[201806特集:沖縄戦後建築史ノート]

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Jun 2, 2018 · 24 min read

*本レポート執筆にあたっては當間卓(泉設計)、前田慎(アアキ前田)のおふたりに那覇でお会いし有益なご教示を多々いただいた(おふたりのプロフィルは文末に掲載)。また小倉暢之(琉球大学教授)をはじめとする先学の研究蓄積を参照している。しかし、当然ながら本レポートの責任は筆者(青井哲人)に帰すことをはじめに述べておきたい。


沖縄のリージョナリズムは特殊か

沖縄の近現代建築といえば、直ちに「リージョナリズム(地域主義)」を連想する人が多いのではないか。そのイメージは、まず名護市庁舎(象設計集団、名護市、1981)に結び付けられていよう。あるいは那覇市公会堂(1970、現・那覇市民会館)、沖縄海洋博沖縄館(1975)を設計した金城信吉(1934–84)や、沖縄キリスト教短期大学(1991)で名護市庁舎につぐ日本建築学会作品賞を受賞した真喜志好一(1943-)をはじめとする、強烈な沖縄の個性たちかもしれない。

少し遡って確認すれば、近現代建築における地域性の表現という問題は、1930年代の本土のモダニストたちが、同時代の「帝冠様式」(と後に呼ばれることになる表現傾向)における折衷的な「日本」の表象を批難して、近代建築の文法に沿った真正な「日本」的表現を求めた、あの問題系とつながっている。それは50–60年代の実践のなかで多様な回答を得ることになるが、その背景には、1945年をまたぐ時期の浜口隆一らの国民建築様式論の深化や、1953–57年頃の民衆論・伝統論、国際的なブルータリズムの潮流、60年のメタボリズム発足、認知心理学や記号論の導入などがあった。そして1970年代には焦点が「日本」から「地域(地方)」へと動く。爆発的なデザインサーヴェイの流行など、地域文化へのリテラシーの豊富化もあった。瀬戸内海歴史民俗資料館(山本忠司、高松市、1973)や倉敷アイビースクエア(浦辺鎮太郎、倉敷市、1974)がやはり学会作品賞を受けた。

70年代以降のリージョナリズムは、建築思潮としては沖縄だけが特殊だったわけではない。基本的にはパラレルだったとみるのがよい。

しかしながら、「パラレル」といってすまされるほど、具体的な文脈の差異は小さくない、ともいうべきだろう。端的には、日本の武装解除と、沖縄の分離軍事支配 ── コインの表裏をなすこのふたつを日米両国がセットしたところに、「戦後」ははじまった。復帰後も基本的にこの関係は変わらない。そして、こうした沖縄の地位は、建築をめぐる諸側面に抜きがたい特質を与えてきた。沖縄にはたしかに亜熱帯に属すという地理的・環境的特性があり、固有の建築文化がある。しかしこの種の一般性(つまりどこにでも差異はあるという当然さ)を超える何かが「沖縄の戦後」にあるとすれば、それは何だったのか。本稿はその論点を取り出すための取材レポートである。視界は1945年から80年頃までとしておく。


「沖縄の建築家」のラフ・スケッチ

まずは「沖縄の建築家」(沖縄を拠点とする建築家)について、その歴史的な流れを大雑把にスケッチしてみよう。

沖縄建築士会は機関誌『沖縄建築』の創立40周年記念号で沖縄建築家の系譜を図化し ★1、その後もアップデート作業をつづけている。前田慎氏にその解説をいただいた。系譜図の起点にはふたりの建築家が置かれている。仲座久雄(1904–62)と大城龍太郎(1905–92)だ。前田氏は同世代の彼らを(ともに男性ながら)沖縄建築家の「アダムとイブ」と呼ぶ。ふたりの経歴は大きく異なるが、仲座は1949年、大城は1952年に自身の事務所を開設、建築士会・建築士事務所協会の要職を歴任するなど、戦後建築界の土台を築いた。

次に、1967年末の断面を取ってみる。那覇市公会堂(現・那覇市民会館)の指名設計競技の募集が開始された時点である。同コンペは沖縄のリージョナリズムにとって重要な画期をなす出来事であり、小倉暢之・前田慎の研究がある ★2。指名されたのは沖縄の事務所のみで、下記7社であった(創立年と創立者も併記、番号は便宜上のもの)。

(1)我那覇建築設計事務所(1961-/我那覇昇)
(2)現代建築設計事務所(1961-/金城俊光・野原康輝・大村重信)
(3)国建設計工務株式会社(1963-/国場幸一郎)
(4)宮里栄一建築設計研究所(ca.1960-/宮里栄一)
(5)宮平建築設計事務所(1956-/宮平粂男)
(6)ライト工務店(1950-/大城重信・山里銀造・西平守徳)
(7)安元建築設計事務所(不詳)

これらが、60年代後半の時点で大型の公共施設の設計を担うことのできた設計事務所の代表格であったと考えてよいだろう。「創世記」の次代を担う才能たちがめきめきと力をつけていたことがわかる。(2)=現代建築には30代前半の金城信吉がいたし、(3)=国建にはちょうど東京から帰沖したばかりの国場幸房(20代後半)がいた。勝ったのは金城らの現代建築設計事務所であり、沖縄民家のヒンプン(門と母屋のあいだに立つ石積みの壁)、アマハジ(雨端、軒びさし)および赤瓦の、3つの風土的要素を翻案・拡張して造形化する提案が高く評価された。1970年11月、沖縄リージョナリズムの最初のモニュメンタルな作品が完成を迎える。ここで採用された風土的ボキャブラリーは、以後、風通しのよいピロティやパーゴラ、花ブロック ★3 などとともに多用されることとなる。

那覇市民会館(元那覇市公会堂、現代建築設計事務所(金城信吉他)、1972年)(撮影:青井、2018年)

1972年の本土復帰後、沖縄を潤した公共建築ブームもあって、彼らは多数の力ある仕事を生み出した。沖縄の事務所数の急速な増加は、ひとつにはこれら有力事務所からの独立によるものだ。他方で、「復帰」がもたらしたのは好況だけではなかった。1975〜76年に開催された沖縄海洋博を実質的にも象徴的にも大きな契機として、「本土」の建築家たちの進出もまた増えるからだ。海洋博の会場についていえば、菊竹清訓、槇文彦、佐藤武夫、山下和正、神谷宏治、曽根幸一、谷口吉生らと日建設計が活躍した ★4 。以後、沖縄と本土の設計事務所による設計JVの例も増える。

沖縄海洋博 沖縄館(設計=海洋博沖縄設計共同企業体[金城信吉]、1974年)(出典:『沖縄国際海洋博覧会』国際情報社、1975年)

色々な意味で1975年は象徴的な年である。海洋博では、沖縄の有力設計者たちは大濱信春を代表とする〈海洋博沖縄設計共同企業体〉をつくり、金城信吉らによる沖縄館を象徴的作品として結実させる。

ムーンビーチ・ホテル(国場幸房設計、恩納村、1975年)(撮影:青井、2018年)

同年、国建の国場幸房はムーンビーチ・ホテルを完成させているが、この作品はヒンプン、アマハジ、赤瓦といった明瞭な沖縄的表徴を持たないにもかかわらず、今なお多くの建築家が沖縄らしい建築として高く評価する。お話をうかがった前川建築設計事務所(前川國男)出身の當間卓氏もそのひとりだ ★5 。金城信吉的な沖縄と、国場幸房的な沖縄。この対比は恣意的にすぎるかもしれないが、ひとつのわかりやすい範例を提供するだろう。

図12 名護市庁舎(象設計集団設計、名護市、1981年)(撮影:青井、2018年)

そして、象設計集団が今帰仁村中央公民館で生態学的なアプローチと独特の土着的造形を提出したのも、同じく1975年であった。金城と国場が「近代建築」の機能主義的・構造フレーム的な構成論を基本的な部分で共有していたとするなら、象設計集団は基本的な文法そのものを生態学的なものに置き換えようとしたといえるかもしれない。いうまでもなく、1979年の設計競技をへて象の設計で竣工する名護市庁舎は沖縄リージョナリズムの代名詞にさえなった感がある。もっとも沖縄では「本土の建築家」による過剰な沖縄性の造形化とみるアンビバレントな評価がつきまとうことも付言しておきたい。

以上の見取り図をもとに、以下では沖縄のリージョナリズムについて、その成立条件(背景)を考えるための論点をいくつか素描する。

アメリカ世から日本世へ

戦後沖縄史は、沖縄では1972年をはさんで「アメリカ世」と「日本世」のふたつからなる。沖縄言葉で「あめりかゆー」、「やまとゆー」と読む。「本土復帰」が何かしら本来あるべき状態へと戻ること(異常事態の解除)として素直に受け止められたのであれば、「アメリカ世から日本世へ」の移行としてシニカルに言われることはないだろう。台湾の人たちが「日治時代から国民党時代へ」というのと通じるところがある。

1972年5月15日=「本土復帰」のこの日、那覇市民会館では復帰記念式典が開催され屋良知事は「歴史の創造」を訴えたが、民主団体はこの日を「屈辱の日」として市内をデモ行進した。「自衛隊の沖縄配備阻止」「ベトナム侵略反対」の文字も見える。(出典:『写真に見る沖縄戦後史』沖縄タイムス社、1972年)

先述の那覇市公会堂(設計競技1967- 68)と、海洋博(会期1975–76)および同時期の作品群は、年譜上は72年というアンビバレントな節目の両側にある。前者は「アメリカ世」の終わりに位置づくのだが、60年代前半の琉球政府立博物館の設計競技では「首里城」イメージが求められたにもかかわらず、米軍側の指導に振り回されて実施案からは沖縄色が抜かれてしまったというエピソードがある ★6 。日本的あるいは沖縄的アイデンティティの強化を嫌うこの時期の米軍の文化政策が、60年代後半には日米の合意に基づく「復帰」が政治日程にのぼることによって後退し、むしろ滑らかな本土復帰が日米の政策課題となったようにみえる。そして復帰後は万博という「公共事業」の祭典である。むろん、基地は解消されず、むしろ沖縄が「復帰」した日本の国土において極端な基地集中が強化された。実際、基地解消を伴わない復帰は、実質的には日米安保体制の固定にすぎない、復帰自体を認めてはならないとの論調も強かった。60〜70年代が沖縄にとっていかに濃密な時代であり、また屈折や分裂を強いられる時代であったかが徐々に想像されてこよう。

問題の核心が日米関係にある以上、60年安保、70年安保が沖縄の若い建築家たちのあいだでどのような意味を持ったか、あるいは68–69年の学園闘争に関わった学生たちが沖縄の地位という問題と学問や建築との関わりをどう議論していたかは大いに興味を引くところである。

いずれにせよ、「沖縄とは何か」という問いがこの時期の沖縄で高揚しない方がおかしい。この時期を担った建築家たちはそれぞれに強い個性を放っていたといわれる。夜な夜な酒と議論を交わしたが、そこには建築論のみならず、他ジャンルにまたがる芸術論があり、政治論や運動論があり、とりわけ沖縄の地位をめぐる議論があった。ゴツゴツしていたのは彼らの顔や言葉だけでない。設計の手付きもまた荒々しい。一歩引いてみれば、それは50–60年代の国際的なブルータリズムにつながっており、そこに地域性を組み込むことが模索されていたように見える。

建築教育の展開

沖縄に大学での「建築」教育が成立するのは1978年。琉球大学そのものは1950年開学だが、工学部に建設工学科が設置されるのは復帰後である(現在は工学科建築コース)。

聖クララ教会(与那原町、1958年)。設計は在日米陸軍技術部隊建設部に所属していた片岡献とされる。アメリカの設計事務所スキッドモア・オーイングス・アンド・メリル(SOM)の協力を得て実現したという。(撮影:青井、2018年)

それまでは那覇の県立沖縄工業高校が中心だった。ここを卒業した人びとが、米軍統治下の琉球政府(1950-琉球群島政府、52–72琉球政府)の営繕技術者になり、あるいは設計事務所を開いたのである。戦前あるいは戦後まもなくからの請負業の子息が設計に進む例も多かったようだ。

沖縄から「本土」への「留学」が増えるのは60年代だろうか。むろんパスポートが必要だった。琉球政府の支援を受ける「国費留学」と、それ以外の「私費留学」があり、九州や大阪・神戸のほか、関東にも建築を学ぶ学生の動きがみられた。なお、「本土留学」以外に「米留」(1949〜70)があり、これはアメリカの文化政策の一貫でもあった。當間卓氏からも示唆いただいたが、彼らは「金門クラブ」(1952-)を組織して、政財界に大きな存在感を持っていた。ただ、「米留建築家」の存在が聞かれないのは、建築ないし技術分野の特徴かもしれない。

現在、1978年に琉大建設工学科が第1期入学生を受け入れてから、ちょうど40年を過ぎたところである。県や市の技術者、請負会社や設計事務所、コンサルなどで彼らが指導的な立場を占めつつあるわけである。

このように、60年代までは沖縄工業出身者が、70年代以降は本土留学組が、そして近年ようやく県内卒業生たちが、建築界での大きな存在感をもつ、といった見取りが可能だろう。すると復帰前後というのは、日米安保や沖縄の地位をめぐって政治的・文化的に緊張の高まる時期であっただけでなく、教育や実務経験などの観点からみると県内・外で異なる経験を積んだ人々がそれぞれの知見と熱意をもって集う、いわば「経験の坩堝」のような状態であったとみることもできそうだ。

先の那覇市公会堂コンペに参加した建築家を再び例に引けば、1934年生まれの金城信吉は沖縄工業から琉球政府をへて、東京で実務を経験したのち62年に叔父の事務所(現代建築設計事務所)に入り、73年に門設計研究所(門は「じょう」と読む)を開設。那覇市公会堂で沖縄リージョナリズムの先導者となる。対して国場幸房は1939年に國場組という請負会社の家に生まれ、留学先の早稲田大学建築学科を1963年に卒業して大高建築事務所で経験を積んだ。メタボリズムが風靡する時代だが、社会意識において正統的モダニストでリアリストであった大高正人を選び、また好きな建築家は吉村順三というモダニスト志向の国場であった。彼が67年に兄の経営する国建に入ったときにはこの経験に由来する自信に満ちていただろう。そもそも金城と国場とでは、終戦を迎えた年齢が11才と6才と、かなり大きな差がある。沖縄戦をどう経験したか、その後の欠乏の5年間をどう生きたか、留学の門戸がどれほど開かれていたか。彼ら以外にも、琉球政府の営繕官僚経験者、米軍関係の仕事で成長した人々など、経験が違う。国場の下の世代になると戦争を経験しておらず、本土留学では60年安保や学園闘争を経験した。60年代末からの10年がどのような人々の「坩堝」であったかを生々しく描いてみる必要性が示唆される。

公共事業の高い比重

日本の戦後はある意味で発展途上国に近く、「開発独裁」的だったといわれることがある。しかし、わけても沖縄の経済に占める建設投資、公共事業の比重は大きい。遡れば、アメリカ世(米軍統治下)の沖縄は基地関連需要が大きく、これと沖縄戦と接収による荒涼たる廃墟からの復興が重なった。高度成長期までに発展した設計事務所や請負会社は、多かれ少なかれその恩恵を受けただろう。

前田氏によると、1955年が軍施設や復興事業のピークで、この前後にはアメリカをはじめ世界中から設計者・技術者がやってきた。米軍には沖縄地区工兵隊(DE, District Engineers)と呼ばれる組織があったが、いわゆるアーキテクトは不在であったようで、実際の建築設計は民間事務所に依頼し、DEは設計仕様やコストを管理した。あのSOMが軍施設の建設に参加した例もあるという。コザ(現沖縄市)の米軍関係者向けショッピングモール「プラザ・ハウス」(1954)は、デンマーク人建築家ジョーゲン・シャーベックの手になるもので、彼らの近代建築に新鮮な風を感じた者も少なくなかったようだ。「アメリカ世」の沖縄建築界は、(沖縄社会がそうであったように)いわば不可抗力的に国際的だった。

プラザ・ハウス(ジョーゲン・シャーベック、コザ市=現沖縄市、1954年)

復帰(1972)後に目を移そう。1970年代といえば、本土では建築部門から公共が後退し、民間の企業資本が前景化する時代であるが、沖縄では「本土復帰」がむしろ公共事業を肥大させた。沖縄近現代史の新崎盛暉は、これ以後中央政府が10年刻みで策定してきた「沖縄振興開発計画」と、これに基づく多額の財政資金投入について触れ、こう述べている。

[前略]製造業の比重は全国的に見てもっとも低いのに、建設業の比重はもっとも高いといういびつな産業構造がつくり出されていった。沖縄経済全体が公共事業依存、中央財政依存の体質を強めたといってよい。(『現代日本と沖縄』山川出版社、p.80)

むろん土木事業の比重が大きかろうが、建築もラッシュを迎えた。ここで軍用地(基地の土地)をめぐる政策にも少しだけふれておくと、「アメリカ世」では、軍用地は米軍が各地主と賃貸借契約を交わすか強制使用していたのに対して、「日本世」になると各地主と契約した日本政府が米軍に提供する形式になった。このとき賃料はなんと6倍に跳ね上がったという。「反戦地主」と呼ばれた地主層の多くがこれで基地容認派の支持基盤に転じたという。基地負担の軽減、開発格差の解消といった論理で投入される税金が、他方ではどのような役割を果たしていたか、あえて言うまでもない。

日米安保というアーチは、沖縄という要石を外せば崩落する。1972前後で変わったのは、この要石のメンテナンスの仕方であって、それを不可欠とする構造ではなかった。

もともと「アメリカ世」が設計・施工の分離を浸透させていた沖縄で、公共事業が多いということは、設計競技(コンペ)が盛んに行われることを意味する。公共施設では70年代以降、地域性が問われることが多い。また、本土では一定規模以下の設計事務所はほとんど公共事業とは無縁だが、沖縄では違う。コンペで競う。勢い、沖縄ではリージョナリズムの強調や手法的類型化が起こりやすいという見立てはありうるだろう。筆者はこれを井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987) ★7 の議論を想起しながら書いている。井上が開いたのは、建築表現の歴史を建築家の思想や倫理の問題としてだけ考えるのではなく、社会史・文化史的な現象として捉える視点であった。つまるところ、日本趣味建築(のちに「帝冠様式」と呼ばれる)は一種の流行であり、それはコンペという形式での審査員と応募者のゲームがなせるわざだったのではないか。またそれを可能にした建築的な基盤は、躯体についての一定の技術的標準化と意匠的な差異化の要求との二元化だったのではないか、と。

もちろん、これですべてが説明できるわけではない。沖縄のリージョナリズムには本土にはない脅迫的速度があったようにみえる。1960年代末から70年代末までの間に、「沖縄」をめぐる建築表現の問題は急速に深化・展開している。復帰前後の時期はやはり濃密だった。

住宅復興と鉄筋コンクリートの裾野

しかし、ここで建築の技術的な基盤をめぐる沖縄の特殊性にも目をむけておこう。今日の沖縄では新築住宅の約9割がRC造であるといい、このRC造の圧倒は、戦後沖縄の建築文化を語るとき決して無視できない。米軍による軍事統治を背景に、1950年代以降、土木から一般住宅に至るまで、あらゆる建設領域にコンクリートが普及してきたのである。

その事情については琉球大学教授の小倉暢之による分厚い研究蓄積がある。小倉は西洋中心・建築家中心の近代建築史理解を相対化し、むしろ「社会全体の活動の成果」に着目する意義を強調する。建築家の主体性に帰しえない生産技術の広範な浸透やそれを支えたメカニズムこそが、当該地域の「近代」の固有性を物語る。また、それが「近代建築 modern architecture」の地域固有の獲得過程を説明しうる場合もある。沖縄の戦後、とりわけ戦後初期の政治環境下の歴史について、小倉はこうした角度から掘り下げている ★8 。

小倉によれば米軍関係工事も初期には仮設的であったが、台風被害が頻発し、1949年に米国議会での予算通過をうけてRCの沖縄基地への導入が進められた。基地内住宅は当時フロリダでも木造で、RCの導入はグアム島と沖縄が早かったという。こうした軍用施設のRC工事について施工や設計図作成を通じて沖縄の人びとは多くを学んだ。上述のように米軍統治下では設計と施工は分離されており、施工後の厳格な検査が日系米国人やフィリピン人などのインスペクター(検査官)によってなされたことも、技術の修得を性格付けた。次第に琉球政府の公共施設(庁舎・郵便局・学校等)もRC造でつくられるようになる。建設期には、種類を特化しても大量の仕事がある。特定のビルディングタイプ、特定の施主が、設計事務所のニッチ(生態的地位)となることも少なくない。もし、各事務所で描き重ねられていった50年代の設計図書の山があれば、そこには彼らの日常的なフィードバックの積み重ねが記録されているだろう。

1945年、壊滅した那覇市街(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.71)
1960年代初の国際通り俯瞰(『写真集沖縄戦後史』那覇出版社、1986年、p.319)

沖縄の人々の住宅はどうか。戦後最初期の沖縄本島では、収容所から解放された人びとが、接収を解除された土地に戻るたびに家をたてていった。軍支給の輸入木材を用いた応急的な規格型バラックもあり、次には木造瓦葺が建った時期もあるが、50年代には復興金融基金の融資により、ちょうど伝統的な沖縄民家の躯体をコンクリート(コンクリートブロック張壁)で置き換えた、木造小屋組・瓦葺(赤瓦やセメント瓦)の家屋が急速に都市復興の風景をかたちづくるようになった。これが次第にRCラーメン構造2〜3層、陸屋根の住宅に変わっていく。その後も住宅建設向けの政策金融には変遷があるが、コンクリートの民間住宅への波及にはこうした政策的誘導もあずかって大きな力があった。米軍住宅の技術的・文化的影響もまた無視できない。さらに、小倉の興味深い指摘によれば、学校の教室という構造単位の大きさが、郵便局やバスターミナルなどビルディングタイプを超えて多くの公共施設のグリッド・スパンにみられ、これが技術の標準化と、一般住宅への普及につながった可能性があるという。

戦前の市街地や村落が破壊された後、戦後沖縄の風景はどのようなメカニズムと心性によってつくり出されていったのか。きわめて興味深い課題である。琉球大学では戦後初期からの沖縄の建築的現象・建築家・建物類型などなどをめぐって多様な研究が蓄積されつつある。復帰前後の時期に活躍したゴツゴツした建築家たちの作品やその設計の手付きもまた、どこかでそうした有名・無名のより大きな風景と地続きなのだろう。

おわりに

「本土」側からは、ともすると沖縄建築史をきわめて限られた、あるいは偏った視野でしか見てこなかったのではないか。王朝時代の伝統建築やヴァナキュラーな集落、あるいは信仰の場。そして本土復帰後の「建築家」のリージョナリズム。これら両極をみて、エギゾチシズムを満足させてきたのではないか。沖縄の戦後(あるいは近代)の厚みを、まずは丁寧に理解し、語り、回復していく必要が痛感される。実際、沖縄ではそうした研究が進められている。私たちも、発掘されていく沖縄の戦後を「特異性」に閉じ込めるのではなく、むしろより普遍的な近現代の錯綜のなかに開いていくことが重要なのだろう。

最後にひとつ付言したい。1960-70年代の建築作品群が老朽化や建替えを迎えるのは沖縄に限られた話ではないが、本特集でもたびたびふれている那覇市公会堂(現・那覇市民会館)はすでに強い地震での倒壊危険性が診断されており、保存か建替かで揺れている。

  1. 『沖縄建築(創立40周年記念誌)』vol. 28(社団法人沖縄建築士会, 1996年8月)
  2. 小倉暢之『戦後沖縄の近代建築における地域性の表出』(平成15–17年度科学研究費補助金 基盤研究© 研究成果報告書、2006年)、前田慎,小倉暢之「那覇市公会堂設計競技の企画運営に関する研究 ── 戦後沖縄の地域主義的建築活動に関する研究 その1 ──」(日本建築学会計画系論文集 第79巻 第703号、2014年9月、2031–2038頁)、前田慎,小倉暢之「那覇市公会堂の設計体制と風土性の表現に関する研究 ── 戦後沖縄の地域主義的建築活動に関する研究 その2 ──」(日本建築学会計画系論文集 第80巻 第715号、2015年9月、2111–2119頁)
  3. 磯部直希「戦後沖縄における「花ブロック」の変成 ── 研究動向の整理と現地調査報告」(『立命館文学』 (643) 2015年7月、22–42頁)、磯部直希「仲座久雄と「花ブロック」 ── 戦後沖縄にみる建築と工芸」(『立命館文学』 (635) 2014年2月、96–113頁)
  4. 「沖縄海洋博特集」(『新建築』新建築社、1975年9月号)、「特集 沖縄海洋博まで」(『SD』鹿島出版会、1975年8月号)、沖縄海洋博建築写真集編集委員会編集『沖縄海洋博建築写真集 : 自然と海と人間の記録』(新建築社 1975年9月)ほか。
  5. 「追悼座談会1:風土に根ざした建築家 ── 国場幸房氏を語る」(親泊仲眞、慶佐次操、當間卓、山城東雄、『沖縄建設新聞』2017年5月24日)
  6. 前掲・小倉暢之『戦後沖縄の近代建築における地域性の表出』(49–72頁)
  7. 井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク ── 大東亜のポストモダン』(青土社、1987年、選書版として『戦時下日本の建築家 ── アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995年がある)
  8. 前掲・小倉暢之『戦後沖縄の近代建築における地域性の表出』。他に、中島親寛・池田孝之・小倉暢之「戦後の沖縄における沖縄住宅公社による米軍住宅建設プロセスと計画管理技術に関する研究」(日本建築学会計画系論文集 第566号、2003年4月、105–111頁)など多数。

*この他の沖縄戦後建築関連の文献については、本特集内「沖縄戦後を知るための文献ガイド」を参照されたい。


當間 卓(とうま・たかし)

1963年沖縄県与那原町生まれ。1987年日本大学理工学部建築学科卒業。1989年同大学院修士課程修了。1989〜94年前川國男建築設計事務所。1994年(株)泉設計入社、現在に至る。1992年「沖縄県立武道館設計競技」優秀賞ほか。作品多数。現在、日本建築家協会沖縄支部長。

前田 慎(まえだ・まこと)

1970年東京都生まれ。1994年国立琉球大学工学部建設工学科卒業 。2000年沖縄県立芸術大学大学院造形芸術研究科環境造形専攻修了。1994~1998年上田徹/玄綜合設計勤務。2000年ポイントウォーカーデザイン設立。2015年アアキ前田改組。論文「那覇市公会堂における地域主義建築表現に関する研究 ── 設計競技の企画運営及びその設計内容について ── 」で琉球大学博士学位取得。現在、日本建築家協会沖縄副支部長。

那覇市民会館(元那覇市公会堂、現代建築設計事務所(金城信吉他)、1972年)(撮影:青井、2018年)

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。

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