆発していくことになる。

ただし、このように人文社会系の都市「論」がやや下火になる一方、建築・工学・都市計画などの分野では、都市をめぐる実践が「アーバニズム」というキーワードとともに広がっている。また、2010年代の東京五輪への期待と2020年の感染症リスクの不安によって、都市がさまざまなかたちで注目されている。今後、都市がインターネットを含む各種メディアの一大コンテンツになり「都市論の時代」をふたたび招来するのかはわからないが、最後に新型コロナ感染症が都市や都市論にどのような影響を与えるのかを考えてみよう。

コロナ以降の都市をめぐって

都市が《旋回点》として存在するということは、特定の都市への集中だけではなく、それ以外の地域へのヒト、モノ、コトの拡散を意味する。一極集中した大都市は、きわめて広範囲から多数のヒト、モノ、コトを集中させ、また拡散する。東京の感染者数の増加が東京以外の地域からも問題視されているのは、ウイルスが東京から広く拡散すると恐れられているためだろう。そのため大都市のリスクは、高く見積もられる。

では、それほど広範囲にわたる影響力をもたない中小の都市であればどうか。広域的な移動や大都市との往来がなくなるわけではないが、それぞれの中小の都市の周囲に相対的に自立した都市圏が成立する。その分、ウイルスの拡散リスクは、大都市と比較すれば、限定的なものになる。

緊急事態宣言が段階的に解除されて3か月近く経過した2020年8月現在も、複数の地方自治体が首都圏との往来に慎重な判断をもとめている。たとえば、そのまま大都市との往来の少なくなり、いまよりも分散型の都市圏へと再編される端緒になるとすればどうだろうか。なかなか考えにくい未来だが、そのように想像することはできるし、実際、新型コロナ拡大を地方移住や事業移転の契機にしようとしている地方自治体は多い。

もちろん、移動の強制的な制限は人権侵害になりかねない。グローバリゼーションを勝ち抜くためには巨大なグローバルシティが必要だという意見もあるだろう。また、ワクチンや治療薬が普及すれば、上記のようなありえたかもしれない未来も忘れられる。

四段階の個人用防護具。上から、1. 保護衣、2. マスク、3. ゴーグル・フェイスシールド、4. 手袋・グローブ。可視化されたアーバニズム/都市的生活様式の例。作者:CDC(アメリカ疾病予防管理センター), 2020年3月7日, パブリックドメイン(出典:日本語版Wikipedia「新型コロナウイルス感染症 (2019年)」より)

だが、新たなウイルスというリスクが認知され、短くない期間、海外で都市封鎖がおこなわれ、国内で移動が自粛された事実はすぐには消えない。また、マスクやビニールシートなどによって可視化・明示化された「アーバニズム」はいつまで残り続けるのか。リスク認知と対応のレベルをいったん上げてしまった以上──過剰な反応だとしても──それを下げることは容易ではないだろう。未知のウイルスが流行しうること、そうしたリスクへの対応が「都市的なもの」になりうること──これらの記憶は、都市をめぐる思考の底に澱み続ける。感染が終息し、人びとがその災厄を忘れたあともペスト菌は消え去ることなく人びとの生活のなかに潜み、いつかふたたび都市を襲うだろう──そのようにカミュが小説『ペスト』を締めくくったように。

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田中大介
建築討論

たなかだいすけ/1978年生まれ/社会学(都市論・メディア論・モビリティ論)/日本女子大学人間社会学部現代社会学科准教授。2007年筑波大学大学院博士課程修了。博士(社会学)。編著『ネットワークシティ』北樹出版、共著『モール化する都市と社会』NTT出版など。