「戦後空間」を民衆の側からとらえ返す

017|201803|特集:イベント・レビュー 戦後空間シンポジウム01 民衆・伝統・運動体

高田雅士
Feb 28, 2018 · 11 min read

*シンポジウムの記録は 10+1 website に掲載されています(編集部)

文化運動の視座から戦後の日本社会を問い直そうとする研究は、2000年代以降、大幅な進展をみせた。なかでも朝鮮戦争の時代である1950年代前半への関心が高く、東アジアという広がりのなかで民衆のユニークな実践の数々が位置付けられつつある。占領―独立―高度経済成長という単線的な戦後史の語り方を再考し、あらゆる可能性が存在した固有の時代として1950年代前半をとらえようとする試みである。こうした研究は、従来、歴史学・文学・社会学・思想史・美術史・映画史など、さまざまな領域から関心が寄せられてきたが、今回、建築史という観点からの接続も模索されたことで、あらためて1950年代の文化運動を問うことの意義を再認識した。

筆者自身は、国民的歴史学運動の地域的展開から1950年代の文化運動について検討を進めている ★1 。しかし、そのような研究は、まだまだ歴史学の分野において市民権を得ているテーマとはいいがたい。歴史研究者自身が運動のなかに入り込み、そこで味わった「挫折」経験は、長い間、運動の歴史を「傷痕として封印」し、「過去の悪夢として忘却」する要因となった ★2 。それゆえ、いまだに国民的歴史学運動を研究テーマとして扱うことに対するタブー視や否定的見解が存在しているのである。むしろ、そうした事情から距離を取ることのできる他分野の研究者の方が、国民的歴史学運動をはじめとする1950年代の文化運動に対して、客観的な興味・関心を抱くことが可能なのだろう。

以上のような印象を持ちながら参加した今回のシンポジウムは、民衆・伝統・運動体という3つのキーワードを手がかりに、「戦後空間」に迫ることを目指すというものであった。中黒で結ばれたこの3つのキーワードの連関性について誤解を恐れずに解釈すれば、それは運動体による民衆と伝統をめぐる議論について、というものであったかと思う ★3 。要するに、今回のシンポジウムで問われていたのは、あくまで運動体の視点からみた民衆の姿、表象としての民衆であった。

建築界、あるいは建築家という主体にこだわるのであれば、それは当然のことなのかもしれない。だが、趣旨文にもあるように、今回のシンポジウムは、「「建築」(建築ジャーナリズム)内的な論調」を越えて、「戦後空間」をとらえることが目的であった。そうであるとすれば、民衆の側からあらためて「戦後空間」をとらえ返してみるような視点があってもよかったように思う。

そうした問いを前提として、ここでは近年の歴史研究の成果を参照としつつ、1950年代を生きた民衆の側から「戦後空間」をとらえ返すような論点を2つほど提示してみたい。その際、鳥羽耕史報告の内容に焦点を定めたコメントとなることを、あらかじめ断っておく。

1 民衆のアメリカ観、そしてソ連観

まず、民衆の視点から日本とアメリカという論点を考えた際、想起されるのはアメリカニゼーションの問題である。この点については、これまで安田常雄を中心として研究が深められてきた。安田は、「戦後の日本人にとってのアメリカを考える時、アメリカの国家、政府とアメリカの国民、そして自分の暮らしの中に埋め込まれ、経験の中に沈殿しているアメリカの両面をはっきりと区別して見ていくことが重要」であるとし、漫画『ブロンディ』を題材として、民衆のアメリカニゼーションの問題について論じている ★4 。

漫画『ブロンディ』

チック・ヤングによる漫画『ブロンディ』とは、1946年6月、『週刊朝日』に翻訳掲載され、1949年1月1日からは『朝日新聞』夕刊にも掲載された。1951年に『サザエさん』と交替するまで、多くの読者に親しまれた漫画である。『週刊朝日』掲載のものは、占領終結後も1956年まで続いており、それはいわゆる「逆コース」から高度経済成長の直前までの時期にあたる。その意味で『ブロンディ』は、日本の1950年代前半の大衆文化のなかのアメリカイメージを最もよく象徴するものであった。

そして、この『ブロンディ』において描かれていたのが、アメリカ人の「豊かさ」であり、「平等」であった。安田は、「占領期において、多くの日本人がこの漫画に見たのは、冷蔵庫を開ければふんだんに食べ物があり、大きなサンドイッチが食べられる。家庭内には電化製品が揃っている物質的な生活、そして平等な人間関係という形でアメリカを受容した」のだと指摘している。1950年代の日本人が『ブロンディ』にみたのは、アメリカ的な「豊かな」生活への憧れだったといえるだろう。

一方、敗戦後における民衆のソ連観について検討を加えたのが吉見義明である。シベリア抑留を経験した兵士たちがソ連で見てきたのは、その苛酷な社会の実態であった。例えば、吉見は、ソ連の小中学生の服装がひどく、靴をはいている者は半分くらいで、あとははだしで登校していた事実から、敗戦国である日本の方が恵まれていると感じた、という栃木県の教員と思われる人物のエピソードを紹介している。そのようなシベリア抑留者たちのソ連体験は、マス・メディアだけでなく、ミニ・コミ(中小出版)や会社、工場、労働組合、農村、青年団、家庭などのあらゆる場所で伝えられていった。その上で、吉見は、そうした情報の伝播が、「日本におけるコミュニズムの浸透・拡大を民衆レベルで阻止する要因になっただけではなく、ソ連の実情を把握し、それを反面教師として日本における民主主義のあり方を検討する重要な要因にもなった」としている ★5 。研究者を含む当時の左翼陣営が、ソ連社会を理想化してとらえていた一方で、それを実際の眼で見、体験してきた人びとは、冷静な眼差しをソ連に向けていたのである。

以上のような、民衆のアメリカ観、そしてソ連観を念頭に置くと、鳥羽のいうような民衆による朝鮮戦争への抵抗、あるいはアメリカへの抵抗という側面だけではみえてこない民衆世界があるように思える。むしろ、報告の最後にわずかばかり提示された「1950年代の文化運動を通じて見えるアメリカの影」の部分を、より掘り下げていくことが求められるのではないだろうか。

2 民衆にとっての象徴天皇制

次に民衆にとっての象徴天皇制の問題を考えてみたい。鳥羽報告では、岡山県勝田郡飯岡村(現・久米郡美咲町)での月の輪古墳発掘の事例が民衆と伝統の接点として紹介された。しかし、その際、重要なポイントとなるのは、「一歴史学徒」として発掘の視察に訪れた三笠宮の存在ではないかと思われる。この点については、当日、フロアからも意見が出された。

現在の月の輪古墳(筆者撮影)

月の輪古墳の発掘には、地域住民を中心に1万人近くの人びとが加わったとされている。しかし、この取り組みをめぐっては、反対派も存在し、「月の輪運動は共産党の陰謀だ」とするデマも流された ★6 。こうした状況のなか、考古学者・和島誠一の案内によって視察に訪れた三笠宮の存在は、運動の風向きを大きく変えた可能性が高い。当時、見学に訪れた明治大学史学科考古学専攻の学生である中山淳子は、はじめて飯岡村に着いた日、道案内をしてくれた現地の高校生との会話について記している。そこでは、地元の人びとが月の輪古墳発掘に対して、「三笠宮がいらしてから、大切なものだと考える様になった人もある」と、その高校生が教えてくれた出来事が紹介されている ★7 。

これは、一つの証言に過ぎず、実証的な研究は今後の課題として残されているものの、戦後の三笠宮が月の輪古墳発掘への参加のみならず、全国の水害や台風の被災地に精力的に視察に訪れていたという事実には留意する必要があるだろう。近年では、象徴天皇制・天皇像の形成、定着、展開過程のなかにおける皇族の役割に注目した研究が進展しており、皇族が天皇を補完する形で、場合によってはそれ以上に、象徴天皇制・天皇像の定着において大きな役割をはたしたことが明らかにされつつある ★8。

月の輪古墳の「三笠宮崇仁親王殿下御手植」の石碑(筆者撮影)

月の輪古墳の所在地では、現在でも、三笠宮が視察に訪れたという事実を「顕彰」し、それが月の輪古墳の発掘という地域の歴史に重みをもたせる要因ともなっている。左図は、三笠宮が月の輪古墳発掘の視察に訪れたことを伝える碑である。これは、月の輪古墳の出土品が収められた収蔵庫の敷地内に設置されている。また、戦後の三笠宮の存在については、天皇制を否定していたマルクス主義歴史研究者たちでさえ、〝理解のある皇族″ の一人としての認識を有していた ★9 。彼らが、古代オリエント史研究の専門家であった三笠宮に対し、一人の研究者として対等に接したことへの異論はもちろんない。しかし、三笠宮が介在することによって地域の民衆の歴史意識にどのような影響を与えるのか、ということを当時の歴史研究者はいかに考えていたのだろうか。こうした視覚からの月の輪古墳発掘に対する批判的な検討が、今後進められるべきであろう。

鳥羽報告においては、「民衆の自発的な運動」として月の輪古墳発掘の事例が紹介されていた。しかし、上記の観点をふまえれば、その民衆の「自発的」な意識の内実をより仔細に検討していく必要がある。最近では、地方新聞にみられる皇族表象とその地域社会における受容の研究も進展をみせており ★10 、こうした研究の成果を手がかりとしながら、月の輪古墳発掘の際に三笠宮が介在したことの意味を、地域の視点からあらためて検証していくことが望まれる。それは、国民的歴史学運動と象徴天皇制の問題、ひいては戦後の歴史学と象徴天皇制の問題を考える上でも、重要な論点を提供することになるだろう。

結語

以上みてきたのは、近年の歴史研究で提出されつつある戦後を生きた民衆の姿のささやかな断面にしかすぎない。しかし、運動体のとらえた民衆像からはこぼれ落ちるような姿を、そこから垣間見ることができる。

運動体の視点から民衆をみた場合、それが得てして運動体の理想とする民衆像であることが多い。このこと自体はこれまでも繰り返し指摘されてきた。現在の地点から、運動体の民衆像に迫ろうとする際には、研究者自身がそうした点に絡めとられる危険性を常に自覚する必要があるだろう。

また、民衆や地域の側からあらためて1950年代の文化運動をとらえ返すことによって、運動体と民衆との間の矛盾やズレを見出すことも可能である。そうした両者がせめぎあい、そしてきしみをあげる瞬間に目を凝らすことが、「戦後空間」の具体的なありように迫る重要な手がかりとなるのではないだろうか。

(1) 高田雅士「1950年代前半における地域青年層の戦後意識と国民的歴史学運動」(『日本史研究』661号、2017年9月)。
(2) 小熊英二『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)、351―353頁。
(3) 運動体の定義については、「戦後初期から1950年代にかけて、芸術や政治の前衛を目指して活動したグループ」であり、また、「それに参加した安部公房をはじめとする個々人を、まさしく運動する体として捉える局面もある」という鳥羽耕史の定義を前提としているのだろう(『運動体・安倍公房』一葉社、2007年、5―6頁)。
(4) 安田常雄「民衆にとってのアメリカニゼーション」(『世界』744号、2005年10月)。
(5) 吉見義明『焼跡からのデモクラシー』下巻(岩波書店、2014年)、146―174頁。
(6) 民主主義科学者協会飯岡支部「月の輪古墳発掘と科学運動の基盤」(『理論』1955年1・2月合併号)。
(7) 中山淳子「見学記」(美備郷土文化の会・理論社編集部編『月の輪教室』理論社、1954年)。
(8) 河西秀哉「戦後皇族論」(同編『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店、2013年)。
(9) 「月の輪古墳と三笠宮」(民主主義科学者協会『本部通信』№21、1954年1月)。
(10) 茂木謙之介『表象としての皇族』(吉川弘文館、2017年)。

建築討論

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高田雅士

Written by

たかだ・まさし/1991年茨城県生まれ。日本学術振興会特別研究員(DC1)、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程。専門:日本近現代史、文化運動史、史学史。

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